マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】笠井潔、押井守『創造元年1968』(作品社 2016年)

まえがき
「1960年台後半には西側諸国、東側諸国、第三世界のそれぞれでラディカルな反権力運動が広範に生じ、たがいに共振し加速しあうように同時進行した。その頂点は1968年で、春には南ヴェトナム解放民族戦線のテト(旧正月)攻勢、フランス五月革命、「プラハの春」、夏にはシカゴの民主党大会阻止闘争(ロック・バンド「シカゴ」は、この闘争を記念して命名された)、秋には10・21新宿などの歴史的闘争が国際的に連鎖した。そのため60年代後半の大衆ラディカリズム運動は、一般に<68年>と呼ばれている。」
 
地方優等生タイプ 中核派/都会派 ブント、解放派
1968 GDP世界第二位達成
「何でも見てやろう」小田実
押井「それで渋谷や新宿に着くと、普段の駅と違う。ホームにヘルメットがダーッと並んでる。ホームを占拠していて反対側から眺めるとヘルメット一色。「これだ!俺たちがやっていたぬるい世界からぜんぜん違う世界に入ったんだ」とものすごく高揚した。すぐ向こうに戦争とか火の海の世界が一瞬見えた気がした。その時どういう言葉を交わしていたかはあまり覚えていない。やっぱり情景なんです。ある意味の自分にとっての原風景とも言える。そういう戦争の匂いのする情景を、自分の鼻を利かせて探し回っていた気がする。中央大学バリケードで封鎖された校舎の屋上で、「来年、東京中が見渡すかぎり火の海になるんだ」と熱く語ってくれた学生がいて、短い期間だったけど本当にそれを信じた。その自分の妄想にクラクラした。受験勉強も将来の人生設計もすべて関係ない。だって戦争なんだから。」
笠井「機動隊と衝突するとき、なんだか異次元に入りこんでいくような浮遊感があった。警備車のギラギラするライトの光、機動隊のジュラルミン盾の響き、デモ隊の歌声やどよめき、火炎瓶の爆発音と燃え上がる焔、その他もろもろ。非日常的な光と音の交錯が脳に作用する」
「夜のデモや機動隊との市街戦には、期せずしてディスコや仏教寺院の演出と似た感覚的刺激があって、脳内麻薬物質の過剰分泌が促されたのかもしれない。」
押井「(フィリバスター )一週間の全学集会。この非日常の状態を延々と続けることが獲得目標だった。」
バリケード 大地震 非日常
「日常こそが打倒すべき対象だ」 若い ニーチェ バタイユ
押井「僕らにとっては、恋愛というのはある意味、革命と二大テーマだったわけです。僕らの仲間には一人もガールフレンドがいなかった。」
高校生活動家 家族帝国主義
「もしも革命が成功したとしても、そのあとはロクでもない収容所的な世界が待っている」
「祝祭のなかの孤独」叛乱状態や祝祭状態に突入していくときの高揚感は圧倒的だとしても、完全に魂を奪われ切ったわけではない。ブランキ。
「どこかにあるリアルなものに、どうしても触れることができない。それが飢餓感になり、ボルテージが上がっていった」
「都会の光景が芝居の書割のように見える」
バリケードをつくったのも、見慣れた大学キャンパスの光景を魔術的に変容させたいという思いからだった。」
「いちおう、情勢論とか組織論を語るから地に足がついているように見えるけど、それは、ただの共通言語であり、日常会話であって、本音の部分では「ぶっ壊せ」ということでしたね。」
「お前がやっているのは政治ではなく文学だ」と言われた
「俺らに言わせれば文学も芸術も政治もヘチマもあるか、もっともっと根源的なものだ」
プチブル急進主義」
「僕は学内で教師と喧嘩するほうが、戦いの本質に近いと思っていた」
坂本龍一新宿高校の活動家だった頃、仲間たちと「われわれはジェルジンスキーになるしかない」と陰惨な顔で話しあっていたとか。」
安田講堂「首都制圧」「東京戦争」
小松左京でなく光瀬龍ファンだったのは、廃墟のイメージがより強烈だからでしょうか。
「何度も行っているうちに年長者として馬鹿な若者をたしなめるわけです。「君たちはたんなる欲求不満で暴れたいだけだ。具体的には女の子の問題だろう。性的な不満が根にあるんだ」、「日本や世界のことを考えるのであれば、地に足のついた運動をやるべきだ。ヘルメットかぶって突撃することとは関係ない」と。僕は「改良主義者だ」と思って猛烈に反発しました。」
