マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

作品#05「コスモス 社会学用語図鑑トレカ」62枚(6) #51-#62

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目次

#51 Robert David Putnam ロバート・パットナム

社会関係資本

近隣住民同士の関わりを深めて、地域のネットワークを密にすれば、治安もよくなって犯罪も減り、統治の効率もよくなるとパットナムは考えました。善意や共感に基づく個人間の信頼関係は、自分にとってだけでなく、社会全体にとっての資本(財産)になると彼は言います。これが社会関係資本ソーシャルキャピタル)という概念です。
かつてブルデューは、社会関係資本を個人に宿る文化資本の一部として捉えました。ブルデューにとって社会関係資本は「個人の人脈」を意味したのです。これに対してパットナムは「社会にとっての資本」の側面に注目したといえます。

#52 Jock Young ジョック・ヤング

包摂型社会/排除型社会

1960年代頃までの社会は、労働と家族という2つの領域に大きな価値が置かれていました。そしてこの2つの領域を軸にした、同じような生活スタイルや価値観をみんなが共有していました。だからこそ、社会から逸脱する人がいたとしても、その人を共通の価値観へと包摂していこうという風潮がありました(包摂型社会)。
ところが1970年代になると、人々の生活スタイルも価値観も多様化していきました。共通の価値が失われると、自分が信じる価値が社会の多数派に認められていると信じることが難しくなります。すると、異質な人たちを排除・否定することで、自分や自分の属する集団の価値を高め(信じ)ようとするようになるとヤングは考えました(排除型社会)。

#53 Manuel Castells マニュエル・カステル

集合的消費

人口が増えて都市化が進むと、道路、公園、学校、病院などの整備を急ぐ必要があります。これらの生活基盤は、対価を払わなくても使用(消費)し続けることが可能でなくてはなりません。よって市場だけで供給し続けることが難しくなります。そこで国家が担うことになります。
こうしたサービスのあり方を集合的消費と呼びます。カステルは、都市化とは、消費の中心が個人的消費から集合的消費へと向かう過程であると考えました。集合的消費が増えると、集合的消費を担う国家は市民の日常生活を一元的に管理・支配できることになります。
こうした国家権力が暴走した場合、グラスルーツ(草の根=一般市民)の積極的な社会運動(都市社会運動)が必要だとカステルは主張しました。

#54 Gayatri Chakravorty Spivak ガヤトリ・C・スピヴァク

サバルタン

サバルタン(従属的社会集団)は、植民地支配の統治下に置かれた人々をあらわす言葉として使われてきました。インド出身のスピヴァクはそうした人々の中でも特に女性に注目して、サバルタンという言葉を用います。
植民地の人々は、世界システムという構造の中で、ただでさえ搾取される立場に置かれています。それなのに、植民地の内部では男性中心主義的な性質も根付いてしまっています。サバルタンの女性たちは二重に疎外された存在となっているのが現状です。
彼女たちはみずからが置かれている立場を客観的に把握するための場にアクセスできません。また彼女たち自身の方法で抵抗をしたとしても、それが抵抗として認識されることもありません。さらにスピヴァクは、サバルタン当事者ではない人間が、自己満足ではなしに、サバルタン当事者を支援したりその声を代弁することが、いかに難しいかを指摘します。

#55 Mark Granovetter マーク・グラノヴェッター

弱い紐帯

ラノヴェッターは、労働者たちに現在の職を得た方法を聞く調査を行い ました。その結果、親や親戚(強い紐帯)よりも、弱い関係(弱い紐帯)にある人からの情報の方が職を得るのに有益な傾向がありました。
強い紐帯関係の人は、自分と同じ情報や交際範囲を持つことが多いのに対して、弱い紐帯関係の人は自分とは異なった情報を感知している傾向が強くなります。未知の情報を得ることで自分が成長するには、弱い紐帯が重要だったのです。

#56 Richard Sennett リチャード・セネット

公共性の喪失

政治家が政策ではなく、人柄や私生活の振る舞いによって評価されることは少なくありません。こうした例のように、公的なことでも私的な感情によって評価される現代社会の傾向をセネットは公共性の喪失と呼びます。彼によると、公共性は18世紀の都市で生まれましたが、資本主義が進むにつれて失われていきました。
公共性の喪失によって、私的な感情と公的な生活とのバランスを保つことが現代人にはできなくなってしまいました。自分の欲望と社会全体の利益の区別ができない現代人のこうした心理状態をセネットはナルシシズムという言葉で表現しています。
18世紀、人々は、家庭内での振る舞いとは異なる公的な場での公的な振る舞い(公共性)も大事にしていた → 資本主義社会という公的領域よりも家庭という私的領域こそが個人を守るという感覚が生まれ人々は公共性を大事にしなくなっていった
内部指向型から他人指向型へ移行するというリースマンの説は順序が逆であるとセネットは言う

#57 Ulrich Beck ウルリッヒ・ベック

リスク社会

原発事故に象徴されるように、高度な科学技術がもたらすリスクは、危険の程度を実際に知覚することが難しく、いつ誰に降りかかるか予測できません。現代型のリスクは、高い階級や特定の地域の人々だから安全であるとはいえないのです。近代化にともない、すべての人が見えないリスクにさらされているとベックは主張します。
こうしたリスク社会に対応するため、中央政府にすべてを任せるのではなく、人々が科学技術などへの意識を高めて、それぞれの現場で問題解決の道を探る動きが台頭し始めました。ベックはこれをサブ政治と呼びます。
中央政府や特定の専門家に未来を丸投げする時代は終わりました。どういう世界が「善い世界」なのかをこれからは自分で考えなくてはなりません。私たち一人ひとりの価値観が、今後の世界のあり方に大きく関わっているとベックは言います。

