マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】竹田青嗣『プラトン入門』(2015 ちくま学芸文庫)

1999年3月ちくま新書の改訂版
目次

序 反=プラトンと現代

仮象としての現実世界と、これに対する真実在としての「イデア」の世界。
ニーチェハイデガーによる批判

第1章 哲学のはじまり

1.「普遍性」について

・宗教、神話=物語/哲学=物語を用いず抽象概念を用いて世界説明を行なう
アルケー=原理、起源
・絶対主義か相対主義かという対立事態、”普遍的な”ルールのもとで行なわれている
・哲学の普遍的思考とは、さまざまな共同体を超えて共通了解を作り出そうとする思考の不断の努力だが、思想の普遍主義とは、唯一絶対的な認識の観点が存在するという一つの独断的信念にすぎない。このことを混同すると、哲学や思想の「普遍性」ということの意味そのものを腐らせることになる。しかし、現代思想における普遍主義批判はまさしくこの混同のうちにある。

2.「原理」「概念」「パラドクス」

・哲学=世界の「原理」(起源=アルケー)とは何かを言いあてること
ピュタゴラス「世界の原理は数であり、宇宙の本質はハルモニア(=調和)である」
概念の具体化の錯誤

3.「根源」への問い――なぜ無ではないのか

・そもそも答えのでない問い
・「形而上学」の見せかけの問いは、純粋理論の領域でしか成立しない推論を、人間の経験世界にそのまま適用しようとする錯誤に由来する。
・人間の、生に対する根本的不安と、「絶対」を求める根本的希求

4.「原因」について――『パイドン』のソクラテス

・わたしの考えでは、「ヌゥス(知性)」こそ万物を秩序づける原理であるというはじめの直感は、プラトンの「イデア説」にとって決定的な意味をもっている。「原因・根拠」の本質を価値的な根拠関係としてとらえるという発想こそが、「真・善・美」という価値の秩序の本質それ自体を探求するという、従来のギリシャの思考には存在しなかった新たしいテーマを提出しているからである。
・「何が「原因・根拠」であるか」→「何が最善か」

第2章 ソクラテスからプラトン

1.プラトンとその時代

ペロポネソス戦争コレラ
・紀元前5世紀は、ギリシャの古典的宗教観が崩壊して世界観についてさまざまな諸説が並び立つ時代だった。

2.ソクラテスの裁判――「魂への配慮」

・✕富や名声を得ること、快感にふけること ○魂をできるだけ善いものにすること、自己自身の徳を高めること
ニーチェソクラテスプラトン批判=奴隷道徳、生権力論
ニーチェによれば、人間は根本的には「エロス」や「陶酔」や「美的なもの」、「超越的なもの」をめがけて生きている。「美」「エロス」「陶酔」、これらへ向かおうとする「力」の感覚こそ、生の本質にほかならない。しかし、個々の生がそのような欲望の本質をもつ以上、生への意志どうしのせめぎあいが必ず生じる。そしてこの矛盾を調整するために、人間社会は「徳」や「善」を不可欠なものとして生み出したのだ。つまり、「徳」や「善」は人間の本質的な生への欲求からくる確執を調停するための一手段であって、それ自身が生の本質なのではない、と。

