『ジョジョ論』 作者: 杉田俊介 出版社: 作品社

ジョジョ論

ジョジョ論

目次

第1章 自立
第2章 欲望
第3章 平等
第4章 自己啓発
第5章 協働
第6章 運命
第7章 奇跡
第8章 生命
補論 資本主義の倫理と異能な人々の運命
参考文献
あとがき
 

アトピー性皮膚炎
私たちは誰もが、市場やメディアや国家から、一般的でごく「普通」の欲求を持つべきだということを命じられている。
この世界の恐怖に向き合い、勇気をもって生きることは、ほんとうは楽しいことなのかもしれない。
 
第1章 自立
もしも自分にスタンド能力があるとしたら、それはどんなものだろうか?「無意識の才能」「無意識の欲望」「本当の欲望」
「汝、自分を知れ」「あなたのその欲望は、仮象(偽物)なのか、本物の欲望なのか」
本当に難しいのは自分に向きあうこと
恐怖に立ち向かえ 恐怖を乗り越えていけ
人間讃歌とは、勇気の讃歌である。人間の素晴らしさとは、勇気の素晴らしさである。
ポコ少年のお姉さん「あんた、怖いのはこの痛みなの?自分が何にもできないことの方が怖くない?」
少しずつ自立し続けていく 己の限界を一歩ずつ越え続けていく
不完全で有限な私たち人間には、それしかできないからだl
人間の勇気とはそのことであり、それが人間讃歌となるのである。
荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』
被災地の子どもたちの遊び 生きることの喜びをあちこちに発見し 友と分かち合う 瑞々しい勇気
ゾンビ(生ける屍)という病
受動的に生き永らえる 能動的に生き延びる
「消費社会型ゾンビ」→「環境管理型ゾンビ」
身の回りの様々なテクノロジーや環境(アーキテクチャ)によって、個人としての欲望を飼い馴らされ、踊らされ、半ばアディクションのような状態に陥っている。
神経科学や脳科学によれば、主観的な快感と共に活性化する脳内の組織は「報酬系」と呼ばれる。現代的な娯楽や嗜好品に関するマーケティング戦略では、こうした報酬系の特性がすでに様々な形で応用され、私たちの日常を侵食している。つまり、様々な娯楽や嗜好品が、依存しやすさを誘発するように設計されている。私たちの日々の欲望は、ほとんど依存症のそれ(ドラッグ、アルコール、高カロリー食、セックス、ギャンブル、エクササイズ、慈善行為など)と近くなっているのである(デヴィッド・J・リンデン『快感回路』等を参照)。
ニーチェの超人=超えていこうとする人
ぶざまでのろまな足取りでも、それでも 歩を進める
 
第2章 欲望
ジャンプ バトルマンガ バトルマンガは資本主義的
資本主義の酷さと、反面得も言われね魅力
資本主義=ダイナミックな世界
「強さ」と「優しさ」
ワムウvsジョセフ
むしろ敗北や失敗にまっすぐ向き合ったところから、本当に困難な戦いがはじまる
勇気としての頭脳
自分の本当の欲望と向き合う時に、天才と凡人、健常者と障害者・病者の差はない
欲望の質に 上下 尊卑はあるか?
第四部、欲望はまさにひとそれぞれ 例えば岸辺露伴 トニオ
承太郎=『ダーティハリー』のイーストウッド
「ヒーローの条件」=「世間は誰も目を向けないし、仲間に慕われることも、お金が儲かったりすることもない。常に孤独。それでも社会のために行動するのがヒーローなのです」
自分の欲望を肯定するのと同じように他人の欲望を肯定できるか
釈迦=欲望を消す方向
 
第三章 平等
スタンドに「強い」「弱い」はない
この世のあらゆる存在が、各自にふさわしい無意識の欲望=能力を持っている
真にやさしい人間だけが、真に強くなれる
私たちの欲望においては、能力と無能、長所と欠点、強さと弱さの意味が、分かちがたいものとして重層的に雑ざりあっていく。これが『ジョジョ』的な倫理の形であり、クリティカルポイントである。
浦河べてるの家
隣人としての他者たちの狂気、無能、障害に寄り添っていくこと 自分も例外ではないから
人間もたんなる生き物であり、自然の一部
永遠の相の下 スピノザ
 
第四章 自己啓発
自己啓発=ポジティブシンキング、自己暗示、信念の強さ、潜在意識に働きかける、自分の欲望を変える。
それらは、大切な何かを切り捨てた上での成功や富ではないのか。つまり、市場経済的な価値観や能力主義的なもの(障害や病があるよりも、ない方がいい、という優生思想)を無反省に受け入れた上での成功や富でしかないのではないか。
 
