序章 『電車男』と憂国の徒――「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」
アイロニーのコミュニケーション空間
感動と皮肉の共同体
『GO』から『凶気の桜』へ
二つのアンチノミー
本書の課題
第一章 ゾンビたちの連合赤軍――総括と「六〇年代的なるもの」
1 「総括」とは何だったのか
集団リンチと敗北死
暴走する反省システム
2 方法としての反省
反省と近代
自己否定の論理
立ち位置をめぐる左翼のジレンマ
高橋和巳の自己否定論
3 反省の極限へ――ゾンビとしての兵士たち
「自己批判」と「総括」のあいだ
自己否定の極限にゾンビが生まれる
共産主義化とは何か①――「自己否定」の思想化
人は形式主義に従属する
共産主義化とは何か②――死とゾンビ的身体
4 「六〇年代的なるもの」の終焉
自己否定の「脱構築」としてのウーマン・リブ
女性解放運動の二つの道
第二章 コピーライターの思想とメタ広告――消費社会的アイロニズム
1 抵抗としての無反省――糸井重里の立ち位置
「総括」のあとに
糸井重里の屈曲
「ウンドー力」と「コピーライター」のあいだで
「言葉の自律性」と「パロディ」
2 「メディア論」の萌芽――伝達様式への拘泥
赤軍と『あしたのジョー』
マンガ論争と「左翼」的感性
メディア論とマス・コミュニケーション論の代理戦争
ピンク・レディーをめぐって
記号論的感性――津村と糸井の共通認識
3 消費社会的アイロニズムの展開――メタ広告の隆盛
「ヘンタイよいこ新聞」の言語空間
アイロニカルな共同体の誕生
西武‐PARCOの戦略
メタ広告の背景
アイロニーの倫理と資本主義の精神
多元主義の左翼的肯定――アイロニズムの定義
4 新人類化とオタク化――消費社会的アイロニズムの転態
パロディとしての類型化
さらなる共同体主義
第三章 パロディの終焉と純粋テレビ――消費社会的シニシズム
1 抵抗としての無反省――田中康夫のパフォーマンス
糸井重里と田中康夫の差
津村喬の『なんクリ』評価
NOTESはどのように捉えられたか
NOTESの戦略
抵抗の対象そのものをやりすごす
『なんクリ』のポジション
2 無反省という反省――川崎徹と八〇年代
アイロニズムからシニシズムへ
ユーモアから(ア)イロニーへ
『ビックリハウス』終焉の意味
『元気が出るテレビ』のメディア史的意義
純粋テレビに外部は存在しない
つねにアイロニカルであれ!
3 消費社会のゾンビたち――「抵抗としての無反省」からの離床
ベタの回帰としての『サラダ記念日』
アメリカ的「動物」と日本的「スノップ」
二種類のゾンビの違い
島田晴彦の逡巡
第四章 ポスト八〇年代のゾンビたち――ロマン主義的シニシズム
1 シニシズムの変容とナンシー関
ナンシーのためらい
純粋テレビの弛緩
感動の全体主義
受け手=視聴者共同体への批判
純粋テレビ批判という困難に挑む
八〇年代とポスト八〇年代のあいだで
反時代的思想家としてのナンシー
2 繋がりの社会性――2ちゃんねるにみるシニシズムとロマン主義
ギョーカイ批判と戦後民主主義批判が結びつく
純粋テレビと2ちゃんねるの共通性
「巨大な内輪空間」の誕生
テレビと馴れ合いつつ、テレビを嗤う感性
内輪指向とアイロニズムの幸福な結婚
コミュニケーションの構造変容
アイロニズムの極北でロマン主義が登場する
小林よしのりの軌跡――市民主義批判
形式主義者たちのロマン主義
3 シニシストの実存主義
「思想なき思想」の再現前
レフェリーなきアイロニー・ゲーム
世界の中心で「自分萌え」を叫ぶ
人間になりたいゾンビたち
ナンシーのアンビバレッジ
終章 スノッブの帝国――総括と補遺
議論の「総括」
スノップの帝国・日本?
