映画の公式ガイドブック。
目次
獄中からの手紙 元・連合赤軍中央委員 吉野雅邦から菟田高城へ
・逃亡者の粛清 「革命の為の必要な犠牲」として当然視 革命のために必要な殺人
・殺人を一度犯してしまうと人間崩壊する
・赤軍派と革命左派の主導権争い 両指導者が、より過激な姿勢と指導性を誇示し合う心理
・永田洋子「”山”と”銃”という実践では、私達の方がずっと進んでいるだから大丈夫よ」
・森恒夫 剣道の経験 「気絶して目覚めたとき生まれ変わったような新鮮な気持ちになった」
・加藤能敬への総括要求は革命左派内の分派闘争色合いが濃い 川島豪シンパへの見せしめ
・「私は、当時、最高指導者が語った中で、次のような「論理」を何とか理解し、正しいものと見なし、受け入れていました。
――アジア全面侵略を企む米日の反動権力を打倒し、侵略を阻止するための革命戦争は、かつてない熾烈な、死にもの狂いのものとなる。その革命戦争の領導的役割を果すのが「銃による殲滅戦」である。「銃」と「殲滅」は、革命戦争を勝利に導く「党」「軍」建設の環となっている。この「銃」を自在に使いこなし、「殲滅」を、軽々と遂行するためには、実践の観点に立った「リアルな批判―自己批判」によって、根底的な総括を為し切り、精神的飛躍を遂げねばならない。こうした主体の飛躍は、党建設が「銃による殲滅戦」という実践で一致し、新たな地平に立ったため、この新党の党員となるためにも、又、連合赤軍兵士となるためにも、必死で勝ち取らなければならない。
革命戦士にとっては、一切の後退は許されず、その身の処し方は、「勝利か死か」しかなく、総括姿勢をもつか否かは「ゼロか百か」を意味する。
これまでの革命運動は「ねばならない」という義務意識でやってきて、ある程度為し得たが、これからは「やりたい」という欲求をもって臨めるようでなければ、「銃 による殲滅戦」は勝利し抜けない。
党建設の初期の段階で獲得する必要がある「規律・作風の問題」だが、「べからず」という禁止規定ではなく、心から革命を望み、自然に規律正しくふるまえるような共産主義者となることで解決されねばならない。
根底的総括を為し切り、精神的飛躍をかちとれれば、どんな困難な情況も容易に乗り切れる。
日和見主義や敗北主義との闘いに於て課される暴力による苦痛や肉体的困難そして恐怖は、この飛躍のために科された試練であって、それに敗けることなく、総括姿勢を勝ち取り、革命戦士になるべく闘い続けねばならない。――
こうした論理が、暴力行使を肯定するための理由付けでしたが、先の2人殺害の時と同様に、疑念を抑え込み、抵抗感情を封じ込めるため、自らに無理に言い聞かせる類いの論理に他ならなかった、と思います。」
・これは、作り上げた指導者に於てすら恐らく同様で、それ故、この指導者も逮捕後さして時を措かずに、暴力行使や殺害を誤りとして「自己批判書」をものし、懺悔するに至りましたし、私を含め、誰一人、この論理を繰り出して、事件の正当性を主張する者が無かったのです。
・尾崎充男、進藤隆三郎への暴行 サンドバッグの如く腹を殴る
・平成19年(2007年)11月26日の手紙
短歌 常しへの道 元・連合赤軍中央委員 坂口弘
・2作目の歌集『常しへの道』(2007年 角川書店)
・新左翼運動を誰一人として 総括をせぬ 不思議なる国
1960→1972「連合赤軍」全記録 構成・文=掛川正幸
・1945終戦 1950朝鮮戦争開始 1951サンフランシスコ講和条約、同時に日米安全保障条約 1954自衛隊発足 1960日米安保条約改定
・戦争の記憶がまだ生々しい大人と、戦後平和教育を受けた若い世代
・全学連(全日本学生自治会総連合) 1948結成 最初は日本共産党の指導下 1958第11回大会での共産党の方針転換に反対する学生幹部が除名→彼らがブント(共産主義者同盟)を結成 1960年全学連の中心にいたのはこのブントのメンバー
・1960安保改定強行採決 反対闘争の総括を巡ってブント分裂→一部は共産党と対立していた革共同(日本革命的共産主義者同盟)に。その学生組織がマル学同(日本マルクス主義学生同盟)が全学連の実権を握る。
・やがて革共同は旧ブントのメンバーを中心とした中核派と創設者・黒田寛一の影響力が強い革マル派に分裂。
・この後に大学へ入った世代が、60年代後半の学生運動を担っていく。森恒夫1963年大阪市立大学、永田洋子1963年共立薬科大学、坂口弘1965年東京水産大学、坂東國男1966年京都大学
・当時の4年制大学進学率12-13% まだ特権階級でそれゆえに社会意識も高かった
・安保改定後 高度経済成長の時代 1964年東京オリンピックが象徴 三種の神器 カラーテレビ、クーラー、カー 3C
・成長の歪み 公害 開発による自然破壊・風景破壊 都市集中化
