宮台真司 x 北田暁大『限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学』双風舎

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

まえがき  北田暁大

第一章 空虚な時代を生きる
一 保守思想を考える
  あえてするコミットメントと保守主義の台頭
  崩壊するコミュニケーションの地平
  ホンモノの右翼と保守
  左派によるロマン主義への繊細な考察
  人間の理性は世界を覆えるのか
  私たちが物事をまじめに考える動機

二 アイロニーロマン主義、そして社会学
  思考のパッケージとしてのハーバーマスルーマン論争
  社会学とロマン派とアイロニーの結節点
  天皇論を持ち出すことの本意
  ロマン主義とは何か
  「超越系」と「内在系」
  認識上の転向、実在上の非転向
  形式を反復するロマン主義の罠
  アイロニカルな社会学が立ちあがる土壌としての日本
  この空虚な時代を、どう色づけしていくのか

第二章 文化を記述する方法
一 「価値自由」とは何か
  あえてウェーバーの価値自由を提唱する
  理論家/実践家としての廣松渉
  上野千鶴子という非還元主義者
  私が社会学者になった理由
  「理論家」宮台と「文化社会学者」宮台は断絶しているのか?
  日本のカルチュラル・スタディーズの問題点
  いまなぜ「政治の季節」を語るのか
  人はなぜ全体性に惹かれるのか
  政治への意志を社会と接続していく

二 文化を研究することの意味
  流動性への抵抗力を供給するサブカルチャー
  認識は脱政治的に、実践は政治的に
  カルチュラル・スタディーズのあるべき姿とは
  非還元論的な文化研究をめざす
  文化を記述することの難しさ
  社会学的な想像力を磨く
  モードの変化に気づく力を養う
  反省を分析する手法の開発が求められている
  限界の思考

第三章 社会学はどこへ向かっていくのか
一 「意味なき世界」とロマン主義
  人間であり続けることは、どういうことなのか
  ロマン的なものと動物的なものが反復する社会
  近代システムの特徴としての再帰性
  ロマン主義再考
  日本は思想の全体構造を見わたしづらい?
  かつて想像された全体性がよみがえる
  「意味なき世界」を肯定するような習慣

二 「脱呪術化という呪術」の支配に抗う
  人間は壊れているという自覚
  乾いた語り口が切り開く思考空間を求めて
  ローティの「反思想という思想」
  虚構のうえに成り立つ近代社会という前提
  社会学者はいま、何をすべきなのか
  保守主義構築主義というふたつの武器
  超越への断念と批判への意志を貫く 

第四章 アイロニー社会学
一 戦略的アイロニズムは有効なのか?
  時代とともに変化するアイロニーの構造
  ポスト八〇年代をどう見るのか
  日本には「消去しきれない理念」がない
  オブセッションが人をどう駆動するのか
  大澤真幸の単純さ
  アイロニーオブセッションへと頽落する戦後サブカル
  戦略的アイロニズムオブセッションへの処方箋
  オブセッシブな後続世代は、先行世代の餌食

二 楽になるための歴史と教養
  若い世代は軽いようで重い
  教養という旅をした世代、旅ができなかった世代
  八〇年代を退落の時代と位置づけてよいのか
  視界の透明性が存在しない後続世代
  歴史地図のなかに価値を滑り込ませたくない
  七〇年代的アイロニーを再評価することの危うさ
  歴史をとおして自分の位置を確認する

第五章 限界の思考
一 全体性への思考と専門知
  強迫性を解除するための方策とは
  奇妙なかたちで流用される専門知
  何が道具で何が知識なのかを考える
  教養主義者としての蓮實重彦
  依拠すべき参照項の消えた時代

二 社会の操舵が困難な時代
  いまこそギリシャ哲学に学べ
  分析哲学を見直す
  オースティン、サール、そしてデリダ
  何を意図しているのか、はじめに話してしまったほうがよい
  宮台アイロニーへの思い違い
  『歴史の終焉』という終焉を生きる
  啓蒙の対象はエリートなのか大衆なのか
  合理性のない欲望が肥大化する日本社会
  国粋はかならずしも、愛国の体をなさず
  公共的であることの困難

あとがき 宮台真司
 
まえがき  北田暁大
>>見田宗介「経済競争の強迫から解放された人類は、アートと文学と思想と科学の限りなく自由な創造と、友情と愛と子どもたちとの交歓と自然との交感の限りなく豊饒な感動とを、追求し、展開し、享受しつづけるだろう」<<
宮台とルーマン
 

