マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】北田暁大 『嗤う日本の「ナショナリズム」』 (NHKブックス 2005年)

目次
序章 『電車男』と憂国の徒――「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」
 アイロニーのコミュニケーション空間
 感動と皮肉の共同体
 『GO』から『凶気の桜』へ
 二つのアンチノミー
 本書の課題

第一章 ゾンビたちの連合赤軍――総括と「六〇年代的なるもの」
 1 「総括」とは何だったのか
  集団リンチと敗北死
  暴走する反省システム
 2 方法としての反省
  反省と近代
  自己否定の論理
  立ち位置をめぐる左翼のジレンマ
  高橋和巳の自己否定論
 3 反省の極限へ――ゾンビとしての兵士たち
  「自己批判」と「総括」のあいだ
  自己否定の極限にゾンビが生まれる
  共産主義化とは何か①――「自己否定」の思想化
  人は形式主義に従属する
  共産主義化とは何か②――死とゾンビ的身体
 4 「六〇年代的なるもの」の終焉
  自己否定の「脱構築」としてのウーマン・リブ
  女性解放運動の二つの道

第二章 コピーライターの思想とメタ広告――消費社会的アイロニズム
 1 抵抗としての無反省――糸井重里の立ち位置
  「総括」のあとに
  糸井重里の屈曲
  「ウンドー力」と「コピーライター」のあいだで
  「言葉の自律性」と「パロディ」
 2 「メディア論」の萌芽――伝達様式への拘泥
  赤軍と『あしたのジョー
  マンガ論争と「左翼」的感性
  メディア論とマス・コミュニケーション論の代理戦争
  ピンク・レディーをめぐって
  記号論的感性――津村と糸井の共通認識
 3 消費社会的アイロニズムの展開――メタ広告の隆盛
  「ヘンタイよいこ新聞」の言語空間
  アイロニカルな共同体の誕生
  西武‐PARCOの戦略
  メタ広告の背景
  アイロニーの倫理と資本主義の精神
  多元主義の左翼的肯定――アイロニズムの定義
 4 新人類化とオタク化――消費社会的アイロニズムの転態
  パロディとしての類型化
  さらなる共同体主義

第三章 パロディの終焉と純粋テレビ――消費社会的シニシズム
 1 抵抗としての無反省――田中康夫のパフォーマンス
  糸井重里田中康夫の差
  津村喬の『なんクリ』評価
  NOTESはどのように捉えられたか
  NOTESの戦略
  抵抗の対象そのものをやりすごす
  『なんクリ』のポジション
 2 無反省という反省――川崎徹と八〇年代
  アイロニズムからシニシズム
  ユーモアから(ア)イロニーへ
  『ビックリハウス』終焉の意味
  『元気が出るテレビ』のメディア史的意義
  純粋テレビに外部は存在しない
  つねにアイロニカルであれ!
 3 消費社会のゾンビたち――「抵抗としての無反省」からの離床
  ベタの回帰としての『サラダ記念日』
  アメリカ的「動物」と日本的「スノップ」
  二種類のゾンビの違い
  島田晴彦の逡巡

第四章 ポスト八〇年代のゾンビたち――ロマン主義シニシズム
 1 シニシズムの変容とナンシー関
  ナンシーのためらい
  純粋テレビの弛緩
  感動の全体主義
  受け手=視聴者共同体への批判
  純粋テレビ批判という困難に挑む
  八〇年代とポスト八〇年代のあいだで
  反時代的思想家としてのナンシー
 2 繋がりの社会性――2ちゃんねるにみるシニシズムロマン主義
  ギョーカイ批判と戦後民主主義批判が結びつく
  純粋テレビと2ちゃんねるの共通性
  「巨大な内輪空間」の誕生
  テレビと馴れ合いつつ、テレビを嗤う感性
  内輪指向とアイロニズムの幸福な結婚
  コミュニケーションの構造変容
  アイロニズムの極北でロマン主義が登場する
  小林よしのりの軌跡――市民主義批判
  形式主義者たちのロマン主義
 3 シニシストの実存主義
  「思想なき思想」の再現前
  レフェリーなきアイロニー・ゲーム
  世界の中心で「自分萌え」を叫ぶ
  人間になりたいゾンビたち
  ナンシーのアンビバレッジ

終章 スノッブの帝国――総括と補遺
 議論の「総括」
 スノップの帝国・日本?
 純化するスノビズム
 「あえて」の倫理
 ローティ的アイロニズムの背景にあるもの
 共同幻想への信頼を調達せよ

注釈
あとがき
 

序章 『電車男』と憂国の徒――「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」

・<私>の愛国心 セカイ系
>>〇〇世代 特徴 割合<<
・ポスト団塊ジュニア世代 
・つまり、「アイロニー(嗤い)と感動指向の共存」(『電車男』)、「世界指向と実存主義の共存」(窪塚的なもの)というアンチノミーがいかにして生成したのか、その両者はどのような関係を持ち、いかなる政治的状況を作り出しているのか、という問題
・ギデンズ「再帰的近代」
 

第一章 ゾンビたちの連合赤軍――総括と「六〇年代的なるもの」

・総括、自己否定 高橋和巳「それは幻想(思い上がり)だ」
森恒夫自己批判
・肯定的な思想の指導者としてではなく、誰しも越えることのできない否定の地平を永久に生きる「ゾンビ」として、森は存在することになったのだ。
 

第二章 コピーライターの思想とメタ広告――消費社会的アイロニズム

・60年代/80年代 70年代が過渡期
糸井重里論 南伸坊 糸井はあの頃も今も何も変わっていない。
・「抵抗としての無反省」
津村喬 稲葉三千男(マスコミ論、メディア論)のマンガ、ピンクレディー論争
・『ビックリハウス』82年5月5日「ヘンタイよいこ白昼堂々秘密の大集会」YMORCサクセション矢野顕子
アイロニーを前面化する『ビックリハウス』が、60年代カウンターカルチャーと密接な関係を持ったアングラ・カルチャー(天井桟敷、実験映画)と、資本(PARCO)とのなかば偶然的な「結婚」のなかから立ち上がってきたことの意味を過小評価してはならない。
・アイロニカルな内輪空間
・西武-PARCO 堤清二、増田通二 渋谷「消費のテーマパーク」
・「超越者」マルクス主義→資本
堤清二『消費社会批判』
アイロニー(皮肉)の正体
・「自分以外の仮想の人物に視点を移し、その人物に「話し手」の役割を荷わせて発話行為を遂行する」「仮人称発話」
・新人類化(過剰なメタ指向)とオタク化(共同体主義的指向)
 

第三章 パロディの終焉と純粋テレビ――消費社会的シニシズム

・糸井=消費社会の送り手 田中=消費社会の受け手
>>なんクリ パロディ カタログ小説 注釈 全部ググってください<<
・消費社会の外部の不在 「主体性」から降りる
・糸井「抵抗としての無反省」→田中「抵抗としての無反省」
斎藤美奈子「デビュー当時の田中は無意味なほどに「朝日岩波的なるもの」への反発をあらわにしていた」
・「心情的革新派への激しい嫌悪」「イデオロギー的なものへの反発」
・「主体性」をひたすらやりすごす。抵抗の対象の存在そのものを否認する。
・ギョーカイ。「消費社会的なシニシズム
・浅田 広告「スキゾフレニックな差異化はいつのまにか差異化のパラノイアに変わる」
・浅田の糸井評「典型的なスキゾ人間」でありながら、「パラノ的なセビロたちをなだめすかし」、そのうえで「スキゾ・キッズたちへのメッセージを送りつづけている」
・川崎徹評「笑いがユーモラスなものからアイロニカルなものに転ずる境目のあたりでビョーキが発生するんだと思う」
・「永遠のイタチごっこ」「差異化のパラノイア
・テレビ=「共同体」「内輪」
・「元気が出るテレビ」の主役は、「テレビ」
・テレビの持つファシズム性、流行り方、流行らせ方
★アイロニカルであること(嗤いの感性を持つこと)が日常をやりすごす(テレビ番組を楽しむ)ための要件―スキゾであることがパラノ的に要請される―となったということである。
アイロニーシニシズム=上に立つ、下に見る
・「8時だよ!全員集合」→「オレたちひょうきん族」伝統的な演芸の方法論を脱臼させる。
・80年代のフジテレビ
・消費社会的アイロニズム→消費社会的シニシズム
コジェーヴ アメリカ的「動物」と日本的「スノッブ
★浅田「モダンの原理というのは、とにかく自分で自分を乗り越えながら進んでいくということだから、古い自分はどんどん殺して、自己を更新していかなければならない。だから、神は死んだとか、あるいは〇〇主義は終わった、✕✕主義も終わったとかいうことでどんどん動いていく。ところがポストモダンになると、死ぬこと自体も死ぬ、あるいは終わること自体も終わる。したがって死んでいるとも生きているともつかないゾンビのようなものたちが情報バンクの中に宙吊りになっており、それが適宜呼び出されてきては組み替えられてエンドレス・テープのように流れるという状況になるわけですね。これがポストモダンであるとしてみれば、これはまさに「最後の人間」にふさわしいニヒリズムである。」
・高度資本主義を徘徊する消費社会的ゾンビ
・郊外、純化された近代家族、ニュータウンの夢
 

