マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】佐々木実『竹中平蔵 市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像』 (講談社文庫)

目次

 
 

はじめに 「改革」のメンター

・日銀の利用

1章    和歌山から東京へ

競争心

和歌山城下小松原通りの商店街 竹中那蔵、明子 履物店 3人兄弟の次男

理想の社会と現実のはざまで

・高校 民青 社会哲学部
・倫理の北内斉先生「マルクス経済学ではなく、近代経済学がいい」

東京の家族

・1969年東大入学試験中止
・一橋、津田塾、マンドリン部 妻節子と知り合う
・(山澤逸平)ゼミ仲間の吉田孝 父が高級官僚の吉田太郎一(関東財務局長、大蔵省大臣官房審議官、経済企画庁長官官房長、大蔵省銀行局長、アジア開発銀行総裁など歴任)→平蔵の仲人
・一本のゴルフクラブ

2章    不意の転機

銀行員から経済研究員に

・下村治に憧れ日本開発銀行入行
宏池会 池田勇人大平正芳鈴木善幸宮澤喜一 下村がブレーン 木曜会
・上司 橋山禮治郎に 土曜会(木曜会の下部組織)参加を願う
・佐貫利雄『日本経済の構造分析』の脚注をつける手伝い

ハーバード大学客員研究員に

・1981年1月レーガン大統領就任 3月からハーバード大学国際問題研究所 客員研究員
・橋渡し役 井上宗迪 丸紅の企業エコノミスト
・この頃 エズラ・ヴォーゲルジャパン・アズ・ナンバーワン』、チャルマーズ・ジョンソン通産省と日本の奇跡』など日本研究がブーム
国際問題研究所は、世界各国に親米人脈を広げていく役割も担っていた。その国際問題研究所のもとにこの時期、<日米関係プログラム>が新たに設けられることになった。国際問題研究所から協力を依頼された井上は、フェローの任期を延期してプログラムの創設と運営に協力することになった。
・竹中が国際問題研究所の日米関係プログラムに客員研究員として参加できたのは、こうした立場にいた井上が推薦したからである。いわば、日本に照準を定めはじめたアメリカが招いた日本人の第一期生だったという見方もできる。
・日米関係プログラムの初代の事務局長はケント・カルダーである。竹中より三歳上の著名な日本研究者だ。ユタ州出身のカルダーは、ハーバード大学エドウィン・ライシャワー教授のもとで博士号を取得した。現在ジョンズ・ホプキンス大学の<エドウィン・O・ライシャワー東アジア研究所>の所長などをつとめている。
・カルダーは、日米関係プログラム創設には日本の通産官僚の働きかけもあったようだと証言している。私のインタビューでは、ある通産官僚がハーバード大学のサミュエル・ハンティントン教授にプログラム創設を勧めたようだとも話した。
・じつはカルダーは、日米関係プログラムで出会う以前から竹中を知っていた。「初めて竹中さんと会ったのは、私が博士論文の研究をしているときでした」とカルダーは私に語っている。当時日本経済の秘密に迫る研究を進めていて、政策金融や財政投融資制度を調べていたカルダーにとって、開銀は取材対象のひとつだった。研究のため日本に滞在していたとき、竹中とは何回も会って話を聞いたという。
・その後、カルダーは日米関係プログラムの事務局長となり、客員研究員としてやってきた竹中と偶然再開したわけである。竹中が一生懸命に資料を読んでいた姿を覚えている、とカルダーは話した。もっとも、研究実績がない竹中にそれほど存在感があったわけではなく、日本人のなかでは大蔵省からハーバード大学客員准教授として招かれていた榊原英資などが当時は目立つ存在だったという。
・渡米一ヶ月後 ボストン・マラソン 瀬古利彦優勝 沿道で応援

「反ケインズ経済学」の洗礼

・吉田和男(竹中ののちの上司であり盟友、新しい歴史教科書をつくる会賛同者)「どのような時期にアメリカにいたかですよね。これは竹中さんに限りませんけど、日本の経済学者はどの時期にアメリカに行ったかで決まるところがある。竹中さんが行った時期は、純粋なケインジアンにはお年寄りが多く、若い人はそういう立場に異論を唱えていた。やはり経済学者は一番勉強していた時期に影響を受けるから」
・ちょうど「レーガノミクスケネディ→ジョンソン→スタグフレーション
ケインズ経済学、福祉政策への攻撃「マネタリスト」「サプライサイダー」 
・「合理的期待形成」の考えを受け入れると、「政府が介入しないですべてを市場機構にゆだねておけば、もっとも効率的な資源配分が達成される」という結論が自然に導き出される
・アンドリュー・エイベル 設備投資
・鈴木和志 開銀の2年先輩 当時ペンシルベニア大学客員研究員
・1982年2月2日付『日本経済新聞』「経済教室」欄
・同年7月開銀の会報『経済経営研究』「税制と設備投資――調整費用・合理的期待形成を含む投資関数による推定」という共同論文

大蔵省という権力

アメリカから帰国後 大蔵省に出向 上司長富祐一郎 舘龍一郎「七人会」勉強会
・長富 大平正芳首相の補佐官 9つの政策研究会 総勢210人もの学者、文化人、完了が参集。
・大平 80年6月急死
・長富「ソフトノミックス」
・牧原出『内閣政治と「大蔵省支配」――政治主導の条件』「原局マン」vs「官房型官僚」
・牧原は興味深い考察をしている。「原局マン」グループに対抗するために、「官房型官僚」グループが内閣の閣僚と結びつく場合がある。このパターンは、軍部と結託することで力を得た「革新官僚」の「戦後ヴァージョン」と見ることができるだろう。長富、竹中「官房型大蔵官僚」。

独り占め

1984年竹中処女作『研究開発と設備投資の経済学――経済活力を支えるメカニズム』鈴木和志の悔し涙 高橋伸彰作成のグラフ無断使用 渡邉昭彦編集者
サントリー学芸賞を受賞

3章    アメリカに学ぶ

博士号審査不合格

大蔵省幹部の側近として

・長富 1985 大蔵省に<財政金融研究所>(財金研)
・<ソフト化経済センター>
・<研究情報基金>(FAIR)初代理事長 吉田太郎一 銀行、生保、損保 1社あたり200-300万 ヒトとカネを出す
・竹中、長富のカバン持ち
・雑誌『ルック・ジャパン』時はバブル
・竹中 財金研の主任研究員

他人のものを取り込む才

アメリカ経済学会から学んだこと

ジェフリー・サックス、石井菜穂子 サックス・マキビン・イシイモデル 期待形成関係
・<全米経済研究所>(NBER)マーティン・フェルドシュタイン 福祉政策批判 レーガン大統領の経済諮問委員会委員長 NBER所長としても経営手腕を発揮 若手学者ネットワーク(サマーズも)の元締め 
・竹中は、アメリカ経済学界の「反ケインズ」の流行に強い影響を受けた。いやむしろ、フェルドシュタインをはじめとする、政界中枢に影響を与える経済学者の存在そのものに強く惹きつけられたといったほうが正確かもしれない。
・NBER=「経済学の研究活動を企業化した」
・竹中は、内には大蔵省財金研で長富から「事業家の手法」を学び、外からは「企業化」「政治化」するアメリカ経済学界から影響を受けていたということになる

交流人事

・大蔵省へ出向5年、開銀に戻らず阪大へ 本間正明の誘い 竹中と入れ替わりで財金研へ
・石井菜穂子との共著『日米経済論争』=「アメリカの日本経済研究者を研究する」という奇妙な趣向

相次ぐ批判

浜田宏一伊藤隆敏による皮肉交じりの批判 「経済学者としての土台を築かないまま政治に参画しようとする姿勢に疑問」
・長富の影響で、資金や人事を取り仕切る「事務局」がいかに研究者に強い影響力をもっているか学んだ
開銀の接待施設「乃木坂クラブ」カルダーを接待

リボルビング・ドア

・阪大2年→開銀を退職→半年間ハーバード大学客員講師 日本経済論 ジェフリー・サックスの招き
★日本経済論の講座を春学期のみ教えたあと、竹中は国際経済研究所IIE、現在はピーターソン国際経済研究所<PIIE>と改称)というシンクタンクに研究員として在籍する。牛場信彦記念財団の奨学金を獲得し、「牛場フェロー」として受け入れられたのである。竹中の前に「牛場フェロー」第一号としてIIEに在籍したのが、『朝日新聞』記者の船橋洋一だった。
★IIEはジャーマン・マーシャル基金の支援を受けて1981年に設立された新興シンクタンクだ。設立以来所長をつとめるフレッド・バーグステンが名実ともにこの組織の顔である。バーグステンは、「リボルビング・ドア(回転扉)」(=シンクタンクや大学と政府のあいだを行ったり来たりするシステム)を体現したような人物だった。
★竹中はIIEに在籍したのを契機に、その後バーグステンと長く親交を結ぶことになる。大蔵省の財金研で育った彼には、学界の経済学者よりむしろバーグステンのようなタイプのエコノミストのほうが親しみやすかったに違いない。企業家と地続になった経済研究者を目の当たりにして、シンクタンクという装置に並々ならぬ関心をもつようになったのである。