第一章 空虚な時代を生きる

一 保守思想を考える
いったい誰が「セカチュー」を読んでいるのか?
いったい誰がブッシュを支持しているのか?
コミュニケーションのレイヤー(階層)が分離している。
姜尚中・宮台『挑発する知』
頭山満 玄洋社 民権運動の一翼
第一に民権 第二に亜細亜主義 第三に反政府
敬天愛人」 天を上にして 人(国家)を相対化する
主知主義(左)/主意主義(右)
アリストテレス、アクィナス/プラトンアウグスティヌス
理性の位置づけの違い
主意主義(右)=不条理や規定不能性をあらかじめ前提とする
右 本来は国家(人工物)よりパトリオティズム(自然)
宮台・仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー
いい(必要な)「再帰性」(あえてする)と駄目な「再帰性」(終わらない)
<世界>の根源的未規定性に開かれている「合理的態度」
「終わりなき再帰性」の泥沼はだめ「終わりある再帰性
<システム>「役割とマニュアル」が支配する、過剰流動的かつ入れ替え可能な人間関係
<生活世界>入れ替え不能な人間関係
>>このころの宮台のネオコン的思想<<
廣松渉シンポジウムでの荒岱介との論争
西部邁、落合仁司
「社会による拘束の事実性」「ライツトークの限界」
大庭健
「極右と極左の差異がわからない」
超越神=<世界>の外
「だからプレ・プラトンの思想者たちは「超越論的特異点」を認めない。認めると「依存」の心性が生まれるからです。<世界>の根源的未規定性を「超越論的特異点」に集中的に帰属させて清明なる<世界>に身を置くかわりに、カオティック(無秩序)に偏在する<世界>の根源的未規定性に身をさらし、みずからの力の源泉にする「自立」の心性が尊ばれたんです。」
宮台 祭り好きのトランス系
「僕は80年代なかばから、机上の研究生活に飽きてフィールドワークをはじめた。ヤクザからお巡りさんまでいろんな人と付きあい、何回か危ない橋を渡りながら思ったことは、<社会>のなかに身を置くような作法は自分にすこしも力を与えてくれないということでした。<世界>(の根源的未規定性)との接触なくして、自分はすこしも前に進めないという感覚。」
日本のアングラには「反体制」と「反近代」というふたつの柱があります。
江戸川乱歩夢野久作新青年」、泉鏡花、大正と昭和のモダニズム
=近代化のまぶしき光を希求しつつ、急速に失われゆく共同体の闇への執着とのあいだで引き裂かれる心性
・光と闇の対照が織りなす絵模様を前に、引き裂かれた心性が描かれます。共同体の子宮から引きはがされた嬰児が、代替的全体性を希求するかのごとし。だからモダニズムの時代はながつづきしません。近代化が進んで闇が消えれば、光と闇に引き裂かれるがゆえのモダニズムの心性も、必然的に消滅する道理。ここでのキーワードは<世界>ないし全体性です。
・12世紀の叙任権闘争から17世紀のウエストファリア条約にいたる「<社会>よりも大きなもの(宗教)の囲い込み」を前提として、できあがった近代社会。そこでは人間が<社会>の内側に囲い込まれます。だから、近代社会でのアノミーの埋めあわせが、<社会>の外側を希求させます。それが全体性や身体性です。
入れ替え不能性=「魂」
初期ギリシアへの羨望
近代人には、もう<世界>は見えません。
ロマン主義「全体性の希求という不可能性を擁護する立場」
北田世代「政治的なことや思想的なことを語るのは格好悪い」
 
二 アイロニーロマン主義、そして社会学
70年 ハーバーマスルーマン論争
二人ともわかった上でロールプレイとしての論争 パッケージに意味がある
ナチズム=素朴なロマン主義ニヒリズムの合体
>>加速主義、新反動主義も危険<<
ルーマンのいうことを真に受けて「じゃあ、何でもありか!」と消沈するのもバカですし、ハーバーマスのいうことを真に受けて「やっぱ、話せばわかるんだ!」と噴きあがるのもバカです。ハーバーマスルーマン論争から見えてくるのは、「これらのバカを同時に回避せよ」というメッセージです。それに気づいたのが、僕の思考のもうひとつの出発点です。
宮台に対する大塚の必死の説得工作
社会学における「非日常性」ウェーバーの「カリスマ」デュルケムの「集合的沸騰」
非日常の「混融」のあとの、日常への「着地」は、往々にして偶発的です。そこに着地するべき必然性はないんだと。
「法」は所詮誰かが作ったもの
みずからは、すこしも天皇を崇めない狡猾なる長州藩の連中が、「聖なる天皇」を国民に崇拝させることで、ガバナビリティーを高めようとしている
北一輝「国民の天皇
「玉(ぎょく)の取り合い」
「田吾作による天皇利用」の反復
天皇を標榜しても、共産党における宮本顕治のごとく、「草の根の天皇制」になってしまう。
僕の戦略は「右には右を、左には左を」です。
ロバート・K・マートン「準拠集団論」
ヒトラーにとって、所属集団は「現実のドイツ民族」、準拠集団は「理想のドイツ民族」です。その意味でヒトラーはロマンチックです。彼はナチの前身であるドイツ社会主義労働者党に入党して、何と一年余で党首にのぼりつめます。それは彼の演説がほかと違って、いつも「現実の」でなく「理想のドイツ民族」に言及するがゆえの「力」のせいなんですね。