・大学 インフレ、経営規模拡大のための学費値上げ キャンパスの移転 学生の自主管理の締め付け
前史 1960.6.15→1967.8.08 それは、強行採決から始まった……
1961
・5.16 韓国で軍事クーデター
・李承晩、3選禁止の憲法を変える 1960年3月大規模な不正選挙によって4選→退陣を求める運動が拡大→軍が鎮圧、183人が死亡 李承晩事態を収拾できず、5月28日ハワイへ亡命
・8月23日北朝鮮に融和的な張勉内閣発足→これに不満を持った陸軍がクーデター→7月3日陸軍少将・朴正煕が全権を掌握。以降、ソウルオリンピックの前年19年まで25年あまり、韓国では軍人による政権が続く。
・8.13 東ドイツ政府、「ベルリンの壁」構築開始
・1945年5月23日、米英仏占領のドイツ連邦共和国(西ドイツ)とソ連占領のドイツ民主共和国(東ドイツ)に分かれて独立。
・国民流出を恐れた東ドイツ政府、ベルリン市内に高さ5メートル、延長165キロメートルに及ぶ壁を建設 冷戦体制の象徴となる
1963
・11.01 南ベトナムで軍事クーデター ゴ・ディン・ジェムを殺害。南ベトナムでは以後2年間で13回軍事クーデターが起こる。
・11.22 ケネディ大統領暗殺 午後0時30頃。テキサス州ダラス。 リー・H・オズワルト ジャック・ルビー ジョンソン大統領「ウォーレン委員会」 ベトナム戦争拡大
炎上 1968.11.01→1969.04.28 頂点からの行方……。そこに武力闘争があった
・三派系全学連は、68年夏、分裂した。中核派と社学同・社青同解放派の主導権争いが原因だった。学生運動の流れは、全学連から全共闘へ変わりつつあった。東京大学、日本大学の全共闘の呼びかけに応じ、11月22日、バリケード封鎖中の東大安田講堂の前で開かれた「東大・日大闘争勝利 全国学生総決起集会」には、111大学から約7000人の学生が参加した。
・東京大学は、全学部で無期限ストライキ中だった。坂田道太・文部大臣は、翌年1月15日までにバリケードを撤去し、授業を再開しなければ、69年の入試を中止すると決定した。この決定により、学校当局は民青系の「東大民主化行動委員会」とともに、スト解除に動いた。
・69年1月18日、加藤一郎・学長代行は警察の出動を要請し、早朝、8500人の機動隊が安田講堂と周辺校舎の学生たちを排除するために、本郷キャンパスに入った。しかし、学生たちは激しく抵抗した。排除が終了したのは翌19日の午後5時45分だった。このとき安田講堂に籠城した400人近くの学生のなかに、のちに連合赤軍に加わる行方正時(岡山大)の姿もあった。
・1月20日、学校当局が強行策をとったにもかかわらず、東京大学の入試は正式に中止された。
・じつは、ブントの指導部は、機動隊導入の前日、安田講堂から籠城部隊を撤退させるよう社学同の幹部たちに指示していた。しかし、学生幹部たちがその指示に従わず、ブント=社学同は新左翼主流としての面目を失わずに済んだ。武力闘争を巡るブント内の軋轢が急速に浮上してきた。
・安田講堂の攻防はテレビで中継され、全国の学生たちが固唾を呑んでその様子を見守った。文部省は、東京大学での封鎖解除と授業再開を前例とし、各大学の紛争を<正常化>するつもりだった。しかし、その狙いとは逆に、この攻防は全国に飛び火した。各地の大学でバリケード封鎖、封鎖解除が繰り返されるようになる。のちに連合赤軍のメ ンバーとなる植垣康博(弘前大)は民青を脱退し、所属する理学部で共闘会議を結成した。
・それは、学生運動の頂点からの始まりだった。
・東大入試の中止は、受験体制に組み込まれていた高校生にも大きな衝撃を与えた。3月には、全国56の高校で卒業式を巡って生徒と学校側が衝突し、数校では会場がバリケード封鎖された。高校2年生だった加藤倫教は、名古屋で4・28沖縄デーのデモに参加する。3年後、彼は「あさま山荘」で銃を握りしめていた。
・ブント内では、4月、さらぎ徳二議長や中央大学を中心とする関東派と対立する塩見孝也たち関西派が、関西派独自の機関紙『赤軍』を発行。さらに対決姿勢を強めた。また、4月12日には日本共産党左派(神奈川県委員会)から、学生たちの実力闘争の評価を巡り川島豪たちが分派。革命左派(=日本共産党革命左派神奈川県委員会)を結成し、米軍基地への直接攻撃を掲げた。
・2年後に連合赤軍を形成する二つの党派が生まれつつあった。連合赤軍に加わる何人かが、この時期に大学で目にした光景は、乱立するタテカン(立て看板)、机や椅子で作られたバリケード、そしてストで人の姿がほとんどないキャンパスだった。
