マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】栗田禎子『「平和憲法革命」が始まった――「安保法制」問題の位相とたたかいの意味』 

一 国際的意味ー「集団的帝国主義」のツールとしての「集団的自衛権
 いわゆる「冷戦」体制崩壊後の1990年代以降、アメリカは、資本の利益のためであれば(「冷戦」期には直接的軍事介入ができなかった地域に対しても)戦争を仕掛けて資源を確保し、大企業が活動しやすい環境を世界中に押し広げていこうとする政策をとるようになった(最大の標的となったのは経済的・地政学的に重要な中東地域であり、湾岸戦争、さらに2001年以降「テロとのたたかい」のスローガンのもとで展開されるようになったアフガニスタン戦争やイラク戦争は、いずれも実はこのような経済的・戦略的利害に基づく中東への軍事介入であった)。これはあからさまな、ある意味では古典的な帝国主義的姿勢と言えるが、90年代以降現代に至る展開を特徴づける点として注目すべきなのは、戦争遂行にあたり、これをアメリカ単独で行なうのではなく、他の先進資本主義諸国も適宜動員し、協力させていくという手法(原型となったのは湾岸戦争時の「多国籍軍」の組織化)がとられるようになったことである。「北」の諸国が「南」を共同で支配・管理するというこのような構図を(エジプト出身のマルクス主義経済学者)サミール・アミーンは、アメリカ、EU諸国、そして日本やオーストラリアから成る「集団的帝国主義」と名づけている。
 興味深いことにこの過程で、いわゆる「集団的自衛権」なる概念も、「冷戦」期とは異なる性格・役割を付与されることになった。周知のように「集団的自衛権」は、国連憲章中に存在する概念ではあるが、「冷戦」期には普通の国が行使するような「権利」ではなく、基本的にアメリカおよびソ連といった超大国が他地域に対する軍事介入を正当化する際に持ち出す、きわめて例外的なツールであった(ベトナム戦争ソ連アフガニスタン介入など)。これに対し、「冷戦」体制崩壊ソ連消滅後の時期になると、アメリカが中東等に対する自国主導の戦争に他の先進資本主義諸国を動員・協力させようとする際に、「集団的自衛権」概念を持ち出し、その行使を求める、という現象が見られるようになったのである。2001年のいわゆる「9.11」事件に際し、NATOは発足後初めて「集団的自衛権」を発動した。オーストラリアも「集団的自衛権」行使という形でアフガニスタン戦争への協力へと踏み出した。そしてこれと前後する時期のいわゆる第一次「アーミテージ・レポート」(2000年)にも、日本に「集団的自衛権」の行使を求める提言が盛り込まれるのである。以上からは、今回の「安保法案」の最大の眼目を成す「集団的自衛権」行使なるものが、どのような背景・国際的文脈の中で提起されているものなのかが明らかとなる。
 今回の「安保法案」が基本的に、現在の「集団的帝国主義」体制下、日本がアメリカ主導の戦争に世界中で協力していくためのものであることは、「安保法案」に先立って四月末に行われた「日米ガイドライン」の改定(=安保法案はこの新「ガイドライン」を実行に移すために整備されようとしている)からも明らかである。新「ガイドライン」では、今後日米はアジア太平洋地域「及びこれを越えた地域」において、地球大で「切れ目のない」軍事協力態勢を構築していくことが謳われている(なお「切れ目のない」という表現は、国内向けにはあたかも「日本の従来の防衛戦略に存在した不備な点を埋めていく」ことを意味するかのように説明されてきたが、実は米軍と共に世界中で生起するあらゆる「危機」に対し seamless ――むしろ「継ぎ目なし」と訳すべきか――な協力態勢で対応していく、というニュアンスであることに注意する必要があろう)。他の先進資本主義諸国と比較した場合、日本は日米安保体制のもと、アメリカに対する異常な従属状況(事実上の占領状態)を強いられてきたと言えるが、「歴史的」とされる今回の「ガイドライン」改定では、日米安保体制を利用しつつその従来の内容も事実上踏み越え、一変させる形で、「世界のなかの日米同盟」というかけ声のもとに、自衛隊アメリカの戦争に世界中で活用していくという方針が示されている。
 
ニ 憲法に対するクーデタ、ファシズム復権という側面
