マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】マックス・ウェーバー著、中山元翻訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(日経BPクラシックス 2010年)

原書初版は1905年。2版(1920年)の訳。
目次

第1章 問題提起

1.信仰と社会的な層の分化

資本家と上層の労働者におけるプロテスタンティズム信仰

・現象の原因なのか結果なのか
・ヴェルナー・ゾンバルト『近代資本主義』(1902年)『ブルジョア』(1913年)、ルヨ・ブレンターノ『近世資本主義の起源』(1923年)への批判

高等教育におけるプロテスタントの生徒の比率
ドイツのカトリックの異例性

・ドイツのカトリックは迫害されていても、頑張らない ↔ フランスのユグノーイングランドの非国教徒やクエーカー派、ユダヤ
・経済的な合理主義

カトリックプロテスタントの対比について

プロテスタントは本来禁欲的

プロテスタントにおける世俗と宗教

プロテスタンティズム=商人層に普及 
・非常にストイック

本書の課題

・できるかぎり明確に「定式化」すること

2.資本主義の「精神」

「資本主義の精神」の概念の定義

・「歴史的な概念構成」

資本主義のエートス――フランクリンの文章から

ベンジャミン・フランクリン「吝嗇の哲学」→何よりも自分の資本を増やすことを自己目的とするのが各人の「義務である」という思想→倫理、エートス

フッガーとフランクリンの違い

・フッガー=商人らしい冒険心
>>金を稼ぐ、貯めることが宗教になっている<<

フランクリンの道徳

・「ただしフランクリンの道徳的な姿勢はどれも、功利主義的な方向に向かっている。正直であることは、信用を作りだすために有益であるし、時間を正確に守ること、勤勉であること、節約することも、信用を作りだすために有益だとされている。そうした理由で、これらは美徳であるというのだ。このことから、正直であるという見掛けが同じ効果をもたらすのであれば、この見掛けだけで十分であるということになる。フランクリンにしてみれば、必要な以上に美徳を心掛けることは、非生産的な浪費として咎めるべきことだろう。

実際のところフランクリンの自伝を読んでみて、あのような美徳の実践に「改心」した物語とか、つつましく暮らしているという見掛けや、自分の功績を意図的に隠しているという見掛けをあくまでも保つことが、人々から尊敬されるために役立つという説明にであうと、どうしても次のように結論せざるをえないのである。フランクリンは、こうした美徳やその他のすべての美徳というものは、各人にとって実際に役立つかぎりで美徳となるのであり、たんなる見掛けが同じ役目をはたしてくれるのであれば、見掛けだけで十分だと考えていたに違いない、と。これは功利主義を厳密に適用した場合には、避けられない結論であろう。

ドイツ人にとっては、アメリカニズムの称揚する美徳なるものが「偽善」としか感じられない理由は、まさにここにあるようである。ただし実際のところは、事態はそれほど単純ではない。ベンジャミン・フランクリンがごく稀な率直さをもって自伝のうちで明らかにしている彼の性格からみて、さらにフランクリンは美徳の「有益性」を理解したのは神の啓示によってであると主張していること、神はフランクリンが善行をなすことを望んでおられると考えていることなどからみて、これは自己中心的な原理を曖昧に表現したものではないことはたしかなのである。

むしろこの「倫理」の最高善(スマム・ボヌム)は、あらゆる無邪気な享楽を厳しく退けてひたすら金を儲けることにある。そこにはいかなる幸福主義的な観点も、快楽主義的な観点も存在しないのであって、これが純粋な自己目的として考えられているのである。これは個人の「幸福」や「利益」などをまったく超越したものであり、およそ非合理的にみえるほどである。利益を獲得することが人生の目的そのものと考えられているのであって、人間の物質的な生活の欲求を充足するという目的を実現するための手段としては考えられていないのである。」

職業の義務の思想

・職業倫理・規範に反すると、経済的に排除される
・現代の資本主義的な経済秩序は巨大な宇宙(コスモス)であって、各人は生まれるとともにこの宇宙のうちに入るのである。すべての人は少なくとも個人としては、この改造することのできぬ<檻>のうちに住むことを、事実として強いられているのである。

資本主義の倫理と「前資本主義的な」倫理

ベンジャミン・フランクリンの思想→古代や中世であれば、汚らわしい吝嗇漢の言葉として、品位のない心情の表現として、排斥されたに違いない。
ルネサンス期レオン・バッティスタ・アルベルティ『家政論』、ローマ時代大カトー、ウァロ、コルメラらとの違い。それらは処世訓。

