マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】竹田青嗣『現代思想の冒険』(ちくま学芸文庫 1992年)

現実認識の方法(エスノメソドロジー
十人十色の<世界像>=「世界観」
欲望が社会に「規定」されている
アーサー・ミラーセールスマンの死」資本主義的能力に人間の価値像
☆ 思想は、人間が自分のうちに抱え込んでいる一般的な<世界像>に対する違和の意識から発し、この<世界像>や価値観に対する意識的な抗いの行為である。
彼は、自分の中で、社会に重く蓄積されたこの<世界像>を編み変えようとすることを通じて、自分自身の生き難さを支える。
だからわたしたちは、優れた思想のうちに、必ず、ひとりの人間が、与えられた生の条件の中を、どのように生きようとしたかという、個人の生の痕跡をも見るのである。
☆☆☆ しかし、わたしの考えでは,どんな複雑なニュアンスを持った思想も、それがそれまでの<世界像>に対する、編み変えの作業にすぎないという側面では必ずもっともシンプルなかたちに翻案することができる。思想を要約したり翻案したりすることには、その思想家の独特なニュアンスを殺す危険があるということも本当だが、しかしどんな複雑難解な思想も、それがひとりひとりの読み手によって受け取られるときには、必ずその読み手の中で、一体今までの<世界像>のどこが編み変えられたかという要点が、いちばんシンプルな形に置き直されて受け取られているのである。
・おそらくこの抑圧感は、戦後の民主主義教育によって与えられた自由な個人の理念と、現実社会が結び上げていく経済社会の秩序との間の大きなズレに由来している。
マルクス主義の「実験」
マルクス主義の失敗 社会主義国の現実 連合赤軍事件 高度経済成長1億総中流
階級→能力 抑圧感の所在の変化
マルクス主義はこの現にある社会を超えた彼岸のユートピア社会を、人間の理性の力によって現実化しようとする未曾有の実験だった。
・美しいもの豊かなものへの欲望の源泉を、これら絶えず差異化され洗練されてゆく高度社会のイメージの群から汲んでいる。
・じっさい、テレビやメディアがもたらす、さまざまな豊かで美しいエロス的イメージにわたしたちは包囲されており、ひとびとの欲望は、そのエロスイメージに吊り上げられる。そして生活上の現実的な抑圧感は、直接的な衣食住への欲求から離れて、自分の現実がいつもその先端的なエロスイメージから大きく乖離しているというところからやってきているからである。
マルクス主義 ―ポスト・マルクス主義 ―ポスト・モダニズムに分岐
形而上学(←→唯物論)>を批判、解体
 
デカルト―カント―ヘーゲルマルクス 主流
ソシュール言語学
シニフィアン(記号表現)―シニフィエ(記号内容)
②ラング(言語規則)―パロール(個々の発語)
③共時態(その時、その空間)―通時態(歴史的)
・言葉というものは、すでに客観的に存在する事物の秩序に、わたしたちが記号によって名前をつけていったものではなく、むしろ、事物の秩序とは、人間が言葉によって編み上げたものにほかならない。
・それだけでなく、この見方は、ヨーロッパの哲学や認識論を通底していた「実在論」の発送を打ち砕き、「関係論」というパラダイムを導き入れる重要な転回点になった。
・詩など、パロールがラングの体系を乗り越える。
「言葉」という、いい加減なものに思考が、認識が、規定されている。
構造主義
フッサール現象学 ―メルロ=ポンティ ―J・P・サルトル
サルトル →マルクス主義が欠いていた人間学を補充。
レヴィ=ストロース 人間の共同的な無意識の構造。
結婚というリベラル。
マルクス主義「あらゆる歴史は階級対立の歴史」
レヴィ=ストロース 人間の無意識が作り上げている構造
ドゥルーズ=ガタリ「欲望史観」
ラカン想像界象徴界」 
構造主義はこのように、社会や人間のありようを、目に見える制度のメカニズムの説明としてではなく、むしろその背後に隠されている、より普遍的な「構造」として捉えようとするモチーフを持っていたのである。
構造主義ヘーゲルマルクス主義現象学との対比で考えてみると、それが、人間の理性の<意識>的な働きから重点をズラして、理性や意識の背後に拡がりそれを規定している「構造」へと、認識の焦点を移したことがわかる。
マルクス主義思想の倫理主義的発想(ひとりひとりの人間が、社会の変革に責任を持つべきだという発想―これがスターリニズムや党派教条主義の根になったと見なされた)を相対化しようとするモチーフが横たわっている。
・<意識>された人間の動機と、社会制度の間に、無意識の「構造」という中間項をはさみこむ。
 
