マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】マウリツィオ・ラッツァラート著、杉村昌昭訳『資本はすべての人間を嫌悪する』(法政大学出版局叢書・ウニベルシタス 2021年)

目次

序論──黙示録の時代

・1960年代に世界革命が被った歴史的敗北
・ 「民主主義においては権力の居場所は空っぽである」というクロード・ルフォールの言明は、1970年代の初めからすでに否定されている。この場所は資本というある特殊な「主権者」によって占められているのである。その場所に腰を落ち着ける党は例外なしに「権力の代理人」としてしか機能することはできない(こうしたマルクス的「単純化」を多くの者が嘲笑したが、これはエマニュエル・マクロンというフランスの新大統領によって戯画的な仕方で完全に実現されたことである)。
・(スペインのポデモスなど)左派ポピュリズムはもはや存在してもいない何かに新たな命を吹き込んでいる。代表制や議会はいかなる権力も有しておらず、権力は行政当局のなかに全面的に集中し、行政当局は、新自由主義の内部において、「民衆」や一般的利益のためにではなく、資本や私有のためにことを運んでいるのである。
・黄色いベスト運動の限界、そして2011年以降繰り広げられたすべての運動の限界は明白であるが、いかなる「外部」の力、いかなる党も、「何をなすべきか」そして「どのように」なすべきかを、かつてポリシェヴィキがしたように引き受けることができないのである。
・運動が「改良主義的」になっている。
・「社会革命」は「政治革命」 なくしてもつまり資本主義の乗り越えなくしても起こりうるという幻想に陥らないようにしなくてはならない。68年以後に生じた事態を見れば明らかなように、社会革命が政治革命と切り離されたら、社会革命はいとも簡単に資本主義機械のなかに資本蓄積の新たな源泉として統合されることになる。反乱者の主体性の変化が切り開く「革命への過程の始まり」は「革命そのもの」と切り離されてはならない。「革命そのもの」と切り離されたら、その過程は資本の一要素になりさがり、今日のネオファシズムが体現しているような破壊と自己破壊の力に転化することになるだろう。

第一章 資本は戦争を仕掛ける

ピノチェトからボルソナロへ(回帰)

フーコーが本のなかに見つけただけで、決して現実の政治的過程と突き合わせることはしなかった(意図的な方法的選択!)立派な諸概念――統治、自己生産企業家[「個人は自分自身を生産する企業家である」というフーコー新自由主義的概念]、自由、 市場の「合理性」など――は、説明されることなく入念に消去されたある前提を有している。すなわち、「統治される者」の主体性は、彼らを政治的敵対者から「敗者」へと移行させる流血を伴った敗北からのみ構築されるという前提である。
ベンヤミンは総力戦とファシズムの体現する激変を余すところなく把握した希有なマルクス主義者である。彼の資本主義の定義はマルクスの定義を拡張しラディカル化したものである。というのは、ベンヤミンにとって資本は生産であると同時に戦争であり、創造であると同時に破壊にほかならないからだ。ひとえに「下層階級に対する勝利」のみが、生産システム、権力、法、所有、国家といったものの変革を可能にするというのである。
・現在のファシズム反革命大衆組織
・資本の報復としての新自由主義反革命

貧者の金融化

・20世紀における政治的対立は資本の勝利に終わった。そして資本は敗者を「統治される者」に変えた。革命派が敗北し破壊され、主体性が〈白紙還元〉され、新たな装置が人間を従属させるための新たな規範を設定することができるようになった。金融が支配する時代には、行動の統治は平和な時代をもたらさない。統治者/被統治者の関係が戦争に取って代わり、事実上戦争を別の手段で続行するのである。
・弱者に対する戦争は停止することがない。それは時には和らげられることもあるが、絶対に停止しない。
新自由主義が国家に想定する機能=「自由経済のための強い国家」「弱者(持たざる者)に厳しい国家」「強者(資産家)に優しい国家」
・競争になじまない者、労働市場の外に落ちこぼれた者も、「最小限」は手にすることができるのだから、そこから改めて全員の全員に対する競争のために再出発すればよいというスタンス
改良主義は革命の現実あるいは革命への恐れに依存している
・現在の政治運動は資本の存在を脅かすことからほど遠くなっている