「日米構造協議」という第二の占領政策

・1989ジョージ・ブッシュ(父)「日米構造協議」(Structural Impediments Initiative)(SII)=「構造障壁を取り除くためのイニシアチブ」
・経常赤字に苦しむアメリカが、見えない貿易障壁となっている日本の商習慣や制度を改めさせるために仕掛けた協議
シドニー・リン・ウィリアムズ通商次席代表「鏡の中の日米構造協議」「実際、政策立案者にとってSIIの目的は、日米関係を根本的に変革することほかならなかった」
・日米構造協議でアメリカ政府が取り上げたテーマは、「貯蓄と投資」「土地利用」「流通システム」「排他的取引慣行」「系列取引」「価格メカニズム」など多岐に渡る。日本の経済システム全体をつくりかえる構えだ。200項目を超える要求を前に、「アメリカの第二の占領政策だ」との声が日本側から洩れたというほど徹底した改革要求だった。
アメリカ政府がとくに重視したのは、「日本の公共投資をGNP比で10%まで高める」「大規模小売店舗法を廃止する」「独占禁止法を改正して強化する」という要求項目だったが、公共事業の規模については日本の主権にかかわる問題だけに議論となった。一国の公共事業予算の規模が他国との交渉事になること自体異常だからである。
・しかし結局、今後10年間の日本の公共投資額を、日本政府はアメリカ政府に公約として約束させられることになる。日米構造協議が1990年6月にまとめた最終報告書では、91年度から2000年度までに総額430兆円の公共投資を実施することが明記された。
・東西冷戦が終焉にいたる過程で、アメリカでは「ソ連に代わる仮想敵国は経済大国日本である」という議論が出てくる。
・『Japan2000』レポート事件 CIA カルダーの釈明
・日米経済摩擦 → ソニーによるコロンビア・ピクチャーズ買収 三菱地所によるロックフェラー・グループの買収 → ジャパン・バッシング
日本経済研究センター 香西泰 にNY支店設立計画を持ちかける

政治家への接近

・学問の世界から逸脱していた竹中を大学に引き入れたのは、加藤寛である。加藤は、政府の政策立案に深くかかわってきた経済学者だ。鈴木善幸内閣から中曽根康弘内閣にかけて活動した第二次臨時行政調査会の主要メンバーとして活躍した。前経団連会長の土光敏夫が会長をつとめたことから「土光臨調」と呼ばれたこの調査会で、加藤は日本国有鉄道国鉄)、日本電信電話公社日本専売公社の民営化にかかわった。官業の肥大化を批判し、早くから行政改革規制緩和を唱え続けてきたイデオローグで、政治とのかかわりが深いとともにメディアでも活躍していた。
・加藤は、慶應義塾大学が1990年に総合政策学部を創設する際の責任者で、初代の学部長に就任している。竹中を加藤に引き合わせたのは、開銀時代の上司だった橋山禮治郎である。
・「ぼくが慶應大学で湘南藤沢キャンパス(総合政策学部)を立ち上げたときに考えたのは、経済理論を教えるような人はいらない、経済理論を焼き直して現実にシステムとして使えるようにする人がほしいということでした。」
・学部長である加藤が反対論を抑え込み、竹中は助教授として採用された。
・『エコノミスト』1991年8月20日号 京都大学経済研究所所長 佐和隆光との対談 
・佐和は、経済学者がある学説に与する場合、学説の根っこにある哲学や価値観を含めて接するのでなければおかしいのではないかと問題提起。
ジェフリー・サックスやローレンス・サマーズの世代になると、土台にある思想構造には必ずしも関心を示さず、「単なるテクノロジーとして経済学を操る」傾向があると、佐和は指摘。
・竹中、佐和の問題提起にあまり興味を示さず、あくまで価値よりも実証研究の重要性を指摘。最後まで話がかみ合わなかった。
・この時期、政治家へ近づく。宏池会のプリンス加藤紘一小泉純一郎

”外圧”は友

・慶大助教授時代、4-7月まで集中講義 1年の残りをアメリカで過ごす 優遇 特例
・NYの賃貸アパート → ウェストチェスターに一軒家購入
コロンビア大学ビジネススクール 日本経済経営研究所ビジティング・フェロー(客員研究員) 所長ヒュー・パトリック
・それほど研究はせず、ワシントンのIIE(バーグステン)に通う。
ニッセイ基礎研究所ニューヨーク事務所
世襲への対抗心

博士号を取得

・娘 慶應義塾ニューヨーク学院(ウェストチェスター郡)
・1994阪大で博士号を取得『日本経済の国際化と企業投資』
跡田直澄(本間の弟子筋)「異例な形で博士号を出したのはたしかですね。竹中さんの論文は基本的に共著の論文がベースになっていたので、学部内には異論を唱える人もいました。古い人たちはぶつぶついってましたけど、蠟山(昌一)先生、本間先生がそれをねじ伏せて、根回しをして、竹中さんに博士号を出したんです」
・娘の高校卒業、博士号取得のタイミングで帰国。以降、大々的にサイドビジネスを始める。

4章    仮面の野望

シンクタンク

・フジタ未来経営研究所 マクドナルドのシンクタンク 
藤田田 東大法学部在学中からGHQの通訳 光クラブ事件 山崎晃嗣とも親交 輸入雑貨販売店「藤田商店」を設立 大店法トイザらス合弁会社
藤田田 努力×時間の法則「一日24時間。成功はいかなる人にも平等に与えられた、この24時間にどれだけ努力するかにかかっている。人間の頭の中身など、もともと大差などない。最後はいつも本人の「努力×時間」。」
・藤田は徹底した規制の緩和、廃止を求める、極端なまでの合理主義者だった。シンクタンク設立前に出版した『勝てば官軍』(ベストセラーズ)ではこんなことを書いている。「資本主義社会では、金がすべてである。金さえあれば、人生の問題の99%は解決する。それが資本主義とうものだ。日本人はまず『金』に対する農本主義的な考え方を捨て、金儲けができないのはバカだと思うようにならなければならない」
ソフトバンクのオーナー孫正義が高校生のとき、藤田の『ユダヤの商法』(ベストセラーズ)を読んで感動し、藤田のもとを訪ねたという逸話も残っている。
・加藤の紹介 総勢15人 研究予算5億
・この時期 ちょっとしたシンクタンクブーム
経団連の<21世紀政策研究会> 加藤秀樹構想日本> <国際研究奨学財団>のちの<東京財団
・97年7月に設立された国際研究奨学財団は、ほかの新興シンクタンクとは比べ物にならないほど潤沢な資金 立志伝中の人物で右翼の大立て者でもあった笹川良一が育てあげた競艇業界が資金源となっていたからだ。
・財団法人日本船舶振興会、全国モーターボート競争施行者協議会などから莫大な寄付金 98年度末の基本財産と基金の合計額は約240億円→290億→320億
・国際研究奨学財団はいわば笹川グループのシンクタンクだった。笹川良一亡きあと事実上の一族総帥は良一の三男の笹川陽平で、彼にシンクタンク設立をもちかけたのが鈴木崇弘である。当時、笹川平和財団に勤務していた。
・鈴木はアメリカのシンクタンク業界にも通じていて、シンクタンクに関する知識では第一人者だった。東大法学部を卒業後、ミシガン大学ハワイ大学大学院などに留学し、総合研究開発機構(NIRA)勤務などを経て、89年に笹川平和財団に就職した。鈴木は、世界各国の100以上におよぶシンクタンクを調査したこともある。
★鈴木は、日本とアメリカのシンクタンク関係者の交流を進めるプロジェクトの仕掛け人でもあった。95年2月に東京で開催された「世界シンクタンク・フォーラム」の日本側中心人物だった。このフォーラムには、アメリカ・シンクタンク業界の顔役ロバート・マクナマラ元国防長官を筆頭に、アメリカのシンクタンク関係者が多数出席した。日米の橋渡し役をつとめていた鈴木が見出したのが、アメリカのシンクタンク業界に憧憬を抱く竹中だったのである。

