マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】浅田彰『構造と力―記号論を超えて』(勁草書房 1983年)

目次
本書の構成について

序に代えて
《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試み――千の否のあと大学の可能性を問う
 1 目的としての知と手段としての知
 2 宗教としての知と技術としての知
 3 〈教養〉のジャングルの中へ
 おわりに

I 構造主義ポスト構造主義のパースペクティヴ

第一章 構造とその外部 あるいはEXCESの行方――構造主義の復習とポスト構造主義の予習のためのノート
 1 ピュシス あるいは 生命の世界
 2 カオス あるいは 錯乱せる自然
 3 象徴秩序 恣意性・差異性・共時性
 4 間奏曲
 5 交換と《贈与の一撃》
 6 象徴秩序とカオスの相互作用
 7 《女》について
 8 《近代》について
 9 むすび あるいは はじまり

第二章 ダイアグラム――ヘーゲルバタイユの呪縛から逃れ出るための
 はじめに
 1 構造
 2 構造とその外部――弁証法的相互作用
 3 機械・装置・テクスト――二元論からの脱出
 おわりに

II 構造主義のリミットを超える――ラカンラカン以後

第三章 ラカン 構造主義のリミットとしての
 1 個と対
 2 相互性と双数性
 3 想像界象徴界
 4 構造とその外部
 5 構造と力

第四章 コードなき時代の国家――ドゥルーズ=ガタリのテーマによるラフ・スケッチの試み
 はじめに
 1 コード化・超コード化・脱コード化
 2 三段階図式と歴史
 3 原国家と近代国家
 4 エタとナシオン

第五章 クラインの壺 あるいはフロンティアの消滅
 1 内と外――二元論の神話
 2 クラインの壺――二元論の終焉
 3 都市的なるものをめぐって

第六章 クラインの壺からリゾームへ――不幸な道化としての近代人の肖像・断章
 1 ふたつの教室
 2 近代の不幸な道化
 3 砂漠へ

あとがき
初出一覧

序.大学について
1.目的としての知と手段としての知
・「実学
>>star of detectives<<
・シラケつつノリ、ノリつつシラケる
・色メガネ=ドクサ
・裸眼で世界の実相を見る=エピステーメー
・知と戯れる
・カイヨワ<聖−俗−遊>の「遊」
 
2.宗教としての知と技術としての知
・「恣意性の制限」としての文化(ソシュール
レヴィ=ストロース「冷たい社会」と「熱い社会」
・「冷たい社会」=安定的な象徴秩序、コスモスとノモス
・「もちろん、そのような仕組みをとったからといって、象徴秩序の中にカオスを回収しつくすことはできない。未だ象徴秩序に包摂されざる部分、そこからはみ出した過剰なる部分、バタイユの言う「呪われた部分」が、常に残っている。「冷たい社会」は、周期的な祝祭における常軌を逸した蕩尽によってこの過剰なる部分を処理し、そのことによって日常における象徴秩序の安定性を維持していると言っていいだろう。」
・「熱い社会」=それらを脱コード化(ドゥルーズ)→アノミー
・差異(前進)を追い求める。破局を先送りし続ける。
・「従って、「冷たい社会」が周期的な祝祭を必要としたのに対して、「熱い社会」は祝祭を知らない。過剰なる部分は、一歩でも余計に進もう、余分な何かを生産しようとする日常の絶えざる前進そのものによって、形を変えて実現されているのだ。その意味で、バタイユの礼賛したポトラッチは、近代社会と無縁である。むしろ、日常の生活そのものが、世俗化された持続的ポトラッチと化していると言うべきだろう。」
・「国家のイデオロギー装置」(アルチュセール)としての教育機構
>>「ぴっかぴか音楽館」「そんなの当たり前さ21世紀」と万博<<
・「近代社会の全身運動の不安定性」「経済学史に例をとれば、最も大きな声で王様は裸だと叫んだ子供は、ほかならぬマルクス
・→ケインズもコスモス/ノモスの安定
・「幻想的安定感」
・世界−全体性−連続性
・コンヴィヴィアリティ=生き生きと生きること。
 
