『続・哲学用語図鑑 ―中国・日本・英米(分析哲学)編』 作者: 田中正人,斎藤哲也 出版社: プレジデント社

続・哲学用語図鑑 ―中国・日本・英米(分析哲学)編

続・哲学用語図鑑 ―中国・日本・英米(分析哲学)編

目次
中国哲学
諸子百家
儒家儒教
儒教 混乱した秩序を安定させるため 儀礼→仁(愛情)
仁=孝、悌、忠、信、恕
克己復礼 
論語 いつ読んでもよい

『原子力都市』作者: 矢部史郎 出版社: 以文社

原子力都市

原子力都市

目次
柏崎
柏崎は、穏やかで調和の取れた田園工業地帯である。しかし、柏崎を知る人はみな「なにもない街だ」と言う。この街には「なにもない」。すべてが揃っているにもかかわらず、何もないのだ。人々の関心を惹きつけるような過剰や欠落、あるいは都市が表現する位置とベクトル、それらを示すなにか特徴的な差異を、この街は失っている。あらゆるものがありながら、そのdifference(=差異)が蒸発してしまっている。そして、ぞっとするようなindifference(=無関心)が、街を覆ってしまっているのである。
誰も何も見ていない。身近に起きている異変を、誰も直接に感じ取ることがない。そうして事件が発覚した後になってようやく私たちは、ずっと以前に生起していた異変の断片を、マスメディアを通じて知るのである。問題は柏崎に固有のものではない。この監禁事件(そしてDV事件)を特徴づけている不可視的性格は、原子力都市の一般的規則を示している。
かつて工業都市における情報管理は、嘘や秘密を局所的・一時的に利用するだけで充分だった。しかし、原子力都市における情報管理は、嘘と秘密を全域的・恒常的に利用する。嘘と秘密の大規模な利用は、人間と世界との関係そのものに作用し、感受性の衰弱=無関心を蔓延させる。原子力都市においては、世界に対する関心は抑制され、無関心が美徳となる。能動的な態度は忌避され、受動的な態度が道徳となる。巨大なindifference(非差異=無関心)が都市の新しい規則となるのだ。
身近に起きている現実のひだを、直接に感じ取ることがない。誰も何も見ていない。原子力都市は、無関心を新たな美徳とすることで、生活環境を不可視なものに塗り替えていく。
隔絶され密閉されているのは、原子力施設だけではない。都市生活の全体に、密室的・不可視的環境が蔓延しているのだ。
上九一色村
テクノポリス法」

キャバクラ 自衛隊 アンパンマン
自衛隊員のメンタルヘルス 
男たちの大和』には海がない
「大和」は本当に存在したのか?
砂丘
イメージと物質そのもの
都市を触っていく
京都
MKタクシー
むつ
歓楽街
かつて工業都市の経営者たちは、労働者や地域社会と交渉し、ときに譲歩することを強いられていたが、原子力都市の経営者は、交渉するのではなく管理する。土地を管理し、放射性物質を管理し、情報とイメージと政治を管理し、そうした諸々の領域にわたる管理の蓄積が、原子力産業を支えている。
この管理は、産業に由来する管理ではなく、軍事活動に由来する管理である。事業の決定から膨大な人々を排除するための秘密。異論を挟む余地もないほど現実離れした嘘。原子力化のモデルは、いまやさまざまな領域で参照され、偽装の社会を拡大している。商品の偽装や会計の偽装、法令をめぐる偽装、事業や役職そのものの偽装、そうした偽装をめぐる情報の管理が企業活動の中心に位置するようになるだろう。
秘密と嘘が交錯する中で、管理は暴走する。労働者に対する管理はエスカレートし、神経を摩滅させる労働災害が急増している。モノの生産、職場の人間関係、融資や取引の関係、そして健康状態までが、一括りに「管理」の尺度で測られ、誰もが「管理能力」を要求されるようになる。いまでは「自己管理」や「危機管理」という言葉を耳にしない日はない。人間は「働く者」ではなく、「管理する者」として表現され、新しい疎外にさらされる。嘘や秘密、欺瞞、イメージ操作が、利権と収益の中心を占めるようになるのだ。
これが、工業都市の次に来る原子力都市である。
川口
キューポラ(煙突)のある街』
第三インターナショナル記念塔」
いきいきとした商店街 活力にあふれた図書館 女たちの未来主義
日本ピラミッド
民衆の人類史的想像力
硫黄島
パルチザン
広島
広島は国民国家のかさぶた
核 国家だけが持ちうる技術が、人間を圧倒するのだ。
原爆投下二年後の「平和祭」47年8月6日
両国
レーガンサッチャー、中曽根
70年代への反動は、いきいきとした都市文化を否定し、生気のないガラクタを建設する。
都市生活の血液である美意識は、徹底的に破壊されてしまったのだ。
恐山
恐山は明るくて心が落ち着く場所
圏央道 つくばジャンクション
<多摩>の主婦 反核・反原発運動
安全安心条例で感情が停止させられる 心が死ぬ
<多摩>への反動としての<つくば>
秋田県藤里町
児童殺害事件
倫理とモラルの違い 
倫理が人間の自由に基づき多様なあり方を示すのに対して、モラルは人間への嫌悪に基づき多様性を禁じる
世界遺産」と警察的モラル
厚木 幽霊病院
総論
NANA
労働者→人材 さらなる地位の低下
信頼と協働→不信と監視
無数のナナ
つくばを離れた理由 本物の都市がないから
北方教育運動 農民の子弟をプチブルへ出世させるための教育でなく ただの農民になっていく
農村の領域に閉じること、自律することが、子供たちのいきいきとした知性を爆発させる。この自律の獲得こそが、教育の真髄であるだろう。
開放に抗して、閉じる。閉じて、爆発させる。この思考の内燃機関が、生活者に新たな動力を与える。
酒井勝軍 トンデモの元祖
八王子学園都市 教育に対する裏切り 都市計画のもっとも凶暴な性格
学生が何かを考えようとするとき、彼は必然的に都市的実践へ(そして都市論的実践へ)足を踏み入れていく。
かつて農村の子がきてきの音を知覚したように、私たちは都市を知覚する。
自律的でデモクラティックな都市的実践
あとがき
ミリオン出版 HARDCOREナックルズ KEITAIバンディッツ
7/11読了

『ジョジョ論』 作者: 杉田俊介 出版社: 作品社

ジョジョ論

ジョジョ論

目次

第1章 自立
第2章 欲望
第3章 平等
第4章 自己啓発
第5章 協働
第6章 運命
第7章 奇跡
第8章 生命
補論 資本主義の倫理と異能な人々の運命
参考文献
あとがき
 

アトピー性皮膚炎
私たちは誰もが、市場やメディアや国家から、一般的でごく「普通」の欲求を持つべきだということを命じられている。
この世界の恐怖に向き合い、勇気をもって生きることは、ほんとうは楽しいことなのかもしれない。
 
