マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】マーク・フィッシャー著、セバスチャンブロイ、河南瑠莉訳『資本主義リアリズム「この道しかない」のか?』(堀之内出版 2018年)


はっきり言わせてもらおう。たまらなく読みやすいこのフィッシャーの著書ほど、われわれの苦境を的確に捉えた分析はない。 ースラヴォイ・ジジェク
帯裏
未来の創造を諦め、ノスタルジア・モードにとらわれるポップカルチャー、即時快楽の世界に放置される若者の躁鬱的ヘドニズム。後期資本主義の不毛な「現実」に違和感を覚えつつも、その要請を淡々と受け入れてしまう人々の主体性を、マークは映画、音楽、小説の中に見出していく。生活世界をめぐる具体的事象から、社会構造に関わる抽象的問題へのすみやかな視点移動は、ネオ・マルクス主義理論の系統を踏まえているが、彼の文章がなかでも読みやすいのは、単なる哲学的思弁に留まることなく、自らの講師、ブロガー、音楽批評家としての生きた経験をもとに発せられた言葉だからだろう。この言葉を通じて、マークは2000年代以降、みながぼんやりと実感していながらも、うまく言語化できなかった不安感に的確な表現を与えてきた。
 
目次

第一章 資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい

アルフォンソ・キュアロントゥモロー・ワールド」(2006)
・後期資本主義の特性
対テロ戦争 危機の常態化
・「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」フレドリック・ジェイムソンスラヴォイ・ジジェクの言葉
・資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態
・『トゥモロー・ワールド』における災禍は、「これから起こるもの」でもなければ、「すでに起こったもの」でもない。むしろ、今まさに私たちはその中を生き抜こうとしているのだ。災難がある特定の瞬間に訪れることもなければ、世界は大きな爆発で終わるわけでもない。その姿は徐々に潰れ、消え、崩壊していくのだ。何が災難を招いたのか、誰にもわからない。害悪な存在の気まぐれとでも思えるほど、その原因は現在から切り離され、遠い過去のものになっている。負の奇跡、いくら後悔しても解けない呪い。そんな破滅的な状況は、呪いの起源となったものと同じくらい予測不可能な何かによってしか、和らげられることはない。行動は無駄であり、意味のない希望にだけ意味がある。救いなき者が最初に流れつく場として、宗教や迷信がはびこる。
新しい驚きがない。
T・S・エリオット「荒地」
・バターシー発電所 メタルマックス
・あらゆる文化に貨幣価値を付与「等価体型」
アーティファクト(人工遺物)
マルクス・エンゲルス共産主義者宣言」
「(資本は)敬虔な法悦、騎士の情熱、町人の哀愁といった清らかな慄き(おののき)を、利己的打算という氷のように冷たい水の中に沈めた。個人の尊厳を等価交換に貶め、お墨付きを得て既得権となっていた無数の自由を、ただ一つの、非情な商業の自由に置き換えた。一言でいえば(中略)宗教的、政治的な幻影で覆われていた搾取を、あからさまな、恥知らずな、直接的な、ぶしつけな搾取に置き換えたのである。」
・資本主義とは、さまざまな信仰が儀礼的・象徴的な次元において崩壊した後に残るものであり、そこにはもう、その廃墟と残骸の間を彷徨う消費者=鑑賞者しかいない。
アラン・バディウ「あらゆる存在が金銭的観点のみによって評価されるという、極めて不平等で残酷な事態が、私たちに理想状態として提示されている。自らの保守主義を正当化しようとする既成秩序の擁護者たちは、この秩序を素晴らしいとか、理想的だとはなかなか言えないが、代わりに、その他すべてのものが最悪だと言うことにした。彼らは言う。確かに、われわれは完璧に善い状況を生きているわけではない。しかし、悪のうちに生きていないだけ幸運だ。われわれの民主主義は完璧ではない。けれど、めちゃくちゃな独裁国家よりはマシだ。資本主義は不公平だ。けれど、スターリン主義のように犯罪的でもない。アフリカで何千万人をもエイズで死なせてはいるものの、ミロシェヴィッチのように人種差別的で国家主義的な宣言をすることはない。われわれの戦闘機はイラク人を殺害してはいるが、ルワンダ人がやっているように、彼らの首を鉈で切り落とすことなどしない、云々。」
・ここでいう「リアリズム」とは、どんな希望も、どんな前向きな状態でさえも危険な錯覚だと信じてしまう、鬱病患者のデフレ的視線と類似している。
ドゥルーズ=ガタリ
・資本主義=文化の途方もない脱神聖化
・資本=ジョン・カーペンター「物体X」、接触したものすべてを吸収、代謝、すべてを記号、数字化する
・新しいものはもう生まれないという病、フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」
・「ある時代は、自己自身に対する皮肉という危険な気分に陥り、そこからしてより一層危険な冷笑主義シニシズム)的気分にはまりこむ」ニーチェ「反時代的考察」
・そこでは従事や関与は国際派かぶれの物好き、そして超然とした傍観主義によって置き換えられる。すべてを知っていながらも、まさに己の(自)意識の過剰によって堕落し弱体化される、ニーチェのいう「最後の人間」とはこういう状態のことだ。
フレドリック・ジェイムソンポストモダニズム 未来の挫折 模倣作とリバイバル主義 → 一層深刻となり慢性化 → ある新種への変異を遂げてしまった。
・「ポストモダニズム」→「資本主義リアリズム」の3つの理由
1.社会主義階級闘争が敗れた。炭鉱ストのスト破り。マーガレット・サッチャー「この道しかない(there is no alternative)」
2.モダニズムとの対立関係をもはや示していない。モダニズムの敗北が決定した後
3.今の私たちは、かつて体制転覆の力をもつとされた題材の包摂(インコーポレイション)ではなく、そのプレ・コーポレイション、つまり、資本主義文化による欲望、期待、そして希望の先制的なフォーマット化および形成化に直面しているのだ。
例えば、従来的な反逆や抵抗の身振りをひっきりなしに、しかも、まるで初めてのように繰り返し続ける「オルタナティブ文化」や「インディペンデント文化」といった安定した領域の確立をみてみよう。「オルタナティブ」や「インディペンデント」なるものは、メインストリーム文化の外部にある何かを指すのではない。それらはむしろ、メインストリームに従属したスタイルというばかりか、その中で最も支配的なスタイルにすらなっている。
カート・コバーンの死
・HIP HOP 二重の意味での「リアル」
フランク・ミラーバットマンダークナイトシン・シティ) ジェイムズ・エルロイ(L.A.コンフィデンシャル)
・「もはや怒りも感じず、興味すら持てないほどの腐敗=汚職(コラプション)の過剰飽和」
・感受性の鈍化
 

