マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】宇野常寛 X 更科修一郎『批評のジェノサイズ――サブカルチャー最終審判』(サイゾー 2009年)

目次

 

CHAPTERⅠ 08.JUN.ー08.SEP.

批評なんか、いらない? カネとオンナの恨みを批評にぶつける「ヒガミ系」問題

・「思想地図」「フリーターズフリー」「m9」「ロスジェネ」
・「あなたたちの人生がうまくいかないのは、〇〇のせいです」というメッセージ
ルサンチマンに訴える品のない動員
「WiLL」や「正論」は、口が臭くて娘が口をきいてくれない感じのサエない中高年オヤジどもに、「お前の人生がうまくいかないのは、中国や韓国や戦後民主主義のせいだ」みたいな免罪符を売って、市場を維持したわけです。
・「すべて他人のせい」というヒガミ系は、「すべて自分のせい」といった、つまり規制緩和路線を後押しして自己責任社会を徹底させた小泉構造改革の裏面として誕生している
・そもそも、なんだって「ある程度は自分のせいで、ある程度は世の中のせい」に決まっていて、その複雑な絡み合いを考えるのが批評なのに、そこから逃げている
・事実、批評を読んでる奴ってイタいんですよ。僕は以前、大学サークル研究をやっていたんですけど、大学生活が楽しくない人間が批評に逃げているんですよね。コミュニケーション能力が低くて、あまり友達がいない奴。彼らはマジメに本を読んでいるかもしれないけど、地頭が悪いわけなんですよ、はっきり言って。会話の切り返しもダメだし、長期的な人間関係の振る舞いを見てもバカなんです。
・自己正当化ロジックという免罪符を買い漁っても、それはなんの解決にもならない。必要なのは、社会的に結果を出すことと、いい人間関係を築くこと。それは批評による自己正当化では、絶対に購えないものなんですよね。才能ない奴ほど、口先だけ大きな問題に逃げますから(笑)。もうちょっと、ちゃんと相手の目を見てハキハキしゃべることができたり、実績ないクセにブクブク膨らんだプライドを制御できるようになれば解決できる問題ですよ。
・「金か権力か女か、お前さんが欲しいのはいったいどれだ?」と。そういう人って、欲望の優先順位を決められないから、ニート非モテといった宙ぶらりんの状態になっているんだと思うんだよ。当座の優先順位を決めれば、なんとなく達成目標も見えてくるから、とりあえずはそこに向かって努力できる。達成した後で虚しくなって自殺するかも知れないけど、そのへんは達成してから考えることでさ。所詮、この世の真実なんてどこにもありはしないのだから、適当にでっち上げるしかないんだよ。
・タコツボ化、見たいものしか見なくなる流れは止まらない
・僕はヒガミ系雑誌なんか、すべて潰してしまいたい。で、そこを生きがいに生きてきた奴には八つ当たりをやめてもらって、「話し方講座」にでも通ってもらう、と。そのほうが彼らにとっても長期的にはマシな選択でしょう。

今、面白い小説ってナニ? 盛り上がりそうで盛り上がらない純文学の行方

川上未映子&桜庭一樹ブームの真相 「早稲田文学」=「文壇のキューバ
・少女マンガ雑誌 「CUTiE Comic」(宝島社)が休刊したときに、羽海野チカの『ハチミツとクローバー』が連載途中で放り出されて「難民」になったんだけど、そのとき、個人的にキャンペーンを張って売りまくった熱心なハチクロファンの女性書店員がいてね。それがきっかけで話題になって、「ヤングユー」(集英社)に拾われたことが美談として広まったあたりから、本を売ることで自己表現しようとする書店員が急増したんだけど、結果として、本屋の平台が女子書店員=文系内向き女子センスに偏っていくんだよね。
有川浩の『図書館戦争』(メディアワークス)に至っては、「本が好きな女子は絶対的正義で、かっこいい男にも愛される」という文系内向き女子限定の願望充足小説なんだけど、大ヒットしている。
・「本屋大賞」と『文学賞メッタ斬り!』の影響

マンガビジネス崩壊寸前! 旧態依然な制作現場と中年オタクの性欲野放しのツケ

マンガ雑誌編集の体育会系文化
・「原田知世症候群」に侵される、中年オタクたち
谷山浩子を聴いて、新井素子を読んでる文化圏 本当は性欲爆発なのにそれを認めない
・「マンガ大賞」にも「本屋大賞」と同じ問題 明らかにノイタミナ女子の好みに偏っている