★全共闘が提起したのは、各大学の個別問題だけではなかった。大学を頂点とする教育の在り方、その教育制度のなかで学生であり続ける意味など、運動に関わる者それぞれの生き方も問うていた。そこから、「自己否定」「自己変革」「自己批判」という考え方が生まれた。簡単に言えば、世の中を変えるには、まず自分自身が変わらなければならない、という論理だった。それは、やがて一人ひとりに重い選択と過酷な運命を強いるようになってゆく。全共闘運動の砂塵のなかで、彼らは「あさま山荘」へと続く道に踏み出していった。
・◎全共闘と民青 民青と共産党、全共闘を「トロツキスト暴力集団」と批判する とくに京都大学では全共闘を阻止するため当局と協力し逆バリケード
・11.01 東大当局、執行部全員退陣
・11.04 東大、加藤一郎・新法学部長が総長代行に就任
・11.06 アメリカ大統領戦で共和党R・ニクソン当選
・11.07 中核派、社学同、ML派、第四インターの2千人、首相官邸突入を図る 逮捕者464人
・11.08 日大芸術学部のバリケードが「関東軍」に襲撃される 右翼・他大学の応援団など約200人
・11.12 東大全共闘、本郷の総合図書館前で「東大民主化行動委員会」(民青=日本共産党系)と衝突
・11.19 沖縄米軍嘉手納基地でベトナム爆撃に離陸のB52爆撃機が爆発炎上
・11.22 東京大学、安田講堂前で「東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会」 全国111大学から全共闘系の学生約7000人が結集 民青系は労働者を含む約6000人を動員して全共闘を牽制
・12.01 東京、府中で現金輸送車の3億円強奪される
・12.29 坂田文部大臣、東京大学の入試中止を決定 ただし1月15日までにスト解除・授業再開できれば再検討との条件
・12.XX ブント(共産主義者同盟)第8回大会 塩見孝也政治局員(京都大)、高原浩之学対部長(京都大)ら関西派と、さらぎ徳二議長、松本礼二副議長ら60年安保世代の指導者や中央大学などの関東派との対立が深まる
野火 1969.5.23→1969.12.30 赤軍派結成!革命左派起動!……しかし、武力闘争は不発だった
・1969年「大学臨時措置法」。警察力の大学構内への立ち入り等を認めさせる
・5.23 大学立法粉砕全国統一行動
・5.24 「大学の運営に関する臨時措置法案」(=大学立法)が、国会へ提出される
・6.08 ニクソン大統領、ベトナムから2万5000人の撤兵を発表
・6.08 ASPAC粉砕現地闘争 静岡県伊東市
・6.29 新宿駅西口地下広場の反戦フォーク集会を機動隊が排除 7000人集まる
・7.06 ブント関西派、明治大学和泉キャンパスの関東派を襲撃 さらぎ議長逮捕
・7.20 アメリカの宇宙飛行船アポロ11号が、人類初の月面着陸
・7.24 東京教育大学、筑波へ移転を発表
・8.03 自民党、参議院で「大学臨時措置法」を抜き打ちで強行採決、成立
・8.15 ウッドストック・フェスティバル開催 ニューヨークの北約100キロの農場 3日間 約40万人
・8.15 大学臨時措置法施行 広島大学、北海道大学、京都大学、九州大学などこれ以降次々と機動隊によるバリケード封鎖解除
・8.22 ブント第9回大会で、塩見孝也ら13人除名
・8.23 共産主義者同盟赤軍派結成総会、神奈川県城ヶ島のユースホステルで開催 議長塩見孝也(京都大)、軍事委員長田宮高麿(大阪市立大)、学対委員長高原浩之(京都大)など政治局員7人。中央委員は、重信房子(明治大)、山田孝(京都大大学院)、梅内恒夫(福島医科大)など24人。
・9.03 北ベトナムのホー・チ・ミン大統領死亡
・9.04 革命左派、羽田空港滑走路で火炎瓶を投げ、外相搭乗機の出発を遅らせる
・9.04 赤軍派、葛飾公会堂で結成集会
・9.05 全国全共闘連合結成大会 150大学 約2万5000人 日比谷野外音楽堂 赤軍派部隊が初めて公然と姿を現し、会場でブント連合派(関東派)との党派闘争(内ゲバ)に勝利。
・10.15 アメリカ全土で「ベトナム休戦デー」100万人以上 史上最大の反戦デモ
・10.21 国際反戦デー 東京の逮捕者1122人
・パイプ爆弾、ピース缶爆弾
・10.29 赤軍派、「首相官邸武装占拠計画」を採択
・11.04 航空自衛隊佐渡基地の小西誠・三曹が基地内に反戦ビラを貼り、逮捕
・11.06 山梨県大菩薩峠の「福ちゃん荘」で、首相官邸占拠に向けて軍事訓練中の赤軍派部隊53人、一斉逮捕
・11.16、11.17 佐藤首相訪米阻止のため、蒲田周辺で火炎瓶による大規模なゲリラ闘争 逮捕者は全国で2093人で史上最高
・11.21 ワシントンで日米共同声明 安保維持 72年の沖縄返還
・12.08 革命左派議長 川島豪逮捕
鬼火 1970.1.16→1970.12.31 新たな武器を求め……、ついに2つの道が出会った!