「不思議なのは、闘争による世界の変容感を体験した若者が数千や万という単位でいたのに、ほとんどが戦後社会のただの日常に戻っていったこと。押井さんや僕はあの時代の体験によって人生を規定され、不完全燃焼のようなものを抱えて不機嫌に生きてきたわけだけれど、「平和と繁栄」の戦後社会に着地できた連中は何を考えてたんだろうと思う。」
「結局、当時「政治的意識」などと吼えていたことは、言ってみれば大義名分だった。本音は、全部壊したかった。ひたすら街を廃墟にすること自体が自己目的に近かったんだと思う。」
1968 10.21新宿 1969 4.28沖縄反戦デー
その時まではもしかしたらと。
「ここが勝負だと思ったのは、68年の11.22です。民青の教育学部バリケードを攻め落とすため、日大東大全共闘を支援する全国学生総決起集会に、全国から1万人の学生が集った。安田講堂前から正門までゲバ棒が林立している光景は壮観で、密集した槍兵対を形容する「ススキの穂のような」という言い回しを思い出したね。それ以前、大田区辺りの青年労働者を中心とする民青あかつき行動隊に、東大全共闘はゲバルト(暴力)で敗北していた。今夜こそ東大から民青を叩きだすんだということで全国から集まったのに、なにごとも起こらないまま解散。東大全共闘が党派の圧力に負けて日和ったんですね。ここで民青と大規模なゲバルトをやると、機動隊が突入してきて大量逮捕になるだろう。翌年の安保決戦のために戦力を温存しようとする、党派の「計画としての戦術」です。あそこで日和ったのが、後退の始まりだったと思う。
 その前の10.21新宿闘争までは登り坂でした。一ヶ月後の11.22で、60年代後半の大衆ラディカリズムは坂を下りはじめる。騒乱罪を引きだして勝利した新宿闘争でも、みんな家に帰っていくんだよ。フランスでは1848年の六月蜂起でもパリ・コミューンでも、蜂起した群衆は自分の家のあるところにバリケードを築いた。食事したり寝たりする場所が、そのまま闘争の場所だった。しかし、われわれは占拠した新宿を離れて家に帰っていく。これでは勝てないなと思いました。ただし前衛派の岩田弘は、デパ地下には大量に食料がある、それを強制徴発して新宿騒乱を続けろとアジっていた。伊勢丹三越を襲って新宿一帯にバリケードを築き、銃砲店を襲って武装すれば、機動隊が簡単に制圧することは難しくなる。しかし、それができなかった。という点からして登り坂と下り坂の分水嶺は、68年10月21日から22日に変わる瞬間にあったのかもしれない。」
「壮大なゼロ」論の総括→赤軍派
「沖縄闘争は不発に終わり、これで67年以来の激動の時代、大衆蜂起の時代も終わったと思いましたね。」
71沖縄闘争 72連赤 
革マル デモ 「いつもメシを食いに行っている食堂とか商店街のオヤジたちが全員、棍棒とかバットなんか持って店先で睨んでいる。」
内ゲバは日本に特有の現象。ヨーロッパで街頭政治の伝統は日本のように消えていません。
「その頃、いつも16ミリカメラを持って歩いていたんです。金がなかったからフィルムは入ってなかったけど」
ビューティフル・ドリーマー」は、廃墟から出発する話。
「これからどう生きればいいのかわからない、何もかも宙ぶらりんだと感じていた。連合赤軍事件に行き着いた時代経験を自分で納得できるまで徹底的に考え尽くさないと、先に進めないと。「テロルの現象学」を書くことを人生の目的にして、そのために必要な最小限の生活費だけ稼ぐという生活をしていたわけです。ほとんど金を使わないので、少し貯まったところで管理人の仕事をやめ、四畳半の部屋でも借りて総括の書の完成に専念しようとしたら、たまたま新宿で再会した国際ヒッピーの古い友人から「パリのほうが東京より圧倒的に生活費は安い。貯金を食い潰すのならパリのほうが長持ちする」と言われた。友人に背中を押されてフランスに行き、屋根裏部屋で「テロルの現象学」と「バイバイ、エンジェル」を書いて帰ってきたというのが、僕の70年代後半でした。」
「たとえばインドを漂流したカメラマンの藤原新也にしても、海外に行くことで日本を相対化するということは僕らの世代にとってはある種の知的営為だったと思う。」
フランスにとってのアルジェリア戦争
「国内亡命者」「在日日本人」
熱海、小淵沢 
「赤い風船」「沈黙の世界」浅草の灯が消える直前の最後の昭和モダニズム世代
