マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

作品#05「コスモス 社会学用語図鑑トレカ」62枚(番外) 哲学&続哲学用語図鑑トレカの14枚

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目次

哲学#36 カール・マルクス

生産関係

人間が生きるためには衣食住が必要です。マルクスは、衣食住に必要なものを生産するための土地や材料などを生産手段と呼びます。また、生産のために取り結ぶ人間関係のことを生産関係と呼びます。封建制での領主と小作人、資本主義体制での資本家と労働者のように、生産手段を持つ者と持たない者との間に、支配と服従というかたちで生産関係はあらわれます。
生産関係は、それぞれの時代の技術レベルによって決まります。やがて技術レベルが進歩し、生産力(生産物の供給能力)が向上すると、被支配階級が力を持ち始めます。そして被支配階級が支配階級から独立することで、次の時代の生産関係へと移行します。

資本家階級(ブルジョアジー)/労働者階級(プロレタリアート

封建制は終わりを告げ、領主と小作人という生産関係はなくなりました。けれども次に訪れた資本主義制度は、資本家階級と労働者階級という新しい生産関係を生み出してしまったとマルクスは言います。
さらにマルクスは、資本主義がかかげる自由競争(自由放任主義)のもとでは、資本家同士だけが利潤の追求を行い、それによって労働者が搾取され続けることになると考えました。これを避けるために、土地や工場や設備などの生産手段は私有してはならず、公共化するべきだとマルクスは主張します。

疎外

資本主義体制の下では、労働者は生産手段を持っていないので、自分の労働による生産物も、労働自体も、労働者自身のものではありません。労働者は生産物や労働自体から、疎外されている(のけ者にされている)のです。また、本来ならば、生産活動(労働)や生産物は、人々が連帯して生きていく(類的存在になる)ためのものですが、生産活動や生産物から疎外されるため、そうした連帯もできなくなるとマルクスは考えました。

階級闘争

支配階級と被支配階級の生産関係は一度出来上がってしまうと、支配階級がその制度を維持しようとするため固定化します。ところが技術の進歩によって生産力(生産物の供給能力)が向上すると、現状の生産関係に不都合が生まれ、階級闘争が起こります。その結果、新しい生産関係の時代が生まれるとマルクスは考えます。

上部構造/下部構造

マルクスは、各時代の生産関係による経済的な仕組みを、社会の 土台をなす下部構造と捉え、この土台の上に法律、政治制度や、宗教、芸 術、学問といった文化が上部構造として成立しているとしました。人間の 意識のあり方である上部構造は、経済的な土台である下部構造によって決 まるため、生産力が発展することで経済的な土台が変化すれば、それにと もなって上部構造も変化するとマルクスは考えます。
上部構造(人々の意識のあり方)→法律、政治、道徳、文化など人の意識のあり方
下部構造(経済構造)→各時代の生産関係による経済構造。その時代が封建的か、資本主義的か社会主義的かなどの下部構造が、人の考え方である上部構造を決定する。たとえば、「贅沢」に対する人々の意識は、中世封建制では厳禁、社会主義では平等をけがすもの、資本主義では憧れとなることが多い。つまり、人の意識が経済構造を作るのではなく、経済構造が人の意識を作る。

イデオロギー

自分の思想や信念は自分の意識が生み出したわけではなく、その時代の下部構造に決められているとマルクスは考えます。たとえば、中世封建制において贅沢は悪ですが、資本主義体制では悪ではありません。このように社会的な条件の下で共有される観念をイデオロギーと呼びます。
自分が生きている時代の生産関係を意識せずに、あたかも自分が主体的に考え出した意見のように発せられた主義主張をマルクスは疑似意識と呼んで批判しました。

唯物史観

人は衣食住のために、物を生産し続ける必要があります。そのため人は、その時代の技術レベルに見合った生産関係を結びます。すると、生産関係が土台(下部構造)となって人の意識のあり方である政治制度や文化(上部構造)が生まれます。やがて技術の進歩により生産力(生産物の供給力)が増大すると、それまでの生産関係が維持できなくなり、階級闘争が起こります。こうして時代は、奴隷制封建制→資本主義→社会主義共産主義の順で進歩するとマルクスは考えました。この ように、歴史を動かす原動力を、人の意識といった精神的なものではなく、生産力の発展といった物質的なものだと考えることを唯物史観史的唯物論)といいます。