第二章 もし君の抗議活動にみなが賛同したとしたら?

・このような身振りとしての反・資本主義は、資本主義リアリズムに打撃を与えるというよりも、実はそれを補強してしまう。
・「ウォーリー」(2008) ロバート・プファッラーのいうインターパッシヴィティ(相互受動性)の実例。
・つまり、この映画が反・資本主義を私たちの代わりに演じてくれるので、私たちは罪悪感に悩むことなく消費し続けることを許される。
・資本主義=イデオロギー不要
イデオロギー=むしろ、資本があらゆる主観的信念に依存しないで機能できるという実態を隠蔽する役割。
>>左右の争い、資本は高みの見物<<
・「もし私たちのイデオロギー概念が、幻影は認識の中にあるという古典的な概念のままだとしたら、今日私たちが生きる社会はポスト・イデオロギー社会だということになろう。今日の支配的なイデオロギー冷笑主義シニシズム)だし、人々はもはや、イデオロギーの真実性を信じていないし、イデオロギー的な提議を真剣にとらえる者もいない。しかしながら、イデオロギーの根本的なレベルとは、事物の本当の姿を隠蔽している幻想のレベルではなく、むしろ、私たちの社会的現実そのものを構成する(ある無意識的な)空想のレベルにある。そしてこのレベルにおいて、私たちの社会はポスト・イデオロギー的な社会から程遠いところにある。冷笑的に距離を保つ態度は、イデオロギー的空想の構造的力から目を逸らすためのひとつの方法(中略)にすぎない。たとえ私たちが事物を真剣に受け止めなくても、たとえ私たちがアイロニーによって対象から身を引こうとも、それでも、私たちは加担しているのだ。」
・☓抗議デモ ○政治運動を組織
・反・資本主義運動とは、そもそも叶うはずがないと自ら諦めつつも、一連のヒステリカルな要求を繰り返すものなのだ、との印象。
・知っておくべきは
1.資本主義が超抽象的かつ非人称的な構造であること
2.私たち自身の、地球規模にわたる圧制のネットワークへの加担
  

