マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】ウルリッヒ・ベック&エリーザベト・ベック=ゲルンスハイム『個人化の社会学』(ミネルヴァ書房 2022年)

中村好孝、荻野達史、川北稔、工藤宏司、高山龍太郎、吉田竜司、玉本拓郎、有本尚央翻訳
原書は2002年
目次

スコット・ラッシュによる序文──非線形モードの個人化

・第1のモダニティと第2のモダニティ 単純なモダニティ/再帰的なモダニティ 構造の論理/フローの論理
・フローの論理=意図せざる結果、常に不完全な知識、非合理性ではなく永遠に確定できない合理性
・デュルケム「アノミー的な個人主義」=一連の社会の仕組みが別のものに転換する際に必要となる移行期があるが、それがアノミーと理解される不安定な時期である。たとえば伝統的なゲマインシャフトとアンシャンレジームから移行していくときには、根無し草的な移行局面が存在するのであり、やがて第1のモダニティ、産業モダニティがそれ自身の規範性を発展させ、古典的な啓蒙主義個人主義が日常化される。ヘーゲルは、フランス革命のアノミックな過剰性から、『法〔権利〕の哲学』における、所有権、契約、ブルジョワ家族、市民社会からなる制度化された個人主義への移行をそのように理解した。同様の過程は、産業モダニティから第2のモダニティ、情報モダニティへの移行においても重要である。まずは、アノミックな個人主義がおとずれる。ベックにとって重要な点は、再帰的なモダニティへの移行の後でさえ、新たな個人主義は日常化されないことである。その成熟期においてさえ、この個人主義は不確定で、リスクに満ちており、あやうい自由なのである。
・第1のモダニティ、つまり構造のモダニティでは、社会は線形システムであると考えられる。タルコット・パーソンズの社会システムは、こうした線形システムである。線形システムはただ一つの均衡点を持つのであって、この均衡を乱してシステムの変動をもたらすことができるのは外的な力だけである。第2のモダニティの再帰的個人化は、非線形システムの存在を仮定する。ここでは、システムの不均衡や変動は、フィードバック・ループを通じて、システムに対して内的に生み出される。こうしたものは開放システムである。重要なことは、非線形システムの定義的な特性として、フィードバック・ループが個人を通過することである。こうなると個人化は、同時にシステムの不安定化である。複雑なシステムは単純には再生産されない。システムは変化する。個人は、システムの不均衡をもたらす意図せざる結果にとって通過点である。ベックはこの種の用語は使わないが、しかしこの種の非線形性が、第2のモダニティにおける個人化の核心なのだ。この性質は、単純なモダニ ティの線形的な個人主義――所有的かつ倫理的・道徳的な個人主義――と訣別する
・第1のモダニティの個人が反省的であるのに対し、第2のモダニティの個人は再帰
・反省は必当然的な知と確かさを前提とする。/現象学にとってと同様、ベックにとっても、知る個人は、自分の知の対象とともに世界のなかに存在している。この主体は、フッサールの言う主体の「態度」や、ベックの場合では知る者の利害関心によって構成された態度を伴っており、対象のある部分しか把握できない。したがって、単純なモダニティの個人主義における客観性は、第2のモダニティでは知の志向性にとってかわられる。この志向性は「リスク社会」において再び主役となり、今度はエコロジカルな問題系と結びつけられた。科学と産業は、客観性を主張し、自らは何らかのかたちで世界の外側にいて客観的なのだと主張するにもかかわらず、 実際には、自らの固有の利害関心が構成する志向性をもって世界のなかに存在している。→第2のモダニティでは客観性などなく、利害関心によって構成された志向性しかない。
再帰的であるとは、反省よりも反射に関係している。
★第2のモダニティの個人は、線形的で物語性のある生活誌を構成するのに十分な、自身との反省的な距離を持っていない。ロナルト・ヒツラーが述べているように、この近代の個人は、自作の生活誌(Bastelbiographen)、つまりレヴィ=ストロースの意味でのブリコラージュな生活誌で満足しなければならない。非線形的な個人が反省的でありたいと思っても、反省するだけの時間も空間もない。彼は巧妙な手口を使う。ネットワークを寄せ集め、同盟を築き、取引をする。彼は、リスクに満ちた空気のなかで生きていかねばならないし、そうすることを強いられる。そこでは、知も人生の変化もあやういものとなる。→ワンルームマンション
・第2のモダニティおよびその非線形的な個人主義は、国家、階級、核家族エスニックグループといった古典的な諸制度が後退した結果である。第1のモダニティにおいて線形的な個人とシステムを再生産したこうした役割は、侵犯されている。しかしその結果は、主体の消滅ではないし、全般的非合理性でもない。むしろ、今日の断片化された諸制度に順応する主体は、反省という位置から再帰的であるという位置へと移行したのだ。しかし、この主体はあまりにも絶えず動いているため、主体の位置について語ることはほとんど無意味である。主体はまだわれわれとともにあるし、知もそうである。ただし知識それ自体が不確かなのである。いま生じているのは、非知〔知られていないこと〕でもなく、反理性でもない。それどころか、再帰的近代の個人は、以前よりも教育水準は高く、知識もより豊かである。そうではなく、問題となっている知識のタイプが変化しているのである。知それ自体が確実とは言えないあやういものであり、知の対象となっているものもまた不確か――せいぜい蓋然性であり、たいていは「可能性」――である。
・第2のモダニティ 特徴はアウトソーシング
★まずはアノミックな無秩序化があり、次にあらたな標準化が生じるということである。後者は、非標準性(異常性)を制度化する再度の標準化であり、それは標準的なるものを制度化するのではなく、例外状態を制度化するカール・シュミットならそう言ったかもしれない)。
・かつては国民国家福祉国家、階層的な企業、家族、集権化された労働組合に帰属させえた多くの特性や機能、活動は、別なかたちで配置されるようになってきた。グローバルな審級へと外延的に移し替えられたものがある一方で、個人、すなわち自覚的あるいは無自覚的な主体性へと、つまりあらゆる意味でより私的な審級へと内包的に移し替えられたものもある。→ネオリベラリズムとは「社会体あるいは社会組成のただなかで”企業”形式を一般化させる」「ネオリベラリズムは一人ひとりの個人を「エンパワー」することで、それぞれの個人が自分自身を資本主義企業として経営するように促す。あるいはより厳密に言えば、ネオリベラリズムはすべての個人が互いにエンパワーし合い続けるように導き、社会全体が「企業という粒子によって」つねに分割された状態にとどまるようにする。」
・一方ではグローバリゼーションが、他方では個人化が並行しており、どちらも第2のモダニティを構成する特徴なのである。第1のモダニティでは、個人はさまざまな制度における一連の役割と調和的に構成されていた。いまでは、こうした諸制度が危機に陥っており、かつては制度と個人が役割において接合する際に生じていた機能が、現在では、はるかに集中的に個人に密着して遂行されている。何が起きているかというと、役割の脱標準化の進行である。ベックもこの言葉を使用しているが、個人は「ノマド的」になってきたのだ。複雑性へ向かう動きがあり、それは実際には 「カオス」に向かっている。
・ベック「ブラジル化」 マイケル・リンドのアメリカ分析
・第2のモダニティに特徴的な非常に多くの制度は、いまや単に社会的なのではなく、そう呼んでよければ、社会-技術的である  現在の権力関係を支配する社会-技術的(統制的である以上に構成的な) 諸制度 システム環境、OS、通信プロトコル、標準規格、知的財産、遺伝子データベース
・個人化とは「場所の複婚制」 
・第1のモダニティは線形であったが、第2のモダニティは非線形である。第1のモダニティで問題になるのは、規定的判断力と規則の遵守であったが、第2のモダニティでは、規則の発見という問題と反省的判断力である。
・第1のモダニティにおいてわれわれは、どちらかといえば相互に排他的で包括的な[2つの]システム、(パーソンズ的な)社会システムと工学的な技術システムとに向かい合っていた。第2のモダニティの完全にノーマルなカオスは、非線形システムによって統制されている。そのカオスはまた、社会的システムと技術的システムとが並はずれて強力に絡み合った、まさに社会-技術的システムによって統制されているのだ。われわれが第2のモダニティの個人を見出すのは、この社会システムと技術システムとが接合する場においてである。われわれが「自分独自の人生」というあやうい自由を引き受けるのも、「政治的なるものを創造する」のも、環境に対する責任を引き受けるのも、この接合の場においてである。第2のモダニティに生きる個人とは、その深層から社会-技術的な主体なのである。
・2001年4月

