マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】『波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由』作者: 東浩紀,北田暁大,宮台真司,大澤真幸,鈴木謙介(青土社 2005年)

目次
宮台
「人権」=「国家が国民に命令してはいけない行為領域」
>>人権とは国家に対する権利<<
福沢諭吉「一身独立して一国独立す」
丸山真男「私的領域を確立した者がそれを護持するべく公的領域に乗り出す。」
ところが、市民生活に適応できない未熟児が政治を叫ぶ現状
・僕はナンパをしていたこともあるし、元祖ナンパ・カメラマンたちとのネットワークもあって、彼らのドキュメンタリーを作ったこともあるし、いまでも情報をもらっています。つまり、彼らは僕にとっても近い人種です。ところで、元祖ナンパ・カメラマンはかなりの割合で、元・政治少年です。これがなにを意味するのか。答えは簡単です。僕たち新人類世代は、これから政治闘争だぞというときに、押井守が言うように「祭りが終わってしまった」。そこで、勢いあまって「政から性へ」シフトしたのです。原新人類世代って、そういう世代なんです。そして彼の政治活動とナンパの両者に共通していたのは、ロマン主義です。
・「不可能性への志向」という本来の意味でのロマン主義
・似た動きが同じころ、1983年ごろにありました。このころを境に、元左翼や元アングラの送り手や受け手が「あえて」やっていたロリコン誌が、本物のロリコン野郎のための雑誌になりました。僕たちには、共通了解としての元政治少年の挫折があって「あえて」アングラをやり、共通了解としてのアングラの挫折があって「あえて」歌謡曲だ、B級映画だ、ロリコンだというのがあった。
一口で言えば、「どうせ世界はこんなもの」と諧謔しながら、ホンネでは"なのか"がくっついていた。「どうせ世界はこんなもの"なのか"」。そこには明らかにディプレッション(抑鬱)があった。だから「時来たれば政治にまた出ていくのに」と思っていた。現に福永ケージのようにナンパ・カメラマンから政治活動に戻ってきた者もいる。政治とサブカルは、新人類世代ではそんなふうにつながってもいた。
戦略拠点としてサブカルを選んだと言えばカッコいいが、実存的には政治からサブカルに追いこまれたわけですよ。だから東さんの言ったように「理論的には政治もサブカルも等価だ」というのは本当だけど、実際に僕ら世代がサブカルを語るときには、いま言ったような独特な諧謔――「どうせ」と「なのか」の合体――がある。東さんたちにはありえないでしょう。
東:それはつまり、全共闘の弟分である新人類世代までは、サブカルチャーの担い手が政治的鬱屈を抱えていたけれども、それ以降はサブカルチャーは政治と切り離されてたんなる遊びになっている、という見解でしょうか。
「最低限の知識」
>>質問 宮台は大衆の愚民化に怒って、絶望しているが、国と資本主義による愚民化政策がみごとにハマっている、生権力、アーキテクチャによって「知」や「教養」が隠蔽されている実態があるのではないか。つまり、愚民社会を嘆くときに、愚民を叱るだけでいいのか?<<
「底が抜けた」
「あえて」言いかえれば「再帰性
・そういう問題を「企業研修プログラム設計者問題」と呼んでいます。今日の企業研修は巧妙に設計されていて、マインドコントロール潜在的危険は高まっています。けれど、だからと言って「コイツが悪いんだ」と設計者を吊しあげてもしかたない。設計者自身がシステムのなかの入れかえ可能なパーツで、別の設計者といくらでも取りかえが効くからです。
★近代性は流動性を高めるシステムだったわけです。たとえば流動性から収益を上げることによってシステムを回す。
人々がそれでも耐えられたのは、流動性にもかかわらず流動しないもの――家族共同体や地域共同体や自我などですが――があると思っていたからです。「家族や地域や自分の利益を高めるためには流動性が必要だ」というかたちで正当性が与えられてきたからです。
ところが、流動性が家族や地域や自我にまで――システムの正当性を支える部分にまで――及ぶと、流動性に耐えるべき理由が消えて、端的なアノミーになります。そうした流動性の上昇に対し、経済合理的な視点が蝶番の役割を果たすかたちで、流動性とともに多様性も高めてきたのが後期近代です。
リバタリアニズムとコミュニタリアリズムに分岐する。
・調査によれば、風俗の仕事も常習的な援交もたいてい二年以上は続かないし、続けている子にはメンヘル系の子が多い。「なにも考えない子」ですら、流動性にはさして長くは耐えられないというのが、このところ明らかになってきた現状です。
・僕はその問題については、浜崎あゆみ論として語っていました。「浜崎あゆみ的なるもの」のキーワードは「サイボーグ」です。「白あゆ」「黒あゆ」問題に象徴的なように、ギャル系の子たちもAC系の子たちも、「サイボーグになればラクに生きられるのだな」という「絶望的な希望のメッセージ」を受け取るわけです。
・「ねこぢる」自殺
・でも、各新聞でコメントしたんだけど、別に捕まろうがなんだろうがどうでもいいと思ってやってるんですよ。要は、捕まらないで生き延びるという選択に、魅力がないんですよ。
・そういう気分は、日本のサブカルチャーに先駆的に現れています。そして後期近代においては、日本に限らず、そういう気分はどんどん蔓延していくしかないでしょう。しかも、そういう気分には、誤解をおそれずに比喩的に言えば、ある種の真理が含まれています。
 