3.記号論 ―ロラン・バルトの「神話作用」
言語 ―社会のうちの一切の意味作用を担うもの。
デノテーションコノテーション
例えば「エキゾチック・ジャパン」 明示的な意味(デノテーション) 言外の意味(コノテーション
報道される事件、社会的イベント、ファッションや音楽のモードの流れ、演劇、祝祭…
一切が記号。社会の意味的作用の体系
カルチュラル・スタディーズ
高度消費社会の「神話的」抑圧構造を告発
 
4.現代思想のもうひとつの源流―ニーチェと反形而上学
ポスト構造主義 反=人間中心主義、反=西欧中心主義、反=理性中心主義
ニーチェ 近代哲学(=近代形而上学)の基本の考えに対する徹底的なアンチテーゼ
近代形而上学とは、キリスト教から続く、デカルトの<意識>(主体)主義、カントの道徳思想、ヘーゲルの歴史哲学、ルソー以後の民主主義、そして社会主義思想
ニーチェは、これら西欧の形而上学の思想全体を「ヨーロッパの理想」として一括。じつはその土台にニヒリスティックな性格(生への否定)を本質的に持っている、という大変興味深い批判。
ニーチェの基本的な考え方
1.キリスト教や道徳思想の起源は何か(=系譜学)。これらの起源は、支配された人間、弱者が、現実のみじめさを心理的に打ち消そうとして作り出した「禁欲主義的理想」である。そしてその本質は、弱者のルサンチマン(恨み、反感)にほかならない。この本質は、「禁欲主義的理想」に、人間の、生を肯定し、享受する力を否認させるような性格を与えている。
2.これらルサンチマンから発生した思想は、現実の世界を誤った、仮象の世界と見なし、その背後に<真の>世界があると考える。近代哲学における世界の「客観的認識」「普遍的認識」への志向は、そういった発想から現われ出たものだ。だがじつは、「客観的認識」や「普遍的認識」というものはあり得ない。どんな観点も、客観的ではあり得ず、一切は特定の視点から見出された「解釈」にすぎない。
3.<真の>世界を見出そうとする認識の働きは、やがてその極限で、<真理>や<客観>など決して存在しないことを見出すに至る。このことが、ヨーロッパの理想に、必然的にニヒリズムをもたらす。ニヒリズムとは、もはや人間や社会の存在に意味や価値を与える超越的な存在はどこにもないという確信である。
4.重要なのは、ニヒリズムを隠蔽するために何らかの価値の根拠を取り戻そうとすることではなく、むしろニヒリズムを徹底的にその最後まで貫き通すことである。そのときはじめて、<真>の世界を見出そうとする近代哲学の発想とは全く違ったかたちで、ニヒリズムを克服し得る道すじがはじめて現われる。
5.その道は、何らかの隠されていた価値を発見することではなく、むしろ人間にとっての新しい価値の秩序を創り出すことでなくてはならない。この価値の指標をなすのは次のことである。生の力を否認するルサンチマンから現われた価値(否定的、反動的な)の代りに、生を享受し肯定する、能動的、肯定的な力をどこまでも高揚させてゆくような、そういう価値基準であること。ニーチェはこれを「逆の価値定率」と呼ぶ。
 
5.ポスト構造主義の思想―<脱=構築>へ
フーコー ヨーロッパにおける、「歴史」「社会」「人間」といったパラダイムが、基本的に、権力=知による特権的な作業によって成立した。
ジャック・デリダ「脱=構築」
デリダフッサール現象学批判
現象を言い当てようとするとき、人間は必ず言葉を用いねばならず、言葉はもとの「ありのまま」から必ず隔たったものとなる。さらにこの「ありのまま」も、実はすでに言葉(記号)によって編まれているものではないだろうか?
<起源/再現>という問題に孕まれるパラドックス
「話すこと」「書くこと」の間に本質的な断絶を見出す。
パロールエクリチュール
デリダ 「超越論的な<意味されるもの>の不在は戯れと呼ぶことができようが、この不在は戯れの無際限化であって、つまり存在論=神学と形而上学との動揺である。」『グラマトロジーについて』
形而上学=ontology 
いったい、<現実>とは、そもそも言葉によって言い尽くすことができるのか?
 