・1969年10月、11月の大量逮捕→学生運動は停滞
・赤軍派 国際根拠地論 → ハイジャック闘争
・「よど号」ハイジャックと上赤塚交番襲撃は、”次”を求める者たちに方向性を示した。もはや、大量動員と大量逮捕を繰り返す街頭闘争を超えなければ、新たな道は開けない……。
・70年、「正常化」された大学への新入生は、シラケ世代と呼ばれた。キャンパスに広がったのは、無気力、無関心、無責任の”三無主義”だった。
熾火 1971.1.25→1971.7.15 連合赤軍、結成! ……学生運動は分岐点を越えた
・70年安保闘争の停滞の先に三里塚と沖縄があった。
・6月15日、沖縄返還協定粉砕の集会で、全国の全共闘連合は解体した。中核派と反帝学評の路線対立からだった。60年安保全学連→三派全学連→全共闘と受け継がれてきた学生運動の流れが、これで消滅した。この分岐点から散った流れが、爆弾を使った武力闘争と、三里塚の援農などを通してやがて農業問題に取り組む市民運動を生んでゆく。武力闘争のリーダーを自負していたのは、赤軍派と革命左派だった。
1971
・1.25 赤軍派と革命左派の共同政治集会が初めて開かれる
・2.17 革命左派、栃木県真岡市の銃砲店を襲う
・2.22 成田空港予定地で第一次代執行
・M作戦始まる 郵便局、銀行強盗
・2.28 重信房子がレバノンへ出国 遠山美枝子「フー、あなたが先に死ぬのね…」
・赤軍派、革命左派とも逮捕されまくる
・4.23 永田洋子と坂口弘が赤軍派アジトに滞在。銃と資金を交換
・5.14 大久保清逮捕 十数人の女性を暴行、8人を殺害
・5.31 革命左派、小袖ベース設置
・6.06 革命左派、小袖ベースから向山茂徳が脱走
・6.13 ペンタゴン・ペーパーズ事件
・6.15 沖縄返還協定阻止闘争 明治公園で中核派と反帝学評が衝突し、集会が流れて8派共闘は消滅した
・6.17 沖縄返還協定調印
・7.13 赤軍派と革命左派、「統一赤軍」結成で合意
・7.13 革命左派、早岐やす子が脱走 静岡県磐田市襲撃する交番の下見中
・7.15 連合赤軍、発足
・7.15 革命左派、永田洋子たちが塩山ベースへ移動
硝煙 1971.7.19→1971.12.01 去る者と、踏み留まる者……、”修羅”の始まり
・70年安保闘争は、71年の沖縄返還協定の発効で終焉を告げた。次の政治目標は、成田空港開港阻止以外に見つからなかった。新左翼の運動そのものが、大衆性を失いつつあった。活動からの離脱は、革命左派だけの問題ではなかった。
・8.03 革命左派、印旛沼で早岐やす子を処刑 ドライバー役の小嶋和子は激しく動揺し、処刑後、自力では歩けなくなった。
・8.10 革命左派、向山茂徳を処刑
・8.10前後 赤軍派、進藤隆三郎が処刑司令の出ていた持原好子を「革命戦線」へ移す
・8.16 ドルショック(ニクソン・ショック)起きる ニクソン大統領 議会にも図らずにUSドルの金兌換停止
・8.22 赤衛軍事件 朝霞駐屯地で自衛隊員が刺殺される 犯人の菊井良治に思想的影響を与えた、京大パルチザン竹本信弘(滝田修)が指名手配される
・8.26 加藤3兄弟と小嶋史子、丹沢ベースへ入山
・9.08 林彪が毛沢東暗殺のクーデタを試み失敗
・9.16 成田空港建設用地の第二次強制代執行で、警官3人死亡
・9.25 若松プロダクション 映画『赤軍―PFLP世界戦争宣言』の宣伝隊結成 赤軍派の遠山美枝子がこの映画の宣伝隊(通称:赤バス)に加わる。
・9.30 『赤P』、新宿の京王名画座(現・新宿バルト9)で上映開始
・この頃爆弾闘争頻発
・11.10 沖縄で返還協定反対のゼネスト。全軍労・官公労・教職員組合など10万人参加 火炎瓶で警官1人死亡。
・11.14 中核派、返還協定粉砕を叫び”渋谷大暴動”
・11.17 沖縄返還協定、衆議院の特別委員会で自民党が強行採決
・11.19 都内各所で、返還協定粉砕の火炎瓶闘争。日比谷公園の松本楼炎上
・11.23 革命左派、群馬県榛名山へ移動し、ベース建設を始める
