マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

作品#03「哲学用語図鑑トレカ」紹介(5)#41-50

目次

43.ジグムント・フロイト

無意識

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」以降、自我とは自分の意識のことであり、意識は理性でコントロールできるというのが哲学の常識でした。ところがフロイトは人の行動の大部分は理性でコントロールできない無意識に支配されていると考えました。
個人の忘れたい記憶は意識できない部分へしまい込まれ、普段は抑圧されています。こうした記憶は普段は意識されることはありませんが、何かの拍子で意識化されると不安になったり、ノイローゼになる場合があります。

エス(イド)/自我(エゴ)/超自我(スーパーエゴ)

フロイトの考えた自我は、人間の本能的な欲動(リビドー)であるエス(イド)とそれを抑圧する道徳的な超自我(スーパーエゴ)のバランスをとるために後天的に生まれます。彼の自我は、デカルトが考えたような確固たるものではなく、無意識の領域を含んだ不安定なものでした。

エロス/タナトス

フロイトは無意識の領域であるエスの中には、性的な欲動であるリビドーがあるのみと考えていました。エスはただ快だけを求める原則に基づいているので快感原則といいます。一方、社会で生きていくための理性である超自我、自我を現実原則といいます。
晩年のフロイトは、人間には、死へと向かってしまうような欲動があると考えました。これをタナトス死の欲動)といいます。それに対して、性の欲動や自己保存の欲動など、未来に向かって前進する欲動をエロス(生の欲動)といいます。

44.カール・グスタフユング

集合的無意識

ユングは何気なく描いた自分の絵が曼荼羅に似ていたのを機に、曼荼羅について調べてみると、各国に似たような模様があることに気づきました。また各国の神話にも共通点が多いことを知ります。
そして人間には個人の経験による無意識のもっと奥底に、全人類に共通した集合的無意識(普遍的無意識)があるのではないかと考えました。

現代

46.ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

写像理論

ウィトゲンシュタインによると現実の世界は一つ一つの事実の集まりです。一方、言語は科学的な文の集まりです。科学的な文とは「鳥が木にとまっている」というように1つの事実を写し取っている文のことをいいます。科学的な文は事実と1対1で対応していて、科学的な文と事実は同じ数だけ存在しています。これを写像理論(像の理論)といいます。
科学的な文は現実の世界を写し取っているわけですから、科学的な文をすべて分析すれば、世界のすべてを分析できるわけです。そして一つ一つの科学的な文は理論上、確かめることができなくてはなりません。
反対に理論上、確かめられない文は、事実との対応からあぶれたものであり、その内容が正しいか否かではなく、言語を誤用していることになります。たとえば、哲学の「神は死んだ」とか「徳は知である」といった確かめられない命題(文)は正しい言語の用法ではありません。
つまり、事実と対応しないことは言語化できないのです。ウィトゲンシュタインにとって従来の哲学は、まさにこの言語の誤用で成り立っている学問だったのです。
哲学の真の役割は、言語にできることとできないことの境界を確定することだとウィトゲンシュタインは考えます。そして言語にできないことに対しては沈黙しなければならないと言いました。

言語ゲーム

ウィトゲンシュタインは、事実と対応している科学的な言語を分析すれば、世界を分析することができると考えていました(写像理論)。しかしみずからその考えを否定します。なぜなら、科学的言語が先にあり、それが日常会話に使用されるわけではなく、日常会話が先にあり、それから科学的言語が体系化されるということに気づいたからです。つまり世界を理解するためには、オリジナルである日常言語の方を分析しなくてはならないのです。
さらに、日常言語は科学的言語のように、1つの事実に1対1で対応しているわけではありません。「今日はいい天気だ」は、時と場合によっていくつもの意味を持ちます。私たちはこの会話のルールを知っていないと日常言語を扱えません。ウィトゲンシュタインはこのような会話の特性を言語ゲームと呼びました。そして言語ゲームのルールは日常生活の中で学ぶしかないと言います。
「今日はいい天気だ」などの日常言語は、会話の中から取り出してそれだけを分析しても意味を取り違えてしまいます。それが何をさすかを知るためには、実際に日常生活をしながら言語ゲームに参加する必要があります。ただし残念ながら日常言語をいくら分析したくても、それを扱う自分自身がその構造の中にあるので、その全貌を捉えることはできません。