3.<教養>のジャングルの中へ
・「ドゥルーズ=ガタリはそれを欲望機械と定式化するのだが、相手かまわず連結し、また切断し、それを際限なく繰り返すその無節操ぶりの方が、やせ細ったアイデンティティなどよりはるかに生産的だということは、強調しておいてよい。」
・「本と娼婦は、ベッドに連れこむことができる」ベンヤミン
 
I.構造主義ポスト構造主義のパースペクティヴ
・第一章 構造とその外部 あるいはEXCES(ズレ)の行方
1.ピュシスあるいは生命の世界
2.カオスあるいは錯乱せる自然
・生きた自然からのズレ、ピュシスからの追放。
・「これこそ人間と社会の学の出発点である。人間はエコシステムの中に所を得て安らうことのできない欠陥生物であり、確定した生のサンス(方向性)を持ち合わせない、言いかえれば、過剰なサンスを孕んでしまった、反自然的存在なのである。」
>>言語以前、言語以後<<
・「理性のヒト(ホモ・サピエンス)」
象徴界想像界
・ピュシス→カオス
 
3.象徴秩序 恣意性・差異性・共時性
・「自然の秩序たるピュシスからはみ出し、カオスの中に投げ込まれた人間は、そこに文化の秩序を打ち立てねばならない。「自然の秩序は、はるかに強力に、ホメオスタシス、調整作用、プログラム化によって支配されている。人間の秩序こそが、無秩序の星の下に展開されるのである。」この文化の秩序が必然的に、恣意的・差異的・共時的な構造、即ち象徴秩序という形をとることを明らかにしたのは、構造主義の最大の功績である。」
・「カオスに投げ込まれた人間は、ピュシスに代わりうるような何らかの秩序を構成することなしには生きられず、その意味で文化の秩序は不可欠であるが、文化の秩序がある特定の形をとる根拠を問うならば、そこにはピュシスにおけるような必然性はなく、根源的な恣意性に突き当たらざるをえない。」
・文化の秩序=「恣意性の制限」「恣意性の制度化」
・象徴秩序=文化の秩序=言語の秩序
 
4.間奏曲
・「ピュシスの代替物として構成される象徴秩序は、ある意味で当然の成行きとして、自らの恣意性・人為性を隠蔽すべく己が生成過程を消去し、万古不易の自然であるかのように装う。あの恐るべきカオスの記憶、「あらゆる共同体の企てに洪水を引き入れかねない大いなる生の宇宙の記憶」は、是が非でも抑圧されねばならない。かくして、部分にすぎない象徴秩序がその外部を隠蔽しつつ全体を僭称するに至るのである。これこそイデオロギーの原基形態ではなかったか?
構造主義は外部たるEXCESを無視している
 
5.交換と<<贈与の一撃>>
・象徴秩序の再生産は、交換ないしコミュニケーションによってなされる。
・近親相姦の禁止=女の交換(交流)
ブランショ宮川淳吉岡実の芸術批評。イマージュ。
・贈与=浮遊するシニフィアン
・象徴秩序と原初(始源)のカオス
・「だから、誰もが言語以前の世界を心の奥底で夢見ている。」
・コスモス(宇宙)/ノモス(法律、礼法、習慣、掟、伝統文化といった規範)が安定した支配を確立すると、カオスへの入口は岩でふさがれる。
 
