マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】篠原雅武『生きられたニュータウン -未来空間の哲学-』(青土社 2015年)

ニュータウンの空間は、透明で、平穏である。そして、この透明感、平穏には、どことなく紛い物めいた雰囲気がある。透明で平穏であるこの状態に現実感がない。現実感がないのは、そこで時間が停止しているように感じられてしまうからである。
村田沙耶香「しろいろの街の、その骨の体温の」
みずからをとりまく世界の停止。何かをしていてもそのことが本当に起きていることであると確信できないという身体感覚は、空間の停止状態と相関している。
ニュータウンは、他の世界との相互接触を欠いている。そもそもが、ニュータウンという区域は、それだけで完結した、自己充足的な世界と見立てられるところにおいて、成り立っている。
・人々のあいだに置かれたテーブルのように、公共空間は、「人間を関係づけると同時に引き離す」
・団地と団地、街区と街区、部屋と部屋のあいだに、様々な「人間を関係づけると同時に引き離す」境界的な空間を創出することが、問題の解決ということになる。
・そもそもニュータウンは、山林や丘陵の只中に穿たれた空白地を充たすことで成り立っている。集まりと出会いのための公共空間などはなかったところに成立している。そこには、古代ギリシアに由来する理念もなければ西洋的な都市の原理もない。空白地が、団地や芝生や公園や学校といった様々な要素空間で整然と充たされていく過程の帰結である。
坂部恵「<ふるまい>の詩学
本当に問題とすべきは、「ふれ」や「響き」というような、気配や雰囲気にかかわる言葉で言い表される何ものかなのだろう。それらは、人の心から独立している状態で実在している。それでも、気配や雰囲気は、事物そのものではない。ものならぬものとして実在している。
ティモシー・モートン「自然なきエコロジー
モートンの立場は、「環境」を、自然への回帰といったロマン主義的な傾向にとらわれることなしに思考しようとするものである。それをモートンは、雰囲気(ambience)としかいいようのないものとして捉えようとする。この立場は、世界を記号や言説で構築されたものと捉える文化論的な立場を批判し、乗り越えようとするものといえる。つまりモートンによれば、世界は、雰囲気、質感、動きに満ちたものである。環境を、質感という感覚的なところから考えていくというモートンの試みは、じつはきわめて現代的である。人文学の関心は、長らく言語の問題に向けられていたが、2000年あたりから、私たちが生きているこの世界のあり方へと向けられるようになっているからだ。
常山未央「不動前ハウス」シェアハウス
ニュータウンは、進歩と成長が信じられた時代に建設され、消費社会化が進む時代に拡張した。その間、核家族的な生活形式は表面上は維持され、幸せな家族像として信じられてきたのであったが、現在はどうだろうか。
ニュータウンは、無限の進歩と成長が可能であるという信念に対応する空間である。
無限の進歩、成長を信じることのできない状態にある人間が、こうした信念の産物である空間のなかでいまだに生きてしまっている。ここには、何らかの歪さがあり、無理がある。
本書は、ニュータウンのような空間のさらなる先を想像しようとする人たちのために書かれている。ニュータウンとは何だったかを見つめ直し、また、この空間において育まれた思考習慣、行動様式を見つめ直し、それらを、現代という転換点において克服する。未来の都市への想像力は、この内省と克服という鍛錬を要する。



 
第一章 生きられたニュータウン
現実感の希薄さ 
団地という"物化" 同質性 皆同じという思想
安部公房「燃えつきた地図」
機能的に区画化され、番号を付された世界
職住分離 (伝承、習俗、風土性)
環境世界の人間化。予期しえないものの除去、馴致
ニュータウンでは、個々の住宅内で営まれている私生活が、重視されている。基本機能が備わっていて利便性が保たれていても、人と人が出会う場や意思疎通を行なうといった私的ならざる公共的な生活のための場が乏しい。他人との関係もまた、予期しえないもの、手なづけえないものであるといえるが、それでも、他人との関係をも可能なかぎり手なづけ、予期可能なものにして制御するということが、ニュータウンでの生活形式を支えている。
モートンは、瞑想(meditation)が大切であると述べている。瞑想は、「私たちの概念的な硬直性を解きほぐし、絡まり合い(mesh)の開放性を探求していくこと」
 
