マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】萱野稔人『国家とはなにか』(以文社 2005年)

国家は実体でもなければ関係でもない。国家とはひとつの運動であり、暴力にかかわる運動である。

第一章 国家の概念規定
第二章 暴力の組織化
第三章 富の我有化と暴力
第四章 方法的考察
第五章 主権の成立
第六章 国民国家の形成とナショナリズム
第七章 国家と資本主義


 

第一章 国家の概念規定

・国家に共通の目的はない。千差万別。
・目的でなく手段で定義。
・物理的暴力の独占。
・法は暴力の後盾が不可欠。
・国家は暴力をめぐるヘゲモニー争いの勝者として位置づけられる。
・暴力を正当化する契機は「違法な暴力を取り締まる」という点。
>>道徳とは悪を決めること<<
・こうして合法化された暴力は、不正な暴力に立ち向かう対抗的な暴力としてみずからを正当化する。→「反暴力的な」暴力として定立される。
・予防的対抗暴力
和辻哲郎、「神」に代わって人間の秩序を強制する、善を強制する、設備としての国家。
・要するに、国家がまずあるのではなく、暴力の行使が国家に先行するのだ。国家が暴力を行使するのではなく、暴力が特定のあり方において行使されることの結果として国家をとらえなくてはならないのだ。
・国家を思考することは、暴力が組織化され集団的に行使されるメカニズムを考察することにほかならない。
・暴力の歴史。
 

第二章 暴力の組織化

・つまり国家をふくめた政治団体が物理的暴力を手段としてもちいるのは、ある地域における秩序や支配を暴力によって保証するためである。
・「支配」
とは、或る内容の命令を下した場合、特定の人の服従が得られる可能性を指す。
・暴力は命令にとってもっとも確実で普遍的な手段となりうる。
・社会契約説=秩序を確立し維持するために、国家は設立されるのだ。
カール・シュミット、政治的なものに固有の究極の区分は「敵/友」。
フーコー、権力は人間の行為にはたらきかけるのに対し、暴力は人間の身体に直接はたらきかける。
・脅しの便所掃除の例え
・秩序のためには暴力(violence)、支配のためには権力(power)、それに付随する暴力。
アーレント、暴力と権力、一方が絶対的に支配するところでは他方は不在である。
アーレントの定義は弱い。
ホッブスの国家理論、自然状態におかれた人びとが、その自然状態がもたらす「各人の各人に対する戦争」を終わらせるために、たがいに契約(信約)をむすびあい、かれらすべてを強制する共通権力をうちたてることによって国家が設立される。
・すなわち、「言うことをきくから暴力はやめてくれ」という「同意」である。その「同意」が暴力を権力に変える。
・暴力による脅しとそれに対する服従の同意こそが国家の存立基盤になっている。
アーレント、暴力はあまりに自明のため無視されてきた。
>>暴力によって、希望によって(マインドコントロール)<<
ホッブス、人々の力の合成、これが最大の力。
・国家は、暴力をつうじた権力の実践と、権力をつうじた暴力の実践の複合体として存在するのだ。
・暴力の加工。
・規律や同胞愛、スピノザ、(類似をつうじた愛情の模倣)によって人々は互いに同一化(アイデンティファイ)しあい、集団的な同一性を獲得していく。
>>弁証法とは「まなざし」のこと<<
・このことは、人種や民族といったものが集団的な暴力行使の単位となっていることを考えるとき、きわめて重要となる。人種や民族とは、外見やふるまいの類似の意識をつうじて暴力を組織化するひとつの原理にほかならない。
渡辺慧「認識とパタン」アヒルと白鳥。類というものは、まことに徹底した唯名論
スピノザ、然し自然は民族を創らずただ個々の人間を創るのみであり、個々の人間が言語、法律並びに風習の相違に依って始めて民族に区別されるのである。
スピノザが「エチカ」第三部で理論化しているのは、人種や民族をなりたたせる想像的なものの力学にほかならない。その力学をつうじて、人びとは互いに同一化しあい、集団化し、かれらの相互関係は情動的に編成されていく。
ベンヤミン、神的暴力、国家の廃止。アポリア=行き止まり。
・権力をつうじた暴力の加工は、社会におけるファンダメンタルなはたらきを担っている。国家が出現するのは、そのはたらきをつうじてだ。
 