第三章 資本主義とリアル

・「社会主義リアリズム」↔「資本主義リアリズム」 パロディとしての言葉がマジになった。
・資本主義リアリズムを揺るがすことができる唯一の方法は、それを一種の矛盾を孕む擁護不可能なものとして示すこと、つまり、資本主義における見せかけの「現実主義(リアリズム)」が実はそれほど現実的ではないということを明らかにすることだ。
新自由主義は、倫理的な意味合いでの価値というカテゴリーそのものを排除するよう努めてきた。過去30年間にわたって、資本主義リアリズムは教育や保険制度を含む社会の全てがビジネスとして経営されるのがごく当然なことだという「ビジネス・オントロジー(仕様)」の確立に成功してきた。ブレヒトをはじめ、フーコーバディウに至るラディカルな思想家の数々が主張してきたように、社会の開放を目指す政治はつねに「自然秩序(あたりまえ)」という体裁を破壊すべきで、必然で不可避と見せられていたことをただの偶然として明かしていくと同様に、不可能と思われたことを達成可能であると見せなければならない。現時点で現実的と呼ばれるものも、かつては「不可能」と呼ばれていたことをここで思い出してみよう。
バディウが苦い口調で述べるように、「可能性の範囲が厳格かつ隷属的に定義されることが『近代化』と呼ばれる」のだ。「そうした『改革』はつねに(多数派にとって)実現可能だったものを不可能にし、(支配権をもつ少数派にとって)本来無益であったものを利益を生むものにすることを目的とする。」
ラカン リアル(現実界)とリアリティ(現実)の区別
・アレンカ・ジュパンチッチ
現実原理とは物事の自然な在り方ではないのだ(中略)。現実原理そのものはイデオロギーによって介される。いや、むしろそれがイデオロギーのもっとも高度な形式、すなわち、経験的事実あるいは(生物学的、または経済学的な)必然性として現れる(そして、私たちがしばしば非・イデオロギー的だと捉える)イデオロギーを形成しているとさえ言えるのだ。私たちがイデオロギーの仕組みにもっとも注意を払わなければならないのは、まさにこの点である。」
>>色眼鏡レベルでなく、水晶体レンズに「色」が埋め込まれている。それに気づくこと、名指すことこそ<<
ラカンにとってリアルとは、あらゆる「現実」が抑圧しなければならないものであり、まさにこの抑圧によってこそ、現実は構成されるのだ。リアルとは、目に見える現実の裂け目や、そのつじつまの合わないところのみに垣間見ることのできる、表象不可能なXであり、トラウマ的な空洞だ。だから資本主義リアリズムに対抗する上で可能な戦略のひとつは、資本主義が私たちに提示する現実の下部にある、このようなリアル(たち)を暴き出すことであろう。
・無理(矛盾)の一つは環境問題。
・以下では、まだそれほど政治的議論の対象となっていない資本主義リアリズムにおける二つのアポリアに焦点を当てよう。第一の問題は精神保健(メンタルヘルス)だ。精神保健は、実は資本主義リアリズムの仕組みをあらわす典型的な例である。
・だが今必要とされるのは、それよりもずっとありふれた病いを政治化することなのだ。まさにその尋常性こそが重要なのだ。今の英国では、うつ病はもはや国営医療サービスによって治療されている疾患のうち最も数が多いものとなっている。オリバー・ジェイムズは著書『利己的な資本家』〔The Selfish Capitalist〕のなかで、精神病の増加と、英国、アメリカやオーストラリアのような国が実行している資本主義の新自由主義的な形状との相関関係について説得力のある仮説を提示した。このジェイムズの主張を踏まえて、私は資本主義社会のなかで増加するストレス(および苦悩)の問題を新たな枠組みで考える必要があると主張したい。精神的苦痛の解消を個人の自己責任に帰するのではなく、つまり、過去30年にわたってストレスが大掛かりに個人の問題として私有化〔privatization〕されてきた流れをそのまま引き受けるのではなく、私たちは次のような問いかけをしなければならない。これほど多くの、しかも多くの若い人が病気だという状態がどうして受け入れられるものとなったのか。この資本主義における「精神疾患の大流行」から示唆されるのは、資本主義が唯一機能しうる社会制度であるというよりも、それが本質的に機能不全であり、かつ機能しているという建前を維持するコストさえも非常に高い、ということではないだろうか。
・もうひとつの現象として、私は官僚主義(ピューロクラシー)をとりあげたい。
・脱中心化された形式
・継続教育カレッジ 労働者階級のための学校
 

第四章 再帰的無能感、現状維持、そしてリベラル共産主義

・フランスに比べてイギリスの学生は政治的に無関心
・しかし、これは無関心でも冷笑主義でもなく、再帰的無能感の問題であると私は主張したい。
・彼らは事態がよくないとわかっているが、それ以上に、この事態に対してなす術がないということを了解してしまっているのだ。けれども、この「了解」、この再帰性とは、既成の状況に対する受け身の認識ではない。それは自己達成的な予言なのだ。
再帰的無能感というのは、イギリスの若者に共有されている暗黙の世界観であり、〔社会に〕普及した多くの病理と関係している。私が教えた十代の学生の間でも、精神保健(メンタルヘルス)の問題を抱えていたり、あるいは勉強に困難を覚えていたりする者が多かった。鬱病は風土病である。
・現在、後期資本主義のイギリスにおいて「ティーンエイジャーである」ことが、もう少しで病気の一種として再定義されてしまいそうな状態だといっても過言ではない。この病理化によって、政治的な取り組みの可能性は予め除外される。そして、このような問題を自己責任化すること、すなわち、問題の原因が家族背景ないしは個人の脳神経系における化学物質の不均衡のみにあるとみなすことによって、社会制度にまつわる因果関係の追求は度外視されてしまう。
・これまで出会った十代の学生の多くは、鬱病的快楽主義と名づけられるような状態にあったと思う。通常なら、鬱病は非・快楽〔anhedonia〕の状態が特徴だとされるが、ここで述べる状態は、快楽を感じることができないわけではなく、むしろ、快楽を求める以外何もできないというのが特徴だ。
ドゥルーズは「追伸――管理社会について」という極めて重要なエッセイのなかで、フーコーによって描かれた工場・学校・監獄などの閉鎖的空間を中心に組織化されてきた規律社会と、すべての制度が分散型組織のなかへ埋め込まれる新しい管理社会とを区別して論じる。
カフカ『判決』
・管理社会 「仮の無罪」か「無期限の延期」か。
・外的な監視(surveillance)→内的な警備(policing)
・時間の分割という旧来の規律のあり方。
・カレッジの学生たち、快楽(ないしは非・快楽)的なダルさに浸る
・やわらかな昏睡状態、プレイステーション、夜更かしテレビ、そしてマリファナがもたらす家庭的な安心感。
・「過剰接続」 ポスト文字社会の「新しい肉」
・ヘッドフォン ― 公共空間に対して影響力をもち得るのではなく、むしろOedipod的な消費=至福へ引きこもるための、社会性に対する壁
ポスト識字 的な能率のよさ
>>借金をした挙句、16で退学した場合にもできたであろうバイトをする<<
・1968「石畳の下は砂浜だ」
ジョージ・ソロスビル・ゲイツ「リベラル共産主義者
・資本主義に抵抗できても超克はできないという暗黙の妥協を抱える抗議者たちと、資本主義におけるモラルなき非道は慈善活動によって埋め合わせるべきだと唱えるリベラル共産主義者たちを総じてみれば、いかに資本主義リアリズムが現在の政治的可能性の範囲を限定しているのかが伺える。
・ポスト・フォーディズム型の管理社会において、「柔軟性」、「多国籍性」、「自発性」というものはマネジメントの特徴に他ならない。
適応であれば、これまでも必要以上にうまくやってきたことだし、「うまく適応してのける」というのはそもそも管理主義の戦略そのものだ。
・「超格差社会
労働組合の愚かしさ。 
・政治的領域のシフト 給与をめぐる争い → メンタル・ヘルス、「労働」そのものへ。
 