 以上、今回の法案を取り巻く「国際的」文脈を検討してきたが、ついで同法案をめぐる展開に見られる「日本固有」の重大な側面も指摘しておかねばならない。それは、今回の法案が日本国憲法に明らかに反する違憲立法、憲法に対するクーデタとも言うべき性格を有しており、法案成立をめざす勢力はその過程で、国民主権や民主主義という考え方自体を否定するかのような、ファシスト的相貌を露呈しつつある、ということである。
 既に見たようにアメリカ主導の戦争への協力態勢強化は、実は現在の「国際社会」に共通する現象と言えるが、なぜ日本の場合はそれが、立憲制と民主主義の敵視、ファシズム的潮流の復権とも言える極端な形態をとるのだろうか?米軍に世界中で協力し、自国が攻撃されていないにもかかわらず「集団的自衛権」の名のもとに戦争に参加することを公言する「安保法案」が戦争放棄を定めた憲法九条と相容れないことを考えれば、法案と九条との間に矛盾が生じることは当然かもしれないが、法案成立をめざす過程で安倍政権が、平和主義のみならず民主主義や言論の自由さえも敵視するかのような姿勢をあらわにし、憲法を遵守するというポーズさえ事実上放棄しつつあるのはなぜなのだろうか?――逆説的な言い方になるが、その答えは、日本国憲法が持つ、世界史的にもきわめて先進的でラディカルな性格――日本国憲法においては「平和主義」と「民主主義」とが不可分の関係を成しているということ――に求められると言えよう。
 改めて言うまでもないことだが、日本軍国主義破局的末路への反省から生まれ、かつての日本では国民の意思が政治に反映されず、言論・思想・政治活動の自由等が保障されなかったことが戦争に突き進む原因となった、という苦い教訓に基いて制定された日本国憲法は、このためにこそ、国民主権基本的人権という原則を打ち出している。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」(前文)ことは日本国憲法のいわば「初心」であり、憲法の随所に見られるきわめて民主主義的な諸規定は、ある意味ではすべてこのために――二度と国家が戦争に走ることがないような仕組みを作り上げるために――定められているとも言える。日本国憲法においては「平和主義」と「民主主義」とは一体・不可分であり、それゆえ、平和主義の原則を否定し、戦争に突き進もうとする者は、否応なく憲法の民主主義的諸原則をも否定し、憲法全体を敵視せざるを得なくなる、という構図が存在するのである。
 今回、「安保法案」成立がめざされる過程では、「日本の安全を考えるのは憲法学者ではなく政治家」等の言辞(安倍首相や高村自民党副総裁)、「法的安定性は関係ない」(磯崎首相補佐官)、「(政府に批判的)マスコミは懲らしめるべき」(自民党若手議員勉強会)、「戦争に行きたくない、というのは自己中心的」(武藤貴也衆議院議員)との発言等々、安倍政権とそれを支える勢力の非民主的・ファシスト的体質、憲法敵視の姿勢を露呈する動きが相次いだが、これはある意味では必然的な展開だったとも言える。
 「安保法案」推進勢力による憲法敵視の姿勢は、しかしながら、まさにそれによって、今回の法案は単なる法律ではなく憲法に対する事実上のクーデタだという認識が広がり、憲法学者らによる「違憲」の指摘がきっかけとなって国民の危機感に火がついて、空前の反対運動が巻き起こる、という結果をもたらすことになった。国民が反対運動に立ち上がる契機となったのが法案の詳細をめぐる細かな事実(たとえば新法によって自衛隊が持っていける武器の種類や、「イラク特措法」での規定と新法の規定との差異等をめぐる国会での質疑)ではなく、「この法律は違憲だ」というシンプルな指摘だった、という事実は注目に値する(「潮目を変えた」と言われるのは六月四日の憲法審査会における三人の憲法学者の発言)。法案が明らかに憲法に反するものであることが指摘され、にもかかわらず政府がきわめて恣意的な「解釈」によってこの違憲行為をやり遂げようとしていることが明らかになった時、国民は、これまで自分たちの社会・政治を支えてきた制度や理念が根底から覆されようとしていることに気づき、かつてない危機感を持って声を上げ始めた。