第1章 自立
もしも自分にスタンド能力があるとしたら、それはどんなものだろうか?「無意識の才能」「無意識の欲望」「本当の欲望」
「汝、自分を知れ」「あなたのその欲望は、仮象(偽物)なのか、本物の欲望なのか」
本当に難しいのは自分に向きあうこと
恐怖に立ち向かえ 恐怖を乗り越えていけ
人間讃歌とは、勇気の讃歌である。人間の素晴らしさとは、勇気の素晴らしさである。
ポコ少年のお姉さん「あんた、怖いのはこの痛みなの?自分が何にもできないことの方が怖くない?」
少しずつ自立し続けていく 己の限界を一歩ずつ越え続けていく
不完全で有限な私たち人間には、それしかできないからだl
人間の勇気とはそのことであり、それが人間讃歌となるのである。
荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』
被災地の子どもたちの遊び 生きることの喜びをあちこちに発見し 友と分かち合う 瑞々しい勇気
ゾンビ(生ける屍)という病
受動的に生き永らえる 能動的に生き延びる
「消費社会型ゾンビ」→「環境管理型ゾンビ」
身の回りの様々なテクノロジーや環境(アーキテクチャ)によって、個人としての欲望を飼い馴らされ、踊らされ、半ばアディクションのような状態に陥っている。
神経科学や脳科学によれば、主観的な快感と共に活性化する脳内の組織は「報酬系」と呼ばれる。現代的な娯楽や嗜好品に関するマーケティング戦略では、こうした報酬系の特性がすでに様々な形で応用され、私たちの日常を侵食している。つまり、様々な娯楽や嗜好品が、依存しやすさを誘発するように設計されている。私たちの日々の欲望は、ほとんど依存症のそれ(ドラッグ、アルコール、高カロリー食、セックス、ギャンブル、エクササイズ、慈善行為など)と近くなっているのである(デヴィッド・J・リンデン『快感回路』等を参照)。
ニーチェの超人=超えていこうとする人
ぶざまでのろまな足取りでも、それでも 歩を進める
 
第2章 欲望
ジャンプ バトルマンガ バトルマンガは資本主義的
資本主義の酷さと、反面得も言われね魅力
資本主義=ダイナミックな世界
「強さ」と「優しさ」
ワムウvsジョセフ
むしろ敗北や失敗にまっすぐ向き合ったところから、本当に困難な戦いがはじまる
勇気としての頭脳
自分の本当の欲望と向き合う時に、天才と凡人、健常者と障害者・病者の差はない
欲望の質に 上下 尊卑はあるか?
第四部、欲望はまさにひとそれぞれ 例えば岸辺露伴 トニオ
承太郎=『ダーティハリー』のイーストウッド
「ヒーローの条件」=「世間は誰も目を向けないし、仲間に慕われることも、お金が儲かったりすることもない。常に孤独。それでも社会のために行動するのがヒーローなのです」
自分の欲望を肯定するのと同じように他人の欲望を肯定できるか
釈迦=欲望を消す方向
 
第三章 平等
スタンドに「強い」「弱い」はない
この世のあらゆる存在が、各自にふさわしい無意識の欲望=能力を持っている
真にやさしい人間だけが、真に強くなれる
私たちの欲望においては、能力と無能、長所と欠点、強さと弱さの意味が、分かちがたいものとして重層的に雑ざりあっていく。これが『ジョジョ』的な倫理の形であり、クリティカルポイントである。
浦河べてるの家
隣人としての他者たちの狂気、無能、障害に寄り添っていくこと 自分も例外ではないから
人間もたんなる生き物であり、自然の一部
永遠の相の下 スピノザ
 
第四章 自己啓発
自己啓発=ポジティブシンキング、自己暗示、信念の強さ、潜在意識に働きかける、自分の欲望を変える。
それらは、大切な何かを切り捨てた上での成功や富ではないのか。つまり、市場経済的な価値観や能力主義的なもの(障害や病があるよりも、ない方がいい、という優生思想)を無反省に受け入れた上での成功や富でしかないのではないか。
 
第五章 協働
アバッキオ 死の間際 若い警官のエピソード
大切なのは「真実に向かおうとする意志」
アバッキオ、お前はりっぱにやったのだ。そしてお前の真実に「向かおうとする意志」はあとの者たちが感じ取ってくれているさ。大切なのは…そこなんだからな…。」
真実へ向かう意志は、必ず、他人へと伝達され、継承されていく。というよりも、他人に伝達され、修正され、更新されていくことによって、はじめて、私たちは真実を見出すことができる。この世の真実を独占し、私的所有することは誰にもできないからだ。来るべき新しい他者たち、未来の他者たちと分かちあうことによって、はじめて、真実は真実たりうるのである。
この時ブチャラティは、たんに組織を裏切っただけではない。今までの人生の「仕方ない」「どうにもならない」という深い諦念をこそ、自らの手で裏切ったのだ。
ある種の自己破壊(自己犠牲)を伴った行動こそが、本当の意味で周りの他者たちへも自然に伝わっていく。なぜなら、痛みとともに自分のあり方を変えようとする行動こそが、最も他者の心を震わせ、他者の深いところに届きうるからだ。そうした行動こそが、他者のみならず、自らの生き方をも最も深く強く変革していくのである。
自らの弱さや無力さを受け入れて、それでも何とかして変わりたいと努力し続ける人たちの―自己変革=復活を目指し続ける人たちの―新しい関係性の結び直しとしての協働。いわば星座としての協働。
バトンを繋ぐ
 
第六章 運命
「惻隠の情」
プッチ=ベンサム すべての人間の幸福
カルヴァン派の二重予定説 =ニーチェ永劫回帰
九鬼周造 偶然とは「何かと何かが遇うこと」
そうした勇気を、プッチはついに最後まで持てなかった。なぜなら、彼は、あらゆる出会いの意味を「自分にとっての幸福のための材料」へと自己啓発的に脳内変換してしまうからだ。
アガンベンライプニッツ
「存在しないもの(生まれなかった人)」と出会う
ドゥルーズ 目の前にある存在を「振幅」させ「襞(ひだ)」を作る。
私たちこそが、生まれてこなかったことを夢見るメシアたち、水子たちの欲望によって寄り添われ、助産されてしまっていた。
徐倫たちは、人々の間に何かが継承=伝播されていく時には、必ず運命に対する微妙な偏差―だがそれこそが最小単位の<希望>なのだ―が宿るはずだということ、そのことに賭けたのではないか。
何かを受け取り損ねたり、突き放されたり、受け取りを拒否されたりすることを通しても、なお、最も大切な何かが未来へと(通常の意味での「届く」よりもさらに高次元で)「届く」ことがあるのではないか。小さな偶然の連鎖の果てに、すべての物事が――現在のみならず、過去も未来も――生かされる可能性が宿されるということ。切断や誤解や忘却によってすら、何かが生かされてしまうということ。それを私は、『ジョジョ』における唯物論的な奇跡と呼びたい。
そんな小さな奇跡こそがプッチ神父がどうしても信じる勇気を持てないものだった。
無数の星々が回転しながら描き出す、星座としての協働
この私が死んでいなくなったあとの世界は、きっと、まだこの私が生き延びてしまっているこの世界よりも、無限の出会いや再会たちが渦を巻き、回転しながら形作っていく新しい螺旋銀河の中で、さらに素晴らしいものになり、より善きものになっているだろう。
 
第七章 奇跡
「眠れる奴隷」/「目覚めた奴隷」
宗教的・科学的決定論 ←→ 自由意志説
量子物理学=不確定性理論
>>自己啓発が取りこぼすもの 単純にいえば、自分さえ成功すれば、人を足蹴にしてよいのか?<<
ニーチェツァラトゥストラ』 せむし男 障害
「邂逅は独立なる二元の邂逅にほかならない」
①公開としての運命 ②感謝としての運命
ジョニィは、自らの宿命を呪うことによって、かえって、本当に向きあうべき現実(つまり未来)から、一貫して目を背け続けてきた
想像してみなさい。あの人の命の中にも、お前と全く同じ弱さがあると。あの人もまた己の弱さに苦しみ、弱さの中で戦い、気高くあろうと懸命に努力しているのだと。本当にそうなのです。誰もがそうなのです。
大森荘蔵「過去制作論」 マイケル・ダメット「酋長の踊り」
三ツ野陽介「物語的決定論
中島義道「後悔としての自由論」
時間とは他者そのものである
時間外からやってくる他者との出会いこそが、私たちの運命なのだ。
時が流れていくとは、この私の運命と他者の運命とが相互干渉を起こすこと
未来とは、ポリフォニー(多声音楽)としての時間
逆にいえば、何もできず、何も為さず、無力な自分の存在ですら、ひきこもりや犯罪者であってすら、この私の運命は無数の他者たちの運命の中へと流れこんでいる
リンゴォ 他者たちと共にあるありふれたこの日常それ自体を「聖なる領域」へと高められなかった
つまり、自分がたまたまこの世界に生まれてきたという運命に感謝し、自己肯定できるようになるだけでは、何かが足りなかった。それをさらに<全員>を――自分も他者も、味方も敵も――生かすことへと回転的に高められないのであれば。
この自分の運命をいかに乗り越えるか、という実存的な問い(運命論)から、自分以外の他者たちを、自分とは別の運命に呪われた他者たちを未来へ向けていかに生かすことができるか、という実践倫理的な問い(奇跡の問題)へ。
運命から奇跡へ
衛生 惑星 恒星 銀河 銀河団 お互いの重力の影響を複雑な形で受け合う
奇跡=<すべてが生かし直されていく>その日
それは力を尽くし、心を尽くし、思いを尽くして、それでも自力がおよばないものの領域、無限=自然の領域に対して、自らの全身を開き直していくこと
 
