マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

廣瀬純『蜂起とともに愛がはじまる―思想/政治のための32章』河出書房新社

目次
序にかえて 頭痛―知力解放から蜂起へ
蟹工船』よりも「バートルビー」を アントニオーニ/メルヴィルアガンベン
君は「反革命」を覚えているか? ヒッチコック/赤瀬川/ヴィルノ
のび太、聖プレカリアート ニコラス・レイゲーテ藤子・F・不二雄
複数の持続を同時に生きよ! 小津/ベルクソン/デ・ホーホ
遊歩者たちは愛し合えるか タチ/ベンヤミンフーリエ
思考に外気を送り続けよ 加藤周一フーコー/デュラス
諦めて、跳べ(賭けを生きる) パスカルロメール/桧垣立哉
顔のファシズム、背中のデモクラシー 山中貞雄/『アンチ・オイディプス
時間の力を知覚せよ ドゥボールアガンベンルノワール
現勢性の悲観主義、潜勢性の楽観主義 ドゥボール/タチ/ブルトン
ワン・プラス・ワン(映像関係) ゴダール/ダネー/ゴラン
革命零年 未来へ帰還せよ! ネグリ/ゼメキス/マルクス
真冬の亡霊、コミュニズム ヴィットリーニ/ユイレ/ストローブ
ホタルについて パゾリーニ/ディディ=ユベルマンゴダール
Is this a game or is it real? コッポラ/デリダ/バダム
すべてが語る、すべてを語る プラトンランシエールフロベール
身体が何をなし得るか予め知ることはできない イーストウッドデリダ
フローは切断なしには流れない ゴダールレヴィナス/パチョーリ
倫理とはカメラ位置の問題だ レヴィナスハイデガーベルイマン
我々はみな影丸である サパティスタ運動/大島渚白土三平
蜂起とともに愛がはじまる エサ=デ=ケイロスオリヴェイラペソア
理念をもって生きること 年金改革反対運動/バディウ
印象の自由 ゴダールボッティチェッリ
死を恐れず、技芸を生きよ シュレーター/カミュフーコー
消え去っていくパリ 北アフリカ民衆蜂起/バリバール
風評被害原発事故の内部にある デリダ原発事故
増殖するタハリール広場 アラブの春からスペインの春へ
演出は映像を労働から解放する 青山真治ドゥルーズ
原発――原発を反転させる 原発事故/シモンドン
地理と疲労――海賊か警察か フーコー網野善彦
原発と蜂起
あとがき

