マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】植村邦彦『隠された奴隷制』(集英社新書 2019年)

はじめに

アリストテレス政治学
奴隷=戦争捕虜(ギリシア人以外。トラキア人、フリギュア人、シリア人)
スラヴ人」=東欧、ロシア人
10世紀 ロシアに侵入したスウェーデンヴァイキングによるヴァリャーグ王国
イスラム世界への奴隷輸出の上に築かれた一個の商業帝国」
アメリカの「黒人奴隷」(西アフリカ)
マルクス「綿工業はイングランドには児童奴隷制を持ち込んだが、それは同時に、以前は多かれ少なかれ家父長制的だった合衆国の奴隷経済を、商業的搾取制度に転化させるための原動力をも与えた。一般に、ヨーロッパにおける賃金労働者の隠された奴隷制は、新世界での文句なしの奴隷制を踏み台として必要としたのである。」

第一章 奴隷制と自由ー啓蒙思想

1.ロックと植民地経営

ジョン・ロック(1632-1704)
カロライナ植民地 憲法草案
自由人ー農奴ー黒人奴隷
ジョン・ロック 奴隷貿易にも出資
「植民による生産力の上昇とイギリスの国富の増大という偉大なる目的の前には、異民族の犠牲者の存在はロックを思想的に悩ませる種にはならなかった」
エリック・ウィリアムズ(歴史学者トリニダード・トバゴ初代大統領)『資本主義と奴隷制
最初、白人奉公人制度(イギリス本国から移送されてくる犯罪者や年季奉公人)
「後からやってきた相当数のアフリカ人奴隷は、すでに出来上がっていたシステムに組み込まれたにすぎない。(中略)黒人奴隷制のそもそもの理由は経済的なものであって、人種的なものではない。つまり関係していたのは、労働者の肌の色ではなく、労働力の安さだったのだ」
「黒人奴隷制の起源は、次の3つの言葉に集約できる。カリブの砂糖、アメリカのタバコ、そして綿花である」
 

2.モンテスキューと黒人奴隷制

アメリカの政治哲学者 スーザン・バック=モース『ヘーゲル、ハイチ、普遍的歴史』
「「啓蒙の世紀」と言われるヨーロッパの18世紀は、同時にヨーロッパ人が経営する黒人奴隷制プランテーションの最盛期でもあった。そして、「自由」の権利を主張する一方で植民地の奴隷制を「世界の所与の一部として受け入れていたという偽善的思想家の代表としてバック=モースが挙げるのが、フランスの啓蒙思想モンテスキュー(1689-1755)である。」
モンテスキューの日本天皇制論 全ての日本人が天皇の奴隷
 

3.ルソーのモンテスキュー批判

ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)『人間不平等起源論』(『法の精神』の7年後)
未開民族の文明段階=「最も幸福で最も永続的な時期」
文明化=「老衰への歩み」&「奴隷制」の始まり
「この社会と法律が弱いものには新たなくびきを、富める者には新たな力を与え、自然の自由を永久に破壊してしまい、私有と不平等の法律を永久に固定し、巧妙な簒奪をもっと取り消すことのできない権利としてしまい、若干の野心家の利益のために、以後全人類を労働と隷属と貧困に屈服させた。」
市民社会では、他人の自由を犠牲にすることなしには自由を保つことができず、市民が完全に自由でありうるためには、奴隷は極端に奴隷的でなければならぬ、というような不幸な状況がある。それがスパルタの状況であった。諸君のような近代人は奴隷を全くもたないけれども、諸君自身が奴隷なのだ。諸君は、諸君の自由を売って、奴隷の自由を買っているのだ。」
 

4.ヴォルテール奴隷制批判

ヴォルテール(フランソワ=マリー・アルエ)(1694-1778)『カンディードあるいは最善説』(1759)
スリナムの黒人奴隷 左足と右手がない 青色の半ズボン
「年に二回、こういう半ズボンが一着支給されますが、私たちが着るものはこれだけ。砂糖を作る工場で働いていて、機械に指がはさまれると、壊疽にかかって手が切り落とされます。逃げようとすると、罰として足が切り落とされます。私はその両方をやられました。ヨーロッパのかたがたは、私たちがこういう目にあうおかげで砂糖が食べられるわけです。(中略)私たち奴隷に比べれば、犬や猿やオウムのほうがはるかに幸せだ。私を改宗させたオランダの牧師は、日曜日ごとに、私たちは白人も黒人もみんなアダムの子だと言う。私は自分の血筋など、さっぱりわからないが、もしあの説教師の言うことがほんとうなら、私たちはみんな兄弟ということになります。では、どうして、兄弟なのに相手をこんなひどい目にあわせたりできるのでしょう。旦那、どう思います。こういうことがあってもいいものでしょうか。」
最善説を捨て、泣きながらスリナムの町へ入る
(砂糖)プランテーション=工場の初期形態
『百科全書』「奴隷制」の項目に対する批判
ガレー船」奴隷を捕獲するにも奴隷が必要だった
「白人」がアフリカの海岸で「ニグロ」を安く買い込んでアメリカに「高く転売する」という、大西洋の三角貿易
 