新しいファシズム

・1930年代のファシズム=民衆の要求をねじ曲げたかたちで統合して、独裁体制がそこから革命的要素を取り除いて使った 社会主義の要素があった
・現在のファシズム=逆に超自由主義 一方でマイノリティや「外国人」、犯罪者などを「鎮圧する」強い国家を求めるが、市場や企業や個人事業に賛成
・国家とファシズムこそが資本の戦争機械の構成要素

ファシストと経済

・戦争とファシズム=接収と略奪の技術

植民地レイシズムの変化型としての現代のレイシズム

・抑圧的、破壊的、大量殺戮的権力の技術の成り立ち=奴隷、植民地化された人々の統制や規制
・現在の人種差別は植民地における人種差別の変化したもの、植民地化された人々に対する戦争の変化したもの
労働市場の統治技術としての人種差別
・国内に植民地を作ること 労働市場の植民地化
サルトル反ユダヤ主義者は、都市のプチブルで、何も所有していない。しかしまさにそれゆえ、ユダヤ人に対して立ち上がることによって、彼らは突然所有者であるという自覚を持ち始めるのである。」
サルトルレイシストをこう定義する。「それは恐れを抱く人間である。ユダヤ人を恐れるのではない。自分自身、自分の意識、自分の自由、自分の本能、自分の責任、自分の孤独、自分の変化、そして社会や世界を恐れるのである。言ってみれば、ユダヤ人以外のすべてを恐れる人間のことだ」。自分たちが物質的・精神的に「持っている物」を守るために国家や民族的アイデンティティや主権と幻想的な自己同一化を図ろうとする

資産家の政治的離脱

・「金持ちはわれわれに戦争をしかけようと決めたのだ。[…]私はパリの金持ちとつきあいがある。彼らはなにごとにも無関心である。スペインでは60歳に なったら、時給2.6ューロで働かねばならないと言っても、彼らは洟もひっかけない。彼らはそんな世界は折り込み済みなのである。彼らの頭の中では、そんなことは解決済みなのだ。貧乏人にとっては厳しいだろうが、なんとかするだろう、[…]金持ち同士でぬくぬくと暮らそう、くたばりたいやつはくたばればいい、というわけだ。私は金持ちはものごとがわかっていないだけだと思ってきたのだが、ここにきて考えが変わった。彼らはもっと悪い。わかっていてやっているのだ。彼らは人々がどん底に落ちることを望んでいるのだ。彼は労働者を人間としてではなく、たかだか適宜処理すればいい問題だと見ているのである。」ヴィルジニー・デパント
★新しいファシズムは、ひとえに人種、性、階級の位階序列を強化するだけである。その政治的戦略は新自由主義となんらかわりない。この新ファシズムの使命は新自由主義とのありもしない対立を戦うことではなく、新自由主義の政策の基盤にある政治的企図を最後まで貫徹することである。
・民営化=長い年月と公金を使って作り上げた成果を資本家に売り渡すこと
・地球上の大多数の人々にとって、生政治は、人々がおのれを再生産するために必要な最小限「不可欠」なものを確保するものでなくてはならない。しかし<社会福祉>が他の場所よりもまだ持ちこたえているフランスでも、経済政策は新しい「第三階級」――すなわち交通、病院、スーパーマーケット、さらには最小限の葬儀といったものへの権利だけは持っている貧困階級――をつくりだした。すなわち、それは人々を3つの階級に分割し(さらにこれをもっと微細に個人化し)、大多数を貧困化させ、ごく一握りの者を富裕化させたのである。新自由主義政策は、その謳い文句とは裏腹に、人材とか自己生産企業家を創出したのではなく、大多数を「働いても貧乏」という状態に追いやり、「ワーキング・プア」を生み出したのである。