第二章 ニュータウンと自然
黒川紀章ニュータウン 湘南ライフタウン
丹下健三「東京計画1960」
 
第三章 人工・超都市・集団性
その各々は、シリンダー錠で施錠され、自己完結している。複数の密室が、相互的な関連を欠いた状態で、集まっている。
私的ないしは排他的な空間の集合体であるニュータウンは、イメージと言葉と音楽が漂い交錯していく世界の錯綜性のなかに異物として投入されたと考えることができるだろう。
求められるのは、ニュータウンという異物性を、世界の錯綜性の側へと向けて崩し、分解することである。つまり、ニュータウンのなかで営まれている生活を世界の錯綜性へと開き、かつ、世界の錯綜性を、ニュータウンのなかへと招き入れていくことである。
 
第二部
第一章 人工都市の空間
都市を歩くとき、私たちは、その都市に特有の何かを感じとる。 テユ・コール「都市性(citiness)」
アレグザンダー「都市はツリーではない」
長い年月にわたり、ともかく自然にできあがった都市を「自然都市」、
またデザイナーやプランナーによって周到に計画された都市「人工都市」
人間生活は、各々が相互的関連を欠いた状態で団地の住宅のなかで個々別々に断片的に営まれているが、その外に広がる世界は存在しないかのようである。
片寄俊秀「実験都市」
千里ニュータウン、遊べない芝生
千里ニュータウンのマスタープラン作成にも関与した都市工学者、高山英華「敗戦によって、慌ただしく変動するわが国において、その壊滅し混乱した都市の復興を考えた場合、集団的住宅地の建設を通じて、新しい市民秩序を探し求めることは重要なことであろう。」
「たしかに、私たちの身の回りには、あまりにも多くの事物がある。食品、家電、書籍、CD、住居などに顕著だが、不要であるというだけでなく、心身に害悪を及ぼすとしか思えないものも増えている。」
1981年生まれ、トリスタン・ガルシア

第二章 空間の静謐/静謐の空間
写真家 アレックス・ウェブ
「私はときに状況のなかを歩きまわり、ときにうろつき、街路のリズムを把握していく。」
カフェ、いずれにせよ、人はそこで、思考し、議論し、考察を深め、理解していく。思考と理解は、空間を必要とする。
「人間のすべての<ふるまい>が、「せぬひま」、「静慮」、vita contemplativaへのひそかな、しかし何よりもたしかな根づきとつながりを失うとき、人間の<ふるまい>はおそらく、本来人間の<ふるまい>とは呼べないグロテスクな何ものかに変じてしまい、悠久の時このかた、ひとびとの暮らしをひそやかに支えつづけてきた<正気>は、それと気づかれることもないままに生活の舞台をそっと立ち去るであろう。」
テユ・コール NY在住、ナイジェリア人、小説家
「開かれた都市」 NY 仕事のあとの散歩、静けさは、音がない状態を意味しない。穏やかでいられる状態。
「開かれた都市」は、正気を失わないで生きていくことの条件を、静かに、そして着実に描き出そうとする。正気は、いかにして可能か。正気は、静けさを必要とする。
クリストファー・アレグザンダー
「パターン・ランゲージ」「時を超えた建築の道」
アレグザンダーは、空間には、名づけえぬ質があると述べている。
>>空間を味わう。なんとかBARの店内<<
「人間、街、建物、自然の命と精神の根本的な基準となる重要な質が存在する。」
「静謐な気分」
乾久美子 亀岡のみずのき美術館
 
第三部
第一章 巨大都市化と空間秩序
ゲオルク・ジンメル「大都市と精神生活」
「大都市は、社会的諸関係の合理化の過程を前提とする、一般的な形式である」
貨幣経済という、交換価値に基づくものが、日常生活を律するものとして確率されていくというのが、ジンメルのいう大都市化であった。
そこでは、「驚くべき出来事の可能性をあらかじめ除去する、合理的に計算された諸関係のシステム」が成立していく。
丹下健三メタボリズムに連なる建築家たち(黒川紀章、浅田孝、菊竹清訓など)「東京計画1960」「塔状都市」
第一次世界大戦後、全体論がブーム。
浅田孝と高山英華の対比
浅田「都市はすぐれて錯綜した社会的空間的なシステムである」
>>土地制度、土地所有制度の問題<<
複雑系理論の創始者の一人、アンリ・ポワンカレ「科学の価値」
 
第二章 崩壊のふるまい/ふるまいの崩壊
相互連関とふるまいの場
効用が第一の価値基準となった状態で生きること=正気を欠いた世界
車道、区画、面白さ、興味深さの排除
 
