マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

TVOD『ポスト・サブカル焼け跡派』(百万年書房)

ポスト・サブカル焼け跡派

ポスト・サブカル焼け跡派

  • 作者:TVOD
  • 発売日: 2020/01/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

プロローグ コメカ(TVOD)

・TVOD(コメカ&パンス 1984年生まれ男性2人)
・焼け跡
・どれだけ過去を懐かしんでも、あの時代はもう帰ってこない。消費社会に引きこもり、サブカル消費に耽っていられる状況には戻れない。この国はもう「ナンバーワン」じゃない。その中で延々と戯れていられるような、欺瞞的な「平和」は、「戦後」は、もはやこの国には無い。だが、だからと言って首相が語る「美しい国」の夢の中に取り込まれるのは癪じゃないか。そんなつまらない夢に騙されるほど、僕らは「消費者」としてもヤワじゃなかったはずだ。伊達に何十年もサブカルチャーを消費し続けてきたわけじゃない。
サブカルの「後」の時代

第1章 カウンターからサブカルチャーへ(1973-1978)

矢沢永吉 アメリカ化された「天然」の天才

・1969「新宿西口フォーク集会」
山崎眞行「クリームソーダ」「怪人二十面相
・「ヨコスカ・マンボ」族
・無自覚かつ無意識に50年代的な記号をサンプリングする 消費社会的な感覚をそのままに体現
・「暴走族」
・70年代の『ワンダーランド』~『宝島』というのは、60年代的なカウンターカルチャーと80年代的なカウンターカルチャーの繋ぎの役割を果たしていた。対抗文化的なものを消費社会的なカタログ文化の中に落とし込んでいくプロセス

沢田研二 ポップな記号に成りきること

タモリ 記号化 キャラクター化
橋本治80年安保」『ぼくたちの近代史』

坂本龍一 消費されるイデオロギー

・「YMO環境」
マンドレイクがP-モデルに変わるとか、紅蜥蜴がリザードに変わるとか、70年代カルチャーにあった重たさを、記号的なイメージを持ち出して軽くする。68年的なものの残滓・政治性や地下(アングラ)性をここで完全に切断したい、という動き。そのための手段としての、記号化・ポップ化。= D&Gの「脱領土化」「脱コード化」
・『ゲンロン4』浅田彰インタビュー レーニンを引用して「曲がった棒を元に戻すには逆方向に倍くらい曲げないといけないから」
・日本の学生運動には、自分自身の内なる「大日本帝国」をどう解釈するかという命題があったと思ってる。それを徹底すると、自らの「加害者性」と無限に向き合わなければいけない→帝国主義の中にいる市民自体に問題があり、ならば爆破するしかない――という隘路に入っちゃったのが、70年代半ばのテロリズムでもあった。ただしそれはカルト化とも言えるわけで、そこで「積極的な忘却」をするための動きが、80年代前後から生まれた。
・「一番のゲームマスター糸井重里

第2章 消費社会空間の完成、ジャパン・アズ・ナンバーワン(1979-1988)

ビートたけし 消費社会で勝ち抜くこと

・「いかに死ぬか」若い頃から死を意識していた
・悪意や露悪性を記号=キャラクター化
・81年「オールナイトニッポン」開始 青山正明『突然変異』

戸川純 女たちのサブカルチャー

矢野顕子戸川純 矢野 母性的・宗教的な救済
松田聖子戸川純
・『東京ガールズブラボー』 浅田彰X岡崎京子対談「(戸川の)ファンのなかにはほんとに危ないところにいた子がいっぱいいた。」
大槻ケンヂ80年代にはみんなビョーキぶりっこしてたけど、90年代になったら本当に病気になってしまった
・「ボンクラ」と「こじらせ」
・「ナゴムギャル」

江戸アケミ バブル・ニッポンにおける「もがき」

・寿町フリーコンサート
藤田省三「安楽への全体主義
・「同時代のサブカルチャーの人たちと異なっているのは、そこにアイロニーが存在しないってことじゃないかな。はぐらかしたり解体することで解放する、のではなく、ダンス・ミュージックという形式でど真ん中からぶつかっていった感じ」「もっと切迫している
・「仲間をつくれ!仲間をつくるんだ!JAGATARAなんてせこいバンドだ!おまえらはおまえらの仲間をつくれ!JAGATARAなんて見に来なくていい!おまえらはおまえらの仲間をつくれ!」
・「青空ディスコ!」
・「ヨコノリ」「ワールドミュージック