6."認識批判"のもたらした難問−<世界像>それ自身への懐疑
数学の公理体系はその中だけではどんな基礎づけも持ち得ない ゲーデル「不完全性の定理」
柄谷はこのポストモダン状況の"浅薄さ"を批判
☆わたしの見るところでは、テクスト論の要諦は、言葉の本質は「世界を映しとる」という機能にあるのではなく、むしろ"言葉の世界"を編むことによってそこにエロス性を創り上げることにある。
 
7. ふたつの現代社会認識―ボードリヤール「象徴交換と死」とドゥルーズ「アンチ・オイディプス
ボードリヤールによるマルクス経済学への批判
全てが記号的円環の中のシミュラークル
高度消費社会における欲望=消費の記号性、自己増殖性
人間はシステムの内側の記号的存在
ドゥルーズガタリ 彼らはまず、社会の総体を、社会的生産のための自動的な"機械"と見なし、これを「社会機械」と
名付ける。そしてこの「社会機械」を動かす根本の動因を、人間の「欲望」であるとする。ドゥルーズではこの「欲望」が一切を動かす源泉と見なされる。
ニーチェの「力への意志」、
ラカンの「欲望」→人間の「欲望」は、本来的には無方向に錯乱してゆこうとするエネルギーとして存在するが、人間は社会の中でそれを一定の秩序(象徴秩序)へと閉じ込める。
錯乱し、 無方向的に伸び拡がろうとする「欲望」の本来的な力のありようを、彼らは「分子的多様性」と呼び、それが一定の枠組みの中にはめ込まれた状態を「モル的集合」と呼ぶ。
そして「欲望」が社会的生産(社会機械)を実現してゆく「モル的集合」を「欲望する生産」と名づける。
欲望ー「欲望する生産」を実現する社会機械の回路を形成する。ー錯乱する多様性へ逃れ出ようとする。
ドゥルーズ=ガタリの「社会機械論」
1. 古代国家ーコードの社会
2.専制主義国家ー超コードの社会
3.資本主義国家ー脱コードの社会
「欲望」がコード化される(一定の流れの決まりが作られる)
近親相姦の禁止
軍事的征服者、帝国
一切の剰余価値がまず「帝国」に帰属し、次に臣民に贈与されるというかたちをとる。こうして、臣民は「帝国」それ自身に永遠の負債を負うことになる。
ところで、これらの社会体制を通じて、「欲望」はつねに一面でコードの流れから脱け出そうとする契機を持っている。
この「欲望」の「脱コード化」の本性は、やがて〈貨幣ー資本〉の動きを通じて顕在化してくる。
だから資本主義機械は、「欲望」の新しいコード化の一形態であるというより、むしろ「欲望」の脱コード化的本性がある意味で解放されたような段階なのである。
・資本主義国家における「欲望」の制度化を支えるものとして「社会的公理系」という新しい概念を示す。
・<<国家>>脱コード化した種々の流れの調整者。
・だから結局資本主義は、「欲望」の運動を普遍的に解き放つ契機と、それを「公理系」によって「再土地化」しようとする契機との対立。
・欲望の脱コード化的本性は「分裂病(スキゾフレニー)」それを再土地化しようとする力は「パラノイア
・そしてこの再土地化「パラノイア」の契機を「欲望」に与え続けるのは、資本主義社会における「家庭」の「オイディプス関係」(父ー母ー子という三角形)。この欲望が内面化されている。
ボードリヤールの〈システム〉=ドゥルーズ=ガタリ〈資本主義機械〉
現在の高度消費社会にはその操作を司る人間的〈主体〉が決して存在せず、社会それ自身だけが〈システム=機械〉の自動運動の〈主体〉。
もはやヘーゲルの示したような主人=資本家、奴隷=労働者という図式は成立せず、この〈システム=機械〉の中では、資本家すら流通する「記号」の一項目、公理系のもとの一機械をなすにすぎない。こうして<システム=機械>の自動運動は、社会的制度(法律、諸コード)を絶えず乗り超えて進むから、この動きは人間にとって、少なくとも社会制度の改変という手続きをとる道すじの上ではまったく〝不可触″なものとなるのである。
 