第四章 ポスト八〇年代のゾンビたち――ロマン主義シニシズム

ナンシー関の糸井評にまとわる感傷
・「80年代を捨てきれない大人になったヘンタイよいこ」「その「恩義」は「おもしろくない」ということを差しおいてまで優先させるほどのものなのか」
大月隆寛満州としてのギョーカイ」
・「「会社」に象徴される「フツーの暮らし」では実現できないあらゆる「夢」がかなえられる王道楽土」
・90年代 「進め電波少年」「ウッチャンナンチャンウリナリ
・1日15時間はテレビを観るという彼女の民俗学的実践。
アイロニズム的「ユーモア」→シニシズム的「開き直り」
・大月、浅羽『別冊宝島 80年代の正体』
・90年 湾岸戦争 素朴な左旋回
・大月の<ギョーカイ>論
>><ギョーカイ>人に嫉妬、羨望するが故に憎悪する会社員。自分はこんなに我慢しているのに。水泳のターン論。自分の道を(無理に)肯定するために、逆を強く蹴る<<
2ちゃんねる=マスコミへの過剰な愛
・斜(はす)に構えるのがデフォルト
>>メディア・リテラシーはないが、テレビ視聴リテラシーだけは異常に発達した集団<<
・高度な<裏>リテラシーの「大衆化」
・少なくとも80年代以前においては少数のシニカルなセンスエリートたちの専有物(消費社会的アイロニズム)であったわけだが、80年代以降、テレビというきわめつきのマスな媒体を享受するための凡庸なアイテム(消費社会的シニシズム)となった。
・テレビのニュースとワイドショー 建前と実態のズレ
・テレビと馴れ合いつつ、テレビを嗤う感性
・マスコミを愛し嘲笑する「2ちゃんねらー」的心性
>>テレビがあって初めてインターネットが存在する<<
・テレビ(や新聞)はコミュニケーションのための素材
・接続合理性(場の空気を乱すことなくコミュニケーションを続けていく技量)が極限まで肥大化した社会空間
・<秩序>の社会性(一応よいものを目指す)→<繋がり>の社会性
・90年代なかば以降、若者たちは、大文字の他者が供給する価値体系へのコミットを弱め、自らと非常に近い位置にある友人との<繋がり>を重視するようになる。
・携帯電話の自己目的的な使用
・そこでは、大文字の他者が制御する<秩序>からはみ出すことよりは、内輪での<繋がり>をしくじることのほうが回避されるべき事態となる。
・若者たちの人間関係は、たんに希薄化したのではなく、複数の蛸壺の宇宙のなかで<繋がり>そのものを希求するものへと変移しつつある。
>>ネタがベタになる。アイロニカルな没入。<<
・上野陽子「新しい歴史教科書をつくる会」地方支部の参加者たちの反朝日の雰囲気について「『朝日』を批判すれば、隣に座っている年齢も社会的立場も異なる人とも、とりあえず話のキッカケがつかめる、そんな風に感じ取れた」
・内輪空間の<繋がり>のためのコミュニケーションツール
・実際は、「嫌韓」「反サヨ」といった「本音」なるものも、内輪コミュニケーションのなかで本音として構築された記号的対象と考えるべきである(その記号的融通性ゆえにいっそう手に負えないともいえるのだが)。
・リアリストというよりイデアリスト
・「かれらはジャーナリスト以上にジャーナリズムの理念を信じているようにもみえる。だからこそ、かれらは時に信じがたいほどの正義感ぶりを発揮するし、アイロニーとは程遠い浪花節的な物語(『電車男』)に涙したりもするのだ。」
・2003年 平和記念公園 折り鶴放火事件 14万羽プロジェクト
アイロニズムが極点まで純化されアイロニズム自身を摩滅させるとき、対極にあったはずのナイーブなまでのロマン主義が回帰する。
・90年代のテレビ「嗤い」→「感動」
小林よしのり 市民運動へのコミット→「反市民主義」
・『新ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論』
・小林「日本では本来、どこまでいっても生活に追われる庶民のはずが「政治のことを考え始めた」だけでニセの市民と化して、しょせん薄っぺらい政治的発言をし始めるのだ。わしはこのようなやつのことを「市民主義者」もしくは「市民モドキ」あるいは「市民ごっこ隊」と名付ける」
・「支える会」に対して向けられた個別的な批判は、かくして、反市民主義という形式主義的・否定神学的な思想へと転化することとなる。「立場をとること」を拒絶する立場、イデオロギー(思想)と心中することを拒絶する思想としての反市民主義の誕生だ。
二階堂豹介「何かを信じるという価値観を2ちゃんねるでは攻撃していますが、2ちゃんねらーは何かを信じないという価値観を共有していることに気づいていないのです」
・「ロマン主義シニシズム
・ロマン的対象は、一見個々の行為者に行為の理由を与えているようにみえるが、じつは、「私の行為が他者によって接続され(=他者に承認され)てほしい」という実存的な欲求によって事後的に仮構された「理由の備給点」にすぎないのである。
・シニシストの実存主義
★嗤う日本の「ナショナリズム」とは、実存に「ナショナリズム」を下属させる、ナショナリズムからアウラを奪う不遜な実存主義だったのである。
>>ナショナリズムが問題なのではない、本物のナショナリストがいないことが問題なのだ。アベやアソウに日の丸を振っているアイツらが、実は全員愛国者ではなく、売国奴だという「トリック」<<
・人間になりたいゾンビたち
・消費社会的アイロニズムロマン主義シニシズム へ
・2002年6月ナンシー関急死
 
終章 スノッブの帝国――総括と補遺
純化された反省=総括 → 「抵抗としての無反省」(消費社会的アイロニズム) → (総括的なものへの距離意識を欠落させた)「無反省」(消費社会的シニシズム) → シニカルな実存主義ロマン主義シニシズム
・「アイロニカルではなく主体的であれ」といっても解決にならない。
通奏低音としてのスノッブ形式主義
・宮台が転向したのではなく社会が変化した
リチャード・ローティ アイロニカル・リベラリズム 「ポストモダンブルジョアリベラリズム
・日本の共同幻想 土台は何か? どこに置くか?
>>「ナイーブ」を乗り越える<<
 
あとがき
・「現視研」「SF研」「初期『宝島』」的リアリティ
2004年 北田33歳
5/29読了

【読書メモ】橋爪大三郎、大澤真幸『ふしぎなキリスト教』 (講談社現代新書 2011年)

 
■目次
まえがき

第1部 一神教を理解する――起源としてのユダヤ教

 1 ユダヤ教キリスト教はどこが違うか
 2 一神教のGodと多神教の神様
 3 ユダヤ教はいかにして成立したか
 4 ユダヤ民族の受難
 5 なぜ、安全を保障してくれない神を信じ続けるのか
 6 法律の果たす役割
 7 原罪とは何か
 8 神に選ばれるということ
 9 全知全能の神がつくった世界に、なぜ悪があるのか
 10 ヨブの運命――信仰とは何か
 11 なぜ偶像を崇拝してはいけないのか
 12 神の姿かたちは人間に似ているのか
 13 権力との独特の距離感
 14 預言者とは何者か
 15 奇蹟と科学は矛盾しない
 16 意識レベルの信仰と態度レベルの信仰

第2部 イエス・キリストとは何か
 1 「ふしぎ」の核心
 2 なぜ預言書が複数あるのか
 3 奇蹟の真相
 4 イエスは神なのか、人なのか
 5 「人の子」の意味
 6 イエスは何の罪で処刑されたか
 7 「神の子」というアイデアはどこから来たか
 8 イエスの活動はユダヤ教の革新だった
 9 キリスト教の終末論
 10 歴史に介入する神
 11 愛と律法の関係
 12 贖罪の論理
 13 イエスは自分が復活することを知っていたか
 14 ユダの裏切り
 15 不可解なたとえ話1 不正な管理人
 16 不可解なたとえ話2 ブドウ園の労働者・放蕩息子・九十九匹と一匹
 17 不可解なたとえ話3 マリアとマルタ・カインとアベル
 18 キリスト教をつくった男・パウロ
 19 初期の教会