ゼロ年代」の物語の想像力 セカイ系的価値観の支配から解かれた、00年代コンテンツの特徴

相対主義の世の中が定着すると、逆に、「こんな世の中だからあえて自分は何かを信じるんだ」という態度(物語回帰)が全面化するんです。そうなると、みんな「自分たちこそが、相対主義の生むニヒリズムに抗うためにあえて自分の信じる超越性に賭けている存在だ」と思ってしまいがちになる。ところがですね、実はどのコミュニティでも、起こっていることは同じだったりするわけです。「新しい歴史教科書をつくる会」も、渋谷系残党も、「萌え」セカイ系オタクも、自分たちこそが「こんな時代だからこそあえて」信じたいものを信じると言って独我論に陥っている。→島宇宙
・90年代前半、平成不況に突入すると「頑張って何かを獲得する」「金を儲ける」「面白おかしく生きる」といった社会的自己実現の物語が減り、代わりに「心の傷を癒やす」「本当の自分を見つける」といった心理主義的な話が増えるんです。そして、1995年頃からオウム真理教の事件や阪神大震災でいよいよ世の中暗くなり、タコツボもより強固になっていく。
・そのあたり、テレビドラマの流れがダイレクトに反映しているね。90年代序盤まではトレンディドラマ全盛で、フジの月9からよくヒット作が出たけど、次第にTBS系金曜10時枠で『ずっとあなたが好きだった』『高校教師』といったダーク路線が台頭。1995年以降はさらに前景化して、野沢尚の『青い鳥』や、野島伸司の『聖者の行進』といった鬱々としたヒット作を連発していた。同時にサイコミステリー系の流れもあっ て、TBS金10枠では1999年の『ケイゾク』が大ヒットになった。特に1997〜98年頃に暗い作品が集中していて、他ジャンルでは「週刊少年ジャンプ」(集英社)ですら、看板作品が「不殺の誓い」で鬱々としていた『るろうに剣心』だったんだよね。ギャグマンガの『すごいよ!マサルさん』もダウナー系だし。
・それが煮詰まっていった結果、90年代末から00年代初頭にかけ純愛ブームが吹き荒れます。『世界の中心で、愛をさけぶ』(小学館)、『冬のソナタ』(NHK)、『失楽園』(講談社)以降の渡辺淳一ブームや、ギャルゲー『AIR』も含め、その時期に同時多発的に流行したコンテンツは、みんなことごとく「オンリーユーフォーエバー」 症候群だったわけですよ。F1層、主婦、日経新聞を読んでる中高年、モテないオタク、すべて同じ欲望を抱いていて、「この世に価値あるものなんてまったくない。最終的にはキミと僕だけの関係がすべて」みたいな「セカイ系」的価値観に支配されたんです。
・要するに、相対主義に耐えられないんです。「世の中の何に価値があるかわからない」という事実が怖くて、「自分たちのタコツボこそが、至高の価値を持つ」と思い込むため、あえて小さく引きこもる。こういう姿勢を、僕は比喩的に「決断主義」と呼んでいますが、これって言ってみれば、オウム真理教が発泡スチロールのシヴァ神を信じていたのと似たようなもんなんです。
・疑問を禁じ得ないのは、東さんが父権批判的なモチーフに拘泥している 「父殺し」を経て成長するという概念自体、もう誰も信じていないと思うし、むしろ大切なのは、「棲み分けた島宇宙で全能感を確保している幼児的な状態」=「セカイ系」からの脱却こそ成長と捉える思考の転換だと思うんですよ。つまり、母権から自由になろうとする意志のほうに僕は注目したい。母親は自分の子を無条件で承認するし、子が成長して外に出ていくのを本能的に嫌がるじゃないですか。現代は父権社会なんかじゃない。むしろ母権社会ですよ。
・昔は「成長」=「父殺し」でしたが、今は「チチ離れ」です。それも「父」じゃなくて「乳」(笑)。自分と同じ価値観の人間しかいない母権的な共同体は、何をしても許し、承認し、肯定してくれるからすごく居心地がいいけど、平気で異物を排除するような人間しか作り出さないんですよ。
・今の世の中は自由だけど、冷たくもなっているわけですよ。かつては世の中が「生きる意味」とか「信じる価値」を与えてくれたけど、今は自分で選択して自分で責任を取るしかない。これは、他者に仮託してやり過ごそうとするタイプの人には茨の道だけど、自分で試行錯誤したい人には有利な仕組みです。つまり、父権からも母権からも独立して物事を考えることが要求されているんですが、萌え系のマザコンたちはこれがわからないし、逆に冷たくて自由な社会の「自由」な部分を利用する人間が次の時代を作っていくんだと思うんですよね。