ビジネスとしての経済学

シンクタンクという装置は、政治に近づくための手段であると同時に、大きな報酬を得るための大切な収入源でもあった。経済学という知的資産を政治に売り込み、換金する装置である。
・本業 慶應義塾大学総合政策学部教授 副業<ヘイズリサーチセンター>という有限会社(コンサルティング会社)を設立。妻と娘も取締役。
・フジタ未来経営研究所の理事長、国際研究奨学財団の理事というふたつのポストを射止めた段階で、副業はすでに成功していたといえる。竹中個人の97年の申告納税額は1958万円で、高額納税者の仲間入りを果たしている。→2000年3359万。所得およそ1億。
シンクタンクにかかわる以前から、資産形成に対する努力には並々ならぬものがあった。90年代前半、アメリカと日本を股にかけて生活していた4年間、竹中は住民税を支払っていなかった。
・『週間朝日』(2000年5月26日号)林真理子との対談で指南。1月1日前に住民登録を抹消する方法。
・国際研究奨学財団 「インテレクチュアルキャビネット」というニュースレター 現職閣僚や国会議員に送付 政策課題をわかりやすく解説した小冊子 知事や官僚、有識者にも配布。好評を博す。
・国際研究奨学財団ではテレビ媒体も利用し、竹中自身が司会をつとめる政策提言番組「政策ビジョン21」をケーブルテレビ「日経CNBC」などで放映した。
・「竹中さんは東京財団の肩書と、慶應義塾大学教授の肩書をうまく使いわけていた。東京財団でやっていたことを書くときでも、慶大教授の肩書で発表していました。東京財団の名前は出さないことが多かった(笹川良一のイメージを嫌い)」

官房機密費

・1990年代後半、日本経済はまだバブル経済の後遺症から抜け出せないでいた。それどころか不良債権問題はついに大手金融機関をなぎ倒していくことになるが、金融行政の失敗は経済官僚とりわけ大蔵省の信用を失墜させた。官僚不信を決定づけたのが接待汚職事件だ。
・橋本政権(96年1月~98年7月)から小渕政権(98年7月~00年4月)にかけて竹中は政界への働きかけを強めていく。金融危機は深まり、大蔵省の信用は地に堕ちていた。大蔵省が権力中枢から後退したのと入れ替わるように、竹中に活躍の場が与えられるのである
・97年11月 三洋証券、北海道拓殖銀行山一證券破綻 金融危機を回避するため政府は98年3月末、大手銀行21行に総額約1兆8000億円の公的資金を投入した。
・大蔵省本庁舎に東京地検特捜部の検事たちが乗り込んだのが98年1月26日。金融検査部の金融証券検査官室長と同課の課長補佐が収賄容疑で逮捕された。大手銀行の検査担当者から高額の接待を受け、見返りに検査日を洩らした疑い。ふたりの逮捕直後、特捜部の聴取が予定されていた銀行局の金融取引管理官が自殺。
・事件の責任をとって三塚博大蔵大臣が辞職、大蔵事務次官の小村武も辞任した。しかし3月に入ると、今度は証券局総務課の課長補佐が逮捕される。野村證券などに便宜をはかり、見返りに繰り返し接待を受けたという収賄容疑だった。
・接待汚職で厳しい批判を受けた大蔵省は4月末、112人にもおよぶ職員を処分した。金融危機を担当していた銀行局担当審議官の杉井孝は停職処分、証券局長の長野庬士らも減給処分。ふたりの大蔵省有力幹部は結局、そろって大蔵省を去ることになる。
金融危機の只中で、大蔵省は完全に機能不全に陥った。竹中が政権中枢に接近するのはこの時期である。98年5月慶應義塾塾長の鳥居泰彦らとともに官邸を訪れ、橋本龍太郎首相と面談している。慶大は橋本の母校である。
・額賀官房副長官のアドバイザー組織 座長香西泰 メンバー東大伊藤元重 京大元大蔵省吉田和男 政策研究大学院大学大田弘子ら 竹中、ニッセイ基礎研究所が事務局
・7月の参院選自民党惨敗 橋本→小渕政権 堺屋太一経済企画庁長官就任 経済戦略会議創設 証券取引等監視委員会などと同格の「(国家行政組織法第)八条機関」
・竹中が公式の首相ブレーンになるのは47歳のときである。堺屋から委員就任依頼を受けた際の心境を次のように記している。「私自身、政策を勉強した立場から見て、とくにアメリカの強力な政策システムと比較して、日本の経済政策のあり方に対しては、いつも切歯扼腕の思いでいた。その意味で、こうした機会が与えられることに対しては、基本的に前向きでありたいと思った」
・経済戦略会議 議長アサヒビール会長 樋口廣太郎 委員10人 財界人6人 経済学者4人
トヨタ自動車社長奥田碩 JR西日本会長井手正敬 イトーヨーカ堂社長鈴木敏文 森ビル社長森稔 アートコーポレーション社長寺田千代乃 経済学者竹中 一橋大学中谷巌 東大伊藤元重 東大助教授竹内佐和子 

・経済戦略会議の報告書「健全で創造的な競争社会の構築」 は「前川レポート」(86年)、「平岩レポート」(93年)の小さな政府、規制緩和の路線を踏襲する代表的な提言書となる。
・三宅純一(日銀→住友系シンクタンク)経済戦略会議事務局長 にアメリカ出張費を官房機密費から出してもらえないかせびる 
・経済戦略会議での活動のさなかも何度も海外出張 IIE所長フレッド・バーグステンらと意見交換 → 司法改革や教育改革まで盛り込む 
・企業人との親交を深める 森稔 六本木の知の拠点「アカデミーヒルズ」、会員制クラブ「アークヒルズクラブ森喜朗小泉純一郎もしばしば利用 「六本木ヒルズ上棟式 小泉、竹中参加 アサヒビール社外取締役 

IT戦略会議は官邸攻略の足場

★<国際研究奨学財団>が<東京財団>と改称されたあと、99年10月に竹中は理事から理事長へと昇格した。経済戦略会議での活動を終えたころから、東京財団を使って政界に攻勢をかけるようになる。総理官邸を攻略する足がかりとなったのは、政府が設置したIT戦略会議だった。
・2000年4月小渕急逝 → 森喜朗 IT戦略会議ソニー会長出井伸之議長 竹中も委員 
・2000年7月「九州沖縄サミット」 その前に3日間にわたる大イベント 国際シンポジウム「プレ・サミット」
★竹中はIIE所長のフレッド・バーグステンとともに「プレ・サミット」議長をつとめ、8ヵ国から豪華ゲストを招いた。アメリカからは元国務長官ヘンリー・キッシンジャー、元連邦準備制度理事会FRB)議長のポール・ボルカー、元国務事務次官ロバート・ゼーリックなどが参加した。シンポジウム終了後、竹中が豪華ゲストを引き連れて首相官邸を訪れ、首相に就任したばかりの森に提言書を直接手渡している。
東京財団の活動は「プレ・サミット」のような大きなイベントにとどまらなかった。親交が深い学者などを責任者に登用し、竹中は巨額の予算を計上した大型研究プロジェクトを次々打ち出していく。「政策危機の実証検証プロジェクト」「財政制度改革プロジェクト」「政策情報プラットフォームプロジェクト」「日本における立法機能プロジェクト」など数え切れないほどのプロジェクトを立ち上げていった。活動範囲を海外にまで広げながら、大蔵省財政金融研究所で培ったオルガナイザーとしての本領を発揮しだすのである。
東京財団会長日下公人との摩擦 しかし竹中・鈴木が押し切る 「インターネット国際会議」 ジェフ・ベゾスシスコシステムズ社長ジョン・チェンバース孫正義三木谷浩史など 

総理大臣の振り付け役

森内閣「タスクフォース」森、中川秀直安倍晋三堺屋太一 民間 アサヒビール樋口 牛尾治朗 オリックス宮内 運営の主導権は竹中 東京財団に事務局
官房長官 中川→福田
・12月官邸で「日本新生」と銘打った公開政策会議 「サプライサイド政策」を高々と掲げる 『中央公論』と『日本経済新聞』で外堀を埋めておく
中村慶一郎 内閣官房参与 政治評論家 中村には、竹中がふたつの野心を抱いているように見えた。「政治への進出」と「経済学界の覇権」。ケインズ→サプライサイド(レーガノミクス