3.ソフィストと詭弁論――『エウテュデモス』その他

ソフィストの詭弁批判

4.初原の言語学――『クラテュロス

・いい名付けと悪い名付けがある

5.哲学批判について――『ゴルギアス

・直感、直観
・善は美しく、悪は醜い
★政治家カリクレスの主張 
・――ソクラテスよ、私はいままで君たちの議論をずっと聞いていたが、ほんとうの詭弁家は君の方だと思う。つまり君は、善や徳や美という言葉が、その自然の本性(ピュシス=欲望の本来)と法律習慣(ノモス=法的な善し悪し)とではまったく違ったものとなるのに、巧みにそれらを混同することで自分の有利にもっていったのだ。
 これまでゴルギアスやポロスがあからさまにいうことをはばかっていたことを私ははっきりいおう。すなわちそれは、優秀な者、有能な者が劣悪な者、無能な者よりも多くもつことこそ自然の本来であるということ、これである。また法というものは、そういう弱者たちがより集まって作り上げたものであって、だからそれは能力のある者が多くもつことをできるだけ制限しようとする。したがって、その「正しい」は自然本来の「正しい」とは背反的なものなのだ。そして君はこの動かしがたい事実に目をつぶって、いろんな詭弁をなしているにすぎない。
 ねえ、ソクラテス。哲学というのものはたしかに結構なものだ。人が若い頃にそれに触れることは論理的な訓練という意味以上に大切なことだと私も思う。しかし必要以上にそれにかかわっていると、せっかく立派な人間となって社会的な名声を上げる可能性があるのに、その芽を潰してしまう危険が大いにあるのだ。彼らはしばしば、国家社会の一員として非常に偏った現実感覚しかもてない人間になり、また知らず知らずのうちに、ふつうの人間のもつ欲望や感情を敵視するような人間となる。
 しかし一方で、自分に何か大きな危害が降りかかってもそれを打開するためのしっかりした知恵ももてず、自分ばかりか、自分にとって大事な人間たちにそういうことが起こった場合にも、同様に何ひとつできないのだ。人間というものが、社会生活の中でつねにすいう問題にぶつかることを軽く見てはいけない。哲学の摂理はなるほど高遠で結構なものだろうが、そういう現実性への感覚を失ったところにほんとうの知恵はないのだ。それがソクラテス、哲学に対するぼくの考えなのだ――。
プラトンの対話篇には、しばしばこのような見事な異議が現れる。それがプラトンを一級の思想家にしている大きな要素。ニーチェもこの箇所で興奮した。

6.「本質」を取りだす方法――『メノン』

・人がある花を美しいと感じることができるのは、彼がそもそも「美」それ自体(=美のイデア)を知っていたから
プラトンは、およそものごとの「本質」は、個々の経験を越えて”普遍的”なものとして存在するはずだ、と考えた。あるものが「正しい」かあるいは「善い」かという本質的な判断は、各人の個別の信念からは決して導けない。それは個別の経験を越えた何ものかに根拠をもち、しかもそれは、もし適切な仕方で思考するならば誰もが到達できる、そういうものであるはずだ、と。
★人はものごとの「本質」の判断をこの世の自分の経験から得るのではなく、いわば天上界のイデアの想起によって得る。「想起説」が表現しているのは、プラトンのそのような考え方なのである。
・ここで注意すべきは、彼のイデア論は、さしあたりこのような直観の思想的表現として現れるのであって、その論理的証明ではないということだ。