ジグムント・バウマンによる序文──個人として、他者とともに

ノルベルト・エリアス『諸個人の社会』(1987年)自由と支配の終わりなき死闘→互酬的な考え方=社会はその成員の個性をかたちづくり、個人は自らの生命活動によって社会を形成する。そこで諸個人が行っ ているのは、社会的に織り上げられた依存の網の目のなかで、妥当かつ実行可能な戦略を追求することである。
・成員に個人という役を割り当てることは、近代社会の際立った特徴である。しかし、この配役は一度かぎりの上演で済むものではなかった。日々、繰り返し演じられる活動なのだ。近代社会は、その「個人化する」活動によって存続しているのであり、同様に諸個人の活動とは、その相互関係を日々再形成し再交渉することなのであって、その再形成と再交渉が「社会」 と呼ばれる。
・いまや「個人化」は、100年前とはかなり異なる意味を持つとともに、共同体の依存・監視・強制の緊密な網の目から人類が「解放」されたことを褒め称えた近代初期における意味とも、かなり異なっている。
・ちょうどエリアスが、文明化を(近代の)歴史における一つの出来事として探求することによって、ジークムント・フロイトの文明化された個人についての理論を「歴史化」したように、ベックは、個人の誕生を、絶え間なく続く、強制的で強迫的な近代化の一つのアスペクトとして表現することによって、個人の誕生についてのエリアスの説明を歴史化した
・さらにベックは、個人化の描写を、時間限定的で一時的にしか意味をなさず、いまとなってはその像を明確にするよりも理解を曇らせる装飾から(何よりもまず、線形的な発展という見通しから、あるいは解放、自律性の増大、自己主張の自由といった軸上にある「進歩」という展望から)解放した。
・簡潔に言えば、「個人化」の本質は、人の「アイデンティティ」を「所与」のものから「課題」へと変容させたことに、そして課題を遂行する責任と遂行の結果(副作用も含む)に対する責任を行為者に課すことにある
・言い換えれば、個人化とは権利上の(de jure)自律を確立することであり、必ずしも事実上の(de facto)自律にはつながらない。
・もはや人間が自らのアイデンティティに「生まれ落ちる」ことはない。これをジャン=ポール・サルトルは「人はブルジョワに生まれるだけでは不十分であり、ブルジョワとしての人生を生きなければならない」とうまく表現している(前近代の王子、騎士、農奴、都市市民について、同じことを言う必要はなかったし、言うこともできなかった!)。
・人がそうであるものになる必要があるというのが近代的生活の特質であり、しかもそれを独力でしなければならない。モダニティは、社会的地位が決定されている状態を、強制的かつ義務的な自己決定に置き換えた
・近代初期の男女に提示された「自己同一化」という任務は、硬直した身分の枠組みがひとたび解体すると、「種に忠実に」生きる(世間に遅れまいとする)という課題になった。それはつまり、行為の確立された社会的類型やモデルに積極的に順応するという課題であり、調和を乱さず、規範から逸脱せず、模倣し、パターンに従い、「〔文化的に〕同化する」という課題である。「身分」は「階級」にとってかわられた。身分は属性の問題であったが、階級の資格は業績を大きく含むことになった。すなわち、身分とちがって階級は、「加入」しなければならなかったし、成員資格は、日々の行為を通して常に更新され、再確認され、記録されねばならなかった。
・振り返れば、階級の分断とは(ジェンダー間の分業もそうだが)、自己主張を効果的にするのに必要な諸資源を利用する機会が不平等であることの副産物であったと言えるかもしれない。階級が異なるとは、獲得可能なアイデンティティの範囲と、複数のアイデンティティからどれかを選ぶ際の容易さが異なるということであった。資源に恵まれておらず、したがって選択肢が少ない人々は、自分たちの個人的弱点を「数の力」によって、つまり、結束を固め、集合行為に参加することによって埋め合わせなければならなかった。クラウス・オッフェが指摘したように、集合的で階級志向的な行為を、社会階梯の下方にいる人々は「自然に」、「こともなげに」獲得するが、それと同じくらい自然に、彼らの雇用者は人生目標を個人的に追求する。
・つまり「集合主義」とは、個人化の影響を被るにもかかわらず、自分自身が個人的に所有して活用できる資源が明らかに不十分なために自己主張できない側の人々が、まず選択する戦略であった。逆に、より裕福な層の階級的志向は、部分的で、ある意味では派生的なものであった。富裕層の階級的志向が表面化するのは、たいてい資源の不平等な分配が抵抗にあい、争われるときであった。
・しかし全体的に見て、古典的「モダニティ」の時代の「脱埋め込み」〔離床化〕された個人は、自律的な行為主体(エージェンシー)という新しく付与された権限と資格を活用して、「再埋め込み」〔再着床化〕されることを必死で求めたと言える。
・大半の個人の自己主張に残された課題は、「うまく収まる」こと、つまり、他の住人と同じように振る舞うことで、割り当てられた隙間にはまり込むことであった。
★まさにここが、昔日の「個人化」と、それが「再帰的モダニティ」や「第二のモダニティ」という意味での(ウルリッヒ・ベックは現代をさまざまに名づける)リスク社会でとってきたかたちとの違いである。「再埋め込み」のための「ベッド」は残っておらず、いずれにしても長く埋め込まれることはない。そのかわりに「椅子取りゲームの椅子」はあるが、サイズも様式もまちまちで、数も場所も変わってしまうため、男女とも始終動いていることを強いられ、「到着」しても何ら休息も満足も約束されず、武装解除し、リラックスし、心配するのをやめられる目的地に到達し、慰めを得ることも、約束されない。(いまや慢性的に)脱埋め込みされる個人が進む道の果てに、「再埋め込み」の見込みはないのである。
・誤解しないでほしいのは、個人化は、以前と同じく現在も、選択ではなく運命であるということだ。個人の選択の自由がある国において、個人化を逃れ、個人化ゲームへの参加を拒絶するという選択肢は、まったく論外である。