法案をめぐる国会での審議開始後、野党の追求の仕方には迷いが見られ、必ずしも憲法との整合性を争点とはせずに法案の細部をめぐる議論に終始する傾向が会って、そこにはおそらく「国民は憲法云々といった抽象論・理想論にはついて来ないのではないか」という判断、あるいは「国民はもはや平和憲法にさほど愛着がないのではないか」という危惧が存在したのではないかと思われるが、結果的にこの判断は誤っていたと言える。法案に対する反対運動の中で明らかになったのは、いかに国民が平和憲法に愛着を持っているかということ、国民の大多数は基本的に日本国憲法が「気に入っている」という事実だったのではないか。この愛着は日頃は国民自身によってもさほど意識されないものだったかもしれないが、「安保法案」という違憲立法の出現こそが、国民意識の深部に眠っていた憲法への感情を再発見・覚醒させた。
 「安保法案」強行の過程で、憲法が破壊され、民主主義や立憲制、あるいは「法の支配」といった原則さえもが覆されようとしている、という感覚は、広範な層の市民を立ち上がらせた。若者による運動もめざましい発展を見せ、シールズ(SEALDs、自由と民主主義のための学生緊急行動)等の活動が注目を集めたが、これは、「安保法案」によって憲法が破壊されれば、国民の中でも特に青年層こそが、これまで日本国憲法によって保障されていたはずの諸権利を今後の人生全体を通じて否定され、未来を奪われる存在であるからにほかならない(実際、もしこのような形で憲法が否定されるのであれば、日本の青少年層は丸ごと詐欺にかけられたようなものである。われわれはこれまで一貫して子どもたちに、彼らは平和と民主主義のうちに生きる権利があると教え、安心させてきたのではなかったか!)
SEALDsに「過激分子」等のレッテルを貼ろうとする論調に対抗して、国会前で法案反対の声を上げ続ける青年の一人は、「僕たちは「革命を起こせ」とか「国家を転覆しよう」とか言ってるわけじゃなくて、「憲法守れ」って言ってるだけ」と発言した(SEALDsメンバーの奥田愛基氏)。自分たちが求めているのは「憲法を守れ」ということだけ、というこの言葉はシンプルであると共に強い迫力を持つ。同時に、(若い世代が「革命」という語にどのようなニュアンスを付与しているのかは分からないが)現在の状況の中では「日本国憲法を守れ」と声を上げること自体が、実はひとつの「革命」のあり方だと言うこともできるのではないか。
 憲法は危機に瀕しているが、「安保法案」と対峙するなかで市民ひとりひとりが自覚的に憲法を守るためのたたかいに立ち上がり、平和主義・国民主権基本的人権の理念に基づく日本国憲法を、誇りをもって改めて選び取りつつあるとしたら、それは社会に深い変化を引き起こす「革命」だと言える(「日本国憲法革命」、あるいは「立憲革命」、「平和憲法革命」といった呼び方をしても良いかもしれない)。ひとたびこの「革命」が成就すれば、日本国憲法を「押し付け憲法」などと呼ぶことは未来永劫できなくなるだろう。この「革命」は、国民が第二次大戦の惨禍と引き換えにつかみとった日本国憲法をいま改めて取り戻すためのたたかいであると共に、さらに長いスパンで見れば、自由民権運動に遡る近代以降の日本における立憲運動・民主化運動の系譜を受け継ぎ、完成させる位置にも立つことになる。
 「安保法案」反対に立ち上がった青年のひとりは、街頭でのスピーチで以下のようにも述べている。「私や私の仲間がこの場所にこうやって立つことでどれだけのリスクをしょっているが、想像に難くないはずです。それでも、私がしょいこむリスクよりも、現政権に身を委ねた結果訪れる未来のほうがよっぽど恐ろしく思えるのです。もう人ごとではありません。全ての国民が当事者です。想像力を捨て、目先の利益にとらわれ、独裁的な指導者に首をつながれた、そんな奴隷になりたいですか。私は今、自分が持つ全ての可能性にかけて、この法案と、そして安倍政権を権力の座から引きずりおろします。そうすることでしか、受け入れるにふさわしい未来がやってこないからです」(SEALDsの六月二七日渋谷での宣伝の際の福田和香子氏の発言)。
