マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】マックス・ウェーバー著、中山元翻訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(日経BPクラシックス 2010年)

原書初版は1905年。
目次

第1章 問題提起

1.信仰と社会的な層の分化

資本家と上層の労働者におけるプロテスタンティズム信仰

・現象の原因なのか結果なのか
・ヴェルナー・ゾンバルト『近代資本主義』(1902年)『ブルジョア』(1913年)、ルヨ・ブレンターノ『近世資本主義の起源』(1923年)への批判

高等教育におけるプロテスタントの生徒の比率
ドイツのカトリックの異例性

・ドイツのカトリックは迫害されていても、頑張らない ↔ フランスのユグノーイングランドの非国教徒やクエーカー派、ユダヤ
・経済的な合理主義

カトリックプロテスタントの対比について

プロテスタントは本来禁欲的

プロテスタントにおける世俗と宗教

プロテスタンティズム=商人層に普及 
・非常にストイック

本書の課題

・できるかぎり明確に「定式化」すること

2.資本主義の「精神」

「資本主義の精神」の概念の定義

・「歴史的な概念構成」

資本主義のエートス――フランクリンの文章から

ベンジャミン・フランクリン「吝嗇の哲学」→何よりも自分の資本を増やすことを自己目的とするのが各人の「義務である」という思想→倫理、エートス

フッガーとフランクリンの違い

・フッガー=商人らしい冒険心
>>金を稼ぐ、貯めることが宗教になっている<<

フランクリンの道徳

・「ただしフランクリンの道徳的な姿勢はどれも、功利主義的な方向に向かっている。正直であることは、信用を作りだすために有益であるし、時間を正確に守ること、勤勉であること、節約することも、信用を作りだすために有益だとされている。そうした理由で、これらは美徳であるというのだ。このことから、正直であるという見掛けが同じ効果をもたらすのであれば、この見掛けだけで十分であるということになる。フランクリンにしてみれば、必要な以上に美徳を心掛けることは、非生産的な浪費として咎めるべきことだろう。

実際のところフランクリンの自伝を読んでみて、あのような美徳の実践に「改心」した物語とか、つつましく暮らしているという見掛けや、自分の功績を意図的に隠しているという見 掛けをあくまでも保つことが、人々から尊敬されるために役立つという説明にであうと、どうしても次のように結論せざるをえないのである。フランクリンは、こうした美徳やその他のすべての美徳というものは、各人にとって実際に役立つかぎりで美徳となるのであり、たんなる見掛けが同じ役目をはたしてくれるのであれば、見掛けだけで十分だと考えていたに違いない、と。これは功利主義を厳密に適用した場合には、避けられない結論であろう。

ドイツ人にとっては、アメリカニズムの称揚する美徳なるものが「偽善」としか感じられない理由は、まさにここにあるようである。ただし実際のところは、事態はそれほど単純ではない。ベンジャミン・フランクリンがごく稀な率直さをもって自伝のうちで明らかにしている彼の性格からみて、さらにフランクリンは美徳の「有益性」を理解したのは神の啓示によってであると主張していること、神はフランクリンが善行をなすことを望んでおられると考えていることなどからみて、これは自己中心的な原理を曖昧に表現したものではないことはたしかなのである。

むしろこの「倫理」の最高善(スマム・ボヌム)は、あらゆる無邪気な享楽を厳しく退けてひたすら金を儲けることにある。そこにはいかなる幸福主義的な観点も、快楽主義的な観点も存在しないのであって、これが純粋な自己目的として考えられているのである。これは個人の「幸福」や「利益」などをまったく超越したものであり、およそ非合理的にみえるほどである。利益を獲得することが人生の目的そのものと考えられているのであって、人間の物質的な生活の欲求を充足するという目的を実現するための手段としては考えられていないのである。」

職業の義務の思想

・職業倫理・規範に反すると、経済的に排除される
・現代の資本主義的な経済秩序は巨大な宇宙(コスモス)であって、各人は生まれるとともにこの宇宙のうちに入るのである。すべての人は少なくとも個人としては、この改造することのできぬ<檻>のうちに住むことを、事実として強いられているのである。

資本主義の倫理と「前資本主義的な」倫理

ベンジャミン・フランクリンの思想→古代や中世であれば、汚らわしい吝嗇漢の言葉として、品位のない心情の表現として、排斥されたに違いない。
ルネサンス期レオン・バッティスタ・アルベルティ『家政論』、ローマ時代大カトー、ウァロ、コルメラらとの違い。それらは処世訓。

伝統主義――労働者の実例

・資本主義の「精神」は、「倫理」という衣服をまとって、特定の規範によって拘束された生活スタイルとして登場した。

出来高賃金の問題

・農業収穫物の取り入れ 出来高賃金を上げると、逆に労働者は短い時間しか働かなくなり、沢山働いてほしい経営者の思惑が外れる
・労働者が関心をもったのは、報酬を増大させることではなく、仕事の量を減らすことだった。
・「足るを知る」。これは「伝統主義」と呼ばれるべき生活態度の一例である。人は「生まれながらにして」金のために働くのではないし、できるだけ多くの金を稼ぐために働くのでもない。ただ生きることを、しかもそれまで慣れてきた方法で生きることを望むのであり、それに必要なだけを稼ぐのである。
・賃金率を引き上げて労働者の「営利心」を刺激することに失敗した場合には、経営者がその反対の方法を試みるようになるのは、当然のことだった。すなわち賃金率を引き下げて、それまでと同じ額の報酬を維持するためには、「これまで以上に」働かざるをえなくしたのだった。
・資本主義は最初からずっとこの方法を採用してきたのであり、賃金を引き下げると「生産性が高くなる」というのは、数世紀の長きにわって信じられてきた信条なのである。ピーター・ド・ラ・クールが語っているように、民衆は、貧しいから働くのであり、貧しいあいだしか働かないのである。

労働意欲と宗教教育の関係
伝統主義――実業家の実例
「資本主義の精神」再考
「資本主義の精神」の担い手
資本主義の精神を導入する<革命>
<革命>の実例
事業の形式と精神の齟齬
倫理的な資質としての資本主義の精神
変革の担い手
資本主義の精神と宗教性
資本主義と「呪われた金銭欲」
倫理に反する営利活動
資本主義の合理主義
天職の思想の系譜への問い

3.ルターの天職の観念―研究の課題

第2章 禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理

1.世俗内的な禁欲の宗教的な基礎

2.禁欲と資本主義の精神