第八章 生命(キャラクター)
仙台神学校 プロテスタント 押川方義
手塚治虫どろろ』『魍魎戦記MADARA
NHK「わが青春のトキワ荘手塚賞授賞式
ジョジョ』はマンガというメディアでしか表現できない
イズミノウユキ荒木飛呂彦の特徴は、とにかくありとあらゆる物体や現象を、絵として描いてみようとする気概にある」
アンリ・ベルクソン『時間と自由』意識の持続
郡司ペギオ幸夫「生命とは時間の別称である」「内部観察」
ミハイル・バフチンドストエフスキーポリフォニー)分析、資本主義とマンガ(キャラクター文化)
逆なのではないか。この資本主義的な市場経済の中では、私たちは、すでに生身の人間でありながら、同時に半ば抽象的な「記号」のようなもの、「キャラクター」のようなもの――マルクス経済学でいう「労働力商品」――として生きてしまっているのではないか。
高度な消費社会の中では、私たち生きた人間もまた、キャラクター(記号)や商品と同列の地平へと巻き込まれていく。
私たちはマンガの中に生きられる マンガ=記号への尊厳と信仰<中断>
ベンヤミン「物」が「いま、ここに在る」という絶対的な事実の手触り=アウラ
日々異なる体調 感覚を味わう <時>そのものを味わう
『ミステリアス・ピカソ 天才の秘密』
「マンガという奇跡」
奇跡をこの目で見るということ。それは、ありふれたこの日常が、無限の複数的な回転の中にある、自らの眼差しもまた「何処も彼処も同時に進行している」自然の一部である、そうした生々流転の事実に覚醒していくことである。
奇跡を見る眼差し(たとえそれが義眼や複眼であっても)とは、幸福と不幸、生と死、そのどちらに転んでも、すべてに感謝する、そのような眼差しのことである。すべてが偶然の連鎖の中にあるこの世界は、明日には、どちらへ転ぶのか、誰にもわからない。偶然も必然も、完全に等価だ。喜びも悲しみも絶望も、完全に等価だ。昨日も今日も明日も等価だ。それでも万物は、空間と時間を超えて複数的な回転の奇跡の中に巻き込まれている。
生命とは重力であり、重力とは出会いであり
 
補論 資本主義の倫理と異能な人々の運命
松尾匡 重要なのはナッシュ均衡パレート最適の区別
お互いに軍縮=優位のナッシュ均衡パレート最適
資本主義も、「疎外」という、劣位のナッシュ均衡になってしまっている
資本家もまた「疎外」されている
劣位のナッシュ均衡を優位のナッシュ均衡パレート最適)へと切り替えること これを革命と呼ぶ
市場の創出は新たな価値観の創出 創造行為(アート)
自閉症スペクトラムの人々の強み、個性
無能・狂気・障害として社会的に排除されてきたものを商品交換の中に巻き込み、互いの必要に巻き込まれてあっていく時にこそ、従来の市場経済や資本主義のポテンシャルがさらに爆発的に拡張していくだろう。
欲望の位相を上げる 世界の欲望
資本主義の起源にある根源的暴力を、マルクスは、本源的蓄積と呼んだ。
エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』
プロレタリアートブルジョアジーにたいする戦争は、驚くに足りない。なぜならば、この戦争は自由競争のなかにすでにふくまれている原理の、徹底的遂行にほかならないからである。」
ギデンズ「嗜癖をもたらすメカニズムは資本主義の精神と何ら異なるものではない」
自己啓発的な欲望とは、在る種の自己洗脳であり、資本主義的な富の蓄積に対するアディクション(強迫観念)
市場経済は社会的分業を通して利害関係が相反するライバルや第三者をも味方に変えていく。しかし、資本主義はその斥力として、身近な隣人や仲間をさえ、不断に無能な敵へと変えていく。それは何より、自分自身をも敵にしていくのだ。死にたい、というアディクションの秘密はそこにあった。
コペルニクス的回転 「汝ら、互いに生かしあえ」
生まれてこなければよかったという強迫反復的な暴力(タナトス)を、他人と自分を無限に生み直す力へと変えていくこと。
代替的な自己啓発 今そこにある小さなコミュニズム
 
あとがき
ひきこもりやニートの人、他人に会いたくない人でもマンガなら読めるという
「障害と資本主義」
改めて命の「平等」について
 
中断を経て7/11読了
この世界の奇跡に気づくこと

宮台真司 x 北田暁大『限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学』双風舎

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

まえがき  北田暁大

第一章 空虚な時代を生きる
一 保守思想を考える
  あえてするコミットメントと保守主義の台頭
  崩壊するコミュニケーションの地平
  ホンモノの右翼と保守
  左派によるロマン主義への繊細な考察
  人間の理性は世界を覆えるのか
  私たちが物事をまじめに考える動機

二 アイロニーロマン主義、そして社会学
  思考のパッケージとしてのハーバーマスルーマン論争
  社会学とロマン派とアイロニーの結節点
  天皇論を持ち出すことの本意
  ロマン主義とは何か
  「超越系」と「内在系」
  認識上の転向、実在上の非転向
  形式を反復するロマン主義の罠
  アイロニカルな社会学が立ちあがる土壌としての日本
  この空虚な時代を、どう色づけしていくのか

第二章 文化を記述する方法
一 「価値自由」とは何か
  あえてウェーバーの価値自由を提唱する
  理論家/実践家としての廣松渉
  上野千鶴子という非還元主義者
  私が社会学者になった理由
  「理論家」宮台と「文化社会学者」宮台は断絶しているのか?
  日本のカルチュラル・スタディーズの問題点
  いまなぜ「政治の季節」を語るのか
  人はなぜ全体性に惹かれるのか
  政治への意志を社会と接続していく

二 文化を研究することの意味
  流動性への抵抗力を供給するサブカルチャー
  認識は脱政治的に、実践は政治的に
  カルチュラル・スタディーズのあるべき姿とは
  非還元論的な文化研究をめざす
  文化を記述することの難しさ
  社会学的な想像力を磨く
  モードの変化に気づく力を養う
  反省を分析する手法の開発が求められている
  限界の思考

第三章 社会学はどこへ向かっていくのか
一 「意味なき世界」とロマン主義
  人間であり続けることは、どういうことなのか
  ロマン的なものと動物的なものが反復する社会
  近代システムの特徴としての再帰性
  ロマン主義再考
  日本は思想の全体構造を見わたしづらい?
  かつて想像された全体性がよみがえる
  「意味なき世界」を肯定するような習慣

二 「脱呪術化という呪術」の支配に抗う
  人間は壊れているという自覚
  乾いた語り口が切り開く思考空間を求めて
  ローティの「反思想という思想」
  虚構のうえに成り立つ近代社会という前提
  社会学者はいま、何をすべきなのか
  保守主義構築主義というふたつの武器
  超越への断念と批判への意志を貫く 

