マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

作品#05「コスモス 社会学用語図鑑トレカ」62枚(4) #31-#40

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目次

#31 Michael Young マイケル・ヤング

メリトクラシー

近代社会(資本主義社会)では、生まれや家柄ではなく自分自身の能力によって社会的な地位が決定されるようになりました。このように個人の能力が地位や権力を決定する社会や状況のことをヤングはメリトクラシーと呼びました。
メリトクラシーのように、生まれではなく個人の能力が社会的地位を決める世の中は、平等で望ましいように思えます。けれども能力による選別が絶対的なものになると、新たな格差や支配構造を生んでしまいます。ヤングはメリトクラシーという言葉を用いて、能力主義の行きすぎに警鐘を鳴らしました。

#32 Charles Wright Mills チャールズ・ライト・ミルズ

パワーエリート

第二次世界大戦後、アメリカには「豊かで、人々が自律的な、理想的な民主主義社会」というイメージがありました。
けれども実際のアメリカは、経済・軍事・政治の3分野の支配層であるパワーエリートたちが連合して権力を握っている国です。そのため一見能動的に見える大衆は、政治を制御していけるような力を持っていないとミルズは主張しました。アメリカの真の姿は、少数のエリートが支配する典型的な階級社会なのです。
真のアメリカの姿は、パワーエリートたちの私利私欲と、それに擦り寄る中間層(大企業の役員、中小企業の社長なども含まれる)と、それらに疑問を持たない労働者でできているとミルズは考えた。


#33 Harold Garfinkel ハロルド・ガーフィンケル

エスノメソドロジー

人々の行為や会話(言語)の方法は、属している社会によって異なります(言語ゲーム)。ならば、人々が当り前に行っている会話や行為の方法を調べれば(共通認識を調べれば)、その人たちが属している社会の本質が見えるとガーフィンケルは考えました。こうした考えに基づく会話や行動の分析はエスノメソドロジーと呼ばれ、現在でも盛んに行われています。

#34 Ralph Gustav Dahrendorf ラルフ・ダーレンドルフ

コンフリクト理論

ダーレンドルフは、一見、社会の均衡を脅かすかに見えるコンフリクト(抗争・対立)という要素の重要性に着目します。権力を持たない側の人々が権力側に対抗することで、権力側に修正を加えることができるからです。資本家対労働者といった立場の違う人たちのコンフリクトによって、社会が変化・改善されていくという彼のような考えをコンフリクト理論といいます。
また、ダーレンドルフは、AGIL図式のような社会システムに決定された役割に従うだけの人間をホモ・ソシオロジクス(社会学的人間)と呼んで批判しました。



 

未来へ

#35 Erving Goffman アーヴィング・ゴッフマン

スティグマ

ラベリングには、よいイメージのラベルと、悪いイメージのラベルがあります。このうち社会から望ましくないとみなされる悪いイメージのラベルをゴッフマンはスティグマ(烙印)と呼びました。
属性や特徴そのものがスティグマではない。よって「スティグマを持つ者」は実在しない。「スティグマを押す」とは、ある社会の中で、ある属性や特徴を差別すること。
スティグマは社会が生み出します。ですからスティグマを押された人や集団に対する偏見を、社会が正当化していることが多くあります。

ドラマツルギー

私たちはしばしば、他人に好印象を与えるような振る舞いを意図的に行います。こうした振る舞いを自己呈示または印象操作といいます。この振る舞いを演技と捉え、日常生活を舞台にした演技者としての人々を考察するのがゴッフマンのドラマツルギーという視点です。
日常における人前での演技は、自分を思い通りに見せたいという個人的な欲求のためだけにあるのではありません。上司と部下、先生と生徒など、互いが自分の役割に沿った振る舞いをすることで、「職場」や「授業」といった自分の置かれている場の秩序が成り立ちます。私たちは、演技者として、また演技を受け取るオーディエンスとして、共同作業しながら社会を成り立たせているのです。
私たちはしばしば、混み合った電車やエレベーターの中で、お互いに他人を意識していないような演技をします。こうした儀礼的無関心も日常の秩序を保つ相互作用の1つです。
人間同士が役割を演じ合うことで、社会を成立させているとするドラマツルギーの視点は、人間同士の相互行為が社会を成立させているとするブルーマーのシンボリック相互作用論の発展型だといえます。