第3章 リアルと無意識(1989-1998)

フリッパーズ・ギター 「本当は何か本当があるはず」

・下北沢ZOO/SLITS 『大人は判ってくれない』『蝿の王』の雰囲気
・「ただ「冷笑系」と彼ら(フリッパーズスチャダラパー電気グルーヴ)がある一点で違うのは、彼らは「成長」の不可能性への屈託や苛立ちと共にそういう態度をとっていた。ビルドゥングス・ロマンへの憧れと諦めがない交ぜになっている。80年代に資本主義社会そのものを相手取って抵抗しようとした江戸アケミのような人とは違って、彼らはあくまで資本主義社会の内部で、ビルドゥングス・ロマンの不成立への苛立ちを表現にぶつけていた人たちだった。自己保身のためだけに「どっちもどっち」みたいな相対主義的態度をとる昨今の「冷笑系」的な振る舞いの中には、そういう苛立ちや青臭さみたいなものは無い
・イギリスKLF「著作権解放戦線」
相対主義の果てに自爆する
・当時は80年代以降の相対主義的態度が持続しつつ、それじゃダメなんだ、という批判と、本質(的な何か)への志向が存在していた。J-POPだと、大事manブラザーズバンド「それが大事」のヒットに見られるような「頑張れソング的」保守回帰も進行していたし、新宗教への帰依や、自己啓発セミナーの勃興など
相対主義的な態度をとっていると、イデオロギーに絡めとられることから身を守ることはできるけれど、同時に、生きるための「熱量」を失ってしまうことにも繋がりかねない
意味から逃れて快楽へ 幼児化 幼稚化
オタク文化のカジュアル化
・『動物化するポストモダン』の直中

電気グルーヴ 諧謔・暴力・快楽

・1991「オールナイトニッポン」たけしと10年違い
・『俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ 』80年代サブカル的センスをよりバッドテイスト化
・「ビックリハウス」をアシッド化した架空の読者投稿ページ
・「Billy」根本敬岡崎京子天久聖一
・イギリス クリミナル・ジャスティス・ビル? レイブ禁止法案
政治を忘れて、記号ゲームに没頭する、みたいな80年代的な態度の行きつく果てが、結局はココロの問題に辿り着いちゃって、その突破口も快楽主義的な「無意識」への没頭になってしまう。
・新人類~90年代サブカル的な流れはこのあたりで臨界点を迎えるというか、これ以降力を失っていって、入れ替わるようにオタク的な文化が前景化してくる。
・究極の妄想というか、脱政治的な傾向がエクストリームな形になって結実したのが当時の砂原の世界
常盤響
・1997酒鬼薔薇事件、山一証券破綻
・「カウンター」たること、オルタナティブな「虚構」を立ち上げること、そういうやり方で対抗しようとした現実が崩れていったことで、90年代の頃のように創作に対する緊張感を保てなくなった
・「ネタがベタになった」
・かつてのセンス・エリート対立、スタイル・ウォーズ
・2010年代に入ってからは、政治や社会問題の水準での「戦い」が、良くも悪くも復活してきている。で、電気はその水準には頑なにコミットしないスタンスを続けていて、それはそれで一貫しているわけだ。80年代という時代に育てられた人たちの、ある種の着地点としてそういうスタンスがあるんだろうなと僕は思っている

X JAPAN 90年代最強の記号

・ジョックvsナード インセル問題
・「エクスタシーレコード
LUNA SEAは本当に前出したメタル、ハードコア、ポジパンの要素がごった煮になっていて、それを歌謡曲構造でまとめ上げた音楽性
BOØWY
・少女漫画の影響 楠本まき『KISSxxxx』 耽美的
黒夢 清春 ビリー・アイドル
・少女文化の一種

第4章 ネオリベセカイ系、右傾化(1999-2010)