”外圧”の民営化

・日米構造協議以降、アメリカの「外圧」はシステムとして整備された。
★ウィリアムズらが構想した、日本に対する構造改革要求の継続は、クリントン政権のもとで実現した。クリントン大統領と宮澤喜一首相の合意を受け、日米両政府は1994年から毎年改革要求を交換するようになる。アメリカは日本に対する構造改革要求を制度化したのである。これ以降、「年次改革要望書」が毎年手渡されることになった。制度改革や規制緩和の具体的な要求を並べ立てて圧力をかける手法が定着していった。
アメリカの著名なシンクタンクである<外交問題評議会>(CFR)は、「対日経済政策の新しい指針」というレポートを2000年10月に発表している。翌年1月に発足するブッシュ(子)新政権への提言である。
・CFR日本研究タスクフォース 議長 クリントン政権で経済諮問委員会(CEA)委員長をつとめた経済学者ローラ・タイソン 元駐日大使マイケル・アマコスト 元財務副長官ロジャー・アルトマン ヒュー・パトリックやエズラ・ヴォーゲルといった日本専門家 他学界、実業界から
アメリカ企業の日本進出を支援 フレッド・バーグステン「ガイアツの民営化」
★ローラ・タイソン「自動車交渉を経て、日本のメーカーはアメリカでの現地生産を拡大するなど、グローバル化を進めてきました。日本でグローバル企業の存在感が増すにつれて、日本内部で改革を望む人々と我々の考え方が一致するようになってきたのです。以来、日本の保守的な勢力に対抗して、改革派を励まし、支援していくことが我々の役割となりました」
・レポートには、日本の金融危機を契機にメリルリンチ証券やシティグループなどの金融グループが日本に進出した事例があげられている。特筆は、リップルウッド・ホールディングスによる長銀買収。
アメリカで進行中の金融経済の肥大化

政界への工作

アメリカの大統領がビル・クリントンからジョージ・ブッシュ(子)へと引き継がれた2001(平成13)年1月、竹中は「ダボス会議」に出席していた。世界各国から政治家や経済人が集まる「ワールド・エコノミック・フォーラム」は、スイスのダボスで開かれることから「ダボス会議」と呼ばれている。=「グローバリゼーション」の象徴。
・毎年1月に開催されるダボス会議に日本の首相が出席したのは2001年の森が初めて。仕掛けたのは竹中。
民主党党首鳩山由紀夫も出席。鳩山にブレーン集団立ち上げを持ちかける。
・構成メンバー 吉田和男 大田弘子 北岡伸一 日本IBM北城恪太郎 宮内義彦だけ森と兼務
・宮内はすでに90年代前半から規制緩和を主張する代表的論客として政府の諮問機関にもかかわっていた。小泉政権が発足すると総合規制改革会議の議長として、経済財政政策担当大臣の竹中を後押しし、「構造改革」を推し進めるエンジンの役割を果たすことになる。
えひめ丸事件で森政権瀕死の状態 → 小泉純一郎に急接近 竹中が小泉総裁選用の本をまとめる → 『「強い日本」の創り方』PHP出版
・小泉のためにアメリカ大使館近くのオフィスビルの一室で、政策に関する集中講義 講師陣 吉田和男・京大 島田晴雄・慶大 八代尚宏日本経済研究センター理事長 北岡伸一・東大 竹中が小泉の横に座り、講師を呼び込む
ブレーン集団をもたない小泉純一郎を囲い込むような政策勉強会だった。
・そうして迎えた自民党総裁選挙で、小泉は橋本龍太郎麻生太郎を退け圧勝した。2001年4月26日、小泉純一郎新内閣が誕生する。経済財政政策担当大臣に民間人として起用されたのが、「政策集中講義」を小泉に施した竹中平蔵だった。
・森政権末期、竹中は森首相のブレーンの立場を確保しながら、次期首相候補の小泉に接近し、一方では、最大野党の党首である鳩山とコンタクトをとっていた。政局がどう転んでも、政権中枢とのパイプを維持できる体勢を整えていた。
・鳩山「竹中さんはよくいえば柔軟だけど、悪くいえば節操がない」民主党代表室次長嶋聡「非常にアンビシャスな方」
・鳩山の勉強会は結局 宮内が中心になる
・「小泉改革政権」では政権そのものが「外圧」と一体化。9.11でさらに日米が緊密に。CFRが的確に指摘したように、この「改革政権」の本質はグローバル企業を支える政治体制でもあり、ウォール街投資銀行が「改革勢力」として登場してくる背景ともなったのである。 

5章    アメリカの友人

トライアンギュレーション

ジョンズ・ホプキンス大学<高等国際問題研究大学院>(SAIS)は、首都ワシントンDCの街中にある。ホワイトハウスまで歩いて10分とかからない。ケント・カルダー教授はSAISの<エドウィン・O・ライシャワー東アジア研究所>の所長である。
ライシャワーは晩年、自分の後継者としてカルダーの名をあげていたという。
・2001年4月に小泉純一郎内閣が発足したとき、カルダーは特別補佐官として在日アメリカ大使館に勤務するアメリカ政府職員だった。彼はまた、小泉内閣発足とともに経済財政政策担当大臣に就任した竹中平蔵と特別親しい関係にあった。竹中が20代だったころから交流があり、カルダー自身、「親友」と呼ぶ仲である。
・1948(昭和23)年にユタ州で生まれたカルダーは、ハーバード大学政治学部で政治学を学んだ。ライシャワー教授のもとで日本の政治経済を研究し、79年に博士号を取得した。博士課程では日本の財政投融資を研究対象に選び、日本で取材をするなかで、日本開発銀行にいた竹中と知り合い親交を結ぶようになった。竹中は3歳下のほぼ同世代だ。
・カルダーは1983年から2003年までプリンストン大学に在籍しているが、その間、<ワシントン戦略国際問題研究所>(CSIS日本部長などを歴任し、日本社会をさまざまな角度から研究してきた。『自民党長期政権の研究 危機と補助金』『戦略的資本主義 日本型経済システムの本質』『米軍再編の政治学 駐留米軍と海外基地のゆくえ』など、彼の著作は日本でも翻訳出版されている。若き日の竹中が見込んだとおり、アメリカ屈指のジャパン・ウォッチャーとなったのである。
・博士論文のテーマは日本の財政投融資制度。開銀は、その出口部分を担う政府系金融機関
・カルダーは、対日政策を担当するアメリカ政府の要職にあった。97年から在日アメリカ大使館に大使特別補佐官として赴任し、ウォルター・モンデールトーマス・フォーリー、ハワード・ベーカーの三代にわたる大使に使えていた。2001年夏に帰国後はブッシュ政権内で対日政策にかかわる。
小泉首相が初めての所信証明演説で「構造改革」の断行を宣言する直前、5月3日から5日までの3日間、竹中は1泊3日の強行軍でアメリカを訪問している。ブッシュ大統領の経済諮問委員会(CEA)委員長に就任する直前のグレン・ハバード、経済担当の大統領補佐官ローレンス・リンゼ―、通商代表部(USTR)代表のロバート・ゼーリック――ブッシュ政権の経済政策を担うキーパーソンたちと精力的に会談をこなした。竹中はブッシュ政権高官たちに、まもなく小泉が行う予定の初めての所信表明演説の内容を先取りして伝えた。
・「竹中―小泉―ブッシュ政権」の三角関係

ハゲタカとネオコン

・日本の不良債権問題を、アメリカの金融機関などが千載一遇のビジネスチャンスととらえていた。
・1990年代後半に起きたアジア金融危機の際、韓国で投資会社カーライルが不良債権ビジネスで巨額の利益をあげ、日本では破綻した日本長期信用銀行投資ファンドリップルウッド・ホールディングスが驚くほどの安値で買収することに成功した。
・小泉の特使 島田晴雄プリウスのCM)、リンゼーと会談、帰国後小泉に進言「外資をハゲタカ呼ばわりする人もいますが、腐った資本が積もって動かないなら、活力を導入すべきです。サッカーの日本代表の監督にフランス人のフィリップ・トルシエ氏が就任し、チームを蘇生させているのと同じです」
・カルダーが言及した「AEIのディビッド・アッシャー」はエコノミストで、AEIというのはアメリカの大手シンクタンク、<アメリカン・エンタープライズ研究所>のことだ。AEIは、「ブッシュ政権を支えるシンクタンク」として一躍脚光を浴びる存在となっていた。2001年1月にブッシュ政権が発足すると、「リボルビング・ドア」のシステムによって、多数のAEI関係者が政府高官として乗り込んでいったからである。
・AEI一番の大物は副大統領に就任したディック・チェイニー。妻のリン・チェイニーも研究員。他に財務長官ポール・オニール、国防政策諮問委員会委員長リチャード・パール。
・竹中のカウンターパートもAEI関係者で占められていた。CEA委員長のグレン・ハバード、経済担当の大統領補佐官ローレンス・リンゼー。
アメリカン・エンタープライズアメリカ企業)」という名称どおり、AEIはビジネス界のシンクタンクとして1943年に設立された。「ネオコンサバティブ」あるいは「ネオコン」と呼ばれる保守主義者たちのシンクタンクという顔をあわせもっている。リチャード・パール=ネオコンの中心的メンバー。
クリントン政権時代にウィリアム・クリストルとロバート・ケーガンが設立した<アメリカ新世紀プロジェクト>(PNAC)はネオコンシンクタンクといわれたが、PNACはAEIのビルに事務所を構え、人的にもつながりが深かった。「ネオコン」の始祖アーヴィング・クリストルはAEIに所属していた。

