マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】仲正昌樹『「不自由」論―「何でも自己決定」の限界』(ちくま新書 2003年)

・「自由な人間としての主体性」なるものが、各人の内に「自然=自発的に」生じてくるという西欧近代を支えてきた「神話」に内在する矛盾がある。
・しかしながら、ホッブズ以降、「自由な主体」間に「自然に」生まれてくる「普遍的合意」(=契約)という仮定の上に成り立ってきた近代社会は、自らの拠って立つ基盤がフィクションであると認めることはできない。
・近代の「限界」
・今さら、「主体性の神話」に戻ることはできないが、かといって全くの無秩序の中で「動物的」に生きていくこともできそうにない。近代的な「自由な主体」の「限界」を振り返りながら、ポスト・モダン状況の中で、"とりあえず"どういう態度を取ったらいいのか考えていこうというのが、本書の主題である。
・当然、そうした抽象性と日常性の間の往復を何度も繰り返していたら、常識的に「分かっている」はずのものが、だんだん複雑怪奇な様相を呈して「分からなく」なってくる。
 
第一章「人間は自由だ」という虚構
ナチスドイツ「人間性の限界」
ヒューマニズム→「人非人」排除のジレンマ
・このように、守るべき「中心的なもの=善」と、それから「逸脱するもの=悪」をはっきり分けて、あくまでも前者を純粋に追求しようとする発想法を、現代思想では「二項対立」という。
・カール・ホッパー「ピースミール(漸進的)な社会工学
・実現すべき何らかの「価値」を掲げれば、そうしても、その価値基準から「ずれているもの」を、完全に排除しないまでも、周辺化することになってしまう。
ナチスの「最終解決」
アドルノ「批判理論」フランクフルト学派