8. ポスト・モダンと<現在>の世界イメージ
ポストモダン思潮の本質的な性格
1.懐疑論 2.ニヒリズム、3.反社会(システム)的心情
・彼らの仮説は、もともとはマルクス主義的な社会変革の展望を拒否するために現れたものであるにもかかわらず、いつのまにかその反<システム>的文脈だけが、ポスト・マルクス主義的視点の中に移されているのである。
・近代思想は一貫して、<社会>と<人間>の調和を問題としてきた。しかし、この調和の不可能が宣告されたとき、当然、<社会>は<人間>にとって永遠のくびきであるという視線がどうしても現われる。するとそこから<社会>という原理それ自身をいかに解体するかという課題が、一番最後のものとして残る。
<社会>という原理それ自体をとり払ってしまって、そもそも人間の生が可能であるのか?もし可能であるとしてそれはどういう形においてか。
村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
僕と影との会話
 
9."現代思想"の最後の問題点
<社会>(=現実的な人間の生の条件)をとるか、<死><狂気>(=幻想的な人間の生の条件)をとるか。
 
第2章 近代思想の捉え直し
1 近代思想の起点―デカルトの<神>とカントの<物自体>
デカルト−カント−ヘーゲルマルクス
デカルト方法序説」「省察」16世紀ヨーロッパ、ルネッサンス、人間、合理主義、現実主義(プラグマティズム
デカルト「神の存在証明」
"普遍性"を探す。
小林秀雄の解説 デカルトの<神>とは、つまり人間が持っている、善きもの、美しいもの、真なるものに対する信頼。
デカルトは、この現実主義的合理主義によって人間が失ってゆくものを直観した。それは、神学のかわりに合理的理性を得た人間が、その見返りにより重要なものを失っているという直観だった。
人間は富や物質によって生きるだけでない。人間はむしろ精神として生きている。
☆わたしたちはむしろ、そういった思想家の理路それ自体より、それを通して浮かんでくる彼の世界に対する態度のありようを、つねに汲みとるように心がけるべきなのである。
近代以前、<世界>の秩序=すべてほぼ宗教や神学。<世界>の問題は、<神>を認めるか否か、従うか否か。
これでは人間が社会の中で感じる不全感は、<神>−反<神>というきわめてせまい表現の形しか持てない。
カント「純粋理性批判」<物自体>
カントによれば人間が見ているリンゴA'は、客観(物自体)としてのリンゴが人間の感性(感覚能力)というメガネを通して脳裏に映像を結んでいるもので、人間の感性は制限されたもの(たとえば神のような存在と較べると)だから、主観に現われているリンゴは客観としてのリンゴ(=物自体)と決して「一致」しない、と言うのである。
人間が認識し得るのはいわば<物自体>(本質、客観としての世界)の制限された一部分だが、この制限のされ方は人間が先験的にもっている認識の装置の共通性によって同じである。だから、「現象」として現われ出た世界(経験世界)のありようは、必ず一定の法則によってとらえられる。こうしてカントは、人間の認識が制限されていることを認めることによって、世界を<本質の世界>(可想界)と<現象の世界>(経験界)に分け隔て、客観的認識は、経験世界においては可能だと説いたのである。
人間が先験的にもっている認識装置の共通性
彼が信じていたのはむしろ、「よきもの、美しいもの」に向かおうとする人間の精神の秩序であったろう。それを彼は<神>は存在するという言い方で説得したかった。
なにが<真理>かは決定的には判らないが、それになるべく近づいてゆこうとする努力に生きることの意味がある。
だからカントの「道徳」という概念は、キリスト教(宗教的真理)とマルクス主義(理性的真理)のちょうど中間に位置している。
 