柳澤大臣との対決

・2001年9月11日ニューヨーク同時多発テロ。25日ホワイトハウスでブッシュと小泉会談。「私はあなたとともにいる」
・小泉が「テロとの戦い」で連帯する意志をブッシュに伝えた同じ日、東京であるシンポジウムが開かれていた。主催者はAEIである。経済産業省との共催だった。
・「不良債権処理による日本経済再生のシナリオ」と銘打った会合。パネリスト 竹中平蔵経済財政政策担当、グレン・ハバードCEA委員長 元整理信託公社(RTC)議長ウィリアム・シードマン、ロバート・ダガー、リチャード・ギトリンなど不良債権ビジネス界の著名人
・竹中「公的資金投入の必要性」vs柳沢伯夫金融担当大臣(初代金融再生委員長 99年3月に15行に7兆5000億円投入)「そこまで深刻ではない」
・2002年2月東京での日米首脳会談前にブッシュが小泉にあてた親書「銀行が不良債権を早期に市場で売却することが「構造改革」の試金石になる」ずいぶん具体的な話。

ブッシュ政権が引きずり下ろした金融担当大臣

・2002年9月半ば、東京でハバードー竹中会談。NYでのブッシュー小泉の裏で。2週間後内閣改造。柳澤更迭、竹中が金融担当大臣も兼務。 

「竹中プラン」が引き起こした金融会パニック

・池尾和人の辞退
・特命チーム「金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム」日本経済研究センター会長香西泰、元日銀マンでコンサルタント木村剛、京大教授の吉田和男、日本公認会計士協会会長の奥山章雄、日本銀行審議委員中原伸之(東亜燃料工業社長)、事務局長は伊藤達也金融担当副大臣
・木村当時40歳 銀行破綻もいとわない急進的処理作を支持(ハードランディング派) 木村がチームに参加すると報じられただけで、銀行の株価が急落したほど
・東大経済学部→日銀営業局や国際局 NY事務所にも BIS規制に関する委員会日本代表→世界的な会計事務所KPMGグループにヘッドハンティングされ日本に支社
・『木村はハゲタカ外資の手先だ』『木村は、日本の銀行を外資にたたき売ろうとしている』
・竹中と木村の橋渡し役は衆議院議員伊藤達也松下政経塾日本新党新進党自民党石破派) 小泉とも引き合わす

繰り延べ税金資産問題

・繰り延べ税金資産=引当金を積んだときに課税された税金は、かならず還付されるものとして「繰り延べ税金資産」として資産に計上している。
・銀行が積極的に不良債権処理を進めれば、引当金は増える。すると当然、繰り延べ税金資産も増える。小泉内閣発足以前に、政府が銀行に不良債権処理を強く促して引当金の積み増しを求めた経緯があり、禁輸帳もその結果としての繰り延べ税金資産の増加は容認していたのだった。
・ところが、木村は首相の小泉にそうした経緯を省いて、「銀行の資本が繰り延べ税金資産でかさ上げされている」と直訴した。自己資本に占める繰り延べ税金資産(=税効果資本)が多くなっていて、銀行の自己資本比率は実際の健全度をあらわしているとはいえない、と解説したのである。
・首相の面前で木村と金融庁森昭治長官とで討論させる

金融プロジェクトチームというブラックボックス

・金融プロジェクトチームが「竹中プラン」策定に向けて話し合う会合には、金融庁から五味廣文監督局長ら局長のほかに高木祥吉長官も同席したけれども、竹中大臣金融庁幹部をあくまで「オブザーバー」として扱った。
・関係者の証言をつきあわせていくと、「竹中プラン」が金融プロジェクトチームの5人の民間人メンバーだけで策定されたわけではないことは明らかである。竹中の目的に沿うように、外部の者を含めてさまざまなところからアイデアが流れ込んできている。金融プロジェクトチームはまさにブラックボックスであり、竹中の狙いを表にさらさないための政治的装置だったのである。
・議事録を意図的に作成させない。情報公開を拒む竹中大臣の態度は頑なだった。確信犯的に、金融プロジェクトチームの活動をあとから検証できないような措置をとっていたのである。

「大きすぎて潰せないとは思えない」

・金融プロジェクトチームのシナリオ 2003年に引当金の積み増しを求める→2004年に「繰り延べ税金資産」の算入を制限する→銀行自己資本割れ
・銀行の反撃→政界へのロビー活動 青木幹雄参議院本会議での竹中批判 
相沢英之 シベリア抑留経験 大蔵省出身 政界における金融界の仕切り役 麻生の個人事務所で3人で深夜までやりあう

スキャンダル露呈

中央区佃の高層マンションに3つの物件を保有 その内1つを売却 大臣規範では国務大臣は在任中不動産取引を自粛するよう求めている 秘密会合のための他の事務所を用意するための資金捻出
・10月25日 東京丸の内の銀行協会で、大手銀行七行の首脳が顔をそろえて緊急記者会見 竹中批判

アメリカの強力な支持を盾に

・「安全保障の問題」まで持ち出す
・ハバード、『日本経済新聞』に「日本の銀行改革 新たな希望」と題する文章を寄稿
アメリカは事前に『竹中プラン』の内容を知っていた
・「竹中さんは和歌山の小さな商店の次男坊として育った。慶應大学の教授でございます、というイメージとは違うところがあることが、つきあっているとだんだんわかってくる。彼は徹底した合理主義者と見られているけども、実際には不合理なところがありますよ。『抵抗勢力』の人たちはそこを見誤ったと思う」
・慶大三田キャンパスでタウンミーティング明治維新のときも武士階級がなくなるまでには10年かかった。いま総理がやっていることは、当時の大久保利通がやったことと同じ」 

6章    スケープゴート

三井住友銀行の大規模増資

・2002(平成14)年10月30日に公表された「竹中プラン」は、予想どおり銀行にとってはきわめて厳しい不良債権処理策だった。「2004年度までに不良債権を半減させる」と明確化。
・「5勝1分け」
・年明け1月、三井住友銀行ゴールドマン・サックスを引受先として2回の増資 総額およそ5000億
・『週刊文春』2003年3月13日号「告発スクープ 竹中平蔵・三井住友西川頭取・ゴールドマン・サックス会長 三者密談」

ゴールドマン・サックスとの特異な契約

・2002年12月11日東京都内のホテル ゴールドマン・サックスCEOヘンリー・ポールソン 竹中 西川善文 COOジョン・セイン
・「ガバメント・サックス」
・チャールズ・エリス『ゴールドマン・サックス』「ゴールドマン・サックスは同行に大規模な投資を行い、これを受けて三井住友銀行ゴールドマン・サックス発行のCPにバックアップ保証をつけた。この革新的な取り決めで、ゴールドマン・サックスは、ウィリアム・ストリートという組織を通じて低コストで最大10億ドルの資金を貸し出すことができるようになった。ポールソンはいつでも引き出せるバランスシートを獲得した。この取り決めは、日本で投資銀行ビジネスを伸ばす大きな機会を提供することになった」
・最初の1500億円出資の際に、業務提携の契約。「ウィリアム・ストリート」という信用保証会社 損失が出た場合、三井住友が全額穴埋めをするという奇妙なスキーム
・「ゴールドマン・サックスが三井住友側に振り込んだ1500億円は、じつは数十分、数分単位でしかとどまっていなかった。『見せかけ増資』」

ウォール街を日本に導入する

ゴールドマン・サックス最高幹部の会談申し入れを、金融担当大臣が受けるか受けないかがすでに大きな意味をもっている
結局、金融行政の最高責任者だった竹中が果たした役割は、ウォール街の雄であるゴールドマン・サックスを日本に呼び込むことだったのである。
渡邉恒雄文藝春秋』2009年1月号インタビュー「『みずほとUFJはいらない』『長銀リップルウッドが乗っ取ったみたいに、あんなものを片っ端から入れるのか』と聞くと、『大丈夫です。今度はシティを連れてきます』」
モナコに籍を置く「ソブリン・アセット・マネジメント」がUFJ株を買い進める。子会社にメリルリンチが出資。
みずほ銀行、3000以上の取引先に協力を求めて、1兆円を超える空前絶後の巨額増資を決行。
・逃げ遅れたりそな銀行