第五章 協働
アバッキオ 死の間際 若い警官のエピソード
大切なのは「真実に向かおうとする意志」
アバッキオ、お前はりっぱにやったのだ。そしてお前の真実に「向かおうとする意志」はあとの者たちが感じ取ってくれているさ。大切なのは…そこなんだからな…。」
真実へ向かう意志は、必ず、他人へと伝達され、継承されていく。というよりも、他人に伝達され、修正され、更新されていくことによって、はじめて、私たちは真実を見出すことができる。この世の真実を独占し、私的所有することは誰にもできないからだ。来るべき新しい他者たち、未来の他者たちと分かちあうことによって、はじめて、真実は真実たりうるのである。
この時ブチャラティは、たんに組織を裏切っただけではない。今までの人生の「仕方ない」「どうにもならない」という深い諦念をこそ、自らの手で裏切ったのだ。
ある種の自己破壊(自己犠牲)を伴った行動こそが、本当の意味で周りの他者たちへも自然に伝わっていく。なぜなら、痛みとともに自分のあり方を変えようとする行動こそが、最も他者の心を震わせ、他者の深いところに届きうるからだ。そうした行動こそが、他者のみならず、自らの生き方をも最も深く強く変革していくのである。
自らの弱さや無力さを受け入れて、それでも何とかして変わりたいと努力し続ける人たちの―自己変革=復活を目指し続ける人たちの―新しい関係性の結び直しとしての協働。いわば星座としての協働。
バトンを繋ぐ
 
第六章 運命
「惻隠の情」
プッチ=ベンサム すべての人間の幸福
カルヴァン派の二重予定説 =ニーチェ永劫回帰
九鬼周造 偶然とは「何かと何かが遇うこと」
そうした勇気を、プッチはついに最後まで持てなかった。なぜなら、彼は、あらゆる出会いの意味を「自分にとっての幸福のための材料」へと自己啓発的に脳内変換してしまうからだ。
アガンベンライプニッツ
「存在しないもの(生まれなかった人)」と出会う
ドゥルーズ 目の前にある存在を「振幅」させ「襞(ひだ)」を作る。
私たちこそが、生まれてこなかったことを夢見るメシアたち、水子たちの欲望によって寄り添われ、助産されてしまっていた。
徐倫たちは、人々の間に何かが継承=伝播されていく時には、必ず運命に対する微妙な偏差―だがそれこそが最小単位の<希望>なのだ―が宿るはずだということ、そのことに賭けたのではないか。
何かを受け取り損ねたり、突き放されたり、受け取りを拒否されたりすることを通しても、なお、最も大切な何かが未来へと(通常の意味での「届く」よりもさらに高次元で)「届く」ことがあるのではないか。小さな偶然の連鎖の果てに、すべての物事が――現在のみならず、過去も未来も――生かされる可能性が宿されるということ。切断や誤解や忘却によってすら、何かが生かされてしまうということ。それを私は、『ジョジョ』における唯物論的な奇跡と呼びたい。
そんな小さな奇跡こそがプッチ神父がどうしても信じる勇気を持てないものだった。
無数の星々が回転しながら描き出す、星座としての協働
この私が死んでいなくなったあとの世界は、きっと、まだこの私が生き延びてしまっているこの世界よりも、無限の出会いや再会たちが渦を巻き、回転しながら形作っていく新しい螺旋銀河の中で、さらに素晴らしいものになり、より善きものになっているだろう。
 
第七章 奇跡
「眠れる奴隷」/「目覚めた奴隷」
宗教的・科学的決定論 ←→ 自由意志説
量子物理学=不確定性理論
>>自己啓発が取りこぼすもの 単純にいえば、自分さえ成功すれば、人を足蹴にしてよいのか?<<
ニーチェツァラトゥストラ』 せむし男 障害
「邂逅は独立なる二元の邂逅にほかならない」
①公開としての運命 ②感謝としての運命
ジョニィは、自らの宿命を呪うことによって、かえって、本当に向きあうべき現実(つまり未来)から、一貫して目を背け続けてきた
想像してみなさい。あの人の命の中にも、お前と全く同じ弱さがあると。あの人もまた己の弱さに苦しみ、弱さの中で戦い、気高くあろうと懸命に努力しているのだと。本当にそうなのです。誰もがそうなのです。
大森荘蔵「過去制作論」 マイケル・ダメット「酋長の踊り」
三ツ野陽介「物語的決定論
中島義道「後悔としての自由論」
時間とは他者そのものである
時間外からやってくる他者との出会いこそが、私たちの運命なのだ。
時が流れていくとは、この私の運命と他者の運命とが相互干渉を起こすこと
未来とは、ポリフォニー(多声音楽)としての時間
逆にいえば、何もできず、何も為さず、無力な自分の存在ですら、ひきこもりや犯罪者であってすら、この私の運命は無数の他者たちの運命の中へと流れこんでいる
リンゴォ 他者たちと共にあるありふれたこの日常それ自体を「聖なる領域」へと高められなかった
つまり、自分がたまたまこの世界に生まれてきたという運命に感謝し、自己肯定できるようになるだけでは、何かが足りなかった。それをさらに<全員>を――自分も他者も、味方も敵も――生かすことへと回転的に高められないのであれば。
この自分の運命をいかに乗り越えるか、という実存的な問い(運命論)から、自分以外の他者たちを、自分とは別の運命に呪われた他者たちを未来へ向けていかに生かすことができるか、という実践倫理的な問い(奇跡の問題)へ。
運命から奇跡へ
衛生 惑星 恒星 銀河 銀河団 お互いの重力の影響を複雑な形で受け合う
奇跡=<すべてが生かし直されていく>その日
それは力を尽くし、心を尽くし、思いを尽くして、それでも自力がおよばないものの領域、無限=自然の領域に対して、自らの全身を開き直していくこと
 