・11.24 沖縄返還協定、自民党が衆議院で単独採決 沖縄は米軍基地の実態を変えずに、本土へ復帰
・12.1 赤軍派、青砥幹夫、行方正時、遠山美枝子が新倉ベース到着
業火 1971.12.03→1972.2.17 死の総括、その発端と終幕
・森の「共産主義化」論。毛沢東「作風の整理」(整風運動)。総括要求=対象者の言動や活動歴への批判。「自己否定」。
・12.3 革命左派、赤軍派の新倉ベース到着、共同軍事訓練始まる
・革命左派 永田洋子・坂口弘・寺岡恒一・吉野雅邦・前沢虎義・岩田平治・大槻節子・杉崎ミサ子・金子みちよの9人
・赤軍派 森恒夫・坂東國男・山田孝・青砥幹夫・植垣康博・進藤隆三郎・山崎順・行方正時・遠山美枝子の9人
・「水筒問題」で赤軍派がプレッシャーをかける
・12.4 軍事訓練2日目
・12.5 軍事訓練3日目 永田が遠山批判 指輪、化粧、髪型、態度など
・ここからは映画通り
・革命左派 前述のメンバー以外に寺林真喜江・小嶋和子・加藤倫教・加藤元久・尾崎充男・伊藤和子・山本順一
・12.26 深夜、加藤能敬に<指導としての殴打>を開始
・12.31 尾崎充男死亡
1972
・1.1 進藤隆三郎死亡 小嶋和子死亡
・1.3 遠山美枝子は自分で自分を殴らされた
・1.4 加藤能敬死亡
・1.7 遠山美枝子死亡
・1.18 寺岡恒一死亡
・2.04 森恒夫と永田洋子が下山 東京でカンパと車を調達するため
・榛名ベース→迦葉ベース→妙義山籠沢の洞窟
・2.16 奥沢と杉崎が車に籠城、警察が包囲
・2.17 森恒夫と永田洋子逮捕
銃火 1972.2.16→1972.2.28 あさま山荘――脱出の先に見えた戦場
・暗闇の中を山越え
・2.19 植垣・青砥・寺林・伊藤、軽井沢駅で逮捕
・さつき荘で銃撃→あさま山荘 軽井沢レイクニュータウン 管理人の妻 牟田泰子
・警察は彼らを革命に殉じた英雄にしないために、生きたまま逮捕することを至上命令にした。
・寺岡の父
・2.28 突入 警察官2人、民間人1人死亡 全員逮捕 午後6時10分すぎ 滋賀県大津市で坂東の父親が縊死
・◎「あさま山荘」 戦後史 日本赤軍による奪還闘争 2008年2月現在まで
・2006.2.18→2007.1.26
・宮城県大崎市鳴子町鬼首(おにこうべ)国民宿舎
・西新宿芸能花伝舎 オーディション
・撮影が速い 「早撮りの若松」
・「埼玉県ロケーションサービス」
・「川崎5スタジオ」
・若松監督の別荘を破壊 牡蠣パーティー BBQ
・「あさま山荘」の銃撃戦が終わったとき、日本の戦後というひとつの時代が終焉を告げ、豊かさの幻想に満ちた現代の日本が始まった。
・撮影部3人、照明部2人、録音部2人のコンパクトな技術陣 少数精鋭
・機械的な正確さでその悲しみを記録する
・2007年12月15日@テアトル新宿
・塩見 最初はヨチヨチ歩きで漫画のようなことがあった
・平野 植垣さん、あんた、そんなニコニコして言う話じゃねえだろ! 「東貯行動委員会」
・若松 植垣さん、あんたたちがだめにしたんじゃなくて、だめにされたんだよ。当時の"カミソリ" 後藤田(正晴)が警察庁長官で、ちゃんとシナリオを書いたんだ。あんたたちは完全にそのシナリオに乗って、完全に見張られてたんだ。僕はそういう解釈です。もしかしたらスパイがいて、あさま山荘のときは89%の視聴率ですから、日本国民みんなですよ。これを10日間見せといて「こいつら悪い奴らだ、悪い奴らだ」とシナリオを書いておいて、ほとんどの国民がそう思ったときに「それ!」って逮捕しちゃったんだよ。役者のようにシナリオに乗せられて、ひとつのプロパガンダに使われたんじゃないかと。僕はそう見ているんだけどね。
・若松 なんであそこまでバレたのかということですよ。中核派と革マル派が100人以上死んでます。公安はあそこに中核派がいる、あそこに革マル派がいるって教えたんじゃないか。そこで殺しをやらせておいて、学生運動はやっぱりだめなんだと社会にプロパガンダして、運動をだめにさせた。完全に連合赤軍で失速させちゃったんですよ。塩見さん、どう思う?