第四章 アイロニー社会学
一 戦略的アイロニズムは有効なのか?
  時代とともに変化するアイロニーの構造
  ポスト八〇年代をどう見るのか
  日本には「消去しきれない理念」がない
  オブセッションが人をどう駆動するのか
  大澤真幸の単純さ
  アイロニーオブセッションへと頽落する戦後サブカル
  戦略的アイロニズムオブセッションへの処方箋
  オブセッシブな後続世代は、先行世代の餌食

二 楽になるための歴史と教養
  若い世代は軽いようで重い
  教養という旅をした世代、旅ができなかった世代
  八〇年代を退落の時代と位置づけてよいのか
  視界の透明性が存在しない後続世代
  歴史地図のなかに価値を滑り込ませたくない
  七〇年代的アイロニーを再評価することの危うさ
  歴史をとおして自分の位置を確認する

第五章 限界の思考
一 全体性への思考と専門知
  強迫性を解除するための方策とは
  奇妙なかたちで流用される専門知
  何が道具で何が知識なのかを考える
  教養主義者としての蓮實重彦
  依拠すべき参照項の消えた時代

二 社会の操舵が困難な時代
  いまこそギリシャ哲学に学べ
  分析哲学を見直す
  オースティン、サール、そしてデリダ
  何を意図しているのか、はじめに話してしまったほうがよい
  宮台アイロニーへの思い違い
  『歴史の終焉』という終焉を生きる
  啓蒙の対象はエリートなのか大衆なのか
  合理性のない欲望が肥大化する日本社会
  国粋はかならずしも、愛国の体をなさず
  公共的であることの困難

あとがき 宮台真司
 
まえがき  北田暁大
>>見田宗介「経済競争の強迫から解放された人類は、アートと文学と思想と科学の限りなく自由な創造と、友情と愛と子どもたちとの交歓と自然との交感の限りなく豊饒な感動とを、追求し、展開し、享受しつづけるだろう」<<
宮台とルーマン
 

第一章 空虚な時代を生きる

一 保守思想を考える
いったい誰が「セカチュー」を読んでいるのか?
いったい誰がブッシュを支持しているのか?
コミュニケーションのレイヤー(階層)が分離している。
姜尚中・宮台『挑発する知』
頭山満 玄洋社 民権運動の一翼
第一に民権 第二に亜細亜主義 第三に反政府
敬天愛人」 天を上にして 人(国家)を相対化する
主知主義(左)/主意主義(右)
アリストテレス、アクィナス/プラトンアウグスティヌス
理性の位置づけの違い
主意主義(右)=不条理や規定不能性をあらかじめ前提とする
右 本来は国家(人工物)よりパトリオティズム(自然)
宮台・仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー
いい(必要な)「再帰性」(あえてする)と駄目な「再帰性」(終わらない)
<世界>の根源的未規定性に開かれている「合理的態度」
「終わりなき再帰性」の泥沼はだめ「終わりある再帰性
<システム>「役割とマニュアル」が支配する、過剰流動的かつ入れ替え可能な人間関係
<生活世界>入れ替え不能な人間関係
>>このころの宮台のネオコン的思想<<
廣松渉シンポジウムでの荒岱介との論争
西部邁、落合仁司
「社会による拘束の事実性」「ライツトークの限界」
大庭健
「極右と極左の差異がわからない」
超越神=<世界>の外
「だからプレ・プラトンの思想者たちは「超越論的特異点」を認めない。認めると「依存」の心性が生まれるからです。<世界>の根源的未規定性を「超越論的特異点」に集中的に帰属させて清明なる<世界>に身を置くかわりに、カオティック(無秩序)に偏在する<世界>の根源的未規定性に身をさらし、みずからの力の源泉にする「自立」の心性が尊ばれたんです。」
宮台 祭り好きのトランス系
「僕は80年代なかばから、机上の研究生活に飽きてフィールドワークをはじめた。ヤクザからお巡りさんまでいろんな人と付きあい、何回か危ない橋を渡りながら思ったことは、<社会>のなかに身を置くような作法は自分にすこしも力を与えてくれないということでした。<世界>(の根源的未規定性)との接触なくして、自分はすこしも前に進めないという感覚。」
日本のアングラには「反体制」と「反近代」というふたつの柱があります。
江戸川乱歩夢野久作新青年」、泉鏡花、大正と昭和のモダニズム
=近代化のまぶしき光を希求しつつ、急速に失われゆく共同体の闇への執着とのあいだで引き裂かれる心性
・光と闇の対照が織りなす絵模様を前に、引き裂かれた心性が描かれます。共同体の子宮から引きはがされた嬰児が、代替的全体性を希求するかのごとし。だからモダニズムの時代はながつづきしません。近代化が進んで闇が消えれば、光と闇に引き裂かれるがゆえのモダニズムの心性も、必然的に消滅する道理。ここでのキーワードは<世界>ないし全体性です。
・12世紀の叙任権闘争から17世紀のウエストファリア条約にいたる「<社会>よりも大きなもの(宗教)の囲い込み」を前提として、できあがった近代社会。そこでは人間が<社会>の内側に囲い込まれます。だから、近代社会でのアノミーの埋めあわせが、<社会>の外側を希求させます。それが全体性や身体性です。
入れ替え不能性=「魂」
初期ギリシアへの羨望
近代人には、もう<世界>は見えません。
ロマン主義「全体性の希求という不可能性を擁護する立場」
北田世代「政治的なことや思想的なことを語るのは格好悪い」
 