CHAPTERⅡ 08.OCT.ー09.JAN.

「アニメはもうだめ」なんかじゃない

さらば、愛しの雑誌たち!?

・「宝島30」はもともとニューアカブームの反動雑誌で、「机上の空論よりも現場のリアリティ」をモットーに、良質のルポをいっぱい載せていた。その理論編として、浅羽通明さんや宮崎哲弥さんの論考があった
・小林弘人編集長時代の「サイゾー」 「ワイアード」、インフォバーン

邦画と洋画、ヒットの法則

・『ダークナイト』を作れない日本

恋愛至上主義という病

小谷野敦もてない男』、酒井順子『負け犬の遠吠え』、本田透電波男
・ブームの影響下にあるネット非モテ系の多くは、一見、世の恋愛礼賛の風潮を相対化しているようで、実は恋愛至上主義を再強化していたと思うんですよ。要は、本当は恋愛したいのにできない人による「酸っぱい葡萄」反応であると
本田透 「恋愛資本主義」 岸田秀ゼミ すべての文化や社会制度は本能の欠落を埋め合わせるための幻想だとする「唯幻論」を唱える
・残酷なほどのコミュニケーション格差社会 勝ち組/負け組 リア充
・仕事にアイデンティティを見いだせる人の割合が少なくなっている→友人関係、恋愛関係が生きる意味の全てになる
・終身雇用と会社共同体に支えられていた、誰でも手に入る「普通の社会的自己実現」が崩壊した今、コミュニケーション的に「イケてる」「イケてない」の差が、個人の幸福感を大きく左右してしまう。その象徴が恋愛なんです。
上野千鶴子『おひとりさまの老後』のメタ・メッセージ→「個人的なコミュニケーションでの自己実現に追い込まれるのが嫌なら、腹を据えてちゃんと仕事しろ」ということなんですよね。身も蓋もないけれど状況理解としては正しく、それができる人はそこに向けて邁進すればいい。ただ、繰り返しますが、それをできる人が生まれにくい世の中になってきているんです。
・「会社」「サークル」「家族」の3つの共同体。日本では「サークル」が弱く、その分「家族」幻想というか「恋愛」幻想が肥大してしまっている。中間共同体モデルがない日本。
・コミュニケーションの「コスト管理」みたいな発想を持つことですよね。本当はウザいのに孤独が怖くて党派を抜けられない人も、本当は寂しいのに自分は孤独を愛するタイプだとブログでアピールしたりする人も、バカ丸出しでしょう(笑)。

CHAPTERⅢ 09.FEB.ー09.JUN.

08年のベスト&ワースト大発表!

・自意識系マンガ 花沢健吾ボーイズ・オン・ザ・ラン

ウェブコミュニティの歩き方

・終身雇用制の崩壊で、個人に一生にわたる収入だけでなく、生きがいという精神的価値を与えてくれる日本型の会社共同体が機能しなくなってしまった。いまや一握りの特別な才能や職能のある人を除いて、圧倒的多くの人は、誰がやっても同じような入れ替え可能な仕事には生きがいを見いだせず、自己実現とは関係のない、食べるための仕事として従事するしかない。そうすると、家族関係や友人関係といった個人的なコミュニケーションの領域にしか生きがいを見いだせなくなり、恋愛という個人的な関係の価値が特権的な値上がりをしてしまった。そこでは、個人にとっての幸福がすべてコミュニケーション能力のあるなしで決定されるという、自由だけども残酷な格差社会が生まれてしまったため、その弊害をどう解除しようかという処方箋として、「中間共同体」的なコミュニティをいかに充実させるかという話になった
・いま、右も左も猫も杓子も、グローバル化のもたらす「アイデンティティ不安」の受け皿として中間共同体が必要だと言っています。僕も基本的にはそう思います。けれど、語られるべきはコミュニティの具体像です。それは旧態依然とした日本的な「ムラ社会」の復活や、「非モテ」とか「ロスジェネ」とかルサンチマンでつながるウェブのヒガミ系共同体ではあり得ない。