第3部 いかに「西洋」をつくったか
 1 聖霊とは何か
 2 教養は公会議で決まる
 3 ローマ・カトリック東方正教
 4 世俗の権力と宗教的権威の二元化
 5 聖なる言語と布教の関係
 6 イスラム教のほうがリードしていた
 7 ギリシア哲学とキリスト教神学の融合
 8 なぜ神の存在を証明しようとしたか
 9 宗教改革――プロテスタントの登場
 10 予定説と資本主義の奇妙なつながり
 11 利子の解禁
 12 自然科学の誕生
 13 世俗的な価値の起源
 14 美術への影響
 15 近代哲学者カントに漂うキリスト教の匂い
 16 無神論者は本当に無神論者か?
 17 キリスト教文明のゆくえ

あとがき
文献案内
 
近代=西洋的な社会
キリスト教 ローマ中心西側 カトリック 東側 正教会(オーソドクシー)
西洋=キリスト教型の文明
現代は近代を相対化しなくてはならない時代。
 

第一部 一神教を理解する ー起源としてのユダヤ教

1 ユダヤ教キリスト教はどこが違うか
ユダヤ教キリスト教=ほとんど同じ。
イスラム
ユダヤ教を内包する 否定的なものとして肯定する
たった一つだけ違う点→イエス・キリストがいるかどう
旧約聖書ユダヤ教
廃されるのではなく、残されている
ユダヤ教 ヤハウェ(エホバ)
間に誰かを挟む=預言者 ヨハネ
イザヤ、エレミア、エゼキエル、モーセ → イエス
「メシア」(ヘブライ語)=救世主=「キリスト」(ギリシア語、ラテン語
エス預言者より上。だって神(の子)だから。
イスラム教のムハンマド預言者
 
2 一神教のGodと多神教の神様
神道多神教
多神教=神様は仲間、友達
一神教のGodは人間を「創造する」
Godは怖い。
Godを信じるのは安全保障のため。
Godとの契約=日米安保条約みたいなもの。
 
3 ユダヤ教はいかにして成立したか
イスラエルパレスチナ)=エジプトとメソポタミアの両大国に挟まれた弱小民族
バビロン捕囚
マックス・ヴェーバー「古代ユダヤ教
ヤハウェは、最初、シナイ半島あたりで信じられていた、自然現象(火山?)をかたどった神だった。「破壊」「怒り」の神、腕っぷしの強い神だったらしい。そこで「戦争の神」にちょうどいい。イスラエルの人びとは、周辺民族と戦争しなければならなかったので、ヤハウェを信じるようになった。
日本にも似たような「八幡」という神。
逃亡奴隷やならず者やよそ者もヤハウェを祀る祭祀連合
旧約聖書の歴史はおそらく嘘(モーセヨシュア
 
4 世俗の権力と宗教的権威の二元化
Godが王を選ぶ。 預言者 権威と権力の分離
イスラエル王国 南のユダ王国に分裂
アッシリア バビロニアの侵攻 バビロン捕囚
イスラエルの民の神→世界を支配する唯一の神 に格上げ
ヤハウェにどうやって仕えるか
1.犠牲を献げる 祭司 サドカイ派
2.預言者に従う 預言者ヨハネ、イエス
3.モーセの律法を守って暮らす 律法学者(ラビ) パリサイ派
 
5 なぜ、安全を保障してくれない神を信じ続けるのか
6 法律の果たす役割
律法 「国家はあてにならない。あてになるのはGod(ヤハウェ)だけだ。Godとの契約を守っていれば、国家が消滅しても、また再建できる。」
 
7 ギリシア哲学とキリスト教神学の融合
8 イエスの活動はユダヤ教の革新だった
アブラハム、イサク、ヤコブ……60万人
モーセ出エジプト記
シナイ半島を40年さまよい
カナンの地(いまのパレスチナ)に定着
人間中心か神中心か。これが多神教一神教の違い。
「人生のすべてのプロセスが、試練(神の与えた偶然)の連続なのであって、その試練の意味を、自分なりに受け止め乗り越えていくことが、神の期待に応えるということなんです」
「試練とは、神が人間を「試す」という意味ですね。神は人間を試していいんです。人間が神を試してはいけない。」
 
9 全知全能の神がつくった世界に、なぜ悪があるのか
仏教は言ってみれば、唯物論
仏教の法則は、言葉にできないので、量産できない。一人一人修行するしかない。
「この、Godとの不断のコミュニケーションを、祈りといいます。」
この種の祈りは、一神教に特有のもの。
祈りを通して、ある種の解決が与えられると、赦しといって、Godと人間の調和した状態が実現する。
そうすると、残る考え方は、これは試練だ、ということ。
「アーメン」=「その通り、異議なし」
 
10 ヨブの運命――信仰とは何か
ヨブ記
ヨブ記のサタン=神の代理で地上を査察して回る係。
神のとんちんかんな答え
この世界が不完全なのは、楽園ではないから。そして人間に与えられた罰だから。
これが、試練ということの意味です。試練とは現在を、将来の理想的な状態への過渡的なプロセスだと受け止め、言葉で認識し、理性で理解し、それを引き受けて生きるということなんです。信仰は、そういう態度を意味する。
グノーシス主義 一世紀頃発生
善と悪との完全な二元論
 
11 なぜ偶像を崇拝してはいけないのか
一神教 侵略や戦争など過酷な環境
一神教、仏教、儒教=神々の否定
儒教=脱魔術化
偶像崇拝禁止=他の神々の否定 偶像をつくったのが人間だから
人間が自分自身をあがめてはいけない
 
12 神の姿かたちは人間に似ているのか
13 権力との独特の距離感
仏教、儒教一神教=普遍宗教、世界宗教
→多民族が共存した帝国の宗教
ユダヤ民族はもともと寄留者(移民)だった 土地所有が認められない
7日目 安息日 奴隷や牛馬の消耗を防ぐ 社会保障
50年目ごとに債務を帳消しにして奴隷を解放する「ヨベルの年」という規定もあった。
落ち穂拾い 寡婦や孤児の権利 こういう社会福祉的な規定「カリテート」
「カリテートは、イエスの教えの根底にも流れている考え方で、ユダヤ教がこの点を強調しなかったら、キリスト教もありえなかった。貧富の格差の拡大や社会階層の分解を警戒し、権力の横暴を見過ごせない。低所得者や弱者への配慮を、ヤハウェは命じている。」
ユダヤ教と権力
1.王権神授
2.長老の同意
3.預言者の批判
王権を民衆がコントロールするという、一種の民主主義。
 
14 預言者とは何者か
シャーマン 神がかり
民衆の中からふいに出現する
→ジャーナリズムの起源
 
15 奇蹟と科学は矛盾しない
預言者のしるしとして奇跡を与える 奇跡は科学に属する
 
16 意識レベルの信仰と態度レベルの信仰
 

第2部 イエス・キリストとは何か

1 「ふしぎ」の核心
イエス・キリスト預言者ではなく神
エスヘブライ語ではヨシュア
 
2 なぜ預言書が複数あるのか
マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ福音書=証言録
福音書の前にパウロの書簡
 
3 奇蹟の真相
ナザレ出身
 
4 イエスは神なのか、人なのか
父、大工のヨセフ 母、マリア
きょうだいあり 自身も大工 地元のシナゴーグに通い、旧約聖書をよく勉強した(パリサイ派モーセの律法)。
30前にナザレを出て、洗礼者ヨハネの教団に加わる。その後、何人かを連れて教団を離れる。ガリラヤ地方や、パレスチナ各地を訪れ説教。
預言者のように行動。あちこちで、パリサイ派サドカイ派とトラブルを起こす。エルサレムで逮捕され、死刑。
処女懐胎
預言者→グレードアップ→メシア(ヘブライ語)、キリスト(ギリシャ語)
メシアは、救世主なので、世の中をつくりかえる。ただ神の言葉を伝えるだけの預言者とは違います。マルクスレーニンのような感じで、革命家なわけです。
ところが死んじゃった。失望。→3日後に復活。
メシアからさらにグレードアップ。
パウロ 小アジアのタルソで生まれたユダヤ教徒。ローマの市民権。キリスト教迫害の急先鋒だったが、復活したイエスを見て「回心」。
 
5 「人の子」の意味
最古の黙示文学『ダニエル書』
 
6 イエスは何の罪で処刑されたか
当時ユダヤはローマの属州
罪状「神を冒涜した」罪
先輩格のヨハネも非業の死
 
7 「神の子」というアイデアはどこから来たか
神の言葉を直に述べる。100%神の意思と合致している。
 
8 イエスの活動はユダヤ教の革新だった
エスがやっていたことはユダヤ教の革新運動
 
9 キリスト教の終末論
神の国が近づいた」
ユダヤ教の終末論=ヤハウェが直接介入してくる。ユダヤ民族が救済される。
エスの「神の国」は崩壊 世界がリセットされて、つくり直される。
神の国」に入れる人と入れない人がいる。秩序が全て逆転する。
>>ユートピアと退屈と欲望について<<
 