二 アイロニーロマン主義、そして社会学
70年 ハーバーマスルーマン論争
二人ともわかった上でロールプレイとしての論争 パッケージに意味がある
ナチズム=素朴なロマン主義ニヒリズムの合体
>>加速主義、新反動主義も危険<<
ルーマンのいうことを真に受けて「じゃあ、何でもありか!」と消沈するのもバカですし、ハーバーマスのいうことを真に受けて「やっぱ、話せばわかるんだ!」と噴きあがるのもバカです。ハーバーマスルーマン論争から見えてくるのは、「これらのバカを同時に回避せよ」というメッセージです。それに気づいたのが、僕の思考のもうひとつの出発点です。
宮台に対する大塚の必死の説得工作
社会学における「非日常性」ウェーバーの「カリスマ」デュルケムの「集合的沸騰」
非日常の「混融」のあとの、日常への「着地」は、往々にして偶発的です。そこに着地するべき必然性はないんだと。
「法」は所詮誰かが作ったもの
みずからは、すこしも天皇を崇めない狡猾なる長州藩の連中が、「聖なる天皇」を国民に崇拝させることで、ガバナビリティーを高めようとしている
北一輝「国民の天皇
「玉(ぎょく)の取り合い」
「田吾作による天皇利用」の反復
天皇を標榜しても、共産党における宮本顕治のごとく、「草の根の天皇制」になってしまう。
僕の戦略は「右には右を、左には左を」です。
ロバート・K・マートン「準拠集団論」
ヒトラーにとって、所属集団は「現実のドイツ民族」、準拠集団は「理想のドイツ民族」です。その意味でヒトラーはロマンチックです。彼はナチの前身であるドイツ社会主義労働者党に入党して、何と一年余で党首にのぼりつめます。それは彼の演説がほかと違って、いつも「現実の」でなく「理想のドイツ民族」に言及するがゆえの「力」のせいなんですね。
政治すなわち集合的動員においては、「現実」ではなく「理想」に準拠するというロマンチシズムが不可欠です。
「目には目を、歯には歯を」です。「右には右を、左には左を、天皇には天皇を」です。自分を軽蔑してくる相手方には、自分も賢くなったうえで相手方と同じやり方で対抗すればいい。
でも、この(二・二六青年将校の)素朴ロマン派的な天皇イメージは、農村共同体的な母性幻想の投射にすぎず、「現実の天皇」によって裏切られます。そこに出てくるのが、みずから「理想の天皇」たらんとした出口王仁三郎大本教的な宗教性です。これをモデルにしたのが高橋和巳の『邪宗門』で、中学三年のときにこれを読んだことが、僕の未来を決定づけたんですね。
自覚的なロマン主義者の散華に、「全体性への自由」を見いだした
サイファ覚醒せよ』
>><社会>に内属すれば鬱になるのは当たり前<<
1930年代、保田與重郎横光利一
ブルセラ少女 → メンヘル系
ヘルムート・プレスナー(脱中心的位置性) → アイザイア・バーリン
トーマス・マン魔の山
ジートルンカ(人形劇作家)『電子頭脳おばあさん』
フリッツ・ラングオーストリア)『メトロポリス
サンダーバード』『ガタカ』『未来世紀ブラジル』『攻殻機動隊
結城座(操り人形劇団)
>>「遠くへ行きたい」のようなドキュメンタリー。山村。限界集落。地方の祭り。<<
プラトンと文字の普及が同時
それ以前は舞踊と朗読
プラトンを境に
内在の全体 philosophy/メタ万物学 metaphysics
ニーチェ古文献学者 プラトンを疑う
「力」<公助と自助>
ミメーシス(模倣感染)をもちいたコミュニケーション ガブリエル・タルド ルネ・ジラール
つまり、後期ハイデガーがナチを礼賛したか否かに関係なく、そもそも現代哲学は、フーコーを含めて右翼的なんですよ。
右翼-縦の力 左翼ー横の力
<世界>と<社会>が重なる原初的段階 ー 万物をコミュニケーション可能だと見なすアニミズム
「ここではないどこか」を指向せざるを得ない者=「超越系」
指向しなくてすむ者=「内在系」
★僕は「ここではないどこか」を指向せざるを得ない者を「超越系」、指向しなくてもすむ者を「内在系」と呼びます。
麻布学園 氷上信廣先生 倫理・社会
フロム『自由からの逃走』
唐十郎状況劇場若松プロの映画「子宮回帰願望」
★繰り返すと「内在系」とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲良く暮らせれば、幸せになれる者のこと。<社会>内のポジショニングいかんで自足できる存在です。「超越系」とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせても、そうした自分にどんな意味があるのかに煩悶する者のこと。<社会>内のポジショニングには自足できない存在です。
宗教「利益祈願型」「意味追求型」
全体主義とは、単に個人を越えた集団というより、前述した意味での全体性に関心をよせるものです。ナチの源には、崇高なる精神共同体との一体化こそ、尊厳(自己価値)だと見なすドイツ国法学の流れがあり、背後にはドイツ・ロマン主義の流れがあります。
英米仏的な近代社会の理念型では、<社会>での試行錯誤によってつちかった自己信頼こそが尊厳(自己価値)です。自己決定=自己責任的な主体概念は、こうした理念系を前提とします。この理念型によれば、全体性への志向=超越志向は、主体の未成熟を意味します。まさに「子宮回帰願望」は成熟せざる幼児なるがゆえにこそなせるワザ、というわけです。
★「内在系」の実存が健全で、「超越系」の実存は、今日的にいえば、「発達障害」的な<社会>化不全。
そうした考えから、オウムへの処方箋として「終わりなき日常を生きよ」というメッセージが生まれます。でもその後の長期取材で、高度な流動性による入れ替え可能化と"健全な"内在志向とは、両立しないと感じるようになります。「超越系=オウム的な生き方」を否定、「内在系=ブルセラ的な生き方」を肯定するのは、流動性の高い社会では、無理です。
NHKドキュメンタリー『渋谷・音楽・世紀末』
でも、デートクラブは潰され、クラブは潰されなかったけど別の場所になりました。流動性の高い「第四空間」が、<生活世界>と機能的に等価な感情的安全調達機能を果たすというのは、幻想に終わりました。それだけじゃなく、一貫性にこだわらないモザイク状の実存を生きる存在として持ちあげていた女子高生たちが、のちに軒並みメンヘラーになりました。
僕の認識に甘さ。実存上の転向はあり得ないけど、認識上の転向をしました。
見田宗介 メキシコ留学 →コミューン主義者として「真木悠介
「近代の超克」座談会
アジア主義とは、「敗北を抱きしめ」た者が「先に行った」側の合理主義を批判するための方法論=中身はない
福田和也のような輩 西部邁江藤淳の死が痛かった。
 