銀行が潰れるか監査法人が潰れるか

監査法人に手を汚させる
日本公認会計士協会会長奥山章雄「監査人はいま、塀の上を歩いているようなものです。右に落ちれば銀行が潰れ、左に落ちれば監査法人が潰れる」

ある公認会計士の死

大和銀行あさひ銀行りそな銀行 新日本監査法人と朝日監査法人が共同監査
・朝日監査法人公認会計士平田聡2003年4月24日自宅マンションの12階から飛び降り自殺

梯子を外された会計士

・繰り延べ税金資産課税所得5年分資産計上→3年分に 自己資本比率8%→2%

暗躍する「金融庁顧問」

・朝日監査法人副理事長亀岡義一 木村剛落合伸治(オレガ)と日本橋「松楽」で会合

りそな銀行を破綻に導いた「裏会議」

・「金融問題タスクフォース」新メンバー中央大学法学部教授野村修也、マッキンゼー川本裕子、弁護士久保利英明
・5月17日2兆円公的資金投入決定
・自らの手は汚さず、監査法人を使嗾して銀行を破綻させ、公的資金投入を実現する――その戦略を実現させた手際はほぼ完璧だった。

7章   郵政民営化

金融庁落城

りそな銀行の破綻は、誰もがその解釈に悩んだ。政府が会計的な操作によって意図的に潰したことは明白だったけれども、一方で、政府が2兆円もの巨額支援をするのだという。あえて「金融危機」を招来しておいて、その危機を鎮圧するために税金を湯水のごとくつぎ込む意味はどこにあるのだろう。その意図をもっとも早く正確に汲み取ったのは、東京株式市場だった。
・通常であれば、銀行が倒産すれば、銀行の株も紙くずとなる。ところが、金融担当大臣の竹中は、りそな銀行の株主責任を問わない処理方法を採用した。株主からすれば、「りそな破綻」ではなく、「りそな救済」だったのである。ペナルティーを科されず、政府から2兆円もの資金支援を受けることができたからだ。
竹中大臣率いる金融庁不良債権処理の本質を理解した海外投資家たちは、いっせいに東京マーケットに資金を投入してきた。
・経営陣は責任を取って入れ替わる。→国家による銀行の乗っ取り
金融庁高木祥吉長官がスキャンダルから竹中の軍門に下る
UFJ銀行「検査忌避」事件→元幹部3人逮捕→金融庁の圧力で引当金積み増しを強要され4000億の赤字→東京三菱に吸収合併される

検察――もうひとりの主役

・村山治『市場検察』
松尾邦弘検事総長vs笠間治雄次席検事
原田明夫松尾邦弘但木敬一 3代続く検事総長は「革新派の法務官僚」『百年の一度の大事業』である司法制度改革を実現するために竹中と連携

経世会+親大蔵省=郵政民営化

小泉純一郎 1969年27歳 父純也が急死したため イギリス留学から帰国し 衆議院初出馬→僅差で落選→福田赳夫の秘書
・初当選以降根っからの「大蔵族議員
・金融界を監督する大蔵省は、郵政事業を所管する郵政省とは郵便貯金をめぐり対立する関係にあった。
・政治家として成長期にあった小泉が大蔵官僚から吸収したのは「財政再建」という命題であり、財政再建の文脈のなかで語られる「財政投融資」問題にも関心を向けるようになる。
財政投融資は、郵便貯金公的年金の積立金を、大蔵省理財局のもとにある資金運用部に全額預託し、大蔵省理財局がその資金を政府系金融機関特殊法人などに貸し出すシステムだ。
・郵便局が集めた郵便貯金などが、大蔵省を経由して、特殊法人などに貸し付けられて社会資本整備などに投入される。こうした公的金融のあり方は、高度経済成長が終焉して無駄な公共事業への監視が厳しくなるにつれ激しい批判にさらされるようになる。
・小泉、加藤紘一宏池会)、山崎拓(中曽根派→渡辺派→山崎派)、派閥横断グループ「YKK」=『反経世会
・小泉が関心を寄せた財政投融資改革は、経世会の権力基盤を解体するという政治的テーマと背中合わせになっていたのである

郵政マネーに目をつけたアメリ

CSISカルダーの論文「郵貯の活用が世界経済の活性化につながる」「日本の最後の切り札になるだろう」

「ゲリラ部隊」がつくった民営化案

・当然、自民党内の郵政族を中心に民営化反対勢力が猛反発することが予想された。だが、総務省所管の日本郵政公社の民営化を、総務大臣ではなく、経済財政政策担当大臣で金融担当大臣も兼任する竹中が取り仕切るやり方に、反対派は機先を制されてしまった。なにしろ、経済財政諮問会議に出席できるのは閣僚と日銀総裁、議論を主導するのは竹中大臣のもとで結束する4人の「民間議員」なのである。
・ゲリラ部隊 アメリカ大使館近くのアークヒルズエグゼクティブタワーのなかの事務所
岸博幸高橋洋一 
・岸 一橋→通産省→NY朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)→森内閣官房IT担当
・高橋 東大理学部数学科→経済学部→大蔵省→竹中と財金研で上司部下関係→プリンストン大学留学
マッキンゼー宇田左近「四分社化」

自民党は殺された!」

・「三事業一体経営」vs「金融事業の売却」
・竹中にとって計算外だったのは、日本郵便公社の生田正治総裁が金融部門の分離・売却に反対を唱えだしたこと。
・欺かれたと憤ったのは麻生や山口(俊一)だけではなかった。与党・自民党では、閣議決定事項は事前に自民党総務会で承認を得る慣例となっている。だが、「郵政民営化の基本方針」はこのプロセスも飛ばして閣議決定された。
自民党総務会長だった堀内光雄自民党は殺された!』「この日、平成16年(2004年)9月10日は、私にとって永久に忘れることのできない日となった。昭和37年以来、42年間にわたって自民党が維持してきた、党内の幅広い意見を党内調整によって集約し、最終的に総務会で了承された法案を閣議決定するという党内手続きが完全に無視された日だからである。この日、日本の議員内閣制度の石垣の一角が崩れさった…」
・「小泉首相は党内で議論を尽くすことより、ブッシュ大統領へのお土産にすることを優先した」

ブッシュに呼応する小泉

・2004年10月14日付けブッシュ政権年次改革要望書」にて郵政民営化、その後の独占禁止法の厳格な施行を要望
・「なぜ民営化が必要なのか」に答えられない。橋龍内閣で財政投融資改革はもう済んでいるので、実はもう民営化は不要。

B層を狙え!

・「郵政民営化TVキャラバン」全国27局の地方テレビ出演 電通に1億4100万
・さながらメディアへの補助金交付 新聞全国3紙 2500万 広告 翌月 全国5紙 全面広告 読売3400万 朝日2900万 毎日1800万 日経1400万 産経1000万 雑誌『文藝春秋』『日経ビジネス』各500万 週刊誌月刊誌33誌合わせて5000万 ラジオに6000万 インターネット3300万 電通が受注した「だから、いま民営化」というパンフレット2000万
・折込チラシ「郵政民営化ってそうだったんだ通信」テリー伊藤と竹中「郵政民営化って、わたしたちの町と暮らしを元気にするためのもの」配布部数1500万部 約1億5600万円
・広告会社スリード郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略(案)」縦軸にIQ(知能指数)、横軸に小泉政権構造改革に賛成か反対か ABCD4つの象限 A層は「勝ち組企業家」 IQが低いけどなんとなく賛成のB層 C層は「構造改革抵抗守旧派」 D層は無視 
郵政民営化政策的意味など理解できない層をターゲットに、「民営化賛成」の意見をもつよう刷り込む広報戦略を徹底的に展開していけばよい。そうあけすけに語っているわけだ。実際、金融部門の売却を再重視しているはずの竹中が、「郵政民営化って、わたしたちの町と暮らしを元気にするためのもの」とにっこり笑いながら説明する広報になっていた。 

なぜ、いま民営化なのか

・国会で大蔵省出身中川雅治小泉龍司や外務省出身城内実からの疑義。

暴かれた私信

・2005年7月5日衆議院で可決→参議院で否決→解散総選挙という奇策→圧勝 国会で成立 四分社化 10年以内に市場で売却が決定
・選挙前8月2日参議院 民主党櫻井充の質疑 ロバート・ゼーリック ブッシュ政権通商代表部(USTR)代表→国務副長官→ゴールドマン・サックス副会長 からの手紙 郵政民営化に対する要望が箇条書き タケナカーサン 感謝の言葉 メディアは取り上げず

不審を抱いた経団連会長

・2005年内閣改造 麻生更迭 竹中が総務大臣を兼務 
日本郵政株式会社 初代代表を西川善文と発表 牛尾治朗の仲介
★そして、重要な局面になると必ず、「これは小泉総理の指示です」と「小泉カード」を切る。=「上の意向」という顔の見えない官僚制全体主義の基本
経団連会長奥田碩の強い不信