第3章 イデア

1.絶対イデア主義について――『パイドン

・多くのプラトン批判は、特に『パイドン』に標的を定めている。プラトニックの極めつけの感がある。
プラトン 「いったい人はなぜ生きるのか、世界は何のために存在するのか」=イデアへの探求およびそれに触れるため
プラトンの問題意識=人々の欲望にいかに歯止めをかけるか
ニーチェの批判=「正しさ」「正義」の危険性。ドストエフスキー『悪霊』、ジッド『狭き門』
もともと、「魂への世話と配慮」こそ大事という考え方が現れる理由は明らかである。日常生活において、人々は必ず善意や同情、共感や助け合いといった素朴なモラルを育てている。人が家庭生活を営み、係累(面倒を見なければならない家族たち)や友人や仲間とのつながりの中で生きるかぎり、このモラルは自然かつ基本的なものだ。それが「道徳価値の自然性」ということである。
 人間は誰も「正しく生きるべき」であるという考えが極端であるのと同様に、「善」や「正しさ」をいうこと自体欺瞞的だ、という考え方も現実的なものとはいえない。ともに生活する人間どうしが、自分たちの行為や態度について「善いこと」や「立派なこと」を誉めあったり、世のさまざまな事態についてその「善し悪し」を考えたりするという要素は、人間の生活から取り払えない要素だからである。その意味で、人間の生活は自然なモラルを確保しあうゲームという側面をもっているといえる。
 しかし一方で社会生活は、この自然なモラルのゲームの上位に、経済ゲームや権力ゲームというもう一つのゲームを形作っている。そしてこの両者、生活上の自然なモラルゲームと社会的な経済ゲーム、権力ゲームは、しばしば、背反的な関係として現われる。この関係の背反性は、社会における政治や文化の一般的条件の指標でもある。この条件が劣悪であるほど、前者の「善し悪し」と後者の「価値」は一致しないばかりか、いっそう対立的なものとなる。そして、時代の状況の中でこの背反性が際立ってくるような場合に、しばしば「魂」のプラトニズムが現われるのである。
 すでに見たようにアテナイは栄光の後の頽廃期にさしかかっていた。伝統的なモラルのあり方とそれを支える秩序の精神を重んじる感覚は薄れ、政治と経済の権力がますます一切を決定するものになる。ヘーゲルのいう古典的な人倫の秩序はもはや調和を保てなくなる。
 社会的なゲーム(=成功ゲーム)と生活の中でのモラルゲームは、こういう状況の中で「善し悪し」を逆転させ、人々は二重の価値観(ダブルスタンダード)の中で生きることを強いられる。モラルゲームのルールは成功ゲームのルールに従属させられ、それは、生きることが欺瞞と虚偽に満ちたものだという意識を人々に強いる。この価値のダブルスタンダードは「ほんとうのものなどどこにもない」という感覚を強め、人間から「真・善・美」それ自体に対する信頼と確信を奪うのである。こうして世の中にニヒリズムシニシズムデカダン(頽廃)の空気がにじみ出す。
 こういう状況において、人間の内的な価値を守ろうとする精神が危機を感じて叫び声をあげる、ということが起こる。文学や思想の”内面化”の運動が生じるのは、しばしばそういう場面においてである。ルターやカルヴァン宗教改革における「魂至上主義」はそのような場面で起こり、日本の近代文学における過剰な内面化も、同じ状況を背景にもっていた。北村透谷が「厭世詩家と女性」で書いたように、「想世界」と「実世界」とのたえまない「争戦」が生じ、このたたかいに挫折した魂は自らの想世界の「牙城」に立てこもる、ということになる。
 ソクラテスプラトンが立っていたのもそういう場面であって、彼らは、この危機を克服するには、もう一度人間的な「価値」(真・善・美)の意味と根拠を確認しなおすほかはないと考えた。ソクラテスが「魂への配慮」こそ生にとって最も重要だというとき、この主張を支えているのは、あの成功ゲームとモラルゲームにおける価値の逆転を正そうとする動機なのである。
 ソフィストや弁論家は、言論をレトリックと説得の技巧に変えてしまう。それはつまり「真・善・美」の価値を徹底的に相対化し、ダブルスタンダードを正当化する。それどころか、その言論の方法は、「白を黒といいくるめる」説得術として人々の成功ゲームのみに奉仕する。だからこそ、この言論術における思想のダラクに抗って、言葉の力を「真」を導くための正しい方法として立て直さなくてはいけない。またそのことによって、「価値」の普遍的な根拠を見出す必要がある……。
★見てきたように、思想や文学が「正義」「徳」「誠実」といった「内面性」を強調するときには、必ずこのような事情が背景として存在している。価値のダブルスタンダード化は、人間の内的なアイデンティティを脅かしシニシズムニヒリズムの危機をもたらすからだ。しかしこれを立て直そうとする努力はまた、つねに価値の「自然性」の顛倒の危険を孕んでいる。その理由はつねに一つで、思想がモラルの価値を成功ゲームの価値から守ろうとして、成功ゲームの価値を「反動形成的」に否定しようとするからである。
 成功ゲームの価値は、ひとことでいえば競争原理、「強いものが多くを得る」という原理だ。しかしこれは必ずしも「弱肉強食」ということを意味しない。
 人は、しばしばいわれるように、富や権力への欲望から単純に成功ゲームに駆りたてられるわけではない。経済と権力のゲームは、一方でさまざまな矛盾の源泉でもあるが、もう一方ではあらゆる社会における基礎的ゲームでもあって、どんな社会においてもとくに男子は、いわば家族、近親、友人たちという観客を前にこのゲームでの成功を期待される存在として生きている。そしてこの期待に応えて皆の尊敬に値したいという気持ちが、人を社会的成功ゲームに駆りたてる主な動機なのである。重要なのは、この動機もまた、人間生活のうちの自然で不可欠な否定しえない要素だということだ。
 世間の中で他人と伍してやっていくこと、言い換えれば、経済的、政治的、また人間関係上の力関係のゲームに参加することは、どんな人間にとっても彼が属する役割関係の中での基本的な義務であり必要である。だから、この要素をまったく否認することは、それはそれで、生活関係の「自然性」を”顛倒”することになるのである。じっさい、初期キリスト教のような宗教は、モラルゲームと力のゲームの従属関係を完全に逆転しようとする過激な思想運動として現われた。
 ともあれ、『ゴルギアス』での哲学に対するカリクレスの異議は、まさしく、この極端な顛倒の感覚に対する違和感にもとづいていた。カリクレスにとって、哲学は、それが純粋にモラルの世界にだけ生きよという声として現われるかぎりにおいて、生活の実理を解しない無知で極端な理想主義にすぎないのである。ギリシャ哲学であれ、仏教思想であれ、中国の儒教であれ、また初期キリスト教であれ、およそ思想というものは、過剰な成功ゲームの論理から生じる人間性の危機を立て直そうとする動機をもっている。しかし、それはきわめてしばしば、いま見たような思想の反動形成性によって、人間生活の自然性にとって顛倒的なものにまでいきつく。こういう局面で思想は、少数の思想家や知識人の心情を支えるためのものになって、その初発の動機と生命を失う。
 こうして、思想は、いかにこのような純粋思考への傾向(=プラトニズム)に抗しつつ、自らを現実の土台の上にすえるかという課題をつねに抱えこんでいるのである。
 じっさいのところ、哲学と思想の世界史は、いわばこの反動形成の長い歴史であり、それに対抗する思想がつねに少数派だったことをよく示している(スコラ哲学対デカルト、近代ロマン主義ヘーゲル、近代道徳哲学対ニーチェ、そしてマルクス主義対……?)。また、わたしたちはそれと気づくことが少ないが、現代社会における「倫理」や「義」の思想で、右に見たような「反動思想」的類型からはっきりと免れているものはきわめて稀なのである。
・それでもプラトンを擁護する
イデア説=「絶対的な正しさ」の確保のための思想ではなく、普遍性の確保のための思想として生きている。