続哲#26 ヴァルター・ベンヤミン

アウラ

芸術作品を写真に撮ったり、印刷したりした複製物は、それがどれほど精巧に作られていても、唯一無二の本物ではあり得ません。「今」「ここに」しかない本物の作品に備わっている目に見えない力のことを、ベンヤミンアウラ(オーラ)と呼びました。
近年、芸術作品はますます技術的に複製されやすくなりました。けれども実物が帯びている唯一性や歴史性などは複製物には欠落しているのです。
映画や写真などの複製芸術の登場は、芸術の概念を「崇高」で「貴重」なものから「身近」で「気軽」なものへと変えました。ベンヤミンは、複製技術の進歩によるアウラの凋落を嘆きます。しかし一方で、いくら権力が芸術、表現、情報などを管理、規制したとしても、複製技術の進歩は芸術や表現を権力から解放するとベンヤミンは考えました。

パサージュ論

ドイツ生まれのユダヤ人であったベンヤミンは、ナチスから逃れてパリにいました。そこで彼はパサージュの中の遊歩者となり、『パサージュ論』という断片集の執筆を始めます。パサージュとは19世紀のパリにできたガラス屋根の商店街をいいます。ガラス越しの淡い光の中には、様々な古道具が並んでいました。
ベンヤミンは、19世紀の人々がこれらの商品に見た夢を追想します。そうすることで、当時の人々の資本主義に対する考えを知ろうとしたのです。物や街並みから人々の意識を捉えようとするこうした手法は、後の大衆文化研究(カルチュラルスタディーズ)にも大きな影響を及ぼしました。
「パサージュは外側のない家か廊下のようだ。 夢のように」と彼は表現しました。けれども実際のパサージュの外側には、ナチスの足音がせまっていました。彼は、パサージュのぼんやりとした光に包まれた、まだナチス政権のなかった19世紀の記憶の中に逃げ込んでいたのかもしれません。
1940年、ナチスがパリを侵略。ベンヤミンは未完の『パサージュ論』の原稿を、当時パリ国立図書館に勤務していた友人の哲学者ジョルジュ・バタイユ(1897~1962)に託し、パリを脱出します。ピレネー山脈を徒歩で越えようとしましたが、国境付近で足止めされ、服毒自殺を遂げました。

哲学#55 マックス・ホルクハイマー

批判理論

「近代社会はなぜナチズムを生んでしまったのか?」この問題の解明を生涯のテーマとしたのがホルクハイマー、フロム、ベンヤミンアドルノなどのフランクフルト学派の思想家たちです。
フランクフルト学派のメンバーであるホルクハイマーやアドルノは、ファシズムの誕生や、ユダヤ人の虐殺は、近代以降続いてきた理性万能主義に原因があると考えました。
彼らは、近代以降のヨーロッパの理性は「何かを成し遂げるための道具」として発展してきたことを指摘しました。何かの目的を達成するための理性は、現実を部分的に分析するだけで、大きな視点を持ちません。
目的達成のためだけに発展してきたヨーロッパの理性は、利益追求に結びつき、ファシズムの政治政策や戦争兵器開発の道具となってしまったと彼らは言います。彼らはこうした理性を道具的理性と表現しました。
このように、フランクフルト学派の考えは、分析的な側面よりも社会批判的な側面が強いので、批判理論と呼ばれています。批判理論は現在でも、哲学、社会学、経済学などの分野に大きな影響を与えています。


哲学#46 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

言語ゲーム

たとえば、「今日はいい天気だ」という主張(言語)があるとします。この場合、今日がよい天気ならば、この主張は正しく、そうでなければこの主張は間違っているということになります。
けれども、一概にそうとは限りません。なぜなら、時と場合によって主張の意味は変わるからです。事実と言語とは1対1で結びついているわけではないのです。
私たちは、ある言語とその言語の意味とを結びつけるルールを理解し、そのルールに従って振る舞っています。こうした言語活動のルールは、実際に日常生活を送りながら習得するしかありません。社会生活とは、言語ゲームに参加することだとウィトゲンシュタインは考えました。