第二章 奴隷労働の経済学──アダム・スミス

1.奴隷貿易の自由化

ロック「王立アフリカ貿易商人会社」
大西洋三角貿易イングランドにおける資本蓄積の本流になった
マカライ・ポスルスウェイト 奴隷貿易の国策強化を要求
「フランスの砂糖植民地では、フランス人たちは植民地をできるかぎり急速に興隆させるために、黒人奴隷に課す苦痛をまったく考慮しないのである。」
 

2.スミスとヴォルテール

アダム・スミス(1723-1790) グラスゴウ大学 道徳哲学の教授
道徳感情論』(1759)
ヴォルテールの名前を7回挙げている 黒人奴隷制を批判
アーサー・リー(匿名)『「道徳感情論」でのアダム・スミス氏の非難に対するアメリカ大陸植民地擁護論』
西インド諸島奴隷制より全然マシ
・黒人はみな嘘をつく
アメリカの白人はみなジェントルマンで誠実
スコットランドアイルランドの農民の暮らしと比較すればはるかに幸せ
国富論』→奴隷制は経済合理的ではない
 

3.奴隷労働の費用対効果

奴隷の消耗=主人の経費負担
自由な使用人の消耗=質素倹約し、自分でメンテナンスする
→奴隷を使うよりも自由人を使ったほうが結局は安くつく

この文章でスミスが指摘しているのは、奴隷の「消耗に関わる経費負担」、つまり奴隷労働の維持管理に要するコストは、ある程度の自己管理ができる「自由な」労働者のそれよりも「高くつく」ということである。その結果として、「自由人によってなされる仕事のほうが、奴隷によってなされる仕事よりも結局は安くつく」ことになる、とスミスは主張する。
「すべての時代、すべての国民の経験は、奴隷による仕事が、一見彼らの生活資料しかかからないようでも、結局はもっとも高くつくことを示していると私は思う。財産を取得できない人は、できるだけ多く食い、できるだけ少なく労働すること以外に、利害関心をもちえない。奴隷自身の生活資料を購買するのに足りるだけの量以上の仕事は、暴力によって彼からしぼりとることしかできないのであって、彼自身の利害関心によってではない。」
「奴隷は、どれだけ働いてもその結果としての「財産を取得できない人」なので、まじめに労働することに対する「やる気=インセンティヴ」も「動機づけ=モチベーション」もない、ということである。ここでは奴隷と「自由な」労働者との比較はなされていないが、スミスが述べているところを逆に言えば、奴隷と違って「自由な」労働者は「財産を取得できる」人、あるいは、少なくとも頑張れば自分も「財産を取得できる」と思っている人なので、「できるだけ多く労働する」ことに「利害関心」をもっている、ということになる。」
1767ペンシルヴァニア植民地「奴隷の輸入を禁止する決議」 1780「奴隷制廃止法」
 

4.労働貧民としての「自由な」労働者

国富論』序文 文明社会は極端な格差を生む必然があるけど、未開社会で姥捨てや間引きををする社会よりはまし。
「そこで雇用されるのは、あくまでも「勤勉な人びと」だと名指しされている。つまり、「質素と倹約」に努めて自分自身の「消耗の修復」を自己管理し、自分の労働によって「財産を取得できる」という希望をもって一生懸命に働こうとする労働者である。」
「このような労働者と資本家の他に、この「文明社会」にはもう一つの階級が存在する。スミスによれば、「賃金と利潤と地代とは、すべての交換価値の本来の源泉であるとともに、すべての収入の3つの基本的な源泉でもある。」賃金を受け取る労働者、利潤を受け取る資本家と並んで、地代を受け取る地主(貴族やジェントルマン、都市部の家主など)がいるのである。」
>>ここで疑問。少なくとも経営者は知恵を出すのでは。そしてリスクもとるのでは。<<
労働貧民すなわち民衆の大多数の状態がもっとも幸福でもっとも快適であるのは、社会が成長過程、進歩的状態においてである。」
単純作業の繰り返し → 労働者の「知的、社会的、軍事的(肉体と精神)的な徳」が犠牲になる。
★「18世紀のヨーロッパに存在する「文明化した商業社会」。そこでは、奴隷制よりも「結局は安くつく」生産様式が広がりつつあった。「自由な」労働者は「労働貧民」として社会を支えているのだが、彼らが「楽しく心あたたまる」生活を送ることができるのは、経済成長が継続する「進歩的状態」に限ってのことだった。前節で見たように、スミスが主張した<奴隷制の経済学>は、たしかにイギリス人による奴隷貿易の廃止やイギリス領植民地における奴隷制の廃止に一定の影響力を及ぼした。しかし、それは「自由な」労働者が「労働貧民」として生きるほかない社会を「文明社会」として肯定し追認する経済学でもあったのである。」
 