第三章 富の我有化と暴力

スピノザ、敵/友の区別はけっして基底的な原理ではない。みずからが有益であると判断するものをあらゆる手段で獲得しようとする運動が、敵と友の区別を生じさせる。敵/友の区別は、その運動からのひとつの派生物にすぎない。
・つまり、有益であると判断されるものを自分のものとすることが、敵と友の区別を生じさせ、国家を出現させるのである。
・有益であると判断されるものとは、いわゆる富のことである。つまり、それは、欲望の対象となるあらゆる有形的なモノをさす。
・富を自分の手に入れようとするときにこそ、暴力は自律的な手段になる。
・富を生み出すのではなく、富を奪う。
・暴力をどのように、強化・蓄積するか?
・ここには、富の我有化と暴力の組織化との循環運動があるだろう。つまり、暴力によって富を我有化し、そしてその我有化した富を利用しながら暴力を蓄積するという循環運動である。その循環運動をつうじて国家は出現する。国家とは、富を我有化するために、そして我有化した富をつかって、暴力を組織化する運動体にほかならない。
・住民から租税というかたちで富をうばい、その富を暴力の組織化と蓄積のためにもちいるという国家の原型がここから生まれてくる。
・税の徴収がなりたつためには、税を徴収する側にすでに暴力の優位性がなくてはならない。
・要するに、税の徴収といっても、実際には、より強い暴力を組織化することに成功したエージェントが、その暴力を背景に人びとから富を収奪しているだけなのである。
ヴィリリオ、戦争機械の高価で永続的な改善、武器と要塞化のシステムの洗練、遥か遠い場所への遠征の準備。この半植民地的なエコノミー、軍事的な冥加金の強要が、近代の大国家の構成的な基礎をなすことがわかる。
・国家が住民たちに「貢物と租税の支払い」とひきかえに「軍事的な保護」をあたえるのは、けっしてかれらの安全を守るためではない。国家が暴力を蓄積することでまもろうとするのは、住民の安全ではなく、みずからの保全である。
・社会契約論=国家は住民がみずからの安全のために協力して設立した。
ホッブス、自然状態→共通権力=共通の目的、合意と協力。
・人びとのあいだで信約が有効なものとなるためには、かれらを超えた力がかれらにその信約の履行を強制するものでなくてはならない。→契約論のアポリア
・獲得による国家、設立による国家論はアポリアにぶつかる。
ホッブスを引き継いだスピノザ
>>社会と世界は両立しない<<
>>世界はセクシーなA子、社会は家庭的なB子<< >>ワイルドなA男、真面目なB男<<
・ではなぜ、「設立による国家」の図式はこれほどまでに根強いのか?→現在の国民国家のあり方があまりにも自明視されているから。
・国家に税を支払うのはいやだが、どちらにせよ自分自身であらゆる暴力から身を守るのでなければ、なんらかの暴力のもとで支配されながら保護されるしかないという観念(諦念)。
・富の収奪をめざす他の暴力をとりのぞく。
・所有権はつねに「国家以外のエージェントが住民の富を奪うことはできない」というかたちで設定される。
・諸個人の所有する富が最初にあって、それが徴収されるのではなく、まず徴収という出来事があってそれが所有の観念を生じさせる。スピノザがいうように、国家以前には、けっして所有の観念はない。