政治すなわち集合的動員においては、「現実」ではなく「理想」に準拠するというロマンチシズムが不可欠です。
「目には目を、歯には歯を」です。「右には右を、左には左を、天皇には天皇を」です。自分を軽蔑してくる相手方には、自分も賢くなったうえで相手方と同じやり方で対抗すればいい。
でも、この(二・二六青年将校の)素朴ロマン派的な天皇イメージは、農村共同体的な母性幻想の投射にすぎず、「現実の天皇」によって裏切られます。そこに出てくるのが、みずから「理想の天皇」たらんとした出口王仁三郎大本教的な宗教性です。これをモデルにしたのが高橋和巳の『邪宗門』で、中学三年のときにこれを読んだことが、僕の未来を決定づけたんですね。
自覚的なロマン主義者の散華に、「全体性への自由」を見いだした
サイファ覚醒せよ』
>><社会>に内属すれば鬱になるのは当たり前<<
1930年代、保田與重郎横光利一
ブルセラ少女 → メンヘル系
ヘルムート・プレスナー(脱中心的位置性) → アイザイア・バーリン
トーマス・マン魔の山
ジートルンカ(人形劇作家)『電子頭脳おばあさん』
フリッツ・ラングオーストリア)『メトロポリス
サンダーバード』『ガタカ』『未来世紀ブラジル』『攻殻機動隊
結城座(操り人形劇団)
>>「遠くへ行きたい」のようなドキュメンタリー。山村。限界集落。地方の祭り。<<
プラトンと文字の普及が同時
それ以前は舞踊と朗読
プラトンを境に
内在の全体 philosophy/メタ万物学 metaphysics
ニーチェ古文献学者 プラトンを疑う
「力」<公助と自助>
ミメーシス(模倣感染)をもちいたコミュニケーション ガブリエル・タルド ルネ・ジラール
つまり、後期ハイデガーがナチを礼賛したか否かに関係なく、そもそも現代哲学は、フーコーを含めて右翼的なんですよ。
右翼-縦の力 左翼ー横の力
<世界>と<社会>が重なる原初的段階 ー 万物をコミュニケーション可能だと見なすアニミズム
「ここではないどこか」を指向せざるを得ない者=「超越系」
指向しなくてすむ者=「内在系」
★僕は「ここではないどこか」を指向せざるを得ない者を「超越系」、指向しなくてもすむ者を「内在系」と呼びます。
麻布学園 氷上信廣先生 倫理・社会
フロム『自由からの逃走』
唐十郎状況劇場若松プロの映画「子宮回帰願望」
★繰り返すと「内在系」とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲良く暮らせれば、幸せになれる者のこと。<社会>内のポジショニングいかんで自足できる存在です。「超越系」とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせても、そうした自分にどんな意味があるのかに煩悶する者のこと。<社会>内のポジショニングには自足できない存在です。
宗教「利益祈願型」「意味追求型」
全体主義とは、単に個人を越えた集団というより、前述した意味での全体性に関心をよせるものです。ナチの源には、崇高なる精神共同体との一体化こそ、尊厳(自己価値)だと見なすドイツ国法学の流れがあり、背後にはドイツ・ロマン主義の流れがあります。
英米仏的な近代社会の理念型では、<社会>での試行錯誤によってつちかった自己信頼こそが尊厳(自己価値)です。自己決定=自己責任的な主体概念は、こうした理念系を前提とします。この理念型によれば、全体性への志向=超越志向は、主体の未成熟を意味します。まさに「子宮回帰願望」は成熟せざる幼児なるがゆえにこそなせるワザ、というわけです。
★「内在系」の実存が健全で、「超越系」の実存は、今日的にいえば、「発達障害」的な<社会>化不全。
そうした考えから、オウムへの処方箋として「終わりなき日常を生きよ」というメッセージが生まれます。でもその後の長期取材で、高度な流動性による入れ替え可能化と"健全な"内在志向とは、両立しないと感じるようになります。「超越系=オウム的な生き方」を否定、「内在系=ブルセラ的な生き方」を肯定するのは、流動性の高い社会では、無理です。
NHKドキュメンタリー『渋谷・音楽・世紀末』
でも、デートクラブは潰され、クラブは潰されなかったけど別の場所になりました。流動性の高い「第四空間」が、<生活世界>と機能的に等価な感情的安全調達機能を果たすというのは、幻想に終わりました。それだけじゃなく、一貫性にこだわらないモザイク状の実存を生きる存在として持ちあげていた女子高生たちが、のちに軒並みメンヘラーになりました。
僕の認識に甘さ。実存上の転向はあり得ないけど、認識上の転向をしました。
見田宗介 メキシコ留学 →コミューン主義者として「真木悠介
「近代の超克」座談会
アジア主義とは、「敗北を抱きしめ」た者が「先に行った」側の合理主義を批判するための方法論=中身はない
福田和也のような輩 西部邁江藤淳の死が痛かった。
 