・塩見 後藤田のほうが格上で、はるかに権力者として経験豊かで、人間も練れていた。
・思想の面、教養の面でも全く未熟だった。
・塩見 植垣はいろんな負の問題を克服すればいいんじゃないかと言うけど、同志殺しということは、本来は赤軍派になかったわけで、連合赤軍事件はどう いう形で起こったかをちゃんと詰めきゃいけない。革命の指導者や党を守るためには同志を殺してもいいというスターリン主義肯定の考え方が、中国共産党の教条化、盲従思想を通じて持ち込まれてきた。こういう思想は60年代に克服されたと思ったけど、いざ武装闘争となるとあらためて出てきた。同志を守り育てていくという理想とはまったく反対、保命・保身のエゴイズム思想だ。植垣は、当時は若年で付き従っただけだと言うが、君もそうだ。こんなのは赤軍派の思想でもなんでもないと思います。
・塩見 広い意味で赤軍派も、日本民衆運動の負の部分も含め、また武装闘争における外国権威への憧憬、拝脆も含めた、先に挙げた未熟性をもっていた点で、責任を感じ、自己批判してきたが、連合赤軍の同志殺しという点では断固、関係ないし、責任はない。連合赤軍の問題はスターリン主義のひとつの武装闘争のありかたであって、我々とは違うとはっきり言えるし......。
植垣 もういいよ。塩見さんは連赤と関係ないんだから。
塩見 その通り。急進的な思想修養運動から同志殺しが起こったなどと言うのは、永田(洋子)さんや植垣が自己のスターリニズムを隠すデッチあげだ。外国のスターリン主義思想をもった革命思想の教条的信奉・盲従の要素は無視できない。
・塩見 日本の共産主義運動が武装闘争をやることになったとき、それを外国の権威に依拠してやろうとした。自分の頭で考えて、自分の経験と言葉で物事 を考えるということじゃなくて、すぐに外国の権威に頼ろうとする日本の民衆運動、左翼の伝統的な弱さの問題が連合赤軍にも出てきた。スターリン主義批判ということを言っておきながら、スターリン主義的なことを実際にやってしまった。そのことを植垣も考えなきゃいかん。 君は今でも毛沢東思想を信奉し、同志殺しを「共産主義化」にすり替えて正当化し、ブントや赤軍派のせいにしている。奥平君や安田君のような人がいたことを忘れている。まともな指導者の下では立派に武装闘争はできた。
平野 ちょっと待って!赤軍派ができたときに俺は南部地区委員会にいたんだけど、塩見孝也が作った赤軍派の背景には常に暴力がありましたよ。内部闘争もすべて暴力で解決してきた。俺はそう思ってる。それもゲバ棒や鉄パイプじゃなくて爆弾ですよ。自分が死ぬのも当然、人を殺すのも当然という考え方で、塩見孝也の赤軍派は作られた。だから、僕はばかばかしくなって逃げた。だけど僕らがなんで運動をやってきたかというと、ヒューマニズムつまり人間が好きだからでしょ。
・塩見 「党」という名の下に「新党」結成の反対派を一挙に抹殺した。粛清の事実関係の展開を冷静にたどれば、このことは歴然としている。これが明らかに連合赤軍の本質だ。
・若松 オウムとは全然違う。連合赤軍は真正面から国家と戦った。
・若松 彼らは敗戦直後に生まれた世代。日本がもう一度ファシスト国家になってはいけないという勘が働いた。
ジム・オルークの道程 ―人生で一番「バカ」という言葉を聞いた日
・ヘルツォーク、ルイス・ブニュエル、言葉で説明するかわりに映画で現している。彼らは紙と鉛筆の代わりにカメラを使っている。言葉で表せないもの。
・現代が何故か好きになれない。何故か60年代に自分は関わっていると感じる。
作品史 いま若松孝二を見る、ということ―歴史の継承、運動の始まり|平沢剛 映画研究者
・1936年 宮城県の農家に生まれる
・高校を中退して上京 新聞配達や日雇い労働など 新宿でヤクザとしてロケ撮影の交通整理
・63年『甘い罠』でピンク映画監督としてデビュー
・『壁の中の秘事』(65)ベルリン国際映画祭出品 外務省が中止を要請するスキャンダル
・『狂走情死考』(69)『現代好色伝 テロルの季節』(69)『性賊 セックスジャック』(70)
・カンヌ映画祭監督週間に招かれた帰り、ベイルートへ向かい重信房子とPFLPと共闘
・『赤軍――PFLP 世界戦争宣言』(71)
・ATG映画=1000万円映画 『天使の恍惚』(72)あさま山荘事件のため多くの劇場で公開中止
・大島渚、吉田喜重、鈴木清順
・アートシアター新宿文化、アンダーグラウンド蠍座
・『餌食』(79)『水のないプール』(82)
・『われに撃つ用意あり』(90)『エンドレス・ワルツ』(95)『17歳の風景』(04)
・映画的総括としての『実録・連合赤軍』(08)
若松孝二インタビュー―それでも僕は、若い奴らを信じる
・『突入せよ!』は許せなかった。
・当時の事件。「僕は、若い奴らを信じる」とコメント。
・志だけが問題。志さえあれば、映画は作れる。作品は作れる。
・若松プロにいた和光晴生君 現在も服役中 彼らのことを思えば自分なんか幸せ
・彼らは死を覚悟していた それがオウムとの違い