★病気になった場合、それは自分が健康法に従う意志も努力も足りなかったせいである。失業が続く場合、それは自分が面接を突破する技術を学ぶのを怠ったか、就職する努力が足りなかったせいか、あるいはまったく単純に仕事嫌いのせいである。キャリアの先行きに確信が持てず、自分の未来に苦悩する場合、それは自分が友人をつくり、人に影響を与える能力が足りなかったせいであり、自己表現と好印象を与える技術の習得を怠ったせいである。ともあれ、人々はこう教えられ、こう信じるようになってきた。そのため、こうした解釈がまったくの真実である「かのように」振る舞うのである。ベックは、「生き方そのものが、システムが生み出す矛盾に対する個人誌的な解決策になっている」と、適切かつ辛辣な言い方をしている。リスクと矛盾は相変わらず社会的に生産されている。個人化されているのは、これらに対処する義務と必要だけなのである。
・手短に言えば、運命としての個人性と、自己主張のための実践的な能力としての個人性との間の溝が、深まっている。
・もっとも重大な点は、こうした溝を埋めることが、そうした実践的能力の一部ではないということである。個人化された男女の自己主張の能力は、概して、真の自己構成が必要とするものには及ばない。
・かつてのように、肩を並べて行進すれば救われるということはあるのだろうか。個人の力がどんなに弱々しく不十分でも、凝縮して集合的な抵抗や行動を起こせば、どんな男女も自力でできるとは夢にもみないことが結束して行われるということはあるだろうか。しかし、運命による個人がもっとも共通して抱える困難がいまでは積算され ないということが、障害となっている。そうした諸困難が集計され、「大義名分」になることは決してない。困難は、はじめから他の人々の困難とつなぎ合わせられる作りにはなっていない。たしかに困難は類似しているのかもしれない(ますます人気のトーク番組は、困難が似ていることをむやみに示すが、それが強調するのは、苦しんでいる人が独力で困難に取り組んでいるということこそがもっとも重要な類似点だというメッセージである)。しかし、諸困難が「部分の総和以上」の全体性を形成することはなく、一致して立ち向かうことによってそれらがあらたな扱いやすい性質になるということもない。苦しんでいる他の人たちと交わることの唯一の利点は、他の誰もが毎日一人で困難と闘っているのだと安心しあうことによって、衰えてしまった決意を再び活気づけ、一人きりの闘いを続けさせることになるかもしれないということにある。
・他者の経験から学ぶことはある。しかし、他者との交わりから何よりも学ぶこととは、他者との交わりは、どうすることもできない自分の孤独を生き抜くためのアドバイスしか与えてくれないということや、誰の人生も、一人で立ち向かいわなければならないリスクに満ちているということなのである。
・そのため、さらにもう一つの障害が存在する。トクヴィルは、人々を自由にすると無関心になることを長らく懸念していた。トクヴィルは、個人とは市民の最悪の敵であると述べている。個人は、「公共善」や「善き社会」、「公正な社会」に不熱心で、懐疑的、ないしは用心深くなりがちである。個人が自分自身の利害を満足させられるようになること以外に、「共通の利害」にどんな意味があるのだろう。他者と協力することが、自分に都合がよいと思うものを追求する自由を制限する兆しがあったり、どのみち個人的な追求の助けにはならなさそうな場合、個人は他者との協力以外であれば何でもしかねない。その場合、「公的権力」に期待し、願う有益なこととは、人権を守ることと(これは、すべての人に思い通りにさせることである)、それをすべての人が平和裏に行えるようにすることの二つしかない。平和を維持するためには、彼や彼女の身体や財産の安全を守り、犯罪者を刑務所のなかに閉じ込め、強盗、変質者、物乞い、不快で邪悪なよそ者を街から追い出すという手段がもちいられる。
・要約すれば、個人化には、市民性を浸食し徐々に解体するというもう一つの側面があると考えられる。「自警は、監視と言えるほど堕落しており、集合的感情や隣人に対する恐怖を引きつけている」
・個人が市民にとって最悪の敵であり、個人化がシティズンシップとそれに基づく政治に困難をもたらすとすれば、その理由は、個人という資格での個人の関心や執着が公的空間に充満し、その唯一の正統なる占有者であることを主張し、他のすべてのことを公的言説から追い出してしまうからである。「公的なるもの」が「私的なるもの」に植民地化されている
・個人化された行為者が、シティズンシップという共和制的組織に「再埋め込み」される見込みはあまりない。彼らを公的舞台へ乗り出すよう駆り立てるのは、共通の大義名分の探求や、公共善の意味や人生の共通の原則について折り合いをつける方法といったものではなく、むしろ「ネットワーキング」への渇望である。
・この形成技術が生み出すことのできる「コミュニティ」は、はかなく、短命で、ばらばらで行く当てのない感情のようなものであり、次から次へと狙いを気まぐれに変えたり、確実な避難場所を求めて永遠に結論のでない漂流をするようなものにすぎない。悩みや不安や憎悪を共有することによって成立するコミュニティであるが、いずれの場合も「掛け釘」的なコミュニティであって、多くの孤独な個人が、孤独な個人的恐怖をひっかけるために釘のまわりに一時的に寄り集まったにすぎない。
・「社会規範が衰えるとともに、愛と援助を求める、おびえた攻撃的な裸のエゴが現れる。自分自身や愛情のこもった交際を探して、エゴは、自己というジャングルのなかで容易に道に迷ってしまう。自分自身の自己という霧のなかで探し回る人は、この孤立、この『エゴという独房での監禁』が、大衆に下された刑の宣告であることに、もはや気づくこともできないのである」→この孤立が社会的に生み出されたものだということを忘れ、自己責任論で自分を責めてしまう。
・個人化はしっかり根を下ろしている。われわれすべての生活の営みに対して個人化が与える衝撃を検討する方法を考えるなら、必ずや、この事実認識から出発しなければならない。個人化は、実験できるという前例のない自由をますます多くの男女にもたらすが、その帰結に対処するという前例のない課題ももたらしている。
自己主張の権利と、自己主張が実行可能であるか非現実的であるかを決める社会環境を統制する能力との間にある大きな隔たりこそが、「第2のモダニティ」の中心的な矛盾
ウルリッヒ・ベックは『政治の再創造』のなかで、まさに「宗教改革に匹敵するような改革」が必要であり、それには「モダニティの徹底化」が求められる、と述べている。彼の提案によれば、「モダニティの徹底化は、社会的な創造と、政治的実験における集合的な勇気を前提とする」。
・行動する条件を選ぶことはできないというのが、われわれの置かれている状況である。こうした諸条件のなかで、好むと好まざるとにかかわらず、行為と不作為の結果に耐えながら、われわれはこれからも行動することになるのであろう。
・1999年2月