第二章 文化を記述する方法

ウェーバーの価値自由
あらゆる価値から自由 真の中立などあり得ない。
安易な思考への牽制 ある種の断念の表明
認識論的なアイロニー どこかで線を引く
認識論的な本質主義アナーキズムは、容易にロマン主義的な非合理へと巻き込まれてしまう
非合理な大文字の価値への短絡を防ぐ
ウィトゲンシュタイン「語り得ないものについては沈黙せねばならない」
カルナップのハイデガー批判 カルナップこそ20世紀初のソーカル
廣松渉 共同主観性論と物象化論は、「所与として意識されるとはどういうことか」というところからはじめて、ついには国家の成り立ちまで説明してしまうという、壮大なるグランドセオリー。
上野 廣松 徹底した非還元主義
宮台 中高六年間 アングラ全盛期
ルカーチ 物象化と革命的主体形成の関係
下部構造決定論=生産諸関係が意識諸形態を規定する
人びとが「自分は自由に表現や表出をなし得ている」と感じていても、「表現や表出に、社会ごと時代ごとの明確な型が刻印される」のはなぜか?
「なぜ、自分は共産党やそのフロントの民青が大嫌いで、新左翼が好きか」?
→「いい社会になれば、人びとは幸せになる、だからいい社会をつくろう」というビジョンには反吐が出る。
これがアングラ文化とマルクス主義との乖離
一部の人があえて戦争をしたがる動機
松田政男『薔薇と無名者』「四トロ」(第四トロツキスト同盟)
廣松 松田 革命家に家族はいらない パイプカット
廣松 居留守 権力の予期理論 500ページ
グラムシ的 文化的ヘゲモニー論を否定
ルーマン『情熱としての愛』
「けっして時代の断絶は存在しない。かならず連続的変化をもたらすメカニズムがある」
意味論とは、概念や命題が互いに関係し合った集合体です。たとえば、教員という概念は、生徒、教室、授業、学校、職員室、校則、集団行動などの概念セットや、「えこひいきをしてはいけない」「生徒の心を理解しなければいけない」といった命題セットとのかかわりで、はじめて時代固有・社会固有の意味を持ちます。しかも、この意味論は変わっていきます。
サブカルチャー神話解体』では「資本の論理」という言葉を使わなかった。
神経システムは電気的に閉じています。富士山が見えるということは、神経システムが富士山と電気的に交信することを意味しません。富士山の視覚映像は、インターフェイスを介して、神経システムがつくり出した「内部イメージ」の、結果です。
見田宗介現代社会の心情と論理』歌謡曲分析
「ソシオロゴス」
ブント系「理戦」「情況」
永田洋子『十六の墓標』
笠井潔東浩紀のすれ違い
塩見孝也「自分たちを規定する情動」に敏感になろう
「都市と農村」「上層と下層」「強者と弱者」→「全体性と部分」というメタコード
→「痛みを通じた社会把握」「痛みを通じた全体性把握」
宮台『絶望 断念 福音 映画』
人が「究極の意味」を志向する、すなわち全体性に帰依したがるのはなぜか?「子宮回帰願望」「人類補完計画
フロイト派 母子一体的な全能感「エロス的段階」→父親的なくさび→断念と他者性の受け入れ「社会的段階」→近代社会が要請する「成熟した存在」
エディプス的な機能不全 ある種の幼児性
宮台 13年間 性的放蕩 「政から性へ」 ドイツでは「民族」 フランスでは「女」
政と性は近縁
ウェーバーの脱呪術化論こそ、「全体性への希求の断念」に言及する最初の議論です
フランクフルター第四世代 ノルベルト・ボルツ
脱呪術化へと向けたオブセッション(強迫性)こそが、あらたなる呪術 >>資本主義リアリズム<<
言い換えると、脱呪術化は、かならずしも全体性から距離を取ることにならないどころか、脱呪術化へのオブッセシブな志向―オブセッシブなアイロニズム―自体が、あらゆるものが相対化可能であるなかで、唯一、相対化できない「端的な前提」として機能することがあり得る。
全体性から距離を取ろうとする営み。全体性を部分化しようとする営み。すなわちアイロニカルな営み。脱呪術化の観念に取りつかれることで、人は知らず知らず別種の全体性へとつれていかれる。こうしたパラドックスに注目するのが、第四世代の「脱・脱呪術化」論です。
=「超越系」を上手に善導しようという議論
クレヨンしんちゃん モーレツ!大人帝国の逆襲』
「匂いのある街」
鈴木清順『殺しの烙印』60年代グッズのオンパレード
「誰もが『同じ時代』『同じ社会』を生きている」と確信を持てた時代、社会成員が互いに共通前提を当てにできた時代、この万人を浸す共通前提こそ、「匂い」の正体です。「匂い」をさらにパラフレーズすると、「共有を当てにできる感覚地理」。ドイツ語でいうとレーベンスヴェルト(生活世界)。
<システム>とは「役割とマニュアル」が支配的な領域で、人も物も入れ替え可能な匿名世界。これに対し、<生活世界>とは「善意と自発性」が支配的な領域で、人も物も入れ替え不能な記名世界です。
近代過渡期には、人びとは<システム>に侵食されない<生活世界>の存在を確信できました。<生活世界>の幸いのために<システム>を是々非々で利用するのだと思えました。それが近代化――<システム>の導入――を正当化してくれました。
ポストモダン=<生活世界>の空洞化。
ホームベースがない。共有感覚を当てにできない。
多くの人が過剰流動性に耐えられない 「固有名を持った自分が、入れ替え可能な存在にすぎないこと」に耐えられない。「入れ替え可能化という疎外」 埋めあわせに全体性を求める
旧枢軸国は、急速な産業化によってローカルな共同体を空洞化させ、浮遊した身体を都市労働者として使いつつ、彼らの浮遊する実存を「崇高なる精神共同体=国家」への糾合、急速な産業化へと邁進させます。<生活世界>の空洞化によって「入れ替え可能という疎外」を経験した者を、ロマン主義的な「理想の民族」の全体性へと糾合することで生じるマッチポンプ的な循環です。全体主義国家が個人を使い捨てにする現実を思えば逆説的ですが。
ヘタレ左翼が「ファンタグラス」(ドラえもん)をかけたがる。
ネオコンニヒリズム虚無主義)はポストモダニストシニシズム冷笑主義)と同じ
カルチュラル・スタディーズ 
宇宙戦艦ヤマト』=「サブライム」=非日常的な大世界への耽溺
→『うる星やつら』『めぞん一刻』『Dr.スランプ』『パタリロ』=「無害な共同性」=日常的な小世界の戯れ
→「陳腐な終末世界」大友克洋押井守、『気分はもう戦争矢作俊彦
→『新世紀エヴァンゲリオンセカイ系
80年代から停滞する歴史
サブライム」への<反発>が「無害な共同性」を生み、「無害な共同性」の<短絡>が「エロ&関係のインフレ」を生み、同じ「無害な共同性」への<言い訳>が「陳腐な終末世界」を生み、そこには「サブライム」モチーフが<借用>される。じつは時代を問わず、意味論の動態には、<反発><短絡><言い訳><借用>といった転轍が付き物なのです。(ルーマン的分析)
『情熱としての愛』愛の意味論の変遷
システムのホメオスタシス(恒常性の維持)
60→70→80→90
「ベタからネタへ」「ネタからベタへ」
植草甚一「宝島」日本でのカタログの嚆矢
カタログからマニュアルへ POPEYE、HOTDOG PRESS
「反省」は団塊世代的=60年代的なもの。「反省の否定」は原新人類的=70年代的なもの。「反省の否定の忘却」は後期新人類的=80年代的なもの。「反省の否定」から「反省の否定の忘却」へ、すなわち「再帰化」から「短絡化」への動きを象徴するのが、「カタログからマニュアルへ」という流れです。
全てが、ネタがベタになる
「うしろ指さされ隊」→「うしろ髪ひかれ隊
「エリート主義的『B級批評』」から「誰でもわかる『楽屋オチ』」へ
細野晴臣的なものから秋元康的なものへ」
60年代への反動としての70、80年代
北田「ある人びとは、プラグマティックなネオコン的合理主義を受け入れて「終わりなき日常」の操舵に勤しみ、ある人びとはロマン主義的なかたちで性急に全体性を回復しようとする。全体性がないことへの居直りと、全体性への短絡とでもいえるでしょうか。社会科学の言説もまた、その両極に引き裂かれつつあるように思います」
僕の言い方では、我々のコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的な前提の総体が社会で、それを考察するのが社会学
 