・自然には、とくにこの人間の所有物であって、ある人間の所有物でないと言いうるようなものは何も見いだせられない。
・所有とは、たんなる物理的な占有とは別のものだ。モノが物理的に人びとの手元にあるというだけでは所有は成立しない。それが成立するためには、国家による我有化がいったんは介在しなくてはならない。富を徴収する暴力を背景にしてはじめて、特定のモノが特定の個人に帰属するという事態が確立されるのである。
・徴収が所有に先立つという認識は重要である。
・ロック「所有は労働によってもたらされる。それ故、人々が国家として結合し、政府のもとに服する大きなまた主たる目的は、その所有の維持にある」
・所有の成立→そのつど暴力に訴える自然状態
・だから、所有の成立とは、暴力の実践が、支配の関係へと構造化されること。
・「私有制とは、国家による公的所有制を前提にする」ドゥルーズ=ガタリ
・それをヘーゲルは承認の関係の成立としてとらえた。
ヘーゲルは「精神現象学」「B.自己意識」の章で承認をめぐる争いについて考察している。それによれば、人びとは互いにおなじ物を欲望し、それを手に入れようとすることで、暴力による争いに入る。その争いは「生死を賭けたたたかい」へとエスカレートするだろう。
・「彼ら(原始社会のメンバー)は国家の形成を妨げるメカニズムをもっていたのに、いったいなぜ、いかにして国家は形成されたのか?なぜ国家は勝利したのか?」
ドゥルーズ=ガタリは、国家的なものとまったく無縁な社会の存在という発想をはっきりと退けている。
・原始共同体の自給自足、自律性、独立、先在性などは、民俗学者の夢でしかない。それは複雑なネットワークの中で国家と共存しているのだ。
・主人と奴隷。奴隷となったものは、みずからの「主人」のために奉仕することになる。
・生死を賭けた暴力の関係は、「主人ー従僕」という不平等な承認の関係がうみだされることによって、安定した支配権系へと転換される。
・その承認によって、むきだしの暴力は支配の関係へと構造化される。
・暴力の実践→支配関係
・こうした一連の過程をつうじて治安(セキュリティ)が確立されている。住民の安全が、国家の存在にむすびつけられる根拠がここにある。
・ただし注意すべきは、治安とはなによりもまず、国家にとっての概念だということである。
・治安の内実をなすのは、第一義的には、国家がみずからの目的のために暴力をじっさいにもちいなくてもすむ状態にほかならない。
・「治安のよい」状態とは、国家がスムーズにみずからの活動を展開できる状態。
・「思考・表現の自由」は代えの効かない武器。
・正当な物理的暴力行使の独占→国家
・ピエール・クラストル未開社会のフィールドワーク
・蕩尽。余剰生産物の蓄積をさまたげる工夫。
・国家の中や外において、国家から遠ざかろうとしたり、国家からみずからを守ろうとしたり、国家を方向転換させようとしたり、廃絶してしまおうとする傾向があるのと同じだけ、原始社会においても、国家を「求め」ようとする傾向や、国家の方に向かうベクトルが存在する。すべてが絶えることのない相互作用の中で共存するのだ。
 