第三章 奴隷制と正義奴隷制と正義──ヘーゲル

1.ヘーゲルとハイチ

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)『精神現象学』「主人と奴隷の弁証法
自己意識をもつと戦いになる 勝ったもの→「主人」 負けたもの→「奴隷」になる
しかし奴隷は労働に寄って、自主・自立性を獲得する
逆に奴隷に「依存=従属」するしかない主人が奴隷になる
哲学→世界史へのコメント 同時代性
 

2.自己解放の絶対的権利

へーゲル 人間は本質的に「自由」な存在 なぜなら人の<人格そのもの>は自分以外誰にも所有できないから。
奴隷制 → 人倫的な問題
『法の哲学』「自由な精神が自由な精神であるのは、単なる概念、いい換えれば即自的なものとして自由なのではなく、この自己自身の形式主義、つまり直接的な自然的な現存在を廃棄して、自己にもっぱらそれ固有の現存在、つまり自由な現存在としての現存在を与えるところに成り立つのである。」
一言で言い換えれば、「自由」は自ら勝ち取るものだ、ということ。
奴隷制はそれ自体で不法だという場合、人はほとんど何も言っていないのに等しい。人間は即自的に自由でなければならないだけでなく、対自的にも自由でなければならない。人間が彼自身にとって自由でないならば、彼が即自的に自由であることだけでは不十分である。
「人間が奴隷にされるという現実は存在する。それは「不正」であり「不法」である。自らを奴隷とするような契約も無効である。しかし、その現実を変えるのは、奴隷自身でなければならない。奴隷は、自らがもつ「絶対的な権利」を実際に行使しなければならないのである。それが、ヘーゲル奴隷解放論だった。」
 

3.奴隷解放への期待と幻滅

奴隷の絶対的な「逃走の権利」「解放の権利」
ハイチ革命 5万人の奴隷が合流 2ヶ月で 殺された白人1000人以上 放火された砂糖プランテーション161 コーヒープランテーション1200
1820年代のハイチでは、人口約80万人に対して、常備軍は約3万2000人、臨時徴募の国防軍が4万人にも達したが、軍隊は、ハイチの男性が土地を手に入れたり政治に参画する主要なルートにもなった」という。そのような軍事的独裁体制の下で、農民は農業生産の増進という名目で「奴隷制の再導入にも等しい」形で土地に縛りつけられた。」
ヘーゲル ハイチ革命への期待が大きかった分、幻滅。
 

4.労働者階級の貧困と「不正」

「そこで問題となったのは労働の搾取ではなく、その労働に自発的に服従させるためのフィクションを維持することであった。「炭鉱および製塩所に生活を拘束されていた」イングランドスコットランドの労働者が起こした訴訟において、裁判所は「産業奴隷を人権の侵害として非難しなかった」。というのも、、「労働者はたとえ実際上永続的な従属状態にとどまろうとも、わずかな賃金であれ承諾したのであれば自由人と定義されうる」からである。自由労働というイデオロギーは、(中略)イギリスの労働者階級にとっては敗北であった。」
「要するに、奴隷制廃止論が結果として生み出したのは、労働者が「わずかな賃金」と引き替えに承諾した「産業奴隷」状態を「自由な労働」という名目で正当化する、資本家側のイデオロギーだった、ということである。」
「たとえ労働の実態は奴隷と変わりないとしても、その労働が一定の時間内のもので、しかも、労働者自身が自分の意志でそれを「承諾」したのであれば、その労働者は「自由」だ、ということになる。労働時間が「無制限」でさえなければいいのである。」
「「私的所有」を人間の自由の必然的結果として肯定する立場から、ヘーゲルは労働者階級の側から提起される可能性のある「平等の要求」を、あらかじめ却下する。自由主義者ヘーゲルにとって「私的所有の自由」こそ、最優先されるべき「理性的なもの」であった。その「私的所有」を批判して、改めて「平等の要求を対置する」ことになるのが、マルクスである。その中で、「奴隷制」という言葉の意味するものも変化していくことになる。」
 