第三章 社会学はどこへ向かっていくのか
東浩紀動物化するポストモダン』について
今日の過剰流動的社会をウマく生きようとすると、「人間」であり続けられなくなる
非流動的な<生活世界>では人間が要求されていた。<システム>が全域を覆ったならば、もはや「人間」はいりません。
<システム>では「キャラクター」が要求される。
「過剰流動的社会では解離こそが適応になる」
ベンヤミン
アウラが存在する時代」「アウラが喪失する時代」「アウラ喪失が忘却される時代」
アウラ→全体性とも置き換えられる
「埋め合せ理論」=近代がもたらす「欠落体験」が「埋め合せ」のための各種表象(人間・全体性・愛…)を生み出す。
疎外論人間性アウラの喪失を嘆く言説
90年代以降 職場の同僚とのあいだに、「全面的」ではなく「部分的」「局所的」な関係を求める指向。状況に応じて他者とのかかわりのほうのスイッチを切り替える指向性。
空気を読む社会性 首尾よく他者とのコミュニケーションを継続していくという意味での「社会性」=つながりの社会性
解離化とその裏をなす「ロマン主義
「人間か動物か」ではなく、「人間化と動物化
確認すると、アウラも「埋め合せ理論」的なもので、人間化とは、アウラや全体性にかかわる「喪失の時代」――かつてあったとされたアウラや全体性の喪失体験を嘆いたり喜んだりする時代――のこと。動物化とは、「喪失の忘却の時代」――アウラや全体性の概念自体が消えるので喪失体験が存在しない時代――のこと。
ロマン派とは「可能な現実」ではなく「不可能な理想」に準拠する志向。
「不可能な理想」=「全体性」との接触
内部から沸きあがる不合理な力=ミメーシスを引き起こす力=アウラ
だから、批判理論は「全体性を断念せよ」という素朴な物言いでは満足しません。全体性を断念させるとしても、(遅れた近代ゆえの)不全が生み出す勢いあまった埋め合せの志向を、どこに着地させるのかに腐心します。そこで美学が持ち出されたり(第一世代)、理想的発話状況を検討するコミュニケーション理論が持ち出される(第二世代)
>>やっぱり『祭り』の復活が現実的かも<<
再帰性=「ベタはあり得ない」「本物、オリジナルはない」
これまた埋め合せ理論的です。伝統主義が空洞化したから再帰的伝統主義が生じる。共同性が空洞化したから共同体主義が生じる。全体性が空洞化したから全体主義が生じる。どれも空洞化する前は、意識するまでもなく全志向に、伝統や共同性や全体性が刻印されていた。
正確には、空洞化の欠落体験を埋め合わせる機能を持つものならば、美でも教養でも酩酊でも死でも何でもいいという理論になります。人文科学自身がそのように宣言することで、人文科学にかかわろうとする動機(を支えていた土台)が、社会からますます剥落していきます(笑)。
2ちゃんねるのコミュニケーション空間というのは、基本的にすべてをネタ化する方法論を内包したもの。
「ネタにマジレス、カコワルイ」
シニシズムロマン主義は裏腹、セット=ネトウヨ
埋め合せへのオブセッション→不可能な主観的理想に準拠しようとするロマン主義的感受性
→極まると、全体主義、ナチズム
エロ本の「想像力」の問題
日常生活のなかにテレビを見る娯楽 → テレビが見せる広大な世界のなかに日常生活
アウラの喪失」 → 「アウラの喪失の忘却」
横の力―<社会>からおとずれるもの―が当てにならないと見切った人たちは、縦の力―<世界>からおとずれるもの―を渇望するようになる。
ディシプリン(規律訓練)=「主体化」 → 管理テクノロジー環境管理型権力アーキテクチャ)」
フーコー的な権力」 → 「ドゥルーズ的な権力」
「冷暖房の温度で客の回転率をコントロールする方法は、すでに一般化しています。」
「主体化」が必要なくなる → 「動物化した人間」「壊れた人間」
そんな社会では、「動物化」していない人間こそが、バグやノイズになります。
(誰もが動物化したなかで)倫理はどこからくるのか。壊れていない人間が設計したアーキテクチャを、壊れた人間が生きることだけが可能。
「社会の大半を占める壊れた人間たちを滞りなく管理するアーキテクチャーを、周到に設計する、ごく一握りの壊れていない人間たち」というビジョンを受け入れるしかなくなります。そうした方向への動きを――先進各国における警察行政の動きも踏まえたうえで――僕は「新しい警察国家」と呼びます。犯罪者取り締りから、アーキテクチャー管理へのシフトですね。
私はマンションに住んでいて、そこの二階がファミリーレストランになっています。そのレストランは、昼間にいくと恐ろしいくらいに寒いのです。なぜ寒いのかというと、客の回転をよくするため、長居できないようにしているんじゃないか。いや本当にそういう意図があるのかどうかはわかりませんが、ファストフード店の硬い椅子と一緒で、おそろしく居心地が悪いがゆえ、結果的に意図せざるかたちで回転率の上昇に寄与してしまう、というのは事実です。そうした「意図せざる管理への服従」を構造的に可能にするのが環境管理型権力ですね。
ホームレス排除オブジェ
自由の剥奪感の剥奪 → 何も考えなくなる
>>冷房に異常に厳しくgoogle評価をつける<<
★他行為可能性への想像力そのものを奪う環境管理のテクノロジーによって、私たちが何も考えなくても生きていけるような、また考えたら生きていけないようなシステムが構築されつつあります。
おそらく大多数の人びとは、それに耐えてしまうだろう、と私は考えます。耐えるも何も、自由の剥奪感を剥奪されているわけですから、何らの違和をも感じることなく快適な環境のなかに安住していくことになると思う。
「脱呪術化という呪術」の支配に抗う
同じ程度の貧しさや豊かさのなかにいたとしても、頭の悪い人や鈍感な人は、自由の部分を強く感じるでしょうが、頭のいい人や敏感な人は、不自由の部分を強く感じるはずです。
宮台 頭の悪いネオコンを批判するネオコン
大森荘蔵 日本の分析哲学
日本の「思想」は大陸哲学に偏っている
マルクス主義の人文化、思想化
それこそがローティ『アメリカ 未完のプロジェクト』のなかで強調していたことです。つまり、文化左翼がそのラディカリズムでもって文学部の学生を魅了しているうちに、新自由主義的なプラグマティストたちは文学部以外の学部のみならず、大学外の世界でのプレゼンス獲得をめざしている、と。
ローティの「反思想という思想」
日本のポストモダン・ブームがはじまってしばらくすると、柄谷行人さんが『批評とポストモダン』という本で、モダンも経由していないプレモダンな日本で、ポストモダンを唱導するのは滑稽じゃないかと書きました。「近代の超克」よりも「近代の徹底」こそが課題じゃないかと。その影響を受けて、浅田彰さんがポストモダン論を方向転換したりしました。
一般意志は、個人意志の集計じゃない。万人の合意じゃない。誰もがそう思うということじゃない。ルソー的にいえば、国民全員が出席する集会のごとき「祭り」の結果生じるもの。デュルケーム的にいえば「集合的沸騰」の結果生じるもの。ようは、自分がどう思うかは別として「皆の意思だ」と誰もが思うもの。
国家、社会は必要悪だから、無学なカルスタ・ポスコロを批判する。
ロマン主義とは、不可能な理想に(再帰的に)準拠すること。不可能な理想は、<社会>でなく<世界>に言及するものであること。
社会学者がこうした思考伝統に敏感なら、取るべき立場は明白です。第一に、すべての境界線が恣意的で相対的なものにすぎないことは自明。第二に、だから斜にかまえればすむ話じゃなく、逆にコミットメントを支える内発性(内から沸きあがる力やそれのミメーシス)が必要。第三に、内発性を支えるのに必要な事実性を創造&護持する再帰的なかまえが必要。
宮台の左翼叩き、「弱者の味方」、『現代思想』批判
文化左翼的コミュニケーションが、ネオコン連中からどう実存的に軽蔑されているのかについて、文化左翼連中は鈍感です。ちなみに、繰り返すと、ネオコンとは、自分が考える公正な社会を実現するために手段を選ばない、理想を動機とするマキャベリストのことです。
ネオコンのベースにあるシニシズムから見ると、文化左翼的コミュニケーションはバカのゲームに見えます。このシニシズムを、フランクフルター第四世代も、リベラル・アイロニストも、ルーマン流社会システム理論も共有します。
いつまでもぬくぬくとした左翼サークルの内にいるな。
 