戦争と流通

流通と金融

・1970年代における「下層階級に対する歴史的勝利」のあと、国際金融制度は、権力関係を債務者と債権者の関係として位置づける新たな戦略を発動し始める。負債戦略はまず二重の目標を設定した。ひとつは、反植民地闘争のために西洋が失ったものを取り戻すこと。もうひとつは、世界銀行の目論む「発展」の要請に屈しない反帝国主義革命闘争の生み出す主体性を制御すること。
★シルヴィア・フェデリーチは、この過程を詳細に描き出している。世界銀行は1980年代にアフリカで中心的役割を演じ、「初期の植民地経営」を「構造調整」と称される「特殊計画」に置き換える。すなわち「経済成長のための貸し付けと引き換えに、各国は輸入を自由化し、公共事業を民営化し、為替レートや商品の価格の調整を廃止し、公共サービスへの補助システムを一切廃止し、さらに平価を切り下げ、労働の権利や安全保障を廃止する」ことになったのである。「チリの実験」はこの構造調整政策の延長線上にある。
・「負債危機のプログラム化は、1980年代の初めから、25ヵ国以上のアフリカの国々に及んだ」。それは「アフリカのさまざまな地域を負債の万力で締め付けて極貧の状態に追い込むことによって、旧植民地世界の大部分を再植民地化する」ための手段であった。「反植民地闘争の成功は負債危機のために無効化された」のである。負債経済は再植民地化と「第三世界」への資本主義規範の押しつけの道具としてきわめて有効であったので、そのメカニズムは北アメリカやヨーロッパの労働者にまで拡張されることになったのである。

冷戦以後の軍事と戦争

★戦争=資本主義の組織化の要素
・冷戦→「民衆に対する戦争」
・問題は国家の消滅ではなく、国家が資本の戦略のなかに統合されるということである。国家はもはや自立的・独立的力として機能しないということである。国家はおのれの力の及ばない別の力と「パートナーシップ」を組み、そのパートナーシップの戦略におのれを従属させることによって「おのれの力」を発揮するのである。
・国家の行なう戦争→資本の行なう戦争
・資本の戦争は、人間的なものや非-人間的なものを価値の生産に従属させることを基盤とし目標としているのである。世界内戦が国家間の戦争よりも優先するのは、ひとえに資本の政治的ヘゲモニーによるのである。資本の戦争機械は、シュミット的戦争(国家、民衆、運命)ではなく、生産や統治の法則への従属が革命へと逆転しかけるときに敵を見いだすのである。グローバル戦争の拡張は世界市場の拡張に対応する。したがって、武装衝突をしていないからといって、「われわれは戦争中なのではない」と言うことはできない。
・戦争 → 統治=「住民」に対する内戦=生政治 住民管理としての戦争
・安全保障技術=リスクを前もって潰すこと

「権力」の概念における「平和化」

・「あらゆる契約の出発点は到着点と同様に暴力である。法を措定する暴力は、契約のなかに直接姿を現す必要はない。法的契約を保証する力が暴力から生まれているかぎり、暴力は契約のなかに暴力的に居座っているというよりも、契約のなかに表象されて存在しているのである。制度のなかに暴力が潜在的に存在しているという意識が失われたら、制度は危機に陥るだろう。」ヴァルター・ベンヤミン
新自由主義真言マントラ)=「統治技術」
微分化された暴力 それが人間の内部で積分されたとき 人間の精神は機能不全になる(安冨歩
・たとえば工場の規律にかかわる資本主義権力は、「間違いや損害」を対象とするのではなく 「潜在的行動」を対象とする、とフーコーは言う。権力はいわば行動が姿を現わす前に介入するというわけだ。似たようなことだが、生政治の技術は、ものごとが起きようとしている場所において、「起きるかもしれない一連の出来事に応じて」発動される。これらの企業は、「与件」を想定して、これから起きる可能性のある行動に働きかけるのである。
フーコーの生権力論は生ぬるい 実際アメリカの囚人の数は1970年代の5倍
・権力は物や人に及ぼす暴力であるという根本的な定義
・資本義的統制と搾取は「外部の主権権力」によって行使されるのではなく、「内部化」された「不可視」の法によって行使されるというわけである。われわれは主権による社会から脱却することになる。なぜなら権力は、自動的かつ非人称的に機能する規律と統制の装置に内在しているからである。金銭、社会規範、デジタルテクノロジーといったものがわれわれの行動や主体性を加工し、それが戦争や強制や暴力に訴えることなしに慣習化する、というわけである。
・新たな経済、法、制度を「措定する暴力」とそれを「維持する暴力」
・フランス2015年同時多発テロイスラム原理主義者による襲撃事件)→「緊急事態令」がいまも続いている。2017年には憲法に組み込まれた
・2019年「黄色いベスト運動」を取り締まるために「反破壊活動法」
・「目標や標的のない権力はない」→目標や決定は国家ではなく資本に属している
・20世紀におけるこの大きな事態 国家とその主権的・政権的機能の資本への従属 
植民地主義は、単にとてつもない奴隷労働力の搾取機械であるだけにとどまらない。植民地はヨーロッパにとって、単に、略奪、蓄積、蓄財の土地であっただけではない。植民地主義と植民地は西洋の政治秩序を構成する要素なのである。ヨーロッパ諸国間の競争はつねに戦争にエカレートする危険を伴っていたが、戦争と法、無制限なものと制限されたものが、植民地と本国の地理的分割に重なり合ったときに安定する。つまり、植民地においては、力、戦争、無制限の暴力が行使され、西洋の「文明世界」においては、法と制限、主権、憲法が行使される、といった具合である。これはフランツ・ファノンが「植民地の暴力」/「平和な暴力」と対句的に解釈した二重性であり、双方は「一種の共謀関係、同質性」を維持しているのである。