2.「三角形のイデア」と「諸徳の対立」――認識の普遍性とは

プラトンにおける「魂の至上主義」や「善のイデア」の絶対化は、すでに見たように二つの動機から現れていた。一つは、人々の現世的欲望に歯止めをかけて成功ゲームの価値を抑制すること、もう一つは、「何のために生きるか」という問いに明瞭な答えを与えて人間的価値(モラルゲーム)の優位性と普遍性を立て直すことである。
・三角形のイデア=三角形の「概念」
イデア=本質
・永遠の相=神
・共通了解=普遍性=土台
・価値=「善し悪し」
イデア説の変遷①~④
・マッキンタイア『美徳なき時代』 『ピロクテーテース』『アンティゴネー』家族を食わすために、価値のない商品を客に売りつける 
・諸徳の不整合、対立 →これを乗り越える総合的な徳を探す
・自らの共同体と距離をとって、それに疑いをもちうる観点を見い出す
・諸「徳」の根本的根拠としての「善」
・「イデア」は、人間の諸価値の本質、つまり、「真・善・美」という価値の(=諸徳)の「本質」を表現するもの
・「イデア」=宇宙
・美しいと感じる感性
ア・プリオリ
ラカン現実界 象徴不可能な「X」
フッサールの円の定義
・「宇宙の外部に存在する何ものか」

3.アリストテレスイデア批判――「原因」の観念について

アリストテレス「中庸の徳」非常に合理的でバランスの取れた理性の持ち主
・宗教性、神秘性、超自然性、検証不可能性
・ビッグバン
アリストテレスにおいて「善」は、「四因」のいち要素としての「目的」因を”言い換えた”もの