6.象徴秩序とカオスの相互作用
ジュリア・クリステヴァ サンボリック(象徴界、父の命令)とセミオティック(言語以前、現実界、母)
・「ピュシスの類同代理物たる象徴秩序は、いわば有能な演出家として、各人に舞台とシナリオを割りふる。アルチュセールの言葉を借りれば、各人を「主体」にするのである。この主体は、上から見れば構造の《臣下》であるにもかかわらず、自らは《主君》気取りで、与えられた舞台とシナリオを、自己の選択によるものと思いなす。こうして、主体は象徴秩序の一隅にノエシス(思考)−ノエマ(思考されたもの)的な網を張ってその中心に居座り、架構の始源から架構の終局=目的に向けて自信満々で歩むということになる。これこそ、デカルトから現象学にいたる哲学が前提としてきた、定立的・綜合的な主体、即ち、「名指し述定する主体」に他ならない。」
・人間の欲動は常にエロスとタナトスの両者を過剰に孕む→自らのうちに「分裂」を孕む
・「神秘主義ユートピア思想は、しばしば、すべてをエロス的結合のうちに呑み込んで融合させる生のうねりを、深層に措定してきた。《全婚》を頂点とするフーリエのヴィジョンなどはその極致であろう。我々は、しかし、そこに分裂の契機を持ち込むことにより、決して一様で静的なニルヴァーナに達することのない否定性のダイナミズムを注視せねばならない。」
セミオティックなカオスの象徴秩序への侵入。これは象徴秩序のイデオロギーの最も嫌うところである。
レヴィ=ストロース 供犠(sacrifice)
・「必然的に外部を伴わざるをえない象徴秩序は、トーテミスムと並んで、同期的な祝祭による過剰の処理というメカニズムを備えることによってはじめて、永く秩序を維持できる。こうして、象徴秩序とカオスとの緊密な相互作用が明らかにされる。これを山口昌男は「秩序と混沌の弁証法」と呼ぶ。」
>>象徴秩序に中に生きる者達は、カオスを非常に恐れる<<
・宗教=官僚的機構
バタイユファシズムか祝祭的革命か>
ファシズム 鷲 祝祭的革命 モグラ
光と闇 昼と夜 神と悪魔
クリステヴァの四つの類型
A−オイコス 家
B−ノモス 社会、国家
C−コスモス 宗教
D−カオス 実践、モグラ
 
7.《女》について
ニーチェフェミニズム批判
・彼女らは男になろうとしている
 
8.《近代》について
・近代=国家のコード→資本主義のコード
・すみずみまで脱聖化された同質的な空間
・近代→オイコス−ノモス構造の解体→アノミーの危機→解決方法は永遠の先送り(絶えざる前進)
・「実際、近代社会は、いわば世俗化された持続的ポトラッチという様相を呈する。そこでは、全員が他人を出し抜いて一歩でも先へ進むことだけを願っており、ある意味で、カオスにおける相互暴力のミメティスが再現されているのである。」
>>90年代までは消費社会のダイナミズムがあったが、00年代以降は硬直している。1930年から1975年、ピケティの特別な45年<<
・ゴールを持たない競争
・こうした仕組をもつ近代社会は、祝祭の興奮を知らない
・父とその言葉→物神としての貨幣 「過剰の十全な存在形態」
・貨幣が「新しい中心」
・サンボリックな中心でもありイマジネールな偶像でもある貨幣は、とりわけすぐれたフェティッシュであると言える。
・フェティッシュ象徴界想像界を結ぶ虫食い穴のようなものである。
・「欲望はいわば象徴界に開けられた穴から想像界へと逃げてゆく」
・近代社会の共同的フェティッシュとしての貨幣
>>お金を燃やしては、捨ててはいけないという法律。貨幣損傷等取締法。<<
・「こうして、多方向的な欲動の流れは整流器としての貨幣を通して一方向的な欲望の流れとなり、膨大な一方通行の過程が開始されることになるのである。」
ゲゼルシャフト 集合態的 近代/ゲマインシャフト 共同態的 近代以前
・「ともあれ、商品交換による脱コード化が一般的な規模で進行することによって、貨幣を整流器とする膨大な前進的流れとしての近代社会が成立してしまった以上、その現実を無視した議論はもはや有効性をもちえない。勿論、この現実を肯定しようと言うのではない。近代社会はあくまでも不均衡累積過程として実現されており、確たる目標もなく走り続けねばならないという脅迫観念が、「象徴秩序の中の居心地の悪さ」に優るとも劣らぬ重苦しさで、人々の上にのしかかっている。」
・「にもかかわらず、我々は退路が何重にも断たれていることを確認しないわけにはいかないだろう。まず、疎外論的な戦略の無効性は明らかである。「はじめにEXC-ESがあった」以上、言いかえれば、始源を求めて遡って行ったとき見出されたのは始源からのズレに他ならなかった以上、疎外を克服して透明な始源の世界に回帰し、しなやかな心と体を介して自然や他者たちとコスモロジカルな交響を奏でるという夢は、はかない夢に終わらざるをえない。むしろ、こうしたユートピア思想は、カオスを導き入れるための仕掛けとして、意図されざる効果をもたらしてきたと言うべきかもしれない。しかし、今や、カオスの叛乱という図式自体もまた、有効性を失っている。すでに述べた通り、近代社会はそれ自体カオスの吸収装置とでも呼ぶべき仕組になっており、その融通無礙な機能ぶりは、侵犯のエネルギーをなしくずしに回収してしまうだろう。カオスの噴出による祝祭的革命というイメージは美しいが、ひとたび脱聖化された社会に祝祭の興奮をよびさますことは絶望的に困難である。」
 