現代の権力

汚職や犯罪との一体化は新自由主義の特産物である。
・死の権力もまだまだ健在

生政治と資本──問題はいかなる生なのかということだ

・生政治の標的としての住民 「国家による生命の調整」
・しかし今日、「政治的」装置は住民の生活を向上させるというフーコーの言う機能に応答していないように思われる。ここで作動しているのは住民の生物学的生ではなく、資本主義機械とその主体化を体現するエリートたちの政治的生なのである。彼らの政治的生を保護することは必然的に住民の生を危険にさらす。 彼らの生とその再生産のためなら、資本は多くの住民の健康、教育、再生産、住居といったもの、つまりプロレタリアの生をなんら顧慮することなしに犠牲にすることをいとわない。資本はつねにそうしてきたし、現在もそうしている。つまり プロレタリアの生を最小限に切り縮める――力関係が許す限り――ということだ(新自由主義者の言う公共サービスの最小限化はまさにそれを意味している)。同時に、<福祉国家>の新自由主義的再組織化は逆方向に機能する。つまり、その再組織化は<福祉国家>を企業や金持ちの支援装置に変えて、不平等を縮小するどころか逆に拡大させたのである。フランスの大統 領エマニュエル・マクロンはこの論理を完璧に定義している。すなわち彼によると、(金持ちが「下へ向かって流れる」 富を生産するために)「金持ちを支援しなくてはならない」、そして「貧乏人に責任感をもたせなくてはならない」(これは貧乏にしておいて罪悪感を持たせるということだ)というのである。
ドゥルーズ「お金-資本というのは、精神医学で言えば、症状の最終局面に当たる錯乱状態である[…]。資本主義のなかにおいては、すべてが合理的である。ただし、資本あるいは資本主義そのものを除いての話である。証券取引のメカニズムはまったく合理的である。誰でもそれを理解し、習得することができ、資本家はそれを利用する術を知っている。しかしそのメカニズム自体が完全に錯乱しているとしか言いようがないのだ」。

戦略的思考の消滅

・「こうした多数の力関係は、”戦争”という形態あるいは”政治”という形態でコード化される」この2つの戦略は(資本機械の)権力の手中にあるが、それはまた革命によって作動することもできる。
レーニン主義がかつて構築した戦争機械にいくらかでも匹敵する防御と攻撃の手段を組織することができる態勢をもう一度いかに構築するか

第二章 技術機械と戦争機械

社会機械か戦争機械か

覇権主義的戦争機械

ファシズムレイシズム、セクシズムは資本に利用される戦術
・重要なのは革命機械をつくること

ファノンとラジオ

機械の理論

・資本主義形態においては、戦争機械は人間と機械を奴隷化し、人間を「可変資本」に、そして機械を「不変資本」に変えるのである。

マルクスと機械・科学・自然の三重権力

・機械はサイバネティクス的可塑性によって、人間に匹敵する自律性を身に付け、脳の可塑性をなぞることができる。数学的自動性――アルゴリズム――は新たな統治性を構築する。(カトリーヌ・マラブーの機械論)