伝統主義――労働者の実例

・資本主義の「精神」は、「倫理」という衣服をまとって、特定の規範によって拘束された生活スタイルとして登場した。

出来高賃金の問題

・農業収穫物の取り入れ 出来高賃金を上げると、逆に労働者は短い時間しか働かなくなり、沢山働いてほしい経営者の思惑が外れる
・労働者が関心をもったのは、報酬を増大させることではなく、仕事の量を減らすことだった。
・「足るを知る」。これは「伝統主義」と呼ばれるべき生活態度の一例である。人は「生まれながらにして」金のために働くのではないし、できるだけ多くの金を稼ぐために働くのでもない。ただ生きることを、しかもそれまで慣れてきた方法で生きることを望むのであり、それに必要なだけを稼ぐのである。
・賃金率を引き上げて労働者の「営利心」を刺激することに失敗した場合には、経営者がその反対の方法を試みるようになるのは、当然のことだった。すなわち賃金率を引き下げて、それまでと同じ額の報酬を維持するためには、「これまで以上に」働かざるをえなくしたのだった。
・資本主義は最初からずっとこの方法を採用してきたのであり、賃金を引き下げると「生産性が高くなる」というのは、数世紀の長きにわって信じられてきた信条なのである。ピーター・ド・ラ・クールが語っているように、民衆は、貧しいから働くのであり、貧しいあいだしか働かないのである。

労働意欲と宗教教育の関係

・意識の高い労働者をどう作るか、どう確保するか。

伝統主義――実業家の実例
「資本主義の精神」再考

・階級上昇を目指す中産階級

「資本主義の精神」の担い手
資本主義の精神を導入する<革命>
<革命>の実例
事業の形式と精神の齟齬
倫理的な資質としての資本主義の精神

しかしある時期に急激に、こうした快適な生活が乱されるようになった。しかも集中的な経営方式への移行や機械を使った製造活動への移行のような組織形態への大きな変動なしに、こうした攪乱が生じることも多かった。実際に起きたのは、次のようなことだった。[まず製造の側面では]都市に住んでいた前貸問屋の一家の若者が農村を訪れて、自分の要望を満たせるような織物職人を慎重に選別した。そして職人たちを管理して、問屋への依存度を高めるようにして、半ば農民であった職人たちを労働者に仕立てあげたのである。次に[販路の側面では]問屋は最終購買者にできるかぎり直接に販売するように心掛けた。小売業の仕事をすべて自分で引きうけて、顧客を個人的に獲得し、毎年決まった時期に各地を訪問し、とくに顧客の要望と必要にあわせて品質を改善し、顧客の「好みにあった」製品を生産することができたのだった。そして「薄利多売」の原則が採用され始めた。
このようにして「合理化」が行われるときにつねに生じる結果が、どこでも発生したのだった。すなわち向上することができない者は、落ちこぼれるしかないのである。競争が激化するとともに牧歌的なやりかたは姿を消し、大きな利益が獲得された。この利益は利息を目的に貯蓄されることはなく、つねに事業のために投資されたのだった。のんびりとした生活は姿を消し、厳しく冷徹な生活が生まれた。[生活が厳しいものとなったのは] 競争に負けずにさらに富を増やそうとする人々が、消費するのではなく、利益を増やすことを望んだからであり、昔ながらの生活様式を守ろうとする人々は、節約しなければならなくなったからである。
・そしてこれが重要な点なのだが、このような変革を引き起こした原因は、あらたな資金が流入したことではなかったのである。わたしの知っている多くの事例では、親類から借り入れた数千マルクの資金で、この革命的なプロセスの全体が遂行されたのである。変革の原因はむしろ新たな精神が誕生したこと、「近代の資本主義の精神」が誕生したことにある。
・近代の資本主義を発展させた原動力は何かと問う場合には、資本主義的に利用できる貨幣がどこから獲得されたかをまず問題にすべきではない。何よりも資本主義的な精神がどのようにして生まれたかを問うべきなのである。この精神が息づき、力を発揮できる場所であれば、活動の手段である貨幣もみずから作りだすことができるのであって、その逆ではないのである。
・しかしこの精神の誕生は平和的に行われたわけではなかった。最初に革新を実行した人には激しい不信の念が向けられ、ときには憎悪が、とくに道徳的な憤慨が浴びせかけられるのがつねだった。その人のそれまでの生活の秘密に満ちた〈影〉について、文字通りの怪しい噂が語られることも多かった(わたしは多くの実例を知っている)。このような「新しいスタイル」の実業家には、損失をこうむっても冷徹に自己を制御でき、道徳的および経済的な破綻を防ぐことのできる強固な性格が必要であることを、他者が公平に判断するのは決してたやすいことではないのである。こうした革新者には、明晰なまなざしと実行力と、断固とした顕著な「倫理的な」資質がそなわっていなければならない。それでなければ革新に必要な顧客や労働者から信頼を獲得することはできないし、無数の抵抗を克服してゆく意志の力を維持することはできないし、快適な生活の享受とは縁遠い厳しい労働が必要とされるときにこれに集中することもできないのである。過去の伝統主義にふさわしいありかたと対立するのは、このような特別な種類の倫理的な資質だったのである。