椎名林檎 自意識と生存戦略

・「なんとなくオルタナっぽい」「新宿系」
aikoとの差別化
・実は戸川純と音楽的な接点はほぼ無い
・同時期に鳥肌実
・「和モノ」
・「右傾化」ではない。思想がない。
・歴史がフラットになった状況
・70~80年代まではあった「屈託」がついに無くなった。
・「解放されたいがために歴史を切断した場所を選択した」というわけではない、「あらかじめ歴史から切断された場所に生まれ落ち、生き始めた」世代の登場。
・情念的なものやラディカルな雰囲気も記号、道具として使う セルフプロデュースの才能
・普通の人 環境へのある種の過剰適応 上手くやる 期待に応える
・「ただ、そうして辿り着いた現在において、ワールドカップだったりオリンピックだったり、国民的イベントに重用されるようになった彼女の振る舞い方って、かつては雰囲気で和風ヴィジュアルや日本的記号をオモチャにして遊んでいたのが、本当に国家と接続される機会を与えられて本人もそのことについてきちんと咀嚼し切れてない感じ。ジョークが本当になっちゃったというか。ゼロ年代って言うのはそういう風に、反語やアイロニーがどんどん不成立になって、身も蓋も無く世界が「順接化」していく時代だった」

KREVA コミュニタリアンネオリベラリズムの狭間で

・事務所ファンキーグラマーユニット
・kick、リップスライム 先行世代に比べてナード感とかルサンチマンを感じさせない
・小泉 自己責任論 痛みを伴う改革
・「アグレッシ部」当時サブカルチャーの領域で流行していたセカイ系的な母体回帰幻想ではなくて、リバタリアン的な能動性=アグレッシブさが志向されている。当時のITベンチャー系のビジネスマンたちとも世界観がかなり近い
・対照的なECD。「『上がってんの?下がってんの?』下がってちゃ悪いんか?」
・2001年、森喜朗が支持率を落とし続けるなか出てきた小泉純一郎に対して、国民的な熱狂が巻き起こる。その一方で、ネグリ/ハート『帝国』が翻訳され、反グローバリゼーション的な思想が紹介されるような状況もあった。
KREVAのハイパーアクティブなキャラクターが持つ「強さ」に惹かれた人がとても多かったのはゼロ年代のひとつの側面を象徴している。新自由主義が全面化していく世界の中では、自己啓発的に自分をエンパワメントしないと鬱になってしまうという恐怖心
セカイ系的な言葉は、そういう類の「弱者」たちの言葉になっていた。ゼロ年代において、マイルドヤンキー的な地方の社会からも疎外されるオタクたちが、オタク文化の中でそういう言葉を小説やマンガ、アニメ等の領域で、繰り返し語り、表現し、消費してきた

バンプ・オブ・チキン セカイ系J-ROCK

藤原基央の声の少年性
・実際それ以降、藤原のボーカルスタイルを踏まえたRADWIMPSや米津玄師らのような存在が、「イノセントな少年」といイメージをまとったミュージシャンとして活躍していく。
・語弊を恐れずに言うと「貧しさ」を感じさせる声
・90年代の「豊かな」イノセンス小山田圭吾)とは異なる、ゼロ年代の「貧しい」イノセンス
フリッパーズの作品が豊かな良家の子弟というイメージを持っているとすると、貧しい孤児のようなイメージを彼らの作品世界に僕は感じる
ゼロ年代日本の文化的教養の欠如という意味でも
・テレビゲームやアニメ等の、(20世紀的な教養主義を重視する人々から見れば)チープな、「貧しい」サブカルチャー
・90年代終わりから「都市的なカルチャー」みたいなもの(セゾン文化など)が力を失っていく状況
中村一義『金字塔』
フリッパーズのような衒学性とも、筋肉少女帯のような諧謔性との遠い世界観を持っていた。90年代のバンドたちがストレートに本質的なことを歌うことがどうしてもできずに、一度迂回してサンプリング的な表現をせざるを得なかった状況を変えるような真っすぐさが彼の表現にはあった。
・「あぁ、全てが人並みに、うまくいきますように。」ロスジェネ的目線の低さ
ロールプレイングゲームの熱心なファン「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー
・90年代にはまだ辛うじてジャーナリズム的な視線も保っていたロッキング・オンの言説が、煽りと惹句(じゃっく。キャッチフレーズ)による「物語化」だけに特化していった流れとも、バンブの歴史はシンクロしているような気がする
・ガス抜き、照れ隠しとしてんのシークレットトラックでのおふざけ
・世代の近いアジアン・カンフー・ジェネレーションフロントマンの後藤正文が政治や社会問題への言及を繰り返しているのと対照的。ただ、バンプ自身もそのファンたちも、そういう社会性からの切断・作品世界へのベタな没入を、ある種の切実さを持って志向している。社会に接続されることへ大きな苦痛があるからこそ、政治性の無い表現にのめり込むことを必要としているんだろうなと。
教養主義的な在り方や客観性の獲得への志向を感じさせないバンプの表現こそ本質的な意味で欠乏感があるというか、「貧しい」とやはり思う。ただ、徹底的に社会性やメタレベルの視点を排除したバンプの「貧しい」リアリティにはやはり強烈な説得力がある。そこに嘘がないからこそ大きな支持を得た。
・対照的に銀杏BOYZ峯田和伸には中央線カルチャーがある