10 歴史に介入する神
ノア→アブラハムモーセ→イエス
 
11 愛と律法の関係
愛は律法がたかちを変えたもの 関係のないところに関係をつくる
愛=自分がほかの人を裁かない事 1階に律法、2階に隣人愛
 
12 贖罪の論理
昔は報復、復讐法だった。
 
13 イエスは自分が復活することを知っていたか
14 ユダの裏切り
最後の晩餐「この中で一人、俺を裏切る」
「自己成就的な予言」
「ユダの裏切りがプロットのために絶対必要だが、そうすると、福音書で最も大事な役割を果たし、神の計画を完成させているのは、ユダなんです」
ペテロ 一番の弟子 天国の鍵 代々 カトリック教会の法王
 
15 不可解なたとえ話1 不正な管理人
「神と富の両方に仕えることはできない」「不正にまみれた富で友人をつくりなさい」
 
16 不可解なたとえ話2 ブドウ園の労働者・放蕩息子・九十九匹と一匹
17 不可解なたとえ話3 マリアとマルタ・カインとアベル
18 キリスト教をつくった男・パウロ
パウロ パリサイ派 
青年行動隊長 新興勢力のキリスト教徒を片っ端から捕まえては尋問し、弾圧していた。
エルサレムからダマスコに移動する最中、イエスに会って落馬→回心
12人の弟子の能力(教養)があまりに低かった。パウロギリシア語が出来た。
 
19 初期の教会
313年 ローマ コンスタンティヌス帝 キリスト教公認
392年 ローマ テオドシウス帝 キリスト教国教化 
 

第3部 いかに「西洋」をつくったか

1 聖霊とは何か
三位一体 「父なる神」「子なるキリスト」「聖霊
パウロの手紙→聖霊が書かせた→聖書
 
2 教養は公会議で決まる
多数派が正統、少数派が異端
公会議聖霊が働いているから、従わなくてはならない
381年、第一回コンスタンティノープル会議
 
3 ローマ・カトリック東方正教
西側 カトリック/東側 正教(オーソドクシー)
ローマ帝国分裂
ラテン語ギリシア語 ケザロパピズム(皇帝教皇一致主義)ロシア正教会 セルビア正教
 
4 世俗の権力と宗教的権威の二元化
八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』
ケルト人、ゲルマン民族ドルイド教
樹木崇拝、小人、妖精→キリスト教に入り込んだ
聖職叙任権闘争封建制(荘園貴族制)
教会や修道院 旧約聖書の10分の1税を求めた
王権と教会が併存する 西ヨーロッパ社会の骨格
教会の情報ネットワーク 人間の救済に関する権限
「そして、結婚にも介入した。結婚は本来、世俗のことがらで、キリスト教と関係なかったんですけども、教会は何百年もの長い時間をかけて、それを秘跡サクラメント)だということにした。教会が認める結婚が、正式な結婚になった。主権者である神の許可によって、結婚できるというわけです。どういうふうにこれが政治力になるかというと、封建領主の権力基盤は土地で、それを相続するでしょう。相続権は、正しい結婚から生まれた子どもに与えられることになっていったから、教会の協力がないと、封建勢力はみずからを再生産できない。世代交代のたびに、教会にあいさつが必要になる。王位継承や土地相続のたびに、教会に介入のチャンスが生まれる。これが政治的パワーになった。」
教会と封建領主は持ちつ持たれつの二人三脚
 
5 聖なる言語と布教の関係
ラテン語はちんぷんかんぷん→絵画、音楽、儀式
王=大名 新興武士
「ここで教会と王(キング)の関係が焦点になる。教会は王を支援して、戴冠という儀式を考えた。あなたは正統な王です、みたいな証明の儀式です。教会はこうして、少なくとも名目上、王に対する優位を確保した。教会が王よりも優位なら、教会のトップである教皇が命じて、王たちを戦争に行かせる、十字軍みたいなことも可能になるのです。」
 
6 イスラム教のほうがリードしていた
イスラム教 成立 7世紀 ムハンマド預言者
ヴェーバー、合理化、合理性=近代化
キリスト教の優位、一番は自由に法律をつくれる点→経済(ビジネス)と親和的
宗教改革は、キリスト教の原則に立つなら、伝統社会の慣習も教会の慣行も、聖書に根拠をもたないならすべて無意味であるという結論を導いた。ローマ教会は慣習の塊だったから、宗教改革のこの批判は決定的な意味をもった。」
宗教戦争→負け組がボート・ピープルとなって新大陸へ
 
7 ギリシア哲学とキリスト教神学の融合
アリストテレスの影響 トマス・アクイナス
神の法/自然法/国王の法
自然法=理性を働かせれば発見できる
理性は、神に由来し、神と協働するもの。
 
8 なぜ神の存在を証明しようとしたか
ヤハウェ=「存在」という意味。
否定神学=神については何も言えない。
 
9 宗教改革――プロテスタントの登場
プロテスタント=16世紀から17世紀にかけてカトリックの主流派を批判して出てきた、キリスト教のさまざまなグループ。
神-聖書-人間
余計なものを排除 潔癖 ミサや、教会、儀式を否定
「極端を言えば、聖書さえあればよく、自分と神だけが対話している、これが理想です。」
なかには教会は必要ないという、無教会派。 たいていは集団(教会)をつくり、牧師を置いている。
プロテスタントは曖昧さを許さないため、いくつものグループ(教会)に分かれる。
ルター派カルヴァン派、クウェーカー、バプティスト、アングリカン・チャーチ(英国国教会)など無数。
メソジストは分裂しまた合流
プロテスタント 教会を中抜き/カトリック 教会を重視
分裂したとはいえ、キリスト教なのは共通
 
10 予定説と資本主義の奇妙なつながり
ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
特にカルヴァン派のつくり出した教義に規定された生活態度(エートス)が、近代的な資本主義への決定的なドライブ
カルヴァン派=予定説
1.神の国に行けるか地獄に落ちるか既に決定されている
2.人間はそれを知ることができない
ピューリタン=イギリスのカルヴァン派
「なのに」勤勉に働く=神の恩寵を受けているのではないか?
→進んで、「成功」
 
11 利子の解禁
利子は、キリスト教徒の間ではもともと禁じられていました。とりわけ、中世には厳しく禁じられていた。最大の罪の一つ。
ユダヤ教同士では禁止。異教徒から取ることはOK。キリスト教徒はユダヤ教徒から、ユダヤ教徒キリスト教徒からお金を借りる。利子を払って。
シェイクスピアヴェニスの商人』 シャイロック ユダヤ
「ではなぜ、利子を取ってはいけないのか。利子それ自体がいけないのではなくて、利子を取ると同胞を苦しめることになるから。借金を申し込むのは、多くの場合、困窮した人です。困窮した同胞に借金を頼まれたら、利子を取って追い打ちをかけてはいけない。利子なしで貸してあげなさい、という規定なのです。」
質屋 上着は夜返す 石臼は駄目
利子の禁止は、単純に困る人がいるから
ジャック・ル=ゴフ『煉獄の誕生』 天国と地獄の中間
利子はせいぜい煉獄
 
12 自然科学の誕生
科学革命の担い手は、むしろ熱心なキリスト教徒。しかもたいていプロテスタント
1.人間の理性に対する信頼が育まれた
2.世界を神が創造したと固く信じた
=自然科学の車の両輪
スチュワードシップ 空き家になった地球を人間が管理・監督する権限 自由利用権 クジラの油、石炭
経験科学
神の真の意図が、聖書をはじめとするテキストにあるのか、それとも自然そのものにあるのかの違い
ガリレオ・ガリレイアリストテレス主義者は真理は『物語の本』にあると思っているが、自然こそが真に偉大な書物なのだ」
>>宇宙の始まりの意味<<
つまり、自然は、聖書以上の聖書
 
13 世俗的な価値の起源
主権や国家の考え方はみな、神のアナロジー
「人権も、神が自然法を通じて、人びとに与えた権利という意味がある。神が与えた権利を、国家が奪うことはできないから、そのことをはっきり、憲法に人権条項をつくって書き込んでおくのです。」
ネイチャー(神がつくったそのまま)の法。
市場メカニズムも ジャスト・プライス(正当価格) 靴がいくらか パンがいくらか →職業を守るため
 
14 美術への影響
音楽 絵画
 
15 近代哲学者カントに漂うキリスト教の匂い
カント ものすごく厳格なプロテスタント
定言命法=普遍的な倫理
隣人愛 誰をも尊重する
キリスト教から脱したように見える部分で、実は最も強い影響が現れている。
ヘーゲル)、マルクス主義を生み出してしまうのもキリスト教
マルクス「宗教はアヘンだ」→マルクス主義自体が宗教だったから。 
 