#58 John Urry ジョン・アーリ

観光のまなざし

観光地において、観光客は自分があらかじめ持っているその土地のイメージをそこに探そうとします。アーリはこれを観光のまなざしと呼びました。また、観光客を受け入れる側も、観光客のまなざしを意識することで、自分たちの伝統や文化を再認識せざるを得なくなります。結果、観光のまなざしが求めるような対象物を生み出し続けていくことになります。
さらに観光地がグローバル化すると、もともとその土地になかったはずの建造物や風景を、観光のまなざし的なイメージに合わせて、新たに作り上げるという事態も起きます。観光地は過剰に演出され、伝統や文化はもち ろん、観光される土地の人々のアイデンティティをも変えていきます。

#59 David Lyon デイヴィッド・ライアン

監視社会

日常の様々な場面で、私たちの振る舞いは個人データとして記録されています。そして収集されたデータは、いつどこで誰がどのような目的で使用するのかわかりません。ライアンは本人に影響を与えるような個人データの収集行為はすべて監視だと言います。彼はこれまでの監視社会(パノプティコン)とは異なる、新しい監視社会を現代に見いだしました。
監視の対象は生身の人間ではなく、人間の断片的な事実です。新しい監視社会において、A君とは、A君の身体のことではなく、A君に関する情報(データ)の集まりをさすことになりました(身体の消失)。
こうした監視は、人々を管理する側面もありますが、同時に人々の生活を守る側面もあります。たとえば監視によって集積されたデータがあるからこそ、病院で適切な診断や治療をすばやく受けることができます。
人々が、効率化や安全を求める以上、テクノロジーの進歩とともに監視社会は加速していくとライアンは考えます。

#60 Eve Kosofsky Sedgwick イヴ・セジウィック

ホモソーシャル

ホモセクシャルは同性間の性的な関係を示す言葉として用いられますが、対してホモソーシャルとは同性間の性的でない絆をあらわす言葉です。セジウィックは、男性間のホモソーシャルには単に性的か否かだけではない問題があることを見いだしました。
男性間のホモソーシャルな関係が築かれる中で、しばしば女性は男性たちにとって異性愛の対象としてのみ存在します。セジウィックはそうしたホモソーシャルな絆の中に、ミソジニー女性嫌悪・蔑視)や、ホモフォビア(同性愛者嫌悪)、またパターナリズム(家父長主義)的な女性支配の構図が含まれていることを指摘しました。

#61 Dick Hebdige ディック・ヘブディジ

サブカルチャー

自分が所属している社会の多数とは価値観が異なる文化をサブカルチャーといいます。
日本語の「サブカル」は、個人が自由に選択する少し変わった趣味趣向という意味で用いられることがありますが、社会学者のヘブディジはサブカルチャーを「社会の多数派ではない人同士が集まって作る文化」だとしています。
サブカルチャーは、大勢がよしとするハイカルチャー(上位文化)やポップカルチャー(大衆文化)などのメインカルチャーとは違う価値の置き方を人々に提示することができると彼は言います。

#62 Michael Hardt マイケル・ハート

<帝国>

大きな国家が軍事力をもとにして、他の小さな国や地域へと領土を広げていく政策は帝国主義と呼ばれてきました。また、軍事・経済・文化などで強い影響力を持つアメリカを比喩的に「アメリカ帝国」と呼ぶこともあります。いずれも、帝国とは、ある強大な国が勢力を拡大していくものでした。
それに対してネグリとハートはグローバル化が進む現代の新しい権力のあり方を〈帝国〉というキーワードで表現します。〈帝国〉はかつての帝国主義のように、特定の強国が中心となるわけではありません。資本主義のもとで、多国籍企業国際連合世界銀行などが国境を越えて結びついた中心を持たないネットワーク状の権力が 〈帝国〉です。グローバ ル化を牽引するアメリカさえも〈帝国〉の内にあり、中心ではありません。
〈帝国〉は日常生活の至る所に浸透し、人々を資本主義に順応させるために、人々を管理・育成しています。けれども〈帝国〉に対抗する民衆の力もまた〈帝国〉の持っている性質の内側から生まれます。ネグリとハートはそれをマルチチュードと呼びます。

マルチチュード

ネットワーク状のグローバルな権力である〈帝国〉は、人々を資本主義に順応させるように管理しています。けれども〈帝国〉が持つネットワークという性質は、世界中の人々とつながることも可能にします。であるならば、世界中の多種多様な民衆が、このネットワークを利用することでつながり合えば〈帝国〉に対抗できるとネグリとハートは考えました。
ネグリとハートはこのような多種多様な民衆をマルチチュードと呼びます。居住地や性別、職業、宗教などの垣根を越えて、人々がネットワーク状につながり、資本主義が引き起こす問題点を一つひとつ解決しようとする力がマルチチュードです。
〈帝国〉の本質であり最大の武器であるネットワークそれ自体を利用して多種多様な民衆が結託すれば、〈帝国〉すなわち資本主義の矛盾に対抗できるとネグリ&ハートは考えた。このように〈帝国〉の内側から生まれ、帝国そのものへ抵抗する多種多様な民衆をマルチチュードという。