変革の担い手

・経済生活において新しい精神が貫徹されたことは、外見からはほとんど見分けられないが、決定的な転換をもたらすものだった。こうした転換を生みだしたのは、経済史のどの時期にも姿をみせる無鉄砲で厚顔無恥な投機師や、経済の分野での〈冒険者たち〉ではなかったし、たんなる「大金持ち」でもなかった。むしろ厳格な生活の規律のもとで育ち、冒険すると同時に熟慮する人々、とくに市民的なものの見方と原則を身につけて、醒めたまなざしで弛みなく、綿密かつ徹底的に仕事に従事する人々こそが、こうした転換を遂行したのである。

資本主義の精神と宗教性

・非合理的なまでに仕事(「天職」)を追求する。

資本主義と「呪われた金銭欲」

・一生に使い切れない金銭を得ようとすること=「呪われた金銭欲」

倫理に反する営利活動

・貨幣を獲得することを「天命(ベルーフ)」と考える=人間に義務付けられた自己目的とみなすという心構え→それが生活態度にまでなる
・教会法=利子をとることを禁じる 金儲け=基本的に恥ずべきこと

資本主義の合理主義

・計数的、科学的な合理主義

天職の思想の系譜への問い

3.ルターの天職の観念―研究の課題

天職としての職業の語について

・職業=ドイツ語ベルーフ、英語コーリング 神から与えられた使命

天職の観念の新しさ

・天職概念=宗教改革の産物=プロテスタントの中心的な教義
・神に喜ばれる唯一の方法は、修道院での禁欲を世俗内的な道徳よりも高く評価するのではなく、各人の生活における姿勢から生まれた世俗内的な義務を遂行することにあると考えるものである。こうした義務の遂行こそが、その人の「召命(ベルーフ)」であるとみなすようになったのである。

ルターと天職の概念

・ルターは修道院で過ごすような生活は、神の前で自分を義とするためにはまったく価値のないものであるのは自明だと考えた。それだけではなく、こうした生活は現世の義務から逃れようとするものであり、利己主義的でおもいやりのない心から生まれたものであると考えたのである。

職業の道徳的な性格

宗教改革のもたらしたもの、とくにルターの業績のうちで後世に最大の影響をもたらしたものの一つが、世俗の職業生活にこのような道徳的な性格をあたえたこと

ルターと資本主義
ルターの思想の変遷
ルターの伝統主義
カルヴィニズムの影響

・ミルトン『失楽園』=一貫してプロテスタント的信仰を基盤にした内なる自由の理念の追求

ピューリタニズムの現世重視
宗教と倫理
研究の方法論について
研究の目的

宗教改革の影響が、どの程度まで[現代文化の発展の]歴史的な原因として寄与しているか あくまで限定的、one of them だとわかった上で、その影響を考察する

第2章 禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理

1.世俗内的な禁欲の宗教的な基礎

プロテスタンティズムの4つの担い手

・①カルヴィニズム②敬虔派③メソジスト派④再洗礼派

予定説の要約

・カルヴィニズム 16-17世紀にかけて オランダ、イギリス、フランス 大規模な政治的・文化的な闘争の焦点
・1647年ウェストミンスター信仰告白 カルヴァン主義の正統的な神学を体系的に説明

