マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

北田暁大「増補 広告都市・東京: その誕生と死」 (ちくま学芸文庫)

増補 広告都市・東京: その誕生と死 (ちくま学芸文庫)

増補 広告都市・東京: その誕生と死 (ちくま学芸文庫)

消費社会
「この負の均衡状態から脱するためには、現にある欲求に頼るのではなく、むしろ、交換への動機を作り出してしまえばいい。」
「必要のないものをどう買わせるか?」
ダサい、カッコ悪い、車。
「資本」=利潤を生まなくてはならない。
「私たちの日常は、広告か広告でないか判然としないような情報で溢れかえっているし、広告的要素を差し引いたらなにが残るかわからないような都市の風景の中に生きている。」
「そこでは渋谷という都市そのものが、パルコによってラッピングされ、そのままパルコの広告となる。いわば、シーヘブンとしての渋谷の構築だ。」
文化記号論
「実在」に対応するのではなく、記号システムとしての自律性。
80年代広告のアイコン、糸井重里
消費社会論
ボードリヤールのショーウインドウ論。
「消費という、特殊な様式のなかでは、超越性(商品の持つ物神的超越性をも含めて)が失われてしまい、すべては記号秩序に包まれて存在している。…幸福な時にも不幸な時にも人間が自分の像と向かい合う場所であった鏡は、現代的秩序から姿を消し、その代りにショーウインドウが出現した。そこでは個人が自分自身を映して見ることはなく、大量の記号化されたモノを見つめるだけであり、見つめることによって彼は社会的地位などを意味する記号の秩序のなかへ吸い込まれてしまう。だからショーウインドウは消費そのものの描く軌跡を映し出す場所であって、個人を映し出すどころか吸収して解体してしまう。消費の主体は個人ではなくて、記号の秩序なのである。」
「パルコ界隈では、周辺地域の土着的な風景は遮断され、歴史的な奥行きを欠いた記号空間(シミュラークル)が遊歩者の身体を包囲する。そして、私たちはそのなにげない遊歩を通じて、"「パルコ」の文化を身に付け、とどのつまりは、自らの欲望を、「パルコ」の"文化"によって管理され"てゆくこととなる。」
文化と「資本」。実は「資本」が勝つ。「私の禁止」。
「広告=都市が隠蔽する第三の外部、それは、「記号には汲みつくされない私」という究極の外部=究極の内部である。」
クレヨンしんちゃんモーレツ大人帝国の逆襲
大阪万博
「敗北したのは、たんなるノスタルジーではなく、大阪万博によって体現されていたある種の話法、未来を法外な夢をもって語る語法そのものだ。」
浅羽通明
「成長や進歩ではなく、定常や伝統へ/数字に表れる成果よりも、誰かの役に立てた実感へ/見栄えや収入よりもやりがいへ。」=コミュニティ主義=ユートピア、父と母が必要、家族を作る
「快楽を全否定することは全肯定と同じくらい愚かなことなんじゃないのか?」
動物vs思想家
「かつて「終わりなき日常を生きろ」と説いた社会学者・宮台真司は。「あえて」する天皇主義を経て、共同体主義とも呼びうる立場へのコミットを表明し、コミュニティの現代的な再生へと舵を切っている。また、東浩紀は、コミュニティの実体視をどこまでも回避し、人びとの行動を規範や価値観によって制御するのではない都市空間(公共空間)の構成の可能性を、ショッピングモールに見いだしている。粗い括りとなってしまうかもしれないが、宮代の姿をケン(再帰コミュニタリアン)に、東の方向性を「トゥルーマン・ショー」のクリストフ(アーキテクチャ論)ー動物性を生きるしんのすけを守るクリストフーに重ねて見ることができるように思う。この二人の論客が繰り出す論理と方向性は、明確で揺らぎがない。 では、ひろしの立場というものはいかにして可能なのだろうか。…」