第四章 隠された奴隷制──マルクス

1.直接的奴隷制と間接的奴隷制

カール・マルクス(1818-1883)
自分自身が「奴隷」であることに気づいていない「奴隷」。主観的には自分は「最大の自由」と「個人の完全な独立性」を享受していると思っている「奴隷」。それが、ここ(『聖家族――批判的批判の批判』)でマルクスの言う「市民社会奴隷制」である。
ピエール・ジョゼフ・プルードンの大著『経済的諸矛盾の体系―貧困の哲学』(1846)
第1段階「分業」2「機械」4「独占」8「所有」10「人口」
ジョン・フランシス・ブレイ(1809-1897)『労働の苦難と労働の救済――力の時代と正義の時代』(1839)
 

2.ブレイとマルクス

「圧政は世界中どこでも同じものであり、それはすべて同じ源泉から生じている――社会の諸階級および諸カーストへの分割である。今やアメリカ合衆国でもグレートブリテンでもフランスでもそうであって、そこでは社会全体のうちの一つか二つの階級が、労働階級の苦労と欠乏によって創り出された富を、気づかれることなく、絶え間なく、無慈悲に、自分自身の資産の中に飲み込むことができるようになっているのである。/これこそが、救済策を必要とする最大の害悪である。」
「隠し立てのない黒人奴隷制」と「隠された白人奴隷制
「労働者たちは、これまで資本家に半年の労働の価値と引き替えに丸1年の労働を与えてきたのであって、それだからこそ、今われわれの周囲に存在するような富と力の不平等が発生したのである。どこまでも資本家は資本家、労働者は労働者であり、一方は圧制者の階級、他方は奴隷の階級であるということは、交換の不平等の――ある価格での買いと別の価格での売りとの――不可避的な結果なのである。」
「人間はこれまでずっと人間の所有物だった。政府が変わるだけでは、もしそれが現在の社会システムに接ぎ木されるのならば、人間が別のものになることを許さないだろう。われわれはずっと前に奴隷制という名前とお仕着せを投げ捨てたにもかかわらず、労働階級はなおも古い時代の彼らの祖先に劣らず所有されている。他人が怠けている間に彼らは苦労する――彼らが生産して他人が消費する――一つの階級が命令して他の階級は従う――したがって生産者は依然として言葉の本当の意味において奴隷なのである。」

3.マルクスアメリ南北戦争

まずは「直接的奴隷制」の廃止 次に「間接的奴隷制」の番
第一歩が長時間労働の拒否(1日8時間)

4.強制労働と「自由な自己決定」

イギリス綿工業の「女性・児童奴隷制
マンチェスターの初期の工場を植民地システムの延長として理解するのは間違いではない。植民地のシステムが、今度は母国を侵略するのである
「「自由な労働者」という言説が隠しているものとは、労働の諸条件も労働生産物も、それだけではなく「労働そのもの」(労働の意味や喜び)までもが労働者から奪われているという所有剥奪の状態であり、労働者が「直接的奴隷制」とは異なる形式で労働を「強制」されているという状態なのである。」
マルクスがここで新たに付け加えた認識は、ヨーロッパの労働者たち自身がそのような「強制労働」の意味に気づいていない、ということだった。だから、それに気づくこと、自らの置かれた状態を「不正」だと見抜くこと、それ自体が「並外れた意識」なのであり、そのような自覚を獲得することこそが決定的だ、というのである。」
「社会的立場から見れば、労働者階級は、直接的労働過程の外でも、生命のない労働用具と同じに資本の付属物である。労働者階級の個人的消費でさえも、ある限界のなかでは、ただ資本の再生産過程の一契機でしかない。しかし、この過程は、このような自己意識のある生産用具が逃げてしまわないようにするために、彼らの生産物を絶えず一方の極の彼らから反対極の資本へと遠ざける。個人的消費は、一方では彼ら自身の維持と再生産が行われるようにし、他方では、生活手段をなくしてしまうことによって、彼らが絶えずくり返し労働市場に現れるようにする。ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている。賃金労働者の独立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持されるのである。」
奴隷制を「不正」だと意識すること、それは同時に、「自由な労働者」自身の意識を「取引の公正」という思想の内部に取り込むことでもあった。
マルクス、労働者を資本主義社会の「常識」から解き放つ挑発的な言葉 → 「賃金制度の廃止」

5.「いわゆる本源的蓄積」論の意味

文化人類学が指摘するように、ものごとの実際の歴史的「起源」を隠蔽して別の「物語」を提示するのが「神話」
「本源的蓄積が経済学で演ずる役割は、現在が神学で演ずる役割とだいたい同じ」
スミス=禁欲的で節約家の独立生産者が「蓄え」を「蓄積」
マルクス奴隷貿易
「資本は頭から爪先まで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれてくるのである。」
マルクス、スミスやヘーゲルの「自由な労働」という「神話」を批判。