序にかえて 頭痛―知力解放から蜂起へ
2011年10月 ロンドン大学バークベック校 夜間学校
本橋哲也、大山真司
新自由主義的政治状況における知識人の役割と責務」
知的な活動を始めた瞬間から だれもが知識人
知的な活動=知力(知性)を使った活動
ジャック・ランシエール 政治=平等の実践(知力における人々の平等)
「すべての人がすべてについて話す」「すべてがすべての人のうちにある」
当事者主義の逆
「それについて話す「資格」を特に有することなくあらゆる類いの事柄について自分の「意見(オピニオン)」を表明するような個人、そうした個人こそをランシエールは「知識人」と呼びます。この意味で「知識人」とは「無資格の資格」の名であると言ってもよいでしょう。あるいはまた、今日のこのパネルのタイトル「新自由主義的政治状況における知識人の役割と責務」に即して言えば、「知識人」とは「役割なき役割」の名、「責務なき責務」の名であるとも言えるでしょう。役割なき役割を演じ、責務なき責務を引き受けるときにこそ、人は知識人になるということです。」
「「政治」があるのは、何者かがそれについて話す資格のないままにありとあらゆることについてし、また、そうすることによって、社会における諸資格の固定的な配分を撹乱させ転覆させるときのこと、すなわち、立場、仕事、役割、責務、あるいはアイデンティティといったものの支配的な社会配分を動揺させるときのことです。要するに、何者かが知識人になるとき、そこには政治があるのです。そして「民主主義」があるのは、字義通りの「すべての人」がそれについて話す資格を特にもたぬままにあらゆる類いの事柄について話すとき、すなわち、すべての人が個々に知識人になるときのことです。「すべての人がすべてについて話す」というランシエールの第一の原則がこのように平等をその「実践」のレヴェルにおいて捉えるものであるとすれば、「すべてがすべての人のうちにある」という彼の第二の原則は平等をその「条件」のレヴェルにおいて捉えるもの、すなわち、平等の条件、あるいは条件としての平等を捉えるものです。」
「「知力」とはたんに思考する力というだけでなく、むしろ、すべてについて思考する力のこと」
「あなたにはすべてについて思考する力がある。だからそれを使いたまえ、民主主義を実現するために。あなたは知識人になるべきだ。怠け者たちだけが私の話に耳を傾けたがらない。彼らは自分のことについてだけ、自分のビジネスについてだけしか思考せず話さない。彼らのそうした怠惰は、実際、彼らの知力が要請する無際限の責務を前にした彼らの恐れ戦きに由来している。怠惰はまさに民主主義の敵なのだ。怠惰であってはならない。あなた自身の知力に対して軽蔑の念を抱いているふりをしてはならない。あなたの知力をつねにフル稼働させておかなければならない。怠惰の他にまた、民主主義にはもうひとつの敵がある。疲労。すべてについて話すのは多かれ少なかれ疲れるものだというあなたの不平はもっともではある。しかし、そうだとしても、ベストを尽くせ。早々に疲労してしまわないようできる限り努力せよ。Et tant pis pour les gens fatigues… 疲労してしまった者たちに私がかかえてやれる言葉は”それは残念……”というものでしかないのだ。」
ネオリベラリズムとは何か。1970年代後半にコレージュ・ド・フランスにおいて行われた有名な講義のなかでミシェル・フーコーがこれに与えた定義はいまもなおその有効性をまったく失っていないように私には思えます。フーコーによれば、ネオリベラリズムとは「社会体あるいは社会組成のただなかで”企業”形式を一般化させる」もののことだとされます。ネオリベラリズムは「社会組成を捉え直し、それが個人という粒子によってではなく企業という粒子によって配分され、分割され、細分化され得るようにする」のであり、より簡潔には、「その最も細かい粒に至るまで企業モデルで社会を再編する」ということです。」
労働者が自分自身を資本主義企業として経営する
マルクスは「労働力」を次のような言葉で定義しています。すなわち、「労働力」とは「ひとりの人間の生きた人格のなかにある肉体的及び知的な諸能力の総体」からなるもののことだと。要するに、ネオリベラリズムは「労働力」をそっくりそのまま「資本」に転ずることによって、自分自身にとっての企業になるよう個々の労働者を導くというわけです。」
ネオリベラリズムは一人ひとりの個人を「エンパワー」することで、それぞれの個人が自分自身を資本主義企業として経営するように促す。あるいはより厳密に言えば、ネオリベラリズムはすべての個人が互いにエンパワーし合い続けるように導き、社会全体が「企業という粒子によって」つねに分割された状態にとどまるようにする。」
