マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】栗原康『現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す』(2015 角川新書)

はじめに

我々は一方的に暴力をふるわれている

・見えない社会的暴力 服従することがあたりまえになっている

原発デモにいく

・2011.4.10高円寺デモ 1万人

生は永久の闘いである

「生は永久の闘いである。自然との闘い、社会との闘い、他の生との闘い、永久に解決のない闘いである。
闘え。闘いは生の花である。みのり多き生の花である。」大杉栄

・大杉の暴力=自分の人生を自分でかたちづくること。支配のための暴力=権力。
・権力=暴力の簒奪

生きのびるのではなく、生きたいとおもう

シチュアシオニスト ラウル・ヴァネーゲム『若者用処世術概論』「日常生活の革命」 生きたいとおもうこと(desire to live) 生きのびること(survival)
ヴァネーゲムシャルル・フーリエ
・”隷従の空気”

本書の構成

第1章 国家の暴力―我々は奴隷根性を植えつけられた

国家は収奪とカツアゲをする

アナキズム=「なにものにも支配されない状態」自分のことは自分できめること

国家は征服からはじまった

征服だ!僕はこう叫んだ。社会は、少なくとも今日の人の言う社会は、征服に始まったのである。

・戦争では、よりつよい武器をもった部族が勝利する。そして、そうじゃない部族を支配する。これが社会の、というよりも国家の起源である。

三つの統治方法

・①法②国民教育③被征服者の協力者をつくりだすこと。服従競争をさせる。

征服国家はいまもそこにある

政治!法律!宗教!教育!道徳!軍隊!警察!裁判!議会!科学!哲学!文芸!その他いっさいの社会的諸制度!!

統治技術の巧妙な進歩 わかりやすい暴力→目に見えない暴力 生権力
・税金=ただの収奪であって、大義名分は基本的には嘘

この征服の事実は、過去と現在とおよび近き将来との数万あるいは数千年間の、人類社会の根本事実である。この征服のことが明瞭に意識されない間は、社会の出来事の何ものも、正当に理解することは許されない。

奴隷制は労働の起源である

・税金をはらわないことがわるいことだとおもわされる。警官にしたがわないことがやましいことだとおもわされる。逆に、どちらもちゃんとやって、あなたはすばらしい市民だとかいわれると、うれしくなってしまう。大杉は、これを奴隷根性と呼んだ。

斬り殺されるか、焼き殺されるか、あるいはまた食い殺されるか、いずれにしても必ず身を失うべきはずの捕虜が、生命だけは助けられて苦役につかせられる。一言にして言えば、これが原始時代における奴隷の起源のもっとも重要なるものである。

奴隷制は、いまでいうところの賃金労働の起源。
・労働力商品という発想は、ひとをモノとしてあつかうことであり、非人間的なことなのだ。でも、奴隷だったらはなしはべつである。そのはたらき具合によって、いくらでもよしあしをきめることができるし、いくらでも交換することができる。奴隷制は、労働のモデルなのである。

道徳としての奴隷根性

★大杉によれば、こうした奴隷根性こそがいわゆる道徳をうみだすことになったのだという。≒ニーチェ
・アフリカのカフィール族 酋長に会うたびに犬の真似 ≒ 平身低頭やお辞儀
・ドープと呼ばれる強い酒 ドーピング
・初めは恐怖心からの服従→それが馴れてくると服従すること自体が快感に。マゾヒズム自分で自分を騙す認知的整合化 それが道徳
★もともと、奴隷は切り刻まれたり、拷問をうけたり、殺されたりするのがこわいという恐怖心から主人にしたがっていた。ガンガンひどいことをされて、犬みたいに四つんばいにさせられたりする。屈辱だ。なんでこんなことをさせられているのだろう。いつもそうおもう。でも、あらがえない。だったら、これになれるために、自分で自分を納得させるしかない。わたしはよわい人間だから、こんなことをさせられているのだ、わたしはダメなやつだ、わるいやつなのだと。だとすれば、主人にいたぶられる理由もわかってくる。ご主人さまはわたしがわるいことをしているから、それをただそうとして、善意で教育をほどこしてくれているのだ。ありがたい。できれば、尊敬するご主人さまがのぞんでいることをやって、ほめてもらいたい。地べたにはいつくばったっていい、苦役だっていい、農作業だっていい。ご主人さまがわらってくれた、ご主人さまがよろこんでくれた。ああ、快感だ。大杉は、こうした心理状態にまでいたってしまうことを奴隷根性とよび、道徳とよんだのである。

負債をせおって生きのびる、生の負債化

・ひとがモノとおなじように、計測可能、交換可能な存在になる。さきにふれたように、奴隷はいかようにもあつかってよい存在であり、その労働力は商品とおなじように、カネではかりにかけることができるものであった。それはとても非人間的なことであったが、奴隷たちは、みずからの生きかたに負い目をかんじていたからこそ、ただしいとされる生のありかたにすがりつき、みずからをひとつの尺度にさらしてしまったのである。
・国民=奴隷 道徳=統治技術 儒教=人をおとなしくさせる 牙を抜く 上下関係に馴れさせる
・大杉にもとづいていえば、国家がやっているのは、暴力をつかって人びとを生きのびさせることである。ただ生存のために生きさせること、それ以外の生きかたをみとめないこと。……国家の暴力によって、奴隷根性がうえつけられている。はっきりといっておかなくてはならない。生きのびるということは、奴隷のように生きるということだ。それは収奪されるために生きるということであり、支配されるために生きるということである。

真の自由人になりたいんだ

・もちろん、物理的にふるわれる暴力は減っただろうし、形式的にはひとはどんな生きかたをしてもよいことになっている。でも、ほんとうのところ、統治の形式というか、暴力のふるわれかたが巧妙になっただけで、ひとの生きかたが一方的に方向づけられていることにかわりはない。
・唯一の尺度はカネを稼ぐこと。それができないと負い目を感じ、自分はダメだとおもいこまされる

政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消え去らしめることは、なかなかに容易な事業じゃない。けれども真にわれわれが自由人たらんがためには、どうしてもこの事業は完成しなければならぬ。(大杉栄

幸徳秋水大杉栄

・1910大逆事件 1913大杉と荒畑寒村『近代思想』創刊
大逆事件のあらまし 幸徳秋水 堺利彦 『万朝報』→『平民新聞
・直接行動派 ↔ 議会政策派(穏健派、漸進主義)
・山口孤剣出獄記念集会→赤旗事件 松原岩五郎『最暗黒の東京』横山源之助『日本の下層社会』

1910年、大逆事件

・幸徳、病気療養で高知→新宮→名古屋→箱根→東京 愛知県→長野県安曇野の鉄工所で働く宮下太吉が爆弾をつくる
・菅野、宮下、新村、古河らは漠然と計画し、幸徳は認知していたが、他の人は冤罪。12人死刑。
・1911年1月24日幸徳処刑
・死にたくなければ奴隷であれ。生きのびたければ奴隷であれ。 

ひとがほんきでたちあがるときは、われしらず奮起する

★幸徳によれば、革命とは水到りて渠なるものである。水がながれて、くぼみをつくるように、革命は自然の勢いで生じるものだ。まちがっても、人為的に計算をして、軍隊をうごかしたりとか、ひとを暗殺したりとかで、実現できるようなものではない。
・革命とインサレクション(暴動、一揆)「されどかかることは利害を考えていてできることではありません、そのときの事情と感情とに駆られて、われしらず奮起するのです。」(幸徳秋水「獄中から三辯護人宛の陳辯書」)
・インサレクションは理屈じゃなくて、損得勘定じゃなくて、衝動

人間が死ぬのは問題ではない。問題は、いかにして死ぬかである

果実を結ばんがためには花は喜んで散るのである、その児の生育のためには母は楽しんでその心血を絞るのである、年少かくして自己のために死に抗するも自然である、長じて種のために生を軽んずるにいたるも自然である、これ矛盾ではなくして正当の順序である、人間の本能は必ずしも正当・自然の死を恐怖する者ではない、かれらはみなこの運営を甘受すべき準備をなしている。故に人間の死ぬのはもはや問題ではない、問題は実にいかにして死ぬかにある、むしろその死にいたるまでにいかなる生を享けかつ送りしかにあらねばならぬ。(幸徳秋水「死刑の前」)

・きっと、幸徳は死をまぎわにして、ひとが自己保存の本能ばかりにとらわれていくのを感じとっていたのだろう。国家の暴力は、ひとを生きのびさせようとするのであり、そうさせるなにかがある。幸徳は、そういった世のなかのうごきに、中指をつきたてた。ふざけんなと。生存のためだけに生きるということは、生きていないのとおなじことだ。それは奴隷のように生きるのとかわらない。わたしは、もっと生きたいとおもう。生きのびるんじゃない。死ぬことによって生きるのだと。

第2章 征服装置としての原子力―生きることを負債化される

八月の雨

中沢啓治はだしのゲン

生まれてはじめて、『はだしのゲン』を読む

・黒い雨

無希望、礼賛

・凄まじいスト―リー ウジ虫とハエ

被爆イメージは社会動員の象徴である

・広島、長崎も社会動員の象徴として使われた

恐怖の均衡は国家の統治技術である

・いつだって非常事態→非常事態だから政府に逆らうな

核戦争の人間化

・道徳=禁欲 「ドゥームズデイ・システム」 核シェルター

冬眠の地政学
原子力の平和利用ならぬ統治への利用

・1953年12月8日アイゼンハワー大統領国連総会演説「平和のための原子力」→1957国際原子力機関IAEA)設立。

原子力の父」は大杉栄と対峙していた

・「原子力の父」=正力松太郎 原子力委員会初代会長 科学技術庁長官 国家公安委員会委員長
・1955原子力基本法 1956原子力委員会 1963茨城県東海村 日本原子力研究所 初めて原子力発電に成功
・1979スリーマイル 1986チェルノブイリ
・正力、大杉と同い年 1885年生まれ 警察官僚→警視庁警務部長 巡査殴打事件 林倭衛「出獄の日のO氏」