予定説の発生とその影響

・この予定説をミルトンが批判して「わたしはたとえ地獄に落ちようとも、このような神を尊敬することはできない」
・彼(カルヴァン)の宗教的な関心のうちで、人間ではなく神だけを重視する方向に思索が徹底的に深められてゆくとともに、この教義はますます重要な意味をもつものとなった。人間のために神が存在するのではなく、神のために人間が存在するのである。だからあらゆる出来事は、神がそのいと高き栄光をみずから高めるための手段としてしか意味をもたないのである。そしてごく一部の人々だけが救いの至福に召されている(ベルーフェン)というのは、疑いようのない事実であり、これもまた神の栄光を高めるためだけに定められているのである。
・だから地上の「正義」という基準で、神の至高なる導きを測ろうとするのは無意味なことであり、神の至高性を損ねることになるのである。というのは、自由であるのは神だけであって、神はいかなる法にも服していないのであり、神の決意を人間が理解できるとすれば、あるいはそもそも知ることができるとすれば、それは神がみずからの決意を人間に伝えることが好ましいと判断した場合にかぎられるのである。
・人間が頼りにできるのは、こうした永遠の真理の断片だけである。わたしたち個人の運命の意味など、その他の一切のことは暗い神秘に覆われているのであり、それを探ろうとしても知ることはできないし、探ろうとすることは、そもそも傲慢なことである。神に見捨てられた者が、その運命が不当であると苦情を述べようとしても、それはあたかも獣が、人間に生まれなかったのは不当だと不満をこぼすようなものである。というのもすべての被造物は、架橋することのできない深い淵によって神と隔てられているのであって、神がみずからの栄光を輝かすために別の[永遠の生を与えるという]決定を下さないかぎり、神の前ではただ永遠の死に値するだけなのである。
・わたしたちが知りうるのは、一部の人間だけが聖別されていること、その他の人々は呪われたままの状態にとどまるということだけである。人間の功績や罪過が、この運命の決定に与かっていると[すなわち神の決定に影響すると]考えるのは、まったく不可能なことである。それは、永遠の昔から決定されている絶対に自由な神の決意を変えうると考えるようなものなのだ。新約聖書では「天にいます父」は、人間にとって理解しやすい存在であり、まるで一人の女が[なくしたと思っていた]一枚の銀貨をみつけて喜ぶように、[失われた]罪人の帰還を喜ぶ[父のように親しみやすい]存在であった。しかしこの[予定説の]神は、人間のいかなる理解をも拒むような超越的な存在になっていて、人間にはつきとめることのできない決断によって、神は永遠の昔から各人の運命を決定しているのであった。そして宇宙のもっとも微細なものにいたるまで、すべてのものについてその処置を終えているのである。神の決定は変えることのできないものであるから、神から恩寵を受けた者にとっては、この恩寵は[ルター派のように]失われることはできないものであり、神から恩寵を拒絶された者にとっては、この恩寵はどのようにしても手にいれることができないものなのである。
・新訳=天なる父という恵み深い神 旧約=嫉妬し、民を滅ぼすヤハウェ

脱呪術化のプロセスの完成

・この悲愴なまでに非人間的な教説は、その壮大な帰結をうけいれた世代の信徒たちの気分に、きわめて大きな結果をもたらすことになった。まず各個人が、これまで例のないほどの内的な孤立を感じるようになったのである。
・教会や聖なる礼典によって救いをえられる可能性を完全に否定したことこそが、カルヴィニズムがカトリックと根本的に異なるところであり、ルター主義はここまでは首尾一貫していなかった
・ここにおいて、世界を呪術から解放するという宗教史の偉大なプロセスが、ついに完了した
★神が救済を拒むことを決意した人間にたいして、神の恩寵を与えることができる呪術的な方法など存在しえないし、そもそもいかなる方法によってもこれは不可能なのである。人間のこの内面的な孤独の感情は、たんなる被造物はどのようなものでも、神から完全に隔絶した無価値なものであるという厳しい教義と結びついていた。そのためピューリタニズムは、文化のうちのすべての感覚的な要素と感情的な要素には、絶対に否定的な姿勢をとるようになった。こうした要素は救いのためにはまったく役に立たず、情緒的な幻想をかきたてて、被造物を物神化する迷信を育てるからである。このようにしてピューリタニズムは原則として、すべての感覚的な文化そのものに背を向けることになった。
・他方ではこの内面的な孤独の感情は、あらゆる幻想を否定し、悲観的な色彩をおびたあの個人主義の〈根〉の一つとなった
プロテスタンティズムが完全に浸透した地域では、告解がなくなった。
・個人性と「個人主義」の違い

カルヴィニズムにおける個人と倫理

・世界におけるカルヴァン派の信徒の社会的な労働は、ひたすら「神の名誉を高めるため」に行われる

救いの確証の問い
予定説の問いに対処するための2つの勧告

・(救われていると固く信じることと)もう一つの勧告は、こうした自己確信を獲得するための優れた手段として、職業労働に休みなく従事することが教えこまれたのである。この職業労働だけが、宗教的な疑惑を追い払い、恩寵を与えられた状態にあるという〈救いの確証〉をもたらすことができるのである。

職業労働の価値
善行と救い
中世のカトリックとの違い

カトリックの特徴=懺悔の秘蹟サクラメント

生活の完全な方法化

・現世の生活は徹底的に合理化され、地上での神の栄光を高めるという観点だけによって支配される
・「すべてを神の栄光を増さんがために」

西洋の禁欲の特徴

・「ワインと女性と歌を愛さぬ者がいるだろうか……」という[ルターの]言葉とはきわめて対照的に、[カルヴァン派では]偶像崇拝の概念を敷衍して、すべての感覚的な喜びもまた偶像崇拝とみなしたのだった。例外として許されたのは、健康の維持の理由から許されるもの(その範囲でのスポーツやレクリエーションなど)だけだった