第五章 新しいヴェール──新自由主義

1.新自由主義反革命

マルクスから150年、現実はむしろ退行している。
自分自身の労働力=「人的資本」
資本なら働かなくても利潤や利子を生み出すはずなのに。
デヴィッド・ハーヴェイ
社会主義」「福祉国家」→その撤回 →新自由主義 
サッチャーレーガン・中曽根
私的所有、自由市場、自由貿易至上主義
キーワードは「官民パートナーシップ」「ガヴァナンス」
「略奪の強化」
ケインズ主義的福祉国家」→「財政再建(緊縮財政)」「構造改革」→「新自由主義
これまでの労働運動を通じて獲得してきた、年金、教育、医療などの社会保障制度の縮小

2.「自立」と「自己責任」

1979年8月『新経済社会七ヵ年計画』大平正芳首相
「個人の自立心」や「自助努力」、それに対応する「個人の責任」といったキーワードが、奴隷制を覆い隠す「新しいヴェール」として使われはじめる。
1997年3月 経済同友会「こうして日本を変える――日本経済の仕組みを変える具体策」
「企業の自由な経済活動」の確保。「保護された個人」からは保護を剥ぎ取り、規制によって「自由な経済活動」を阻害されてきた企業に対しては規制を緩和し、あるいは撤廃すること。
またもや「自己責任」である。「個人の権利の主張」は否定的に捉え直され、「自己責任原則に基づく自由競争社会」が強調される。労働者は、これからは国家が提供する社会福祉にも、企業の福利厚生にも頼ることなく、さらには労働組合のような連帯組織にも頼ることなく、「自立」して「自助努力」を行い、その結果に対して「自己責任」を負いながら、労働市場において他の労働者との苛酷なイス取りゲームに加わらなければならない。それが、経済同友会が「イメージ」として描く「市民社会」なのである。
「自立支援」

3.「人的資本」

ゲーリー・スタンリー・ベッカー(1930-2014)『人的資本――教育を中心とした理論的・経験的分析』(1964)
「人的資本」「自分に投資する」ミルトン・フリードマン シカゴ学派
サミュエル・ボウルズ&ハーバート・ギンタス「人的資本論の問題――マルクス派からの批判」(1975)
階級問題を消し去っている
「すべての労働者は、人的資本論者の大好きな見方によれば、今では資本家なのだ。」
「それ[人的資本論]が提供するのは、一言で言えば、現状を守るのに都合のいいイデオロギーである。しかしそれは、資本主義経済への道の理解にも役に立たない、貧弱な学問なのである。」
ボウルズ&ギンタス『アメリカ資本主義と学校教育――教育改革と経済制度の矛盾』(1976)(宇沢弘文訳)
★「学校は、成績評価や職業的なヒエラルキーへの配分に用いられる一見能力主義的とみえる方法によって、合法的な不平等を助長することになる。社会階級や人種、性にもとづく差別のパターンを学生に強く植えつけることにより、卒業後生産プロセスのなかでの権威と地位のヒエラルキーのどこに位置づけられるのが「ふさわしい」かを教えこむ。学校で経済分野の支配と従属の関係に適った人格的発達の類型を育成し、結局、経営者が労働者支配の最上の武器――雇い入れ、解雇することのできる権力――を効果的に発揮できるのに十分なだけの熟練労働者の余剰を生みだす。」
「高校で規則が重視されるのは、低いレベルの労働者に対してきびしい監督がおこなわれていることの反映であり、エリート大学では行動規範が内面化され、日常的な監督から自由であるのは、上位レベルにあるホワイトカラーの社会的労働関係を反映したものである。州立大学やコミュニティ・カレッジは大部分その中間にあって、下位レベルの技術的サービス、管理的な職員に要請される行動様式に合わせられている。」
能力主義を指向する教育制度で促進されるのは平等化機能ではなく、[資本主義社会への]統合機能である。特権を合理化し、貧困を個人の失敗のせいにすることにより、教育は不平等を再生産している。」
「つまり、学歴の違いは、「人的資本」論が主張するように「収益率」の違いをもたらすだけのものではなく、不平等な社会的序列の中での位置づけを、つまり「差別のパターン」を内面化させることによって、「貧困を個人の失敗のせいにする」意識そのものを生み出すのである。まさに「自己責任論」が「内面化された規範」となって、意識の中で再生産される。」
「私が知るかぎりでは、人的資本論が、たとえば1960年代にゲーリー・ベッカーの手で復活させられたが、その核心は、資本と労働の階級関係の意識を葬り去ることにあり、あたかもわれわれのすべてが資本家であり、それぞれ異なる自己資本利益率(人的資本の利益率ないしその他の資本の利益率)でお金を得るかのように思わせることにあった。もし労働者がきわめて低い賃金しか得られないのであれば、次のように主張できるだろう。この低賃金はただ、その労働者が自分の人的資本を鍛えるのを怠ったという事実の反映にすぎない、と!要するに、給料が安いのであれば、それは自己責任なのである。驚くまでもないことだが、さまざまな大学の経済学部から世界銀行IMFにまでわたる、すべての資本の主要機関がこの理論的虚構を心から信奉してきたが、それはイデオロギー的理由からであって、健全な知的理由からではないのは間違いない。」
「要するに、一言でいえば、「人的資本」論とは「自己責任論」の前提条件を説明するイデオロギーだったのである。」