第5章 「孤児」たちの時代へ(2011-2019)

星野源 「煩悶青年」への回答

テン年代
・「周囲の他人と自分との差異はどこにあるのか?」という自意識のレベルでばかり「私」を考えてしまう。男性というジェンダーを自認した上でそういう自意識のレベルにばかり執着するのが「サブカル男子」的な在り方。
・常に自意識過剰。人の目、見られ方を気にする。
・マジョリティに対する「拗ねた」感覚
みうらじゅん筋肉少女帯電気グルーヴ伊集院光
・「オトコノコ」が、80年代的な消費の差異化ゲームとは異なるやり方で自意識を形づくるための作法の探求
・「非モテ」的な男子のルサンチマンを主題。拗ねた男子の内面を「ホンネ」として吐露・主張することで消費の差異化ゲームをひっくり返そう、みたいな方法論を志向。
★「イケてる/イケてない」みたいな差異化ゲームを放棄することは、消費社会が強制してくるコードを拒絶する、っていう態度としてポジティブなところがあった。DCブランド着て雑誌「ホットドッグ・プレス」読んで、クリスマスイブには赤プリおさえて……みたいに、なんでもかんでもマニュアルどおりに行動しなきゃ嗤われるようなバブル期の若者ノリが生んでた抑圧ってハンパなかったと思うし。でも「オトコノコ」たちは、それを放棄した先でも結局「モテ/非モテ」という問題系に囚われていた。消費の差異化ゲームからは降りられても、恋愛の差異化ゲームからは降りられなかった
銀杏BOYZ 女子を偶像崇拝
星野源 渋谷系的なキャラクターの延長でもあり、大人計画のメンバーでもあり NHKとの親和性

秋元康 ポスト戦後のゲームマスター

・自伝的な小説『さらば、メルセデス
・1985『新人類図鑑』
・子ども時代からの官僚志向
・メッセージ・ソングという反戦フォーク的な志向が、ニューミュージック時代における脱政治化を経て、80年代を仕掛けた秋元という人によってアイロニカルかつ個人的なものに書き換えられたという歴史
・「オールナイトフジ」、おニャン子クラブとんねるず
・消費社会の爛熟、バブルに突入
・客観的視座を持って状況をセッティングし、その状況の中で熱狂する人々の欲望を把握しながら、その欲望をさらに盛り上げ焚きつける。その「欲望」に彼は自分自身を同化させることはできないんだけど、そういう「欲望」が盛り上がっていく状況そのものはたぶん本気で愛している
・80年代の糸井重里くらいまでは、面白主義で突っ走ることに対する衒いというか、前の時代に対するカウンター的な機能があった。吉本隆明が言うところの「重層的な非決定」みたいなスローガンに象徴される。
・消費社会の申し子。天才マーケター。内面の巨大な空洞。
ジラール「欲望の三角形」。アイドルカルチャーとはセンチメンタルな欲望をビジネス化したもの。
・システムを作る「アーキテクト」(男性)の倫理、責任が不問にされる問題。
・官僚的な処理能力。
・「ダダ漏れ」というある種究極の日本のサブカル形態。