16 無神論者は本当に無神論者か?
宗教とは、行動において、それ以上の根拠をもたない前提をおくこと

17 キリスト教文明のゆくえ
あとがき

5/25読了 これでは不足

【読書メモ】『東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦 』(講談社BOX 2009年) その他2冊

目次
さやわか 概要
門下生同人誌『ケフィア』project1980(廣田周作(やずややずや)、三ツ野陽介)
門下生同人誌『最終批評神話最終批評神話(峰尾俊彦、村上裕一)
門下生同人誌『チョコレート・てろりすと』形而上学女郎館(雑賀壱、筑井真奈)
門下生同人誌『Xamoschi』Xamoschi(藤田直哉、井上ざもすき)
道場破り同人誌『plateau』より(「資本主義の抑圧と物語の可能性」フランス乞食(山田あずさ)「パロディの世紀と文化の未来」フランス乞食(坂上秋成))
道場破り同人誌『新文学』より(「アスペクト論」文芸空間(天野年朗)「ライトテロルの新文学」文芸空間(松平耕一))
道場破り同人誌『筑波批評 ゼロアカ道場破り号』より(「フィクションするとは一体いかなる行為か」筑波批評社(シノハラユウキ)「フラグメンタルアプローチ」筑波批評社(塚田憲史))
 
「鼎談 批評は何を語るのか」大澤信亮+杉田俊介+三ツ野陽介  
・柄谷「本質的な思想家は一生かけてただ一つの問題に取り組んでいくのだ」
・レイプファンタジー批判。そのときに、宇野常寛の分析は不気味に鋭くなっていく。批評家の実存性と批評は切り離せない。
・自分のなかに入り込んでいる社会性みたいなものを問うことで社会分析に繋がっていく。
赤木智弘の実存。北関東。家族。
(・むしろ人との関係の中にだけ、自分が現れる)
宮台真司『美しき少年の理由なき自殺』。
・ロスジェネ問題なんていうふうに言うけど、労働の問題は誰でも避けられない。どうやって金を稼いで飯を食っていくのか。
・何を論じれば「いま」的か、という問題ではない。常にすでにそこにある自分の足元について考えることが、他者の心を打つ問いとして響いてくる。
・三ツ野さんにとっての固有の問いっていうのはなんだろう 
鎌田哲哉
ゼロアカそのものを批評する
自分に固有の問題
 
創造のためのレッスン 三ツ野陽介
1.運命を創ること
サルトル「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」
・フランス人青年の問い 自由フランス軍に参加するか、母の元に留まるか
・つまり、人は何か理由があって一つの道を選ぶのではない。理由は、選んだ後に見出されるものにすぎない。何らかの既成の価値に従って選択が為されるのではなく、むしろ価値は選択そのものによって事後的に創られる。
・これを言い換えれば、人の生きる道はあらかじめ原因、理由、運命などによって定められているというよりも、人は生きながらその原因を、理由を、運命を創っていくということになる。
・「君が再び生きたいと願うに違いないような仕方で生きよ。それが義務なのである。というのも、いずれにせよ君は再び生きることになるのだから」とニーチェは言った。
・本当は僕たちはどこかで、自分の未来がどうなるかを知っているのではないだろうか。何をすればどんな未来になるのか知っていながら、それでも愚かな過ちを犯しつつ、生きているのではないだろうか。
・人間は、定められた運命に抗うことができるとか、いつでも過去を否定して別の自分に生まれ変わることができるという意味で自由であるのではなくて、自らの運命を肯定しその運命を積極的に創り出していくという意味で自由なのだ。そうやって僕らは自分たちの未来を定めていく。
 
2.判断を保留すること――「萌え」の構造
・萌え=判断保留 
九鬼周造『「いき」の構造』 いき=ツンデレ 諦め
・遊女に本気で惚れ込んで散財することは=野暮
・九鬼「恋の現実的必然性と「いき」の超越的可能性」
・判断を留保するなどということが本当にできるだろうか。それができるのは、僕たちが時間を止めることができる場合と、時間を巻き戻せる場合のみである。つまりありえない。判断を留保しているうちに、刻々と時間は過ぎていき、僕たちに残された時間は少なくなっていく。
・『東京タワー オカンとボクと、時々オトン』判断留保的なモラトリアムのなかで、しかし確実に時間が流れていき、父は老い、母は病にかかってやがて死んでいく、そんな時の流れの痛みを胸に刻みながら、主人公は成長したくないのに成長させられてしまう
・「成熟するとはどこまでも自分を創造すること」
 
3.降り積もる時間と記憶
・桜がなぜ美しいのかと言えば、それはたんに、いま目の前で咲き誇り散っていく桜の花びらが美しいだけではなくて、これまでの人生で見てきた桜と、それを見ていた自分がよみがえり、いまここにある桜と一緒に咲き誇っているから美しいのだ。そして僕はこれから死ぬまでにあと何回、桜を見ることができるだろう。桜はそういう未来も予告している。「いま」この瞬間のなかには、これまでの過去と、これからの未来がすべて詰まっている。「いまここ」が重要なのは、そういう意味においてである。
ジル・ドゥルーズが『差異と反復』において強調したのは、反復において繰り返されるのは「同じもの」ではなく「異なるもの」だということである。
フランス語の反復という語にはもともと「練習」という意味が含まれている。僕たちが生きていくなかで、同じことを繰り返すということは、それを「練習」することである。人間が「同じもの」の反復としての因果律から自由であると言えるのは、そういう意味においてである。要するに、僕たちが生きているからだ。
 
4.創造力の問題
・一般的に言って、ポストモダニズムの思想は、創造という概念を否定するもの。
ベルクソンは、デカルトのような考えに抗いながら、自らの考えを「創造的進化」という言葉で表現した。この宇宙は、細切れの瞬間の連続的な移り変わりではない。「宇宙は持続する」。過去は消え去らず、そのまま過ぎ去らずに、その記録を持続的に増大させていく。現在は一つの瞬間であると言うよりも、過去の情報の総体である。世界は過去を保持しつつ、新しい出来事を創り出しながら、創造的に進化していく。それは、そこで生きる僕たちにしても同じことで、いまこの瞬間の自分のなかには、これまで生きてきた人生のすべてがある。つまり、「一個の運命」がある。
桑島秀樹『崇高の美学』。崇高なものとは例えばこの「なんの変哲もない石ころ」であり、「ただの石という小さな物体の内蔵しているメモリーの容量」(種村季弘)には凄まじいものがある。崇高とは「ほんらい天上世界の高みに求められるものではなく、むしろこの地上世界(あるいは地下世界)に存在するいっけん下卑てみえるもの――まさに「なんの変哲もない石ころ」のようなもの――のなかにこそ求められるべき」
・確かにひとつの石ころには、その石が辿ってきた様々な歴史が詰まっているだろう。様々な噴火や堆積や浸食などを記録した末に、石はそこにある。これはひとつのハードディスクに多くのことが記録されているという今日的な事態と、本当はさほど変わらないことのはずであり、人間は莫大なデータを記録した宇宙のなかでずっと生きてきた。僕がこの原稿でずっと語ってきたのは、例えば人が桜を見て、桜にまつわる記憶を思い起こすのは、その人が記憶していたからと言うよりも、桜が記憶していたからであるということで、そんなわけないと思うだろうが、そういうふうに考えると世界はより美しい。
自然法則に抗って創造するのではなく、むしろ自然の自由な進化に身をゆだねて、そこから創造する力を汲み取っていく。過去を懐かしむときには、それが現在を愛するためであるように。未来を夢見るときには、それが現在を楽しむためであるように、自分が生きてきた記憶だけでなく、この世界そのものに記憶されているものをも呼び出しながら、その運命のすべてに肯定的な表現を与えることで、未来を創り出していく。創造的であるとはそういうことだと思う。
 
元長柾木 『現代哲学辞典』『新哲学入門』市川 山崎 『マブラブ』アージュ エロゲーナショナリズム
佐藤友哉 北海道 千歳市
新井素子 練馬 昭和30年代 100坪が基本 建ぺい率50%以下 必ず庭
岡田昌彰 シアトル ガスワークス・パーク
円城塔 ゲーデル不完全性定理
速水健朗 再ヤンキー化 上京のJポップ・歌謡史 『真夜中のカーボーイ
松平耕一 0年代の学生運動
あとがき
「そうか、批評ってなんでもありなんだ」
 

『ゲンロン1 現代日本の批評』

鈴木忠志 富山県利賀村
現代日本の批評
東浩紀「いま評論の世界では江藤淳の名をほとんど聞かないけど、じつはわれわれが直面し、頭を悩ませているネトウヨパラダイムは彼によって作られているんですよ。」
ニューアカ世代は、資本主義に寄生しながらも、それを内側から食い破るといった話が好き。浅田さんがよく「あえて」と言っていたのと、同じ構造ですね。蓮實さんにも通じるシニシズムと韜晦がある。
オウム事件の影響で、日本ではニューエイジ的な感性が断絶した。
 

