マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】平井玄『現代思想選集 路上のマテリアリズムー電脳都市の階級闘争』(社会評論社 1986年)

路上
TシャツとGパンとバスケットシューズを身に着けて古代唯物論の世界へと降りたっていた
火と水と石と木の世界ーすなわち、
火炎ビンと放水っと投石とゲバ棒の街頭へと。
=マテリアリズム
バリケードの向う側に待っていたもの。それは、まさしく国家だった。
70年代の国家が行っていいった弾圧攻勢とそのサバイバル戦略を、単に運動に対する直接的な暴力的鎮圧としてだけ受けとめるのでは、全く不充分だろう。むしろ、それを街路と室内と器官をめぐる「政治」、蛇行し模索しながら行なわれた多面的な都市戦略の集合体として捉えること。今、都市を語ることに意味があるとしたら、それはここにしかありえない。そうした方向で、都市を国家と和解させようとする一切の都市論を打倒すること。本書のモチーフの一つがここにある。
70年代に入って、路上の国境は日毎に増殖していった。そして、その向うに見え始めていた光景、それは夥しい数のきらびやかなモノたちの乱舞する「商品の植民地」に他ならなかった。
70年代 路上→室内へ
「書を捨てよ町へ出よう」1967
デカダンス 病的な感受性を重んじ、唯美的で背徳的な傾向。非社会的で、倦怠におぼれた生活をすること。
→80年代コンピュータへ。
資本主義は一切の<外部>をみずからの<内部>へ飲み込む。
現在の都市は、その全域にわたって資本主義の「明るい廃墟」と化しつつある。
僕らが帰るべき路上
目次
1.ドゥルーズガタリをめぐる階級闘争 情報のポリティクスの中で<浅田彰>を読む
決定的に生きること。本気で生きる。
賃労働と消費の牢獄
アントナン・アルトー器官なき身体」=「欲望する身体」器官=命令、制御
TVスクリーンという現代の「御真影」への盲目的な信仰
思想の核心を消去する言説
フランツ・ファノン 第三世界革命論 ポスコ
サルトル
帝国主義=新たな資本主義
カフカ――マイナー文学のために」
「偉大で、革命的なのは、マイナーなものだけである。」
ゴダール 重要なのは二項対立の線ではない。それらをごっそり南に持っていく線
イタリア、アウトノミア(ネグリ) 緑の党 パンク
柄谷、浅田=秀才 ドゥルーズガタリルンペンプロレタリアートの可能性も支持する。
ポール・ピッコーネ「資本のパラドックス
チョムスキー「知識人の責任」
ジュリア・クリステヴァ
国家から資本主義に暴力が移った?
エルンスト・ブロッホ「ここでは、行動するものだけが理解する。厳密には、かれが行動しようと欲するかぎりでしか理解しない。……正しい思考とはつねに、いまここで何をなさねばならないか、という視点の下におかれた思考でしかない」
ボブ・ディランより、ジェイムズ・”ブラッド”・ウルマー
●電子闇市論 ―その逆説的眺望
映画「ワイルドスタイル」NYブロンクス
ビー・バッパー=ナウい
文化情報戦 すぐ資本に回収される
クラッチング=レコードの楽器化
自由ラジオ運動
闇市」の記憶
魂の植民地化
<地下都市>ノート
山谷、東京
解放区闘争 神田、新宿
>>天皇制反対左翼は単に敵を見誤っていないか?<<
竹の子族
南千住
ソル・ユーリック「夜の戦士たち」「狙われた盗聴者」
山谷労働者運動に「右翼」の凶弾
山岡強一
「右翼」と建設業界
映画監督 佐藤満夫
ポール・ヴィリリオ「カメラの視線と銃眼の視線の相合性」
「映画」
「山谷―やられたらやりかえせ」
リュミエール兄弟
1895.12.28 パリ グランカフェ シネマトグラフ
ドゥルーズ 無類の映画好き
絵画 劇場的視覚 近代ヨーロッパの文化的身振り
映画=眼=銃=思考
個人→サラリーマン→消費者
需要と供給
リゾーム=地下茎
下方のノマディスム 下層社会を疾駆する遊撃思想
 
2.音楽機械あるいは金属都市
ジェイムズ・”ブラッド”・ウルマー
チョー・ヨンピル
YMOプロパガンダ
ジャック・アタリ「音楽/貨幣/言語」
世襲の僧、神主」
オーティス・レディングジョン・コルトレーンチャーリー・パーカー
宇崎竜童「身も心も」
中曽根康弘
船戸与一「夜のオデッセイア
新宿ジャズ喫茶 ピット・イン 風月堂
アルバート・アイラーの声
ゲットーの解体政策
オーネット・コールマン
ロイ・ジョーンズ
 