カルヴィニズムの特異性

セバスティアン・フランク 宗教改革の意義は、すべてのキリスト者が生涯にわたって修道士とならねばならなくなったことにある
・それまでは修道士になるのが何よりも適していたような情熱的で真剣で内面的な性格をそなえた人々が、いまや世俗の職業生活の内部で、禁欲という理想を追い求めねばならなくなった
・弱者切り捨て・意識の低いもの切り捨てが始まった

カルヴィニズムと旧約聖書

ピューリタンたちがもっとも好んで読んだ[旧約の]文書はソロモンの「箴言」や「詩篇」であるが、これらの文書には神のみを思いながらも、まったく醒めた姿勢をとっていたへブライ人の生活態度が描かれているのであって、その影響はピューリタンの生活の雰囲気のいたるところに感じとることができる。ピューリタンには合理的な性格が顕著であって、宗教意識の神秘的な要素、一般に感情的な側面を抑制しようとする傾向がみられるが、これはすでにサンフォードが適切に指摘したように、旧約聖書の影響なのである。

商取引の比喩

・表形式で日記をつける

予定説のもつ力とルター派との違い

ルター派=懺悔を認める。生活の感情を認める。 カルヴァニズム=常に緊張。自分を律する。

カルヴィニズム以外の禁欲の運動
敬虔派のもたらした帰結
ドイツの敬虔派の意味
ツィンツェンドルフ
カルヴァン派とドイツ敬虔派の違い

・生活の合理化の強度 カルヴァン派>敬虔派 カルヴァン派=来世 敬虔派=現在

メソジスト派

メソジスト派=イギリス、アメリカで大陸での敬虔派に対応する
・法悦 回心 感情による自己証明 「大覚醒」

メソジスト派の天職概念
禁欲の第二の担い手

カルヴァン派ー再洗礼派、バプテスト派、メノー派、クエーカー派
・教会→教団 あくまで自覚した個人の集まり

再洗礼派の道徳の帰結

・1534年再洗礼派ミュンスター暴動

教会の規則と禁欲
禁欲的な天職概念のもたらしたもの

・こうして各個人は、自分の「恩寵の地位」を確保するために、生活を特定の方法に基づいて管理し、生活のうちに禁欲を浸透させようとするようになるのであり、その原動力はここから生まれたのだった。すでに確認してきたようにこの禁欲的な生活スタイルは、自分のすべてを神の意志にしたがって合理的に形成しようとすることを意味したのである。そしてこの禁欲はもはや〈義務を超えた善行〉ではなく、自分が救われていることを確信したいと望むすべての信徒に要求された行為だった。
・この宗教的な要求によって、聖徒たちは「自然の」生活とは異なる〈特別な生活〉を送ることを求められたのだが、この生活は(これが決定的に重要なことなのだが)、もはや世俗外の修道院での共同生活ではなく、世俗内で、世俗の秩序のただなかで送られる生活なのである。このように、現世のうちで来世を目指して行われる生活態度の合理化こそが、禁欲的なプロテスタンティズムの天職概念を作りだしたものだったのである。

世俗内的な禁欲のもたらしたもの

・最初のうちはキリスト教の禁欲は、世俗の世界から逃れて孤独のうちに逃避するものだったが、世俗的な世界を拒絶しながらも、修道院のうちにあって、世俗の世界を教会を通じて支配していたのだった。そして世俗の世界の日常生活は、その自然でとらわれない性格のままに放置されていたのである。しかし今やキリスト教の禁欲は、修道院から出て[世俗の]生活の〈市場〉のうちに姿を現し、修道院の扉はその背後で閉ざされたのだった。そして世俗の日常生活に、その[禁欲的な生活]方法を浸透させて、日常生活を世俗内的な合理的な生活に作り変えようとしたのだった(ただしその生活は世俗による生活でも、世俗のための生活でもなかった)。

2.禁欲と資本主義の精神

宗教のもつ力

ソクラテス「魂への配慮」=みずからの魂に徳がそなわるように気づかい、魂が優れたもの、善きものになるように努めること。

ピューリタニズムの代表としてのバクスター

・リチャード・バクスターキリスト者の指針』 ピューリタン的な道徳精神のもっとも包括的な概説書/ドイツ敬虔派シュペーナー『神学的な思索』/クエーカー派バークリー『真のキリスト者の聖性の弁論』