2 近代社会の危機と自己克服―ヘーゲルからマルクス
デカルトやカントの思想が、一方では宗教的権威から人間の合理的で理性的な精神のありようを解き放つとともに、もう一方で、富の力がもたらす"物質主義"への警鐘を打ち鳴らすもの
中世 安定した秩序 宗教的モチーフ → 近代 競争原理 経済利害上のモチーフ
ヘーゲル カントの認識論にまっこうから反対<主観>も<客観>もわれわれの<概念>=意識の中で立てられた区別
精神現象学」 精神の中で起きている現象
ギターの比喩
人間がものを認識するのは、そういうプロセスの深まりであって、そこには「概念の運動」(=弁証法)があるのだ。
A意識 B自己意識 C理性 BB精神 CC宗教 DD絶対知
・そしてこういう認識の深まりが適切にたどられれば、誰しも自己を社会的な存在として自覚し、社会総体の調和と秩序を自分自身の存在の本質的な意味としてとらえるに至るだろう。<労働>(協調)と<教養>
ヘーゲルの思い描いた"理想"の社会像は、市民社会における人間の自由な欲望の錯綜を超えて、人間の社会的本質の高次の現れである国家(民族国家)という原理がこの欲望のぶつかり合いを調停してゆく、というイメージに落ち着いた。
ヘーゲルの思想は、デカルトから出発した人間の理性的精神が、はじめて厳密な仕方で社会総体の構造を問題にし、その構造を動かそうとしたという点で大きな意味を持っている。
近代哲学がヘーゲルにおいてひとつの完成を見たといわれる所以。
ヘーゲル<家族>−<市民社会>−<民族国家><社会化された人倫>生きるうえで人間はどうしても他人との間で相互に相手を了解し合うような関係を必要としている
マルクスヘーゲルに対する批判
近代国家は、ヘーゲルの予想するような私的な欲望の調停を決して市民社会にもたらさずに、人間の類的本質(社会的、人倫的本質)と、個々の私的な欲望する存在としての(自由な市民としての)本質を、永遠に分離するものとして機能してしまう。なぜか、その理由は近代国家が、富(資本−貨幣)の原理を基礎として構成されているからにほかならない。
ヘーゲルの<労働>
・彼らは価値を交換しているのではなく、むしろ存在を了解しあっているのだ。それが<労働>を介して人倫を見出すということの意味である。
ところが、<資本−貨幣>の原理がそこに入り込むとどうなるか?<労働>は賃金−貨幣に"還元"され、生産物もまた商品−貨幣に"還元"されるだろう。このことによって<労働>をどれほど積もうと、人間は(資本家も労働者も)自己の人倫(類的本質)を表現することも深めてゆくこともできない。、<労働>→「労働力商品」
資本の原理のもとでは、人間の類的本質は、そのような<物神>移し変えられる。
この"転倒"は<資本−貨幣>の原理が働く限り原理的であり、したがってこの社会構造それ自身を改変しない限り、変わらない。
 
3 近代思想の転換点
デカルト、カント/ヘーゲルマルクス
もはや人間の自然な倫理性を純化したかたちで語ってもなんにもならない。むしろそういった社会の"構造"を問題にするほかない。
ペシミスティックな現実認識
いかにして、この近代社会の構成を変えてゆくか→社会主義運動
 