家族的類似

ウィトゲンシュタインは日常言語を言語ゲームというゲームにたとえましたが、「ゲーム」という言葉自体にも明確な定義はないと言います。
「ゲーム」という言葉には非常に緩やかなくくりしかありません。それは、家族の顔に1つの共通した特徴はないけれど、父の耳が兄の耳に似ていて兄の目が母の目に似ていて、母の鼻が妹の鼻に似ているので、総合すると何となくみんな似ているように見える家族写真にたとえることができます。
このような、相互の関係で緩やかにくくられた集合体のことを家族的類似といいます。
家族的類似の考え方から、1つの集合体には何か共通の性質が存在するとは限らないということがわかります。たとえば世の中にはいろいろな正義がありますが、これらに何か1つの共通した性質があるとは限らないのです。これはプラトンイデア論の否定にもつながります。

分析哲学

哲学は古来、「真理」「正義」「神」などを問題としてきました。けれどもこれらはそもそも人間が作り出した言葉です。
つまり「神」とは何かを考えるのではなく、「神」という言葉がどのような意味で使われているのかを分析すれば、「神」の問題は解決できるということになります。哲学の役割は「~とは何か」を考えるのではなく言語の意味を分析することだとする哲学を(言語)分析哲学といいます。
分析哲学は独断的、主観的だった哲学を客観的な言語の問題に転回させました。これを言語論的転回といいます。
分析哲学はムーア、フレーゲラッセルの哲学に由来し、ウィトゲンシュタインを経て、現代の英米哲学の主流となっています。

言語論的転回

47.ルドルフ・カルナップ

論理実証主義

20世紀初頭、相対性理論量子力学の導入などで自然科学は著しく発展 します。そんな中、マルクス唯物史観フロイトの無意識など、根拠が不確かな論理も、あたかも科学のように語られていました。
カルナップなどの物理学者や数学者で結成されたウィーン学団はこれに危機感を感じます。そこで彼らは、観察や実験などで検証できる論理を科学的、できないものを非科学的とする統一規則を作ろうとしました。
彼らによると、哲学が問題にしてきた「真理とは〜」などは実証できない非科学的な論理であり、無用な知識でしかありません。それはウィトゲンシュタインが指摘したように、間違った言葉の用法にすぎないのです(写像理論)。ウィーン学団は実証できる「科学的事実」のみを正しい知識とする論理実証主義を提唱し、哲学の役割は世界を言葉で説明することではなく、言葉そのものの分析(分析哲学)のみであるとしました。
けれども実証を科学的な考え方の条件とするのは無理がありました。なぜなら実証による「科学的事実」は新事実が発見されてくつがえされる可能性をつねに持っているからです。実際、ほとんどの「科学的事実」は更新されています。

48.カール・ポパー

反証可能性

検証できる論理のみが科学であるという論理実証主義が提唱した考えには重大な欠点がありました。なぜならどんなに完璧な理論でも、たった1つの例外でくつがえされる可能性がつねにあるからです(例:ブラックスワン)。人が検証によって科学的理論を証明することは不可能なのです。
そこでポパーは科学的と非科学的の違いを、カルナップのように検証できるかできないかではなく、反証できるかできないかで判断しようとしました。この反証可能性が科学的な考え方の条件であり、反証されることによって科学は進歩すると彼は考えました。
ポパーによれば、科学的な理論は「今のところ反証されていない論理」と言い換えることができます。これに対して疑似科学は、直感や感性で成り立っているので、反証のしようがないわけです。

49.トマス・クーン

パラダイム

科学的知識は観察や実験などの積み重ねによって、だんだんと真実に近づいていると考えられてきました。けれどもクーンは科学的知識は連続的にではなく断続的に変化することに気づきます。
たとえば、それまで定説だった天動説やニュートン力学では説明のつかない事実が次々に発見され始めると、新しい学説である地動説や相対性理論が科学者たちの支持を集めます。そして、それらの新しい学説が知識の標準に変換されます。クーンはひとつの時代の思考の枠組みをパラダイムと名づけ、これが転換されることをパラダイムシフトと呼びました。
今日、パラダイムシフトという言葉は、科学だけではなく社会学やビジネスなどにも幅広く使用されています。