4.「太陽の比喩」と「洞窟の比喩」――「善のイデア」とは何か

・最初に若者2人による「正義」についての問い
・「不正」をして財をなしても、本当の友人がいない心の空洞
・グラウコン「ギュゲスの指輪」透明人間の話
・①「自己中心性」のアポリア②「徳福一致」のアポリア この二つのアポリアは、この謎が解けなければここを通る資格がないといって立ちふさがる「正義」や「善」という観念にとっての最大の試金石としてのスフィンクスだからだ。
根本敬「でもやるんだよ」 人は必ずいつか死ぬ カープ男黒田
・「太陽の比喩」光源としての善のイデア
・「洞窟の比喩」囚人は振り返れない
・「教育」とは、無知な人々に単に知識を注入することではなく、後ろを振り返らせる、状況を俯瞰して見せること
ラッセルの批判 ただの神秘主義
ハイデガー丸山圭三郎)の批判 この世を仮象の世界とすることで自然破壊など悪しき「人間中心主義」「ヒューマニズム」の源泉になった。=「形而上学」批判。
・これらイデア説批判の大きな要点は二つである。一つは、この世界のかなたに「超感覚的な本当の世界」があるという考えへの批判、またここに真理の絶対的源泉であると同時に究極的到達点(善のイデア)があるという考えへの批判。見てきたように、このようなプラトンの真理の彼岸主義、究極主義が、キリスト教からヘーゲルへといたるヨーロッパの神学と形而上学の、また観念論と普遍主義の源泉となったというのが現代的なプラトン批判の通説。

5.「善のイデア」とは何か――”知ること”の本質

・認識論の側面 主観ー客観
・「知」の普遍 ここでプラトンがいわんとするのは、なにより、”本質的な知”のあり方を区別せよということだ。「教育」ということが結局処世の知識や弁論術の習得にすぎないのであれば、それは、ただ自分の利益だけを追求し、自分の思惑(意見)を巧みに押し通すための技術ということに帰着する。
プラトンが「真のイデア」ではなく「善のイデア」と呼んだことに意味がある。
★「慎み深さ」とか「勇気」とか「友情」といった諸徳があって、しかもそれについての人々の考えはみな食いちがう。もしその食いちがった意見からより「正しい」(=普遍化された)意見を取り出そうとするなら、その方法は一つしかない。つまり、「慎み深さ」「勇気」「友情」それ自体が何であるかと考えるのをいったんおいて、それらを”徳”たらしめている本質を考え、そこからそれらの言葉をもう一度照らしかえしてみる、という方法である。そしてこのとき決定的に重要なのは、諸徳を”徳”たらしめているその共通本質は「善」であるということ、言い換えれば、「善いとはいったい何であるか」についての本質的な知だけが、諸徳の本質を普遍的なものとして取り出すための唯一の根拠だということである。諸「イデア」のその背後に、光源としての「善のイデア」があるとはそういうことにほかならない。
★こうしてわたしたちは、プラトンの「善のイデア」という概念が、一つの独自の思想の表現であることを理解すべきである。すなわちそれは、「善い」ということの本質の深い理解だけが、諸徳の本質だけではなく、他の一切の事物の存在本質(=形相=それが何であるかを説明する根拠)を照らしうる、という思想である。プラトンが世の中の一切の事物がその存在と本質を「イデア」にあずかってもつと説いたのは、まさしくそのような理由による。
★さらにもう一つ大事なことがある。プラトンにおいてこの「善のイデア」は、一切の事物の本質を照らす根拠であるとともに、人間の魂の欲望の真の対象として性格づけられている点だ。
・魂の欲望 魂の叫び 欲望の源泉 「ほんとう」への欲望 生の哲学に繋がる

第4章 エロス、美、恋愛

1.恋(エロス)の「本質」とは?―『饗宴』その1

プラトン哲学の方法の核は”本質考察”。
・なぜ男女は引き合うのか
・人間は美しいもののなかで「出産」を目指す。
・人は恋の情熱に出会ったときにはじめて、自己の存在を何か自分を超えたもの(永遠なるもの)につなぎうるというあるいい難い感覚をもつ