第4章 反=ヘーゲルの哲学
1 キルケゴールと実存
近代社会の軸2つ<主観/客観>の"認識問題"
"人間の問題"この世でひとが生きることの意味と可能性。
近代の思惟、合理主義、理性主義、歴史主義、客観主義
キルケゴール 猛獣と大蛇と鼠と古井戸の比喩
このエピソードは、人間が生きているということが煎じ詰めれば「絶体絶命」状態の内側にあるということを鮮やかに示している。つまり人間は基本的には<死>という絶対的な限界を持っている。キルケゴールの哲学は、このことがわたしたちの生に与えている意味を深くとらえようとするところから始まっているのである。<有限性−無限性>の絶望
いずれの道をとろうと、人間はまず中途半端なところまでしかゆけない。<可能性−必然性>の絶望
可能性の度合い=意味
幸運な人間は次々に自分の可能性を実現する。だが、人間が自由な現在を生きるためには、欲望の実現ではなく、むしろその絶えざる可能性こそが必要なのである。
ユートピアディストピア
思い切って単純化すれば、ヘーゲルがいわば<歴史>や<社会>のほうから<人間>を見つめたとすれば、キルケゴールは個々の生を生きる<人間>のほうから<歴史>や<社会>を見たのである。<社会>/<人間> <客観>/<主観>
・だから根本的かつ最終的に問題なのは、誰にとってもただ自分の固有の生をどうするかということだけなのである。こうしてキルケゴールによれば、<社会>の問題はじつは人間の固有の生(=実存)の問題に還元され得るが、人間の固有の生の問題は<社会>の問題には決して還元され得ない。
これが、いわば<個人>から<社会>を見上げる<実存>的な視線のエッセンスである。
2.ニーチェ ―反形而上学ニヒリズムの克服
ニーチェヘーゲルマルクス主義に至るまでの西洋形而上学キリスト教を含む)の"理想"は、じつは弱者のルサンチマン(うらみ)から発したニヒリスティックな本質を持っていた。
「貧しきものこそ幸いである」
弱者の価値は、つねに強者の価値への反動として生じる。
ほんとうは誰しも豊かな生を享受したいと思っている。しかし、この世の強者と弱者と秩序がどうしても動かし難いものと感じられるとき、弱者は、現実の秩序をそのままにして、ただ心情の秩序の中で価値の逆転を行おうとするのである。もちろんこのことはある程度避け難い人間の心の動きだろう。問題は、キリスト教の道徳がこの価値をひとつの真理として固定し、そのことによって人間から現世的な生の可能性を奪い、ただ彼岸における(つまり神の審判の後の)生の可能性だけをひとびとに与えるということだ。ニーチェキリスト教の道徳や教義に直観していたのは、このような歴史的な欺瞞にほかならない。
・世界を否定し、生を敵視し、官能を信ぜず、哲学者(宗教者)たちに特有な脱俗的態度
「禁欲主義的」理想
世界は理想の状態に変えられねばならないという考えは、理想の状態が「存在」するはずであるという考えを導く。
原理的にニヒリズムを呼び寄せてしまう。
社会の改変へのどんな努力にかかわらず、<社会>が、物神的な欲望のオートマティックな永続的システムとしてこの努力を回収してしまう。
☆ヨーロッパの形而上学は、世界は矛盾に満ちている、したがってこの世界は誤った、偽りの世界だ、と考えてきた。だが、この考えをきっぱり捨て去るべきだ。むしろ、次のような根本的事実を承認しなければならない。要するにこの世界には、力を持った強い人間と、力の劣った弱い人間が存在し、強者は弱者を利用して自分の力への意志を実現する。それだけが事実であって、こういった世界以外にはどんな世界も全く存在しない。真の<世界>、あるべき<世界>とは、弱者の目から見られた世界の一解釈にほかならないのである。
今までの一切の世界観は、総じて弱者から見られた世界の解釈
それは苦悩、不幸、悲惨、反感などの<意識>に裏打ちされている。<意識>は世界を解釈する、だがまさしくそのことがかつての世界観に、生の否定に向かうような性格を与えていた。
したがって<意識>からではない価値の尺度を与えることが問題。
ニーチェの目論見は、要するに、もしも人間がそこへ向かうなら、総体として思想が生の否定に陥らず、生が能動的で肯定的なものとして是認され続けてゆくような、そういう「価値」を世界の中に作り出す(定立する)ことにほかならない。そしてそのために、ニーチェはひとつの根本的な仮説を提出している。それは「力への意志」を高めること、そこに人間の生の根本モチーフがある、という仮説にほかならない。 →「超人」「永劫回帰」へ
 
第5章 現象学と<真理>の概念
1 <主観/客観>という難問
フッサール
「認識は、それがどのように形成されていようと、1個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。しかも認識には、認識される客観が対立しているのである。ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのだろうか?認識はどのようにして自己を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか?」(「現象学の理念」)
「一致」は原理的に確かめ得ないばかりでなく、むしろ一方に<主観>があり、もう一方に<客観>があるという近代哲学の前提そのものがそもそも誤りにすぎない。
デリダ的視線の結論―<主観>の数だけ真理がある。「クレタ人のパラドクス」のように、言説の真偽は誰も確かめられないというかたちで論証。
ドゥルーズ的「生成」の概念―自然の生成は決して整合的な秩序をもたず、またどんな目的も持たない。したがって人間の認識は、決してこの自然の生成それ自体をとらえることができず、ただそれを人間の認識の秩序に合わせて切りとっているにすぎない。
ニーチェ力への意志」=ドゥルーズ欲望
フッサールによれば、近代哲学が<客観>と呼びその実在を確かめようとしていたものの正体は、じつは、間主観性として(二つ以上の主観に共通して)成立する、恣意的にはどうしても動かし難い「確信の構造」ということなのである。<主観>とか<真理>→二人とか百人の間に共通の確信が成立するか否か。<ノエシスノエマ><内在−超越>
たとえば人間の一番強固な(動かし難い)共通の確信は、<自分>の外側に実在する自然世界が拡がっており、<自分>はその中で、ものや<他人>とともに、それらと関係して生きているという了解である。ただし<自分>は<自分>として存在しているという確信、<他社>は<自分>と同じような<意識>として存在するという確信も、<世界>が存在するという確信と同時的かつ対応的に成立する。
フッサール「本質把握や本質直感というものは、(略)感性的知覚作用の類比物であって、空想作用の類比物ではないのである」
現象学の視線のエッセンス「ほんとう」「確信」「信憑」ということについての、ひとつの徹底したつきつめ。
フッサールのこのような考え方は、伝統的な形而上学の<真理>概念を一変するような意味を持っていた。これも単純化して言うと、<真理>とは、<われわれ>の彼方に存在するのではなく、ただ<われわれ>の相互的な納得を見出すことにだけある。 
 