第四章 方法的考察

国民国家は歴史的にはかなり新しい「発明品」であり、国民共同体が歴史をつうじて存在してきたというのは虚構されたフィクションにすぎない。
・国家があたかも自然なものとして実在するかのようにみえるのは、人々を<国民にする>ようなさまざまな仕掛けー言説や表象、身体的なふるまいなどをめぐるさまざまな仕掛けーが近代をつうじて整えられてきたからである。
・国民は想像上のフィクション。近代をつうじて、徐々に制度化されてきた「想像の共同体」。その共同体をささえる文化的同一性も、近代以降に再構成された「創られた伝統」。
・「国家について思考しようとすることは、国家の思考をみずからに引き受け、国家によってつくられ保証された思考カテゴリーを国家にあてはめること、したがって国家に関するもっとも基本的な真理を誤認する危険をおかすことである。われわれが世界のあらゆる事象に自発的にあてはめる思考カテゴリーをつくり上げ押しつけることこそ、国家の主要な力の一つであり、われわれは国家から与えられた思考カテゴリーを国家そのものに自発的にあてはめていることを理解する必要がある。」ピエール・ブルデュー「国家精神の担い手たち」
アルチュセール イデオロギー「諸個人がみずからの実際の生存条件に対して想像的にかかわっている仕方」
イデオロギーとはひとつの表象
・(父、子、あるいは教師、学生、サラリーマン、労働者、店員)といったものとして承認をつうじて主体になる。
・「主体になることは服従すること」でもある。というターミノロジー(専門用語)。服従なくして主体なし。
・「教師は(生徒は、父は、労働者は、店員は)かくあるべし」と命じてくる、より上位の権威に対する服従。→服従しないものは主体になれない。
アルチュセールは国家のイデオロギー装置をこうしたイデオロギーの機能からとらえている。つまり、諸個人を承認の主体として呼びかけ、彼らの服従を引きだす装置として、である。
・国家とは、資本主義的な生産関係の再生産を暴力によって、あるいはイデオロギーによって保証するための装置にほかならない。
フーコーの言説分析は、人間の認識や社会的事象が言説によって構成されていることを明らかにした。
・しかし、ないものを語れるということではない。
・それは、諸関係の複雑な束からできた現実的な諸条件のもとに存在する。…それらの関係は、諸制度、経済的、社会的なプロセス、ふるまいの諸形態、規範のシステム、技術、分類の諸類型、特徴化の仕方などのあいだにうちたてられる。
フーコーの方法 権力・知・言説 現代思想フーコー特集」
・言説的な実践と非言説的な実践との絡みあいをつうじて人間の活動領野や社会関係が編成されていくというメカニズム=フーコー
 

第五章 主権の成立

主権国家体制=国家が主権をもつ
ウェーバー「合法的な暴力行使の独占」=近代国家
ホッブズ 自然状態=たがいに強奪し、掠奪することが、ひとつの生業であって、名誉。「各人の各人に対する戦争」→暴力が流動的な時代
帝国主義こそ国家の基盤
ウェーバー「国家も、歴史的にそれに先行する政治団体も、正当な(正当なものとみなされている、という意味だが)暴力行使という手段に支えられた、人間の人間に対する支配関係である。」
ノルベルト・エリアスによれば、近代国家による暴力の独占は、ふたつの要因によって可能となった。貨幣経済の発達と火器の発達である。貨幣経済の発達は、土地の分与を貨幣による俸給へと変換した。
・「脱団体化」中世的な身分規定や職能団体→近代 バリバール
・だが、主権は身分規定と団体への帰属を廃止するわけではなく、それらを法に照らして「無効」と見て、それらの上に別の帰属ー「団体的」でない、個人的な帰属、公正であるよりは平等である帰属、国家統治にかかわってくる唯一の帰属ーを覆い被せるのである。
・暴力の独占は、富の徴収の一元化と分離しえない。
・近代の政治システムのなかでは、戦争は、ふたつ以上の主権国家が国境をこえておこなう武力紛争として(のみ)定義される。
・近代システムの歴史は、対内的戦争の非合法化を目指す長い道のりであった。それが主権の意味である。
・この力学(国境を決める力学)をシュミットは「大地のノモス」と呼んだ。
・そうした基本形をささえるのは人間のあいだの主従関係だ。その主従関係によって、暴力の組織化も、支配も、富の持続的な徴収もなりたつ。
・国境による領土化か、こうした(人と人との主従関係)国家の存在を、領土という非人間的なファクターにもとづかせる。
・国境と領土による国家の脱人格化。
・これによって、「国家は、その時々に、になっている国家権力が正統であるか非正統であるか否かの問題から独立なものになる」
・国家の脱人格化をつうじた過去の再構成。
 