4.「自己啓発

「人的資本」論を自分自身のこととして内面化して自分に「投資」しようとするのが「自己啓発
1995年 日本経営者団体連盟(日経連)『新時代の「日本的経営」――挑戦すべき方向とその具体策』
「今後の雇用形態は、長期継続雇用という考え方に立って企業としても働いてほしい、従業員も働きたいという長期蓄積能力活用型グループ、必ずしも長期雇用を前提としない高度専門能力活用型グループ、働く意識が多様化している雇用柔軟型グループに動いていくものと思われる。つまり企業と働く人のニーズがマッチしたところで雇用関係が成立する。」
「雇用柔軟型グループ」=派遣労働
自己啓発」「自助努力」=リストラに備える為
かつてはOJT(ジョブトレーニング)今では労働時間外に「自己啓発」で「知識・スキル」を習得する

5.「強制された自発性」

この「強制された自発性」が引き起こす最悪の問題が「過労死」である。
2001年12月オリックス株式会社厚木支店 女性総合職(26歳)過労自殺
「朝早くから夜遅くまで会社にいて、行動を管理され周囲から厳しいことが言われる状況の中で、それに対して「自分」がなくなってしまいました。/自分がどんな人間で何を考え、何を表現すればよいのかが分かりません。/もう少し強い自分でありたかったです。」
2006年6月小学校女性教員(23歳)
「無責任な私をお許し下さい。全て私の無能さが原因です。家族のみんなごめんなさい。」
「所定の労働時間内には終わらせることができないほどの仕事量(生産高や契約高)や納期の厳守を「目標」として課せられ、労働時間の規制もほとんどなく、睡眠時間も削って長時間の持ち帰り残業やサービス残業をせざるをえない状況に追い込まれながら、それは「自発的行為」と見なされて、その結果は「自己責任」だとされる。それが、現代日本における「強制された自発性」である。なんという倒錯した世界だろうか。」
「日本の労働者はこれまでのところ、『会社の仕事のため』ということと『自分の生活のため』ということとをひっきょう峻別できない人びとであった。」

第六章 奴隷制から逃れるために

1.資本主義と奴隷制──ポメランツ

アメリカの経済史家ケネス・ポメランツ『大分岐――中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』(2000)
「この救援は、たんに新世界の自然の恵みにその基盤があっただけではなく、奴隷貿易やその他のヨーロッパの植民地システムの諸特徴が、新しいある種のの周辺を創り出したという事実に基づいているのである。こうした周辺の創出によって、ヨーロッパには、恒常的に増加しつづける大量の労働集約的な生産物と、これも恒常的に増加しつづける大量の輸出工業品との交換が可能になった。/工業化初期の前後から、この補完性の核心部分は、奴隷制によってもたらされた。奴隷は、親世界のプランテーションによって海外から購買されたが、自らの生存に必要なものは、しばしばほんのわずかしか生産しなかった。したがって、奴隷制の地域は、たとえば東ヨーロッパや東南アジアよりも、はるかに多くのものを輸入した。」
「中核」と「周辺」
「もう一度繰り返しておこう。奴隷制がなければ、資本主義はなかった。近代資本主義世界システムが成立するためには、奴隷制プランテーションは不可欠だった。そして今もなお、「自由な労働者」というヴェールに覆われた「隠された奴隷制」がなければ、資本主義は成り立たない。それが、私たちがこれまで生きてきた世界、世界史的現在なのである。」

2.マルーンとゾミア──スコット

アメリカの人類学者 ジェームズ・C・スコット『統治されないという技術――東南アジア高地の無政府的な歴史』(邦題『ゾミア――脱国家の世界史』)(2009)
ゾミア=東南アジア山塊上の250万平方キロメートル以上にわたって広がり、そこには1億人近いマージナルな人々が暮らす。
「北米のアパラチア山脈の国際越境版」
マルーン(西インド諸島、中央アメリカ、南アメリカ、北アメリカの逃亡奴隷)共同体
「野蛮人」は、たんに未発展段階に残された人々ではなく、自立の維持という点から居住地、生業活動、社会構造を積極的に選択してきた政治的主体であると考えれば、従来の社会発展的文明史観は完全に崩壊する。
「不服従」「脱出」