原子力国家の三本柱①――負債による労務管理

・ロベルト・ユンク『原子力帝国』(1977)
・(1)負債による労務管理(責任感)(2)原子力生活の全面化(3)対テロ戦争の日常化

負債による労務管理はどんな職種でもおこなわれるようになっている

・ポスト・フォーディズム=認知資本主義=資本家の意思を内面化する労働者
・全国の原発作業員があびている放射線量 正社員3% 非正規97%(堀江邦夫『原発ジプシー』(2011))

原子力国家の三本柱②――原子力生活の全面化

御用マスコミ、御用学者も込みでの原子力
・既成事実化。いちど作ってしまえば、押し黙るしかない。
原発立地地域対策交付金 40年間で約1384億円 それに加えて 市町村は固定資産税、住民税をとれる
・金の力で依存させられる 原子力の暴力が、地域住民の生活を全面的におおっている。

原子力国家の三本柱③――対テロ戦争の常態化

・対テロ対策の特徴=予防的統制、監視 

原子力装置を破壊せよ

第3章 生の拡充―支配のための力を解体する

生きたいとおもうことは、暴力をふるうのとおなじことだ

自我とは要するに一種の力である。力学上の力の法則に従う一種の力である。力はただちに動作となって現れねばならぬ。何となれば力の存在と動作とは同意義のものである。したがって力の活動は避け得るものではない。活動そのものが力の全部なのである。活動は力の唯一のアスペクト(外観。様相。)である。(大杉栄「生の拡充」)

・生きたいとおもう力が、たえずいろんな方面へとひろがっていくのだ。爆弾みたいにおもいきりとびちる。あばれる力、暴力だ。

生の最高の喜びは「俺はすっかり偉くなったんだぞ」

「不慮の出来事というようなものは、もうわたしには起こらない。いまわたしになにか起こるとすれば、それはみんなわたし自身なのだ。」とニーチェツァラトゥストラはいった。そして、これによって、その個性の完成を世界に宣言したのであった。これをもうすこしわかりやすくいえば、「俺はすっかり偉くなったんだぞ。俺はもう俺以外の何人もの、又何物もの、支配も世話もお陰もこうむらない。俺は俺だけの、なにもかもから独立した人間になったんだ。俺のすることは、また俺に起こることは、いっさい万事この俺が承知のうえで俺の力だけでやるんだ。俺は全知全能の神様なのだ。」とでもいうことになるだろう。(大杉栄「生物学から観た個性の完成」)

・よろこびの根っこにあるのは、自分の成長。

生の乱調をまきおこせ

・でも、と大杉はいう。ひとにぎりの人間が、力を独占しようとしている。

被征服者の生の拡充はほとんど杜絶せられた。かれらはほとんど自我を失った。かれらはただ征服者の意志と命令とによって動作する奴隷となった、器械となった。自己の生、自己の我の発展をとどめられた被征服者は、勢い堕落せざるをえない、腐敗せざるを得ない。(大杉栄「生の拡充」)

ここにおいてか、生が生きていくためには、かの征服の事実にたいする憎悪が生ぜねばならぬ。憎悪がさらに反逆を生ぜねばならぬ。新生活の要求が起きねばならぬ。人の上に人の権威を戴かない、自我が自我を主宰する、自由生活の要求が起きねばならぬ。はたして少数者の間にことに被征服者中の少数者の間に、この感情と、この思想と、この意志とが起こってきた。
われわれの生の執念深い要請を満足させる、唯一のもっとも有効なる活動として、まずかの征服の事実にたいする反逆があらわれた。またかの征服の事実から生ずる、そしてわれわれの生の拡充を障害する、いっさいの事柄にたいする破壊があらわれた。
そして生の拡充の中に至上の美を見る僕は、この反逆とこの破壊の中にのみ、今日生の至上の美を見る。征服の事実がその頂点に達した今日においては、階調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。階調は偽りである。真はただ乱調にある。
大杉栄「生の拡充」)

・根源的なもの、いくら飼いならされようともなくなることがないもの。

水滸伝』は暴力論の教科書だ

竹中労『黒旗水滸伝』ではなく

飲めば飲むほどつよくなる

・武松 酔拳 虎退治

道具は捨てろ、武器をとれ

・官軍と山賊の戦い方の違い ラテンサッカー 
・酒→生の乱調をひきおこす 翌日後悔するけど

山賊の武器はイモだ

・ジェームズ・C・スコット『ゾミア』

「自我の皮を、棄脱して行かなくてはならぬ」

・兵隊の足並み

われわれが自分の自我――自分の思想、感情、もしくは本能――だと思っている大部分は、実にとんでもない他人の自我である。他人が無意識的にもしくは意識的に、われわれの上に強制した他人の自我である。
百合の皮をむく。むいてもむいても皮がある。ついに最後の皮をむくと百合そのものは何にもなくなる。
われわれもまた、われわれの自我の皮を、棄脱していかなくてはならぬ。ついにわれわれの自我そのものの何にもなくなるまで、その皮を一枚一枚棄脱していかなくてはならぬ。このゼロに達したときに、そしてそこからさらに新しく出発したときに、はじめてわれわれの自我は、皮でない実ばかりの本当の生長を遂げていく。(大杉栄「自我の棄脱」『新潮』1915年5月)

・自我の皮=立場主義 坂口安吾堕落論とも通ずる。
・社会の構成員であるための仮面をかぶせられている。

永遠のゼロをつかめ

・生き辛さ=征服の事実
・やりたいことをやること

労働者は古代国家の奴隷とかわりない

大逆事件後、言論界は恐怖に包まれていた。そんな雰囲気のときに大杉が『近代思想』で書いたのが、「奴隷根性論」「征服の事実」そして「生の拡充」。おしだまらされている言論界にたいして、おまえら奴隷か、おれはやりたいことをやるだけだという宣言。
・工場労働=人間も工場の部品の一部

工場の山賊たち
職人に労働者の仮面がかぶせられる

司馬遼太郎の仕事のサボり方 京都大学の芝生で昼寝

ケンカ上等のストライキ
みんな勝手に踊ればいい

・大杉は、ひとがいっぱいあつまっているところにでかけていくのが好きであった

米騒動を見る、煽る
米騒動の哲学――この酔い心地だけは

・合衆国憲法修正第2条 人民が武装する権利 アメリカの銃と日本の竹槍
飛矢崎雅也『現代に甦る大杉榮』大杉「此の酔心地だけはーエ・リバアタリアン」魂の爆発 泥酔状態

第4章 恋愛という暴力―習俗を打破する

生きのびるための恋愛か、それとも恋愛をして生きるのか
恋愛の神様

・1916葉山日蔭茶屋事件
辻潤 伊藤野枝の女学校時代の英語教師

四角関係
吹けよあれよ、風よあらしよ
「ああ、習俗打破!習俗打破!」
「この貞操という奴隷根性を引きぬかねばならぬ」
愛の力が家庭のなかに囲いこまれる
家庭をけとばせ!

・家庭こそあらゆる組織、特に国家の原型

現代でも、女性は所有物にされている

・不倫という言葉 儒教と一緒

浮舟の哲学
直接行動としての自殺?

・「善とか悪とかいうのもみんな人間の勝手につけた名称でしょう」(伊藤)

自分の生命をしばっている人間の縄をたち切るのだ

第5章 テロリズムのたそがれ―「犠牲と交換のロジック」を超えて

恐怖による統治

・2015年1月後藤健二、湯川遥菜 IS人質殺害事件

テロ対策は国家によるテロリズムである
ガイ・フォークスをとりもどせ
アナキストバクーニン

バクーニンの経歴 直接行動派

マルクスと論争する

・1870リヨン蜂起 1871パリ・コミューン

ヴ・ナロード

・ ヴ・ナロード=人民の中へ ナロードニキ=農村に入っていったインテリ

「行動による宣伝(プロパガンダ)」は、下からの怒りの炎をたきつける

バクーニン=「行動による宣伝」

蜂起の二大原理
テロリズムは「犠牲と交換のロジック」に呑みこまれる

★「革命が自己犠牲をもとめた瞬間に、革命は存在しなくなってしまう。革命のために身を捧げるということは革命を物神崇拝するということとおなじことだ。」(ラウル・ヴァネーゲム
・白石嘉治「犠牲と交換のロジック」=テロリズムも同じ

ギロチン社

中浜哲 宮崎滔天 大陸浪人

どんとこい、くそったれの人生

どうせ人は死ぬのだから 自分自身を解体したい

裕仁をヤッツケロ

古田大次郎 爆弾魔

ただじゃ死なない、辞世の句
大義は「犠牲と交換のロジック」につながる
アバヨ、アーメン、なんまいだ

対テロ戦争=人々をコントロールすることに用いる

おわりに―わたしたちはいつだって暴動を生きている
思想としてのブラックブロック

・2007年G8サミット ドイツ ハイリゲンダム 反グローバリゼーション運動 周辺のロストック
・ブラックブロック=ただみんな黒いパーカーを着る

わたしたちはいつだって暴動を生きている
ごきげんよう

・編集者岸山征寛

お薦め文献

酒井隆史『暴力の哲学』(2004)
矢部史郎、山の手緑『愛と暴力の現代思想』(2006)
③不可視委員会『来たるべき蜂起』(2010)労働の動員体制を解除した後に来る生命力と新しい規律の想像力