著者による序文──制度化された個人主義

・新しいことを抑圧するのは近代資本主義の根深いトラウマの一つである。この抑圧が、すべては過去のままに存在すると主張する先送りと否認の巨大な構造を生み出してきた。しかし「再帰的近代化」の過程がさらに徹底化した結果、社会的なるものと政治的なるものの本質に、根本的な変化が生じている。
★「自由市場的な個人という新自由主義的発想」と「制度化された個人主義という意味での個人化概念」との区別
新自由主義的経済学は、閉鎖的で自足した人間の自己というイメージに依拠している。これは、個人は自らの生活全体を一人で掌握することができ、行為のための能力をその内側から引き出し、更新しているという想定である。「自己企業家」の話が、この点を明確にしてくれる。
・第2のモダニティにおける個人的自由および政治的自由の核心にあるのは、選択の自由ではなく、自己が有する根源的な不完全性への洞察
・個人化についての2つの共通する見方(a)高度に分化した社会の構造的な特性であること(b)社会の統合を危険にさらすものではなく、実際にはそれを可能にするものであること
・率直にいえば、発展したモダニティにおいては、人間の相互性やコミュニティは、もはや堅固に確立された伝統に支えられるのではなく、むしろ互恵的な個人化というパラドキシカルな集合性に支えられている
・簡略な定義=「個人化」とは、再埋め込みなき脱埋め込み
・個人化は上部構造――イデオロギーや虚偽意識――だけではなく、「現実の諸階級」という経済的下部構造にも影響する。歴史上初めて、個人は社会的再生産の基本的な単位となりつつあるのだ。
・ごく簡潔にいえば、個人化は第2の近代社会自体の社会構造になりつつある。
・脱埋め込みされた個人と、グローバル・リスク社会におけるグローバルな問題との間の、制度化された不均衡
・パラドキシカルなことに、拡大する不平等がばらばらの個人誌へと個人化し断片化することが、集合的な経験となっている。実際、階級という概念は、集合的紐帯を欠いたまま不平等が拡大する状況を軽視している。階級社会的成層、ジェンダーは、個人の行動が集合的にかたちづくられることを前提にしている。

第1章 伝統的なものの喪失──個人化と「あやうい自由」(ウルリッヒ・ベック/エリーザベト・ベック=ゲルンスハイム 1996)

1.「ライフスタイルの個人化」とは何を意味するのか

・「都市の中国人たちの間で46時中繰り返し語られているのは、加速された人生のペースにもう自分たちは追いついていけない、というものだ。彼らは、キャリアとか、結婚とか、家族関係といった基本的なものごとについての価値や形態が移ろいゆくことに混乱している」
・われわれが何を考えようと――それが神であれ、自然であれ、真理であれ、科学であれ、技術であれ、道徳であれ、愛であれ、結婚であれ――近代的生活がそれらすべてを「あやうい自由」に変換している。すべての形而上学や超越性、すべての必然性や確実性は、芸術的な手腕にとってかわられつつある。もっとも公的な、そしてもっとも私的な仕方で、われわれは否応もなく、サーカスのテント小屋にいる綱渡りのダンサーになってきている。そして私たちの多くは墜落するのだ。西側だけでなく、西側の生活様式に急激に門戸を開けてきた国々でもそうである。旧東ドイツポーランド、ロシア、中国の人々は、ドラマティックな「モダニティへの突入」に巻き込まれている。
・1.個人化はかつて存在した社会的形態の解体を意味している。たとえば、階級や社会的地位、性別役割、家族、近隣といったカテゴリーがますます儚くなることである。あるいは、東ドイツや他の東側ブロックの国々の場合のように、国家が認可した標準的な個人誌や準拠枠、役割モデルの崩壊を意味している。→2.近代社会では、新たな要請や統制、制約が、個々人に課せられつつある。雇用市場や福祉国家、さまざまな制度を通して、人々は規制、条件、但し書きのネットワークに結びつけられる。
・近代社会を特徴づける規制の高密さはよく知られ、むしろ悪名高いとさえいえる(車検や納税申告からごみの分別法まで)。→単純な「自由」ではない。
・自作の個人誌は、常に「リスク個人誌」であり、さらに言えば「綱渡りの個人誌」であり、永続的に(あからさまであったり隠れていたりする)危険に身をさらす状態なのである。繁栄・消費・華麗さという外見は、しばしばすぐそこにある危機を覆い隠しかねない。自作の個人誌はたちまち壊れた個人になりうる。
・「放浪者の道徳規範」が現代の特性
・モダニティの指針にはもう一つの特徴があることに気づく。それは、家族の結束を強めるよりもむしろ弱める働きをするということである。福祉国家によるサポートを受ける権利や資格の大半は、家族よりも個人に対して設計されている。多くの場合、そうした権利や資格は、雇用されていること(あるいは失業している場合は働く意志があること)を前提にしている。同様に、雇用は教育を含意しているし、さらに雇用も教育も、移動あるいは移動する意志を前提にしている。こうしたすべての要請によって、強制というわけではないにせよ、個々人は自らを個人として構成するよう否応なく仕向けられている。個人として自らを計画し、理解し、設計し、そして個人として行為するよう仕向けられる――万が一「失敗」すれば、すなわちそれは自業自得ということなのだ。この意味で福祉国家とは、自己本位的なライフスタイルの条件を整えるための実験装置なのである。強制的な予防接種として、共通善が人々の心に注入されるのももっともである。
・コミュニティ感覚が失われているという世論がいま再び唱えられているが、こうした御託は、個人化のメカニズムが損なわれず、個人化を真剣に問題視しようとしたり疑問視できたりする人が誰もいないかぎり、二枚舌の道徳的なダブルスタンダードでもって語り続けられる。
・人々には自発性、ねばり強さ、柔軟性、フラストレーションに対する忍耐力が求められる。
・機会や危険、個人誌における不確かさは、かつては家族のつながりや村落共同体のなかで、あるいは社会的身分や階級に付随するルールに依拠することで、前もって決められていた。しかし、それらはいまや、個々人が自分で知覚し、解釈し、決定し、処理すべきものとなった。機会でもあり重荷でもあるようなその帰結は、個々人に転嫁 される。その個々人は、当然、社会的な相互的結合の持つ複雑性に直面しているために、利害や道徳や結果を熟慮して、適切な根拠に基づいて必要な決定を行えないことも多い。
・都市と地方の時間差は当然ある
・人間は可能性のなかの一つの選択、ホモ・オプショニス(選択するヒト)になっている。生、死、ジェンダー、肉体、アイデンティティ、宗教、結婚、親子関係、社会的絆、これらすべてのことが、細目に至るまで決定可能になる。ようするに、いったんは選択肢に断片化され、すべてが決定されなければならないのだ。