第四章
「あえてが没入になる」という大澤的な議論は、こうした歴史性を踏まえない粗雑なものです。ようは、よい「あえて」と、悪い「あえて」とがあるんです。
アーレントが「ギリシア人は(超越項やエクリチュールへの)依存を嫌う」というときの「依存」こそが、さっきいった「オブセッション」――大澤さんのいう「没入」――の別名です。僕が「ベタはいけない」というのは、「オブセッション=依存はいけない」ということです。「アイロニカルならばいい」などとはいってない。それが「ネタからベタへ」批判です。
さっき「アイロニカルとノンアイロニカル」の対立軸と、「オブセッシブとノンオブセッシブ」の対立軸が、直交するといった。後者が「ベタとネタ」の対立軸です。したがって論理的には「ネタなアイロニー」と「ベタなアイロニー」があることになります。『サブカル』では、前者を「諧謔」と呼び、後者を「韜晦」と呼んでいます。
つづいて『自由な新世紀・不自由なあなた』では、「ネタなアイロニー諧謔」を「あえて」と呼び、「ベタなアイロニー=韜晦」を「所詮」(どうせオイラは……)と呼んでいます。両方とも「全体を部分に対応させる」ので「内容を距離化している」といえます。でも方向性が逆です。この本では"「所詮」から「あえて」へ"を推奨しました。
「ポスト・ポスト団塊ジュニア的なもの」→ひきこもり化・鬱病化・メンヘラー化・2ちゃんねる
「敷居の高さ」
サブカル』では、77年から4回の画期を経て段階的にアイロニーが「大衆化」すると同時に「オブセッション化」していく動きを、明確に「頽落」だとしています。それ以前の73年から77年までの原新人類=原オタク的なアイロニーは、「文化エリート」にしかわからないと同時に、きわめて「自由闊達」なものでした。質はこちらが上です。
そんな亜細亜主義者に対し、福澤は「亜細亜主義こそオブセッシブだ」とベタを批判し、「そんなにベタだと、野蛮な朝鮮や中国が足手まといになって、日本が植民地にされるぞ」とネタを持ち出します。むろん亜細亜主義者から見ると、福澤が持ち出す植民地化の不安こそ、私腹を肥やさんがための単純欧化主義者のオブセッシブなデマゴギーになります。
北田さんもいったように、絶えず「操縦する側」に立とうとするのが、70年代なかばにシラケ世代と呼ばれる中高生だった、僕たちの原新人類=原オタク的な「世代性」です。操縦しているのか、操縦されているのかに、異様にこだわるんですね。59年生まれで、74年に高校性になった僕は、この世代のど真ん中に位置します。
僕がマルクス主義を捨ててシステム理論に向かったのも、左翼ではなく右翼であるのも、「操縦する側」に立ちたかったからかもしれません。思えば、僕の周囲に展開する世代性の意味を、しっかりと下の世代に伝えたことがありませんでした。
12年前の『サブカル』で、(原)新人類世代の「諧謔」が後続世代の「韜晦」へと変化したことや、(原)新人類世代の「シャレ」が後続世代の「オシャレ」へと変化したことを批判したのも、後続世代のオブセッションが彼らを「操縦される側」にまわらせるからです。「韜晦」野郎や「オシャレ」野郎を操縦するのは簡単です。
簡単なので、マーケットリサーチ会社でそれなりにオイシイ思いをしました。71年生まれの北田さんは団塊ジュニア世代ですよね。僕たち原新人類=原オタク世代、つまり秋元康的・泉麻人的な「仕掛け人世代」が餌食にしようとした世代です。「仕掛け人世代」にとって、より広い社会的文脈に気づかないオブセッシブな後続世代はオイシイんです。
「傷つかない為のネタ化」
ケータイ盗み見。相手にベタにコミットするのはヤバいので、自分もタコ足化してネタ化する。
>>中本との関係、ネタ化しないでベタに怒ってもいい<<
「お前らの振る舞いはすべて自己防衛的な動機に基づく強迫で、軽々しく浮遊しているようでありながら、じつは重い。重くて重くてたまらない。お前らはさみしさを退屈と読み替えるヘタレだらけ。相対化を自由と読み替えるヘタレだらけ。本当は自由にコミットしたいくせに」
あさま山荘事件 実存不安のために思想に過剰にコミット 
→ 政治からの退却
意味論的な傾きは残る
<疎外克服=課題達成> → <疎外克服=純愛>
別の転態「政治からアングラへ
原新人類的オタク「SF・プログレ・少女マンガ」三点セット
「ここではないどこか」を希求する。反体制と反近代のミクスチャー。アングラと表裏一体。
キング・クリムゾンキャンディーズ
「ここではないどこか」を希求する営み → 「ここ」を読み替える営み
「アングラからパロディへ」