主要参考文献

4/30読了

◆要約:大杉栄、ラウル・ヴァネーゲム中沢啓治はだしのゲン』、ロベルト・ユンク『原子力帝国』、伊藤野枝を使って、現代の「征服の事実」を解き明かし、生きる力としての「暴力」を問い直す。
◆感想:大杉栄の「奴隷根性論」→「征服の事実」→「生の拡充」のコンボは最高。幸徳秋水の「革命水渠論」は共感する。生き辛さとは何か=「征服の事実」でほぼ説明できる。生きる力としての暴力を肯定しながら、「犠牲と交換のロジック」に呑み込まれてしまうテロリズムは同時に否定する。「傷つけられたら牙をむけ 自分を失くさぬために」。踊り、祭りの暴力。祭りはいつだって危険なもの。

【読書メモ】白井聡『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社 2020年)

はじめに 生き延びるための「武器」としての『資本論

・デパートの上のレストラン
・「実はとてもバカバカしいことなのだ」と腑に落ちることが大事。腑に落ちれば、そのバカバカしさから逃避することが可能になる。うつや自殺を防ぐ。

第1講 本書はどのような「資本論」入門なのか

資本論』入門――どのような視角から読むのか

なぜ今、マルクスなのか

・生き延びるため
・格差の拡大、心の病 驚くほどうつ病になっている者が多い
フレドリック・ジェイムソン「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」
・イギリスの批評家、マーク・フィッシャーは「資本主義が唯一の存続可能な政治・経済制度であり、それに対する代替物を想像することすら不可能だという意識が蔓延した状態」を「資本主義リアリズム」と呼んだ。

使用するテキスト

岩波文庫版『資本論』(向坂逸郎訳) 第1巻

第2講 資本主義社会とは? ――万物の「商品化」

マルクスによる資本制社会の定義

・「資本主義」より「資本制」といった方が適切。
・定義「物質代謝の大半を商品の生産・流通(交換)・消費を通じて行なう社会」であり、「商品による商品の生産が行われる社会(=価値の生産が目的となる社会)」

資本主義は続くよ、永遠に!?

フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」
ヘーゲル「人間の歴史とは自由と理性が実現されていく過程である」。常に闘争を通じて実現されていく。
・東西冷戦終了→資本制の勝利→歴史の終わり

資本主義はいつ始まった?

・「物々交換の神話」は本当か?

資本論』が「商品」の分析をもって始まることの意味

・社会の物質代謝の大半を、商品の生産、流通、消費を通じて行なう社会が「資本主義社会」と言える
・自給自足→商品経済=資本主義のはじまり

生殖までもが「商品化」される

・商品でなかったものがどんどん商品化されるようになってきて、その勢いはとどまるところを知らない。

商品による「商品の生産」

★賃労働=「労働力という商品」

「それをお金で買いますか」

封建制、身分制 人々は特定の職能と土地に縛りつけられていた→資本制 自由な労働者
・「商品による商品の生産」=賃労働
★明治政府になって政府が真っ先に行ったのが、身分制の廃止、そして土地の売買の自由化です。それまでの封建制において土地は基本的に売り買いできませんでした。それに対して明治政府は、土地と人間の商品化への道を開いたのです。このとき初めて「商品による商品の生産」が本格的に可能になったと言えます。
・「大半」の度合いが際限なく高まり続けるのが資本主義特有の傾向。
マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』

「富」と「商品」の違い

アダム・スミスら古典派経済学派は「富」と「商品」の区別をしなかった。

物質代謝の大半が商品を通じて行われる資本主義社会

・「富はどの時代にも、どの社会にも存在するが、その富が主に商品の形で現れる社会は資本主義社会だけなのだ」
・富は必ずしも商品である必要はないが、資本主義社会においては富の基本形態が商品になる。
・したがって(新古典派からすれば)、富とは初めからイコール商品であり、未来永劫そうだということになる。いまだに商品化されていないものがあれば、それらは残らず商品化されるべきだということにもなる。

第3講 後腐れのない共同体外の原理「無縁」 ――商品の起源

商品はどこからやってくる?

・「商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用をおよぼして、共同体の内部生活においても商品となる。」
・「商品は、共同体の内部では発生しない」
・家族の中で物を売り買いすることはまずない。シートンは例外。
・共同体世界の中では、富や労働の貸し借りが頻繁に行なわれ、それに伴って一緒に飯を食ったり、遊びに来たりといった付き合いも普通に行なわれます。富のやりとり、貸し借りと同時に人間的にも付き合いをする。経済的取引と人間的交際が渾然一体となっているわけです。資本主義化の度合が高まってゆくことは、共同体世界の領域が狭まってゆくことにほかなりません
・二つの共同体の間、そこで商品は発生している
・商品は、交換から、しかも共同体の外での交換からのみ生まれるのだということ、これはマルクスの決定的な発見だった 

商品交換の特徴

商品交換のよいところは、後腐れがないこと
共同体内部のやりとりは、後腐れのかたまり
・商品交換=お金による交換の原理は「無縁」。その取引においては、私たちは匿名の存在になります。だからこそ、自由なのです。
・『女工哀史』(細井和喜蔵)『あゝ野麦峠』(山本茂実)。「農村で食えないから、あまりに貧しいから」というのが大きな理由ですが、もう一つにはそんな状況でも「農村にいるよりはまだマシだ」と思われていたという事情があります。
・農村共同体のしがらみの中で生きるよりは、都会に出ていきたい。つまり人間関係ではなく、商品関係の中に身を置きたいと多くの人が考えたという現実があります。それこそが「商品が人を自由にする」代表的実例です。
>>人の欲望を煽る/コントロールする、広告の役割が資本主義にとって重要<<

労働力を「売る」「買う」とは?

・元々は共同体の外のものだった商品交換の原理が、共同体を呑みこんでいくことになる
・お互いが約束したとおりのことが行なわれたならば、あとは後腐れなし、関係はそこで切れる。そうした無関係の関係が、資本主義における人間関係の本質です。
・共同体の外の原理が共同体を呑み込んでゆく。この「呑み込み」を、マルクスは「包摂」という概念でとらえようとした。

第4講 新自由主義が変えた人間の「魂・感性・センス」 ――「包摂」とは何か

「形式的包摂」と「実質的包摂」

・最初は形式的包摂→実質的包摂 家内制手工業→ベルトコンベアのライン作業
・生産性を上げれば上げるほど、資本による包摂の度合いも高まる

新自由主義と終わりなき「包摂」

★たぶん今「包摂」は、生産の過程、労働の過程を呑み込むだけでなく、人間の魂、全存在の包摂へと向かっている
★フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは著者『象徴の貧困』において、テクノロジーの進歩による「個」の喪失へ警鐘を鳴らしました。肉体を資本によって包摂されるうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち感性が資本によって包摂されてしまうのだ、と。
・人間の感性までもが資本に包摂されてしまう事態をもたらしたのは、とりあえずは「新自由主義」(ネオリベラリズムもしくはネオリベ)である、と言えるでしょう。
・日本においては過去30年ほどの間に、従来「日本的経営」の特徴と言われてきた、終身雇用に代表される、企業におけるある種の共同体主義が、新自由主義化によって崩れてきました。これは共同体の外の原理が共同体を包み込み、内部に浸透してゆくプロセスそのものです。
・日本的資本主義→新自由主義 「選択と集中」 
・何よりも重要なことには、雇用の脱正規化が激烈に進みました。一部の正規雇用者を守る一方で、膨大な非正規労働者を「お前たちは、仲間ではない」ということで使い捨てるわけです。
デヴィッド・ハーヴェイという、英米で活躍しているマルクス主義者の社会学者がいます。日本でも多くの翻訳書が出ていますが、彼は新自由主義について「これは資本家階級の側からの階級闘争なのだ」「持たざる者から持つ者への逆の再分配なのだ」と述べています。
★戦後、日本を含めさまざまな国で経済が発展し、同時に社会の平等化が進んでいきました。つまり階級というものが解消されていったのです。日本でも「一億総中流」と言われ、「もう階級なんて言葉は古くなった。いまの日本にそんなものはない」と言われていました。ところが1980年代あたりからその動きが反対側にターンし、90年代以降、格差の拡大が露骨な流れになっていきます。無階級社会になりつつあった日本が、新自由主義の進行と同時に再び階級社会化していったのです。この構図はもちろん、他の先進資本主義国にも当てはまります。
・さまざまな新自由主義改革によって、肥え太ったのは誰か。資本家の側です。反対に労働者たちは、戦後獲得してきた権利を次々と失っていきました。

新自由主義が変えた人間の魂・感性・センス

新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。制度のネオリベ化が人間をネオリベ化し、ネオリベ化した人間が制度のネオリベ化をますます推進し、受け入れるようになる、という循環です。
★ですから、新自由主義とはいまや、特定の傾向を持った政治経済的政策であるというより、トータルな世界観を与えるもの、すなわち一つの文明になりつつある新自由主義ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という考え方です。人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値や必ずしもカネにならない価値というものをまったく認めない。だから、人間を資本に奉仕する道具としか見ていない
ネオリベラリズムの価値観に支配されている。
・人間は資本に奉仕する存在ではない。それは話が逆なはずだ。けれども多くの人がその倒錯した価値観に納得してしまう。それはすなわち資本による労働者の魂の「包摂」が広がっているということ。
・人々の魂が資本主義化してしまった

第5講 失われた「後ろめたさ」「誇り」「階級意識」――魂の「包摂」

「寅さん」がわからない!