#36 John Itsuro Kitsuse ジョン・I・キツセ

構築主義

現在、児童虐待ドメスティックバイオレンスセクシャルハラスメントなどが社会問題となっています。けれども50年以上前は、これらの問題は存在しませんでした。それが問題であるという認識が人々になかったからです。
社会の中にある問題は、あらかじめ客観的に存在しているわけではありません。人々がそれを「問題である」と言語にしたとき、その事実は生まれるのだとスペクター(1943~)とキツセは言います。
キツセらのように、事実とは言語によって縁取られることで構築されると考える立場を(社会)構築主義といいます。たとえ何か問題が起きていたとしても、誰かが言葉にしない限り、それは現実ではありません。
構築主義はベッカーのラベリング理論から発展。

#37 Nathan Glazer ネイサン・グレイザー

エスニシティ

1つの社会や国家を構成する人々は、皆同質というわけではありません。その社会を構成する人々でありつつも、独自の帰属意識や文化を持つ集団をエスニック・グループと呼びます。そしてエスニック・グループが存在している状況やエスニック・グループの性質をエスニシティといいます。
地域間の移動が日常的になったことによって、移民・出稼ぎ・亡命・難民などの人々が行き交い、様々な国が多民族国家となりました。そうした背景のもと、エスニシティという概念は生まれました。
現在、多文化主義や文化相対主義が語られるのも、エスニシティという概念が広く浸透したことと強く結びついています。
アメリカは「るつぼ」と呼ばれていた→多種多様な人々が「同化」して、1つの価値になっているという認識
現在、アメリカは「サラダボウル」と呼ばれている→多種多様な人々が多種多様な価値のまま共存しているという認識

#38 Zygmunt Bauman ジグムント・バウマン

リキッド・モダニティ

近代(資本主義社会)になり、人々は伝統的な秩序から解放されました。バウマンは、少し前の近代性をソリッド・モダニティ(固体的近代性)と呼びます。ソリッド・モダニティの時期には、伝統的な秩序を壊しながらも、人々がおさまるべき新たな枠組みが作られていました。ところが近代化がさらに進むと、固定的な枠組みが崩壊し、流動的なリキッド・モダニティ(液体的近代性)の時代が到来するとバウマンは言います。リキッド・モダニティの時代は、人々に多様な選択肢をもたらしますが、同時にあらゆることの責任を個人として引き受けなければなりません。現代は、個人の新たな居場所が整備されない、不安定で不確実な時代なのです。
今後、人々は、習慣や常識、家族や会社、地域や国家に管理、拘束されることはない。むしろ自由な振る舞いを強制される。そうなると、自分以外の他者には関心がなくなってしまうとバウマンは言う。
メモ:パノプティコンのような巨大権力ではなく、人々が進んで監視しあう今日の情報環境をバウマンはポスト・パノプティコンと呼んだ。


#39 Ivan Illich イヴァン・イリイチ

シャドウ・ワーク

労働の対価として賃金が支払われることが資本主義社会の基本です。ですから資本主義社会では賃金が支払われない労働(アンペイド・ワーク)は、労働とみなされにくくなります。こうした無償労働イリイチはシャドウ・ ワークと呼びます。
近代の家族は、男性が賃労働をするために、女性が家事労働を担うことによって成り立ってきました。ところがこうした性別役割分業は、女性が男性に対して従属的な立場に置かれていくことへとつながっていきました。
イリイチシャドウ・ワークという概念を用いて、男女の不平等を白日の下にさらしました。

脱学校化

思想家としてのイリイチは、学校、交通、医療といった社会的サービスの根幹に、道具的な権力、専門家権力を見て、過剰な効率性を追い求めるがあまり人間の自立、自律を喪失させる現代文明を批判。それらから離れて地に足を下ろした生き方を模索した。
学校教育においては、真に学びを取り戻すために、学校という制度の撤廃を提言。パウロフレイレの革命的教育学と並んで、地下運動から国際機関まで世界中を席捲した。イリイチの論は「脱学校論」として広く知られるようになり、当時以降のフリースクール運動の中で、指導的な理論のひとつになった。