哲学#36 シモーヌ・ド・ボーヴォワール

第二の性

ボーヴォワールは、男性こそが人間の主体として扱われているのに対して、女性はその主体にとっての他者である第二の性の立場に置かれていると指摘しました。「女性」は、先天的にそのようなものとして生まれるのではなく、後から文化的・社会的に作られるのだと彼女は言います。

フェミニズム

男性中心主義的な社会に異議を唱え、性差別の廃止や女性の解放・権利拡張を目指す運動や思想をフェミニズムと呼びます。フェミニズムは歴史的に見て、第1波、第2波、第3波に分けられます。
第1波→19世紀~1960年代 参政権など、法的に男性と同等の権利を獲得するための運動が展開される
第2波→1960~1970年代 古い結婚観、性別役割分業などを見直し、形式だけでなく実質的な平等が求められていく
第3波→1990年代~ 性に関するアイデンティティが多様であることを前提に、「女性らしさ」や「男性らしさ」の意味が問い直される

哲学#60 クロード・レヴィ=ストロース

インセスト・タブー

あらゆる社会で、近親相姦(インセスト)はタブーとされています。レヴィ=ストロースは「未開社会」の人々と生活をともにしながら、なぜ、彼らの社会で近親相姦がタブーとなったのか、その成り立ちを調査しました。
贈与と返礼による交換は、人間社会の存続にとって根本的な要素でした(贈与論)。レヴィ=ストロースは婚姻を、他の集団との間の「女性の交換」として捉えました。近親として結婚がタブー視される女性/結婚相手にできる女性の区別は、他の集団に交換相手として贈る女性/他の集団から贈られてくる女性の区別を意味するのではないかと考えたのです。
交換の対象となるものには価値が付与されます。つまり、近親女性は他の集団に贈る(交換する)ための価値を持つ対象となります。そうであれば、近親相姦は交換の仕組みを閉ざしてしまう行為となり、タブー視されるは ずです。
西洋にも日本にも女性が嫁ぐ習慣がありますが、私たちはその習慣の本当の意味を意識してはいません。「女性の交換」に限らず、贈与と返礼の交換という習慣で社会を維持する構造は、様々な社会に見られるとレヴィ=ストロースは言います。社会の根底に横たわるこうした構造(習慣や文化)に、人間は無意識に従っているだけだと彼は考えます。

構造主義

フランス人は蝶も蛾も「パピヨン」という言葉で言いあらわします。つまりフランス人にとって「蛾」(あるいは蝶)は存在しません。このことで「蛾」という存在があるから私たちはそれに「蛾」という名前を付けているわけではないということがわかります。
まず一つ一つの要素が存在していて、それに名前が振り当てられているのではありません。私たちが世界を言語で区切ることで一つ一つの要素が存在できているのです。私たちはこの言語世界の範囲内で思考しています。このことから、人間の思考(の構造)は、自分が属する社会や文化(の構造)に無意識的に支配されているとレヴィ=ストロースは考えました。
たとえば「未開社会」と呼ばれてきた共同体に暮らす人々は、西洋とは違った世界の区切り方をしています。その区切り方で成立している社会は、西洋の「文明的」な社会と比べて、人間として遅れた発展段階にあるわけではありません。これが構造主義の考え方です。
西洋が「科学」を発展させてきたので、無意識のうちに西洋の思考を進んだものと考えてしまう。けれども「科学」は、環境破壊や大量破壊兵器を生み出した。西洋の科学的思考が、「未開社会」とされている人々の思考と比べて、進んだ思考の構造とはいえない。

続哲#32 ルイ・アルチュセール

国家のイデオロギー装置

学校、福祉、メディア、宗教などの制度は、個人の思想やイデオロギーを国家に適したように育成する国家のイデオロギー装置だとアルチュセールは考えました。国家のイデオロギー装置で作られた個人は、いつしかみずから進んで国家に服従し、今度はイデオロギーを作る側にまわると彼は言います。
国家の装置は、抑圧装置(軍隊、警察など)とイデオロギー装置(学校、宗教、メディアなど)からなる。