「後ろめたさ」ゆえの支離滅裂

・「階級」がわからない。アンビバレンツな気持ちがわからない。
・損得勘定しかわからず。見栄や自分の階級への誇りがわからない。

消え去る労働者階級

デコトラ八代亜紀
・労働の尊厳

純然たる「消費者」となった労働者階級

オーウェン・ジョーンズ『チャヴ』(2017)=ポール・E・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』の没落した姿
サッチャリズム&グローバル化=「安い労働力」の追求
★労働者階級は、単に貧しくなっただけではなく、社会的尊厳を奪われた。
・カウンター・カルチャーも没落 労働者階級はいまや純然たる消費者であって、文化の創造者ではない
菅原文太 インテリ
・「包摂」の深化に終わりは設けられない。人間存在の全体、思考や感性までもが資本のもとへと包摂されるようになる。

第6講「人生がつまらない」のはなぜか ――商品化の果ての「消費者」化

キーポイントの復習

・品川駅高輪口のタクシー乗り場

「仕事がなくて無一文」な「自由な労働者」

・「資本制社会の定義」=「物質代謝の大半を、商品の生産、流通――流通とは即ち交換のこと――そして消費を通じて行なう社会が、資本制社会である」
・自給自足→自らの労働力を商品として売り、お金を稼ぎ、生活必需品を買う生活
労働力と土地マルクスはこの2つが商品化されたとき、その社会は資本制社会になったとみなす。
・「労働力の商品化」 マルクス「二重の意味で(自由な)人間」
・「生産手段から自由(持ってない)」「身分的な束縛から自由」
・資本主義が成立し、資本家が労働者の労働力を買い入れて働かせるためには、「買える労働力」がなければならない。逆に労働者の立場から、「なぜ労働者として資本家に雇われなければならないのか」と考えると、それは「それ以外に生活する途がないから」。=生産手段を持っていないから。
・「仕事がなくて無一文」=プロレタリアの原初的な状態

教育の商品化

・最近の大学のパンフレットの美麗なことは、マンション分譲販売のチラシも顔負け。
・教育の商品化をやめない限り、教育は立て直せない。

増えることそのものが資本の目的

・「増えることによって、人々が豊かになる」ことは資本の目的ではありません。人々が豊かになるかどうかはどうでもいいことであって、増えることそのものが資本の目的なのです。その他のことはどうでもいい。
・「資本が増えること」=金銭に換算できる価値が増えること

第7講 すべては資本の増殖のために ――「剰余価値

機械は人間を楽にしない!

・江戸時代、都市生活者の労働時間は今の半分
・「機械装置は剰余価値のための手段である」
・「労働時間短縮のためのもっとも強力な手段(=機械の導入)が、労働者およびその家族の全生活時間を資本の価値増殖に利用されうる労働時間に転化するための、もっとも確実な手段に一変する。」

商品と労働の二重性

・商品に独特の二重の性質 「使用価値(有用性)」と「交換価値」
・労働価値説=「商品の価値とは、抽象的人間労働の結晶」

「資本」とは

マルクス「幻のような対象性」。この幻のような何かが際限なく増え続けるということ、その運動そのものを「資本」と呼ぶ。
G→W→G’(=G+⊿G) Geld「お金」Ware「商品」⊿G「剰余価値
・英語だとM→C→M' Money、Commodity
・1万で買ったものを1万5千で売る。5千円が「剰余価値
・『資本論』においては、こうした増加は無限の運動であり、G'はまたWに変わって、同じくG→W→G’という形で、延々と増殖が続いていくことが想定されています。Gは永遠に増え続けるのです。
・金融資本(例えば金貸し)の場合 G→G'
・この不等価交換ができるのは、「時間的差異」があるから。
・貿易の場合「空間的差異」。
・ここまでは資本制以前からあった。
・「産業資本の定式」G→W→P(Pm+Ar)→W’→G' 
・Pm=Production Method=生産手段 Ar=Arbeit=労働力

なぜ、労働力によって剰余価値が生産できるのか?

マルクス剰余価値が生まれているのはArbeit(労働力)の部分だけだ」
・労働によって形成される価値が、労働力の価値よりも大きい
・ある労働者が日給1万円で労働をしているとして、その労働者が実際働くことによって生み出す価値は1万円を必ず上回っているはず
・労働者が形成する価値>労働力の価値 労働力の使用価値>労働力の交換価値
・労働力商品の使用価値が交換価値を上回るからこそ、剰余価値が生まれる
デヴィッド・リカード「賃金の生存費説」=「労働者の賃金水準は、労働者自身が生きて、労働者階級が再生産されるのに必要な費用に落ち着く」
リカードは、労働者が搾取されすぎて死んでしまうほど低くはなく、かといって金持ちになって働かなくて済むようになるほど高くもない水準を想定し、それを「生存費」と称した。マルクスもこの考えを引き継ぐ。

「必要」の弾力性

・どこまでが「必要」なのか、そこには大きな幅がある。
・30年間デフレマインド。自己評価もどんどん低くなる。

第8講 イノベーションはなぜ人を幸せにしないのか ―― 二種類の「剰余価値

「必要労働」と「剰余労働」――生産性をめぐる「錯覚」

マルクスの当時、1日16時間労働。
・「必要労働時間」と「剰余労働時間」
・資本制と奴隷制 「資本による労働者の支配」という現実があるかぎり、私たちの社会は奴隷制の痕跡を残していると言えます。むしろ過去の奴隷制とひと続きにつながっていると見た方がいい。
★「賃金労働にあっては、逆に剰余労働または不払労働さえも、支払労働として現われる。」=奴隷制の逆
・つまり資本家のための労働の部分まで、まるで労働者自身のための労働であるかのごとく錯覚されるわけです。本当は資本に奉仕しているのに、あたかも自分のために働いている気になってしまう。
・資本制の特徴はこのように、必要労働と剰余労働が区別できないところにあるのです。そこから、資本のために生産性を上げているのに、自分のために生産性を上げているのだという錯覚も生じてきます。

絶対的剰余価値――搾取するにも限界がある

・「絶対的剰余価値」=ひたすら労働時間を長くすることによって得られる剰余価値=一定の限界がある
・『資本論』の中でも有名な「労働日」と題された章 「19世紀イギリスの工場労働者はあまりに搾取されすぎて、栄養不良で身体も虚弱になり、無知蒙昧がはびこり、階級全体が畸型化している。搾取が肉体的、生理的限界を越えてしまっている」→工場法が制定
・人口(労働者と消費者)の再生産

相対的剰余価値と資本主義のダイナミズム

・「相対的剰余価値」=生産力の増大から得られる剰余価値。必要労働時間の削減→剰余労働時間の増加。
イノベーション(技術革新)=特別剰余価値 あくまで一時的、期限付き

技術革新はなぜ人を幸福にしないのか

・特別剰余価値の獲得競争→うまくいかず、皆疲弊するだけ。

第9講 現代資本主義はどう変化してきたのか ――ポスト・フォーディズムという悪夢

20世紀後半のフォーディズム型資本主義

・大量に生産した商品を誰が買うのか
・フォード 労働者を消費者に変えようとした →20世紀後半 大衆消費社会
・「資本が労働者を取り込んだ体制」
・テイラー・システム 科学的管理法 フォーディズムと密接な関係
・「無闇やたらと資本家に対立するのではなく、資本家と協調しなさい。協調・協力すれば君たちにもいいことがあるのだから」
フォーディズムの理想、進化版がトヨティズム「カイゼン
・生産性の向上という資本の要請に対して労働者が従うだけでなく、より積極的な意味で、特別剰余価値の獲得競争に末端の労働者が主体的に参加すること。「形式的包摂」→「実質的包摂」。

21世紀のネオリベラリズム(ポスト・フォーディズム)型資本主義へ

・1973オイルショック以降、フォーディズムの行き詰まり。(無尽蔵で安価なエネルギーに成長を依存していた反動)
・オントニオ・ネグリ「ポスト・フォーディズムは認知資本主義である」
・認知資本主義では腕力、肉体の力、さらには忍耐力より、むしろ脳の力、知性や何かを感じたりする気づいたりする感性、そういった能力が剰余価値の生産にとって重要になってくる。→ネグリ「労働者階級の勝利」
フォーディズム市場原理主義→「第三の道アンソニー・ギデンズロバート・ライシュ
・そこでギデンズが「第三の道」として打ち出したのが、「効率と公正の両立」でした。それによると、市場原理主義的資本主義は効率的だが格差・不平等を生む。ソ連型国家主導経済をその究極の姿とする社会主義は、平等という意味で公正だが非効率だ。だから、「第三の道」は、資本主義的な効率性と社会主義的な公正性を両立させる、というのです。
・結局無理だった。ブレア政権「ニュー・レイバー」。新自由主義への屈服を言葉で誤魔化したにすぎない。