 これはひとつの例にすぎないが、「独裁」を鋭く察知し嫌悪する力。さまざまな「未来」への想像力、そして「受け入れるに値する未来」はたたかうことによってしかやってこない、という指摘など、この短いスピーチには、人間がまさに「革命」状況に置かれた時にだけ体得できる歴史感覚・洞察が表れていると言える。「安保法案」への反対運動の過程で、われわれの社会にも確実に――まだ萌芽的なものかもしれないが――「革命に立ち上がる市民」が生まれ始めているのではないか(なお、現在、「安保法案」、さらには安倍政権自体に対して多くの国民が強い危機感を覚え、この政権の存続を許せば自分たちの社会の根幹が揺らぐと感じて立ち上がりつつある状況には、2011年以降の中東に生じた革命――たとえばカイロのタハリール広場等を埋め尽くした「100万人デモ」――とある意味では共通するものがある。エジプト市民は2011年にムバーラク政権、ついで2013年にはムルスィー大統領率いるムスリム同胞団政権を打倒したが、特に後者の異常に非民主的な体質に対してエジプト国民が抱いた感情は、現在われわれが安倍政権に対して抱く危機感と実は非常に近いものがあった)。
 
三 たたかいの世界史的意味
 ここまで現在の事態の「国際」的文脈と「国内」的意味とを検討してきたが、両者は実はバラバラの問題ではない。言い換えれば、「安保法案」成立強行の過程で日本国内で民主主義の破壊、ファシズムの復活とも言える現象が生じ始めていることは、世界現代史的にも非常に深刻な問題であり、日本一国にとどまらない重要性を持つと考えられるのである。
 このことは、日本国憲法の平和主義がどのような世界史的文脈で生み出されたかを想起すれば理解できるかもしれない。日本の平和憲法は突然出現したわけではない。20世紀の世界に戦争放棄の思想が生まれるまでには、19世紀末以来の(まさに中東・アフリカ等の地域に対する)列強の進出・植民地争奪戦がきっかけとなって世界全体が戦火に投げ込まれる結果となった第一次世界大戦の教訓があり、これが(安倍政権の「戦後70年談話」でもなぜか触れられた!)「不戦条約」、さらには国連憲章へと引き継がれて、日本国憲法へと至っている。日本国憲法の平和主義の背後には、実は19世紀末以来、帝国主義と戦争に対して抗議の声を上げてきた人々の運動・思想の成果(そこには資本主義諸国内部の反戦運動、アジア・アフリカの民衆の抵抗、さらには第一次大戦に対する反戦運動としてのロシア革命なども含まれる)が隠れた水脈として存在するのである。そして、先に日本国憲法の特徴として挙げた「平和」と「民主主義」の不可分の関係は、実はこうした世界の民衆の運動の中で一貫して強く意識されてきた問題でもあった。植民地支配を推し進め、戦争への道を突き進む支配層は、その過程で必ず国内で言論・思想・政治活動の自由を抑圧し、国民の目から外交・軍事上の「機密」を隠す「秘密外交」を展開したから、必然的に、反戦運動は常に民主主義を求める運動、「秘密」主義の廃止や国民主権の徹底を求める運動でもあったのである。
 このように「平和」の問題と「民主主義」の問題が世界現代史的にも不可分なものとして推移してきていること、日本国憲法はある意味で人類史のこのような到達点を反映するものであることを考えると、現在日本にその日本国憲法を破壊しようとする、明白にファシスト的政権が出現していることは、世界全体にとって危険な兆であると言える(中東に出現した自称「イスラム国」の残虐非道も恐ろしいが、客観的・巨視的に見れば、世界第三の経済力を持つという先進資本主義国が軍国主義化・ファシスト化することの方がはるかに恐ろしいのではないか?)。安倍政権のこのような体質を諸国の支配層が黙認・放置する過程で、長期的には非民主的・ファシズム的傾向が、日本のみならずアメリカ・EU諸国・オーストラリアなど、「集団的帝国主義」体制を構成する先進資本主義諸国全体を腐食していく可能性さえあるであろう(その過程では、アメリカが日本を従属させていると同時に、日本の安倍政権との関係がアメリカを道義的に腐敗・破綻させる、という皮肉な現象も進行するかもしれない)。「先進国」に出現したこのようなファシズムは、自称「イスラム国」の撒き散らす恐怖とちょうど対を成す形で、世界を終わりのない戦争の時代へと引きずり込んでいくことになるかもしれない。
 現在われわれが行なっている「安保法案」反対のためのさまざまな取り組みは、日本国内の孤立した運動なのではなく、世界全体の今後のゆくえを左右する重要なたたかいである。日本の「平和憲法革命」は、2011年以降の中東の民衆のたたかいや、世界各地で展開されている反貧困・反戦反核等の運動と並んで、人類の歴史を切り拓いて行く役割を狙っている。誇りを持って取り組んでいきたい。