第二章 文化を記述する方法

ウェーバーの価値自由
あらゆる価値から自由 真の中立などあり得ない。
安易な思考への牽制 ある種の断念の表明
認識論的なアイロニー どこかで線を引く
認識論的な本質主義アナーキズムは、容易にロマン主義的な非合理へと巻き込まれてしまう
非合理な大文字の価値への短絡を防ぐ
ウィトゲンシュタイン「語り得ないものについては沈黙せねばならない」
カルナップのハイデガー批判 カルナップこそ20世紀初のソーカル
廣松渉 共同主観性論と物象化論は、「所与として意識されるとはどういうことか」というところからはじめて、ついには国家の成り立ちまで説明してしまうという、壮大なるグランドセオリー。
上野 廣松 徹底した非還元主義
宮台 中高六年間 アングラ全盛期
ルカーチ 物象化と革命的主体形成の関係
下部構造決定論=生産諸関係が意識諸形態を規定する
人びとが「自分は自由に表現や表出をなし得ている」と感じていても、「表現や表出に、社会ごと時代ごとの明確な型が刻印される」のはなぜか?
「なぜ、自分は共産党やそのフロントの民青が大嫌いで、新左翼が好きか」?
→「いい社会になれば、人びとは幸せになる、だからいい社会をつくろう」というビジョンには反吐が出る。
これがアングラ文化とマルクス主義との乖離
一部の人があえて戦争をしたがる動機
松田政男『薔薇と無名者』「四トロ」(第四トロツキスト同盟)
廣松 松田 革命家に家族はいらない パイプカット
廣松 居留守 権力の予期理論 500ページ
グラムシ的 文化的ヘゲモニー論を否定
ルーマン『情熱としての愛』
「けっして時代の断絶は存在しない。かならず連続的変化をもたらすメカニズムがある」
意味論とは、概念や命題が互いに関係し合った集合体です。たとえば、教員という概念は、生徒、教室、授業、学校、職員室、校則、集団行動などの概念セットや、「えこひいきをしてはいけない」「生徒の心を理解しなければいけない」といった命題セットとのかかわりで、はじめて時代固有・社会固有の意味を持ちます。しかも、この意味論は変わっていきます。
サブカルチャー神話解体』では「資本の論理」という言葉を使わなかった。
神経システムは電気的に閉じています。富士山が見えるということは、神経システムが富士山と電気的に交信することを意味しません。富士山の視覚映像は、インターフェイスを介して、神経システムがつくり出した「内部イメージ」の、結果です。
見田宗介現代社会の心情と論理』歌謡曲分析
「ソシオロゴス」
ブント系「理戦」「情況」
永田洋子『十六の墓標』
笠井潔東浩紀のすれ違い
塩見孝也「自分たちを規定する情動」に敏感になろう
「都市と農村」「上層と下層」「強者と弱者」→「全体性と部分」というメタコード
→「痛みを通じた社会把握」「痛みを通じた全体性把握」
宮台『絶望 断念 福音 映画』
人が「究極の意味」を志向する、すなわち全体性に帰依したがるのはなぜか?「子宮回帰願望」「人類補完計画
フロイト派 母子一体的な全能感「エロス的段階」→父親的なくさび→断念と他者性の受け入れ「社会的段階」→近代社会が要請する「成熟した存在」
エディプス的な機能不全 ある種の幼児性
宮台 13年間 性的放蕩 「政から性へ」 ドイツでは「民族」 フランスでは「女」
政と性は近縁
ウェーバーの脱呪術化論こそ、「全体性への希求の断念」に言及する最初の議論です
フランクフルター第四世代 ノルベルト・ボルツ
脱呪術化へと向けたオブセッション(強迫性)こそが、あらたなる呪術 >>資本主義リアリズム<<
言い換えると、脱呪術化は、かならずしも全体性から距離を取ることにならないどころか、脱呪術化へのオブッセシブな志向―オブセッシブなアイロニズム―自体が、あらゆるものが相対化可能であるなかで、唯一、相対化できない「端的な前提」として機能することがあり得る。
全体性から距離を取ろうとする営み。全体性を部分化しようとする営み。すなわちアイロニカルな営み。脱呪術化の観念に取りつかれることで、人は知らず知らず別種の全体性へとつれていかれる。こうしたパラドックスに注目するのが、第四世代の「脱・脱呪術化」論です。
=「超越系」を上手に善導しようという議論
クレヨンしんちゃん モーレツ!大人帝国の逆襲』
「匂いのある街」
鈴木清順『殺しの烙印』60年代グッズのオンパレード
「誰もが『同じ時代』『同じ社会』を生きている」と確信を持てた時代、社会成員が互いに共通前提を当てにできた時代、この万人を浸す共通前提こそ、「匂い」の正体です。「匂い」をさらにパラフレーズすると、「共有を当てにできる感覚地理」。ドイツ語でいうとレーベンスヴェルト(生活世界)。
<システム>とは「役割とマニュアル」が支配的な領域で、人も物も入れ替え可能な匿名世界。これに対し、<生活世界>とは「善意と自発性」が支配的な領域で、人も物も入れ替え不能な記名世界です。
近代過渡期には、人びとは<システム>に侵食されない<生活世界>の存在を確信できました。<生活世界>の幸いのために<システム>を是々非々で利用するのだと思えました。それが近代化――<システム>の導入――を正当化してくれました。
ポストモダン=<生活世界>の空洞化。
ホームベースがない。共有感覚を当てにできない。
多くの人が過剰流動性に耐えられない 「固有名を持った自分が、入れ替え可能な存在にすぎないこと」に耐えられない。「入れ替え可能化という疎外」 埋めあわせに全体性を求める
旧枢軸国は、急速な産業化によってローカルな共同体を空洞化させ、浮遊した身体を都市労働者として使いつつ、彼らの浮遊する実存を「崇高なる精神共同体=国家」への糾合、急速な産業化へと邁進させます。<生活世界>の空洞化によって「入れ替え可能という疎外」を経験した者を、ロマン主義的な「理想の民族」の全体性へと糾合することで生じるマッチポンプ的な循環です。全体主義国家が個人を使い捨てにする現実を思えば逆説的ですが。
ヘタレ左翼が「ファンタグラス」(ドラえもん)をかけたがる。
ネオコンニヒリズム虚無主義)はポストモダニストシニシズム冷笑主義)と同じ
カルチュラル・スタディーズ 
宇宙戦艦ヤマト』=「サブライム」=非日常的な大世界への耽溺
→『うる星やつら』『めぞん一刻』『Dr.スランプ』『パタリロ』=「無害な共同性」=日常的な小世界の戯れ
→「陳腐な終末世界」大友克洋押井守、『気分はもう戦争矢作俊彦
→『新世紀エヴァンゲリオンセカイ系
80年代から停滞する歴史
サブライム」への<反発>が「無害な共同性」を生み、「無害な共同性」の<短絡>が「エロ&関係のインフレ」を生み、同じ「無害な共同性」への<言い訳>が「陳腐な終末世界」を生み、そこには「サブライム」モチーフが<借用>される。じつは時代を問わず、意味論の動態には、<反発><短絡><言い訳><借用>といった転轍が付き物なのです。(ルーマン的分析)
『情熱としての愛』愛の意味論の変遷
システムのホメオスタシス(恒常性の維持)
60→70→80→90
「ベタからネタへ」「ネタからベタへ」
植草甚一「宝島」日本でのカタログの嚆矢
カタログからマニュアルへ POPEYE、HOTDOG PRESS
「反省」は団塊世代的=60年代的なもの。「反省の否定」は原新人類的=70年代的なもの。「反省の否定の忘却」は後期新人類的=80年代的なもの。「反省の否定」から「反省の否定の忘却」へ、すなわち「再帰化」から「短絡化」への動きを象徴するのが、「カタログからマニュアルへ」という流れです。
全てが、ネタがベタになる
「うしろ指さされ隊」→「うしろ髪ひかれ隊
「エリート主義的『B級批評』」から「誰でもわかる『楽屋オチ』」へ
細野晴臣的なものから秋元康的なものへ」
60年代への反動としての70、80年代
北田「ある人びとは、プラグマティックなネオコン的合理主義を受け入れて「終わりなき日常」の操舵に勤しみ、ある人びとはロマン主義的なかたちで性急に全体性を回復しようとする。全体性がないことへの居直りと、全体性への短絡とでもいえるでしょうか。社会科学の言説もまた、その両極に引き裂かれつつあるように思います」
僕の言い方では、我々のコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的な前提の総体が社会で、それを考察するのが社会学
 
第三章 社会学はどこへ向かっていくのか
東浩紀動物化するポストモダン』について
今日の過剰流動的社会をウマく生きようとすると、「人間」であり続けられなくなる
非流動的な<生活世界>では人間が要求されていた。<システム>が全域を覆ったならば、もはや「人間」はいりません。
<システム>では「キャラクター」が要求される。
「過剰流動的社会では解離こそが適応になる」
ベンヤミン
アウラが存在する時代」「アウラが喪失する時代」「アウラ喪失が忘却される時代」
アウラ→全体性とも置き換えられる
「埋め合せ理論」=近代がもたらす「欠落体験」が「埋め合せ」のための各種表象(人間・全体性・愛…)を生み出す。
疎外論人間性アウラの喪失を嘆く言説
90年代以降 職場の同僚とのあいだに、「全面的」ではなく「部分的」「局所的」な関係を求める指向。状況に応じて他者とのかかわりのほうのスイッチを切り替える指向性。
空気を読む社会性 首尾よく他者とのコミュニケーションを継続していくという意味での「社会性」=つながりの社会性
解離化とその裏をなす「ロマン主義
「人間か動物か」ではなく、「人間化と動物化
確認すると、アウラも「埋め合せ理論」的なもので、人間化とは、アウラや全体性にかかわる「喪失の時代」――かつてあったとされたアウラや全体性の喪失体験を嘆いたり喜んだりする時代――のこと。動物化とは、「喪失の忘却の時代」――アウラや全体性の概念自体が消えるので喪失体験が存在しない時代――のこと。
ロマン派とは「可能な現実」ではなく「不可能な理想」に準拠する志向。
「不可能な理想」=「全体性」との接触
内部から沸きあがる不合理な力=ミメーシスを引き起こす力=アウラ
だから、批判理論は「全体性を断念せよ」という素朴な物言いでは満足しません。全体性を断念させるとしても、(遅れた近代ゆえの)不全が生み出す勢いあまった埋め合せの志向を、どこに着地させるのかに腐心します。そこで美学が持ち出されたり(第一世代)、理想的発話状況を検討するコミュニケーション理論が持ち出される(第二世代)
>>やっぱり『祭り』の復活が現実的かも<<
再帰性=「ベタはあり得ない」「本物、オリジナルはない」
これまた埋め合せ理論的です。伝統主義が空洞化したから再帰的伝統主義が生じる。共同性が空洞化したから共同体主義が生じる。全体性が空洞化したから全体主義が生じる。どれも空洞化する前は、意識するまでもなく全志向に、伝統や共同性や全体性が刻印されていた。
正確には、空洞化の欠落体験を埋め合わせる機能を持つものならば、美でも教養でも酩酊でも死でも何でもいいという理論になります。人文科学自身がそのように宣言することで、人文科学にかかわろうとする動機(を支えていた土台)が、社会からますます剥落していきます(笑)。
2ちゃんねるのコミュニケーション空間というのは、基本的にすべてをネタ化する方法論を内包したもの。
「ネタにマジレス、カコワルイ」
シニシズムロマン主義は裏腹、セット=ネトウヨ
埋め合せへのオブセッション→不可能な主観的理想に準拠しようとするロマン主義的感受性
→極まると、全体主義、ナチズム