ポスト・フォーディズムという悪夢

フォーディズム=労働者の地位を安定させた。「そうすることが消費の拡大にも、生産性の向上にも寄与するから」。しかしやがて、成長が鈍化した。
★そこで新自由主義が目指したのが、過去に与えた労働者の既得権益の剥奪です。さまざまな規制緩和などを通じて労働者の権益を取り上げ、労働分配率を下げることで、新たな剰余価値を生み出そうとしたのです。かくして労働者がフォーディズム的な資本蓄積の時代において享受してきた生活様式は、新自由主義の時代に入って次々と打ち壊されていきます
ジグムント・バウマンリキッド(液状の)モダニティ」←「ソリッド(個体)モダニティ」
★これは経済発展の原動力となった主力商品の性格から、そうならざるを得なかった面があります。フォーディズムにおいて発展のキーとなった商品は、フォードに代表される自動車であり、家電製品であり、耐久消費財であり、住宅です。産業としては製造業が中心でした。そしてこの時代に初めて労働者階級が家を所有することが一般的になってきます。
・しかし、耐久消費財を中心として資本主義が伸びていく時代は、ほどなく終わります。そしてモダニティの固形性に依拠し、労働者の既得権益になっていた安定性も突き崩されていきます。現在進行しているのは、社会が液状化し、人々が寄る辺なき「はじまりの労働者」に戻されていく過程にほかなりません。
・20世紀の終盤になって、相対的剰余価値の生産が行き詰まってしまった資本主義は、グローバル化に活路を見出します。グローバル化にはさまざまな側面がありますが、剰余価値の生産という観点から見れば、最も大事なことははっきりしていて、要するに労働力商品の価値の引き下げであり、これは絶対的剰余価値の追求への回帰であると言えるでしょう。

第10講 資本主義はどのようにして始まったのか ――「本源的蓄積」

江戸時代の生産統制

・おさらい。資本とは「価値増殖である」。いくらお金があってもそれが増殖運動をしない場合には、資本とは言えない。
・相対的剰余価値(生産力あるいは生産性の向上)獲得のレースには際限がない。
・江戸時代の寿司屋 独立するまで一律15年 → 職人の価値の低落を防ぐため(寿司職人が増えすぎないようにするための工夫)
・要するに生産の統制

副産物としての「物質的な豊かさ」

・「生産力が上昇した」「生産性が向上した」とは、「その生産に従事する労働の価値が低下した」ことを意味する

悪循環の行き着く先

・この生産力の上昇運動は、競争が次の競争を生む、一種の悪循環と言える
・「セブンペイ」下請けIT企業。官僚制+資本主義の最悪の結合
★とにかく剰余価値が生産できないと、資本主義は持続できないわけです。ところが次第に、剰余価値を生産する手段がなくなってきている。そこで資本の側は、労働者に長時間労働を強いたり、人件費をカットするといった形で、無理に剰余価値を生産しようとする。その歪みが、社会の端々に現れています。

「本源的蓄積」とは何か?

・今のこの悪循環の世界、誰もがひたすら生産力の向上に駆り立てられ、それが限界を超えて、労働価値ダンピングのような事態に至り、それに起因する事件があちこちで起きている世界
・「資本主義の始まる条件」=資本家と労働者が出会うこと
アダム・スミスデヴィッド・リカード=資本主義を超歴史化。「人間の本性からして、資本主義は必然的である」
マルクス「本源的蓄積とは資本主義の前史である」「経済学におけるその役割は、神学における原罪と同じである」
・「資本の蓄積は剰余価値を、剰余価値は資本主義的生産を、これはまた商品生産者の手中に比較的大量の資本と労働力とが現実にあることを、前提とする。したがって、この全運動は、一つの悪循環をなして回転するように見え、われわれがこれから逃れ出るには、資本主義的蓄積に先行する一つの「本源的」蓄積(アダム・スミスの言う「先行的蓄積」)を、すなわち資本主義的生産様式の結果ではなくその出発点である蓄積を、想定するほかはないのである。」

資本主義の始まる条件

・2種類の商品所有者、すなわち①貨幣・生産手段・生活手段の所有者②労働力の販売者である自由な労働力が出会うことこそ、資本主義の始まる条件である、とマルクスは考えます。
・資本主義の始まる条件としては、資本家予備軍のもとにお金や生産手段が積み重なっているだけでは十分ではありません。さらに重要なのは、「寄る辺なき労働力」がそこになければならないということです。寄る辺なき労働力とは言い換えれば、何も持っていない労働者です。かつて日本語では「無産者」と呼ばれました。
・農業社会→工業社会
・「二重の意味で自由な労働者」①身分制から解放されている②生産手段を持たない
・身分制から解放されているとは、それと不可分な関係にある土地から切り離されているということでもあります。なぜなら封建社会においては身分と土地は一体の関係にあったからです。ですから土地に縛られていると同時に身分にも縛られている封建社会では「俺はあそこで働きたいからそこに行って働くんだ」と言って、好きなように働くことはできないのです。
・「生産手段を持たない」=就活
★一方では確かに身分制から解放されている。しかし他方では生産手段を持っていない。自己の所有物でもって生計を立てていくことができないので、そうするほかないから資本のもとに労働力を売りにいく。就職活動とは労働力商品の買い手を探すことです。
★「資本関係を創り出す過程は、労働者を労働諸条件の所有から分離する過程、すなわち、一方では、社会の生活手段と生産手段を資本に、他方では、直接生産者を賃金労働者に転化する過程、以外のものではありえない。したがって、いわゆる本源的蓄積は、生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならない。
・この歴史的分離過程とは社会史的に見れば、封建社会とそのベースである農村共同体が解体されていく過程でもあります。
封建社会、資本主義以前の前近代社会においては、人間と土地が不可分に結びついていました。それを引きはがしてはじめて、労働力と土地が商品になり得るわけです。
マルクスはこのプロセスを動かしたものについて、「暴力である」と端的に言っています。
★「本源的蓄積の歴史で歴史的に画期的なものは、形成されつつある資本家階級に槓杆(こうかん=てこ)として役立つ変革のすべてがそれであるが、なかにも、人間の大群が突如暴力的にその生計手段から引き離されて、無保護のプロレタリアとして労働市場に投げ出される瞬間は、ことにそうである。」→浮浪、ルンペン(古着、ぼろ)

「はじまりの労働者」を生んだ「囲い込み」

・「囲い込み(エンクロージャー)」
・イギリス 第一次囲い込み 15-16世紀 羊毛需要 トマス・モア(『ユートピア』)「羊が人間を食い尽くす」
・第二次囲い込み 18-19世紀 「農業の資本主義化」 自作農→大規模プランテーション
・こうしたプロセスは、しばしば暴力的に貫徹されました。それを推進したのは囲い込みによって利益を得る人々、すなわち大土地所有者たち、そしてブルジョワジー(有産階級)、資本家たちです。彼らは政治に圧力をかけて、このエンクロージャーを可能にする法律を作らせました。
・こうしたプロセスを通じて、ブルジョワジーが力を得ていきます。社会の資本主義化とは、ブルジョワジーが社会的覇権を獲得していった過程でもあるのです。
マルクスは「資本主義的生産様式の「永遠の自然法則」を解き放ち、労働者と労働諸条件との分離過程を完成し、一方の極では社会の生産手段を生活手段を資本に転化し、反対の極では、民衆を賃金労働者に、自由な「労働貧民」に、この近代史の作品に転化することは、かくも労多きことだった。もし貨幣が、オージエの言うように、「頬に自然の血痕をつけてこの世に生まれる」ものならば、資本は頭から爪先まで、毛穴という毛穴から、血と脂とを滴らしつつ生まれるのである。」と、このプロセスがいかに暴力的なものであるかを強調しています。

第11講 引きはがされる私たち ――歴史上の「本源的蓄積」

日本における本源的蓄積

・1881-85(明治13-17)年 「松方デフレ
・「秩禄処分」への最大の反発が西南戦争
西南戦争の戦費を賄うため、大量の不換紙幣→悪性のインフレーション
・大蔵省 大隈→松方 増税と歳出削減 意図的な緊縮財政
・1885日本銀行日本銀行券(銀貨兌換券)発行 銀本位制 官営模範工場の民間資本への払い下げ
・松方デフレ=日本資本主義の基礎を据えた一大事業=一方でまさに本源的蓄積の過程
・このデフレーションの効果は農村部に及びました。農村で貨幣を獲得する主な手段となっていた生糸や繭、米などの農産物の価格が下落し、窮乏した農民は土地を売って、自作農から小作農へと転落していったのです。広大な土地が地主に集中し、彼らはやがて資本家となっていきます。
秩父困民党 秩父事件
・デフレによって農村が荒廃し、農民が没落して、一部は都市部に流入、その人たちが賃金労働者予備軍になっていきます。このいわば労働力プールともいうべき層が出現したからこそ、このあとに本格的な企業勃興期が訪れるのです。それが1886年から89年のことです。一方で資本の蓄積があり、もう一方では自由な労働力が生まれた。松方デフレがそれを引き起こしたということです。

地租改正が生んだ「分離」

・1869版籍奉還1871廃藩置県 幕藩体制が根本的に否定、つまり封建制が否定された
★そしてそれとほぼ同時に土地売買が解禁されています。つまり江戸幕府が禁じた土地所有権の金銭による移転が認められたのです。この時点で労働力と土地のうち、まず土地が自由化されたわけです。それまで公認されていなかった土地の流通、お金で土地を売ったり買ったりできる状況がここで生まれたのです。それが先にあったからこそ、松方デフレで困窮した農民に「土地を売る」という選択肢が生じたわけです。
・重要なのが、1873年地租改正 税が米→貨幣 額は収穫高ではなく地価、土地の値段に応じて決まる。
・わずかしか土地を持ってない人にとっては税負担が大変に重くなり、地租を納められない農民が続出します。そうなると土地を譲り渡すしかありません。税金が払えないので土地の所有権を手放し、自作農だったお百姓たちが小作農になってしまった。これもまたマルクスが言うところの「労働者と労働諸条件との分離」「社会の生活手段と生産手段を資本に転化」する過程の一部です。したがってこの地租改正という政策もまた、マルクスの言う歴史的分離過程において、大きな役割を果たしたと言えます。
・農村がこうした状態にあったところでデフレ政策が実施されたことが、過程に拍車をかけた形になったわけです。ここから農村の分解が始まり、農民のプロレタリア化が進んでいくことになります。