富と禁欲

・時間の浪費こそ一番の罪

労働と性交渉の目的

バクスターの主著では、肉体的な労働か精神的な労働かを問わず、絶えず厳しい労働をすることを勧める教えが繰り返し、ときには情熱的に説かれているのである。そこには2つの動機が錯綜している。労働はまず、昔からその効果が証明された禁欲の手段であり、西洋の教会では、労働はそうした手段として高く評価されてきたのである。これは東洋だけでなく、世界の他のほとんどすべての地域の修道者の規則とは、きわめて対照的である。
・労働はとくに、ピューリタニズムが「清浄ならざる生活」という概念でまとめたすべての誘惑から、信徒が自分の身を守るために採用した特別な予防手段であって、その役割は決して小さなものではなかった。性的な禁欲はピューリタニズムにおいては、修道士の禁欲と(程度の差はあっても)根本的に異なるものではなく、結婚生活も対象とするものだったから、修道士の禁欲よりも広範な影響を及ぼしたのだった。
・というのも夫婦のあいだにおいてすら、性交渉が許されるのは「産めよ増えよ」という 命令にしたがって、神の栄光を増すための手段として、神に喜ばれるような場合にかぎられるとされたからである。ピューリタンの場合には、宗教的な懐疑や繊細な自己の苦悩を抑えるためだけではなく、すべての種類の性的な誘惑を克服するためにも、節食、菜食、冷水浴などとともに、「汝の天職である労働にいそしめ」という教えが与えられたのだった。

労働と怠惰

・ところで労働はそれ以上のものである。何よりも、神が人間の生活の自己目的として定められたものなのだ。「働きたくない者は、食べてはならない」というパウロの言葉は、すべての人に無条件にあてはまるのである。労働の意欲に欠けているということは、恩寵の地位が失われていることを示す兆候なのである。
・ ツィンツェンドルフすらときに「人間は生きるために労働するだけではなく、労働するためにも生きるのだ。もはや労働する必要がなくなってしまえば、そのことで苦しむか寝込んでしまうだろう」と語っている
・モルモン派のある信条は、次の言葉で結ばれている。「無精な者や怠惰な者はキリスト者たりえず、救われることがない。刺し殺され、蜜蜂の巣から放りだされる定めなのだ」。ここにみられるのは、修道院からマニュファクチュアへとつながる、かの壮大な規律であり、この規律のもとで各人は労働するか淘汰されるかの選択を迫られるのである。そしてモルモン派が経済的に驚くべき成功を収めたのは、この規律のおかげなのである(もちろんこれは宗教的な熱狂と結びついたのであり、この結びつきによって初めて成功できたのだが)。
バクスターはこうした兆候を慎重に分析している。「無精」と「怠惰」はたがいに持続する性格のものであるから、きわめて重い罪とされたのである。バクスターはこれを「恩寵の地位を破壊するもの」とみなした。これは方法にしたがって生きることとは正反対のことなのである。

経済秩序と労働

経済的な秩序(コスモス)を神の摂理として解釈する

ピューリタンの職業概念

・職業が専門化すると、労働する者の熟練を高めることができるために、労働の生産性は質的にも量的にも改善され、これが公共の福祉の向上に貢献することになると、バクスターは考える(この公共の福祉とは、最大多数の人々の福祉のこととみなされている)。この動機は純粋に功利主義的で、その当時の世俗的な文献に広範にみられる視点と共通するところが多いとしても、バクスターがある文章の冒頭で次のように書いているところには、ピューリタニズムに固有の特徴がはっきりとみられる。「職業が固定されないと、一人の人間の労働の生産性は、不安定な臨時雇いの人の労働の生産性と変わらず、仕事の時間よりも怠惰に過ごす時間のほうが長くなるものだ」。そしてバクスターはこの文章を次のように締めくくる。「その者(職業労働者)は、秩序だって自分の仕事を完了するが、そうでない者はいつまでも乱雑で、その仕事は正しい場所も時間も弁えない……だから固定した職業は、万人にとって最善のものなのである」。

実業家の倫理的な輝き
<神の選民>

ユダヤ人の資本主義は、投機的なパーリアの資本主義であり、ピューリタンの資本主義は、市民的な労働組織だった

娯楽の排斥

・禁欲[の精神]が正面から対立したのは、現世における存在そのもの、そしてそれによって生まれる楽しみをこだわらずに享受するという姿勢だった。
・「娯楽教書(ブック・オブ・スポーツ)」をめぐる対立

ピューリタニズムと感覚芸術

ピューリタンは「迷信」の匂いのするすべてのもの、呪術や儀式で恩恵を授けようとする営みのすべての残滓を激しく憎悪したのであり、五月柱や教会の無邪気な芸術行事を迫害しただけでなく、キリスト教に固有のクリスマスの祝祭まで迫害した
ピューリタンにとっては劇場は忌まわしいものだったし、エロティシズムも裸体もあらゆるところから厳しく締めだされた。そのため芸術にも文学にも、 急進的な主張が残される余地はなかった。非合理的なもの、目的のないもの、そして禁欲的でないものは、「無駄話」、「余計なもの」、「虚栄による誇示」と呼ばれた。これらの概念は、神の栄誉を高めるためではなく、人間に奉仕する態度を批判するものであり、芸術的なモチーフの使用に反対しながら、冷徹な合目的性だけを決定的に擁護する目的で使われたのだった。
・それがとくに顕著だったのは、人々の装飾品、たとえば服装だった。ピューリタニズムは生活スタイルを画一的なものとしようとする強い傾向を示したが、それは被造物の物神化の拒否ということが、理念的な土台となっていたのである――現在ではこの傾向は、生産を「規格化する」ことを求める資本主義の要求として表現されているのであるが。