・「分かりやすい」ことは危険なこと。
・一昔前だと、日雇い労働者の多い下町に出かけていって、「彼ら」と語り合うというのが、「一流大学」の一部左翼学生の間で流行っていた。
・無理して難解なジャーゴン(仲間内だけで通じる言葉遣い)を駆使して、日常性から浮き上がろうとする。
・どっちも「現実」コンプレックスである。
・当然のことながら、「現実」コンプレックスの知識人は、「現実」に対して適切な距離を取ることができない。「一般の人」(=国民の大多数)が言っていることに迎合するか、耳をふさいで観念の世界に閉じこもるかのどちらかしかない。
・一見して「文明」化された振る舞いの"背後"に、実は「野蛮」が潜んでいたことが「アウシュビッツ」を契機に明らかになった。
・もっと極端な見方をすれば、「文明化」のプロセスとはそもそも、自らの野蛮な本性=自然(nature)に嫌悪感を覚えるようになった人間たちが、野蛮さを表面に出さないようにしながら、「人間であること=人間性」を、守っていくべき”すばらしいもの”に仕立てあげようとする、大いなる隠蔽工作であるということができる。
・ハンナ・アーレント「全体主義の起源」
・こうした「同一性」の論理が"自然と"圧倒的に強くなった体制においては、人々は独自の判断を止めて、自発的に、つまり自らの"自由意志"に基づいて、「全体」の目的に「同調」するようになる。自分の利益を自分の責任で孤独に追求するよりも、(自分をその一部として包んでくれる)「全体」の利益に合わせた方が楽である。このように、「個人の自由」と「体制への同調」がー少なくとも形のうえではー両立するという意味で、「全体主義」は通常の独裁体制とは異なるわけである。近代的な主体性を備えた人間にとって最も本質的な価値である「自由」を自ら投げ捨てて、「全体」と「同化」するように仕向けるからこそ、全体主義は危険なのである。
・「イエルサレムのアイヒマン」「悪の陳腐さ」
・アーレントはむしろ、そうしたアイヒマン的な平凡さ、個性のなさこそ、巨大な「悪」を可能にしたのではないかと考えた。
・アイヒマンの分析を通して、アーレントが到達した「悪」の本質とは、日常的な「陳腐さ」の中で、自分で考える能力を喪失していくことである。組織の中でルーティン的に決まったことをやるだけで、他社に対して自分の意見を表明し、自らの個性を際立たせることを怠っていれば、人は次第に「人間らしさ」、つまり他者の外的影響から自由な思考を働かせられなくなる。そうなると、大いなる「全体」へと同化する全体主義の罠に陥りやすくなる。いったん「全体」と同化してしまえば、自分(たち)以外の存在に対する関心がなくなり、彼らが死のうと生きようと、どうでもよくなってしまう。人間的な自由な思考を奪って、動物の群れのような本能的で野蛮な集団行動へと駆り立てる傾向こそが、「悪」なのである。
・アーレントは、デカルトーカント以来、近代思想の大前提になってきた「人間性=自由に考える」能力の普遍性・生得性に疑問を感じた。彼女は、アウシュヴィッツ以降も、依然としてそうした「人間性」を自明の理であるかのごとく見なしている"ヒューマニスト"に対して警告を発したのである。「人間性」とは作られたものなのである。
・「人間の条件」
・アーレントは我々の「人間性」が、古代ギリシアの「ポリス」という極めて限定的な環境の中で生じてきたと主張している。
・アーレントは、「人間性」を構成する要因として(1)「労働 labor」(2)「仕事 work」(3)「活動 action」の三つを挙げている。
・(3)「活動 action」は「ポリス」という特殊な空間の中で初めて可能になった。この「活動」こそが、最も「人間らしい」営みである。
・一人だけで物思いに耽る。「思弁的生 vita contemplativa」に対して、「外」に出て、積極的に他者に働きかける生活態度を指す。
・つまり筆者の解釈では、アーレントが言いたかったのは、「古代ギリシアのポリスが人間性に溢れていてすばらしかった」ということではなくて、「我々(=西洋人及びその文明的影響下にある人間)は、古代のポリスによって生み出された人間性に規定され続けている」ということである。アーレントは、ポリスの善し悪しを言っているのではなく、ポリスが「人間」としての「我々」の起源になっている、という歴史的問題を掘り下げて論じているのである。「我々」にとって善/悪の規準になっている「人間性」自体が、ポリスという枠の中で生まれたものである以上、我々は、好きであろうと嫌いであろうと、「ポリスの公的領域」と結びついた「人間性」の概念抜きで自己規定することはできない。「人間」は、いくら嫌がっても自らの出自を否定することはできない。
・全員が、自分の生活維持のための仕事・労働に従事しながら、同時に、ポリス全体の善について発言するという二重生活を営むようになる。「公/私」の境界線が曖昧になるわけである。そうすると、市民たちは物質的な利害関係を抱えたまま、公の場において、お互いに対して働きかけるようになる。
・アーレントは、そのように、もともと「私的領域」に属していたはずの物質的諸要素の混入によって「利害」からの「自由」を確保できなくなった"公的領域"を、「社会的領域 social realm」と呼んでいる。純粋な「公的領域」が縮小し、「社会的領域」が「人間」たちの"活動"の主要な場になったのが、「市民社会」である。「市民社会」において人々の「関心」は、ポリスにとっての「共通の善」の実現から、「経済的利害」の調整へと大きくシフトする。
・市民社会に生きる「我々」は、各人の「経済活動の自由」を、実現すべき普遍的価値であると考えがちだが、アーレントに言わせれば、利害調整が問題になる「経済」においては、本当の意味での「自由」はない。とどのつまり、資本主義であれ共産主義であれ、「経済」的利害が人々の中心的関心事である限り、我々は「人間」になり切れないのである。
・市民社会における経済的「利害」関係が、”人間”たちの行動を全面的に支配するようになり、「自由な討論」を通しての他者への働きかけが形骸化する時、物理的な刺激によってヒトの動物的本能に直接的に働きかけ、人々を集団行動へと駆り立てる「全体主義」が台頭する可能性がでてくる。
・全体主義体制に「同調」した人々は、「人間」的な活動を可能にする「間の空間」を持たず、次第に没個性化していき、(言論による説得を伴わない)暴力支配のモードに入る。大群衆が、まるで「一人の人間」であるかのように振る舞う。それは、陳腐な「アイヒマン」たちからなる悪の世界である。
・「プロレタリアート」としての普遍的な人間性を志向するマルクス主義は、一般的には、ナチズムやファシズムと対立するものと考えられている。しかしアーレントは、「階級的利害」という共通項によって、労働者たちを「一つ」の意志を持った「体」であるかのごとく集団行動へと誘導する点で、マルクス主義はナチズムと同類であると見なしている。
・ナチスは「多元性=人間性」の破壊者
・フランツ・ファノン第三世界の反植民地闘争
・彼は植民地の人々を、白人によって作り出された「人間」のイメージに見合うステータスにまで引き上げるという従来的な発想を拒絶する。
・日本語で「自由」と訳される英語には、の二種類がある。アーレントは、この二つを概念的に区別し、前者を、古代ギリシアのポリスのような「言論活動」の空間を創設しようとするものとして積極的に評価しているのに対し、後者は、物質的欠乏状態からの"自由"、つまり「解放 liberation」の次元に留まるものとして限定的な評価しか与えていない。
・同情ゆえの人間性喪失
・ジャン・ジャック・ルソー「幸福なる自然人」「計算的理性」と「自然な人間の情」
・偽善者hypocrite(仮面、俳優)
・しかし、「仮面」を取りはらった後に出てきたのは、それまで「私的領域」の中に押し込まれていた「暴力」衝動である。
・エゴイズムと本音の境界線
・仮面が本音になる
・駄目な差異のポリティクス
・閉鎖的な「同情の政治」
・人間性の困難
 