第二章 ダイアグラム −ヘーゲルバタイユの呪縛から逃れ出るための
はじめに
・「今日、だれもが知っている、バタイユは今世紀でもっとも重要な作家のひとりだ。」ミシェル・フーコー
栗本慎一郎 文化人類学者「パンツをはいたサル」 パンツの存在とそれをあえて脱ぐ侵犯の快楽との相補性
 
1.構造
現実界と物自体界 観念論
・カントにおいて、表象体系を構成するのは、各人が超越論的主観としてア・プリオリに分有する普遍的な形式であるとされた。この形式が実は共同主観的な形成体であり、従って、表象体系を個々の文化に固有の構造をなすと考えるのが、構造主義であると言ってよい。
ア・プリオリではなく恣意的
 
2.構造とその外部ー弁証法的相互作用
ヘーゲル
エーテルの如く世界を満たしているエレメンタールな基質としての<精神>。
バタイユ「留保なしの賭け」
・「留保なしの消尽と絶対的な喪失の只中で自己が溶融し、他社との連続性のうちに燃えさかるとき。<至高性>の顕現が垣間見られるのはこのときをおいて他にない」
クリステヴァ サンボリックな秩序 セミオティックな否定性
・「サンボリックな秩序は禁止によってセミオティックな否定性を排除しつつ構成され、他方、セミオティックな否定性は侵犯によってサンボリックな秩序の只中に噴出しこれを組み替える。このような侵犯は、祝祭ばかりではなく、詩的言語の中に、さらには、マルクスの言う真に自由な労働や革命の中に、見出されるであろう。」
・超越的中心に吊られた構造の支配とそのような中心をひきずりおろし混沌の中で構造を組み替える侵犯との、周期的な交替のヴィジョン。
ドゥルーズ=ガタリの機械=構造+力(エネルギー)
・工場は、そして、そこに働く人々もまた、諸機械
・工場は、そのまま、国家についても当てはまる。 アルチュセール、国家装置論
デリダエクリチュール> 書き言葉 ←→バロール(話し言葉
・バルド<テクスト> 文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする思想
・資本の自己増殖
 
Ⅱ.構造主義のリミットを超える ―ラカンラカン以後
第三章 ラカン 構造主義のリミットとしての
1.個と対
間主観性アポリア サルトル存在と無
・「ピアジェ的誤謬」=元々自己中心的
・ワロン 出発点は自他未分
メルロ=ポンティ 根源的脱自態(前人称的な生の大海)
・自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができる
・生の大海=主体同士が出会ったときにパースペクティヴを交換することを可能にする根源的条件
・「ひとの身になってみる」
・身体=根源的脱自態の境位(きょうい。ある思想や解釈による位置づけ。)
 