2.近代的生活を生きることの不可能性について――日常的なことの脱ルーティン化

・前意識的な「集合的慣習化」のレベル、自明視されているものごとのレベルが解体されつつあり、考えられ、交渉されうる、大量の可能性へと姿を変えつつある。決定から除外されていた深層部分が、意思決定のレベルに引き摺りあげられている。
・考え、計算し、設計し、調整し、交渉し、定義し、破棄せよ(どんなことについても、これが始めから常に繰り返されることになる)。これらは、モダニティが進展するにつれて生活を支配するようになった、「あやうい自由」が生み出す命令なのである。
・ルーティンと制度には、個人性と意思決定を可能にする負荷軽減機能がある→自由からの逃走→自己啓発やカルト、宗教に身を委ねる
・デュルケム アノミー=「無限という病」。願望や渇望が溢れ出る時代であり、それが社会的防壁によって訓化され得ない時代
・経済状態、学歴、ライフステージ、家族の状況、同僚といったものに左右される「自作の個人誌」は、容易に「壊れた個人誌」になりうる
・ルーティンの廃止→ライフスタイルについての決定が「神聖化されている」。日々の生活が、宗教のあとで「神学化」されつつある
・モダニティが土台を固めるにつれ、神と自然と社会システムは、その歩みに違いはあれ、しだいに個人にとってかわられつつある。その個人も、混乱し、道を踏み外し、助けもなく、途方にくれてし まっている。
3.個人化過程の何が新しいのか――結婚の社会史という例
・結婚は、一方ではかつて何よりもまず個人を超えた独特な制度であったが、今日はますますもって結婚する個々人の産物であり構成物となっている。
・結婚の個人化
4.個人志向的社会学の視角と論争
・数世紀の間、全体性の観点が個人の観点を抑圧してきた
・個人準拠的な視点とシステム準拠的な視点との対立
・諸個人からなる社会がその政治階級を愚かで厚かましいと思うのに劣らず、その政治階級も「あちら側にいる」諸個人をそう思っている
・政党エリートと官僚機構だけが何でも知っていて、他の人々はみんな無知であるという考え方は、崩壊前のソビエト連邦を特徴づけるものである
・今までの社会学=個人は社会の産物
5.展望――高度に個人化した社会はいかに統合できるのか
・個人化の反動で、排外主義やマイノリティ差別を招いている
・ルネ・ケーニヒ「現在の支配階級は過去のエリートから借りてきた正統性を糧とするばかりで、自分たちでは何も付け足していない」
★ロベルト・ムージルは、1961年の小説『特性のない男』のなかで、現実感覚と可能性感覚とを区別している。彼は、後者の感覚を、「現実に存在するものと同様に現実に存在しうるはずのあらゆるものを考える能力〔あらゆるものがどのようにして「いとも簡単に」存在しうるかについて考える能力〕、あるいは現実にあるものを現実にないものよりも重大視しない能力」と定義する。つづけてムージルは言う。「少なくともその信奉者の意見によれば、これが可能な真実であると考える者は、きわめて神的なもの、火、飛翔、建設意欲を持っている。この意欲は現実を恐れず、逆にこれを課題とし虚構として取り扱う。……彼の考えは……いまだ生まれざる現実にほかならないのだから、彼ももちろん現実感覚の所有者なのだ。しかしこれは、可能的現実に対する感覚」である。疑いなく社会学もまたこうした可能的現実についてのセンスを発達させるべきである。

第2章 暴走する世界における自分独自の人生──個人化、グローバリゼーション、政治(ウルリッヒ・ベック 1995)

1/13再開
・「自分独自の人生」をおくりたいという願望。
・個人的に自己実現し達成するという倫理は、近代社会においてもっとも強力な潮流。
・この傾向は、労働と政治に関して、家族と世界的なジェンダー革命に生じた変動の背後にある基底的な動因。
・1:人生も断片化されている。「きらめくスナップ写真で山盛りの皿」
・3:拘束的な伝統→制度 拘束が緩くなったのでは一切ない
・4:新自由主義によって個人化からさらに原子化へ 人権・教育・福祉といった制度的資源すらない
・5:誰もに能動的人生を求められる→失敗は個人の責任になる
・6:人生の出来事が、主として「外から来た」原因のせいにされず、決定、非決定、怠慢、能力、無能力、達成、妥協、敗北といった、個人的な側面のせいにされる。
・7:独自の人生がグローバルな人生である 国民国家フレームワークが小さくなりすぎた あなた自身の人生で生じていることは、世界規模の影響や挑戦、流行に大いに関係し、そうしたものに対する防衛に大いに関係している
・8:脱伝統化→伝統や階級、民族やジェンダーも自分で選択する。
・こうした事態は、ゲオルク・ジンメルやエミール・デュルケム、そしてマックス・ヴェーバーたちが20世紀初頭に唱えた歴史的・理論的分析と、どのように違っているのだろうか。主要な相違は次の点にある。今日、人々は、一体化した宗教的世界の確かさから、産業社会の世界へと積み替えられたのではない。そうではなく、第一のモダニティの国家単位の産業社会から、世界リスク社会のトランスナショナルな混乱へと移し替えられたのだ。
・9:グローバリゼーションと伝統化、そして個人化を合わせて分析すれば、独自の人生が実験的な人生であることが明瞭になる。受け継がれた人生の秘訣や役割のステレオタイプは機能しえない。人生を遂行することについての歴史的なモデルは存在しない。たとえば、政治や公的な活動、質労働、そして同様に結婚や親であることにおいて、個人的な生活と社会的な生活は、相互的な調和を取り戻さなければならない。その時代と時代精神落ち着きの無さは、この調和がどのようにして達成されるのか、あるいは達成できるのかどうか、誰も知らないという事実にも起因している。
・10:自己実現や自己決定は、単に個人的な目標ということでは決してない。それらは、往々にして公的な弥縫策でもあるのだ。それは、すべての部分的システムが、市民は「成熟しており責任能力を持っている」と突然みなすことに よって、市民に押しつけている問題の裏の面である。
・第一のモダニティの諸価値が「ゾンビ・カテゴリー」になっている。
・12:「データベース消費」も個人化の所以。伝統が崩壊し、自由になったため。
・13:個人化→労働組合や中間団体を崩壊させ、政治力を削ぐ。統治費用を下げる狙い
・15:個人化に政治制度が追いついていない。ブレア政権「ニュー・レイバー」の失敗。
・すでにカントが代表制民主主義についての批判のなかで記したことが猛烈に展開している様子を、われわれは目にしている。すなわち、民主主義は、法を形成する主体としての諸個人の心に訴えるのであるが、にもかかわらず、代議制の形式においては、個人の意思の表出は濾過して取り除かれ、その上を素通りされ、抑制されてしまう。

第3章 身分と階級を超えて?(ウルリッヒ・ベック 1994)