日本がいまだに抜け出せない封建制の残滓

・小作農化 寄生地主 → 1929世界大恐慌 → 満州事変

ロシア文学に見る本源的蓄積の過程

・19世紀、封建社会から資本制社会へ移り変わる移行の時代 痙攣的反応
ニコライ・ゴーゴリ『死せる魂』(1842)チチコフという詐欺師、戸籍上でのみ生きている農奴を買い集める旅
・この物語の読みどころは、この詐欺師もろくでもないのですが、この男が旅の途中でさまざまな地主に会い、その地主どもがもう本当にロクでもない連中ばかりだということです。ゴーゴリはそうした病んで魂が死んでいる当時のロシア社会を、この作品で痛烈に風刺したのです。
・古き良き封建制 「上に立つ者は上に立つ者らしく、慈愛と徳をもって下の者を支配する。下の者たちは自分の分というものをわきまえて、慎ましくまじめに働いていく」ことが社会的なモラルであって、「それによって一つの調和した世界ができるのだ」という封建社会ユートピア思想がたとえ建前でもあった。
・1861農奴解放例→ロシアの本源的蓄積

封建制ユートピアへのノスタルジー

・イワン・ゴンチャロフオブローモフ』(1859)帝政ロシア体制に対する痛烈な批判。
ロシア革命とはいわば、急進的なロシアのインテリゲンチャが起こした革命

チェーホフ桜の園』は「土地の商品化」の物語

チェーホフ桜の園』(1903)没落貴族の話
・土地が他の必需品と同じように商品として扱えるようになり、同時に人間の労働力を商品として扱えるようになっていった。
・人間や自然のあり方そのものが根本から変わっていく。それによって人間の精神、社会そのものが痙攣を起こしている。当時のロシアの文学者たちは、そういう事態を捉えた。ドストエフスキーの場合は、そこに「神の死」を見出しました。
チェーホフの作品などを読むと、ノスタルジーにふける時代遅れになった貴族たちが現実を見ていない哀れな人々として描かれる一方で、台頭してくるブルジョワジーの俗物性に対する心の底からの嫌悪も感じられます。そして、これらに対置する希望として暗示的に描かれているのが社会主義でした。
・その後実際に起きた革命は、きわめて過酷な体制を作ってしまうわけですが。

本源的蓄積の過程の持続性

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マルクスは本源的蓄積を資本主義の「原罪」と例えたが、むしろ本源的蓄積は資本主義が続く限り、反復して生じる出来事ではないか?
・労働価値のダンピング ・端的な賃下げ ・生産拠点の海外移転 ・外国人労働者の受け入れ拡大

「空間的差異」を用いる労働力のダンピング

・とにかく格差から剰余価値が生まれる

イノベーションで生まれる剰余価値はたかが知れている

・差異に関連して、戦後の日本でなぜ経済の高度成長が可能であったのか、考察してみましょう。日本の高度成長が終わった理由として、オイルショックがよく挙げられます。しかし、より本質的だったのは、農村の過剰人口に基づく労働力を使い尽くしたことでしょう。
・「金の卵」=要するに労働力として安かった。
資本主義の発展の肝は結局、安い労働力にしかない
・「土地からの人間の引きはがし」 実家からワンルームマンション

本源的蓄積と暴力

フォーディズム段階の資本主義において、先進国の労働者階級は「はじまりの労働者」の状態を脱しました。労働者保護のためのさまざまな立法(労災の防止や解雇の規制、長時間労働の禁止など)、労働組合の公認、福祉国家のシステムといったものは、労働者の経済的地位をそれが究極的には賃労働者であるにせよ、囲い込み運動によって「ルンペン」化された、はじまりの労働者とは大いに異なるものとしました。生活水準も上がって、持ち家をはじめとして資産も所有するようになった。文字どおりの「無産者」ではなくなったわけです。液状化」とは、このようにしていったんは安定化された労働者の地位をグニャグニャにして再びはじまりの労働者に戻すことです。言い換えれば、労働者が置かれてきた社会環境・権益から、労働者を引きはがすことにほかなりません。その意味でこの過程は、歴史上のではなく、現在進行系の本源的蓄積です。
・そもそも資本と労働の関係は、共同体や土地からの人間の暴力的な引きはがしによって始まったものです。そこにおいて労働者は暴力の犠牲者でした。資本と労働の間の決して平等ではない力関係は、この最初の暴力が薄められたものでしょう。

階級闘争」を闘ってきたのは「金持ち」だった

ウォーレン・バフェットより彼の秘書の税率のほうが高い
・実は私たちが気づかないうちに、金持ち階級、資本家階級はずっと階級闘争を、いわば黙って闘ってきたのです。それに対して労働者階級の側は「階級闘争なんてもう古い。そんなものはもう終わった」という言辞に騙され、ボーッとしているうちに、一方的にやられっぱなしにんまってしまったというわけです。
・世界の大金持ちたちも「このままではまずい」と気づき始めた
・今の労働分配率の低さに基づく格差がこれからも広がっていけば、いずれ資本家も没落することになりかねない。なぜなら、生産した商品の買い手がどこを探してもいなくなってしまうからです。
・戦後はケインズ主義で格差を埋めた
・格差の拡大、中間層の没落から来る需要不足を、資本はどう解決するのか。おそらく一つの答えは戦争でしょう。
・ここに開発すれば儲かりそうな土地があったとします。資本から見れば、土地を最も利益が上がるように開発したい。しかし現状ではその土地に現に住んでいる人の居住権のさまざまな権利関係が発生しているため、容易に手が出せない。ところがそこに大地震や大津波といった天災が起きて、その土地にあった建物が瓦礫と化し、土地が一気に更地になったとします。そうなったら資本は、そのチャンスを捉えて、一気に最大限の儲けが出るような開発ができます。このような引きはがしを、戦争によって意図的に起こすこともできます。
・2003年イラク戦争 ナオミ・クラインショック・ドクトリン』に描かれたその過程は、マルクスが描いたエンクロージャーの過程と同じく、まさに暴力そのものです。
・戦争は、有効需要の不足に対する特効薬。
>>コロナもまさに引き剥がし?<<

可能なる「階級闘争

第12講 「みんなで豊かに」はなれない時代 ――階級闘争の理論と現実

階級闘争」という概念

・本書の裏にあるテーマは「新自由主義の打倒」
デヴィッド・ハーヴェイの金言「新自由主義とは実は『上から下へ』の階級闘争なのだ」
・20世紀後半のフォーディズム型資本主義において、労働者階級への再配分がかなりなされるようになり、資本家階級は自分たちの取り分を譲った。それを取り戻すための闘争が新自由主義であり、21世紀の20年間を見るかぎり、資本家階級はこの闘争に勝利してきたと考えられるわけです。
・この闘争は、労働分配率を下げる以外に、既存の再分配のための機構を逆利用する形もある。典型的なのは税制

再分配機構の逆利用――住む場所で人生が決まる!?

・京都の公立小学校事情。裕福な地域の公立小を重点的に底上げ。
・経済力のある家庭が、経済力のない人間も含めたすべての人から集めた税金を使って、人よりもよい教育を我が子に受けさせるということが起きている。

東京都民がかみしめるべき「さみしさ」

・銀座泰明小学校のアルマーニの制服
・東京都民はそのさみしさをかみしめるべきなのです。一見華やかに見えて実は破壊的な街、よそから人を盗んで栄えている街なのだということ。その冷厳なる事実を、子供の歓声が聞こえないという現実によって日々確かめるべきなのです。

歴史的に敗れた戦略

階級闘争の歴史
・①プロレタリア独裁 暴力革命 (フランス革命のアナロジー
・②議会制(代議制)三井住友の中で、労働者の政党が力を伸ばしていき、合法的に権力を獲得する(社民主義
・かつては、「生産手段を国有化する」というのが、オーソドックスな考え方でした。資本家から生産手段の所有権を奪って、国有化する
その最も極端な形がソ連型の社会主義です。
ソ連5ヵ年計画 最初はうまくいき まさに希望に映った しかし失速し崩壊
ソ連型の経済運営は社会主義の一つのあり方でしたが、20世紀の社会主義ソ連型に尽きるものではない。もう一つの主要な形が社会民主主義でした。社会民主主義の代表的な存在としてはスカンジナビア諸国が挙げられますが、その他強力な社会民主主義政党が存在した西ヨーロッパ諸国では、多かれ少なかれ社会民主主義的な政策が打たれてきました。それらがそれくらい「社会主義的」であるかに関しては幅広い差異がありますが、生産手段の国有化といったソ連型に近い政策が採られたこともあったし、そこまでいかなくとも、高度の累進課税や労働者保護のための多様な立法や制度づくりがなされました。先進諸国の社会民主主義体制を「修正資本主義体」と呼んでも同じことです。要するにそれは、国家の介入によって平等化を図る体制であって、フォーディズムに基づく資本主義の発展と一体的に構築されました。
★なお、これのアメリカ版が政治思想家のジョン・ロールズが唱えた「リベラリズム」です。アメリカでは、東西対立の背景から「社会主義」は禁句扱いであったので、ストレートに社会民主主義と言えなかった。ゆえに、実質的には社会民主主義であるものを「これはリベラリズム自由主義)です」と言って提示したわけです。
・しかし、すでに見たように、1980年前後から、社会民主主義な体制は、新自由主義によって崩されてきます。「第三の道」=結果として新自由主義に屈服することにしかならなかった。