『若者たちの神々―筑紫哲也対論集 (Part1)』

浅田彰京都大学人文科学研究所助手(経済学・社会思想史専攻)】1957年神戸生まれ。
糸井重里【コピーライター】1949年群馬県生まれ。
藤原新也【写真家】1944年福岡県生まれ。
坂本龍一【ミュージシャン】1952年東京生まれ。
ビートたけし【コメディアン】1948年東京生まれ。
全共闘世代との距離感 しかし若者への違和感 資本主義の圧倒的勢い 

作品#03「哲学用語図鑑 哲学者トレーディングカード」計72枚 完成

作品#03「哲学用語図鑑 哲学者トレーディングカード」を完成させました。
古代編12枚も作り直した。
古代
01.ミレトスのタレス
02.ピタゴラス
03.ヘラクレイトス
04.パルメニデス
05.プロタゴラス
06.ゴルギアス
07.ソクラテス
08.デモクリトス
09.プラトン
10.アリストテレス
11.キプロスのゼノン
12.エピクロス
中世
13.アウレリウス・アウグスティヌス
14.カンタベリーのアンセルムス
15.トマス・アクィナス
16.オッカムのウィリアム
近世
17.フランシス・ベーコン
18.ジョン・ロック
19.ジョージ・バークリ
20.デイヴィド・ヒューム
21.ルネ・デカルト
22.バルフ・デ・スピノザ
23.ゴットフリート・ライプニッツ
24.トマス・ホッブズ
25.シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー
26.ジャン=ジャック・ルソー
27.ミシェル・ド・モンテーニュ
28.ブレーズ・パスカル
近代
29.アダム・スミス
30.イマヌエル・カント
31.ゴットリープ・フィヒテ
32.フリードリヒ・シェリング
33.ゲオルク・ヘーゲル
34.アルトゥール・ショーペンハウアー
35.セーレン・キルケゴール
36.カール・マルクス
37.フリードリヒ・ニーチェ
38.ジェレミーベンサム
39.ジョン・スチュアート・ミル
40.チャールズ・サンダース・パース
41.ウィリアム・ジェイムズ
42.ジョン・デューイ
43.ジグムント・フロイト
44.カール・グスタフユング
現代
45.バートランド・ラッセル
46.ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
47.ルドルフ・カルナップ
48.カール・ポパー
49.トマス・クーン
50.エドムント・フッサール
51.マルティン・ハイデガー
52.カール・ヤスパース
53.ジャン=ポール・サルトル
54.モーリス・メルロ=ポンティ
55.マックス・ホルクハイマー
56.ユルゲン・ハーバーマス
57.ハンナ・アーレント
58.エマニュエル・レヴィナス
59.フェルディナン・ド・ソシュール
60.クロード・レヴィ=ストロース
61.ジル・ドゥルーズ
62.ミシェル・フーコー
63.ジャック・デリダ
64.ジャン=フランソワ・リオタール
65.ジャン・ボードリヤール
66.ジョン・ロールズ
67.ロバート・ノージック
68.マイケル・サンデル
69.シモーヌ・ド・ボーヴォワール
70.ジュディス・バトラー
71.エドワード・サイード
72.アントニオ・ネグリ
計72枚。
次回は7月末までにこの#3の追加カードを作る予定。
首が痛い。
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作品#03「哲学用語図鑑トレカ」紹介(7)#61-72

目次

61.ジル・ドゥルーズ

トゥリー/リゾーム

系統図に代表されるように、西洋の思考は、1つの絶対的なものから展開していく思考に取りつかれているとドゥルーズとフェリックス・ガタリ(1930~92)は考えました。これをトゥリー樹木)に例え、ときに1つの体系に組み込まれないものを排除する考えだと彼らは言います。トゥリーに対抗する発想として彼らはリゾーム)を提唱します。
トゥリーに対してリゾームは始まりも終わりもありません。網状に逃走線を持ち、縦横無尽に広がります。リゾームのイメージで物事を捉えると、ヘーゲル弁証法のように異なった考えを統一していくのではなく、差異を差異のまま認め合う発想ができるとドゥルーズガタリは考え ました。

スキゾ/パラノ

ドゥルーズガタリは、絶えず増殖しながら四方八方に広がる分子のようなイメージで欲望を捉えます。この増殖しながら広がる力が世界を動かす原動力となっています。彼らは欲望によって動かされているこの世界を欲望機械と呼びます。欲望機械には私たち人間も含まれます。そして無意識下で私たちの身体のあらゆる器官をも動かしています。
(世界は欲望というきわめてシンプルな原因で動いている)
(世界は四方八方に広がる欲望が原動力となって動いている。けれども社会がそれを抑圧して体系化しようとする)
本来、人間は欲望のおもむくままに動くべきなのですが、親や社会の抑圧装置が働き、この拡散する分子のような動力を自分自身で1つの方向に統一しようとしてしまいます。こうしてできるのがアイデンティティです。
アイデンティティの誕生の仕組み
本来人間は欲望のおもむくままに行動するべき。この状態を器官なき身体という→脳を司令塔にして欲望をトゥリー化。親や社会の抑圧装置が働き、自分自身で欲望を体系化してしまう
一度自分のアイデンティティを自分自身で作ってしまうと、社会的な役割に縛られ、他人の評価を気にしながら、多くのしがらみを背負って生きることになります。このような状態をパラノイア(偏執症)と呼びます。パラノはあらゆることを自分の価値基準の領域に囲い込もうとします。これでは新しい価値を生みだすことはできません。
パラノイア(偏執症)・・・「自分はこういう人間である」というアイデンティティを作って自分をトゥリー(樹木)化してしまうと、社会的な役割や他人の評価で身動きがとれなくなる
スキゾフレニア(分裂症)・・・本当の自分なんかないよ~だ! ワーイ!自由だ~ 
反対に自分の人格やアイデンティティを持たない立場をスキゾフレニア(分裂症)と呼びます。スキゾは欲望のおもむくままにその時その時を楽しみます。そしてあらゆる価値をこだわりなく受け入れます。ドゥルーズガタリはスキゾ的生き方を理想としました(ノマド)。

ノマド

メモ:『千のプラトー』では、ノマドは「戦争機械」となって、抑圧的な国家に対抗するというビジョンが語られている
私たちは安住を好み、財を蓄え、人生を充実させようとします。けれどもドゥルーズガタリによると、この生き方は社会的な役割や他人の評価に縛られ、多くのしがらみを背負う生き方です。安住はやがて自分と異なる考えを受け入れられなくなり、あらゆることを自分の価値観だけで解釈するパラノイアになってしまいます。
トゥリー的なパラノイアから自由になるために、彼らはノマド遊牧民)の生き方に着目します。
1ヵ所にとどまることなく、つねに多種多様な価値の領域をリゾーム的かつスキゾ的に横断するのがノマドの生き方です。ドゥルーズガタリノマドをイメージして生きることを提案します。
単なる旅行好き(トゥリー・パラノ的)・・・旅行好きはホーム(自分の領域)を拠点に往復を繰り返す。そして自分の価値観で異文化を解釈する 旅行で得た知識を自分のホームに持ち帰る。偏執的な知識がどんどんホームに溜っていってしまう
ノマド的な生き方(リゾーム・スキゾ的)・・・ホームを持たず様々な価値を横断する。イメージは「旅行好き」ではなく「引っ越し魔」に近い

62.ミシェル・フーコー

エピステーメー

意味:時代ごとに異なる知の枠組み
メモ:古代ギリシアでは「学問的な知識」を意味する
人の思考は古代から連続して進歩してきたのではなく、各時代に特有なものであるとフーコーは考えました。たとえば「狂気」に対する人々の考えは近世以前と以降ではまったく異なると彼は言います。
中世において「狂気」は真理を語る存在であり、何かしら神聖なものとして扱われ、人々と共存していました。けれども近世以降の社会構造になると、労働力にならない「狂気」ははっきりと隔離されるようになります。
フーコーはこのような各時代でまったく異なる人々の思考をエピステーメーと呼びます。彼は西洋社会を16世紀以前、17~18世紀、19世紀以降の3つの時代に分けて、それぞれのエピステーメーを考察しました。
中世の中国の百科事典に書かれた「動物」の項目を見たところ、意味がまっ たくわからなかったとフーコーは言います。これと同じように、エピステーメーの違う未来の人類が21世紀の科学の本を読んでも、理解不可能なのかもしれません。