小泉側近との確執

・竹中、小泉のときと同じ要領で安倍晋三を囲む勉強会をセッティング。大田弘子八代尚宏ロバート・フェルドマン等。
・「もともと大蔵族だった小泉さんは改革の矢面には竹中さんを立たせる一方で、飯島勲筆頭秘書官と財務省から出向した丹呉泰健秘書官を使い、財務省とのパイプもしっかりつないでいた。」
・飯島による小泉に対する注進後、竹中内閣を去り、任期を4年残して議員辞職

8章   インサイド・ジョブ

経済学的論拠が薄弱だった「構造改革

財政出動をできるかぎり抑える一方、金融緩和政策を積極的に行って、財政を再建するとともにデフレーションを解消し、税収を高める。ひとことでいえば、これが小泉内閣が描いた経済回復のシナリオ。
ポール・クルーグマン「『供給サイド』改革を実行すれば、必ず『需要サイド』に悪影響が出る」プリンストン大学アラン・ブラインダー「構造改革と同時に需要も喚起する二元戦略が必要だ」
専修大学野口旭『論座』2001年10月号「議論の焦点が『景気対策』に向かってしまうと、政権内の保守派=既得権益擁護派が政権中枢に入りこみ、構造改革の足を引っ張りはじめると危惧しているからかもしれない。あるいは、かねてから対立が伝えられる、景気優先派の領袖である自民党亀井静香氏らへの牽制なのかもしれない。しかし、こうした『政治力学的根拠による構造改革優先主義』は、経済学的には何ら根拠を持つものではない。それ自体一つの『政治』的判断である」
堺屋太一の忠告 
小泉内閣エコノミストの警告にも耳を貸さず、財政緊縮路線を突き進んだ。やがて、「プライマリー・バランス(基礎的財政収支)を2010年代はじめまでに均衡させて黒字化する」という大枠をはめる。基礎的財政収支とは、国債発行分を除いた税収などの「歳入」から、債務の元利払い分を除いた「歳出」を差し引いた収支のことだ。これを「黒字化する」という財政均衡主義を正式に採用したのだ。
・その結果、「構造改革」は地方交付税交付金や公共事業を大きく削り落とした。さらに、医療や社会保障といった生活に直接影響を及ぼす分野にまで予算削減で斬り込んでいく。製造業における派遣労働の解禁など相次ぐ大胆な規制緩和政策とあいまって、「痛み」は地方都市や低所得者層を襲った。
・あまりに急進的な「構造改革」は、人々の生活をあえて疲弊させることで「改革」に目覚めさせようとしているかにさえ映った。ほとんど必然性のない「痛み」だったからである。
小泉内閣が財政緊縮路線に固執したことで、日本銀行への圧力はすさまじいものとなった。財政出動が禁じ手となれば、過度に金融政策に頼らざるをえない。
・じつは、5年半におよぶ小泉長期政権の歩みは、異常ともいえる「超低金利」時代と軌を一にしていた。日銀による大量のマネー供給が「構造改革」の通奏低音なのである
政策金利を引き上げたりあるいは引き下げることで市中に出回るマネーの量を調整する。これが通常の金融政策である。だが、「量的緩和政策」は政策金利を引き下げる通常の金融緩和ではない。民間金融期間が日銀の口座に預けている日銀当座預金の残高に目安を設けて、ベースマネーを増やしていくことで金融緩和を実施する。ある意味、異形の金融政策である。
・2000年8月「ゼロ金利」解除→2001年アメリカでITバブル崩壊→2001年3月「金融緩和政策」

ブッシュ政権を支えたジャパンマネー

・日銀が2001年3月19日に開催した金融政策決定会合は日本の金融史に残る会合となった。「量的緩和」に踏み出す決定をしたからだ。じつはこの会合で、「量的緩和」に疑問を呈した日銀幹部がいた。日銀副総裁の山口泰である。
・日銀へのあからさまな要求を竹中は、「ハーモナイゼーションに一層の尽力をいただきたい」という言葉で表現した。
・日銀に一層のマネー供給を求める竹中大臣と、それを阻止しようとする山口日銀副総裁。ふたりの対立はその後、抜き差しならなくなっていく。ふたりを仲裁しようとしたのが加藤寛
・日銀の量的緩和政策で銀行に大量のカネを流し込んだものの、銀行から企業への融資はそれほど増えなかった。オーソドックスな意味での金融緩和効果はみられなかったのである。狭義の貨幣量である「ベースマネー」は急増したけれども、広義の貨幣量である「マネーサプライ」はそれほど増えていない。ところが一方、ベースマネーの膨張は為替相場に大きな影響を与えることになった。円安効果である。むしろ強力な円安誘導が輸出企業を潤し、企業業績を押し上げたのだった。
・ある意味で皮肉な結果である。竹中の主張とは違って、日銀の量的金融緩和は「構造改革」に貢献するよりも従来型の輸出振興策となって日本経済を支えたからだ。こうした日銀による大量のマネー供給を歓迎したのは日本の輸出企業だけではなかった。沸き立ったのは海外の投資家たちである。
★「キャリートレード」――日銀による量的緩和策の、それが帰結だった。投資ファンド量的緩和策のおかげで金利が無きに等しく、調達コストがかからない日本円で資金を調達し、ドルなどの外貨に交換してから投資した。当時の金利環境であれば、ゼロ%金利の円資産をドルに交換し、5%の預金で運用するだけでもまるまる5%の運用益を確実に稼ぐことができた。
・2003年 35兆円規模のアメリカ国債購入 ブッシュ政権イラク戦争ファイナンス アメリカの長期金利を抑えサブプライム・ローン問題の遠因

日本郵政アメリカに出資せよ」

・2008年4月「竹中平蔵上田晋也のニッポンの作り方」内で「日本郵政アメリカに出資せよ」5ヶ月後にリーマン・ショック
リーマン・ショック直後でも同番組でブッシュ政権の財務長官ヘンリー・ポールソンを絶賛 ポールソン新自由主義レーガノミクス)の信念を曲げて銀行に公的資金を注入
・この頃さすがに新自由主義に対する批判が起こる

改革利権に手を染めた経営者

・2008年12月日本郵政が「かんぽの宿」「かんぽの郷」など70施設と宿泊事業を総額109億円でオリックス不動産に譲渡する契約 評価額1000億円超 鳩山邦夫総務大臣が待った
宮内義彦 竹中の15歳上 双日オリエント・リース 40代半ばで社長 企業買収を繰り返して1大グループに
・98年9月 ニューヨーク証券取引所に上場 パチンコ業界やラブホテル業界への融資など 新興企業
・政府が旧日債銀を売りに出した際、買収した企業グループにオリックスも名を連ねていた。M&Aを繰り返すなかで、アドバイザーとして頼った投資銀行ゴールドマン・サックスとも宮内は関係を深めていく。投資銀行業に参入したオリックスは、独自のやり方でウォール街とのルートを開拓することに成功した。
オリックスアメリカで成功しているビジネスモデルをそのまま日本に援用して成功を収めてきた。そもそも株主には海外投資家が多く、小泉内閣発足時に4割ほどだった外国人株主比率は小泉内閣末期になると6割近くまで上昇している。実態としても、オリックスは「外資系企業」そのものだった。
・90年代半ば、細川内閣時代に行政改革委員会規制緩和小委員会の委員長に就任して以降、名実ともに日本の規制緩和勢力を束ねるリーダーとなった。
・小泉と「不機嫌の会」林真理子 ザ・アール奥谷禮子 
小泉内閣の総合規制改革会議議長、後継組織の規制改革・民間開放推進会議の議長「医療機関経営への株式会社参入」「株式会社による農業経営」
・2006年6月「村上ファンド村上世彰インサイダー取引容疑で逮捕 生みの親が宮内 
・万年野党 パシフィックフォーラム CSIS

かんぽの宿」疑惑のプレーヤー

・売却スキームを設計したのが竹中平蔵、売却する側の責任者が西川善文、買収する側の責任者が宮内義彦

あっけない幕切れ

・ゆうちょ銀行 クレジットカードが三井住友カード
・麻生vs竹中 菅義偉 中川秀直 牛尾治朗 結局麻生が折れて鳩山邦夫を更迭
・しかしまもなく、自民党そのものが大波にのみこまれる リーマン・ショックによる「派遣切り」 2008年暮 日比谷公園に「年越し派遣村
・2009年8月30日総選挙 政権交代 郵政改革担当大臣に亀井静香 「小泉・竹中の逆をやる」 西川善文を追放 元大蔵事務次官斎藤次郎を抜擢 副社長に財務省OB坂篤郎 竹中「日本の改革は失われてしまった」