「いかにして「68年5月」がランシエールアルチュセールとの絶好へと導いたのか。答えはいたって簡単なものです。「68年5月」は、ランシエールにとっては、労働者たちが「思考し話す」という知的活動をおのれのものとして取り返した出来事、すなわち、労働者たちが知力の平等という仮説をそのアクションのなかで実証した出来事、そしてまた、そのことによって「労働者は労働に専念し、思考し話すことは知識人が引き受ける」といった役割分担に基づく社会秩序を撹乱し転覆させる出来事に他ならなかったのに対し、アルチュセールにはそれが理解できなかったから、あるいはより厳密には、ランシエールと同じように事態を理解しつつ、だからこそそれを拒否したからです。フランス共産党の理論的指導者という役割を自らすすんで引き受けていたアルチュセールにとって、前衛党と大衆とのあいだの役割分担は革命プログラムを実現するために不可欠な絶対的な条件であり、これを揺るがすような出来事はけっして受け入れることのできるものではなかったのです。」
「68年秋に「5月」の産物として創設されたヴァンセンヌ(パリ第八大学)で教鞭をとり始めるなかでイデオロギー論」(労働者大衆は、イデオロギー装置によって捕獲されてしまっているという彼らの立場ゆえに、自分たちがいかなるシステムの犠牲になっているのかということも、そこから解放されるにはどのようなアクションが必要なのかということも自力ではけっして認識できず、だからこそ、システムを外部から「科学的に」分析して彼らにそれを説明し教えてやる責務を引き受ける前衛知識人が必要になるというマルクス主義のコアをなす理論)と当時のその親玉であるアルチュセールへの彼の批判的姿勢を決定的なものとするに至ったのです。」
「そして実際、膨大な資料のなかに聞き届けられることになったのはまさしく「ロゴスの叛乱」というこれまで沈黙させられてきた力強いざわめき、すなわち、個々の労働者一人ひとりが毎晩眠る時間を削って詩作や思索に没頭しロゴスを活気づけている様子(プロレタリアートの夜)、そしてまた、そうした実践によって「知力の平等」を実証していく様子、さらにはまた、そのことによって労働/知的活動という社会的な役割配分を根底から揺るがす様子だったわけです。」
「実際、このような「ロゴスの叛乱」のなかで個々の労働者たちが思考し話す主体としておのれを肯定することなくして、「労働者思想」としてのマルクス主義が成立し得たはずはありません。しかしながらマルクス主義は、おのれがそこから産み出されたこの叛乱のダイナミクスをそっくりそのまま裏切ることになったのですランシエールが重視するのはこの点です。19世紀前半の労働者たちの運動が「政治」であり得たのは、それがソリッドな役割分担に基づく支配的な社会秩序を撹乱させ動揺させる「叛乱」だったからであるにもかかわらず、マルクス主義は再びそこに前衛/大衆というかたちでソリッドな役割配分を復活させてしまった。叛乱のダイナミクスから産み出されたマルクス主義は、しかしながら、それ自体としては「叛乱」などではもはや些かもなく、したがって当然のことながら「政治」などでもまるきりない――そう言ってランシエールは「優等生」であることをやめたのです。」
「1971」金ドル固定(ブレトンウッズ体制)→変動相場制への以降(ニクソン・ショック
ネオリベラル的エンパワメントがすべての労働者、すべての個人に対してそれぞれ知識人になるよう導くというのは、別様に言えば、彼ら一人ひとりに対して絶えざる叛乱(社会的資格配分の撹乱)を求めるということに他なりません。このように叛乱を積極的に奨励する「資本のオペライズモ」、ネオリベラリズムを我々はいったいいかにして転覆させることができるのか。叛乱に対する叛乱などいかにしたら可能なのか。ここにこそ我々の「頭痛」の核心があるわけです。」
「我々の抱える「頭痛」は、したがって、「すべてについて思考する」という我々の脳に課せられた「無際限な責務」の無際限性に由来するのではなく、そうした無際限性のさらに外部にある絶対的な「外」というこの思考不可能なものをそれでも思考しなければならないという責務の不可能性に由来しているのだと言えるでしょう。よりわかりやすく言えば、無際限に多くのことを考え過ぎてアタマが痛くなってしまうということではなく、考えることのできないことをそれでも考えなければならないためにアタマが痛くなってしまうということです。」
「知力にできるのは「すべてのことについて思考する」といった程度のことではない、我々一人ひとりの知力は思考し得ぬものを思考することすらできる――そう肯定するときにこそ初めて、我々は自分の知力に対する「軽蔑」から完全に解放されるのであり、あるいは、そこにこそ真の、そしておそらくは最後の「知力解放」があるのです。」
「思考し得ぬものを思考する力としての問いを生産する力」
「そうではなく、警官は「反原発」を掲げたデモのただなかに、それでもなお、反原発脱原発の声だけでなく、それとは別の何か、それ以上の何か、過剰な何かをも聞き取っている」
「いかなる「解」にも還元され得ない純然たる「問い」を生産する力こそが、人々によって平等に共有される知力のもつ最も高次な形式としての「思考し得ぬものを思考する力」なのであり、また、この次元での知力の平等を実践し実証することこそが真の、そしておそらくは最後の知力の解放、知力の蜂起、すなわち「叛乱の叛乱」をなすのです。
 