3.哄笑機械 疾走都市
ブエナベントゥラ・ドゥルティ
五木寛之 青春の門
バンカラ ハイカラのアンチテーゼ
クレイジーキャッツと高度経済成長の浮力
50年代から60年代にかけて、この国の人口の三割が洪水のように大都市に殺到し、60年代中頃、東京オリンピックの頃からは、都市の内部でそうしたエネルギーが回流し始める。排水口に集中してきた水が渦を巻いて流れ込むように。その量とスピードは60年代後半にピークを迎えた。
音楽と流体
H・E・カミンスキー
61「スーダラ節」
1961年、前の年の安保闘争の余韻がまだ十分に残っていたはずのこの年の秋、突然クレイジーキャッツの「スーダラ節」が出現する。
テレビは早くから家の床の間に鎮座していた。
イージー・ライダー」と「イージー・ライター」(青山のミニコミ、都会出身)
戦後、アメリカの生活、「奥様は魔女」等 "ホームドラマ"に憧れ。
テレビ "有用性"からかけ離れたイメージ放射装置。
ベンヤミン「パリ―十九世紀の首都」
植木等の時代」→所ジョージ
<高校全共闘少年>
小川プロ 虐殺の森
あの時培われたもの、それは単なる若い年代の個人的な反逆心やあらかじめ整序された社会意識には還元できないもっと混沌とした、暴動のような共同体的なもの。遊びのようでいてしかも笑いと怒りとが一つになったような奇妙なパッション。社会への一瞬の構想力のようでもあり、同時に鋭い皮肉に満ちたクールな視線のようでもある集団的行動力。大都市の真ん中に異常発生したことによって資本主義の甘美な毒に免疫性を持つ反資本主義的精神。昨日までの遊び場が、今日は「首都中枢占拠」の市街戦の模擬戦場になってしまう可笑しさに堪えながらする街頭アジテーション。余りにも風俗的だったから敗北したのではなく、より徹底した風俗の変革に至らなかったからこそ敗北した闘い。こうした全共闘大衆の行動群に流れていた未完の可能性こそがもう一度検証されねばならない。
●<60年代の新宿>のトポス(場所)性
寺山修司
爆発的なインダストリアライゼイション
=爆発的な労働人口の移動=急激な都市集中
農山漁村から都市への人口大移動
3000万人 3分の2が60年代
中心は若い層 団塊の世代が若かった
金の卵、工員→大学生→サラリーマン
竹内静子「1960年代―現代ファシズムと労働」
商品が個人の価値の具体的な表象
能力―出世―能力の表象としての商品、生活スタイル
「資本の支配体系の新たな核心」=金、商品
共同的な熟練労働―最低限の助け合い生活の持続 → 個人の労働―個人目的―市民生活の充足
アメリカの個人主義
自分のゼニは自分一人で稼ぎ、自分一人で使う。ただし資本というお釈迦様の掌の上で
=資本主義的自我
資本が投げ与えたエサ=幻想としての生活スタイル
「山の手」中産階級 「持ち家(マイホーム)」幻想の散布 60年代に爆発的に普及したテレビ ホーム・ドラマ
演劇・音楽・映画・思想あらゆるアヴァンギャルドたちもまたこの街に集中する。
ジリつき、貧乏臭く発情した雑階級どもが溢れかえる街―新宿の60年代。このカオス。
ジャズ喫茶と雀荘
バリケード。不思議に魅力的な"リアリティ" 路上のリアリティ。生のリアリティ。
「学校群」方式
青山高校 新宿高校 定時制
新宿に最初の超高層ビル 濁流の勢いは遠心化し、雑階級は「中産階級」へ 郊外の住宅地へ
学生反乱でなく階級闘争
反撃は二つの方向からやって来た。まず、そうした街路のリアリティそのものを強大な国家の暴力によってあらゆる路上から拭い去り、次に、路上の人々を再び企業の共同性へと統合し直し、さらに総ての生活領域を商品というモノの氾濫によって覆い尽してゆくこと。この時商品とは、人々を「中産階級」のリアリティへと誘い込む無数の通底器として機能していったのだった。
全共闘衝動>とは、急激に成長する資本主義が自ら解き放った人間的諸力の流れが、資本主義そのものを転倒させる力に転化しようとするその瞬間に爆発的に生じた無数の物質の覚醒、無数の物質の飛翔。
兵頭正俊
ボブ・ディラン=ジューイッシュ
野崎六助
小林信彦「夢の砦」野坂昭如「新宿海溝」
新宿DUG
さよなら、60年代の新宿
12/12読了。