第八章 生命(キャラクター)
仙台神学校 プロテスタント 押川方義
手塚治虫どろろ』『魍魎戦記MADARA
NHK「わが青春のトキワ荘手塚賞授賞式
ジョジョ』はマンガというメディアでしか表現できない
イズミノウユキ荒木飛呂彦の特徴は、とにかくありとあらゆる物体や現象を、絵として描いてみようとする気概にある」
アンリ・ベルクソン『時間と自由』意識の持続
郡司ペギオ幸夫「生命とは時間の別称である」「内部観察」
ミハイル・バフチンドストエフスキーポリフォニー)分析、資本主義とマンガ(キャラクター文化)
逆なのではないか。この資本主義的な市場経済の中では、私たちは、すでに生身の人間でありながら、同時に半ば抽象的な「記号」のようなもの、「キャラクター」のようなもの――マルクス経済学でいう「労働力商品」――として生きてしまっているのではないか。
高度な消費社会の中では、私たち生きた人間もまた、キャラクター(記号)や商品と同列の地平へと巻き込まれていく。
私たちはマンガの中に生きられる マンガ=記号への尊厳と信仰<中断>
ベンヤミン「物」が「いま、ここに在る」という絶対的な事実の手触り=アウラ
日々異なる体調 感覚を味わう <時>そのものを味わう
『ミステリアス・ピカソ 天才の秘密』
「マンガという奇跡」
奇跡をこの目で見るということ。それは、ありふれたこの日常が、無限の複数的な回転の中にある、自らの眼差しもまた「何処も彼処も同時に進行している」自然の一部である、そうした生々流転の事実に覚醒していくことである。
奇跡を見る眼差し(たとえそれが義眼や複眼であっても)とは、幸福と不幸、生と死、そのどちらに転んでも、すべてに感謝する、そのような眼差しのことである。すべてが偶然の連鎖の中にあるこの世界は、明日には、どちらへ転ぶのか、誰にもわからない。偶然も必然も、完全に等価だ。喜びも悲しみも絶望も、完全に等価だ。昨日も今日も明日も等価だ。それでも万物は、空間と時間を超えて複数的な回転の奇跡の中に巻き込まれている。
生命とは重力であり、重力とは出会いであり
 
補論 資本主義の倫理と異能な人々の運命
松尾匡 重要なのはナッシュ均衡パレート最適の区別
お互いに軍縮=優位のナッシュ均衡パレート最適
資本主義も、「疎外」という、劣位のナッシュ均衡になってしまっている
資本家もまた「疎外」されている
劣位のナッシュ均衡を優位のナッシュ均衡パレート最適)へと切り替えること これを革命と呼ぶ
市場の創出は新たな価値観の創出 創造行為(アート)
自閉症スペクトラムの人々の強み、個性
無能・狂気・障害として社会的に排除されてきたものを商品交換の中に巻き込み、互いの必要に巻き込まれてあっていく時にこそ、従来の市場経済や資本主義のポテンシャルがさらに爆発的に拡張していくだろう。
欲望の位相を上げる 世界の欲望
資本主義の起源にある根源的暴力を、マルクスは、本源的蓄積と呼んだ。
エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』
プロレタリアートブルジョアジーにたいする戦争は、驚くに足りない。なぜならば、この戦争は自由競争のなかにすでにふくまれている原理の、徹底的遂行にほかならないからである。」
ギデンズ「嗜癖をもたらすメカニズムは資本主義の精神と何ら異なるものではない」
自己啓発的な欲望とは、在る種の自己洗脳であり、資本主義的な富の蓄積に対するアディクション(強迫観念)
市場経済は社会的分業を通して利害関係が相反するライバルや第三者をも味方に変えていく。しかし、資本主義はその斥力として、身近な隣人や仲間をさえ、不断に無能な敵へと変えていく。それは何より、自分自身をも敵にしていくのだ。死にたい、というアディクションの秘密はそこにあった。
コペルニクス的回転 「汝ら、互いに生かしあえ」
生まれてこなければよかったという強迫反復的な暴力(タナトス)を、他人と自分を無限に生み直す力へと変えていくこと。
代替的な自己啓発 今そこにある小さなコミュニズム
 
あとがき
ひきこもりやニートの人、他人に会いたくない人でもマンガなら読めるという
「障害と資本主義」
改めて命の「平等」について
 
中断を経て7/11読了
この世界の奇跡に気づくこと