北田
渋谷望『魂の労働』
・『世界の中心で愛を叫ぶ』セカイ系
上野俊哉 カルスタ 
・言語研『ソシオロゴス』 立岩真也『私的所有論』 盛山和夫 統計 数理社会学
・東:僕は、最近、自由の概念を、所有権にもとづいたリバタリアニズム的なものと、社会の異種混淆性や他者への開放性を重視するリベラリズム的なものに分けるとわかりやすいと考えているんです。前者は、要は、他人の迷惑にならなきゃなにをやってもいいだろう、という自由で、後者は、他人のことも考えてみなの福祉を前提にして構築する自由です。
そして、僕たちは、いま、リバタリアンな自由を最大限に認めることが正義なのだ、というきわめてシンプルな自由観が日々力を強めつつある厄介な世界に生きていると思うんですね。『責任と正義』のあとがきで北田さんも書かれていたけれど、いまや「ノージックの与太話」が笑い話ではすまなくなってきている。そういう状況のなか、リバタリアン的なシンプルな概念に「自由」という言葉を奪われてしまってはたまらん、という焦りが一部の理論家たちに共有されているのだと考えています。北田:思考実験でしかありえないと思っていたノージックの「与太話」が現実化しつつある。
大澤真幸「僕はリバタリアニズムは思想だと思っていない」
リバタリアニズムはたしかに思想としてシンプルすぎる。自分のものは自分のものである、その基盤さえしっかりしていればあとは自然法と市場原理でなんとかなるはずだ、というのだから。しかし、問題は、いまやその素朴な思想が強い現実性を帯びて世界を支配しはじめていることです。
・監視社会とリバタリアンはやたらに相性がいい。
・「セキュリティ」=世界への関心(クーラ)がない(セ)状態
・「安心安全便利快適」は怖い。
・東 降りる自由 デリダ 駄目なポストモダン 無視
 
大澤
・身体=可能性から蓋然性になる過程
メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』
アリストテレス「デュナミス」(可能態)と「エネルゲイア」(現実態)
・自由とは奇跡(連続性)に接続する自由 為しうる自由
・東は世代的にリバタリアンを擁護したい。
・宮台の「あえて」の右傾化は「アイロニカルな没入」の危険がある。ミイラ取りがミイラになる。
・80年代は、イデオロギーやカルチャーを相対化すれば自由になれると思っていたが、それは間違いだった。
小室直樹マルクス主義の解毒剤 素朴な近代主義
・小熊『民主と愛国』、竹内洋教養主義の没落』、大澤『戦後の思想空間』
山之内靖『再魔術化する世界』
>>落合陽一のようなあれではなくて、私も魔術を顕現させたい。枯れ木に花を咲かす。コンクリートから植物が突き出る。空気の支配、常識の支配、現実の支配を崩す、リアルとしての魔術<<
・エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』。自由からの逃走の二つの形態。一方に全体主義、他方に消費社会。前者がオーウェル1984』。後者がハックリー『すばらしい新世界』。
 
途中飛ばした。8/27読了。