「正体不明化」が進む労働組合

・「生産拠点の労働者階級による獲得・管理」という目標も階級闘争の内容として長らく重要視されてきました。
・田中聡『電源防衛戦争―電力をめぐる戦後史』(2019)
日本電気産業労働組合(電産、電力労働者の組合)は、共産党の浸透が深かったことと、重要なインフラを握っていることから、闘争の焦点となりました。
・電産の労働者たちは、待遇の改善をめぐって資本家・経営者と闘うだけでなく、いかにして自らの職場を自分たちのものとするのかを課題としていました。労働者が、自身の構想と自身の手によって、生産手段を管理運営するということです。これに対して、経営側と保守政治勢力は、戦闘的組合をソ連の手先であるとし、「民主主義」の旗印のもとに対抗します。その過程で形成(戦前からの「再建」でもあるのですが)されて行ったのが、労使協調型の労働組合です。このような経営側が手動して戦闘的な労組と対抗させるために作られた組合は「第二組合」と呼ばれます。
・これによって資本制を否定するようなラディカルな組合の力を弱体化させることに成功したわけですが、結果として資本の側は、労使協調型組合については、その存在をむしろ積極的に認めざるを得なくなります。→日産自動車労働組合支配。
・これは、言うなれば、「労働者の自主管理」の漫画のようなものです。戦闘的な労働組合を潰したという功績によって取り立てられた人々が出世し、会社をある面では差配するようになった。彼らの一部は高い収入を手にし、「労働貴族」と呼ばれるようにもなりました。
ゴルバチョフ「日本こそ成功した社会主義国である」 戦後の日本では外からそう見られるほど、独特の労使協調システムを作っていた
・中曽根 国鉄分割民営化 戦闘的な労働組合の最後の牙城(国鉄労働組合・略称「国労」)を崩され、すでにとどめを刺された
★そして、1990年代以降、急速な雇用の脱正規化が進んでいく中で、この資本の側に立っているのか労働の側に立っているのか、正体不明の組合は、資本が進める労働者階級全般の不安定化に対して何の歯止めにもなりませんでした。やってきたことは、正規雇用者の雇用のみを守る。職場における非正規雇用者への差別も無視する。たとえば正規社員は食堂を使えるけれども、非正規のスタッフには使わせないとか、別料金にするとか、もうルールがどうとか経済がどうとかいう問題以前に、「人としておかしいだろう」という差別が平然と行われている職場がたくさん出てきても、労働組合はそういう問題に対してまるで無頓着のまま、資本側の協力者としてふるまってきたわけです。そのなれの果てが今の日本労働組合連合会・略称「連合」です。労働組合までもが新自由主義化したということです。

機能しなくなった「階級闘争」の戦略

安冨歩「れいわ新選組」選挙戦後のブログ「私は、現代という時代を、明治維新によって成立した日本の『国民国家』システムの緩慢な解体期として理解している。」
・富国強兵→経済成長 意味はそのまま同じ 全く機能不全に陥って、どうしたらいいかわからない、手の打ちようがないという現状 

第13講 はじまったものは必ず終わる ――マルクス階級闘争の理論

共産党宣言』における階級闘争の概念

・「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史でる」マルクス階級闘争史観」
ウィーン体制の崩壊を招いたヨーロッパ諸国における動乱の続出、いわゆる「1848年革命」において、欧州各国の革命家が加盟した共産主義者同盟が発足します。マルクスエンゲルスはそのメンバーでした。同志たちから「同盟のマニフェストを作ってくれ」と依頼をされて書かれたのが、『共産党宣言』です。言ってみればマルクスの革命家時代の著作です。
★「われわれが知ったことは、ブルジョア階級の成長の土台をなす生産手段や交通手段は、封建 社会のなかで作られたということである。この生産手段と交通手段の発展がある段階に達すると、封建社会の生産や交換が行われていた諸関係、農業と工場手工業の封建的体制、ひとことで言えば封建的所有関係は、そのときまでに発展した生産諸力にもはや適合しなくなった、それは、生産を促進しないで、阻害するようになった。それはいずれもみな変じて足かせとなった。それは粉砕されねばならなかった、そして粉砕された。それに代わって自由競争が現れた。これにともなって、それに適当した社会的ならびに政治的制度が現れ、ブルジョア階級の経済的ならびに政治的支配が現れた。われわれの眼の前に、その同じ運動が進行している。ブルジョ ア的生産ならびに交通諸関係、ブルジョア的所有諸関係、かくも巨大な生産手段や交通手段を魔法で呼び出した近代ブルジョア社会は、自分が呼び出した地下の悪魔をもう使いこなせなくなった魔法使いに似ている。数十年来の工業および商業の歴史は、まさしく、 ……近代的生産諸力の反逆の歴史にほかならない。ここには、かの商業恐慌を挙げれば充分である。……社会の促進には役立たないのだ。反対に、生産諸力はこの関係にとって強大になりすぎ、生産諸力 がこの関係によって歯止めをかけられるのだ。そして、生産諸力が、この歯止めを突破すると、たちまち全ブルジョア社会は混乱に陥り、ブルジョア的所有の存在が脅かされる。」
・この引用部分は、ヘーゲル弁証法の応用になっています。
・「テーゼ」「アンチテーゼ」「ジンテーゼ
・2つがぶつかり合うことで、AとBの至らざるところが改善され、より高度なCが生まれる。これをドイツ語で「アウフヘーベン」と言い、日本語では「止揚」「揚棄」などと訳されている。
・この説明ではAとBはまったく別物のようなイメージですが、ヘーゲル弁証法のポイントは、もともとAとBは一つのものなのだ、というところにあります。その一つのものの中に矛盾が内在しているというのが、ヘーゲルの考え方の肝です。
・生命現象。つぼみと花の例え。
・この過程は絶えず繰り返されるものです。それはヘーゲルが、「今あるものには常にその自己否定が含まれている」と考えるからです。新しく生まれたCの中でも、やがて矛盾が起きてくる。それによってCはDへ、さらにEへと、無限に生成変化していくのです。
ヘーゲルはこの考え方を人間の歴史に当てはめました。「歴史とは何か。それは理性と自由が実現していく過程である。しかしそれは、傾斜が一定の坂道を上るようにして、人間が着々と理性と自由を高めていくということではない。理性と自由は弁証法的な矛盾、対立、闘争を経て、徐々に実現していくのだ」という見方です。フランス革命に震撼させられたヘーゲルは、それは人類史における理性と自由の現れであり、重要な契機である、と考えた。
封建社会の中にすでに資本制社会の芽があった。つまり封建社会は一つのものと見えて、実はその中にはそれ自身の否定が含まれていた。その否定の要素が大きくなってくると、封建制そのものが破壊される。
・「ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をつくり出す。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史は終わりを告げるのである。」
・非常にアジテーションが効いた文章です。これまでの人間の歴史とは、支配する者と支配される者、それが延々と争い続ける世の中であった。それは一見、いろいろ変化しているように見えるけれども、支配階級が被支配階級を抑圧し続けてきたことは変わらない。もうそんな世の中は終わりにしよう。そんな社会は本来の人間の社会ではなく、その歴史も本来の人類の歴史とは呼べない。したがってこれまで積み重ねられてきた人間社会の歴史は「前史」にすぎない。これから本当の人間社会の歴史が始まるのだ。支配なき社会という、本来の人間の歴史が始まるのだ。そのためにはブルジョア階級を打ち倒し、資本主義を終わらせねばならない。万国のプロレタリアートよ、団結せよ――と展開するわけです。以上が、「史的唯物論」とか「唯物史観」と呼ばれるものの要諦です。

資本論』のどこに階級闘争があるのか?

・革命家マルクス→研究者マルクス 革命について語るのは禁欲的になっている
・「……資本主義的生産様式が自己の足で立つに至れば、労働のさらにそれ以上の社会化と、土地その他の生産手段の、社会的に利用される、したがって共同的な生産手段への、さらにそれ以上の転化、したがって、私有者のさらにそれ以上の収奪は、一つの新たな形態をとる。いまや収奪されるべきものは、もはや自営的な労働者ではなく、多くの労働者を搾取しつつある資本家である。この収奪は、資本主義的生産自体の内在的法則の作用によって、資本の集中によって実 現される。つねに一人の資本家が多くの資本家を滅ぼす。」
・最初は資本家vs労働者 徐々に資本家間の自由競争 小資本は打ち負かされ、大資本の下へ資本が集中していく
・「この集中と並んで、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪とならんで、ますます大規模となる労働過程の協業的形態、科学の意識的技術的応用、土地の計画的利用、共同的にのみ使用されうる労働手段への労働手段の転化、結合された社会的労働の生産手段として使用されることによるあらゆる生産手段の節約、世界市場網への世界各国民の組入れ、およびそれとともに資本主義体制の国際的性格が発展する。この転形過程のあらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨脹しつつある資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され、結集され、組織される労働者階級の反抗も増大する。」
・黙示録的な語り ※写真
・「資本独占は、それとともに、かつそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏(しっこく。手かせ足かせ)となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和しえなくなる一点に到達する。外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」