映画『インサイド・ジョブ』が伝える真実

インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実』(チャールズ・ファーガソン監督 2010年 アメリカ)
・出演するのは 元FRB議長ポール・ボルカーアラン・グリーンスパン、投資家のジョージ・ソロスゴールドマン・サックスの幹部やアメリカ政府の元高官などのエリートばかり
・興味深いのは、経済学者の生態についても光をあてている点 たとえばハーバード大学マーチン・フェルドシュタイン AIGから高額報酬 リーマン・ブラザーズが破綻した後、政府による公的資金で救済される
・ローレンス・サマーズ クリントン政権財務長官→ハーバード大学長 ヘッジファンドから2000万ドルの顧問料 財務副長官、財務長官をつとめている際、サマーズはデリバティブ取引など金融業界の規制緩和を推し進める
・フェルドシュタインやサマーズ「優れた経済学者」の隠された半身が暴かれる
・竹中の盟友グレン・ハバードも登場 インタビュー中、顧問をつとめる会社を聞かれると怒り出す メットライフ生命役員 年25万ドル

りそな銀行破綻の闇

・2005年2月16日衆議院 民主党辻恵の追求 2000年4月 佃の1億8100万のマンション あさひ銀行から1億7000万の融資
・りそな破綻後 マッキンゼー川本裕子 社外取締役 りそな元副社長(あさひ銀行元頭取) 梁瀬行雄 オリックス顧問に
★りそな破綻後の知られざる結末の最たるものといえば、自民党への融資だろう。りそな銀行自民党に対する融資額は、破綻前の2002年末は約5億円にすぎなかった。ところが、破綻して政府から2兆円の公的資金を受けたあと、りそな銀行自民党への融資をどんどん増やしていき、2005年末には約54億円に達した。わずか3年間で10倍以上に増えている。破綻して公的資金2兆円で支援されたあと、りそな銀行自民党のメインバンクと化し、自民党を資金面から支えるようになったのである。

ミサワホームの怪

・兄 竹中宣雄「ミサワホーム東京」社長 創業者三澤千代治と奥田碩経団連会長との会談をセッティング 決裂後 メインバンクUFJ銀行は三澤に社長を退くように迫った。→産業再生機構入り→トヨタが買収 竹中が社長に

「改革は止まらない」

・「抵抗勢力」から奪い取った富は、「改革勢力」に与えられる。改革推進グループのなかで利益を分かちあうことが原動力となって、さらなる「改革」は推し進められていく。文字どおり「改革は止まらない」状態まで高揚する。
木村剛 日本振興銀行破綻 日本初のペイオフ 弘中惇一郎弁護士の口座に3億円資金を逃がす 銀行免許付与の際(金融担当大臣竹中)の議事録も残っておらず

おわりに ホモ・エコノミカスたちの革命

宇沢弘文「混迷する近代経済学の課題」
・1966年アメリカ上院外交委員会でのマクナマラ国防長官の答弁 効率的な戦争 コストに対する殺傷率 キルレイシオ
★宇沢は短い論考のなかで、自分を含めた世界の経済学者たちが信奉してきたものに疑いの目を向けている。とりわけ、「価値判断」をめぐる問題に彼はこだわった。
★経済学は、ある目的を達成するために「どのような手段を用いたらよいか」を扱うけれども、「どのような目的を選択すべきか」を扱う学問ではない――経済学の古典『経済学の本質と意義』でライオネル・ロビンズが展開した主張を、宇沢は批判的に検討している。ロビンズの主張をそのまま受け入れるなら、「公正さ」のような「価値判断」を伴う概念は、経済学で論じることができなくなる。
★事実、「平等」「公正」といった概念を無視し、「効率」のみを形式理論的な枠組みのなかで論じるようになったことで、この学問は「価値判断からの自由」を標榜できるようになった。けれども、それは見せかけにすぎないのではないか。そう宇沢は指摘した。「価値判断からの自由」は、「効率性のみを追求し、公正、平等性を無視する」という態度の表明にほかならない。そして、効率性のみ追求する知識人が現実の政治と固く結びついて影響力を行使するとき、取り返しのつかない災いが起きる。
★「効率的な爆弾投下」「効率的な枯れ葉剤の散布」を誇らしげに口にするマクナマラ国防長官に、宇沢は、経済学あるいは経済学者の究極の姿を見ていたのである。宇沢はかつて、ベトナム戦争に協力した経済学者が「キル・レイシオ(殺人率)」なる新たな指標を開発した事実を取り上げ厳しく批判してもいる。非倫理的な目的であろうとひとたび目的が設定されれば、それを達成するための有効な手段として経済学的思考は機能し得る。おしみなく協力する経済学者もいる。その事実に、「ことばに言いつくせない衝撃」を受けたのである。これを境に宇沢は、「社会的共通資本」という新しい概念を軸とした経済学を構築していくことになる。
・デイヴィッド・ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』ベトナム戦争のノンフィクション 現代版『ベスト&ブライテスト』がリーマン・ショック時のウォール街
・ささいではあるが象徴的なエピソード 竹中 自著(『あしたの経済学 改革は必ず日本を再生させる』)で寺島実郎の言葉を、親から聞かされた言葉だと勘違いして紹介する 融通無碍 言葉に責任がない 
・ソースティン・ヴェブレン 皮肉を込めて「ホモ・エコノミカス(合理的な経済人)」 経済学が仮定する人間 損得勘定、快感原則のみでうごく「欲望の塊り」
・第2次安倍政権 竹中 三木谷 産業競争力会議 労働市場のさらなる自由化 解雇規制の緩和  
パソナ 南部靖之 「農業従事者の人材派遣」「農業版ビジネススクール

あとがき

竹中平蔵を通じて”あるもの”を突きとめようとしていた気がする
・”あるもの”が伸張する条件は「言葉を殺す」こと
・2008年講談社月刊誌『現代』休刊
・2013年4月 

文庫版あとがき

・その後 未来投資会議 国家戦略特別区域諮問会議 
小渕恵三内閣(1998-2000)以来20年以上
橋本健二『<格差>と<階級>の戦後史』 1999年小渕内閣経済戦略会議「日本経済再生への戦略」
・答申によると、日本の経済成長をさまたげている最大の要因は「過度に平等・公平を重んじる日本型社会システム」である。このようなシステムのもとでは、「頑張っても、頑張らなくても、結果はそれほど変わらない」から、人々は怠惰になったり、資源を浪費したりする。だから日本経済を再生させるには、「行き過ぎた平等社会」と決別し、「個々人の自己責任と自助努力」をベースとした「健全で創造的な競争社会」を構築することが必要だ――。答申は、このように主張している。
・経済戦略会議は、根拠も示さずに日本の社会を「過渡に平等」だと決めつけ、さらに格差を拡大する方向に政府を誘導していった。会議はさまざまな政策を提案したが、そのなかには先に触れた派遣労働の原則自由化や、「努力した人が報われる公正な税制改革」と称する税体系の変更、具体的には所得税最高税率の引き下げと課税最低限の引き下げによる、富裕層の減税と低所得者増税が提言されている。この意味で経済戦略会議は、格差拡大を助長するその後の政府の政策を主導したということができる。
・しかし、それ以上に重要なことがある。それは、経済戦略会議のこの答申以後、日本社会は「過渡に平等」だというのが、いわば政府の公式見解となったため、政府が格差拡大の事実を直視することはなくなり、また格差拡大を食い止めよるような政策が実行される可能性もなくなってしまったということである。
・中谷厳の懺悔の書
・竹中氏は、社会学者の橋本氏が「その後の日本の運命を決定づけた」と指摘する提言を90年代末に「経済学者」として起草した後、2001年4月に小泉政権が誕生するや「大臣」に変身して、提言で示した方向に舵を切り、大胆に改革を実行していった。20世紀から21世紀にかけての世紀の変わり目、日本社会を大きく変質させた立役者が竹中平蔵氏であることは疑いのない事実である。
・かつて”改革”のイデオローグだった中谷氏が懺悔したのとは対照的に、竹中氏は改心どころか、今なお確信をもって安倍政権で”改革”を推し進める。最上階の窓から見渡せる、この新たな階級社会に満足しているのだろうか?いったい、なにが確信を支えつづけているのだろう?彼にとっての”改革”は、誰のための、何のための改革なのだろうか?
・竹中氏はとても饒舌だ。けれども、すべてが明瞭に語られているようで、そのじつ、肝心なところは秘匿されたままだ。
・文庫版2020年7月コロナウイルスパンデミック下で

2/20読了
●要約:竹中平蔵の生い立ちから現在までの軌跡。
●感想:日本国民必読の書だと思う。後日改めて詳しい感想を書く。