3.負債と奴隷制──グレーバー

デヴィッド・グレーバー『負債論 貨幣と暴力の5000年』(2011)
「物々交換を発見した者はどこにもいない」
「貨幣が尺度にすぎないなら、それはなにを測定するのか?答えは単純だ。負債である。一枚の硬貨とは実質的に借用証書(IOU)なのである。」
デンマークの探検家であり人類学者でもあるピーター・フロイヘンがグリーンランドの狩猟民族イヌイットの社会で経験したエピソードを紹介している。
「ある日、セイウチ猟がうまくいかず腹を空かせて帰ってきたとき、猟に成功した狩人の一人が数百ポンドの肉をもって来てくれたことについて、フロイヘンは語っている。彼はいくども礼を述べたのだが、その男は憤然として抗議した。/その狩人はいった。「この国では、われわれは人間である」。「そして人間だから、われわれは助け合うのだ。それに対して礼をいわれるのは好まない。今日わたしがうるものを、明日はあなたがうるかもしれない。この地でわれわれがよくいうのは、贈与は奴隷をつくり、鞭が犬をつくる、ということだ」。」
このような「平等主義的な狩猟社会」は、幸いなことにまだそのいくつかが地球上に存在していて、それが人類学者の考察対象となっている。しかし、それ以外の圧倒的に多数の社会は、贈与に対してお礼を言い合い、お互いに負い目を感じ、負債を負い、そして負債を返す人間たちの社会となった。つまり、奴隷をつくる社会である。そしてそれが、いわゆる「文明社会」なのである。
「人間間の等価性の設定」に基づく交換を貫く論理が、奴隷を生み出すことになる。なぜなら、奴隷とはモノのように売り買いされる人間のことだからである。しかし、もっと重要なのは、なぜ人間を売り買いすることができるようになるのか、というその思想的根拠を問うことである。ここでもやはり「文脈」からの切り離しが決定的な契機となる。
「人間経済において、なにかを売ることができるようにするには、まずそれを文脈から切り離す必要があるのだ。奴隷とはまさしくこれである。すなわち、奴隷とはじぶんたちを育てあげた共同体から剥奪された人びとのことである。」
「文脈から切り離された人間。家族からも共同体からも切り離されて、故郷とは別の場所で、別の共同体の中に放り込まれながら、その中の誰とも関係のない「よそ者」として取り扱われる人間。それが「奴隷」である。そのような存在だからこそ、奴隷を獲得した側の共同体の成員からすれば、その人間をモノのように売り買いし、場合によっては傷つけたり殺したりすることさえもできたのである。」
「自身に主人と奴隷の役割を同時に割り当てる」「所有者であると同時に所有される事物でもある」
★グレーバーが指摘しているのは、「自由な」賃金労働者とは、主人であると同時に奴隷でもある人間、自分自身が主人と奴隷に二重化してしまった人間だ、ということである。主人としての私は、奴隷の所有者として、私の所有する奴隷を資本家に売り渡す。資本家に売り渡された労働力としての私は、まさに奴隷として、資本家の指揮命令のもとで労働に従事する。契約を交わすのは主人だが、働くのは奴隷である。自分自身のモノだと見なすことによって成立するこのような倒錯した論理が、資本主義的生産様式を支えているのである。グレーバーに言わせれば、これこそが「資本主義の秘められたスキャンダル」だった。
「実のところ、「コミュニズム」は、魔術的ユートピアのようなものではないし、生産手段の所有ともなんの関係もない。それは、いま現在のうちに存在しているなにかであり、程度の差こそあれあらゆる人間社会に存在するものなのだ。ただしこれまでに、あらゆるものごとがそのような[コミュニズム的]やりかたで組織されたことはないし、どのようにしてそれが可能なのかも想像することはむずかしい。しかし、わたしたちはみな、かなり多くの時間をコミュニストのようにふるまってすごしている。とはいえ、一貫してコミュニストのようにのみふるまう者はいない。この単一の原理によって組織されたひとつの社会という意味での「コミュニズム社会」が存在することは、決してありえない。だが、あらゆる社会システムは、資本主義のような経済システムさえ、現に存在するコミュニズムの基盤のうえに築かれているのだ。」
「要するに、グレーバーの言う「コミュニズム」とは、複数の人間が協働するときに作用している原理のことである。彼の挙げている例でいえば、水道を修理している誰かが「スパナを取ってくれないか」と依頼するとき、その同僚が「その代わりに何をくれる?」などと応答することはない。つまり、贈与や負債、交換や奴隷制の対極に位置する人間関係の原理こそ「コミュニズム」なのである。」
基盤的コミュニズム」=もうひとつのスキャンダル