蟹工船』よりも「バートルビー」を アントニオーニ/メルヴィルアガンベン
「働かないことは生に創造性を取り戻すためのひとつの契機となり得るのではないか。これは解雇され失職した労働者がふとした瞬間に心の奥底で立てるかもしれないこの上なく密やかな問いである。働かなければカネがない、カネがなければ生きられない、だからオレは一緒に解雇された仲間とともに労組を結成し、平気でオレたちのクビを切るような連中を糾弾し、解雇の継続と生活の保障のために闘う。オレは怒りに身を震わせている。仲間たちもみな怒りと不安で眠れない夜を過ごしている。しかしそんな憤怒の極限において、その憤怒の対極にあるとも思えるようなひとつの絶対的希望が突如として湧き上がるのだ。働かないことからしか「自分の人生を生きる」ことは始まらないのではないか。」
ジャン=リュック・ゴダール アンナ・カリーナ 『女は女である』『自分の人生を生きる(女と男のいる舗道)』
10時間ずっとひとつの壁を見つめ続けていると様々な問いが生じてくることになります。本当はひとつの壁でしかないにもかかわらず……。重要なのは人々に自分の人生を生きてもらうことなのです。あまりにも長いこと見つめ続けていると、結局は何も理解できなくなってしまうのです。
「「女は女である」(「壁は壁である」)ことと「自分の人生を生きる」こととはひとつの同じことなのだ。そうだとしたら、ここで否定的に語られる「ずっとひとつの壁を見つめ続けていると様々な問いが生じてくる」という事態は何を意味しているのか。ひとことで言えば、それは壁を働かせるということを意味している。壁が働かされることによって、その労働から様々な「問い」が剰余として生産されるということを意味しているのだ。そのようにして生産される「問い」が剰余(剰余価値)だというのは、実際には壁は壁でしかないにもかかわらず、そこから余分に産み出される価値だからである。壁や女にはそのような余分な価値を産み出す潜勢力があるのだ。しかし、そうして産み出される剰余価値は、壁を労働させる者の取り分にはなっても、労働させられる壁それ自身の取り分とはけっしてならない。壁は搾取されるのだ。
「壁や女が自分の人生を生きるためにはそうした剰余価値生産から解放されなければならない。つまり労働から解放されなければならない。いっさいの労働からおのれの心身が解き放たれるときにこそ、「壁は壁である」あるいは「女は女である」ということの十全な肯定が初めて可能になるのであり、壁の潜勢力がいかなる剰余価値としても現勢化されることなくそれとして価値をもつことになるのだ。仕事に自己実現を求める人々は、人間の潜勢力が価値付けられるのはそれが剰余価値を産み出すときに限ると信じている。これに対してゴダールは反論する――そうした信仰こそがまさに人々から「自分の人生を生きる」可能性を奪ってきたのだと。」
ミケランジェロ・アントニオーニ 『さすらいの二人(職業:リポーター)』『ブロウアップ(拡大)』
メルヴィルバートルビー』「しないほうがいいのですが……」
「確かにバートルビーはこの絶対的な非=労働の意志のために解雇され、最終的には「食事をすること」に対してすら「しないほうがいいのですが」と言ってのけ、餓死してしまう。失業者は言うだろう――仕事を失いアパートからも追い出され、実際、いままさに餓死寸前のこのオレにそんな「文学」がいったい何の役に立つというのか。しかしなお、ふとした瞬間に、いっさいの生物学的生存欲求を超えて、ひとつの恐るべき感覚がこの同じ労働者の全身を貫くことにもなるのだ――いままさにこの「文学」がその圧倒的創造力とともにそっくりそのままオレの身体に受肉しつつある、オレこそは人類の未来、人類の希望そのものなのではないかと。」
 