2.相互性と双数性
メルロ=ポンティの発送の源泉=ゲシュタルト理論
ラカン=人間は動物と違う
・本能→欲動
・視知覚の早すぎる成熟→想像界(イマーゴ)の発展
鏡像段階=自己のまとまりすらとれない混沌から、想像界の力を借りて、輪郭、境界を発見する
・半熟卵の比喩 不可能な全体性を求める
・ナルシス同士としての母子が、狂おしく互いを求め合うとき、それが互いを傷つけ合うことと同義であったとしても、何の不思議もないのである。
ゲシュタルト的な相互性=円環 イマジネールな双数性は「シーソー」ないし「天秤」
・安定しているどころか、矛盾の発端を内包している <主>と<奴>の間の疎外を産む
・☓想像界 ○鏡像界と訳した方がよい
 
3.想像界象徴界
・<主体>=<他者>に従属する臣下。
・錯乱せる自然の無秩序としての想像界(母)
象徴界=父 「人間を人間にするものとしての去勢」
ラカンバタイユ コジェーヴヘーゲル講義
 
4.構造とその外部
象徴界構造主義=閉じた円環
ラカンバタイユ=それを支える北極星たる外部を必要とする
・<浮遊するシニフィアン> >>シニフィエシニフィエ自身の中に存在しない。繰り返されるズレと置換を通してそれ自身が構成されたシニフィアンのネットワークの下を浮遊するつかみどころの無い流れとして、シニフィエをイメージした ( 浮遊するシニフィアン:意味、つまり自己同一性を欠いた不在の中心 )。<<
象徴界(言語)は現実界を網羅しきれない、拾いきれない
ラカン「欲望とは存在欠如の換喩である」
・ex 幼児の叫び Fort-Daの遊び(いないいないばー)。
象徴界の外部は、その限界であると同時に条件
・外部があるから欲望が吸い上げられる
 
5.構造と力
・「アンチ・オイディプス」=構造主義批判
 
第四章 コードなき時代の国家
はじめに
>>萱野稔人のSASUKE<<
・いたるところに国家がある。「国家」は自明か?
・国家=矯(た)めようとする力とそれに反発する力の織りなすドラマ
>>かつてのキリスト教へのルサンチマンと今は資本主義へのルサンチマン<<
・王への崇拝、潜在的ルサンチマン
・「ここで登場する「最後の領域性」こそ、エディプス三角形に縮約された家族に他ならない。共同体とそれを規制するコードから外に放り出された近代の私的人間は、家族につながれエディプス化されて、定型的な主体―フロイトの言葉を借りれば、超自我を内面化した主体―となる。言ってみればひとりひとりが「小さな植民地」となるのであり、すでにこの段階で欲望の多形性が規制されるのである。ここで見出されるのは、王に対する無限の負債であったものが主体に内面化され、自己に対する負債と化すという構図である。」
・「主体は自らに負ったこの負債を埋めるべく、際限なしに走り続けねばならない。今や<主>は存在せず、しかも、<奴>でないものはひとりもいないのだ。当然、王に向けられていたルサンチマンは自己に差し戻されるという最悪のコースを辿る。ニーチェの喝破した通り、ルサンチマンの時代に続くのはやましい良心の時代である。」
 
2.三段階図式と歴史
・「そして、主体たちを包摂する超越者とは、言うまでもなく、神にして王にして父、あるいはそれらに集約的に表現された象徴秩序そのものなのであり、財の世界で言えば貨幣に他ならない。」
・文化とは、当のはじめから、カオスを矯めようとする力とそれに反発する力。
>>右翼・左翼ではなく、カオス(混沌)とロウ(秩序)<<
・「実際、近代とはすぐれて中心なき時代である。超コード化は、中心をいわばブラック・ホールとして超越的な位置に置き、それとの絶対的なポテンシャルの差によって象徴秩序を金縛りにして吊り支えるという構造を構えていたのだったが、脱コード化によってそうした中心を消去することこそ、近代の第一歩なのである。」
・近代資本制における貨幣=いわば地上に現れたブラック・ホールとして、欲望の流れを一方的に吸引し続けるのだ。
グラムシアルチュセール-国家のイデオロギー装置論 Os Aparelhos Ideológicos de Estado (AIE)
・私的領域の隅々にまで浸透しつつ日常的に働いている整流器としての役割り
AIE 中世→家族と教会 近代→家族と学校
・ひとりひとりの個人をエディプス化し定型的な主体とすることが文化の課題
 