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P192まで
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北田暁大 『嗤う日本の「ナショナリズム」』 (NHKブックス) NHK出版

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

目次
序章 『電車男』と憂国の徒――「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」
 アイロニーのコミュニケーション空間
 感動と皮肉の共同体
 『GO』から『凶気の桜』へ
 二つのアンチノミー
 本書の課題

第一章 ゾンビたちの連合赤軍――総括と「六〇年代的なるもの」
 1 「総括」とは何だったのか
  集団リンチと敗北死
  暴走する反省システム
 2 方法としての反省
  反省と近代
  自己否定の論理
  立ち位置をめぐる左翼のジレンマ
  高橋和巳の自己否定論
 3 反省の極限へ――ゾンビとしての兵士たち
  「自己批判」と「総括」のあいだ
  自己否定の極限にゾンビが生まれる
  共産主義化とは何か①――「自己否定」の思想化
  人は形式主義に従属する
  共産主義化とは何か②――死とゾンビ的身体
 4 「六〇年代的なるもの」の終焉
  自己否定の「脱構築」としてのウーマン・リブ
  女性解放運動の二つの道

第二章 コピーライターの思想とメタ広告――消費社会的アイロニズム
 1 抵抗としての無反省――糸井重里の立ち位置
  「総括」のあとに
  糸井重里の屈曲
  「ウンドー力」と「コピーライター」のあいだで
  「言葉の自律性」と「パロディ」
 2 「メディア論」の萌芽――伝達様式への拘泥
  赤軍と『あしたのジョー
  マンガ論争と「左翼」的感性
  メディア論とマス・コミュニケーション論の代理戦争
  ピンク・レディーをめぐって
  記号論的感性――津村と糸井の共通認識
 3 消費社会的アイロニズムの展開――メタ広告の隆盛
  「ヘンタイよいこ新聞」の言語空間
  アイロニカルな共同体の誕生
  西武‐PARCOの戦略
  メタ広告の背景
  アイロニーの倫理と資本主義の精神
  多元主義の左翼的肯定――アイロニズムの定義
 4 新人類化とオタク化――消費社会的アイロニズムの転態
  パロディとしての類型化
  さらなる共同体主義

第三章 パロディの終焉と純粋テレビ――消費社会的シニシズム
 1 抵抗としての無反省――田中康夫のパフォーマンス
  糸井重里田中康夫の差
  津村喬の『なんクリ』評価
  NOTESはどのように捉えられたか
  NOTESの戦略
  抵抗の対象そのものをやりすごす
  『なんクリ』のポジション
 2 無反省という反省――川崎徹と八〇年代
  アイロニズムからシニシズム
  ユーモアから(ア)イロニーへ
  『ビックリハウス』終焉の意味
  『元気が出るテレビ』のメディア史的意義
  純粋テレビに外部は存在しない
  つねにアイロニカルであれ!
 3 消費社会のゾンビたち――「抵抗としての無反省」からの離床
  ベタの回帰としての『サラダ記念日』
  アメリカ的「動物」と日本的「スノップ」
  二種類のゾンビの違い
  島田晴彦の逡巡

第四章 ポスト八〇年代のゾンビたち――ロマン主義シニシズム
 1 シニシズムの変容とナンシー関
  ナンシーのためらい
  純粋テレビの弛緩
  感動の全体主義
  受け手=視聴者共同体への批判
  純粋テレビ批判という困難に挑む
  八〇年代とポスト八〇年代のあいだで
  反時代的思想家としてのナンシー
 2 繋がりの社会性――2ちゃんねるにみるシニシズムロマン主義
  ギョーカイ批判と戦後民主主義批判が結びつく
  純粋テレビと2ちゃんねるの共通性
  「巨大な内輪空間」の誕生
  テレビと馴れ合いつつ、テレビを嗤う感性
  内輪指向とアイロニズムの幸福な結婚
  コミュニケーションの構造変容
  アイロニズムの極北でロマン主義が登場する
  小林よしのりの軌跡――市民主義批判
  形式主義者たちのロマン主義
 3 シニシストの実存主義
  「思想なき思想」の再現前
  レフェリーなきアイロニー・ゲーム
  世界の中心で「自分萌え」を叫ぶ
  人間になりたいゾンビたち
  ナンシーのアンビバレッジ

終章 スノッブの帝国――総括と補遺
 議論の「総括」
 スノップの帝国・日本?
 純化するスノビズム
 「あえて」の倫理
 ローティ的アイロニズムの背景にあるもの
 共同幻想への信頼を調達せよ

注釈
あとがき
 

序章 『電車男』と憂国の徒――「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」

・<私>の愛国心 セカイ系
>>〇〇世代 特徴 割合<<
・ポスト団塊ジュニア世代 
・つまり、「アイロニー(嗤い)と感動指向の共存」(『電車男』)、「世界指向と実存主義の共存」(窪塚的なもの)というアンチノミーがいかにして生成したのか、その両者はどのような関係を持ち、いかなる政治的状況を作り出しているのか、という問題
・ギデンズ「再帰的近代」
 

第一章 ゾンビたちの連合赤軍――総括と「六〇年代的なるもの」

・総括、自己否定 高橋和巳「それは幻想(思い上がり)だ」
森恒夫自己批判
・肯定的な思想の指導者としてではなく、誰しも越えることのできない否定の地平を永久に生きる「ゾンビ」として、森は存在することになったのだ。
 

第二章 コピーライターの思想とメタ広告――消費社会的アイロニズム

・60年代/80年代 70年代が過渡期
糸井重里論 南伸坊 糸井はあの頃も今も何も変わっていない。
・「抵抗としての無反省」
津村喬 稲葉三千男(マスコミ論、メディア論)のマンガ、ピンクレディー論争
・『ビックリハウス』82年5月5日「ヘンタイよいこ白昼堂々秘密の大集会」YMORCサクセション矢野顕子
アイロニーを前面化する『ビックリハウス』が、60年代カウンターカルチャーと密接な関係を持ったアングラ・カルチャー(天井桟敷、実験映画)と、資本(PARCO)とのなかば偶然的な「結婚」のなかから立ち上がってきたことの意味を過小評価してはならない。
・アイロニカルな内輪空間
・西武-PARCO 堤清二、増田通二 渋谷「消費のテーマパーク」
・「超越者」マルクス主義→資本
堤清二『消費社会批判』
アイロニー(皮肉)の正体
・「自分以外の仮想の人物に視点を移し、その人物に「話し手」の役割を荷わせて発話行為を遂行する」「仮人称発話」
・新人類化(過剰なメタ指向)とオタク化(共同体主義的指向)
 