テレビドラマが面白い

・時代を映すTBS金曜10時枠『岸辺のアルバム』→『金曜日の妻たちへ』→『ふぞろいの林檎たち』→『高校教師』→『人間・失格』→『青い鳥』→『木更津キャッツアイ』 70年代以降の日本文化史はこの枠である程度語れる
・『すいか』『女王の教室』『野ブタ。をプロデュース』『ギャルサー』『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』『リップスティック』

瀕死のラジオ、その未来

・伊集院の自虐ネタや「非モテ」ネタは、その後90年代末やゼロ年代前半に、ネット上で隆盛したテキストサイト文化の源流になっています

サブカルチャーの明日はどっちだ!?

・90年代以降の文化は、すべてのジャンルで「俺はこれが好き、お前はこれが好き、以上終わり」という島宇宙化が進行してきました。それは不可避で仕方のないことですが、そこに安住している文化はつまらない。だから越境的な態度を取ろうとすると排除のロジックが働いて、ますます棲み分けを強固にしてしまう。この否応なくセットで働く棲み分けと排除の2つの論理の象徴が、総合誌的な知性の衰退でしょう。
・たとえば40歳近くになっても芽の出ない人間が、中央線沿線で100部しか売れないようなミニコミを作って、「これって、俺たちが本物の文学がわかる文化的エリートである証しだよね」みたいな自己正当化で自分の才能のなさをごまかしながら死んでいくというのは、彼らの人生としてはいいかもしれないけど、文化的には非常につまらない。つまり島宇宙化というのは、才能のないカルチャー中年の自意識の問題としては非常に幸せな状況を生んでいるんだけれど、文化全体のレベルを低くしているわけです。「下北沢化」って言い換えてもいいですけど。
チャック・パラニュークコーマック・マッカーシー

CHAPTERⅣ 19.JUL.

特別対談 AD2019サブカルチャー最終審判

・「美少女戦麗舞パンシャーヌ
格差社会という言葉自体、もう形骸化して、富裕層と貧困層がお互い不可視になって事実上誰も困ってないんですけどね。カネがない連中はネットで無料のコンテンツだけを楽しんで、30円バーガーを食べていればいいんですから。

あとがき 宇野常寛

あとがきのあとがき――または、発端から顛末まで。 更科修一郎

ゼロ年代に入ってからは、サブカルチャーを評論、批評するという行為に意義を見いだすことができず、辟易することが多かった。編集者の立場では「販促ツールとしての評論、批評」ということになるが、読者にしてみれば、自己肯定のための理論武装ツールでしかない。言い換えると、成長しないための適応ツールでしかないので、どんなに大層な言葉で装っても、評価される評論、批評とは、現実逃避性能の高さが評価されているだけだ。よって、評論家、批評家として生きていくということは、文化的タコツボの住人に理論武装ツールを提供して、小さなカルト宗教の教祖になる、ということでしかない。
・「すべての党派から疎外されているからこそ見えるものがある」拗ね者の論理はルサンチマンの一種だが、もっと誇大妄想的で、すべてのタコツボを覗き込んでしまう。すべてのタコツボを一つの巨大なタコツボと捉えてしまうから、表裏一体の諦念も抱いている。 
1/8読了
 
◆要約:2008-09年の日本の大衆文化状況。文学、マンガ、映画、テレビドラマ、雑誌などについて。島宇宙化、タコツボ化。セカイ系について。宇野氏の問題意識は日本は母性のディストピア(甘やかしの病)に冒されているということ。ヒガミ系の男性は、他人を叩くことで現実逃避・自己逃避しないで、もっと社会性を向上させて、自己実現をはかるべきという考え。
◆感想:『ゼロ年代の想像力』の復習になった。宇野さんの原点というか考え方がよくわかった。浅羽通明宮崎哲弥に影響を受けている。全方向に対してものすごい毒舌。自分に当てはまり、反省させられるところもあった。氏のコンテンツ批評は嫌いではないのだが、政治・経済となるともろにネオリベなので嫌い。