第二章 こうして人間はつくられた
・ボッカチオ「デカメロン」
・ルネサンス「再生」中世暗黒時代=キリスト教によって抑圧されていた。
・彼らにとって「人間性」のモデルは、書かれたもの(エクリチュール)を通してしか知ることのできないギリシャ・ローマ世界にあったのである。
・幼児が周囲のいろんなものに手や足を出して怪我したり火傷したりするのは、自分自身の身体と外界との境界線を意識していないからである。
・理性が覚醒して「自/他」の区別をするようになった人間は、「自分のもの」と「他人のもの」を区別し、前者をより増やそうとするようになる。そうやって、周囲の事物に対する「所有=自己固有性」観念が生まれ、それを固定化するために、「社会」が組織化される。「社会」というのは、自己の所有物を確保しようとする各人のエゴイズムの産物であり、そのために掟がある。掟を破るのが「悪」である。
・ルソー社会契約論
・アーレントの自由 「物質的・生物的な欲求から解放されて、他者に対して言論で働きかけること」
・欲望の衝突
・「自然人たちが自発的に自己の自由をどこかに移転することによって、主権が生まれる」
・ルソー、「私」の「自由」を「私たち」に譲渡する。
・「皆で(主権者として)決めたことだから、皆で(臣下として)従おう」
・「一般意志」というのは、各人が自分個人の利害関係を越えて、「全体」にとってはこうするのが正しいと判断するための普遍的基準となるものである。=「法」=近代法の根拠
・国家の「法」と個人の「自由」の両立を約束してくれるかのように見える「ルソー主義」
・一応、中立そうな誰かが書いてくれたエクリチュールを「法」と見なして、それが「一般意志」と合致しているか否か検証しなければならないが、もともと本当にあるのかないのか定かでない”一般意志”と照応させることなど雲を掴むような話である。結局、どこまでいっても、真正の「一般意志=法」を表象することができないわけである。
・ジャック・デリダはこの点を掘り下げて、”単なるエクリチュールにすぎない”はずのものが、まるで全員が異口同音に口にした生きた言葉(パロール)であるかのごとく通用しているという根源的なアポリア(袋小路)を暗示している。
・現在思想でよく耳にするデリダの「音声中心主義」批判を、かなり簡略化して説明すれば、歴史的・文化的・言語的に制度化されてきた「エクリチュール」が、あたかも「生き生きしたバロール」であるかのごとく現前化し、我々を拘束している、という事態を暴き出すことである。もう少し分かりやすく言えば、無意識的に他人から聞いたり、本で読んだり、メディアから情報として取り込み、”心”の中に「書き込まれてしまったもの」(エクリチュール)が、いつのまにか自分の「生きた言葉」に化けてしまうことを問題にしているわけである。なおデリダが「エクリチュール」として問題にしているのは、活字やそれに類する文字や記号として書かれたものだけではなく、我々の思考を規定している、制度化された意味の体系全般である。
・ニュースの街頭インタビュー。
・つまり、もはや生きていない言葉であるエクリチュールが直接的には見えないところ(無意識)に潜んでしまって、背後から「生きた言葉」を支配しているかのような様相を呈しているわけである。
・一般的に、西欧近代のエクリチュールに汚染されている「知識人」というのは、「書物に書かれたのではない生の現実」に対する憧れを、(書物の影響を通して)抱いていることが多い。
・実際には、エクリチュールとしてしか意味をなさない「現・実」という言葉に引かれているだけなのだが、ご当人は、バロールに触れたつもりになっているので、なかなか目を覚まさない。
・「自然人」と「理性人」がルソー主義的に合体することで生まれてきた近代的「人間」観は、音声中心主義の矛盾を常に孕んでいる。
・ゲーテ「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」
・すぐに分かるように、こうした設定は何重もの意味で、エクリチュールによる支配を隠蔽した構造になっている。
 
