マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】大岡淳編著『21世紀のマダム・エドワルダ バタイユの現代性をめぐる6つの対話 』(光文社 2015年)

プロローグ    
1 バタイユバタイユファシストとどう違うのか 宇波彰
2 危機論 希望への想像力を獲得するために 大澤真幸
3 ファシズム論 国民国家が崩壊するとき 片山杜秀
4 エロス論 すべてはここから始まる ブブ・ド・ラ・マドレーヌ/仲野麻紀
5 全体性論 「われわれ」はどこに向かっているのか 宮台真司
6 文学論 人間の限界を超えること 中条省平
7 女神を待ちながら ――ジョルジュ・バタイユの戦争―― 大岡淳

P73から
大澤「生権力の思想…」
>>地球規模のファシズム<<
ベンヤミンの革命ビジョン
安易に前近代に回帰するのではなく、近代の必然性を認めたうえで、そこから一歩隘路を抜け出るにはどうしたらいいか
今の →オルタナティブ
スティーヴン・キング「ミスト」
サルトルアンガージュマン
つまり、誰からも答えが与えられない状況の中で選択すること、決断すること、自分の身を投げ出すこと、それがアンガジュマン
ファシズムと戦争
片山杜秀「幸せにならないこと」
唐十郎横国大の先生になって最初の授業に、黒板をぶち破ってでてきた。
丸山真男「気分のファシズム
少子化、人口減少こそ革命
ゲーテッドタウンと私兵と治安
警察
国家が国民を見捨てていく
それはナチスとも大日本帝国とも違う
ブブ・ド・ラ・マドレーヌ
風俗の現場があまりに興味深いので
仲野麻紀
「眼指される」ことの快感
樋口一葉 にごりえ 24歳で死去「一葉日記」
古橋悌二現代美術家
SNS世代(多様なのにフラット)
=多元的アイデンティティではなく、アイデンティティの欠損
無様な京都学派
マル激のバックナンバー 萱野、片山
クルト・ゲーデル不完全性定理」 必要条件と十分条件
ナチズムは「理性主義の暴走」
宮台〈原罪〉
神は世界の外にいる 人間は内にいるから必ず間違える
「部分が不可能な全体を憧憬するのがロマン主義
山科の安朱山 一燈園
関西の児童演劇運動
丸山公園
宮台と京都
<統合>と<混沌>
ユートピズムの<本質疎外論>は、<混沌>も最後は<統合>されるとします。つまりヘーゲルです。<本質疎外論>の初期マルクスヘーゲル左派から出自する理由もそこです。ところが、バタイユのように「趣味として無害化しやすい<混沌>派」もあります。これは無害化しやすい程度に応じて<統合>派に近づきます。誤解版マルクーゼに見出される<子宮回帰願望>が典型です。そこでは主体喪失が本質回帰を意味するわけです。
素人が見れば<混沌>でも、玄人が見て「これが<混沌>派です」というクリシェに嵌まれば<統合>派に過ぎない。
アングラには二本の柱があります。一つは反体制という柱。もう一つは前近代という柱。さっき話題になった資本主義のメカニズムを前提にすれば、反体制は体制の補完で、前近代は近代の補完にすぎません。廣松物象化論が、疎外論でいう本質や本来性はブルジョアイデオロギーに過ぎないと論難するのと同じです。マルクーゼの<カオスモス>はこうしたアポリアを回避する工夫だと理解できます。なにせ表象不能なのですからね。
<世界がそもそもデタラメである>ことを弁えないから、ニーチェ的な<重力の魔>から、哄笑によって自由になることができません。
ここから先はジンメルの発想になりますが、<統合なくして混沌なし>。ヘーゲル的な全体性がリアルだったからこそ、バタイユ的な至高性もあり得たのではないでしょうか。
ポール・ハギス『クラッシュ』
クローネンバーグ『コズモポリス
この映画は<受苦的>な「世界の終わり」を描くがゆえに<福音的>です。
この世界が舞台
白面に戻った際、何がすごかったのかを容易に語れる芸術と、<よくわからないけどすごい>芸術。<闇の力>。
理由がよくわからないのです。
カオスモス
安藤礼二「神々の闘争」折口信夫死者の書
ケ(日常)→ケガレ(頽落)→ハレ(非日常)→ケ
天皇はシャーマン=闇の力
岩波 近代日本総合年表
バタイユ禁制への侵犯こそ、至高性の本質でもある。至高性とは、生の持続を保証するさまざまな掟のかなたへと、死をものともせず超出する能力にほかならない」(『文学と悪』)
ファシズムに対抗する
カルト組織が必要
キューブリック アイズ・ワイズ・シャット
 
人生はつまらないもの でも一瞬連続性に接続する