第五章 1979年10月6日―「何事にも執着するな」

マイケル・マン「ヒート」 フラット化したロサンゼルス
・際限なく自己複製するチェーン店の遠景
・このマッコリーの生活態度(エートス)は、リチャード・セネットが、ポスト・フォーディズムにおける労働の再編がもたらした情動の変化についての重要な研究である著書『人格の腐食』で分析したものと一致している。この新しい条件を要約するのは「非長期」〔no long term〕という合言葉だ。
・資本主義は(親から子供と過ごす時間を奪い、互いを感情的に支え合う唯一の慰めになるカップルに耐え難いストレスをかけながら)家族を弱体化させるが、それと同時に(労働力の再生産およびその保護に不可欠な手段、または社会経済におけるアナーキー的状況がもたらす精神的傷を慰めるための救心剤として)また家族を必要としてもいる。
マルクス経済学者であるクリスティアン・マラッツィによれば、フォーディズムからポスト・フォーディズムへの変遷には非常に具体的な日付を与えることができる。1979年10月6日である。連邦準備制度金利を20ポイントほど引き上げ、現在の私たちをとりまく「経済的現実」を構成することとなった「サプライサイド経済学」への道を開いたのは、この日のことだ。
フォーディズム→ポスト・フォーディズム
・硬直性→柔軟性
・パートタイム化、非正規化、アウトソーシング
・労働と生活は不可分となる。資本はあなたを夢の中まで追いかける。時間は線状であることをやめ、混沌となり、点状の区分に分解される。生産と分配が再編成されながら、人間の脳神経もまた再編成される。ジャストインタイム型生産の構成員として効率よく働けるためには、予測不可能な出来事に対応する能力を身につけ、完全なる不安定さ、あるいは気味の悪い新語を使えば「プレカリティー」(「不安定な」(英: precarious、伊: precario)と「プロレタリアート」(労働者階級)(独: Proletariat、伊: proletariato)を組み合わせた語で、1990年代以後に急増した不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者および失業者の総体。)という状態の中で生きることを学ばなければならない。労働期間と失業期間が交互に入れ替わる。概ね、将来の見通しを立てられないまま、数々の短期の仕事を繰り返すことになる。
・惰性的な組織労働者と新しい貧困層の対立
・労働者である彼ら・彼女らは、従来的な階級対立に関心をもちながらも、年金受給者としては自身の投資からの利益を最大化することにもまた関心をもっている。
→分裂症 →双極性障害
・資本主義は人々の感情をエサにしながら、それらの感情を再生産していくのだが、その規模の大きさは、これまでのどんな社会制度にも類例をみない。
精神障害を脱政治化する働き
・例えば、鬱病セロトニン濃度の低下によって引き起こされるという主張が正しいとすれば、なぜ、特定の個人においてセロトニン濃度が低下するのかが説明されなければならない。そのためには社会的・政治的な説明が求められるのである。そしてもし左派が資本主義リアリズムに異議申し立てを試みたいのであれば、精神障害を再政治化していくことが緊急の課題になるだろう。
 