2.美の「ほんとう」について―『饗宴』その2

・醜いものの中では出産は不可能
・「善のイデア」と「美のイデア」における並行関係
・人間のエロス的欲望がその対象を「ほんとうのもの」、言い換えれば「超越性」としてもつということ、まさしくそのことこそ、多様で分離された生を生きる人間が”普遍性”というつながりの糸をもちうることの根拠である、と。

3.恋愛のアポリア――『パイドロス』その1

・リュシアス説 恋するものは目が曇っている
★恋は誰も知っているように「狂気」的性格をもつ。しかしそれは無条件に悪いことだろうか。いやそうではない。「われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。むろんその狂気とは、神から授かって与えられる狂気でなければならないけれども」。恋愛とは何か。それは「聖なる狂気である」
・カントの「理念」という概念は、理性が経験を超えてある完全な状態(理想的状態)を思い描く能力からくる。たとえば、人は欠けた月を見て完全な満月を思い浮かべる。また、自然界には完全な直線は存在しないが、人は不完全な直線を見て完全な直線を観念の中で想像することができ、これが概念として純化されて直線の「理念」となる。同様に、ほんとうの意味で完全なる「徳」をもつ人間はいないが、人は完全なる「徳」のイメージを想像することはできる。そしてこのありようを概念として純粋化できる。カントによれば、これがプラトンの「イデア」の意味するところである。

4.エロティシズムとプラトニズム――『パイドロス』その2

・『クレーヴの奥方』『若きヴェルテルの悩み』『アドルフ』『赤と黒』『嵐が丘
・「宜(うべ)なるかな、その身に美をそなえた人こそは、この魂の畏敬のまとであるのみならず、最大の苦悶をいやしてくれる人としてこの世に見出すことのできた、たったひとりの医者なのである」
・各人は、それぞれの”好み”で誰かを好きになる。だが、この”選好”あるいは”えり好み”の意味するところは重要だ。つまり、人は幼いうちからすでに自分に独自の「よい」や「美しい」の感受性を育てていて、その上で、この感受性に強く働きかけるような美をもった人に引きつけられるのだ。だから彼は、このとき、恋人の美(と美質)のうちに、自分自身の「善や美」の理想(=イデア)を直観している。だからこそ、恋人はある意味で彼自身の「神」となる。
・反=恋愛小説 ラクロ『危険な関係』サド『悪徳の栄え』フローベル『ボヴァリー夫人トルストイ『クロイツェル・ソナタ』ケッセル『昼顔』 恋愛の幻滅(ディスイリュージョン)
・「2頭の馬と馭者(ぎょしゃ)」のミュートス(神話)
★人間の欲望が「至高なもの」を対象とする本質をもつことが、その挫折からくる反=至高なるものの観念(シニシズムニヒリズム)の「根拠」なのである。=シニシズムニヒリズムが逆に至高性の根拠
・人間の生の欲望は、個々の欲望を通して必ず「至高性」をめがけざるをえないような本質をもつ。同様に「知ること」への欲求は、個々の「知ること」への要求を通して必ず「普遍性」をめがけるような本質をもつ。そしてこの「至高性」と「普遍性」が否認されるとき、個々の欲望と個々の「知ること」への要求はその深い根拠を喪失して生き生きとした意味を失う。これがシニシズムニヒリズムの定義なのである。

第5章 政治と哲学の理想

1.「イデア説」のパラドクス―『パルメニデス』『ソピステス
2.プラトン言語思想の核心―『テアイテトス』

・『ティマイオス』「神」による宇宙創造説
・『テアイテトス』 「真の知識」は粘り強く、言葉を使ってことがらを「つまびらかにする行程」それ自体の知

3.最善の国家とは――『国家』『ミノス』

・『国家』「役割分担説」
①理性的部分としての統治階層――人間における「知恵」の徳を象徴する。
②気概的部分としての軍人階層――同じく「勇気」を象徴する。
③欲望的部分としての商工者階層――人間の「欲望」や「快楽」を象徴する。