第三章 パロディの終焉と純粋テレビ――消費社会的シニシズム

・糸井=消費社会の送り手 田中=消費社会の受け手
>>なんクリ パロディ カタログ小説 注釈 全部ググってください<<
・消費社会の外部の不在 「主体性」から降りる
・糸井「抵抗としての無反省」→田中「抵抗としての無反省」
斎藤美奈子「デビュー当時の田中は無意味なほどに「朝日岩波的なるもの」への反発をあらわにしていた」
・「心情的革新派への激しい嫌悪」「イデオロギー的なものへの反発」
・「主体性」をひたすらやりすごす。抵抗の対象の存在そのものを否認する。
・ギョーカイ。「消費社会的なシニシズム
・浅田 広告「スキゾフレニックな差異化はいつのまにか差異化のパラノイアに変わる」
・浅田の糸井評「典型的なスキゾ人間」でありながら、「パラノ的なセビロたちをなだめすかし」、そのうえで「スキゾ・キッズたちへのメッセージを送りつづけている」
・川崎徹評「笑いがユーモラスなものからアイロニカルなものに転ずる境目のあたりでビョーキが発生するんだと思う」
・「永遠のイタチごっこ」「差異化のパラノイア
・テレビ=「共同体」「内輪」
・「元気が出るテレビ」の主役は、「テレビ」
・テレビの持つファシズム性、流行り方、流行らせ方
★アイロニカルであること(嗤いの感性を持つこと)が日常をやりすごす(テレビ番組を楽しむ)ための要件―スキゾであることがパラノ的に要請される―となったということである。
アイロニーシニシズム=上に立つ、下に見る
・「8時だよ!全員集合」→「オレたちひょうきん族」伝統的な演芸の方法論を脱臼させる。
・80年代のフジテレビ
・消費社会的アイロニズム→消費社会的シニシズム
コジェーヴ アメリカ的「動物」と日本的「スノッブ
★浅田「モダンの原理というのは、とにかく自分で自分を乗り越えながら進んでいくということだから、古い自分はどんどん殺して、自己を更新していかなければならない。だから、神は死んだとか、あるいは〇〇主義は終わった、✕✕主義も終わったとかいうことでどんどん動いていく。ところがポストモダンになると、死ぬこと自体も死ぬ、あるいは終わること自体も終わる。したがって死んでいるとも生きているともつかないゾンビのようなものたちが情報バンクの中に宙吊りになっており、それが適宜呼び出されてきては組み替えられてエンドレス・テープのように流れるという状況になるわけですね。これがポストモダンであるとしてみれば、これはまさに「最後の人間」にふさわしいニヒリズムである。」
・高度資本主義を徘徊する消費社会的ゾンビ
・郊外、純化された近代家族、ニュータウンの夢
 

第四章 ポスト八〇年代のゾンビたち――ロマン主義シニシズム

ナンシー関の糸井評にまとわる感傷
・「80年代を捨てきれない大人になったヘンタイよいこ」「その「恩義」は「おもしろくない」ということを差しおいてまで優先させるほどのものなのか」
大月隆寛満州としてのギョーカイ」
・「「会社」に象徴される「フツーの暮らし」では実現できないあらゆる「夢」がかなえられる王道楽土」
・90年代 「進め電波少年」「ウッチャンナンチャンウリナリ
・1日15時間はテレビを観るという彼女の民俗学的実践。
アイロニズム的「ユーモア」→シニシズム的「開き直り」
・大月、浅羽『別冊宝島 80年代の正体』
・90年 湾岸戦争 素朴な左旋回
・大月の<ギョーカイ>論
>><ギョーカイ>人に嫉妬、羨望するが故に憎悪する会社員。自分はこんなに我慢しているのに。水泳のターン論。自分の道を(無理に)肯定するために、逆を強く蹴る<<
2ちゃんねる=マスコミへの過剰な愛
・斜(はす)に構えるのがデフォルト
>>メディア・リテラシーはないが、テレビ視聴リテラシーだけは異常に発達した集団<<
・高度な<裏>リテラシーの「大衆化」
・少なくとも80年代以前においては少数のシニカルなセンスエリートたちの専有物(消費社会的アイロニズム)であったわけだが、80年代以降、テレビというきわめつきのマスな媒体を享受するための凡庸なアイテム(消費社会的シニシズム)となった。
・テレビのニュースとワイドショー 建前と実態のズレ
・テレビと馴れ合いつつ、テレビを嗤う感性
・マスコミを愛し嘲笑する「2ちゃんねらー」的心性
>>テレビがあって初めてインターネットが存在する<<
・テレビ(や新聞)はコミュニケーションのための素材
・接続合理性(場の空気を乱すことなくコミュニケーションを続けていく技量)が極限まで肥大化した社会空間
・<秩序>の社会性(一応よいものを目指す)→<繋がり>の社会性
・90年代なかば以降、若者たちは、大文字の他者が供給する価値体系へのコミットを弱め、自らと非常に近い位置にある友人との<繋がり>を重視するようになる。
・携帯電話の自己目的的な使用
・そこでは、大文字の他者が制御する<秩序>からはみ出すことよりは、内輪での<繋がり>をしくじることのほうが回避されるべき事態となる。
・若者たちの人間関係は、たんに希薄化したのではなく、複数の蛸壺の宇宙のなかで<繋がり>そのものを希求するものへと変移しつつある。
>>ネタがベタになる。アイロニカルな没入。<<
・上野陽子「新しい歴史教科書をつくる会」地方支部の参加者たちの反朝日の雰囲気について「『朝日』を批判すれば、隣に座っている年齢も社会的立場も異なる人とも、とりあえず話のキッカケがつかめる、そんな風に感じ取れた」
・内輪空間の<繋がり>のためのコミュニケーションツール
・実際は、「嫌韓」「反サヨ」といった「本音」なるものも、内輪コミュニケーションのなかで本音として構築された記号的対象と考えるべきである(その記号的融通性ゆえにいっそう手に負えないともいえるのだが)。
・リアリストというよりイデアリスト
・「かれらはジャーナリスト以上にジャーナリズムの理念を信じているようにもみえる。だからこそ、かれらは時に信じがたいほどの正義感ぶりを発揮するし、アイロニーとは程遠い浪花節的な物語(『電車男』)に涙したりもするのだ。」
・2003年 平和記念公園 折り鶴放火事件 14万羽プロジェクト
アイロニズムが極点まで純化されアイロニズム自身を摩滅させるとき、対極にあったはずのナイーブなまでのロマン主義が回帰する。
・90年代のテレビ「嗤い」→「感動」
小林よしのり 市民運動へのコミット→「反市民主義」
・『新ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論』
・小林「日本では本来、どこまでいっても生活に追われる庶民のはずが「政治のことを考え始めた」だけでニセの市民と化して、しょせん薄っぺらい政治的発言をし始めるのだ。わしはこのようなやつのことを「市民主義者」もしくは「市民モドキ」あるいは「市民ごっこ隊」と名付ける」
・「支える会」に対して向けられた個別的な批判は、かくして、反市民主義という形式主義的・否定神学的な思想へと転化することとなる。「立場をとること」を拒絶する立場、イデオロギー(思想)と心中することを拒絶する思想としての反市民主義の誕生だ。
二階堂豹介「何かを信じるという価値観を2ちゃんねるでは攻撃していますが、2ちゃんねらーは何かを信じないという価値観を共有していることに気づいていないのです」
・「ロマン主義シニシズム
・ロマン的対象は、一見個々の行為者に行為の理由を与えているようにみえるが、じつは、「私の行為が他者によって接続され(=他者に承認され)てほしい」という実存的な欲求によって事後的に仮構された「理由の備給点」にすぎないのである。
・シニシストの実存主義
★嗤う日本の「ナショナリズム」とは、実存に「ナショナリズム」を下属させる、ナショナリズムからアウラを奪う不遜な実存主義だったのである。
>>ナショナリズムが問題なのではない、本物のナショナリストがいないことが問題なのだ。アベやアソウに日の丸を振っているアイツらが、実は全員愛国者ではなく、売国奴だという「トリック」<<
・人間になりたいゾンビたち
・消費社会的アイロニズムロマン主義シニシズム へ
・2002年6月ナンシー関急死
 
終章 スノッブの帝国――総括と補遺
純化された反省=総括 → 「抵抗としての無反省」(消費社会的アイロニズム) → (総括的なものへの距離意識を欠落させた)「無反省」(消費社会的シニシズム) → シニカルな実存主義ロマン主義シニシズム
・「アイロニカルではなく主体的であれ」といっても解決にならない。
通奏低音としてのスノッブ形式主義
・宮台が転向したのではなく社会が変化した
リチャード・ローティ アイロニカル・リベラリズム 「ポストモダンブルジョアリベラリズム
・日本の共同幻想 土台は何か? どこに置くか?
>>「ナイーブ」を乗り越える<<
 
あとがき
・「現視研」「SF研」「初期『宝島』」的リアリティ
2004年 北田33歳
5/29読了