- はじめに 白く冷たかった2009年の夏
- 第1章 1971年、京都の高校で紛争のあった夏
- 第2章 1971年、岡林信康が消えた夏
- 第3章 1971年、高橋和巳が死んだ5月
- 第4章 1969年、「善のウッドストック」と「悪のオルタモント」
- 第5章 1971年、「小さな恋のメロディ」に惹かれた初夏
- 第6章 1973年、ローリングストーンズ幻の日本公演
- 第7章 1968年、パリ五月革命の内実
- 第8章 毛沢東「文化大革命」を支持していたころ
- 第9章 左翼思想はどこでついていけなくなったか
- おわりに 「悪霊」とは何か。
- 参考文献
- 要約・感想
はじめに 白く冷たかった2009年の夏
・民主党政権交代
第1章 1971年、京都の高校で紛争のあった夏
学生運動における「思想と行動」
反抗はいかにして始まったか
・露骨な競争主義教育に対しての抗議
反抗によって得たもの
・1971年と1973年の大きな隔たり
・1973年の高校一年生は、自由をただ消費するだけだった。
現在まで続く違和感
・革命後に生きる人達はどうなるのか?果実を受け取るだけになってしまう
第2章 1971年、岡林信康が消えた夏
60年代とフォークソング
・「風」「悲しくてやりきれない」「青年は荒野をめざす」「友よ」「若者たち」「遠い世界に」「戦争は知らない」「今日の日はさようなら」1960年代末
・志賀高原スキー場へ旅行 好きだった女子 冬のスキーロッジで、夏のキャンプファイアーで
・「戦争を知らない子供たち」「あの素晴らしい愛をもう一度」「翼をください」「虹と雪のバラード」
「フォークの神様」岡林信康の登場
・”反体制型フォークソング”は彼一人に象徴される 高田渡、西岡たかし、加川良
・”関西フォーク”=かっこ悪くても自分の言葉で歌おう
・ビジュアルがいい キリストに見える
・1971年までは岡林信康、1971年以降は吉田拓郎と井上陽水
フォークソングブームを支えていた気分
・最初のアルバム『わたしを断罪せよ』最後の曲の前の独白「えー、僕の最初の、エルピーを、聞いてくださって、心から感謝いたします。あの………、エ、エルピーなんぞ出すとゆうとなんかレコード歌手とゆうことで、えーっ、ちょっとかっこいいんですけど、あのーどうっちゅうことないわけで、僕自身の、その、要するに、うめきや、そういう……なんか知りませんけどそういうもんを、歌にして、あらわしたっていうだけ。そやからあのーみんなーももっと歌い…ださなあかんとおもいますし、あのー、黙ってることはないとおもうんです。で僕の歌、暗い歌が多いんですけど、やっぱり僕なりに、あの、いまぁ、僕はその、健康的な明るい歌ってな歌えへんような心理状態でありまして、あの、うめきで、僕自身は、いいとおもうんです。で、みんなもどんどん歌いだして欲しいとおもうんです……」
・新宿の西口でフォークソングを歌う集会が毎週開かれていた。1969年の年明けごろから毎週末に集まりだし、どんどんその人数が増え、西口広場(いまの京王・小田急・JRの新宿駅西口改札の外の広場)に数千人(7千人くらいとい う記録がある)の若者が集まって、フォークソングを歌い、反対運動を展開していた。そこで岡林信康の歌が歌われていた。フォークゲリラと呼ばれている。これはフォークソングはあくまで手段であり、目的は(たとえば)「ベトナム戦争反対」である。新宿西口広場でのフォークゲリラは、大きく盛り上がりを見せ、あまりにも大人数の集会となったので、1969年の6月に機動隊が導入され、蹴散らされてしまう。フォークゲリラという言葉とともに、ここで歌われていたものがフォークソングとして強く記憶されている。しかし、これもまたフォークソングのごく一部にすぎない。
・「友よ」慰撫の歌。当時の反体制闘争、学生運動の底には、そういう気分が流れていたのではないか。負けるとわかっているけど闘っている。
中津川フォークジャンボリーの帰れコール
・毎回コンサートの後の討論会 それに疲れた
・売れることは資本主義的なので認めない
・1971年のフォークジャンボリーの殺伐とした雰囲気 帰れコールを受けなかったのは岡林と加川良と三上寛だけ
第3章 1971年、高橋和巳が死んだ5月
なぜ読まれなくなったのか?