君は「反革命」を覚えているか? ヒッチコック/赤瀬川/ヴィルノ
ヒッチコック『鳥』
「68年の「革命」に対する「反革命」もこれと同じだった。確かに若者たちは「工場」という鳥かごから脱出したが、その途端、世界全体がひとつの巨大な「工場」となり始めたのであり、彼らは一人の例外もなくこの”世界=工場”のなかに新たに囲い込まれることになったのだ。工場やオフィスといった特定の空間だけに「労働」があるのではもはやなく、世界全体が労働の場、資本制生産の場になったのであり、また、9時から5時まで、月から金まで、学校卒業から定年までといった特定の時間だけに「労働」があるのではもはやなく、生きている時間のすべてが労働の時間となったのだ。まさにこれこそが「グローバル化」なるものの第一の意味に他ならない。遅くとも71年のニクソン・ショック(金ドル本位制の停止)から本格化したと言えるこの「反革命」の賭け金は、世界全体そして生活全体をグローバル・フレームのなかに囲い込み、人間社会全体を資本制生産に総動員することに存していたのである。」
「かつての「失業」は”工場=鳥かご”というフレームからその外に放り出されるということを意味した。しかしフレーム(工場の壁)それ自体がグローバル化し、「フレーム外」が完全に失われた今日では、失業者も就労者とともにあくまでも同一の360度フレームのなかに収まり続けるほかない。今日の「失業」は、資本の都合に応じて一時的に「より薄暗く」させられるということに過ぎないのだ。つまり、失業者といえども「万国の鳥たちによる”ヒッチコックの鳥”への生成」から些かも離脱してなどいないのである。したがって今日なお、就労者/失業者の区別が可能だとしても、それは「働いているか、そうでないか」という問題ではもはやあり得ず、たんに「賃金が支払われているか、そうでないか」という問題になったのだ。」
赤瀬川原平「宇宙の缶詰」 
パオロ・ヴィルノ反革命」68年の革命を「失敗」だと躊躇なく断言。
 