第六章 国民国家の形成とナショナリズム

国民国家は、それまでの国家のあり方からすると、かなり特殊な国家形態
・住民→国民、「領土国家」→「人口国家」アガンペン
・「ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的単位が一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である。」アーネスト・ゲルナー
ナショナリズムとは暴力の集団的な実践を民族的な原理にもとづかせようとする政治的主張
スピノザ「人間のあいだの関係はそもそも身体的であると同時に想像的である」
国民国家=暴力の民主化。徴兵制。
・国語の制定、公教育。
・共通の文化資本。文化的共同体。
・国家の暴力の実践へと身を投じるよう強要することと引きかえに、政治的なものへの平等なアクセス権を保証した。
・道徳と経済によって死に向かわせる。
フィヒテ「民族と祖国とは地上の永遠を担うもの、また保証するもの、すなわち現世にあって永遠たり得るものという意味に於いては、普通にいう意味の国家をー単なる明瞭なる概念に依って捕捉せられ且つこの概念の力に依って作られ且つ維持されている社会的秩序を、遥かに凌駕している。」
・「国民国家が成立するためには、領土内の住民が、特定の集団的アイデンティティをつうじて国民へと生成することが必要である。この点で、国民国家の形成にはナショナリズムが不可欠だ。」
・シュミット「現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である。」
・家族国家観、家族を横領した。
・国家に帰属することで生存を共同体的に保障されるという図式が国民国家の基礎にある。
・人倫。国家の暴力が共同体的に規範化される。これによって、統治のためにむきだしの暴力がもちいられる契機はちいさくなり、その暴力は社会的な正義>>或いは常識<<という性格を強めていく。
>>暴力は見えにくくなったが、透明な暴力が確かに存在し、服従せざるものを刺している。そして毎年3万人死んでいる。<<
・「つまり国家は、民族がもつ超歴史的な価値を防衛し、後世につたえるという目的のもとで、住民をみずからの暴力の実践へと動員していくのだ。」
・「じっさいには、生存共同体としての国民は、資本主義の発達によって具体化されてきた。というのも、その発達をつうじて、国家の領土の内部は統合された資本主義的な空間へとつくりかえられるからである。
ドゥルーズ=ガタリによれば、国家の戦争を総力戦にしたのは資本主義の発達である。総力戦とは、住民全体を戦争遂行の主体として動員するという点で、まさに国民国家の理念型をなす。「ところで、国家の戦争を総力戦にする要因は資本主義にーすなわち戦争にかかわる資材、産業、経済に投資される固定資本と、(戦争を実行すると同時にそれを甘受する)肉体的かつ精神的な人口として投資される可変資本に、密接に結びついている。実際、総力戦はただの撃滅戦ではなく、撃滅の「中心」がもはや敵軍や国家だけでなく敵国の人口全体とその経済になったときに初めて出現するものなのだ」
・住民の生存条件をととのえることで、国家はみずからを破壊しかねないさまざまなコンクリフトを乗りこえてきた。それをつうじて、住民の生存はますます国家に依存することになり、また、国家のほうは住民の生存領域におけるヘゲモニーをより強固にしていく。
・「国家の社会化」
・つまり国家は、民族がもつ超歴史的な価値を防衛し、後世につたえるという目的のもとで、住民をみずからの暴力の実践へと動員していくのだ。
・じっさいには、生存共同体としての国民は、資本主義の発達によって具体化されてきた。というのも、その発達をつうじて、国家の領土の内部は統合された資本主義的な空間へとつくりかえられるからである。「資本主義的な空間」とは、資本がさまざまな障壁によってさえぎられることなく循環し、その循環運動のまわりで住民が等質的な労働力として自由に移動するような空間のことである。その空間が、統合された経済単位として、国家の内部を生存共同体にするのである(国民経済といわれるものがこうしてできあがる)。
フーコーはそうした権力テクノロジーを規律・訓練(discipline)とよんだ。
・規律・訓練とは、人びとの身体を規律化しながら、その有用性を増大させるようなさまざまな実践のことである。たとえば工場では、生産性をできるだけ高めることが課題とされる。
・規律権力は、住民の多数性や多様性にふくまれている破壊的な力を飼いならし、それを集団的な有用性へとつくりかえる。いいかえるなら、規律訓練の浸透によって、住民たちの行為の計算可能性は高まり、かれらの振る舞いから粗暴さが消えていく。これによって、暴力の組織化をより広範な住民の集合によっておこなうことが可能となるのだ。
国民国家の形成において、こうした規律・訓練がはたした役割は本質的である。それは住民全体を兵力ー労働力として徴用しながら、あらたな服従関係へと組み込むのである。
>>国家のこのdisciplineとオウム真理教のマインドコントロールと何が違うのか?違うところなどないのである。<<
・規律・訓練による権力関係の脱人格化。その象徴がパノプチコン
・規律・訓練とは「匿名の権力」である。この辺フーコー
・没個人化され、自動化された権力。権力の機械装置化。
>>山本七平の言う「空気」。官僚制の真髄。空虚な権力。<<
・フランスではレイシズムという語のもつ意味が広い。道徳、侵攻、文化や性向。
・戸籍制度、血、性差。
アイデンティティとは帰属の概念。
・「すべてのアイデンティティは視線である」バリバール
アイデンティティはつねに、コミュニケーションに参加し、ある帰属をつうじて自己を承認する仕方としてしか存在しない。
・宗教とナショナリズムのシューマ(図式・形式)のみがアイデンティティヘゲモニーになれる。
 