第6章 存在と意味への問い
1 実存の意味
人間の生の根本条件が大きな制約をもっているからこそ、人間は<社会>や<歴史>(あるいは「美」や「真」)という関係の像を信じ、それに届こうとする努力を生み出している。
"でもやるんだよ"根本敬
2 ハイデガー存在論−実存論
「そもそもあるとはいったいいかなることか」
世界の中に人間が存在している 実存(存在)


世界とは、われわれの<意識>の中にある 実存論(存在論
ネガとポジ
「体験」の構造
日常の中でごく一般的に存在する人間(=世人)は、どういうあり方で生きているだろうか。ハイデガーはこれをある独創のニュアンスをこめて「頽落」という言葉で呼ぶ。「頽落」とは堕落しているということではなく、世間日常の一般的な世事にとりまぎれているという意味だ。
ハイデガーによれば、現存在(人間)が存在するいちばん基本の事実は「気遣い(ゾルゲ)」という術後で呼ばれる。人間は要するに、いろんなレベルでいろんなものごとに関心を向け、興味をもち、欲望し、可能性を見出して生きている。こういう「気遣い」として人間が存在しているから、事物は人間にとって<開示>してくる。飲みたいとか食べたいという欲望があるから、水や食べ物、働いて金を稼ぎ、物を買うという日常生活の秩序が呼びよせられ、それが日常<世界>を組み立てている。あらかじめ日常世界の秩序があって、その中に人間は投げ入れられその秩序を認識するのではない。
「死」を自覚すると「良心の呼び声」がやってくる。
「良心」="端的なよきもの"に向かおうとするような人間の欲望のありよう
人間の生の意味=自由
被投性 それを破ろうとする可能性 欲望
 
終章 エロスとしての<世界>
1 バタイユの<死>の乗り超え
欲望はつねに理性を超えてわたしたちを誘惑し魅惑する、「よいもの」「喜ばしきもの」「美しきもの」「豊かなもの」「快であるもの」を意味している。そういう欲望の性格を表現する言葉としては、良心でも真理でも善でもなく、エロス性という言い方がもっともかなっているように思える。
バタイユ エロティシズム 神聖を瀆すこと。犯す。侵す。
☆☆「われわれ人間は不連続の存在であり、不可解な偶発事のなかで孤独に死んでゆく個体であるが、失われた連続性への郷愁をもっている。そして、偶然の個体に釘づけにされ、死ぬべき個体に縛りつけられているわれわれの置かれている状況が堪えがたい。この死すべきものの存続に不安な望みをいだくと同時に、全的にわれわれを存在に再び結びつける原初の連続性に対する執着をもっている。」
死の不安の乗り越えを味わう それが生の過剰 浪費性
人間の<実存>から見れば、ひとびとの生を根本的におしているのは、限定されたこの生から(まさしくそれが限定されているという理由によって)、できる限りエロス性を味わいたいという衝動である。人間の欲望がこの衝動に規定されていることは、いわば「根本的な事実」であろう。
非連続性のうちに閉じ込められた人間の土台、最後の可能性=<他者>との相互了解への信
人間の性的な<エロス>が、本質的に具体的な<他者>との"非連続性"を乗り超え得るという幻想性への欲望にそのモチーフの根を持っていたように、<美>とは、いわば日常世界における生の硬化(=非連続性)を乗り超えて存在し得るという幻想への欲望をモチーフとしている。
要するに、<エロス>や<美>というものも、じつはその内実のうちに、人間にとっての<他者>との了解(通じ合うこと)の可能性という契機を、最も本質的な核心として孕んでいるのである。
現実を"変えうる"という可能性を手放すな。
 
あとがき
哲学を"耳学問"で済むようなものに引き下げたかった。
8/7読了。