哲学#64 ジャン=フランソワ・リオタール

ポストモダン

資本主義経済の発達や科学技術の進歩、民主主義の定着によって、世界は近代(モダニティ)の時代を迎えました。そして近代化を推し進めれば、封建的な古い秩序は塗り替えられ、世界に普遍的な(全人類に共通した)正義や幸福がもたらされると信じられていました。
けれども、核兵器の開発や大規模な環境破壊などが進み、近代化の限界が明らかになると、人々が近代化に託していた普遍的な価値に対して疑いの目が向けられます。リオタールはこれを大きな物語の終焉と呼びます。現代は、差異や多様性を認め合い、不確定なものを肯定し、それらが共存する道を模索しようとするポストモダン(近代の後)の時代だと彼は言います。

哲学#62 ミシェル・フーコー

生の権力

中世の君主は人々に死を与える権力(死の権力)で支配を成立させていました。けれども近代(資本主義)の権力は逆に、人々を生きさせる生の権力(生-権力)であるとフーコーは言います。生の権力は、学校教育や軍隊の訓練によって人々を効率的に調教し、また医療や保険などを整備して人々がより健康で安全に生きられるよう管理します。人々の身体と生命を「生かす」方向に権力が行使されているのです。
18世紀以前・死の権力→絶対的な権力者が死刑の恐怖を与えることによって、民衆を支配していた
19世紀以降・生の権力→人々を生かす方向で権力が行使されている。一見すると人々に優しい姿をしているが、人々を資本主義社会に適合させるための効率的な管理体制

パノプティコン

近代社会(資本主義社会)の権力は、支配者が上から押し付ける構造ではないとフーコーは考えました。彼によれば、近代社会の権力は、人々が社会生活の中で自分から規律に従っていく構造になっています。こうした権力のあり方を彼はパノプティコン(一望監視装置)という監獄にたとえます。
パノプティコンのように、つねに監視されているという意識から、自分から進んで規律に従順になっていく仕組みは、監獄に限らず会社や学校、病院など日常生活のあらゆるところに浸透しています。
日常のバノプティコン効果によって、人々はいつしか資本主義社会の矛盾に疑問を持たなくなります。そして自分たちとは異なる価値観を持つ人物を異物として排除していくようになるとフーコーは言います。

哲学#65 ジャン・ボードリヤール

記号的消費

生活必需品が普及し尽くしても、商品が売れなくなるわけではありません。その後に訪れる消費社会では、人々は何かを購入するとき、その商品の実質的な機能を購入するのではなく、他者との差異化のための記号(情報)を購入します(記号的消費)。消費行動は人々の個性やセンスを示すものとして機能し始めるのです。
高度消費社会を迎えた現代では、絶えず商品が発売されて新たな記号が生み出され、他の記号(商品)との間に差異を生じさせ続けます。人々は差異を求め続けるので、この消費行動には終わりがありません(差異の原理)。人々の欲求はもはや個人の主体性によって発せられているのではなく、この記号のシステムによって駆動されているのです。
現在、差異を生み出す記号はファッションブランドはもちろん、「シリアルナンバー」「エコ・ロハス」「有名人の愛用品」「ヴィンテージ」「会員制/少人数制」「商品の持つ歴史や物語」など多岐にわたります。

シミュラークル

現代は記号を消費する時代であるとボードリヤールは考えました(記号的消費)。記号とは本来、現実に存在するオリジナルを模倣した模像です。けれども、そうした模像が作られていく中で、オリジナルを持たないものがいくつも作られています。
たとえば仮想の世界設定で作り込まれたコンピュータ上のデータは、現実を代替するものではあるものの、模倣されるもとになったオリジナルが存在しません。ボードリヤールはオリジナルのない模像をシミュラークルシミュラークルを作り出すことをシミュレーションと呼びました。
そしてオリジナルな模像が現実に作られると、何がオリジナル(現実)で何が模像(非現実)なのかわからなくなります。現代社会はそのような環境に取り巻かれています。ボードリヤールはこうした状態をハイパーリアルと呼びました。