家族の話 飲む打つ買う
親世代 立身出世主義 実利主義
→からの反動形成 遅れてきた軍国少年
小松左京「果てしなき流れの果に」
ドストエフスキー「悪霊」
アーサー・C・クラーク幼年期の終り
S・S・ヴァン=ダイン「僧正殺人事件」
埴谷雄高「死霊」
 
高橋和巳のハンスト
ヘーゲル=マルクス主義、ナポレオン。
ヘーゲルvsキルケゴール
笠井「われわれには、真にリアルなものから遮断されているという強烈な飢餓感、ザラザラした現実を見たいという、それこそ”実感”があった。」
仏教 極彩色 デモ ナチス ワーグナー リーフェンシュタール
「非日常のときは、日常を思い、日常にいると満たされずに非日常を思う。人間というものは基本的に分裂していて満たされないものなんだ。どっちにしても自分でリアルに生きていない。たぶん戦争中もリアルに生きていなかったろうし、戦後の平和な日常もリアルに感じられない。おおむねどんな人間もその思いを抱えたまま、家庭をつくり子供を育てて死んでいく。」でも、ものをつくる人間は。
「観念は爆弾」
「身体的に危険性のあるデモが街頭から消えた1970年代の半ばに、一人で冬山登山を始めました。」
死と隣接していると身体性が一気に発揮される
恋愛=命を感じる
フロスト ファルス中心主義(前者が優位)
「笠井さんは「よく豊かな」社会にコミットしようという意識はあります?」「無いですね。たとえ一瞬でも生が躍動するような鮮烈な体験をしたいというのが基本的な発想」
「あの世代の人たち(安彦、宮崎、高畑、富野)は生涯マルキシズムを引きずっている。そして反自民党。僕にとってマルキシズムという言葉の意味するところは、何事かを「統制」することです。」
ハインライン月は無慈悲な夜の女王」月の独立戦争の話
タルコフスキーvsポランスキー
モーツァルトと大衆芝居小屋
1959.11.17 デモ隊、国会に乱入。
三島はクーデタを目指していた
戦争は「祭り」だから無くならない。
宮崎、筑紫の対談 年金議論で失望 見限った
→生産力信仰
「こうした世界構造の大変動に多少とも自覚的だったのは、駐在武官として第一次大戦を間近に目撃した軍人たちでした。」
危機感を抱いた青年軍人がバーデンバーデンに集まって、陸軍革新派の原型になる集団を結成する。ここから統制派と皇道派も出てきます。
征服者が被征服者の神を吸い上げる
吉本隆明「敗北の構造」
「征服されたことを忘れ、自覚しようとしないのは、自覚を持つとプライドが傷つくし、戦わなければならなくなるから。傷つきたくなければ、征服された奴隷であることを自ら忘れてしまえばいい。支配者の神を自分たちの神であると自己欺瞞することによって、降伏し奴隷化されたというトラウマを忘却できる。このことが日本人の最大の敗北であり、太平洋戦争の敗北はその反復である」
稲作と東北と排他性
「かつて有効だった「平和と繁栄」批判はすでに無意味化している。廃墟をめぐる想像力の意味も根本的に変わってきた。失われた20年のあいだに日本社会は新自由主義に蹂躙され、個人を保護してきたもろもろの中間団体は潰され、貧困化はとめどなく進行し、非正規労働者は四割を超えた。街にビルは立ち並んでいても、すでに日本社会は形骸化し廃墟と化しているのではないか。」
「社会はどんどんシステム化され、われわれはシステムから逃げられない。それは戦後的なヒューマニズムが無効化している事態ともパラレルだよね。昔なら、たとえば木下恵介のお涙ちょうだい映画を観てから、たまたま道端にいた傷痍軍人に小銭をあげるという行動がありえた。21世紀の今は「泣ける映画」を観て大泣きしたあと、ホームレスがいたら面白いからボコろうぜ、ということにもなりかねない。なんでもいいから感動したい、大泣きしたいという心性と、イジメやレイシズムの心性は表裏ですから。」
「境界線から一歩離れてアウトサイダーになってしまってはダメです。だけどインサイダーというか、文字どおりの社会人や市民になってしまったら何も実現できない。表現の世界ということで言えば、そういうことです。」
「さっきも言いましたが、見えないところで日本社会はすでに廃墟と化している」
「テロルの現象学ヴィトゲンシュタイン<1968>からすでに50年が経過したが、今も自分はその時代を生きている。
結局のところ、人は歴史を生きることはできない。
3/9読了