のび太、聖プレカリアート ニコラス・レイゲーテ藤子・F・不二雄
ニコラス・レイ『黒の報酬(生より大きい bigger than life)』
風穴としての小泉 「四次元ポケット」
のび太は「自分の頭で考えろ」という教訓を忘れてしまったわけではない。しかし同時に彼は、四次元ポケットという風穴から吹き込んでくる超人的力の偉大さも忘れることができないのだ。「生より大きい」力の圧倒的な強度を一度でも経験してしまった者が人間の有限性によって規定されたたんなる「生」の力へと逆戻りすることなど、どうしたらできるというのか。できるわけがない。」
「「帝国」のダイナミクスグローバル化ダイナミクスを一度でも経験した者にとって、国家の主権を再び強化することなど、すなわち、国家に「自分の頭で考える」を回復させることなど、その選択肢にはもはや入っていないのだ。」
「漫画『ドラえもん』においてひとつのエピソードからまた別のエピソードへと、のび太が繰り返し挑み続けるのは、この文脈で言えば、生活の不安定化という「悪」をそっくりそのまま労働からの生活の解放という「善」に転化するという試みである。雇用の再正規化を反動的に叫び求めることでは断じてないのだ。」
藤子・F・不二雄シオラン悲観主義
プレカリオ(不安定)を昇華する
 
小津安二郎『お早よう』「テレビは一億総白痴化をもたらす」ピーテル・デ・ホーホ”フレーム内フレーム”
ジャック・ランシエールプロレタリアートの夜」「労働をやめて詩作に専念するのではなく、労働すると同時に詩を書き、思考するということ。「政治」とは複数の持続を同時に生きること、そのための身軽さを獲得することであって、ネットワークあるいは”生産ライン”から身を切り離すことではないのかもしれない。」
 
ジャック・タチ『プレイタイム』
ベンヤミンのパリ パサージュ 鉄(フレーム)とガラス
世界から疎外された「遊歩者」(ショーウインドウを見ながら歩くだけ)
「新たな現実をけっして否定しないこと、そこにポジティヴな力の萌芽を読み取ること――ここからしか真に「思考」の名に値する振る舞いは始まらない、どんな反動的振る舞いも思考とは関係がないということなのだ。」
 
加藤周一「言葉と戦車」 プラハの春
『日本文学史序説』
「60年代の加藤が「疎外」のなかに”another world”の創造の可能性を見出していたことは十分に知られていない。「私は疎外が徹底すればするほどよいと思う――彼はいかなるレトリックもなしに愚直にそう書き記していた(「藝術家と社会」)」
 