・戦後の福祉国家の発展が、ほぼ不変の不平等関係に隠れて、かつてない規模と力強さで個人化に向けた社会的な勢いをもたらした。比較的高い生活水準と社会保障を背景として、歴史的連続性に一つの断絶が生じて、伝統的な階級の結びつきや家族の援助から人々を解放した。そして人々は、労働市場において自分が所有する資源や個人的な運命の上に、それに付随するすべてのリスク・機会・矛盾とともに、ますます投げ出されるようになった。
・個人化の過程は、長い間、新しく発展しつつあるブルジョワジーの特徴だと考えられてきた。しかし別の形態では、近代資本主義の「自由な賃金労働者」に特有のものであり、福祉国家大衆民主主義という条件における労働市場のダイナミズムに特有のものであった。労働市場に参入することは、家族・近隣・職業の緊密な結びつきから人々を繰り返し解放してきただけでなく、特定の地域文化や景色との結びつきからも人々を解き放った。こうした個人化に向けた推進力は、賃金労働の社会的リスク(失業、単純作業化など)のような労働市場の宿命にある集合的側面と競合する。しかし、そうした社会的リスクが相対的な豊かさと社会的保護を通して縮減されているかぎりにおいてのみ、個人化は、階級や身分社会の下位文化と結びつく生活世界を実際に溶解させる。
・「社会的不平等の個人化」。このことは、あらゆる重要なことがらが、忘れられ、誤解され、あるいは単に捨てられつつあるということを示唆してはいないだろうか。そこには、社会の階級的性格、体制としての社会の性質、大衆社会や資本の集中、イデオロギーによる歪曲と疎外、変わらない人間の特性、社会的・歴史的現実の複雑性などについてわれわれが学んできたすべてが含まれる。そして個人化の概念は、社会学の若すぎる最期を意味し、弔いの鐘を鳴らすことにもならないだろうか。
・個人化の中心的な関心=自分独自のお金・時間・生活空間・身体をコントロールしたいという要求。
ブルジョワジーのなかの個人化の過程は、本質的に、資本の所有と蓄積から生じている。ブルジョワジーたちは、封建的な構造による支配や権威と闘うなかで、自分たちの社会的・政治的なアイデンティティを発達させた。それとは対照的に、後期モダニティにおける個人化は労働市場の産物であり、多様な労働技能の獲得・提供・応用のなかで姿を現す。
・教育・移動・競争
・教育=マインドセットを入れ込む 
・移動 人々は、生まれながらの、あるいは新しく形成された結びつき(たとえば、家族、近隣関係、友人関係、パートナー関係)から比較的独立するようになる。
・競争 競争は同質的な社会集団のなかで個人の孤立をもたらす原因
・生活世界に根付いた社会階級のアイデンティティが溶ける 階級が下位文化と世界に対する人々独自の経験という基礎を失う
・新しい階級、社会集団は生まれるのか?
労働組合は結局損得勘定に依存しているから無力 内発的な力が湧かない
・1950-60年代の特徴 家族中心の私事主義(privatism)
・政治改革よりも社会改革の方が強力(効果的)
・第一に、個人化の過程は、階級の差異から社会的アイデンティティを奪う。社会集団は、自己理解という点でも、 他の集団との関係においても、自分たちを差異化する特徴を失う。また、社会集団は独立したアイデンティティを失い、政治的勢力をかたちづくる機会を失う。こうした展開の結果として、(実際の身分階級間を個人が動くという意味での)社会移動という概念は意義を失う。この概念は、20世紀のまさに終わりまで、社会的アイデンティティ形成にとってきわめて重要な社会的・政治的テーマをかたちづくっていた概念であった。
・第二に、不平等は決してなくならない。不平等は、社会的リスクの個人化という観点から再定義されるだけである。その結果として、しだいに社会問題は、人格の不適切さ、罪悪感、不安、葛藤、神経症のような心理学的性質の観点から認識されるようになる。逆説的に、個人と社会の間の新しい直接性や、危機と病いの間の直接的関係が出現している。社会的な危機は個人的な危機として現れる。それはもはや、社会的な領域に根を持つという観点からは認識されない(あるいはきわめて間接的にしか認識されない)。このことは、心理学への関心が近年再興していることについて説明の一つになる。同様に、個人の業績志向も重要性を増す。いま予測されるのは、将来、業績社会に関連するあらゆる種類の問題が現れ、社会的不平等を(偽って)正統化する傾向が現れるということである。
・第三、もはや階級モデルのような単一のパターンに従う必然性はない。私事化された生活の孤独は、私事化された他のあらゆる他者の生活から守られているが、きわめて雑多な成分からなる社会的・政治的な出来事や展開によって粉砕される可能性がある。
・最新の社会的流行(の争点と葛藤)に影響されやすい。マスメディアに押しつけられたそうした流行は、春秋冬のファッションショーとまさに同じように、一般の人々の意識を支配する。

第4章 両義的な社会構造──「自主独立型文化」における貧困と富(ウルリッヒ・ベック 1997)

1 プロレタリア文化、ブルジョワ文化、「自己文化」

・「自己文化」=データベース消費 自分自身と他者の両方にとって予測不可能なものであり、市民社会、消費社会、セラピー社会、リスク社会を異種交配したもの
・プロレタリア文化やブルジョワ文化との決定的な違いの一つは、自己文化では、社会を特徴づけるのがもはや階級カテゴリーではなく、「自分独自の人生」というきわめて文化的・政治的な原動力だということ
・第一に、外面的な人口学的な基準が存在する。単身世帯(単身世帯の諸個人は、若者もいれば高齢者もいる、未婚もいれば死別も離別もいるなどの矛盾した存在である)の数が増加し、それに伴い、あらゆるライフスタイルで「分離」が重視される。こうしたことは、自分独自の「空間」と「時間」に対する基本的なニーズ(このニーズは歴史的に発展し確立されたものである)と、それが後期近代の都市の建築物や社会基盤などに与えている無数の影響のなかに表れている。自己文化のもう一つの社会人口学的な特徴は、離婚件数の多さと、それに関連して婚前・非婚・婚外・婚後というライフスタイルが顕在的・潜在的におびただしく増えたことである。われわれは、これらを「多元化」 のベールのもとにひとまとめにすることに慣れてしまっている。

自己の演出、自由の実践、自己組織化

2 自己政治と国家政治

・ギデンズ「ライフ・ポリティクス」 個人の消費行動が投票行動でもある
・自己文化政治が表現主義的であるのは、象徴的に生み出されたマスメディアの効果を使うことで力とアイデンティティを感じ、それらを発展させるからである。自己文化政治が印象主義的であるのは、それが多くの孤立した「その場かぎりの直接行動」(そこでは活動家も争点もその場かぎりである)から構成されているからであり、公的に演出されたカメラのフラッシュのなかでのみ大衆個人主義を政治的に主張できるからだ。
・自己文化政治の成功とは、それ自体ではあまり意味のない私的な行為(たとえばガソリンを満タンにする)と結果の間に、はっきりと理解できる直接的な結びつきが生じるという意味である。個人はその行為の結果において、自分がグローバルな政治的活動を作り出したのであり、その政治的活動は自分が行為しなければ生じなかったと感じることができる。ここでは、政治屋や政治家、その他の指導者は、観客席に座っている。自己文化政治の魅力は、まさにこうした逆転現象にある。そこでは、非政治的なものが政治的なものになり、政治的なものが非政治的なものになる。そのようにして、個人は自分自身が政治的介入を生み出したと感じ、境界線を越えて既存のシステムを突破する政治的主体であると(まったくの幻想かもしれないが)感じる。
・自己文化政治=印象主義的な帝国主義

3 社会的不平等の先鋭化としての個人化

★1970年代と1980年代は、疑いなく、豊かさに基づいて個人化を語ることができた。しかし、1990年代の初めから、その出発点は、むしろ仕事なき資本主義におけるあやうい生活状態に基づく個人化になってきている。
・ここ15年間で賃金所得は横ばいだが、資産所得は59%増えた。

4 リスクと危険の個人誌

5 動的な貧困と失業

・「75-15-10」社会。75%は一度も貧困にならない 15%は短期間(1回か2回)貧困状態になる 10%は長期間(3回以上)貧困状態
・システマティックに生み出された大量失業の運命が、粉々に分解されている。大量失業の広まり方から、欠乏の再分配というものを考えることさえできる。
・富裕と貧困がどちらも分解されて、安定した非常に小さな「中核部」と著しく大きく不安定な「周辺部」になる