第三章 ニュータウンの果て
多木浩二「生きられる空間」
「どんな古く醜い家でも、人が住むかぎりは不思議な鼓動を失わないものである。変化しながら安定している。…住むことが日々すべてを現在のなかにならべかえるからである。」
レム・コールハース
「日本列島にスペースはもうない―日本はほとんどが山で、居住に適したわずかな土地は、何世紀もかけて細密な所有権のパッチワークにされている。」
メタボリズム運動の頂点が、大阪万博であった。万博会場は、千里ニュータウンと隣接していた。
「彩都」文化都市、研究学園都
コールハースは、現在の郊外都市を、ジェネリック・シティと呼んでいる。そこは、「ただひたすら今のニーズ、今の能力を映し出すのみである。それは歴史のない都市だ。大きいからみんなが住める。お手軽だ。メンテナンスも要らない。手狭になれば広がるだけ。古くなったら自らを壊して刷新する。どこもエキサイティングで退屈だ。」住むことが必要とされれば住宅が建てられ、受験勉強が必要とされれば学習塾が建てられる。老人が増えれば介護のための建物が建てられる。空白と、そこを充たす建物がある。必要とされれば空白は充たされるが、必要がなければ空白は放置される。また、不要とされた施設は壊され、空白になる。
ニュータウンにおいて、空白、空虚、あるいは荒廃として現実に生じている。だがそれも、空虚や荒廃といった言葉を与えられることで私たちははじめてそうだと気づき、考えるようになるといった類のもので、そのような言葉がないならば、私たちは、雰囲気として、気配として現実に生じているのにも拘らず、それに気づくことのないままやり過ごすことになりかねない。
そのためにも、ニュータウンという空間に漂う空虚としかいいようのない雰囲気について、論理的に考えておく必要がある。
 
第四部
第一章 都市の物語 箱、錯綜、混淆
人間生活は、子育て、研究、会話、散歩、料理、音楽、読書、メール、打ち合わせ、通勤通学といった無数の主体的活動で構成される。マヌエル・デランダの主張を踏まえていうならば、その各々が、精神とは独立の世界において、現実的な出来事として起こっているということになろう。ではいったい、このような出来事をいかにして捉えたらいいのか。精神とは独立の世界とはどのような世界であるか。本書では、こう主張したい。この出来事の現実性は、空間性のある世界において営まれているものとして考えることができる、と。つまり、各々の人間活動は、何らかの外的空間と特別に結びついている。私室、街路、公園、市場、ショッピングモールといった空間である。
ロバート・パーク「都市は、人間がつくりだした世界であるとしたら、そこは人間が今後も生きることを強いられるようになる世界である。かくして、都市をつくることで、間接的に、そして自分がしていることの性質をはっきりと自覚することもなく、人間は己自身を作りなおしている。」
フェリックス・ガタリ「三つのエコロジー
「親族のつながりは最小限に切りちぢめられる傾向にあり、また家庭内の生活はマスメディアの消費のためにむしばまれている。夫婦生活や家庭生活は往々にして一種の行動の画一化によって「形骸化」しているし、隣近所とのつきあいも一般にこのうえなく貧しい表現しかとりえないようになっている。」
安部公房「都市の国家に対する自立性の回復」
能作淳平「ハウス・イン・ニュータウン
「縁」(へり)。山本理顕の閾
能作の考えでは、ニュータウンには人が交流するのにふさわしい空間がない。そのために、戸建て住宅の中に生きている人たちは外の世界から切断されてしまう。孤立状態は、子育てなど、さまざまな人の助けを借り受けなくては困難な営みにとって、望ましいことではない。
 
第二章 静かな都市
空間の気配や雰囲気
空間は作り出すもの。
生きられたニュータウン=古くなる。
ラース・フォン・トリアー 2003「ドッグヴィル
ニュータウン=空間の秩序化
tofubeat「水星」 神戸 ニュータウン
中島晴矢
ニュータウンは私の地元であり、この街の小奇麗な秩序に対して、両義的な思いがある。」
日 直彦
ニュータウンが建設された60年代後半は、国民のあいだに私生活主義が蔓延していく時代でもあった。ニュータウンは、「政治への不信から私的領域を自力で充実させて行こうとする生活防衛」の気風に適合的であった。なお、藤田省三の高度経済成長批判は、私生活主義への批判であったといえるだろう。私生活主義を批判し、公的世界の復権を主張するというのがその骨子である。