第六章 形あるものみな広報へと消えゆくー市場型スターリニズムとお役所型反生産

マイク・ジャッジ「オフィス・スペース」(1999)
ポール・シュレイダーブルーカラー」(1978)
・「七つのフレア」(バッジもしくは個人的なアイテムなど)で飾らなければならないのだが、これは「クリエイティビティ」や「自己表現」といったものが管理社会の労働において内在化されたことを示す見事な例だろう。パオロ・ヴィルノやヤン・ムーリエ・ブータンらが指摘したように、今や労働は生産的な要求とともに、情動的な要求も労働者につきつけているのだ。また、こうした情動的な貢献を露骨に数量化しようとする〔経営者の〕試みも、これら新しい協定について多くの示唆を与える。
・充分はもはや充分ではない
・「可(satisfactory)」が「可」として評価されない。
・「目的と目標」「結果主義」「ミッション・ステートメント」をめぐる新しいタイプの官僚主義が浸透してきている。
・マネージメントと官僚主義のさらなる重層化
新自由主義では逆に官僚主義になる
・それらしき表象
・「地方自治体が提供するサービスの向上よりも、それらのサービスがきちんと表象されていることの保証により多くの労力が費やされる」
・「市場型スターリニズム
・実際の成功よりも、成功の象徴に価値を認める
・後期資本主義はスターリニズムに似てくる
・広報的生産の偏在化
・この問題に関して、ジジェクが「大文字の他者」というラカンの概念について述べたことは極めて重要だ。大文字の他者とは、あらゆる社会的分野が前提とする集団的なフィクション、または象徴的な構造のことだ。
・この大文字の他者の本質的無知によって、広報の働きは支えられるのだから、大文字の他者はまさに広報やプロパガンダの消費者
>>プロパガンダを流すことと、街頭インタビューのリアクションはセット。これを含めてのプロパガンダ<<
・「文化が経済へ溶解してしまうポストモダン
・ニック・ランド『メルトダウン』惑星規模の人工知能としての資本 
ドゥルーズ=ガタリ「名づけえぬもの」としての資本 サミュエル・ベケット
・同様に、資本主義が次第に「牙を剥き出しにする」傾向もなければ、強欲、無情、非人間性という資本の「本当の姿」が徐々に暴露されることもない。むしろ反対に、広報・ブランディング・広告によって引き起こされる「実体なき変容」が資本主義において極めて重要な役割を果たす。
・資本主義の企業は社会的責任や思いやりを有するのだと伝えてくる表向きの文化と、他方での、企業は実際のところ無慈悲で腐敗しているのだという広く共有された認識との隔たり。
・ジェラルド・ラトナー ラトナーズ 宝石商
ジジェク「物事をリアリティに還元する冷笑主義シニシズム)は(中略)ここで的を外してしまう。裁判官が語るとき、ある意味では、その裁判官の人格という直接的現実よりも、彼の言葉(=法制度の言葉)のほうに真実性がある。自分の眼に見えるものだけを信じていると、肝心なところを単純に見落としてしまう。「騙されない人は間違える」といったラカンは、まさにこの逆説を狙っていたのだ。象徴界の錯覚・虚構にとらわれないよう、自分の眼のみを信じ続ける者こそが、もっとも間違いを犯しやすい。「自分の眼だけを信じている」冷笑者(シニック)は、象徴的虚構の有効性、つまり、それがいかに私たちの現実経験を構成しているかを見落としている。」
ボードリヤール「ハイパーリアル」
・自らの欲望や趣向といったものを唯一の指令として機能する制御回路に一部品として組み込まれている。しかし、こうした欲望や趣向はもはや私たちのものではなく、大文字の他者のそれとして私たちへ送り返される。
官僚主義大文字の他者との関係 どちらも顔が見えない 
・「すいませんが、規則ですから、私の責任ではありません」
・(大文字の他者によって)つねに、すでに下されている決断を参照することしか許されていない。
この関与否定の構造が官僚主義に固有のものだと見抜いたからこそ、カフカ官僚主義について書いた最も優れた作家だった。〔『城』において〕「K」の公的な身分を明かしてくれる最高権力者へ面会するための旅は、決して終わることはない。大文字の他者そのものに立ち会うことはできないのだから。そこには、大文字の他者の意向の解釈に努める、多かれ少なかれ悪意のある役人しかいない。そしてこの意向の解釈という行為、こうした責任逃避こそが、大文字の他者の姿そのものなのである。
カフカ全体主義には独裁的統治のモデルでは理解できない側面があることを明らかにした。
カフカによる、終着点のない官僚主義の迷宮という煉獄的なヴィジョンは、ソビエト体制が「記号の帝国」であったというジジェクの主張と共鳴する。そこではスターリンモロトフといった共産主義の幹部(ノーメンクラトゥーラ)たちでさえもが、一連の複雑な社会的記号を解読することに従事していたのだ。何が求められていたのかを知っている者は誰もいなかった。特定の身振りや指令が何を意味しているのか、人々は推察するほかなかった。そして、決定的な公式見解を提示できる最高権威へ懇願するという可能性が原則的にさえ残されていない後期資本主義社会では何がおこるのかといえば、それはこうした曖昧さがますます拡大していくことだろう。
・労働者は絶えず象徴的な自己中傷行為
 