娯楽のための支出の制約
<枷>の破壊

・利益の追求を禁じていた枷が破壊された
・市民的な家庭の清潔で堅固な快適さを理想として掲げる

禁欲の逆説的な「力」

・マンモン=貪欲、拝金主義(の悪魔) 拝金主義=マンモニズム
・禁欲[の精神]は旧約聖書と同じように、「善き業」の倫理的な評価との完全な類比のもとで、富を目的として追求することを邪悪の極とみなしたのである。それでいて職業労働の果実として富を獲得することは、神の恵みと考えた。さらに重要なことは、禁欲の精神の立場からは、世俗の職業を弛みなく、不断に、組織的に営むことは、そのままで最高の禁欲的な手段とみなされたのであり、〈再生した者〉とその信仰の真正さをもっとも確実な方法で証明するものとして宗教的に高く評価されたのだった。そしてこれが、わたしたちがこれまで資本主義の「精神」と呼んできた人生観を広めるために、考えられるかぎりでもっとも強力な「テコ」として働いたのである。
・消費の抑圧と、この営利の営みの解放とを一つに結びつけてみよう。 禁欲という手段で節約を強制しながら、資本が形成されるのである。利潤として残された資金を消費の目的で支出することが妨げられるならば、それは投下資本として生産的に利用されねばならなかった。この作用がどれほど強力なものであったか
・地主階級は、人生をそのまま素朴に享受しようとしたが、ピューリタンたちは厳しい規律と自制によって自己を制御し、型にはまった倫理的な義務にしたがおうとしたのであり、この2つが現在でもイギリス人の「国民性」として併存している

近代の「経済人」の誕生

・節約と勤労→富が蓄積される→どうしても腐敗する

大衆と労働の倫理

★宗教的な生命力に満ちていた17世紀が、功利的な18世紀に残した遺産は何よりも、貨幣を獲得してもまったく傷つくことのない疚(やま)しくない良心であり、この良心は合法的な形式で行われるかぎり、法外なほどに(ファリサイ派的と言えるだろう)、疚しさに襲われることがないのである。「神に喜ばれることは難しい」という考え方は、跡形もなく消滅した。
・市民的な実業家は宗教的な禁欲の力によって、真面目で、良心的で、異例なほどの労働能力をそなえた労働者を雇用することができたのであり、労働者は労働を神が望まれた生活の目的と考えて、熱心に働くのだった。
・さらにこの宗教的な禁欲によって、現世において財が不平等に分配されているとしても、それは神の特別な摂理の働きであると、市民的な実業家は心を休めることができたのである。神は特別な恩寵を人々に与えるのと同じように、このような違いを作りだすことによって人間には認識することのできない秘密の目的を推進しているのだと、みずからに保証するのだった

禁欲と労働意欲

プロテスタンティズムの禁欲はこの考え方をさらに強く、深く掘り下げただけではなく、労働を天から与えられた職業と考え、自分が救われていることを確信するための最善の(そしてしばしば唯一の手段であると考えたために、労働への意欲という心理的な原動力を作りだしたのだった。そしてこの原動力なしでは、労働すべきであるという規範が、規範としての力をもつことはできなかったのである。 → 「生産性」がものすごく上がる