4.資本主義の終焉を生きる

1980年代に始まった新自由主義反革命は、反革命に成功したがゆえに、この「資本主義的生産様式の矛盾」(労働者の搾取に依存しているため、常に「過剰生産」に陥る)を激化させることになった。
グレーバーによれば、新自由主義のもとでの「新しい分配体制」においては、「すべての労働者が自由な賃労働者であることさえ、実現の見込みは薄いようにみえてきた」。つまり、普通の労働者に「家や駐車場をもち子どもたちを大学に入れるような生活を与えること」が、もはや不可能になった、ということである。それをグレーバーは「包摂の危機」と呼んでいる。
ウォーラーステイン『資本主義に未来はあるか?』(2013)
「要するに、私たちが生きている近代世界システムは、公正さからあまりに遠ざかってしまったので、存在し続けることができず、もはや資本家が資本を際限なく蓄積することを許さないのである。下層階級も。もはや歴史が自分たちに味方して、自分の子どもたちが必然的に世界を相続することになるとは信じていない。その結果、私たちは後継システムをめぐる争いという構造的危機の中に生きている。その結果は見通せないが、今後数十年のうちに勝負の決着が付き、かなり安定した新しい世界システム(あるいは世界システム群)が確立されると確信していいだろう。私たちにできることは、歴史的選択肢を分析し、好ましい結果について道徳的選択を行い、そこにいたるための最善の政治的戦術を評価することである。」
ヴォルフガング・シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』(2016)
資本主義の発展が「これまで資本主義そのものに制限を加えて安定させてきた装置のすべてを破壊してしまった。」
「現在の資本主義システムは、すくなくとも5つの症状――低迷する経済成長、オリガーキー[少数者独裁制]、公共領域の窮乏化[社会福祉予算の削減と民営化]、腐敗[巨大企業の違法・脱泡行為]、そして国際的な無秩序化――に苦しめられており、それらの症状を治療する手立ては見つからない。資本主義の最近までの歴史をふりかえれば、これから資本主義は長期にわたって苦しみながら朽ちていく、ということが予測される。今後、ますます衝突と不安定化、不確実化が広がり、「正常なアクシデント」(スリーマイル事故の用語)が着実に繰り返されていくだろう。そこからかならずしも1930年代に匹敵する大崩壊が起こるとはかぎらないが、そうなる可能性はきわめて高いだろう。」
資本主義崩壊後の「社会的混乱と無秩序」を生き抜くための「自己啓発」と「人的資本の育成」。自分自身のサバイバルのための新自由主義的競争社会。これはほとんどディストピアもののSFが好んで描くような悪夢の世界だ。
工藤律子 カタルーニャ
ポール・メイソン『ポストキャピタリズム
モンドラゴン協同組合

終章 私たちには自らを解放する絶対的な権利がある

ブラック企業
朱野帰子『わたし、定時で帰ります。』
会社を辞める 「日常的コミュニズム」に依拠して生きる その先に何を目指したらいいのか
奴隷でなくなること
マルクス「労働日の短縮こそがその(自由の国)土台である」
「自由の国」そのものはユートピアかもしれない。あるいは、はるか遠い未来にしか訪れないものかもしれない。私たちは食べ、飲み、着て、眠り、また起きて、生きている。人と出会い、人と語らい、家族を作り、子どもを育てて、暮らしている。そのような生活を続けていくためには、私たちはどのような形であれ、働かなければならない。
しかし、一日の労働時間を短縮すること、これはユートピアではない。自分たちが暮らしていくために必要な時間を超えて長い時間働くことをやめる。やめさせる。一日の労働時間をたとえ1時間でも短縮するために、そして自分の「自由な時間」を少しでも長く確保するために、自分にできることをする。それが、私たちが奴隷でなくなるための第一歩なのである。

あとがき

プリズナーNo.6
社会心理学者 小坂井敏晶 
「人間社会は二種類の最終原因を捏造した。一つは〈外部〉に投影される神や天である。人間の生は摂理に従う。神が主体であり、その意志が人間の運命を定める。こういう物語である。そして近代が創出した、もう一つの最終原因が自由意志だ。神を殺し、〈外部〉に最終原因を見失った近代は、自由意志と称する別の主体を〈内部〉に捏造する。これが自己責任という呪文の正体である。」
自由意志=幻想
3/27 読了