6 取り消しが見込まれる状況――「両義的」な不平等という概念とそれを調べる方法

・自己文化は(貧者と富者の)「どちらでもない」文化ではなく、「どちらでもある」文化である。したがって社会のほとんどらゆる場所に不安定性が広くいきわたる。
・ 自分独自の人生において両義的であること、危険にさらされること、機会に恵まれること、偶然に左右されることといったカテゴリーからわかるのは、リスクがこの社会全般の基本的特徴だということである。そしてそこに自分のせいにすることという中心的なカテゴリーも付け加えるべきである。
・富者と貧者、頂点と底辺から成る新しい混成物
・(階級、職業集団、社会成層といった)社会的な位置づけに関わる概念すべての安定性と予測可能性という特徴 → あやうさ、両義的であること、暫定的であること、取り消しが見込まれる社会的な位置づけ、「どちらでもある」位置づけという類型論
・個人誌の隠喩として、「綱渡り」 が役立つかもしれない。あらゆる人が失敗して地面に落ちる危険に常にさらされているが、芸術的なスキルや意識に差はありながらも、自分独自の人生を制御しようと試みる。とても幸運な人も少数いるが、その他大勢はそれほどではない。 綱渡りの個人誌が規範となる社会の特徴は、精神的なストレス、芸術的な魅力、恐怖が、あらゆる人を呪縛し、そして多くの人々が落っこちるという事実である。
・位置づけのあやうさが意味するのは、
1 不断にバランスを取る綱渡りのような行為が、転落の危機をかわすのに必要である。
2 このことは、下から見れば、次の求職や次の結婚とともに上に戻るという希望のなかに表される。
3 罪や恥の意識が階級意識にとってかわる。「独自の人生」というレンズを通すと、構造的に決定された完全に明白な集合的運命が、罪へと変容する。「あなた独自の人生=あなた独自の貧困」というような考えは、自己意識のはりつけ刑である。こうして、外的で社会的なものであった失業が、個人の属性となる

第5章 「他の人のために生きること」から「自分独自の人生」へ──個人化と女性(エリーザベト・ベック=ゲルンスハイム 1983)

1 個人化の過程にある女性たち――「もはや」と「まだ」との間
・このままでは女性運動が、一方的で経済的な領域に偏る「男性世界」の表れとして批判してきた地位や収入、キャリアという枠組みの思考方法そのものを採用するようになるだろう。
★このように、女性が家族の直接的な縛りからしだいに解き放たれると、女性の個人誌は「個人化の後押し」の影響を直接に受けた。そしてこのことに関連して、機能主義理論が「生得的」役割から「獲得的」役割への移行と呼んでいるものを経験した。それは女性に、行動や決定の新しい見通しと、新しいチャンスを開いた。しかし同じくらいはっきりと、それは新しい不確かさや葛藤、プレッシャーをもたらした。まず女性は、かつては男性だけが直面していた数々のリスクに直面するようになった――それだけでなく、女性にとっての個人化の過程は「不完全」であり、奇妙な中間段階に閉じ込められたものであった、という事実に起因する、さらなるリスクにも直面した。
・もはや今日の女性は、かつてのような家族生活の見地からも、また男性のような扶養者の見地からも、定義されない。しかしまだ彼女たちは、家庭内で課せられる務めについては男性よりもはるかに重い責任を持っており、労働市場においては堅固な立場に守られることがはるかに少ない。この「もはや」と「まだ」は、女性の人生に非常に多くの両義性と矛盾とを発生させている。古い規制の数々が衰退し、多くの新しい可能性が開かれてくる一方で、その結末がまだ見えないような新しいタイプの依存と強制とが出現してきた。女性の人生を見通す「モデル」はもはやどこにも存在しない――彼女たちはかつてと比べ、可能性を開かれもしたが、守られることも少なくなったのだ。

2 ひとかけらの「自分独自の人生」の要請

・19世紀まで、女性の最高の戒律は自己犠牲と献身だった

3 教育における諸変化

バーンスタインの言語障壁理論 限定コード/精密コード/洗練コード 労働者階級/中産階級/上層階級
・彼女たちの人生設計は、両親のそれ、とりわけ母親のそれとは異なっている。この世代間ギャップのために、若い女性は、どんなモデルや伝統からもほとんど支援を得られないのに、自分独自の計画を立て、自分独自の活動をして、将来について自分独自で考え抜かなければならない。

4 仕事の世界における変化

・家族という内部世界への監禁という19世紀モデルから、20世紀の終わりに向かって、より長い(そして潜在的には生涯の)有給の雇用へという移行
・ブロンテ3姉妹 長姉 シャーロット・ブロンテ 『ジェーン・エア』 ヴァージニア・ウルフ
・職業は公の世界への扉
・仕事の世界への不完全な統合は、このように女性の人生に矛盾を引き起こすのであり、女性たちの間の差異化や分裂はこれに起因している

5 セクシュアリティと恋愛関係の変化

・避妊薬、お試しの付き合い、離婚の増加

6 ひとかけらの「自分独自の人生」――私的要求から政治的効果まで

第6章 ポスト・家族らしい家族への途上──必要性の共同体から選択される姻戚関係へ(エリーザベト・ベック=ゲルンスハイム)

1 プロローグ――異論が飛び交う論争の舞台

・1950年代と1960年代の西洋産業社会においては、家族への賛歌が歌われていた。西ドイツでは、家族は憲法で尊重され、国家の特別な庇護のもとに置かれた。家族は日常生活の原型として承認され、支配的な社会学理論では機能的な国家や社会に不可欠なものとみなされた。しかしその後、1960年代終わりから1970年代初頭に学生運動と女性運動が現れ、伝統的な構造への抵抗を示した。家族は、イデオロギーや監獄であり、日常的な暴力と抑圧の場だと暴露された。しかし他方で、「ブルジョワ家族を擁護する」(Berger and Berger 1984)舞台に現れた人々もいれば、「冷酷な世界における聖域」(Lasch 1977)として家族を再発見した人々もいた。「家族をめぐる戦争」の勃発である(Berger and Berger 1983)。

2 標準性の構築

・統計の恣意性

3 家族と個人化――歴史的変化の過程における諸段階

・個人化とは、人々にとっての人生の伝統的な周期性――社会学者たちが標準的な個人誌と呼ぶもの――をますます疑問視し、解体させる傾向のある一つの歴史的過程と理解される。結果的に、かつてよりも多くの人々が、自分独自の個人誌をつなぎ合わせて、自分に必要な構成要素をできるだけ上手にはめ込んでいくことを強いられている。彼らは疑いのない前提、信念、価値を失っているにもかかわらず、近代の生活を繊維状に編み上げる組織的な統制と束縛(福祉国家労働市場、教育システムなど)のもつれに直面している (Beck and Beck-Gernsheim 1993)。はっきりいえば、標準的な生活史は自作の生活史にとってかわられてきている。

4 個人化と日常生活の演出

5 将来への展望

第7章 仕事の分担、自己イメージ、ライフ・プロジェクト──家族のなかの新しい衝突(エリーザベト・ベック=ゲルンスハイム)

1 衝突の可能性

2 衝突の背後の衝突――自己イメージとライフ・プロジェクト

★若い世代のカップルは、ホックシールドの言う「立ち往生した革命」、あるいはクラウス・ヴァールの言う「近代化の罠」を生き抜いているといえるかもしれない。すなわち彼らが生きているのは、モダニティの神話と現実の分裂であり、「自信を持った自立性、家族の幸福、社会の進歩という内面化された約束と、……承認されないこと、人間の威厳への侮辱、ダメージを受けた自尊感情という現実の経験」の間の分裂なのである。
・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』(1991) 日常の決定の殆どがアイデンティティによって下される

3 衝突を減らす戦略

4 結論的コメント

第8章 出生率の低下と子どもを持ちたいという願望)(エリーザベト・ベック=ゲルンスハイム 1993)

1 ベビーブームから出生率の低下へ

・子どもを持ちたいという願望と、自立してささやかな自分独自の人生を送りたいという願望の間で、女性があの手この手でいかにして引き裂かれているか。
・世の中のスピードがどんどん速くなっている。ゆっくり子育てする時間が取れない。