・あのころ体張ってやってた若者たちって、大人びて、格好いいじゃない?僕も女性だったら、ああいう奴らに惚れるでしょうね。
特別寄稿
・監督への感謝 事件の意味、運動の意味が本当にわかるには時間がかかる
<特別寄稿2> 壮大な鎮魂歌|船戸与一 作家
★いまにして想えば、あのとき精神よりも物質が、苦悩よりも安逸が、試行よりも効率が主流となる分岐点にだれもが立たされていたのである。
・彼の諸作品のなかに迸る殺気は時代感情の直截的な照り返しであったとしか言いようがない。
・公権力は当然ながらそのような時代の動きの徹底粉砕に取り掛かる。この圧力のなかで変遷を繰り返して誕生した連合赤軍は都市ゲリラから山岳へと拠点を移す。しかし、榛名山では何が起きたのか?孤立状況のなかで培われたのは反権力内の権力だった。この構造が産みだしたのは彼らが唾棄していたスターリニズムのミニチュア版だった。抑圧からの解放願望が新たな抑圧を産む。人類がかつて乗り越えたことのないこのアポリアがやはり彼らを待っている。
・児戯にも等しい軍事訓練と、その合間に行われる総括と粛清。スターリンや毛沢東のそれと決定的にちがったのは権力獲得や維持という政治的計算と無縁だったことだろう。榛名山での粛清は前段階蜂起というスローガンが具現化する見込みのまったくないところからひたすらはじまったと断じるしかない。孤立状況のなかの焦燥が歪な猜疑を呼ぶのだ。総括内容の貧弱さは眼を覆うばかりであり、銃器を使わない粛清は直視に耐えない。苦悶の呻きとともに洩らされる体液。粛清するほうもされるほうもたがいに地獄でしかない。もはや、革命のための試練とは言い難く、人間の卑小さのみが増幅されていく。カメラがそれを執拗に撮りつづける。
・しかし、状況は個々人の心情しだいで解決できるほど甘くはなかったろう。公権力は本気であの時代を潰しに掛かっていたのだ、その総重量に耐えられるはずもない。
・若松孝二がこの作品で描いたのはそういう時代状況であり、それに立ち向かおうとした若者たちの存在としての哀しさである。そこには特定の党派や組織にたいしての肩入れや嫌悪は毫も感じられない。濁流のなかでずたずたに切り刻まれていく精神。非情なまでに凝視されたのはそういう熱板のうえで悶え苦しむ魂の生態であり、それにたいしての哀悼の意が剥きだしにされたのである。
<特別寄稿3> 非同時代的体験者としての激讃|喜多匡希 映画ライター
・傑出した「青春映画」になっている。
<特別寄稿4> 「寒さ」の記憶|趙博 歌劇派芸人
・「運動・闘争アレルギー」も多かった。「資本主義の横暴は許せないが共産主義の専制はもっと怖い」
・民主主義学生同盟(民学同)。他党派との暴力闘争。
・この程度の「仲間殺し」は歴史上いくらでもあった。明治維新でも。
・戦争も「人殺し」であることは変わらない。それを告発した。
<特別寄稿6> 残すもの|飛澤伸彦 フィギュア・デザイナー
<特別寄稿7> 実現してしまった世界から|三上治 評論家
・親鸞『歎異抄』「人は意思しても人を殺せないが、意思しなくても人を殺してしまうことがある」
・実現しようとした夢や情熱と実現してしまったことの間には大きな違いがある
<特別寄稿8> 寄り添う視点|古川俊治 映画評論家
・このような映画が作られることの意義 歴史を忘れないこと
・歴史とは何か。ベンヤミン『パサージュ論』によるとそれは、哀悼的想起でありそれは「未完結なものを完結したものに、完結したものを未完結なものに変える」こと。
・比肩しうるのはイタリアのパゾリーニと西ドイツのファスビンダーを数えるばかり
<特別寄稿11> 戦後映画史に残る成果|浅野潜 映画評論家
・神代辰巳『青春の蹉跌』『棒の哀しみ』
・山本薩夫『真空地帯』軍隊の内務班暴力
・侯孝賢『非情城市』
<特別寄稿12> 青空の記憶と、輪廻|雪野建作 元・革命左派メンバー
・真岡市銃砲店事件半年後に逮捕 小菅の東京拘置所で事件を知る
・小袖、塩山の明るい生活 新緑の風景 酒を飲んで議論もした
・加藤登紀子「海からの願い」
<特別寄稿13> 底知れぬ悲哀とゴッコ遊び|橋本克彦 ノンフィクション作家
・観念の、あるいは言語それ自体の呪縛
・革命をやろうとして、赤軍ごっこをやっているうちに、武力革命戦略の嘘、いいかえればまったく現実的な根拠のない妄想が、集団を呪縛し、実は内心で感じている嘘、自信のなさ、現実性のなさに、彼らはさいなまれ続ける。
・その嘘を埋めようとして仲間の精神を攻撃しては死に追いやる、という連鎖的な心理劇が生まれたと私は解釈する。
・言葉でかざりあげただけの自分たちの武力革命戦略の嘘っぽさ、それをロにはしないが、実はひしひしと感じている嘘の恐怖が、この集団の行った無残、悲惨の正体であった。
・革命党派は人民を指導しなければならないという固定観念。傲慢さ。それは革命からはもっとも遠い態度。
・若松監督、この映画全体は、慟哭している。
<特別寄稿14> 巨大な「現代史」の「予告編」|中谷健太郎 湯布院「亀の井別荘」主人 湯布院映画祭企画
・これが予告編だとして、「本編」をどう掴むか 現代史の帰結は何か?