・1990年代に入ると、扱いが少なくなっていた。おそらく「ポップカルチャー」によって追い払われたのである。世の中をネアカとネクラにわけ、金持ちとビンボーに分け(マルキン、マルビ、というのが流行語になった)、それをおもしろがるのがポップカルチャーだった。軽佻浮薄でどこが悪い、という開き直りの文化である。これこそが「明治以来の頑固な社会精神」を叩き壊そうという文化革命だったんじゃないか。いま振り返ると、そうおもう。「異様な好景気」が目立ち、激しい経済活動の時代として捉えられるバブル時代は、ボディコン&ジュリアナ舞踏の陰で、古くからの文化を軽やかに叩き壊してゆく時代でもあった。
描かれる「観念の世界」
・「まじめか」というツッコミ
愛読された「破滅の物語」
革命運動家とは何者なのか
・自己の理想、自己の破滅のみ。他者と折り合って生きていくのが人生であると気づくと革命から離れる。
高橋和巳を支えたものと吹き飛ばしたもの
第4章 1969年、「善のウッドストック」と「悪のオルタモント」
ウッドストックはいかにして伝説となったか
・1969年の夏ウッドストック 冬オルタモント
・ウッドストック ニューヨーク郊外 40万人 ドラッグ(LSD、マリファナ)と酒 柵や金網が壊され無料に
・オルタモント サンフランシスコ郊外 ローリング・ストーンズ 映画「ギミー・シェルター」
暴力を生んだラブ&ピース
・「若者の長髪ヒッピー文化」を心底憎んでいる連中が入り込んでいた。
・ジェファーソン・エアプレインのボーカルがヘルズ・エンジェルズに殴られる
・メレディス・ハンターという黒人の青年が刺殺される
・「ラブ&ピース」、それにロックミュージックは愛と平和の文化であり、同時に破壊行為でもあり、それは暴力でもあった。それを認めないと、この時代の真の姿が見えてこない。
第5章 1971年、「小さな恋のメロディ」に惹かれた初夏
映画に託された「若者の反抗」
・告白を基本においた恋愛文化は平成以降
自由を求め続ける空気
アメリカン・ニューシネマだけが切り取ったもの
・自由を求め、最後は必ず撃ち殺される 若くして死ぬこと
第6章 1973年、ローリングストーンズ幻の日本公演
ロックミュージックと日本のあいだ
・ドント・トラスト・オーバー・サーティーと本気で言っていたし、ロックミュージシャンは27歳で死ぬのが本物と思っていた
欧米文化の後塵を拝して
・1980年12月8日、ジョン・レノンが40歳で撃たれて死んだ。1960年代の熱狂と1970年代の”引き延ばされた情熱"が終わった瞬間だった。ブライアン・ジョーンズもジミ・ヘンドリックスも、ジャニスも、ジム・モリソンも、みんな、不審な死であった。でも、ジョン・レノンは、街中で(ダコタハウスの前で)、人が見ている前で、まぎれもなく殺された。いろんなことが終わった瞬間であった。1960年代後半の熱気は「若者たちの時代」として1970年代も巻き込んでいった。世界は素晴らしいとおもって進んでいたが、おそらくどこかで間違った小さな角を曲がってしまったのだろう。
第7章 1968年、パリ五月革命の内実
学生運動をもたらした「お祭り騒ぎ」
・パリ 1789-1795「フランス革命」、1830「七月革命」、1848「二月革命」→ナポレオン三世
・パリ郊外 パリ大学ナンテール分校 ベトナム反戦運動など 5月2日の学生集会を開かせないために大学側がナンテール校自体を封鎖→学生がパリ中心地カルチェラタンへ向かう
・5月3日金曜日カルチェラタンにあるソルボンヌ大学(パリ大学ソルボンヌ校)で大掛かりな学生集会→警察隊導入で500人以上の学生検挙→ソルボンヌ校も封鎖
・5月6日月曜日、この措置への抗議集会 昼から数千人夜には1万5千人 警察と衝突 敷石を剥がし投石 市街にバリケード
・5月10日金曜日、2万人が参加した学生たちのデモ これに対して警官隊は徹底的な弾圧 学生たちを袋小路に追い込む 数千発の催涙弾とガス弾、多くの市民も巻き添え
・翌日から世論が一変。新聞も政府を非難。左翼政党と労働組合が連帯を表明、ゼネストの指示。
・5月13日、月曜日、あらゆる企業、工場の労働者がストライキに入る。社会機能が麻痺し始める。ソルボンヌ校の閉鎖は解かれ、学生が占拠した。「大学は永久に労働者に解放される」という宣言とともに自由空間となった。中庭でジャズの演奏会が開かれ、ソルボンヌ校はふしぎな祝祭空間となる。ストライキの指令は24時間であったが、そのまま継続され、しかも拡大していった。