3.原国家と近代国家
・国家装置=超コード化を通じて社会の全域に浸透する微視的な力の網の目。
・ひとつの決定的なメタファー=ベンサムパノプティコン
・「脱コード化によって王の首が落ち、権力が顔を失って非人称化されるとき、そこに集中していた過剰な力は社会全域に拡散し、日常生活の隅々にまで浸透する権力へと転化する。この権力はすでに述べた通り個々の主体そのものに内面化される。」
・「言いかえれば、ひとつの「顔を欠く視線」があれば十分なのであって、囚人たちはやがてそれを内面化し、自分で自分を監視するようになるのである。「太陽(ルイ14世)をも鷲(ナポレオン)をも無用にする装置」。脱コード化段階の国家の核心。」
・「これらの装置をメタファーとして理解される近代国家の働きによって、エディプス化された主体、自分自身の債権者であり監視者である主体が絶えず再生産され、自らに負った負債を埋めるべく、自らに監視されながら、一定方向に自動運動を続けることになるのである。」
・そして貧民が囚人にとって代わる
・「言いかえれば、パノプティコンは、国家の抑圧装置のひとつとしての監獄の形態的モデルである以上に、国家のイデオロギー装置の機能的原理を示すものである。」
☆重要なのは主体に内面化された非人称の視線
 
4.エタとナシオン
☆家族
・「実際、近代以前の薄明に代わって、パノプティコンの示すような真昼の明るさが世界を満たすというのは、事態の半面に過ぎない。近代と共に生まれるのは、昼ではなく、昼と夜の双対性、オフィスや工場を照らす白々とした蛍光灯の光と、どす黒いジェラシーが渦巻くベッドタウンの闇の、双対性なのだ。
ここで蝶番の役割りを果たすのは家族である。すでに見た通り、家族は近代国家のイデオロギー装置のうち最も重要なもののひとつであり、主体を成型して外へ送り出す整流器として機能する。」
・「しかし、そうやって放り込まれた外の世界は、決して居心地のいい所ではない。そこを貫流する脱コード化された流れは、コード化・超コード化による支えを失ったものたちが、究極的なゴールもなく、ただかりそめの安定感を得るために、群れを成して一方向に走っている、という体のものであって、ひとは永遠の宙吊りの不安定性に耐えねばならないのである。してみると、日が落ちるとき、彼が安息の場を求めて家路につくのは、至極当然のことと言えよう。彼は、そこで自らを、そして家族そのものを再生産しなければ、生きていくことができない。こうして、家族は整流器としての役割りと人間の再生産の場としての役割りを二重に背負わされ、奇怪な相貌を帯びて立ち現れることになる。」
森毅「父と母、そして子と」
 
第五章 クラインの壺 あるいはフロンティアの消滅
1.内と外 ―二元論の神話
精神分析は、人間が<過剰>を孕んだ存在である、狂った本能、即ち欲動をもつ動物である、という認識から出発する。
想像界=恋愛、殺人(戦争)=現状への不満、イメージとの乖離=欲望=あらぬ幻
>>日本で言えば天皇象徴界の中心(吊り支え点)<<
>>オタクは想像界を生きる。会社員は象徴界を。<<
肛門=呪われた部分
象徴界=レッテル貼り 「不良少年」
現実界=呪われた部分=祝祭における侵犯=荒れ狂う過剰な力が非日常の時空を現出させる
栗本慎一郎 政治の中心=光の都市 商業の中心=闇の都市
 