大森靖子 たったひとりのあなたに届けるということ

最果タヒと共著『かけがえのないマグマ 大森靖子激白』「私は、きみの言葉に、態度に、ちゃんと傷つくよ」
・ひとりひとりの人間の実存というものを、自分に向けられる悪意ある眼差しひとつひとつの向こう側にちゃんと見出そうとしていることに、僕は誠実さを感じる。悪意を単なる大きなひとつの集合体として捉えてルサンチマンに逃げ込むのではなく、無数の悪意の向こう側に数えきれないそれぞれの「主体」があることを正面から見つめて、それらに向かい合う。
・(大槻ケンヂの)ファンやフォロワーの中には、「世間に馴染めない自分」というキャラクターを安易にセルフ・アイデンティティにして、ルサンチマンの中にこもるような選択をしてしまった人も多かったと思う。サブカルは、そういう人たちの避難所として機能するところが良くも悪くもある。
>>もうサブカルを卒業しなくてはいけない<<
・彼女はもっとハードコア。もっともっと本質的な意味で強くなれ、というメッセージを発信し続けている。ルサンチマンの中に逃げ込み隠れて生きる必要なんてない、あなたはあなた自身でいいんだ、と。「クソでもブスでも世界を変えたい」という歌詞があるんだけど、日本のサブカル的な小さな空間、小さな避難所の中に逃げ込むんじゃなくて、「本当に人を救う気」でいる。そういう避難所的な場所をぶち壊してでも、もっと「本当のこと」を語ろうとしている人。
ルサンチマンの中にこもるようなサブカル的態度というのは、自己防衛のための戦略だと思うんだよ。社会から疎外されている感覚を、自虐的な態度を通して自分のアイデンティティに変換することで、本当に自意識が崩壊してしまうことを避けるための戦略。そこにはある種の切実さがあったとはもちろん思うんだけど、でも結局は歴史や政治から離れた場所で展開されていた出来事、つまり消費社会化した環境の中で、自意識レベルでの闘争の中で起きていた出来事でしかなかった、とも思うんだ。
・彼女が「女の身体」というものを通して社会的に生かされている中で作り出している言葉や音というのは、大槻ケンヂ峯田和伸的な取り組みに影響を受けながらも、彼らよりもさらに社会との軋みが大きいものになっている。
・峯田の祈り方ははっきり言って「オトコノコ」の身勝手なものなんだけど、その祈りの強度や切実さがたくさんの人を救ってきたことは間違いなくて、大森もそのうちのひとりだったと思う。でも、大森は「女性」として眼差される身体を持った人間であるわけで。峯田が「女性」を眼差す自身の視線の中に込めた祈りを、大森は正面から受けて逆照射している。
まぼろしの「女性」に対して祈る爆死寸前の童貞フォーク少年に、「女性」を生きさせられている生身の人間が、力強くレスポンスを返している。あらゆる者は「人間」であって、あなたもわたしもまぼろしではない、わたしもあなたも、自分自身のままで十二分に美しいのだと。銀杏にただ憧れるのではなくて、自分自身の身体でそれを咀嚼するというのは、そういうこと。
・「私は私が認めた私を認めさせたい 何が悪い」、つまり、コミュニティ内部の関係性が自分に与えてくれる「キャラクター」を受け入れるのではなく、「私が認めた私」=自分自身の手でつくり上げた「私」の「キャラクター」をコミュニティ、ひいては社会に対して認めさせるぞ、という反抗。しかも重要なのは、そのときの手段が「キャラクター」という概念そのものから降りる=関係性や社会から降りる、というナチュラル志向・実存本位の方向ではなくて、完全に自分の意志で「キャラクター」を作り出して、闘争的に社会に乗り込んでいく、という志向であること。ナチュラル志向の人たちからしたら「整形」や「自撮りとリアル別人」は忌むべきものに映るだろうけど、彼女がそれを肯定することにはこういう文脈がある。
・関係性から退却してセカイ系的なメランコリーに引き籠る方向とも、関係性に覆いつくされた世界の中でリバタリアン的なプレイヤーとしてフル回転しようとする方向とも、大森の方向は違う。セルフイメージ=「キャラクター」を自分自身で作り上げてその「キャラクター」と共に世界に攻め込んでいく、という在り方。それを「痛い」だの「空気読め」だの揶揄する人たちは、他人からの眼差しが自分自身の存在より優位にあるという考え方を受け入れてしまっている。自分が自分を見る視線より、他者が自分を見る視線を優先してるわけ(まあこれが、日本社会というか日本の「世間」のデフォルトなんだけど)。
・大森の表現や活動はそうではなくてまず第一に個人としての自分が自分自身を見る視線を信じろ!というメッセージになっていると思う。自分が見たい自分=「キャラクター」を、自分自身の手で作り出せ!というメッセージになっていると思うんだよ。大森自身がそれを実行しているわけだけど、ZOCをやるに到って、彼女はそれを方法論として人々と共有しようとしている。
・世界の変わらなさを諦めて自分を変える、のではなくて、世界の中でコミュニケーションをとるためにこそ自分を変える。
・「私が認めた私」までで止まるのではなくて、それをさらに「認めさせたい」という意思がある。自意識をセルフ・チューニングして世界の見方を変える、のではなくて、自己を改変し肯定した上でさらに、それを「認めさせたい」=社会に切り込んでいく、という姿勢がここにはある。自己の書き換えに留まらず、共同性が持つ抑圧そのものをねじ伏せようとしているというか。
・承認欲求の肯定
・今のtwitterとにかく「上からかぶせていく」シニシズムチキンレース
・諦観が広がっているからシニシズムが蔓延している。抑圧的な関係性に対しての諦めが、文化のレベルでも政治のレベルでもどんどん強くなっている。
大森靖子のように「無理矢理」にでも自分の「キャラクター」を自分自身の手で作りだして行動する人間は、それこそ「空気を読め」みたいなシニカルな視線を浴びせられがちだけど、それぐらい強引にでもこの状況を突き破らない限り、社会の閉塞感は今後増す一方。
・どういう出自の人間だろうが、自分が思う自分のカタチ=「キャラクター」を追求して、それを社会に表明していいんですよ。空気なんて読まなくていいし、覆いかぶさってくる冷笑やマウントは破り捨てればいい。