・5月24日、金曜日には、フランスの労働者の半数にあたる1000万人がストライキに参加した。同日、3万人が参加したデモがあり、警官隊が突入し、また大暴動となる。このころになってやっとドゴール政権は、本気で事態収拾へむかう。政府と労働組合代表の話し合いがもたれ、基本賃金の大幅な引き上げなどで合意に達した。
・5月30日、木曜朝。ドゴール大統領はパリ周辺にフランス軍機甲部隊を配置した。彼はいったんパリから姿を消していたのだが(単身、西ドイツにいるフランス軍司令官のもとに飛び、軍の支援を取り付けていた)、この日、軍の力を背景に国民議会の解散と総選挙を宣言、「共産主義からフランスを救え」との演説で国民に訴えた。ドゴール支持者50万人が「フランスをフランス人の手に!」とのスローガンを掲げ、シャンゼリゼ通りのデモ行進を挙行した。これで情勢が変わった。
・6月23日と30日の国民議会選挙によって、ドゴール大統領派は圧倒的な勝利を得る。学生たちの運動に関わった共産党と左翼連合は、まれにみる敗北を喫し、議席を半減させた。これが“五月革命”の概略である。
・「革命」ではない
どこかただよう空虚感
・翌月1968年6月日本でも「神田カルチェラタン闘争」真似した。
・政治活動ではなく「すてきなフランス文化の発露」と捉えていた
・夕陽を浴びたミニスカートの若い女性が投石
・センスのあるスローガン。「禁止することを禁止する」「想像力が権力を握る」「走れ同志よ、古い世界は君の後ろだ」「敷石(パヴェ)を剥がすと、そこに砂浜が」
★大学闘争にはどうしてもお祭りの気配が漂う。彼らには時間があり、自分たちのための空間がある。政治闘争を掲げながらも、かれらの活動はどこか「季節外れの文化祭」のようであった。ソルボンヌ校を学生たちが占拠したとき、解放区となったその大学内は「奇妙な学園祭のような様子」を呈している。演奏会が開かれ、機関誌の即売会が開かれ、観光客さえもやってきている。これはどう考えても「お祭り」である。しかもいつも、彼らだけの祭りだった。
第8章 毛沢東「文化大革命」を支持していたころ
当初、世界が好意的に受け止めたわけ
・ソ連への失望、中国・北朝鮮への期待
・資本主義的要素の入った政策、団体、すべてを破壊する
・理念のために働くとホロコーストが起こりがち→ポル・ポト政権1970年代後半
・毛沢東は初代皇帝、鄧小平は3代目
若者を惹きつける要素があった
・この時代、若者は、とにかく破壊したかったのである。 1960年代後半の若者のひとつの潮流はそこにある。音楽から新しい流れができ、自分たちの文化が始まっていた。しかし、現実社会、政治経済においては、若者の居場所はない。新世代は認められているようでいて激しく拒否されている。若者たちの心情は非常に不安定になる。ビートルズが好きで、学生運動に参加していた世代は、自分たちはあきらかに新しい時代につながっていると信じながらも、社会に新世代に対する新しい居場所が用意されていないことに怒りと焦りを感じていた。とりあえず破壊だ、ということになった。そしてそれは支持された。破壊には快感がある。快感ゆえに祝祭的な空間が現出する。が、祭りは祭りにすぎない。毛沢東の文化大革命もそうであったが、問題なのは、祝祭のあとの淡々とした日常生活において、祝祭の後始末をしなければいけないところである。日常生活は、祝祭に対して、さほど好意的ではない。祝祭にすべてを賭けられるのは、確固とした日常生活を持っていない者だけである。
・非日常空間としてはときに楽しいが、ふだんの暮らしには向いていない。だったら村の長老政治の延長でしかない自民党統治のほうが、まだましである。そうおもわれてしま う危うさを常に抱えていた。そして実際にそうなっていく。
・「ここではないどこか」
第9章 左翼思想はどこでついていけなくなったか
左翼思想へのシンパシー
・”中二病”と左翼思想は親和性が高かったから、中学生の作者はみごとに惹かれた
・左翼思想は「進歩的」だった
社会主義と共産主義
・ "共産社会"=資本主義が高度に発達しきって、労働者指導による政府さえも不要になる理想郷・ユートピア