人間の終焉

メモ:「人間」という概念は、近代というエピステーメーの中で誕生した
人々の思考や感情は各時代のエピステーメーに支配されているとフーコーは言います。この考えから彼は「人間」という普遍だと思われていた価値も、たかだか19世紀に誕生した最近の発明にすぎないと言います。
生き物の外見ではなく、器官の機能の研究が始まったのは19世紀です。そこから「生命」という発想が生まれ、転じて「人間とは何か」といった研究がしきりに行われるようになったとフーコーは考えました。
けれども彼は人間の終焉は近いと断言します。「人間」は自分の意思で主体的に行動しているわけではなく、社会の構造構造主義)に縛られていることが明らかになりつつあるからです。

生の権力

意味:人々の生に介入して管理しようとする近代的な権力
民主主義の時代になって、国王のような絶対的な権力者はいなくなりましたが、民主国家では顔の見えない権力がそれに取って代わっただけであるとフーコーは言います。かつての権力は死刑の恐怖による支配でしたが、民主主義が作り出した権力は恐怖で人々を管理するわけではありません。
民主国家における権力をフーコー生の権力と呼びます。それは学校や職場などいたるところに存在し、無意識下で私たちを社会に適合するように心理的、身体的に訓練しています(パノプティコン効果)。
18世紀以前・死の権力・・・絶対的な権力者が死刑の恐怖を与えることによって、民衆を支配する
19世紀以降・生の権力・・・私たちの欲望が作り上げた目に見えない権力。それは私たちを資本主義に適合させるように絶えず監視している。私たちは監視者でもあるし、監視される者でもある(学校・職場・病院でみんなの目が光っている。工場や会社での朝礼や体操で管理されている) 

パノプティコン

フーコーは民主主義が作り上げた権力を生の権力と呼び、それが私たちの一般常識を作り上げていると考えました。彼は民主国家をパノプティコンと呼ばれる監獄にたとえます。その監獄に入れられた囚人は、やがて誰に強制されるでもなくみずから規律に従うようになります。
中央の監視室はマジックミラーになっていて、囚人からは監視員がいるかいないかわからない。よって囚人はつねに規律に従わなくてはならない。やがて誰 に強制されるでもなくみずから規律を守るようになる
パノプティコンのような原理は学校、会社、病院、街角など日常のいたるところにあります。24時間365日監視して、私たちを無意識のうちに社会の規範に従順な身体に育てていきます。
日常のパノプティコン効果によって、いつしか人は社会の矛盾に疑問を持つことがなくなります。そして常識から外れた人を、狂人として排除していくのです。

63.ジャック・デリダ

ポスト構造主義

西洋の哲学は、古代ギリシアから構造主義に至るまで、物事を「○○はこうなっている」というように、1つの様式に囲い込んで捉える特徴がありました。このような固定的なものの見方を反省し、新たな哲学を模索した後期のフーコーデリダドゥルーズなどの思想をポスト構造主義(「構造主義より後」という意味)といいます。
ポスト構造主義の思想に共通の目立った特徴はありませんが、固定的なものの見方を乗り越えようとする点では、ある程度の類似性があります。

二項対立

西洋哲学は「善/悪」「真/偽」「主観/客観」「オリジナル/コピー」「正常/異常」「内部/外部」のように、前項が後項よりも優位だと考えられている二項対立によって構築されているとデリダは指摘しました。
そして二項対立の優劣は西洋人特有の「論理的なものを何よりも優先する「思考」「目の前にあるものを信用する思考」「男性的なものやヨーロッパを優位だとする思考」「世界は目的をもって進むとする思考」「書き言葉よりも話し言葉を優先する思考」によるものだとデリダは言います。
これらの思考には何の根拠もありません。そればかりか二項対立を想定して、その関係に優劣を見いだすことは、異質なものや弱者の排除につながるとデリダは考えました。ナチス政権下のユダヤ人であった彼は二項対立を「ドイツ人/ユダヤ人」の関係に重ね合わせたのです。彼は脱構築という方法でその対立軸を抜き取り、これを解体しようと試みます。

脱構築

デリダによれば、西洋哲学は往々にして「善/悪」「主観/客観」「オリジナル/コピー」「強/弱」「正常/異常」「男/女」のように、「優/劣」の二項対立によって構築されています。物事を二項対立で考えることは弱者や異質なものを排除することだと考えた彼は、二項対立の解体を試みます。これを脱構築といいます。
デリダ脱構築の方法をオリジナルとコピーの関係を例にとって説明してみましょう。たとえば、ハンドバッグを見てかわいいという感想(思考)を持ったら、言葉で「カワイイ」と伝えます。つまり言葉は感想をコピーしたものです。オリジナルである感想(思考)はそのコピーである言葉より優位な存在ということができます。
ところがデリダは感想はオリジナルではないと考えます。なぜならじつは人間は、既存の言葉で思考しているからです。言語は自分で作ったものではありません。感想はどこかで見たり聞いたりした言葉のコピーなのです。こう考えるとオリジナルとコピーの関係は逆転します。
このように「優/劣」は容易に反転する可能性があります。彼は物事を二項対立で捉えることの危うさを脱構築で説明してみせたのです。

差延

メモ:フランス語ではdifferance。「差異」と「遅延」という二重の意味を表したデリダの造語
西洋では文字(書き言葉)は声(話し言葉)を代理するためのコピーだと考えられているため、声は文字より価値が高いといわれています。これを音声中心主義といいます。
音声中心主義は、目の前にあるもの、直接的なもの、わかりやすいものを最優先する危険な思考だとデリダは考えました。彼にとって音声中心主義は、わかりやすく直接的な言葉と、芝居がかった演説で人々を先導したナチス政権と重なったのです。
デリダは文字は声の正確なコピーではないと考えます。声が文字に変化する時、それは動的な存在から静的な存在へと形を変えるからです。さらに変化するまでの時間的なズレもあります。声と文字は一致しているとはいえません。デリダは声→文字のようにオリジナルとコピーが差異を含みながら変化することを差延と呼びます。文字と声が一致していない以上、文字は声の代理ではなく、2つを同等に扱うべきだと彼は言います。
さらにデリダによると、声はまったくのオリジナルではありません。人間は自分が知っている言語の中から妥当なものを選んで思考しているからです。今までどこかで目にした文字が差延されて声になっている可能性も十分にあるのです。デリダにとって物事は→オリジナル→コピー→オリジナ ル→コピー→と永遠に差延されていきます。そこに優劣はありません。

64.ジャン=フランソワ・リオタール

ポストモダン

近代の思想はヘーゲルマルクスの思想(歴史、唯物史観)のように、人類全体の進歩について考えるものでした。リオタールはこれを大きな物語と呼びます。
けれども核兵器の開発や大規模な環境破壊など、近代文明の過ちが明らかになった今、大きな物語の時代は終わりました。現代は無数にある価値観を認め合い、共存の道を模索する時代です。リオタールはこのような時代のことをポストモダン(「近代の後」という意味)と呼びました。

65.ジャン・ボードリヤール

差異の原理

経済成長を遂げた先進国の消費社会において、人々は商品(物だけでなく、情報、文化、サービスなども含む)を機能ではなく、他者との差異を生み出す記号(情報)で選ぶとボードリヤールは指摘します。
生活必需品の普及が終わったら、商品が売れなくなるわけではありません。その後に訪れる消費社会では、商品の役割は本来の使用目的から、自分の個性や他者との違いをアピールするための記号に変化します。消費社会は、他とはわずかに違う商品を次々に作り出し、消費欲を無限に作り続けます。そして人はこの構造に取り込まれていくことになるのです。ボードリヤールはこのような原理を差異の原理と呼びました。
差異を生み出す記号はファッションブランドはもちろん、「健康によい商品」「レアもの」「エコ/ロハス」「有名人の愛用品」「ヴィンテージ」「会員制/少人数制」「商品の持つ歴史や物語」など多岐にわたります。消費社会において個人の実体は、これら差異への欲望となります。
差異の原理・・・商品の差異を消費しているのですでにその商品を所有しているから不必要ということにはならない

シミュラークル

意味:オリジナルとコピーの区別が失われていくこと
メモ:フランス語では「まがいもの」「模造品」の意
記号とはオリジナルを代替するためにオリジナルを模倣したものです。けれども消費社会では、オリジナルよりも記号、つまり模像の方が重要であり(差異の原理)、初めから模像の生産が目的です。ボードリヤールはあらゆる現実はすべて模像となると予言しました。
本来、模像にはオリジナルがあります。キャンバスに描いた風景画のオリ ジナルは現実の風景です。けれども、コンピュータ上に描いた自分の未来にオリジナルは存在しません。ボードリヤールはオリジナルのない模像をシミュラークルシミュラークルを作り出すことをシミュレーションと呼びました。オリジナルが存在しない以上、その模像は実体となります。ボードリヤールはオリジナル(現実)と模像(非現実)の区別がつかない現代のような状態をハイパーリアルと呼びました。