階級闘争vs.構造主義

・(資本家の)人格的な問題ではない。構造的な問題。
・「資本家としては、彼は単に人格化された資本にすぎない。彼の魂は資本の魂である。しかるに、資本はただ一つの生活衝動を、自己を増殖し剰余価値を創り出す衝動を、その不変部分、生産手段をもって、能うかぎり多量の剰余労働を吸収しようとする衝動をもって いる。」
・「資本家には人格などない。資本が人格化されているだけなのだ」

はじまったものは必ず終わる

・日本のマルクス研究者として最重要人物のひとり宇野弘蔵「『資本論』には2つの魂がある」「一つは科学的な資本主義分析(マルクス経済学)。もう一つは革命のアジテーション史的唯物論)。」
・宇野は前者を取り出し、後者はあえて捨象(しゃしょう)した。
マルクスのクリティカルポイントは「資本主義社会の歴史性」(スミスやリカードは超歴史化)=起源を持つということは終わりもあるということ。
マルクス「資本主義の発展に伴い、独占資本が巨大化し、階級分化が極限化する。それにより窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取が亢進(こうしん)し、ある一点でそれが限界を迎える」=「本当にひどい世の中になり、人々がいよいよ我慢ならなくなって、立ち上がり、革命を起こすのだ」
・当たっている部分と難しい部分あり。中流階級の出現。グローバル化で途上国、新興国では貧困層中流化しつつあるという一面もある。

第14講 「こんなものが食えるか!」と言えますか? ――階級闘争のアリーナ

エフゲニー・パシュカーニス『法の一般理論とマルクス主義

・『インディ・ジョーンズマルクス主義考古学者ゴードン・チャイルド
ロシア革命の時代 マルクス主義法学者エフゲニー・パシュカーニス『法の一般理論とマルクス主義』 反レーニンメンシェヴィキ(少数派)↔ボルシェヴィキ
・「ブルジョアが支配する資本主義社会において、法とはどういうものであるか」 『資本論』の法律版
・パシュカーニスによれば、ブルジョワ社会における法とは煎じ詰めれば、商品の交換の規則(等価交換)を定めたものであり、資本制以前の社会における法、すなわち支配階級の意志の直接の体現であるような法とは違う。
・パシュカーニスはそこから敷衍して、「ブルジョワ社会においては、国家の性格もまた、商品交換の客観的で公平な規範を担保する権力である」とも述べています。
・前近代の権力は政治的権力と経済的権力を兼ね備えている→「政治的社会と経済的社会が分離し、別物になることが、資本制社会の特徴である」
・ではこの状態からコミュニズムを実現するためには、何をしなければならないのか。またコミュニズムが実現された世の中とは、どんな世の中なのか。パシュカーニスの結論は、「等価交換の廃棄」でした。ここでのポイントは、「ブルジョワ階級の絶滅」ではないということです。
階級闘争≠「資本家を人のレベルで滅ぼせばいい」
・株式会社制度の発展 経営と所有の分離という一種の経営革命 → 資本の脱人格化
・「法人」の議論 「資本家を捕まえてやっつけよう」といくら探しても、その資本家がどこにも見つからない
>>人間の欲の集合という議論<<
・パシュカーニスはスターリンに処刑される 

汝、何を食すか?

・「等価交換の廃棄こそコミュニズムが進むべき道である」というパシュカーニスの示唆から改めて『資本論』を読む
リカード「賃金の生存費説」=「労働者の賃金水準は、労働者自身が生きて、労働者階級が再生産されるのに必要な費用に落ち着く」
・文化レベル

なぜイギリス料理はまずくなったのか

・イギリス経済史小野塚知二のエッセイ「イギリス料理がまずくなったのは産業革命以降」
・農業革命 囲い込みによる入会地の消滅=果実、野生鳥獣、魚、キノコの宝庫が採れなくなる
南方熊楠 神社などに属する入会地撤廃に反対運動
・資本主義的農場経営により、伝統的な祭りも消滅 豊かな食、音楽、舞踏も消えていく
・「産業化の過程で村と祭りを破壊したイギリスは、培ってきた食の能力を維持できず、味付けや調理の基準も衰退して、料理人の責任放棄が蔓延することとなった。他国の農業革命はイギリスほど徹底的に村と祭りを破壊しなかったので、民衆の食と音楽の能力は維持されたのである」
ニュージーランドでももう羊や牛肉は一般庶民はなかなか食べれない。 

階級闘争のアリーナとしての感性

戦艦ポチョムキンの反乱も、腐った肉を食わされたことから始まっている。
・今の日本の食文化を見ていると、かなり正念場に来ているという気がします。生鮮食料品が少なくなっている。イオンのまいばすけっと
・人間という存在にそもそもどのくらいの価値を認めているのか。そこが労働力の価値の最初のラインなのです。そのとき、「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。
・資本の側の包摂の攻勢に対して何も反撃しなければ、人間の基礎価値はどんどん下がってし まう。ネオリベラリズムが世界を席巻した過去数十年で進行したのは、まさにそれでした。人間の基礎的価値を切り下げ、資本に奉仕する能力によって人の価値を決めていく。そして「スキルがないんだから、君の賃金はこれだけね。これで価値どおりの等価交換ということで、文句ありませんね」と迫る。
・それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることです。「私たちはもっと贅沢を享受していいのだ」と確信することです。贅沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。私たちは本当は、誰もがその資格を持っているのです。しかし、ネオリベラリズムによって包摂され、それに慣らされている主体は、そのことを忘れてしまう。この忘却の強制こそ、ネオリベラリズムの最大の「達成」だったのかもしれない
新自由主義は単なる政治経済的なものなのではなく、文化になっているということを強調してきました。それは資本主義文化の最新段階なのです。その特徴は、人間の思考・感性に至るまでの全存在の資本のもとへの実質的包摂にあります。したがって、そこから我が身を引きはがすことが、資本主義に対する闘争の始まりであると見なされなければなりません。
・大衆にそもそもその意思がなければ、そのような実践(階級闘争)に向かうことはありえない。この意思を抹殺したことこそ、新自由主義の最も重大な帰結
・それゆえ、意思よりももっと基礎的な感性に遡る必要がある。どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか。そのためには、ベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。
開高健『日本三文オペラ』「貧者の美食」西成のホルモン ↔ コンビニ弁当 カップ麺 チェーン店の牛丼 資本主義的生産様式によってきわめて効率的に生産され流通しているもの
國分功一郎氏『暇と退屈の倫理学
・この議論でも問題になっているのは、同じく感性の再建なのだと私は思います。 情報量の少ないもの、玩味できないものに馴らされてしまった状態、これが感性までもが資本によって包摂された状態にほかなりません。そのとき、その享受される対象は貧しくなっており、享受する主体も貧しくなっています。言い換えれば、世界そのものが貧しくなっている。
・これは資本制社会の途方もない逆説です。生産力を爆発的に上昇させ、かつての人類には想像すらできなかったような物質的な豊かさをもたらしながら、その只中に貧しさをつくり出す。ただし、これはすでにマルクスが『資本論』で示唆していたことにほかなりません。マルクスは、資本主義においては商品の交換価値を実現し価値増殖を達成することが第一義的な重要性 を持つので、使用価値に関しては独特の無関心が生ずる、ということを述べています。交換価値は量的なものであり使用価値は質的なものです。ゆえに、量は豊富になるけれど質は最低へと向かって行くというのは、資本主義の内在論理からしてまことに必然的なことです。

おわりに

・本書で紹介したのは『資本論』のごく一部。他にも紹介できなかった重要な概念が多い。
平川克美 隣町珈琲での講義 編集渡辺智顕

付属ブックガイド

①モイシェ・ポストン『時間・労働・支配――マルクス理論の新地平』筑摩書房(2012)
・「商品の二重性」の話
柄谷行人マルクスその可能性の中心』講談社学術文庫(1990)
・特別剰余価値
宇野弘蔵『経済原理』岩波文庫(2016)
・「包摂」の議論
④植村邦彦『隠された奴隷制集英社新書(2019)
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造 新装版』紀伊國屋書店(2015)
・意味の消費 マルクス主義
アントニオ・ネグリマイケル・ハート『<帝国>――グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』以文社(2003)
・牢獄から選挙に立候補し当選 不屈の知識人
デヴィッド・ハーヴェイ新自由主義――その歴史的展望と現在』作品社(2007)
・「資本論入門」も出している。
⑧ヴォルフガング・シュトレーク『時間かせぎの資本主義――いつまで危機を先送りできるか』みすず書房(2016)
 
4/15読了
◆要約:『資本論』主に第一巻のわかりやすい解説とネオリベラリズム批判。資本制=すべての「商品化」=共同体の縮小。剰余価値を剰余労働から搾取。フォーディズム→ポスト・フォーディズムネオリベラリズム)。再びの本源的蓄積。絶対的剰余価値追求への回帰。パシュカーニスの法理論。「等価交換の廃棄」。新自由主義はもはや文化。魂、感性が資本によって包摂されてしまう。
◆感想:とてもわかり易く面白かった。フォーディズム→ポスト・フォーディズムの流れがよく理解できた。本源的蓄積は最初だけでなく、資本制が続くかぎり、何度も反復して繰り返されるものだということが理解できた。人間の思考・感性に至るまでの全存在が資本に包摂されていく新自由主義の恐ろしさは、実感しているところ。「第二組合」たる「連合」が、全く新自由主義の補完勢力でしかないこともわかった。これから階級闘争し、新しい社会を作っていくためには、労働組合ではなく、低所得で孤独な「我々」が新たに集い、共助が受けられる、何か新しいプラットフォームが必要だと感じた。