第七章 国家と資本主義

・富の我有化をつうじて敵が発生し、所有権が成立し、治安が追求される。国家をうみだす暴力の組織化は、富の徴収のために、また徴収した富によっておこなわれる。徴収をつうじた富の我有化とは国家の存立原理にほかならない。
・徴収が余剰に先立つ。
・ストックは土地・労働・貨幣からうみだされる。
・土地も労働も、所有可能性と比較可能性が条件。
ドゥルーズ=ガタリによれば、貨幣は交換や商業の要求からうまれたのではなく、税の徴収からうまれた。
・一般的な法則として、税が経済の貨幣化をもたらすのであり、税が貨幣を作り出す。税が、必然的に運動、流通、循環の中にある貨幣を作るのであり、循環する流れの中で、必然的に役務と財に対応するものとして貨幣を作るのである。
・これら三つの相関物を介してストックは形成される。つまり、土地から地代が、労働から利潤が、貨幣から税が、それぞれ抽出され蓄積される。こうしたストックの形成は、国家の成立と完全にパラレルだ。国家とは、ストックを生じさせる仕掛け、アレンジメントにほかならない。こうした仕掛けを、ドゥルーズ=ガタリは捕獲装置とよぶ。
・三つの頭をもつ捕獲装置。キングギドラ
・資本主義は、労働・貨幣・私有制の流れが、質的な限定をとりはらい、互いに合流するときにはじめて出現する。
・資本主義は、質的な限定を受けない富の流れが、質的な限定を受けない労働の流れと出会い、それに接合されるとき形成される。
・流れの各要素はいっきに抽象化される。
・まず、労働は身分や役務といった限定から開放され、「自由な裸の労働」となる。また他方で、「富とはもはや土地、商品、金銭といったものではなく、等質で独立した純粋資本とならなければならない」。そして私的所有は、人びとのあいだの相互依存的な権利関係をつうじてある対象(土地、もの、人)を所有することではなくなり、いかなるものにも適用されうる権利そのものを所有することになる(資本を所有するとは、何にでもそれを交換できる権利を所有することにほかならない)。ドゥルーズ=ガタリはいう、資本主義における「私有とは、土地や地面の私有でも、個々の生産手段の私有でもなく、抽象的で変換可能な権利の私有なのである」
・「操作的な言表」=「資本主義の公理」
・脱コード化した流れの関係を、機能的に操作するのが、資本主義の公理にほかならない。
・資本主義が成立するのは、国家による捕獲から派生した流れが積分され、ひるがえって国家装置そのものを凌駕することによってである。
・もちろん、そうした逆転によって国家は捕食装置であることをやめてしまうわけではない。資本主義の時代にあっても、国家は、暴力を組織化しながら富を徴収する審級でありつづける。国家を凌駕する流れの出現によって変化するもの、それは国家が富を徴収する仕方だ。国家は、いまや優勢となった資本の流れに寄生することで富を得ようとする。
・資本をみずからの内部で増殖させることで、国家はより多くの富を徴収しようとするのだ。<資本にやさしい>国家の性格がこうして生まれてくる。
・国家=超コード化した超越的なパラダイム→脱コード化された内在的な実現モデル。
・国家がこうした実現モデルになるには、独立した資本の競争がなされるような環境へと国家の内部が再編されることをつうじてである。
国民国家は資本主義の実現モデル。