66.ジョン・ロールズ

リベラリズム

社会全体の幸せのために誰かが犠牲になっても仕方がないと考える功利主義は、リベラリズムを主張するロールズにとって、正義ではありませんでした。ロールズ功利主義の弱点を克服するために、自分が男か女か、白人か黒人か、体が健康か不自由かなど、自分の置かれた立場がわからないことが前提となる無知のヴェールをみんなでかけた状態で、どのような社会を作ればよいかを考えるべきだとしました。
そうすることによりロールズは、社会正義のための3つの原理を導きだせると考えました。その1つ目は基本的自由の原理です、個人の自由は原則的に保障されなくてはなりません。
2つ目は機会均等の原理です。たとえ経済的な格差が生まれることになっても公正な競争の機会は平等に与えられなくてはなりません。
けれども、体が不自由であったり、差別される立場であったり、恵まれない状況であったりする場合、自由競争に参加できるでしょうか?ロールズは、競争によって生じる格差は、最も不遇な人々の生活を改善するために調整されなければならないという格差原理を最後に提示します。
①基本的自由の原理・・・良心、思想、言論の自由は保障されなくてはならない
②機会均等の原理・・・たとえ格差が生まれても競争の自由は保障されなくてはならない
③格差原理・・・競争によって生まれた格差は最も不遇な人々の生活を改善することにつながるものでなければならない
メモ:単なる「自由主義」と訳すと、誤解しやすいので注意。現代のアメリカでは、富の再分配などを通じて経済的な弱者を救済し、福祉国家的な政策を支持する立場をリベラリズムと呼んでいる

67.ロバート・ノージック

リバタリアニズム

意味:個人の精神的自由や経済的自由を至上のものとして尊重する立場
ロールズリベラリズムに批判を加えたのがノージックです。彼は税金を集めて富を再分配すると、国家権力が肥大化してしまうと考えました。国家はあくまで暴力、窃盗、詐欺などの侵略行為を防ぐにとどまる最小国家であるべきだと彼は言います。福祉的役割は民間のサービスが行う社会が彼の理想でした。このような考えをリバタリアニズム自由至上主義)といいます。
メモ:ネオリベラリズム新自由主義)とも重なる部分も多い

68.マイケル・サンデル

コミュニタリアニズム

意味:共同体の道徳や価値を尊重する立場
メモ:コミュニタリアニズムは、リベラリズムに対しても、リバタリアニズムに対しても批判の矢を向けている
自分たちのコミュニティの倫理や習慣エートス)を重視するサンデルのような考えをコミュニタリアニズムといいます。サンデルはリベラリズムリバタリアニズムとは違ったかたちで否定しました。人は育った環境や周りの仲間などに影響を受けながら個性を育てます。個人の背後にある物語を無視して、無知のヴェールで正義の原理を求めるロールズの思想はサンデルにとってあまりにも抽象的でした。
個人のアイデンティティは育った環境や共に歩んできた仲間と切り離して考えることはできない。自分のコミュニティの倫理や習慣を重視して暮らすべきとサンデルは考える

69.シモーヌ・ド・ボーヴォワール

フェミニズム

意味:男性支配的な社会を批判し、女性の自己決定権を主張する思想・運動
メモ:参政権をはじめ、近代民主主義は、男性中心の民主主義から出発した
フェミニズムとは男性が支配する世の中に異議を唱え、男女平等の社会を作ろうとする思想や運動のことです。通常、第1期、第2期、第3期に分けられます。
第1期(19世紀~1960年代)・・・女性が男性と法的に同等の地位につく、具体的な権利の獲得のための運動が展開された(女性が教育を受ける権利、女性の参政権、女性の労働の権利)
第2期(1960~1970年代)・・・目に見えない無意識に残る女性差別が見直されていった(男は仕事、女は家庭 育児、介護、家事は女の仕事 家父長制など)
第3期(1970年代~)・・・同性愛や性転換の肯定などセックス(先天的な性別)やジェンダーに囚われず、自分らしい生き方が模索されている

70.ジュディス・バトラー

ジェンダー

意味:社会的・文化的に形成される性別
メモ:ジェンダー研究は、先天的で本質的だと思っている性別が、社会的・歴史的に構成されたものであることを様々な例とともに示してきたた
ジェンダーとは社会的、文化的、歴史的に人間が後天的に作り上げた性差のことをいいます。生物学的な性差であるセックスと区別されます。
セックス・・・生物学的性差。自然界に先天的に存在すると思われている性差
ジェンダー・・・社会的・文化的性差。先天的な性質ではなく、社会的に作られた性差
女性は育児・家事が得意(裏の意味=女性は社会に出るべきではない)
女性はやさしい(裏の意味=女性は男性に反抗するべきではない)
女性は感情的(裏の意味=女性は論理的ではない)
ジェンダーには「女性は社会に出てはいけない」など裏のメッセージを含むことが多くあります。それは男性に都合良くできているといえます。また、バトラーは生物学的な性であるセックスも社会的に作られたジェンダーであると考え、同性愛・性転換も支持します。

71.エドワード・サイード

オリエンタリズム

意味:西洋による身勝手な東洋イメージのこと
近代の西洋社会から見た非西洋社会は得体の知れない他者にほかなりませんでした。
そこで西洋は非西洋社会をひとくくりに「東洋」と名づけ、「怠惰」「感情的(論理的でない)」「エキゾチック(近代化されていない)」「神秘的(不思議、理解不能)」「自分たちを客観視できない」というイメージで「東洋」を捉えようとしました。
西洋が作ったこのイメージは東洋に対する正しい解釈とされ、映画や小説はもちろん、客観的な学問である経済学や社会学までもが「東洋」をこのようなイメージで広めていきました。
一方、東洋とは対極にあり、論理的で正しく世界を理解している存在とし て「西洋」という言葉が使われます。自分たちの正しい知識を近代化の遅れている東洋に教育するべきという西洋優位の思考は、西洋の植民地支配を正当化してしまったとサイードは言います。
イードは西洋の東洋に対するこのような表面的な理解をオリエンタリズムと言って批判しました。「東洋」である日本も西洋的近代化をみずから積極的に取り入れ、近代化されていないアジア諸国を植民地化した過去があります。

72.アントニオ・ネグリ

〈帝国〉

意味:国境を超えたネットワーク状の主権
メモ:アメリカや中国のような具体的な国家を指すものではない
ネグリマイケル・ハート(1960~)は全世界を支配する新しい権力として〈帝国〉の出現を主張します。かつての帝国は、ローマ帝国大英帝国、あるいは比喩的な表現である「アメリカ帝国」のように、その権力構造は中心となる国王や国家が領土を拡大していくものでした。
これに対して、通信技術や輸送技術の進歩とともに地球上にあらわれたのが〈帝国〉です。〈帝国〉は資本主義のもと、アメリカ政府や多国籍企業国際連合G20、WEF(世界経済フォーラム)、IMF、WHO、国際テロ組織、各国の大企業・メディアなどが国境を超えてネットワーク状に複雑に結びついた権力システムのことをいいます。〈帝国〉は中心を持たず、領土の拡張も必要としません。〈帝国〉において、核兵器などを持つアメリカの役割は強大です。けれどもアメリカもまたこのシステムに従う必要があるので、アメリカ=〈帝国〉ということにはなりません。
(〈帝国〉はテロ組織を内包してしまっている)
(〈帝国〉は私たちの欲望、つまり資本主義が作ったシステム)
〈帝国〉は日常生活の隅々まで浸透し、私たちを資本主義に順応させるために、いたるところから管理・育成しているとネグリとハートは言います。これに対抗するのがマルチチュードです。

マルチチュード

意味:グローバル民主主義を推進する群衆的な主体
メモ:プロレタリアートの現代的な概念と考えることもできる
ネグリマイケル・ハート(1960~)は地球上にネットワーク状の権力である〈帝国〉が出現していると主張しました。〈帝国〉は、私たちを資本主義に順応した人間に育てるためにいたるところから管理、育成します。けれども〈帝国〉がネットワーク状になっているのであれば、そのシステムを逆利用して民衆もネットワーク状につながれば、〈帝国〉に対抗できるとネグリとハートは考えました。
ネグリとハートは国家や資本主義の支配下にいるすべての人たちをマルチチュードと呼び、権力に対抗する力になりうると考えます。けれどもそれはマルクスがかつて唱えた、暴力革命を起こす労働者階級とは異なります。主婦、学生、移民、老人、セクシャルマイノリティ、資本家、会社員、専門家、ジャーナリストなど様々な人々が、自分の得意分野を通じてネットワーク状につながり、時に話し合い、時に集まって、資本主義の矛盾を一つ一つ解決しようとする力がマルチチュードなのです。
マルチチュードが作った公共の「善」を〈コモン〉ネグリは呼ぶ)
マルチチュード・・・人種、国籍、階層を超えた多種多様な人々のこと。彼らがネットワーク状に結託すれば、〈帝国〉すなわち資本主義の矛盾に対抗できるとネグリとハートは考えた