エピローグ

・何がしかのメディア環境によって実存をデフォルメされることで、人は「キャラクター」になる。
・「遊びの時間が終わる」みたいな感覚は正直ある。
・「戦後」という状況が曲がりなりにも一応担保していた公共性が失われてしまうことに、もう歯止めは利かないだろう、という現状認識。
・その焼け跡の中では、かつてのサブカル空間で行われていたような「人間のキャラクター化」が、ネットを介して無限に反復され続けている。70年代に編み出されたサブカル的「キャラクター」化の作法が、ある意味で陳腐化し大衆化していった軌跡。
・焼け跡世代 野坂昭如 『あれよ星屑』 だから、焼け跡になっても結局「終わらない」んだよな。変わらない。

焼け跡から見た風景--あとがきにかえて パンス(TVOD)

・韓国ソウルのオルタナティブスペース「新都市」
韓国映画『SUNNY』
・諸外国と比べて「なんで日本はこうなってしまったんだ」とひたすら考えた記録
日高六郎『戦後思想を考える』「すべての局面におけるおしきせ性」
・「自意識」=「近代以降、共同体から個人として切り離された人々によるアイデンティティ獲得への意思」
・日高「滅私奉公」から「滅公奉私」へ サブカルチャーが「自意識の主戦場」になっていった
パク・チャヌク『お嬢さん』
・ウーンウーンと唸りながら議論(比喩ではなく、ふたりで新宿の安酒場で呑んで話していると本当に唸っている)
・百万年書房・北尾修

年表・サブカルチャーと社会の50年

 
10/9読了
●要約
68年に政治的な盛り上がりが頂点に達した。山岳ベース事件や爆弾テロなどを経て、「曲がった木を倍の力で逆に曲げる必要」が生じた。
消費社会が花盛りになり、カウンターカルチャーがだんだんと記号消費の対象になっていった。
80年代までは、スキゾ・キッズのようなある種の前向きさがあった。
90年代は、シニシズムが全盛になったがまだ屈託があった。
セロ年代になって、ネタがベタになり、セカイ系のような表現が増えた。都市文化が消えていき、郊外的な文化的に貧しい表現が増えた。
テン年代いよいよ社会がまずくなっていき、余裕がなくなった。が、「サブカル男子」はそれでも自分の安全地帯に閉じこもっている。
その中で、大森靖子のように、ルサンチマンに逃げ込まず、痛みを引き受けて、それでも自己肯定して戦っていく姿勢を見習うべきだ。
●感想
面白かった。だいたい文化はある流れがあり、その反動があり、と反復していくから、60年代の政治の時代の反動として、70年代からの脱政治の時代になり、過度な相対主義の時代、自意識の時代が長いこと続いて、おそらく2011年3.11を境にして、まただんだん政治的な動きが出てきたのだろうという印象。
江戸アケミバンプ・オブ・チキン、そして星野源の「サブカル男子」の部分、そして大森靖子のパートが面白かった。
自分としては郊外ロスジェネの貧しさ、切実さに共感してしまう。
大森靖子がクライマックスでエモかったのだが、その後ZOCで脱退が相次ぎ、いま著者はどう考えているか?
戦うといっても、はっきりいってめちゃくちゃ大変。経済的にも悪くなる一方だし。
それでも、もうルサンチマンの殻に閉じこもって、人と関わらないようにすることだけはやめたいと思った。
負けたとしても、戦うことが勝ち。
サブカルが50年かけて一周して、また戦いの道具に、戦うためのカウンターに戻るべき戻すべきだと感じた。