第七章 「……二つの現実が折り重なって見えるとき」夢作業および記憶障害としての資本主義リアリズム

・「現実主義的である」ことはかつて、確かで不動的なものとして経験される現実を受け入れるという意味だったのかもしれない。しかし資本主義リアリズムは、限りなく変幻自在でいかなる瞬間にもその姿を変えることのできる現実に服従するよう、私たちに要求する。そこで私たちが目の当たりにするのは、ジェイムソンがエッセイ「ポストモダンの二律背反」の中で描いた、「空間も心理も同様に意の向くままに処理し作りなおせる、純粋に代替可能な現在」である。
・翌日に全く異なる意見を言うマネージャー
・これが「優れた管理能力」というものらしい。同時にまた、これは資本主義の絶えざる不安定さの中で健康を保ち得る唯一の方法なのかもしれない。
・このような陽気さを保ち得るのは、批判的な反省性をほぼ完全に欠き、そして彼のように、官僚主義的権力から受けた指令に冷笑的に従う能力をを身につけている者に限る。もちろん、この服従についての冷笑主義こそが不可欠なのだ。
・このマネージャーは、内的・主観的態度においては自らの指揮する官僚主義的な手続きに対して敵意をもち、軽蔑さえ感じている。ところが、外的行動としてみれば、彼は完全にいいなりになっている。
・アーシュラ・ル=グィン『天のろくろ』
・もしリアル(現実界)に耐えるのが不可能だとすれば、私たちが構成するすべてのリアリティ(現実)は、矛盾だらけの織り物になるはずだ。
・カント、ニーチェフロイトの説は、私たちの生きるこうした作話は合意の上にあるのだという認識。
・比較不可能なもの、意味のないことを疑いなく受け入れるというこの戦略はつねに、正気を保つための典型的な技術であった。しかし、後期資本主義において、つまり、社会的フィクションの創造と放棄が商品の生産と廃棄とほぼ同速度で繰り広げられる、「これまで信じられてきたものの一切を寄せ集めた雑色の絵」においては、この技術は特別な役割を担うことになる。このような存在論的不安においては、忘却が適応戦略となる。
・リアリティやアイデンティティがまるでソフトウェアのように更新されていく状況において、記憶障害が文化的懸念の焦点になってきたのは驚くことではない。
・『ボーン』シリーズ、『メメント』、『エターナル・サンシャイン
ジェイソン・ボーンの自己アイデンティティを取り戻そうという旅は、あらゆる安定した自己意識からの絶え間なき逃亡と連動して描かれる。
・ジェイムソン『ポストモダンの二律背反』=本物の新しさを創造できない。
★新たな記憶をつくることができない、それこそポストモダンの膠着状態を一言で要約できる表現ではないか…。
・ウェンディー・ブラウン「アメリカの悪夢ー新保守主義新自由主義、そして脱民主化
新保守主義新自由主義の同盟関係
・「目的においても手段においても明らかに非道徳的な合理性(=新自由主義)と、明らかに道徳的かつ規制的な合理性(=新保守主義)とは、いかにして交差するのだろうか?意味の世界を空虚にし、生活を劣化させ根こそぎにし、そして公然と欲望を搾取していくプロジェクトと、意味を固定・強制し、生活の特定の様式を保持させ、そして欲望を抑圧・規制することに集中するプロジェクトとは、いかにして交わりあうことができるのだろうか?会社すなわち利己主義という規範的な社会構造をモデルにした統治への支持と、教会権力すなわち自己犠牲と長期に渡る親孝行的な忠誠心という規範的な社会構造、抑制の効かない資本主義によってズタズタにされたまさにその構造をモデルにした統治への支持は、どのように結び合い、またはせめぎ合うのだろうか?」
・両者は全く異なる前提から出発するものの、新自由主義新保守主義はともに、公共圏と民主主義を弱体化させ、政治的プロセスではなく商品に問題解決を求めるような、飼いならされた市民をつくりあげるために協力してきたのだ、とブラウンは主張する。
・「選択する主体と統治される主体は決して相反するものではない……。フランクフルト学派の知識人たち、そしてそれ以前にはプラトンが、個人選択と政治的支配との間の率直な両立性について理論化してきたし、まさしく自由と履き違えられた選択と欲求充足の閉鎖圏に没頭しているがために、政治的な独裁あるいは権威主義に加担してしまうという民主的な主体を描いてきた。」
・ブラウンの議論を基に少し推定してみるならば、新保守主義新自由主義との奇妙な融合が可能になったのは、彼らが共に、いわゆる過保護国家(ナニー・ステイト)とその依存者を嫌悪の対象にしてきたからなのだ、という仮説を立てることができるだろう。反国家主義的なレトリックを明示しているにもかかわらず、新自由主義は実際のところ、国家そのもの・・・・に反対しているのではなく、むしろ、公的資金の特定の運用に反対しているのだ。このことは、2008年に行われた銀行への公的な財政援助からもうかがえる。その一方、新保守主義的な強い国家とは軍事・警察といった機能に限定され、それは個人の倫理的責任感を損ねてしまうとされた福祉国家へ対抗する形で、自己を位置づけることになったのだ。
 