機械の系譜学

・19世紀以降 道具→機械 人間の役割は、技術的個体(機械)の下位(隷属)あるいは上位(調整)の位置で活動することになる

戦争機械

・資本主義的戦争機械は、この研究とイノベーションの流れを「いかなる科学的公理体系よりも厳格な社会的公理関係」に従属させる。「その公理体系は過去の消滅したすべてのコードや超コードよりも厳格である。すなわち、その公理体系が世界規模の資本主義市場なのである」。(ドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス』)
★戦争機械は決して非人称的に機能するのではない。自動的に機能しているように見えるときでも、そうではない。なぜなら「ビューロクラートテクノクラート」がつねに技術的あるいは社会的な自動装置の傍らにいて、自動装置が「故障」しかけるとすぐに政治的・経済的に介入する準備をしているからである。政治家、テクノクラート、ジャーナリスト、軍人、各分野の専門家、ファシストなどがメガマシーンの主体化を構成する。彼らは、貨幣、資本、テクノロジー、戦争などの大きな流れの調整者、管理人、使用人、修復家として介入するが、それだけでなく、性や人種や階級の「統治者」としての機能も果たし、こういった分断統治による服従と隷属の保証人となるのである。

機械と反逆能力

・統治の根元的機能は「革命」を予知して解体し無害化すること

オートメーションと決定

・グレゴワール・シャマユー『ドローンの哲学』ドローンに民間人30人以内なら許容範囲とプログラミングする。

労働の組織化における戦争機械と技術機械

フーコー「遠隔統治」大企業のマネジメントも同じ
・マリー・アンヌ・デュジャリエ「関係なき社会関係」「プラヌール(計画する鳥)」
テイラー主義的マネージメント→プラヌール=労働や労働者と切り離された徹底的抽象化

主体性の吸血鬼

・資本は吸血鬼が血を吸うように主体性を吸い込む必要がある。現代の資本主義企業は、自動装置がそれ自体としては自動的なものではなく、さまざまな主体性によって構想され、つくられ、維持され、受容されなくては機能しないことをよくわかっている。このさまざまな主体性とは、さまざまな段階の「奴隷」であり、この「奴隷」としての主体性が技術機械と人間を企業の機械装置に従属させる過程に参与するのである。
・資本主義は単に「生産」様式であるだけではなく、権力の様式でもあることを忘れてはならない