鋼鉄の<檻>

ゲーテファウスト』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』=麗しき人間性が完全に開化する時代を待望することを断念し、それから決別する
ピューリタンたちは職業人であろうと欲した。しかしわたしたちは職業人でなければならないのである。かつては修道院の小さな房のうちで行われていた禁欲が、現世の職業生活のうちに持ち込まれ、世俗内的な倫理を支配するようになった。そしてこの禁欲は、自動的で機械的な生産を可能にする技術的および経済的な条件と結びついて、近代的な経済秩序のあの強力な宇宙(コスモス)を構築するために貢献したのである。このコスモスは今や、直接に経済的な営利活動に携わる人々だけではなく、その機構のうちに生まれてくるすべての個人の生活のスタイルを、圧倒的な威力によって決定しているのである。そして化石燃料の最後の一塊が燃え尽きるまで、今後も決定しつづけるだろう。
バクスターは、外的な事物についての配慮は、「いつでも脱ぐことのできる薄い外套」のように、聖徒の肩に掛けられているべきだと考えていた。しかし運命はこの外套を、鋼鉄のように硬い〈檻〉にしてしまった。禁欲が世界を作り直し、世俗の内部で働きかけようとしているうちに、これまでの歴史においてかつて例がないほどに、世俗の外的な事物が人間にますます強い力を及ぼすようになり、ついに人間はこれから逃れることができなくなったのである。
・現在では禁欲の精神は、この鋼鉄の〈檻〉から抜けだしてしまった(それが最終的なものかどうか、誰に分かるだろうか)。勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、今ではこの禁欲という支柱を必要としていない。禁欲の跡を継いだのは晴れやかな啓蒙だったが、啓蒙の薔薇色の雰囲気すら現在では薄れてしまったようである。そして「職業の義務」という思想が、かつての宗教的な信仰の内容の名残を示す幽霊として、わたしたちの生活のあちこちをさまよっている。
・「職業の遂行」が、もはや文化の最高の精神的な価値と結びつけて考えることができなくなっても、そしてある意味ではそれが個人の主観にとって経済的な強制としてしか感じられなくなっても、今日では誰もその意味を解釈する試みすら放棄してしまっている。営利活動がもっとも自由に解放されている場所であるアメリカ合衆国においても、営利活動は宗教的な意味も倫理的な意味も奪われて、今では純粋な競争の情熱と結びつく傾向がある。ときにはスポーツの性格をおびていることも稀ではないのである。
★将来、この鋼鉄の〈檻〉に住むのは誰なのかを知る人はいない。そしてこの巨大な発展が終わるときには、まったく新しい預言者たちが登場するのか、それとも昔ながらの思想と理想が力強く復活するのかを知る人もいない。あるいはそのどちらでもなく、不自然きわまりない尊大さで飾った機械化された化石のようなものになってしまうのだろうか。最後の場合であれば、この文化の発展における「末人」たちにとっては、次の言葉が真理となるだろう。「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう」。

今後の課題

・この本で価値判断は避ける。あくまで歴史的な記述。
8/11読了

要約と感想

◆要約:プロテスタンティズム(特にカルヴィニズムの予定説)が、従来修道院の中限定のものであった禁欲を日常生活にまで拡大させて、自分の職業(天職)に禁欲的に尽くす市井の労働者と個人事業主を大量発生させた。その勤勉と節制により、富が蓄積され、資本主義が興隆した。
しかしその結果生まれた強固な経済システムがいまでは「鉄の檻」となり、人間を拘束している。そして宗教的な動機も失い、目的を見失った人間が「末人」化している。
◆感想:面白かった。
あるオンライン読書会に参加して、本当は10回に分けて読んでいくというものだったが、1回で中止になってしまったので、残りは一人で読んだ。この本を読むきっかけを与えていただいた読書会には大変感謝している。
内容の概略は知っていたつもりだが、文体でウェーバーの神経質さがよくわかる。
ヴェルナー・ゾンバルトとルヨ・ブレンターノは資本主義の起源を人間の欲望に求めたが、この本は二人のことをリスペクトしつつも、そのアンチテーゼ(むしろ禁欲を起源としている)として書かれたことがわかった。
ベンジャミン・フランクリンの「吝嗇の哲学」があけすけで面白い。
はじまりの時期の具体例として織物商の例がわかりやすかった。つまり、いままで慣習として比較的のんびり持続可能的に商売をしてたのに、「意識高い系」みたいな実業家が現れて、商売仲間を出し抜き、合理化・生産性の理論を持ち込んだ。そこで競争社会になってしまった。
予定説がけっこう捻じ曲げられて、誰が救われているのか最初はわからないはずだったが、成功してる人が救われている人となっていき、成功哲学が宗教のようになってしまった。それがプロテスタンティズムプラグマティズムの流れ。
木澤佐登志『失われた未来を求めて』のなかの、人間の「労働機械」化、働かないことが何よりの悪であるという近代人の内面に深く浸透している労働倫理の問題を読んだので、その起源を知れた気がした。
最後の「鉄の檻」の部分は、それまでの流れからは飛躍して突飛な記述。そしてそれはこの本から100年たった今そのとおりになり、ますます出口がない感じ。
この薄暗い「鉄の檻」があって、そこからドゥルーズ浅田彰の脱コード化、欲望する機械、スキゾフレニア、日本の爛熟する消費社会、バブル、ジュリアナ東京、お笑いビッグ3ととんねるずなどの流れになったが、それも分裂症的なから騒ぎということになり、また不景気になり、意識高い系、慶應SFC系、NewsPicks系などが出てきて、さらに暗く深化した鉄の檻になっているのが現代。という印象。
いま統一教会の問題でカルトが話題だが、プロテスタンティズムも資本主義も十分にカルトであることを認識して、もっと祝祭とか性愛、友情とか自然とか、自然な楽しさとか子供の心とか、お金以外のことを思い出して、それを取り込んだ展望を考えたほうがいいと思った。