"社会主義社会"=その前段階を指している。私有財産を禁じ、生産システムを社会が保有し、社会が主体となって計画的な生産をおこない、その利益を平等に分配するという社会システムが社会主義である。
子供→青年→大人という成長段階と同じく、資本主義→社会主義→共産主義と発展していく
・共産主義も、社会主義も「とても素敵に発展した資本主義社会の別形態」(夢想)でしかない
・シンプルに「豊かな社会」を夢見た
共感はなぜが失われたのか
・80年代 夢のような経済成長
・左翼思想を支持する感情の底には、明言されていないが、アメリカに対するルサンチマンが(つまり恨みつらみが)、かなり深くうめこまれているとおもわれる。
日本の左翼運動の活発化は、戦後の貧しい生活に対する不満から発している。戦後の貧しい生活を過ごす国民は、戦勝国アメリカの豊かな生活を、いつも強い憧れの気持ちで見つめていた。
だから、日本経済が、アメリカそのものを打ち負かしたかのように見えたバブル期には、その恨みつらみが晴らされ、溜飲の下がるおもいがした。それが日本人の正直なところであろう。
・大事なのは、アメリカ経済に勝ったと信じた当時のその「心情」である。
その心情を国民が共有したとき、貧しい生活から抜けだし、世界で有数の金持ちの国になったとみんなで信じたのだ。貧乏が消えたとおもった。
その瞬間から、左翼勢力は、勢いを落とし始めた。
・あらゆる不満や鬱屈を受け入れていた戦後の左翼活動の熱気は、バブルの頂点からいきなり冷め始めた。
「1970年代の幽霊が出る」
・1994年に日本社会党と自民党が連立して村山富市内閣が生まれた。1955年の結党以来、右の自民党と、左の社会党の対立軸でもって、日本の政治が運営されてきたのに、あろうことか、その右の第一党と左の第一党が連立したのである。驚いたし、それ以上に、ただあきれた。
1970年代から左翼勢力を心情的に応援していた立場として、自民党と社会党が手を組むという事態は意味がわからなかった。革新という概念がわからなくなった。もっと言えば、革新という概念に何か期待していた自分が、ばかばかしくなった。私の転換点は、明確にここである。
これ以降、左翼勢力に対して、興味を持つことはなくなった。応援することも、投票することもなくなった。それどころか、革新勢力が何を考えているか、一切、興味を持たなくなった。彼らが何を言っていようが、聞くだけ無駄ではないか、という気分である。実際に無駄だとおもっている。
参考文献
10/19読了
要約・感想
◆要約:1971年の空気。左翼運動の興隆と終わり。なぜ左翼思想は支持されなくなったか?
◆感想:1971年の空気、全共闘世代の下の「しらけ世代」「新人類世代」の考え方がよくわかり為になった。
フォークソング、高橋和巳、アメリカン・ニューシネマ、五月革命の概略がわかってよかった。
人のため、ましてや「大衆」のために革命をしようというのは違うなと自分も思った。
著者の左翼批判について、この年代に生まれればそれはそうなるよなあというのが感想。
左翼思想が悪いというよりも、この時代が楽しすぎた。
70-90年代の日本は、世界史の中でも最高に豊かな時代だと思う。刺激的な消費社会。
だからこの世代がこういう考え方を持つのは当然で、批判はしない。
染み付いてしまった思想は、アップデート出来ないということだろう。
2019年の本なのに、いまだに民主党政権批判で呆れた。
そして著者が左翼運動に決定的に失望したのが自民党と社会党が連立政権を組んだからだという。
保守政党と革新政党が争っているふりをして、実は裏で手を組んでいるというのは初歩的な権力の統治技術だと思うが、
ベタに社会党に期待していたなんて、うぶなのか?
五月革命の章で祝祭と日常生活という、よく使われる左翼運動批判、つまり日常生活が大事というロジックが出てきた。
自分はこれは逆だと思っている。祝祭が本体で、日常生活はそのためのなりすましのような時間だ。
世界が本体であって、社会が本体ではまったくない。そこが自分が違うと思っているところ。
宮台真司のいう「内在系/超越系」で自分が超越系だという話だけかもしれないが、
自分はそうじゃなくて、人間みな、社会ではなく根本は世界を生きているものだと思っている。
著者の『若者殺しの時代』と『やさしさをまとった殲滅の時代』は好きな本なのだが、『1971年の悪霊』は論旨の部分で賛成できなかった。