ビックリハウス」的な「わかるやつにはわかる」的コミュニケーション
ところが70年代末期に、さらなる転態が起こります。原新人類的なものから後期新人類的なものへの変化です。音楽の領域で起こったことが象徴的です。ウォークマンで「ソリッド・ステイト・サバイバー」を聴きながら歩けば、東京がTokioになる。これは細野や僕たち的には「シャレ」だったのが、後続世代には「オシャレ」になったんですね。
細野や泉麻人なんかが集っていた西麻布「シリン」から、「カフェバー」(新人類系)と「コミケ」(オタク系)に変わるわけです。ちょっとイヤな言い方をすれば、東京都港区的なエリーティズム、あるいは慶應・麻布的なエリーティズムが、「地方」ないし「下方」に拡散したともいえる。
「教養」から「批評」へ
ようは旅のイメージです。「井のなかの蛙、大海を知らず」ではありませんが、みずからの狭い見識を旅を通じた「目からウロコ」体験によって拡げ、そうやって拡がった世界のなかに自分自身をあらたにポジショニングすることを、教養という。その意味で、教養とはズレることへの欲望ですから、構造的には諧謔に通底します。
これに対して、批評とは、否定とは違い、対象に別の前提をあてがうことで、もととは違った価値を与える態度です。二項図式を受け入れつつも永久に信じずに実践する態度を「脱構築」と言いますが、これなどは批評的な態度の典型です。批評という概念には、教養の概念に見いだされる時間性――「旅」の比喩が象徴するような――が抜けています。
「教養(主義)と諧謔のコンビネーション」が、僕ら原新人類世代の共通感覚じゃないかな。それが、後続する世代では「批評(主義)と韜晦のコンビネーション」へと変化する。それが僕の実感です。「ズレることからズラすことへ」というのはそういう意味です。僕らはズラす自分からもズレるのに対して、後続世代はひたすらズラそうとするばかり。
>>教養のない批評が多い<<
成田美名子 白泉社 『サイファ』『エイリアン通り
麻布中学」の特権性も崩れていく。
・90年代のはじめ頃に、浅羽通明さんが、自分が出していたミニコミ誌「流行神」で、宮台エリート主義批判を書いたことがあります。僕はすぐに浅羽さんに電話して、価値観の違いは仕方ないとしたうえで、事実認識の誤りを逐一指摘しました。すると浅羽さんがキレて、「あなたは東京六大学、俺は日東駒専が相手なんだ」といってきた。
・正確にいうと、まず、政治に敗北した奴がアングラに逃げた。つまり、現実の「ここではないどこか」から観念の「ここではないどこか」へ、です。つぎに、アングラに敗北した奴がロリコンに逃げた。つまり、「ここではないどこか」の希求から「現実の読み替え」へ、です。ここにも「原新人類的なシャレ」を見つけることができます。
・「美学ロリコンから真正ロリコンへ」
・ところが、麻布という中高一貫校にいるとよくわかるのですが、僕たちが高校性になったときに下級の中学生たちを見ていると、「ヨット」「ナンパ」方面と、「OUT」「ロリコン」方面とのあいだに、いつのまにか太い境界線が引かれていたわけです。すべてがベタになったせいで、前者が優位で後者が劣位だというような「階級意識」が生まれていたんですね。
・だから、原新人類には「視界の透明性」を競う競争があります。たとえば浅田彰という模試ランキングで上位にいた関西の奴が論壇で発言している。すると同じく模試でランキング上位にいた僕たちが、浅田のものまねをするエピゴーネン(亜流)をせせら笑いながら、浅田らとは違ったやり方で「視界の透明性」を競おうとする。僕のやり方が、社会システム理論だったりするわけですね。
誤解がないようにいうと、いまはそうした動機はないし、馬鹿馬鹿しいと思っています。でも、そうした動機づけが、浅田においても、僕においても、教養主義的な学問研究へのカタパルト(打ち出し装置)として機能していたことは間違いない。
「昔はよかった」の反復問題
英国型憲法=国民信頼型 プロイセン憲法=愚民政策型憲法
全体性に関する知識、積み重ねが「教養」
小熊英二『<民主>と<愛国>』
旅をして広い世界に自分を位置づけなおすのが教養
さきほど話したナンパ師たちが典型ですが、今日の若い人たちは、一見すると軽そうだったり、シニカルに距離化しているように見えます。でも、軽そうに生きることを脅迫され、距離化することを強迫されている。サプレス(抑制)されてディプレッシブになっている。若い人たちは軽く見えてじつは重い。アイロニカルに見えても実態はオブセッシブなんです。
 