2.クラインの壺 ―二元論の終焉
・「それまで象徴秩序を吊り支えてきた(超コード化してきた)中心が消失すること、神が死に王が斬首され父の言葉が絶対性を失うことによって、近代が始まるのだというのは、誰もが知っている通りだ。こうしてローカルな象徴秩序がすべて解体されたあとにひろがるグローバルな場。それを全体としてとらえるとき、その中心に見出されるのは、ほかならぬ貨幣である。」
・「差別化の悪夢」
・自己との間のズレ=欲望
象徴界(宗教、規範)的な解決か、終わりなき差別化(差異化)か?
・<過剰>をエネルギーとした、終わりなき欲望が、終わりなき前進運動に利用=搾取された
→近代資本制が史上はじめて全世界を覆うまでに膨張していった原動力の秘密
・記号の構造分析→フィギュール(図像)の流体力学
クラインの壺→外部がそのまま内部になっている
 
3.都市的なものをめぐって
アンリ・ルフェーブル 農村を都市が覆い尽くす
・<エロスの記号>←→本質的なエロス
クラインの壺=外部がない=出口がない=近代
>>ネオコン=表象のヒエラルキーへの憧憬<<
 
第六章 クラインの壺からリゾーム(地下茎)へ
1.ふたつの教室
・教師が前に座ってる 教師が後ろに座ってる
・不在の視線は子どもたちのうちに内面化される
・第一の教室が前近代 第二の教室が近代
 
2.近代の不幸な道化
マルクス 貨幣が析出されてくる論理的過程→一段高くなり「貨幣は諸商品の神であり王」
・オブジェクト→メタ→オブジェクト→メタ 貨幣-資本が展開する絶え間ない運動
・貨幣-資本はパラドキシカル・ジャンプを繰り返しながら走り続ける軽業師
・あらゆる社会が直面するひとつの問題がある。放っておけばどちらを向いて走り出すかわからない人間という怪物を、いかにして社会秩序の中に組み込むかという問題。
・その解決方法の種類 スタティックなタイプの解決 と 全員をともかく一方向に向かって走らせるという動的安定化の問題(競争社会)
・そうした競争過程への第一の誘導装置がパパ-ママ-ボクのエディプス的家族
・「負債」が自己の中に埋め込まれる
山口昌男「道化」「道化とは、メビウスの輪のまさにそのひとひねりに位置する存在である」
・広告都市 ボードリヤール
 
3.砂漠へ
・真に悦ばしい遊戯の場はいったいどこに見出されるのだろうか?
・ここで、前近代モデルを想定するものは、言葉の真の意味で「反動的」である。
・そこでの遊戯の歓びは空間的、時間的な制限を受け入れた上ではじめて体験されるものだったのであり、そうした制限を課す絶対的秩序の優越をいささかもゆるがさない。
・監視が厳しいほどイタズラのスリルが増す、日常の規律が厳格であるほど祝祭の興奮が高まる、禁止されているからこそ侵犯の快楽が身を灼く、といった愚にもつかぬ「弁証法的関係」、いやむしろおぞましい共犯関係は、そのような秩序のもとでのみ成り立つものだった。そのとき遊戯は、秩序の安全弁として機能するための、あるいはせいぜい秩序を再活性化するための、「スプーン一杯の混沌」へと堕してしまうことになる。
ニーチェドゥルーズ=ガタリ、外へ出よ。さらに外へ出よ。
・常に外へ出続けるというプロセス。それこそが重要なのである。憑かれたように一方的に邁進し続ける近代の運動過程がパラノイアックな競争であるのに対し、そのようなプロセスはスキゾフレニックな逃走であると言うことができるだろう。
ニーチェ、「真の賭け」
ジョン・ケージ
白石かずこ「砂族」
 
あとがき

19/2/1読了
最高に面白い。秩序と混沌の弁証法的関係。前近代の静的な社会から、近代の動的な社会へ。貨幣をニンジンとして、欲望の力で一方向に走り続けるしかない社会。そこにおける家族の役割。心の中に「負債」を背負う、近代的主体。パナプティコン的装置から逃げ出せない、鉄の檻。
そして、処方箋、結論のようなものは、今で言う加速主義のそれだが、36年経ったいま振り返れば、結局は資本の思う壺だったようにも思う。
しかし、それ以外にオルタナティブもない現状をみれば、いかに資本制が強力なシステムなのかと、改めて呆然とする以外にない。