・資本主義には恒常的に公理を追加する傾向がある。第一次世界大戦後、世界恐慌ロシア革命の影響を統合し、資本主義は、労働者階級、雇用、組合組織、社会制度、国家の役割、国外市場と国内市場などに関して、公理を増殖させ、新しく発明することを余儀なくされた。ケインズ経済学、ニューディール政策は、公理の実験の場だった。第二次世界大戦後に創造された新しい公理の例。マーシャル・プラン、援助や借款の形態、通貨システムの変形。
国民国家は国家の内部が資本主義的な空間につくりかえられることで成立したが、社会政策的な公理の増設による国内市場の整備をつうじて、国家はその国民化のプロセスを加速させたのである。
・もちろん、暴力はそこでも国家にとっての主要な手段であった。資本主義における諸矛盾が引きおこすさまざまな闘争や抵抗を一方では抑圧しつつ、他方で、公理の設置によってそれらのコンクリフトを緩和し馴致していったのである。
・これに対して、現在はどうか。生存権社会権も急速に形骸化しつつある。
ドゥルーズ=ガタリによれば、こうした動向は全体主義に固有のものだ。
・つまり、全体主義的実現モデルにおいては、資本の価値維持や外的部門の均衡にかかわる公理だけが保持され、住民の生存条件や権利にかかわる公理は積極的に廃棄される。住民の生存は、資本の運動から結果的に派生するものとして、野生状態のなかに放置されるのである。野生状態の展開はとりわけ雇用の変化としてあらわれる。こうした公理の除去によって、国内市場は崩壊し、社会矛盾は増大する。そして、そこから生じる撹乱的な諸要素を制圧するために、国家はより強権的な手段の行使をいとわないだろう。公理の縮減の埋めあわせに、国家の暴力性が前面にでてくるのだ。
・「小さく」見える国家こそ、もっとも抑圧的な国家。
全体主義国家とは、国家としての最大値ではなく、むしろヴィリリオの公式通り、無政府ー資本主義の最小国家である。
社会主義的な実現モデルから全体主義的実現モデルへ。これが、現在の世界公理系の中心部でおこっているおおきな動向である。
・「機械状隷属システム」
・脱領土的な形態。
・経済的な権力のラウム(場所)が、国際法的な領域を規定するのである。
・現代国家の覇権は、その領土の獲得を通過しないという点で、かつての帝国主義とは区別されるのである。=グローバル経済。
・それにともない、領土内の住民全体を質のよい労働者へと育成する契機も縮小している。
・こうしてわれわれは、グローバリゼーションといわれる現在の地殻変動をつうじて、国家にどのような変容が生じているのかを理解することができるだろう。
>>グローバリゼーションによって、地方や住民は完全に入れ替え可能になった。<<
・いわば、現在の国家は、これまでの国民形態の生成をささえた「国家の社会化」のプロセスを逆走しているのである。
・(グローバリゼーションによって)経済的な生存共同体をみずからの内部に保持できなくなってきた国民国家は、文化的共同性に重心をうつすことで自己を再編成していく。脱領土化する国家に対してナショナリズムがはたす構成的な役割がここにある。
・資本主義は国家を廃絶しない。超えるとは、国家なしですませるという意味では決してない。
・国家と資本主義は相互依存的
・国家は「暴力への権利」を独占する。これこそ固有性。
>>躁鬱患者はどうやら建国を試みるという発言<<
・マジョリティは「数えられる」。マイノリティは「数えられない」。資本主義公理系の内部でポジティブに定義された、ステイタスや場所をもたない。
・資本主義という公理系のたえまない手直しは、決してテクノクラート(技術官僚)だけの課題ではない。闘争の目標なのである。
4/13読了。