哲学#56 ユルゲン・ハーバーマス

公共圏

ハーバーマスは18世紀のイギリス、フランス等の都市で広まったコーヒーハウスに着目しました。コーヒーハウスでは異なった階層の人々が対等に議論する公共圏(市民的公共圏)が生まれていたと指摘します。
コーヒーハウスでの討論は新聞などの活字メディアで紹介されます。そして活字メディアをもとにまたコーヒーハウスで議論が積み重ねられます。このプロセスによって公権力に批判的な意見が形成されるという流れが公共圏です。公権力に対抗する力を持たなかった公衆が、公共圏の成立によって、公権力に対抗する力を持つことができるようになったのです。
けれども、メディアの中心が活字からテレビになると、状況は一変します。
公共放送は政府のプロパガンダを一方的に放送します。また民間放送は、スポンサー企業にとって都合のよい情報しか提供しません。大衆はそれらの情報をただありがたがるだけだとハーバーマスは言います。テレビの普及にしたがって、公共的な討論を生む公共圏は廃れていきました。
近年、インターネットの普及により、公共圏に似たものが復活しました。ただし、インターネットは顔の見えない人同士の無責任な独り言が浮いているにすぎず、公共的な討論の場とはいえないという見解もあります。

コミュニケーション的理性

初期のフランクフルト学派は、理性を自然や人間を支配するための道具にすぎないと考えました(道具的理性)。けれどもフランクフルト学派の2世代目にあたるハーバーマスは、理性にはコミュニケーション的理性(対話的理性)もあると主張します。
相手に自分の意見を押し付けるための道具としての理性ではなく、お互いの合意に達する対話のための理性もあるとハーバーマスは考えたのです。ただしこうした対話のためには、発言の機会が平等に与えられた公共圏のような状況を確保する必要があります。

生活世界の植民地化

ハーバーマスは、コミュニケーションを最も理想的な行為と考えました。そして日常的なコミュニケーションのために、発言の機会が平等に与えられた世界を生活世界と名付けました。
けれども資本主義社会である現代は、経済の仕組み(システム)が人々の行動や地位を自動的に決めてしまっているので、コミュニケーションによる合意で物事を決める機会はめったにありません。こうした状況を(経済)システムによる生活世界の植民地化とハーバーマスは呼びました。

哲学#71 エドワード・サイード

オリエンタリズム

近代西洋社会は、東洋(オリエンタル)の社会を、自分たちとは異なる存在とみなしてきました。その視線は西洋を文明の中心とし、東洋を支配の対象とするような考え方を含むものでした。サイードは、この西洋中心主義的な姿勢をオリエンタリズムと呼びます。
オリエンタリズム的な視線は、怠惰で好色、非論理的などのイメージで東洋を捉えます。その見方は、西洋こそが世界を正しく理解でき、東洋のこともよくわかっているという考えにつながり、東洋の植民地支配を正当化するものになりました。
西洋と東洋という区分自体、自然なものではなく、西洋が自分たちの文化や価値観を中心にして作り上げた線引きにすぎません。

哲学#70 ジュディス・バトラー

ジェンダー

生物学的な性差をセックスと呼ぶのに対して、社会的・文化的に作られた性差をジェンダーと呼びます。ジェンダーには「女性は社会に出てはいけない」といった社会的なメッセージを含むことが多くあります。ジェンダーという概念を知ると、「女らしさ」や「女性は家事が得意」といった発想が、男性優位な社会に捏造されたものにすぎないということが見えてきます。
そして生物学的な性差であるはずのセックスもまた、その視点には社会的に作られた要素が多分に含まれています。たとえばセックスの「男/女」という単純な二分法はセクシャルマイノリティが考慮されていません。
また、鳥類や爬虫類などがオスメスの区別に着目した名称ではないのに対して、人間の属性である「哺乳類」には母性を感じさせる言葉が採用されています。このように生物学的、科学的な用語にも、女性の社会的な立場が暗に結びつけられています。ジェンダーは、こうしたことを気づかせる重要な概念だとバトラーは言います。