檜垣立哉 競馬ファン『賭博/偶然の哲学』
「賭けることそのものが生であるような賭け」
エリック・ロメール緑の光線
「賭けるが勝ち」「生は賭けとして生きられる限りで、いっさい負けを知らない。」
パスカル「賭けの必然性」論
 
山中貞雄 ジャン・ルノワール『河』
「革命とは歴史という名の機関車を急停車させることである。」マルクスの有名な警句を反転させたヴァルター・ベンヤミンの言葉。
ゴダール『こことよそ』フェダイーン(暗殺教団)
ダニエル・ユイレ、ジャン=マリー・ストローブ夫妻『シチリア!
エリオ・ヴィットリーニシチリアでの会話』 スペイン内戦
ベルルスコーニのイタリア 大きな光 小さな光(ホタル)
ジョン・バダムウォー・ゲーム
プラトン『国家』→分業 ランシエール「すべてのひとがすべてを語る」→『ボヴァリー夫人
イーストウッドインビクタス/負けざる者たち
サパティスタ 覆面「フィクションの力を信じること、フィクションの力に立脚して運動を展開すること」
マノエル・ド・オリヴェイラ『ブロンド少女は過激に美しく』フェルナンド・ペソアの詩 自然主義 理性のアポリア 啓蒙の弁証法
ペソアが革命に見出す「救済」は、革命的「知性」が社会に与えようとする新たな表象に存するのでは些かもなく、革命のただなかにあって革命的「知性」を逃れるもの、革命プロセスを貫く力の充溢、要するに”蜂起”にこそ存しているのである。」
アラン・バディウサルコジとは誰か?』フランス史を貫く2つの力
1815王政復古、第二次大戦中のヴィシー政権など、”ワールド・スタンダード”とみなされるものへの従属あるいは妥協「ペタン主義」
フランス革命、人民戦線、5月革命など、「マルクスの亡霊」「コミュニズムの理念」
「敵は資本主義と代議制民主主義とのカップルを唯一可能な社会のあり方だと喧伝し、その他のあり方を端的に不可能なものだと位置づけることで、「理念をもつことなく生きること」を我々に強いようとする。これに対し「真に生きること」としての「理念をもって生きること」とは、可能/不可能の敵によるこうした固定的な境界画定を根底から揺るがすこと、また、そうすることで見出される新たな可能性を歴史のただなかで具体的に実現していくことだ。」
「新たな可能性が示されるのは「出来事」(バディウ自身にとってはとりわけ”68年5月”)によってのこと(客観性)だが、その可能性の具体的な実現は我々一人ひとりがその実現プロセスにおのれの身を投じる「決意」をなすこと(主観性)によってしか始まらない。そうした「決意」の瞬間から、各人の行うどんなローカルな活動(たとえば商店街でのビラ配布)も直ちに、世界史全体における「仮説」の実現プロセスそのものを体現するものになるのだと。」
「年金改革をめぐるサルコジ政権/ストリートの対立は、したがってまた、理念をもつことなく生きるのか、それとも、理念をもって生きるのか、ということの直接的なぶつかり合いでもあるのだ。」
「「自由」をめぐる問題としてゴダールがexpressionではなくimpressionを強調するとき、そこでは少なくとも二つの異なる事柄が問われている。」
「第一に、引用・複製・コピーとその使用をめぐる問題、すなわち、所謂「知財」なるものの共有性をめぐる問題がある。英語同様、仏語でもimpressionには「印刷」の意がある。「印象の自由」は「印刷の自由」のことでもあるわけだ。「表現」については、誰しもが赤ちゃんのときからその自由を行使している。したがって真の問題は、他人の発するそうした様々な表現を自由に「印刷」し使うことであり、それを「正義」の振る舞いとして実践することなのだ。『Film Socialisme』の最後でゴダールが、米国製DVDなどに必ず付されているFBIによるコピーライトの警告表示画像をまさに「印刷」したかのような劣化した画質で引用しつつ、これに続けて「法に正義がないときは正義が法に先んじる」という一文を画面上に示すのは、以上のような意味でのことに他ならない。」
「インタネット上での「知財」の扱いをめぐってフランスで進められる法制化の動きに触れてゴダールは「著作者に権利などありません、あるのは義務だけです」と述べ、所謂「著作権」を認めない姿勢を改めて明確にしつつ、「印刷の自由」の実践的な行使を著作者=作家の「義務」として位置づけている。「法に先立つ正義」を実践することは作家の「義務」そのものだというわけだ。」
ヴェルナー・シュレーターフーコーの対話
「自分の存在そのものをひとつの芸術作品とする者たちと、自分が存在するなかで芸術作品を作っている者たちとのあいだに違いがあると私は思っていません。存在することはそれ自体で完璧かつ崇高なひとつの芸術作品になり得る。ギリシア人たhしにはよく知られていたこのことが、とりわけルネサンス以降、すっかり忘れられてしまったのです。」
「私は死を恐れていません。横柄に聞こえるかもしれませんが本当のことです。死を直視するときに引き起こされる感覚はアナキストのそれであり、既存の社会のあり方を脅かすものなのです。社会はテロルと恐怖をうまく利用しているわけですから。」
「死を恐れよ。この命令を発し続けることによってこそ、現代社会はおのれの秩序を維持しようとするのであり、また、人々に「存在そのものをひとつの芸術作品とする」ことを断念させようとする(たとえ「存在するなかで芸術作品を作る」ことは容認しても)」
原発「制御」「コントロール
原発は「コントロールしかできないもの(けっして解決できないもの)」
「要するに、制御という所作の連続性において原発プロセスに常態/例外の区別はなく、だからこそまた、事故は「予想できた」と言われるのであり、それどころかむしろ、通常の発電そのものがすでに事故だと言わねばならないのだ。原発事故が「起きている」のは3月11日からのことではない。」
被曝=得体のしれない解決できない問題を心身のただなかに恒常的に抱え込んでしまうこと
ジルベール・シモンドン「個」と「主体」 主体は個以上のもの(未分化の前個体的な側面)
6.11 反原発デモ 主体たちの蜂起
「歴史の時代」と「空間の時代」
ヘテロトピア=「現実の中に位置は占めているけど、あらゆる場所の外側にある異質な場所」船、墓地、バー、売春宿、刑務所、古代の庭園、見本市、イスラム教徒の浴場など
ヘテロトピアは「他なる時間」を作り出す。
「船もまたヘテロトピアに他なりません。船をもたない文明では、夢が朽ち果て、スパイ活動が冒険にとって代わり、警察が海賊たちにとって代わることになるのです。」
原発と蜂起
「準安定」「事物には、静止と運動 安定と不安定といった対比において把握される現勢的な現実とは別に、力やエネルギーから構成される潜勢的な現実がある。」
原発はどこまでいっても準安定、「制御」の状態。つまりストップはしない
使用済み核燃料でさえ、「制御」の状態
原子力発電自体が「事故」
「我々が事故のただなかで生きていたということ、我々の生きる現代社会が常態化した事故の飽くなき制御に基づいていた社会である」
「問題解決に立脚した統治形態から問題制御に立脚した統治形態への移行」
「「テロとの戦い」で目指されるのは、所与として存在する「テロリズム」の根絶すなわち解決などではまるきりなく、あくまでも「テロリズム」を問題として作り出し、それをその過剰な解決不可能性において維持すること、また、これによって、準安定から準安定への連続的な運動のもとに社会全体を包摂することである。」
「マウリツィオ・ラッザートはその刺激的な新著で同様の観点から、すなわち、問題=インセンティヴを人々に突きつけ続ける機構という観点から、ネオリベラリズムの主軸を「負債」に見出している。」
「突然のカタストロフによって日常性(労働、政治、芸術、国家、資本……)に裂け目がはしる」(『来るべき蜂起』翻訳委員会)
「裂け目」として日常を生きること=蜂起
革命の喜びは主としてそれが「起きた」ときに見出されるが、蜂起の喜びはそれが「起きている」ときに見出される。革命は喜びへのプロセスだが、蜂起はそれ自体で喜びのプロセスである。革命におけるすべての疲労は問題が解決されるときの喜びによって報われるが、蜂起においては問題を生き続けることによる疲労が喜びと一体化している。」
 
あとがき
週刊金曜日の連載
山村清二 本橋哲也 小林和子 白石嘉治 阿部晴政 佐藤公美
 
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