4.原理としての「政治」思想

・ひとことでいって、近代社会思想の根本課題は、教会と王権に支えられていた封建的身分制度を壊し、成員のすべてがルールのもとに対等であるような社会をはじめて作り出すことにあった。だから、近代的な政治概念の第一の公準は、その社会の成員全体の欲望と自由の解放ということ、言い換えれば、生き方における自己決定と享受(消費の自由)の解放ということだった。
・中世社会は、ただひたすら生産に従事する(労働する)だけの95%の大衆と、もっぱら消費を享受するだけの5%の支配者階級の固定的な構造による極端な身分社会だった。だからこそ近代政治の最大の課題は、いかに多くの人々に、自己実現と自己決定の「自由」を解放し分配するかということにあった。そして、そもそも、この人々の欲望と自由の解放という公準なしには、政体としての「共和政」や「民主政」の優越性の根拠は存在しないのである。
・繰り返していうと、民主政が他の政体に対して優越性をもちうるのは、そこに、広範な成員の自由を解放しその自由と権利を維持しつづける、という課題が存在するかぎりにおいてである。そして政治がそのような課題において機能するには、歴史的な条件を必要とする。この条件がないところでは、政治は、権力の統合を繰り返して古代型の帝国へと進むか、それが妨げられているところでは、プラトンが分析したように貴族政→寡頭政→民主政→僭主(本来の皇統、王統の血筋によらず、実力により君主の座を簒奪し、身分を超えて君主となる者)政といった変転を繰り返すほかないのである。
・そこでは民主政は、才覚ある個人の政治的引き回しによって寡頭制や王政より悪くなる可能性もつねにもっており、とくにすぐれた政治を行うという原理や根拠をもたない。だからプラトンが、『ポリティコス(政治家)』で、統治が全員あるいは少数、または1人で行なわれるかは「問題ではなく」、要は統治者が「真なる知識」をもっているか否かだと主張するのはさほど驚くべきことではないのである。
民主政は、いわば人々の欲望と快楽をより多く約束する党派が勝利するようなゲームである。だから民主政はとくに、一方で欲望の享受を加速しつつ、一方で「ほんとう」など存在しないという考え方を蔓延させるゲームとして現われる。ここでは、僭主政ではそれなりに配慮される国家の存続、維持という重要な課題も、権力ゲームが作り出す目先の課題によってスポイルされ、しばしば人々を破滅の淵に追いやる。
・民主主義がそこに生じうるさまざまな矛盾を自ら克服しうる原理は、これを追いつめていえばただ一つのことに帰着する。それはつまり、社会が必要とするさまざまな機能に関して、意見、提案、プランの水路を可能なかぎり一般大衆に開くこと、そのことによって、つねに公共的に優れた考えが一部の利害しか代表しない考えを超えて諸ルールにより反映される、そのような思想の自由競争のシステムを確保することである。この場合、成員の一般的な感覚だけが、政治的、社会的提案や意見のよしあしを判定する根拠となることはいうまでもない。
・自由と欲望の解放を公準とする民主政が右のような条件をもてない場合には、政治の可能性の原理は当然もう一方に振れることになる。もし自由な市民社会が競争原理だけを拡大して、その矛盾を解決できないとき、それは競争の特権的な勝者による固定的支配をまねき、結局、自由の解放とフェアな競争という理念そのものが危うくなる。これが民主政治の固有の難問(アポリア)である。

あとがき

・1999年2月新書

文庫版あとがき

・哲学の中心問題は大きく3つ「存在の謎」「認識の謎」「言語の謎」
パルメニデスーゼノン「言葉はなんとでもいえる」
・2015年4月
6/5読了
◆要約:プラトンは西洋的普遍性の元祖とされ、特にポストモダン連中から批判されているが、その批判はほとんど当たらない。彼はプラットフォームとしての普遍性いわゆる善のイデアを言ったのであり、絶対的真理などを言ったことはない。
◆感想:イデア論の課題を書かなくてはならなかったので読んだら、意外とその他の部分も面白かった。『ゴルギアス』の政治家カリクレスの主張が面白い。生活上の自然なモラルゲームと社会的な成功ゲームの背反関係の話、そしてモラルゲームの顛倒の話が特に面白かった。『国家』の「民主政」批判の部分も面白かった。