2 新しい市場の条件

・不安定な雇用→子どもという現実的リスク→優先順位後回し
・とにもかくにも経済的余裕

3 旧東ドイツでもどこでも

第9章 国家の機構は人々をケアしない(エリーザベト・ベック=ゲルンスハイム)

1 人口革命への対応

2 高齢期とポスト・家族らしい家族

・3世代同居=安定であり、同時に息苦しさ
・介護離職

3 新しい選択に直面した社会と政治

・ギデンズ「ライフ・ポリティクス」
・国家による高齢期の管理

第10章 遺伝子技術時代の健康と責任(エリーザベト・ベック=ゲルンスハイム)

1 個人化される社会の指針的な価値としての健康

・健康維持という義務
・自分の健康に配慮し備えることは、個人化された社会によって奨励され要求される個人誌のモデルの一つである。競争的な労働市場で溺れずになんとか頑張るためには、体調を整え、健康で有能でなければならない。いまや健康も、神からの贈り物というよりも、責任ある市民の課題と達成であり、市民は健康を守り、健康に気をつけなければならず、さもなければその報いを受けねばならない。健康問題を抱える人は、労働市場において機会が減り、そのうち「就職困難」カテゴリーに入れられる。これは、私たち誰もが脅かされる可能性のある危険である。それは健康という新しい道徳を生み出し、あらかじめ武装するようわれわれに命じる。市民よ、病気、事故、障害に対して、病原菌やウィルスに対して、身を守れ。体重を量り、体調を整え、予防接種を受け、ビタミン剤を飲んで、遅れずに成功せよ。かつて健康は、われわれに与えられたものであり、緊急時にのみ治療が必要なものであったが、いまではそれは常に作られる必要があるのである。
★神、永遠の来世、救済に対するこのような信念は、世俗化が進展するうちに、広範な人々の間で崩壊した。残ったのは、いまここにいる個人であり、彼/彼女のあらゆる希望と努力は、いまのこの現世に関係づけられている。来世に対する信仰が失われたとき、健康は新しい意味とより高い価値を獲得する。つまり健康は救済の世俗的な期待になるのである。

2 健康とゲノム解析

3 「検査責任」の拡張

・胎児の遺伝子検査→中絶

4 将来はどうなるのか

第11章 自分独自の死、自分独自の人生──はかなさからの希望(ウルリッヒ・ベック 1995)

・「自分独自の人生」=むしろ、徹底的な順応の人生 「逸脱の正常化」を生み出す順応
・脱伝統化されるが、代わりに強力にグローバル化される
・現世がすべて、終わりとしての死が初めてあらわれた
★自分独自の人生は、定義上、自己と世界をかたちづくる場、力、目的を、自分自身の中に見出そうとする試みであり誘惑である。
・モダニティの支配的な反応は、死を忘れて抑圧し、埋めて隠し、もっとも深い埋葬室、つまり自己のもっとも暗い記憶の部屋に閉じ込めることである。
・自分独自の人生の終わりなき延長か、全員で突然生命を終えるか。

第12章 自由の子どもたち(ウルリッヒ・ベック

・ドイツのリンブルクのカトリック司教フランツ・カンプハウス「自由という無限の遊び場のあらゆる瞬間には、関係の危機、忠誠の放棄、伝統の連鎖のひび割れが伴っている。自由を実現したいと思う人間は、結局は自分自身を実現するだけなのか。近代社会は原子化によって、連帯の枯渇によって崩壊するのか?」
★近代社会は、それが消費して破壊してきた天然資源によって生きているが、それだけでなく、同じくらい回復不可能な道徳資源によっても生きている。超越的な「価値のエコロジー」は、共同体主義、連帯、正義、究極的には民主主義の「根」であるが、それが衰退しつつあるのである。
・それとは対照的に、デモクラシーへの懐疑者であるトクヴィルは、1848年というはるか昔の『アメリカのデモクラシー」で、「自由に対して戦うことは、神それ自体に対して戦うことだ」と記している。封建時代と民主主義時代という2つの世界の境界でさまよったこの人物は、この文章で何を言おうとしていたのだろうか。個人の自己権威化はヨーロッパのモダニティのまさに当初からの特徴だった。その起源は、資本制にはなく、ヒューマニズムや「神の死」(ニーチェ)にもない。古代や初期キリスト教の変わりゆく宗教的経験の世界にあり、ギリシア哲学の理性の力の発見と解放にそれはあった。
・さきほどの引用からいくつか後の章に、今日の多くの人々にとってそれに劣らずショッキングな、次の文章がある。「アメリカ人は自由をもってして、平等が生ぜしめる個人主義と戦い、これに打ち克った」。現代の論争に応用すれば、このことの合意はこうである。「ミー・ジェネレーション」の兆候に、自由を少なくすることでもって対抗するのは不可能である。もっと多くの自由、しかも政治的自由でもって対抗しなければならない。自由は、もしもそれが理解され、積極的に肉付けされるならば、公共空間へのコミットメントを促進し、市場の新自由主義的な偶像化に対抗する
・この処方は公的な自由によって衰退に対抗するものだが、これが非常に有用なのは、それが、今日ではほとんど支配的な見方に対するきわめて効果的な反論だからである。今日支配的な見方は、モダニティは絆(ダーレンドルフのいう「リガーチャー」)を必要とし、それどころか絆を使いつくすが、モダニティ自体はその絆を再生できないというものである。この理解においては、モダニティは根本的に意図とは逆の結果を招くものである。モダニティはそのかけがえのない道徳的前提を常に掘り崩す。この近代社会についての自己概念(およびその哲学と社会学)は完全に間違っている。キリスト教と政治的自由は相互に排他的ではなく、相互に包摂するものである。たとえそれが解決できない矛盾をキリスト教の伝統に埋め込むとしても。
・ポイントは、複雑な問いに単純で包括的な答えを与えることである。その問いとは、近代とは何かである。答えは、単なる「道具的合理性」(ヴェーバー)、「資本の最適の利用」(マルクス)、「機能的分化」(パーソンズルーマン)ではなく、これらを補い、また衝突するような、政治的自由、シティズンシップ、市民社会である。この答えのポイントは、意味、道徳性、正義はあらかじめ定められておらず、近代社会にとってのいわば治外法権的な変数ではないということである。その反対が真である。モダニティは、独立した、生き生きとした、古来のものであると同時にきわめて現代的な意味を中心部に持っている。それが政治的自由である。政治的自由は日常的な利用によっては枯渇しない。そうではなく、より大きな生命と活気に沸き立っている。したがってモダニティが意味するのは、伝統的確実性の世界が死滅しかけており、もしわれわれが幸運ならば、それが法的に裁可された万人のための個人主義によってとってかわられているということである。

1 ただ家にいる

・われわれは危機にではなく自由に「苦しんでいる」のである。もっと正確にいえば、現在自由が常に拡大していることによる、意図せざる帰結と表現に苦しんでいる。
・自己決定への願望は、同様に重要である共有されたコミュニティへの願望と、いかに両立可能なのか。いかにして個人主義的であると同時に集団で溶け合うことができるのか?


第13章 自由の父たち(ウルリッヒ・ベック

第14章 ゾンビ・カテゴリー──ウルリッヒ・ベックへのインタビュー(ウルリッヒ・ベック/ジョナサン・ラザフォード)

・1999年2月3日ロンドンにて

訳者あとがき

索引