第五章 限界の思考
コジェーヴ 日本=スノッブの王国
「信念」を強化するための道具としての「知」
青木昌彦 マルクス経済学 森嶋通夫
授業に平気で30分以上遅れてくるとか(廣松渉先生)、授業に酔っ払ってやってくるとか(小室直樹先生)は、僕らにとってはまったく問題じゃなかった。彼らの破天荒な人となりがそんなふうにあらわれることがあるだけの話だと思っていて、むしろ彼らの破天荒ぶりの背後にある強烈な全体性への志向に、心酔していたといっていい。
実存への傾倒とは、むしろ全体性への志向に感染することだったわけです。
「東大言語研」見田宗介 橋爪 大澤 宮台 西阪仰
このように、一定のコモンセンスを前提にして、意見が対立していました。コンフリクト・セオリー的にいえば「対立は統合の証」。共通前提なきところに対立はあり得ません。言い換えれば、当時は激烈な立場の対立があり得たということです。とりわけ、誰もが全体性を志向するがゆえにこそ生じる対立が、重要な意味を持っていました。
蓮實重彦四方田犬彦『日本映画史100年』
ちなみに蓮實エピゴーネンは、いまもゴロゴロしていて、何もわかっていないからいっておくと、蓮實さんのポイントは「映画はクラシック音楽などと同じ『反復芸術』だ」ということにあります。論者が後生大事に奉る物語性や社会性や思想性も、反復される形式にすぎない。クラシック音楽と同じく、よい反復と悪い反復があるだけだというんですね。
ところがエピゴーネンどもの議論を見ると、単に「ここにも反復があったぞ」とハシャぐ、オブセッシブな反復発見競争になっている。バカだよね。反復があるのは構造的に当たり前。むしろよい反復か悪い反復かを論じなければならない。
ちなみに、ドイツ観念論から導き出されたロマン派的な芸術論では、<世界>の<世界>性に言及することが、芸術が芸術たるゆえんです。この立場からすれば、たとえば<社会>批判のごときものは、芸術とはいっさい関係がありません。
自分自身を<社会>ではなく<世界>のなかに位置づけること。これが教養=ビルトゥンクの目的です。ヘーゲルの『精神現象学』がゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』の反復であることにも象徴されるように、教養主義とロマン派芸術とは表裏一体です。
>>頽落かもしれないが、現にオブセッシブに将来不安だし、金もないんだよ<<
柄谷行人マルクスその可能性の中心』
マルクス以降、参照項となるような何らかの言説が残っていない。
宮台「簡単にいえばエリート主義です」
>>資本主義を甘くみていないか?<<
くわしくは『日常・共同性・アイロニー』にゆずりますが、ソクラテスからプラトンの時代、すなわち紀元前五世紀の後半に、ギリシア社会では急速に文字が普及しました。その結果、自分自身ではなく、自分の外にある「書かれたもの」に依存する、エジプト的な態度が普及したと、ソクラテスは嘆いています。
具体的には、キュレネ学派キュニコス学派との対立、プレ・プラトンプラトンとの対立、プラトンアリストテレスとの対立、エピクロス派とストア派との対立、アウグスティヌスとアクィナスとの対立などとして、自立的なものの賞揚と依存的なものの賞揚との対立は、紀元前以来、何度も何度も反復されてきたものなんですね。
キュニコス犬儒)学派 ディオゲネス 禁欲 樽の中で過ごす パラノ/キュレネ学派 アリスティッポス 快楽 スキゾ
その意味で、ポストモダン思想はもともと右翼ツールです。しかし、闘争の1960年代が終わって行き場を失ったバカ左翼が、近代の思想にただ乗りしながら近代を批判するという、カルスタ同様の非倫理的な営みに流用した結果、自在にズレるアリスティッポス的な闊達さが忘れられ、ズラすこと(=退却)へと強迫されるディオゲネス的なヘタレが量産されます。
>>退却しないこと<<
「自己の内発性」と「共同体への信頼」を前提としつつ、自在にコミットしては自在に退却する態度。僕が「あえて」という言葉で推奨しているのは、そういうアリスティッポス的な態度です。それをオウム信者や2ちゃん信者のごとき「アイロニカルな没入」と混同するとは、大澤真幸さんもヤキがまわったものです。無教養もはなはだしいな。
>>いま振り返ると大澤の指摘は当たっているようにみえる。無理して、過剰にネオコン的に振る舞っているようにみえる。<<
天皇と国軍を直結せよという三島の物言いに対する橋川文三の的確な批判を前に、三島は「たしかに橋川のいうとおりだよね」と素直に認めます。でも三島は「そんなことはどうでもいいんだよね」という態度です。さらには、入れ替え不可能なものが、別に天皇でなくてもかまわないという言い方さえします。ようは「何もかもつまんねえんだよ」という態度です。
僕も処方箋のなさを実践していますよ。何百人もの女とヤりまくってきて、結婚などクダラナイと吹いていた僕が、敬虔なクリスチャン一族の女と結婚して、妻に操を立てる。結婚直前には、神父による結婚講座を何回も受講する。僕は転向したのか。クダラねえよ。僕は何も変わっていない。なにせ参入離脱自由なんだから。それが「あえて」だよ。
アーレントがリスペクトするように、初期ギリシアの人たちはすごかったんですよ。身すぎ世すぎの雑用は戦争奴隷にやらせ、日がな考えているんですから。とりわけアテネでは、自由=自立について考え抜いた人が一番エラいといわれた。そういう状況が紀元前5世紀なかばから150年つづいた。自由=自立について、すべての事柄が考え抜かれています。
分析哲学
クワイン、デイヴィッドソン、ローティ、パトナム/オースティン、グライス
オースティンとサール
デリダ=サール論争
デリダという人の意地が悪いまでの頭のよさ。
オースティン「インクの三つのこぼし方」
宮台が院生時代にハマったクリプキチョムスキー
僕が好きなのは、この匂いなんですよ。チョムスキーにもこの匂いがあります。彼はベトナム戦争のときに大学内で個人ピケを張るなど、孤高の立場で政治学的な発言を繰り返していました。だから僕は、彼のことを政治学チョムスキーというふうに認識していて、学部学生の当初は、変形生成文法チョムスキーと同一人物だとは思っていませんでした。
あとから同一人物だと知り、感動するわけです。彼は、<世界>のなかで人間が自由である根拠を、変形生成文法的な文生成メカニズムのなかに発見できると考えたというんですね。でも、そんなことは、彼の変形生成文法の書物には書いていない。まさに、全体性を志向しつつ「わかる人にはわかる」という主観性にゆだねる点で、ロマン派的じゃありませんか。
そういうロマン派的な匂いに僕は憧れましたあ。憧れが意味するのは、こういうことです。一見すると形式的なこと――些細な専門性――にこだわっているように見えて、動機は十分に社会一般的で、場合によって時代汎通的だったりする。でもそれが「わかる」には、共通感覚という「共通の根」が必要だ。この根を意識できることが、わくわくするんです。
『権力の予期理論』=マルクス主義のごとき「開放の神学」を、人間的なるものの不条理に鈍感な「百害あって一利なき不自由な思考」として葬るという意図がありました。
たしかに、対象をズラして距離化したがる点では、いまの若い人たちはアイロニカルな戯れが好きになったように見えます。でもそうした動機を支えるオブセッシブな社会的文脈については鈍感です。だから、ズラす自分からズレることができず、自分をズラそうとする他者に対して過剰に防衛的になる。はたから見ると、そのヘタレぶりは恥ずかしいほど明白です。
経験の「旅」をしなくてはならない。
外交とは、本当は「四者関係」
いま述べた発想をマキャベリズムと言います。戦略的であれとは、マキャベリストたれということです。福沢諭吉は「民主主義の父」のようにいわれますが、彼の実像は亜細亜主義者に対するスタンスに見るように、目的のためには手段を選ばぬマキャベリストです。さっき言及した"エリート向けの「あえて」"とは、マキャベリストたれということです。
ちなみに小泉は、東さんの『動物化するポストモダン』になぞらえれば、「政局の動物」です。調活費問題――三井環大阪高検公安部長事件――で恩を売った検察を使い、ハンナンに手を突っ込んで野中広務を押さえ、橋梁談合に手を突っ込んで亀井静香を押さえ、中国コネクション断絶で経世会利権を潰す。幼稚な小泉にあるのは私怨だけで、パブリックマインド(公共心)はゼロ。



 



























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