ニヒリズムの起源と源泉としての企業

・第2次大戦時におけるユダヤ人の大量虐殺は資本主義的合理化の卑劣きわまりない結果にほかならない。その条件は、現代の労働組織化においても、たいして違いのないかたちで再生産されている。「見ないようにすること」は、ナチスにかぎった例外的姿勢ではない。人が組み込まれているものの帰結を見ようとしないことは、労働の科学的組織化のなかに奥深く刻印されている。それは労働の組織化の機能と法則の構成要素なのである。現代における抽象化労働者の証言はそのことをまぎれもなく示している。
★資本主義的労働の組織化は潜在的犯罪者をつくりだす。それはニュルンベルク裁判におけるナチスのように、「生産」の結果について、そしてそれへの自分たちのコミットの結果について責任を感じない人間をつくりだす。なぜなら、彼らにとっては、資本にとってと同様に、すべての生産は、合理的に組織され、量的な計算可能性の指標に見合っていれば有効であって等価であるからだ。すべてはナチスのように繰り返される。「われわれは仕事をしただけだ」、「われわれは命令に従っただけだ」というわけである。彼らは自分たちが動かすとともに自分たちがその犠牲者でもある戦争機械のなかで、戦争機械のために活動する。怪物をつくるのは理性の睡眠ではなく、ニヒリズムの社会的構築の一線を越えた「平穏な」労働の組織化なのである。
・資本主義企業は労働者に「全面的コミット」を求める。労働者は自分の生産するもののなんたるかを感じないようにしなくてはならない。これは生産と生産物のきっちりした分離をもたらす。「生産物の道徳的ありかたは(毒ガスであろうと水素爆弾であろうと)、生産に参加する労働者の道徳心に一点の陰りももたらさない」。「いかにおぞましい生産物でも、労働者自身に影響を及ぼすことはない」。労働はお金と同様に「臭いがしない」のである。「いかなる労働もその生産物のせいでけなされることはない」。
・働く人間は、「現実を見ないこと、あるいはむしろ自分がしていることを知らないこと」、「自分の生産物を尊重しないこと」、「自分がしていることを知ろうとしないこと」という「内密の誓い」をする。プラヌールの例に示されているように、結果を「知ること」は働くための不可欠の条件ではない。まったくその逆である。「知らないことこそ企業の利益にかなうのである。ここで、彼[プラヌール]は知る必要があるであろうと前提するのは誤りである。実際、労働行為そのもののなかにおいて、生産物のイメージ(あるいはそれが何に使われるかということ――それはいずれにしろ”あらかじめ決められて"いる)は、彼にとってまったく何の役にも立たない。そんなことはむしろ彼の邪魔になる」。
・現代の企業は、おのれが不可避的に分泌するニヒリズムを、ある「倫理」をつくることによって緩和しようとする。しかしながらマネージメントの言説(「持続的発展」、「多様性」、「ハンディキャップ」、「平等」、「市民権」など)は、それを取り巻く「精神的・道徳的」環境と齟齬をきたす空疎なスローガンにすぎない。なぜなら、現代の企業の唯一重要な真の法則は利潤の法則、つまり倫理的無関心の法則だからである。
・今日、消費者も「協力関係」のなかで同じ位置に置かれている。消費者は、生産物の製造様態(農薬を使っていないか、労働者や子どもや奴隷の搾取はないか、など)について、あるいはその生産物の製造や消費が地球環境に悪影響を及ぼしていないかについて、自問しないように仕向けられている。消費もまた、労働と同じように「臭いがない」のであり、お金を生み出すだけになっている。したがって、「協力関係」の問題はアンダースの時代よりも悪化してい る。というのは、労働者は〈生産物〉に無関心であり、消費者は〈生産〉に無関心だからである。
・資本主義的な生産と消費のなかに刻印された無関心に目を向けなくてはならない。
・企業の真の「総司令部」としての金融資本は、抽象化と無関心の形成の過程を最後まで貫徹しようとする。なぜなら、金融は生産の使用価値などは気にかけず、お金の抽象化を操ることしか知らないからである。
・新たなファシズムの台頭はこの「犯罪的」な無関心の浸透の条件をなす。それは、地中海における幾千人もの移民の死がヨーロッパの住民になんら関心を呼び起こさなかったことに如実に現れている。民主主義がファシズムに転化する速度の驚くべき速さの根源には、労働分業や消費によってもたらされた無知無理解があり、これはひとりひとりにさまざまな仕方で影響を 及ぼす。「見ようとしないこと」、「感じないこと」は、なんらたいした障害に出くわすことなしにヨーロッパ中に広がったのである。

非人称化か階級戦争か?

・いくら我々が改良主義的資本主義を望んでも、資本は決してそれを許さない
・資本の勝利と資本の政治からの分離→資本の統治が批判者たちに非常に見えにくくなっている
・20世紀末の歴史的出来事(キーポイント)=「下層階級に対する戦いの勝利」
・認知資本主義の嘘

第三章 革命家への生成と革命

・革命=権力の奪取 その手段としての階級戦争
・われわれはまだ1960年代の「奇妙な革命」の敗北から抜け出していない。
フランツ・ファノン/マリオ・トロンティ/カルラ・ロンツィ/ハンス=ユルゲン・クラール 
・植民地化された人々/「労働者」/女性/学生運動

革命は十九世紀にはじめて世界的になった

世界内戦か世界革命か?