・あの加藤少年の叫びにまとめた手法は正しいか?
<特別寄稿15> 歴史抜きでは語れない|植垣康博 元・連合赤軍兵士
・妙義山の山越えは夜間
・絶望的な気持ちだけではなかった
<特別寄稿17> 既視感、そして奪われた「革命」|雨宮処凛 作家・エッセイスト
・自傷系サイトの自助グループにみた既視感 エスカレートしてしまう
・革命→自殺
・1972年を境に、この国の若者から「革命」は奪われた。革命の起こらなかった世界に生まれ落ち、「かろうじて心臓の止まっていない程度」の生を生きる若者たちは、「世界」に対して目を塞がれた。「死んでもいいほどの高揚感」や、「命を賭けるに値する何か」は遠い過去のものとなった。本当は、いつの時代の若者も命の使い道に飢えている。「絶対に、何をどうしてどうやっても変わらない世界」ほど、私たちを絶望させるものがあるだろうか。
<特別寄稿18> イテテテテテ……|平岡正明 評論家
・『日本暴行暗黒史 異常者の血』
・『赤P』 その直後パレスチナのコマンドたちは皆殺しにされた
・松本零士『ザ・コクピット』餓死した女狙撃手
<特別寄稿19> 沈殿していた闇が噴出した|椎井友紀子 映画プロデューサー
・決して憎しみや恨みから怒ってはならない
<特別寄稿20> しんどいが目をそらしてはならない|田原総一朗 ジャーナリスト
<特別寄稿21> 青年に薦める「慟哭と希求」の傑作|杉本真一 テレビドキュメンタリー制作者
・主観的に対峙しようとした世俗国家より、なお抑圧的な「権力」として、同士を処刑した「軍―党―国家」遊戯→安易なシニスムとニヒリズムを招来し、革命ならぬ政治改革までをも逼塞させた。
★「無知と忘却」にただ傲岸に拠るのではなく、「過ちを過ちとして」学ぶことの大切さ
<特別寄稿22> 国家に拮抗する|桑原茂夫 編集者
・私財を投げうっての映画作り
<特別寄稿23> 40年近く生き残ってしまった|前沢虎義 元・連合赤軍兵士
★日本人は2000万人が殺されたと云われる「大東亜戦争」を起こし敗北したのに、朝鮮戦争で復興しベトナム戦争で高度経済成長するのは恥ずかしいことと思えた。
・アジアの人々の関係を考えたとき、死んでお詫びしたいという感情が「連赤兵士」の前提としてあった。
・日本共産党=宮本修正主義集団
・今、当時の指導部、「粛清」を批判することはたやすい。しかし、主観的な行動とうすうす感じつつも武装闘争に殉じたいと思い、それを達成させるための「粛清」を違和感を感じつつも受け入れてしまった。
・あさま山荘事件が起こったとき、どれだけあそこで射殺されたいと思ったか。あれから40年も「永生き」してしまった。
6/21読了
◆感想
◆感想:とても面白かった。映画の公式ガイドブックといってもすごいボリューム。
歴史年表がとにかく詳細で、勉強になる。
連合赤軍事件と当時の世界情勢とは切り離して語ることができないということがわかった。
ベトナム戦争で北側が勝ったり、キューバの革命がなったり、共産主義が勝つ場面もあった。
前沢虎義氏の寄稿で当時の活動家の心情がよくわかった。
日本が大虐殺をした戦争への懺悔。そんな日本が棚ぼたで豊かになることを看過できなかった。アメリカの犬に成り下がるのを許せなかった。死んで詫たかった。
まとめとしては、船戸与一氏の寄稿が、うまく言い当てている。閉鎖状況のなかで、スターリニズムのミニチュア版が生まれてしまった。
トークバトルでの若松監督のスパイ説が興味深かった。一連の事件はあまりにもうまく出来すぎているので、あり得ない話ではないと感じた。
60年代の文化状況も気になった。アートシアター新宿文化のような場所がなぜいまないのか。
若松プロに若い才能ある人が集まってきたのが、作品作りのパワーの源泉なのだろう。
人が死んでも作品は残る。「映画に時効なし」。
若松監督のバイタリティを少しでも見習いたいと思った。