第三章
・ルソー社会契約論 「主体(Subject)」になるということは、同時に、特定の公共的秩序「に従う 〜be subject to」ことを意味する。
・ミヒャエル・エンデ「モモ」
・ドイツ・ロマン派が創出した幻想文学の中心的なモチーフは、「かけがえのない貴重な時間」を「計算可能な単線的な時間」へと転化してしまう「貨幣」の浸透に対抗することだった。
・ルソーの「自然人」、ハーバマスの「市民」
 
第四章
・ジョン・ロールズ「リベラリズム」=「自由」と「平等」を可能な限り両立させることを目指す。=社会的「公正」を実現する。
・ロールズ「公正としての正義」
・「無知のヴェール」自分が相対的に弱者であると想定してルールをつくる
・アメリカの政治思想の新しい対立軸として表れてきたのが、「リバタリアニズム(自由至上主義)」と「コミュニタリアニズム(共同体主義)」である。
・「最小限国家」ロバート・ノージック
・林道義「自然な父性」
・安保世代、全面否定は「全面的に丸抱えされているという安心感」の裏返し
・彼らは、アメリカやマルクス主義の悪影響さえ、取り除けば無垢の"自然な日本性"が(再び)見出される、と考えているふしがある。
・つまり、どれだけ徹底したリバタリアンでも、自分で選んだわけではない共同体的文脈の中で、「(共同体内の)他者」と相互に制約し合いながら、生きていかざるを得ないわけである。
・「共同体主義」を拒否することは可能でも、共同体的な諸文脈を拒否することはできないのである。
・ドゥルシラ・コーネル「イマジナリーな領域に対する権利」
・つまるところ、リベラリズムやリバタリアニズムにおいても、「自己決定」に先立つ"自己"の選択の問題は、結果的に、既存の共同体的文脈に委ねられることになる。どういう「自己」を選ぶかは、当人と、当人を取り巻く様々な共同体的文脈との関係性の中で、"自然と"決まってくるのを待つしかないのである。
・「アイデンティティー」→「アイデンティフィケーション」
・カント的リベラリズム=あらゆる拘束から自由に判断できる、自律した「主体」になること。
・分からないと、大抵、これまで自分を保護してくれていた「共同体」の意向を慮った"自己決定"をすることになる。
・ネグリ「プロレタリアート」→「マルチチュード(群衆)」

5/13-6/19