支配的諸関係総体の革命

二つの革命戦略

従 属

労 働

組織の自律化

植民地化された人々における党とは何か

弁証法の批判

ガタリの美学パラダイムシフトやフーコー最終講義の「パレーシア」

労働運動

・労働運動は残念ながらオワコン。奴隷の待遇改善運動は根本的な運動ではない。卑屈な運動。

ポストコロニアル理論における革命の排除

革命と再結合すること

・革命としてのBBQ(劣等感、排除、被支配常態からの脱却)
ランシエールなど68年の思想 革命/革命家への生成=諸力の対立/諸世界への対立 この分離→これが悪い方向へ向かう あくまで力(暴力)の問題を考えないと解決しない 
・われわれはこれ以上考察をすすめることをやめる。なぜなら、クラールが言ったように、「革命的理論」は「革命の理論」と同じものではないからである。革命的理論(68年の思想の総体のようなもの)は社会の変化様式を体現し、支配的諸関係を明らかにするものだが、革命の理論は戦略的原理を提起するものである。これを打ち立てることは革命組織や来たるべき未来の革命家の任務である。

訳者あとがき

・新型コロナ ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム』 ファシズムの14の特徴(4)と(5)
・(4)いかなる形態であれ、混合主義〔エーコは原ファシズムを文化的・イデオロギー的混合主義であると定義しているが、これはファシズムの語源とも合致する――杉村注〕というものは、批判を受け入れることができません。批判精神は区別を生じさせるものです。そして区別するということは近代性のしるしなのです。近代の文化において、科学的共同体は、知識の発展の手段として、対立する意見に耳を貸すものです。原ファシズムにとって、意見の対立は裏切り行為です。
・新型コロナ騒動→新自由主義が残された最後の聖域として狙っていた「公衆衛生」領域の「市場化」=「民営化」がいっそう進むことが予想される。マウリツィオも他所で「身体、健康、生死」を「営利目的」のために活用する新自由主義企業/資本主義市場について論じている
・(5) 意見の対立はさらに、異質性のしるしでもあります。原ファシズムは、ひとが生まれつきもつ<差異の恐怖>を巧みに利用し増幅することによって、合意をもとめ拡充するのです。ファシズム運動もしくはその前段階的運動が最初に掲げるスローガンは、「余所者排斥」です。ですから原ファシズムは、明確に人種差別主義なのです。
・マウリツィオが私淑するフェリックス・ガタリは独自の「主体性論」を展開したことで知られる。ガタリは、社会の動向(したがって「革命の展望」)を決定するのは、すでに社会に馴致・適合した個人の「主体性」ではなく、個人が個人として形成される以前に存在する、いわば個人の 「インフラ」としての「無意識的主体性」と、個人を超えた「集合的無意識」としての「社会的主体性」であると言う。だとすると、意識的個人は「革命」にどうかかわることができるのだろうかという疑問が生じる。意識は無意識にどうやって接近できるのだろうかという逆説的な問いと言い換えてもいい。ガタリは他方で「生まれつつある新しい自己」(「自己産出」)が社会的風景を変えるとも言う。すなわち「自己創造的意識状態」が「無意識」への到達を可能にするということだ。それは「無意識」が覚醒するということでもあるだろう(私が若い頃遭遇した「パリの68年5月革命」はそういう運動だったのかもしれない。だからこそガタリは「5月革命」や68年の世界的反乱から着想したアイデアに終生執着し続けたのである)。
4/28読了
 
◆要約:60年代の革命が敗れて以降、運動から「資本」の観点が抜け落ちている。革命/運動の戦略・戦術がない。
フーコーの生政治論は生ぬるい。認知資本主義の議論もそう。実際そうなっていない。もっと現実は資本の原始的な暴力が支配している。
21世紀のファシズムレイシズム・セクシズムは新自由主義の補完勢力。
◆感想:図書館で借りて、延長するつもりが、予約が入ったので急いで読んだ。
イタリアのアウトノミア系(オペライズモ)の思想がなんとなくわかってよかった。
ニヒリズムの起源と源泉としての企業」の章が一番面白かった。
現在の労働の特徴は、仕事の内容を抽象的し、労働者を「何も考えない」状態にすること。
自分たちの労働の帰結が何をもたらすか、考えない。
企業の唯一の法則は利潤の法則、つまり倫理的無関心の法則。
それによって現在の企業は大量のアイヒマンが集合しているようなもの。
自分たちもその犠牲者である戦争機械を自ら再生産し強化しているという不幸。それが恐ろしい。