第八章 「中央電話局というものはない」

・全体的な統治者など存在しないこと、そして今日、われわれを統治する権力に最も近いものは企業の無責任を引き起こす漠然で不可解な利害関係なのだということを、私たちは政治的無意識のレベルでは受け入れられないでいることを示す証だろう。
・こうした関与否定が起こり得るのは、ひとつには、グローバル資本主義における中心の不在が根本的に想像不可能だからだろう。今や人々は消費者として呼びかけ=審問〔interpellation〕されているにもかかわらず――そしてウェンディー・ブラウンらが指摘したように、政府そのものも一種の商品やサービスとして提示されているにもかかわらず――彼ら・彼女らは依然として(あたかも)市民のようにしか自分たちを想像できないのだ。
・政府そのものも一種の商品やサービスとして提示されている私たちが資本主義における中心の不在を最も身近に直接体験できるのは、コールセンターとのやりとりだろう。
・コールセンターという正気を失うようなカフカ的迷宮
・コールセンターという経験は後期資本主義の政治的現象学を凝縮したものである。PR音楽の甲高い音によってところどころ遮られる倦怠感ともどかしさ、訓練も知識も不足している何人ものテレオペレーターに同じつまらない情報を何度も伝えることの繰り返し、しかるべき対象が存在しないゆえに無力なまま募るばかりの怒り。電話をかけてみれば直ぐ気づくように、答えを知っている者は誰もいないし、もし知っていたとしても何かをやってくれる者は誰もいないのだ。ここで怒りは、はけ口を探す問題としかなりようがない。それは同じシステムの被害者でありながら、共感のしようが全くない他人へ向けられた、真空地帯のなかの攻撃なのだ。怒りには全うな対象がないために、影響力をもつこともないだろう。この無反応そして非人格的な、中心不在の抽象的かつ断片化されたシステムの経験において、あなたは資本の人工的愚かさそれ自体を直視する最も近いところにいるのだ。
カフカのずばぬけた才能は、資本に固有の否定無神学を探求したことにある。そこに中心はなくとも、私たちは中心を探さずにはいられないし、その存在を断定せずにもいられない。そこには何もないというわけではないが、そこにあるものは責任を遂行できるようなものではないのだ。
・キャンベル・ジョーンズ「リサイクルを期待されている主体は誰なのか」
ジュディス・バトラー『戦争の枠組』 「責任化(responsibilization)」
・環境破壊の諸原因は非人称的な構造 
・アラン・パクラ『パララックス・ビュー
ピーター・ウィアートゥルーマン・ショー
・資本主義に陰謀は確かに存在するが、問題なのは、陰謀はその働きをより深いレベルの構造によって支えられることで初めて可能になるということなのだ。
・悪習は構造から生じ、そして構造が残存する限り悪習が自らを再生産していくことは確かである。企業の陰謀に固有の、正体不明で中心をもたない非人格性を浮き彫りにすることにこそ、バラクの映画の力がある。
・シャルレス・デ=メネゼスとイアン・トムリンソンの死
・しかし、経営陣に昇進してみれば、彼らが権力のどんよりとした硬直化にのみ込まれるまではたいていの場合そう長くはかからない。構造というものが明白になるのはここなのだ――人間を乗っとるその姿がまさに目撃され、その鈍化させられた、あるいは鈍化させていく判断が乗っ取られた彼らを通して語りかけてくるのは。
・しかし、行動の責任を問われ得るのは個人のみであるにもかかわらず、それら不正な行為や過ちの原因は組織的・体系的であるというこの手詰まりは、単なる事実の隠蔽ではない。それがまさに、資本主義の欠点を指し示しているものなのだ。
・企業(法人)は実体をもたないがゆえに、企業そのものを処罰することができない。
・いずれにせよ、企業組織が万事の裏で糸を操る深層的行為者(エイジェント)だというわけではない。それらはあの究極的な「主体ならざる原因」によって制約されているのであり、またそれを表現しているにすぎない――すなわち、資本を。
 