50.エドムント・フッサール

現象学

リンゴが目の前にあったら、私たちはそのリンゴの存在を疑ったりはしません。ところがよく考えてみると、この場合確かなことは、自分にはリンゴが見えている(自分の意識にリンゴがあらわれている)ことだけであるとフッサールは気づきます。
にもかかわらず、リンゴは自分の主観の外にあって、なおかつ自分はそのリンゴを見ている(知覚している)。だからリンゴは自分の意識にのぼっているのだと私たちは確信します。
リンゴだけでなく、他人も自分の身体も過去の思い出も、すべては自分の意識の中にあるのであって、意識の外には何もないはずです。世界は自分の主観の中だけに存在し、主観の外にはないのです。なのに私たちは、世界が自分の外に実在していることを当り前のように信じています。崖から飛び降りたりしないのはそのためです。
私たちはなぜ世界の実在を確信しているのでしょうか?その確信はどうやって生まれるのでしょうか?その謎を解明するのが現象学です。

現象学的還元

「この世の中はすべて夢かもしれない。世界は本当に実在しているのか?」つまり「見えるものは見えるままに存在しているか」を証明することは不可能です。なぜなら、自分が自分の主観の外に出て、自分と世界の両方を眺め、それらが一致していることを確認することができないからです。
それならば、自分という主観と世界という客観が一致しているかどうかを証明することではなく、主観と客観が一致していることを私たちが確信(世界が実在していることを確信)していることの根拠は何かを調べることが重要だとフッサールは考えました。この根拠をつきとめる作業を現象学的還元といいます。

エポケー(一旦カッコに入れて根本から考える)

フッサール現象学的還元を行うためにエポケーという方法を提案します。エポケーとは、当り前に存在していると確信している物事を一旦かっこに入れて疑ってみることです。目の前にリンゴがあったら、私たちはその存在を確信します。なぜ確信するのかをつきとめるために、まずリンゴの存在を徹底的に疑って(エポケーして)みましょう。
そうすると目の前のリンゴは幻かもしれない。けれども「赤い」「丸い」「よい香り」といった知覚的な感覚(知覚直観)と、「おいしそう」「硬そう」といったリンゴに対する知識から来る感覚(本質直観)が意識にあることだけは確かなことだとわかります。リンゴの存在は疑うことができてもこれらの感覚自体は疑いようがありません。「自分は赤いと感じたけれど、じつは白いと感じたのかもしれない」ということはないはずです。
意識にあらわれたこれらの「赤い」「丸い」「おいしそう」といった感覚はリンゴの一面であってリンゴのすべてではありません。にもかかわらず、これらの直観だけで私たちはリンゴの存在を確信していたのです。
リンゴをエポケーする目的は確信の根拠をつきとめることです。これはリンゴでなくて「道徳」や「法律」などに対しても同じことです。エポケーで物事を一番根本から捉えなおすことが大切だとフッサールは考えました。

指向性

意識は様々な意識内容が浮かんでいる1つの水槽のようなものではないとフッサールは言います。そうではなくて、たとえば、リンゴならリンゴに対する意識、バナナならバナナに対する意識というように、つねに何かに対しての意識であるといいます。このような意識の性質をフッサールは志向性と呼びました。

ノエシスノエマ

志向性にはノエシスノエマという2つの側面があります。知覚直観と本質直観(この2つを合わせて内在といいます)をもとに、リンゴなどの対象を意識が構成する作用をノエシス、構成されたもの、すなわち意識される対象(リンゴ)をノエマといいます。また、内在は疑うことができないという性質を持っていますが、内在から構成されてできたリンゴなどの対象はつねに疑われる余地を残しています(エポケー)。このような対象の性質を超越とフッサールは呼んでいます。

間主観性

世界が主観の外に実在している保証はどこにもありません。けれども私たちは世界の実在を確信しています。なぜなのでしょうか?フッサールが考える私たちが世界の実在を確信するまでの道のりを見てみましょう。
まず自我の意識があります。次に自我の意識で動かすことができる身体は、「私の身体」として存在していると確信します。次に自我の身体とは別に、自我の身体ではない対象があるという感覚を得ます。この場合の対象とは客観的な世界のことではなく、刺激のようなものです。さらに自我と明らかに同じような身体を持った他人に感情移入して、自我ではない他人の自我、すなわち他我の存在を確信します。
この他我があることの確信をフッサール間主観性と呼びます。間主観性は、自我にとっての世界と他我にとっての世界は同じものだと確信させます。こうして客観的世界が生まれます。
客観的世界の確信は、確信した人にとって実在するのと同じことです。フッサール間主観性こそが世界の存在を基礎づけると考えました。