バナキュラー

バナキュラーは、そもそも、「家庭で最初に身につける言葉」などを意味する語であるが、イリイチは、この言葉が有給の家庭教師を雇わずとも身につけられることに焦点を当て、バナキュラーを「一般の市場で売買されないもの」と拡大規定した。しかし、近代産業社会のサービスによって、このバナキュラーは交換可能なものとなり、結果として、人びとの生活からバナキュラリズムが失われていくさまをイリイチは指摘している。

サブシステンス

人間活動の自立・自存。近代以降失われつつあるもの。

医原病

また、イリイチは、医療制度は「専門家依存」をもたらすものであり、すなわち人間個々人の能力を奪い、不能化するものであると批判し、これを広義の医原病(社会的医原病、文化的医原病)であるとしている。

#40 Niklas Luhmann ニクラス・ルーマン

ダブル・コンティンジェンシー

近代社会(資本主義社会)において、人間は基本的に自由です。ですから誰もが自分の欲求が叶うような行動をしようとします。すると、次に自分がどう行動するかは相手の出方次第であり、相手にとってもこちらの出方次第という状況が起こります。こうした状態をダブル・コンティンジェンシー(DC)といいます。 世の中はDCだらけなのに、どうして他者との相互行為は次々に行われて、物事は進んでいるのでしょうか?
パーソンズは、相互行為を行う両者の間に、あらかじめ価値観(社会秩序)が共有されているので、お互いが何を期待しているかが予測できるからDCを回避できていると考えました(期待の相補性)。
これに対してルーマンは、相互行為を行う両者の間にはじめから共通の価値観は必要ないと言います。なぜなら、互いの身振りや反応を見ながら相互行為のきっかけを見つけ出すことができると考えるからです。むしろDCという秩序が成り立っていない状況があるからこそ、人々がその状況を解消しようとコミュニケーションすることで、新たな社会秩序が生まれ続けているとルーマンは言います(ノイズからの秩序形成)。

複雑性の縮減

近代社会において、人間は基本的に自由です。しかし、自分の欲求が叶うような行動をした場合、相手がこちらの思い通りの行動をとるかどうかわかりません。それでも私たちは通常、相手が行うかもしれないあらゆる可能性(複雑性)の存在を意識することなく、安心してやりとり(コミュニ ケーション)をしています。ルーマンはこれを複雑性の縮減と呼びます。
「このようなときにはこのように行動する」という複雑性の縮減が十分に行き届いた社会では、見知らぬ人たちとの関わりでも安心して相手の行動を予期してやりとりをすることができます。これを複合性の増大といいます。
小さな共同体で暮らしていた過去とは違い、近代社会は見知らぬ人たちとのやりとりばかりです。そのため近代社会では、個人の人格への信頼ではなく、規範への信頼が必要となります。ルーマンは、そうした規範がどう生まれ、どう守られているのかを複雑性の縮減という概念を手がかりに突き止めようとしたのです。
複雑性の縮減を鍵に、社会(規範)が成立している仕組みを説くルーマン社会学は、マクロの視点にミクロの視点を取り入れるものでした。

オートポイエーシス

ルーマンは、社会を構成している要素は、人間ではなく、コミュニケーションだと考えました。コミュニケーションが次のコミュニケーションを自動的に生み出し続けることで、コミュニケーションを構成要素とする社会は存続していると彼は言います。社会を成り立たせている要素(コミュニケーション)が社会自体によって生産される、こうした性質をオート(自己)ポイエーシス(生産)呼びます。
ルーマンの考える社会→分子がつながってモノを構成するように、コミュニケーション(情報+伝達+理解)という分子が次のコミュニケーションを生み出し、つながることで社会(制度・規範)というモノを構成する。そしてその社会が私たちの行動を規制する。
社会(規範)なしに人間は生活できませんが、社会のシステムの中に各個人の意識(心)までが機能的に取り込まれているわけではないとルーマンは考えます。そのため彼にとって人間は社会システムの構成要素ではないのです。