第九章 マルクス主義のスーパーナニー

・『スーパーナニー』(子育てリアリティ番組)ナニー=乳母、教育係
ジジェク「父親の機能不全」
・「構造的な問題」
★ここで問題なのは、まさに従来の子育てが基本的に拒否していた欲望と利害の同一化を、後期資本主義は強く要求するとともに、それに依存しているということだ。「父性的」な概念である義務が、楽しめという「母性的」な責務のもとに包摂された文化においては、いかなる形であれ、親が子供たちの楽しみへの絶対的権利を妨害するなら、むしろ親としての義務を果たせていないと見なされるだろう。これは、一部には、両親がますます共働きを要求されることの結果だ。
・父性的超自我――つまり家庭内の厳格な父親、または英国のテレビ放送における(ジョン・)リース的な横柄さ――への回帰が可能でも望ましくもないならば、いかにして私たちは、人々に挑戦や教育の場を与えようとしないことで生まれた、この単調で瀕死状態に陥った順応文化を乗り越えていくことができるのか。
・「父親不在のパターナリズム
ジジェクが『否定的なもののもとへの滞留――カント、ヘーゲルイデオロギー批判』のなかで、後期資本主義のイデオロギーはある種のスピノザ主義だと主張したことは周知の通りだ。
スピノザ、アダムのリンゴ、父権的機能の終焉。
>>右翼は父性、左翼は母性<<
・だが実は、スピノザは後期資本主義の情動的レジーム、つまりウィリアム・バロウズフィリップ・K・ディック、そしてデヴィッド・クローネンバーグによって描かれた、行為主体性(エイジェンシー)が物理的かつ精神的な陶酔の朦朧としたファンタスマゴリアのなかへ溶けていく「ビデオローム」的な統御装置を分析するために極めて豊富な思考材料を提供している。
ドキュメンタリー映画作家であるアダム・カーティスは、この情動的マネージメントのレジームの輪郭を見極めている。
・「今のテレビはもはや、視聴者に何を感じるべきか教えるものだ。もう、何を考えるべきか教えるものではない。『イーストエンダーズ』からリアリティ番組に至るまで、あなたは他人の感情を旅する。そして編集によってテレビは、みなが合意できる感情のあり方をやさしく伝えてくるのだ。僕はそれを「ハグとキス」と呼んでいる。この表現は、マーク・レイブンヒルの秀れた論評から借用したものだが、それによると、今日のテレビを分析すれば、それは誰が「嫌な気持ち」、そして誰が「いい気持ち」を経験してるのかを教えてくれる案内システムだという。そして「嫌な気持ち」になっている人物も最終的には「ハグとキス」の瞬間によって救われることになっている。これはまったくもって、道徳教育のシステムではなく、感情教育のシステムなのだ。」
・モラルは感情によって置き換えられた。この「自我の帝国」においては、まったく唯我論的な状態を脱することなく、誰もが「同情できる」ものなのだ。
・メディア関係者がパターナリスティックであることを拒否した結果が、驚くべき多様性に富んだボトムアップの文化ではなく、ますます幼稚化された文化の誕生につながった。
・ある種のリスクを背負う覚悟のある者。
・「長期性の撤回」〔the ’cancellation of the long term’〕、あるいは永続する構造的な不安定性は結果として、革新ではなく、必然的に停滞と保守主義をもたらす。これは逆説ではない。上述のアダム・カーティスの言葉が明らかにするように、後期資本主義において顕著な情動とは、不安と冷笑主義シニシズム)なのである。こうした感情は大胆な思考や起業家的な躍進を刺激するものではなく、同調そして「最小限の変化」の礼賛を育み、すでに成功した商品に酷似したものを作り出すものだ。
・真の新しい左派の目標は政権を握ることではなく、政府を一般意思に従属させることだということを理解しなければならない。当然ながらこれは、「一般意志」という概念そのものを再興させ、また、個人とその利害の集合体には還元できない「公共圏」といった概念を復活、および改良することを伴う。資本主義リアリズムの世界観である「方法論的個人主義」は、公共のような諸概念を「亡霊」、つまり中身を欠いた実体のない抽象概念だとみなしている点で、アダム・スミスハイエク、そしてマックス・シュティルナーの哲学を前提としている。
・実在するのは、個人(とその家族)のみである。こうした世界観の失敗の兆候はいたるところで散見される。(中略)。「大きな物語」に対するポストモダン思想の疑念とは反対に、私たちは、これら問題が孤立した偶発的なものではなく、むしろ単一の体系的な原因による作用だということをより明確に示さなければならない。その原因とは、資本である。
・2008年、銀行に対する救済措置は、資本主義の終わりをなすどころか、むしろ「この道しかない」という資本主義リアリズムの主張をよりはっきりと断言するものだった。金融制度の崩壊を許すのは考えられないこと・・・・・・・・とされ、その結果、大量の公的資金が漏出し、民間の手に渡った。2008年にたしかに崩壊したのは、1970年代以来、資本蓄積が隠れ蓑にしていたイデオロギー的枠組みである。銀行救済の後、新自由主義はいかなる意味でも信用を失った。しかしこれは、新自由主義が一夜にして消えたということではない。むしろ反対に、その前提は依然として政治経済を席巻するのだが、それはもはや、確固たる促進力をもつイデオロギー的プロジェクトの一環ではなく、惰性的な死に損ないの欠陥〔default〕として、そこに存在し続けるのだ。
バディウが力説したように、有効性のある反・資本主義とは、資本への反発でなく競争相手(ライヴァル)でなければならない。資本主義以前の領土性への回帰は不可能なのだから。反・資本主義は、資本の世界主義(グローバリズム)に、それ自身の正当な普遍性でもって対抗しなければならない。
・本当の意味で蘇生した左派が、私が(極めて暫定的に)概略したこの新しい政治的領域を自信をもって陣取っていくことが決定的に重要だ。本来的に政治性をもつものなど存在しない。ものごとを政治化していくには、「当たり前」とされているものを「誰もが勝手に変えられるもの」へと変えていくことのできる政治的な行為主体(エイジェント)が必要だ。もし新自由主義がポスト68年世代の労働者の欲望を内包することによって勝利を得たとすれば、新しい左派は新自由主義が生み出しておきながら満たせないでいる欲望を足場とすることから始めることができるだろう。例えば、官僚主義(ピューロクラシー)の大規模の削減など、新自由主義が著しく失敗してきた問題に、左派こそが取り組めるのだと主張しなければならない。労働とその主導権をめぐって新たな闘争が必要なのだ。
 

あとがき 「諦め」の常態化に抗う――あとがきに代えて

セバスチャンブロイ 河南瑠莉
・資本主義は欲望と自己実現の可能性を解放する社会モデルとして賞賛されてきたにもかかわらず、なぜ精神健康(メンタルヘルス)の問題は近年もこれほど爆発的に増え続けたのだろう?社会的流動性のための経済的条件が破綻するなか、なぜ、私たちは「なににでもなれる」という自己実現の物語を信じ、ある種の社会的責務として受け入れているのだろう?鬱病や依存症の原因は「自己責任」として個々人に押しつけられるが、それが社会構造と労働条件をめぐる政治問題として扱われないのはなぜだろう?もし資本主義リアリズムの時代において「現実的」とされるものが、実は隙間だらけの構築物に過ぎないのであれば、その隙間の向こうから見えるものは何だろう?
・個人の内面性や感情のレベルから、それを形成するマクロかつミクロレベルの社会政治的環境に対して目を開いたとき、私たちは初めてマークの視点を、自らの現実に即して理解したことになる。それは、ルサンチマン冷笑主義、感傷性に身を屈してしまうことなく、私たち各自が現前するリアリティに立ち戻り、すでに失われた(と思われた)未来の姿を、いかに可能性の地平へと取り戻せるのか、その問いを自らに課し続けていくための知性である。そう、諦めの常態化に抗うために。
 
5/3読了