純化するスノビズム
「あえて」の倫理
ローティ的アイロニズムの背景にあるもの
共同幻想への信頼を調達せよ
注釈
あとがき
序章 『電車男』と憂国の徒――「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」
・<私>の愛国心 セカイ系
>>〇〇世代 特徴 割合<<
・ポスト団塊ジュニア世代
・つまり、「アイロニー(嗤い)と感動指向の共存」(『電車男』)、「世界指向と実存主義の共存」(窪塚的なもの)というアンチノミーがいかにして生成したのか、その両者はどのような関係を持ち、いかなる政治的状況を作り出しているのか、という問題
・ギデンズ「再帰的近代」
第一章 ゾンビたちの連合赤軍――総括と「六〇年代的なるもの」
・総括、自己否定 高橋和巳「それは幻想(思い上がり)だ」
・森恒夫の自己批判
・肯定的な思想の指導者としてではなく、誰しも越えることのできない否定の地平を永久に生きる「ゾンビ」として、森は存在することになったのだ。
第二章 コピーライターの思想とメタ広告――消費社会的アイロニズム
・60年代/80年代 70年代が過渡期
・糸井重里論 南伸坊 糸井はあの頃も今も何も変わっていない。
・「抵抗としての無反省」
・津村喬 稲葉三千男(マスコミ論、メディア論)のマンガ、ピンクレディー論争
・『ビックリハウス』82年5月5日「ヘンタイよいこ白昼堂々秘密の大集会」YMO、RCサクセション、矢野顕子
・アイロニーを前面化する『ビックリハウス』が、60年代カウンターカルチャーと密接な関係を持ったアングラ・カルチャー(天井桟敷、実験映画)と、資本(PARCO)とのなかば偶然的な「結婚」のなかから立ち上がってきたことの意味を過小評価してはならない。
・アイロニカルな内輪空間
・西武-PARCO 堤清二、増田通二 渋谷「消費のテーマパーク」
・「超越者」マルクス主義→資本
・堤清二『消費社会批判』
・アイロニー(皮肉)の正体
・「自分以外の仮想の人物に視点を移し、その人物に「話し手」の役割を荷わせて発話行為を遂行する」「仮人称発話」
・新人類化(過剰なメタ指向)とオタク化(共同体主義的指向)
第三章 パロディの終焉と純粋テレビ――消費社会的シニシズム
・糸井=消費社会の送り手 田中=消費社会の受け手
>>なんクリ パロディ カタログ小説 注釈 全部ググってください<<
・消費社会の外部の不在 「主体性」から降りる
・糸井「抵抗としての無反省」→田中「抵抗としての無反省」
・斎藤美奈子「デビュー当時の田中は無意味なほどに「朝日岩波的なるもの」への反発をあらわにしていた」
・「心情的革新派への激しい嫌悪」「イデオロギー的なものへの反発」
・「主体性」をひたすらやりすごす。抵抗の対象の存在そのものを否認する。
・ギョーカイ。「消費社会的なシニシズム」
・浅田 広告「スキゾフレニックな差異化はいつのまにか差異化のパラノイアに変わる」
・浅田の糸井評「典型的なスキゾ人間」でありながら、「パラノ的なセビロたちをなだめすかし」、そのうえで「スキゾ・キッズたちへのメッセージを送りつづけている」
・川崎徹評「笑いがユーモラスなものからアイロニカルなものに転ずる境目のあたりでビョーキが発生するんだと思う」
・「永遠のイタチごっこ」「差異化のパラノイア」
・テレビ=「共同体」「内輪」
・「元気が出るテレビ」の主役は、「テレビ」
・テレビの持つファシズム性、流行り方、流行らせ方
★アイロニカルであること(嗤いの感性を持つこと)が日常をやりすごす(テレビ番組を楽しむ)ための要件―スキゾであることがパラノ的に要請される―となったということである。
・アイロニー、シニシズム=上に立つ、下に見る
・「8時だよ!全員集合」→「オレたちひょうきん族」伝統的な演芸の方法論を脱臼させる。
・80年代のフジテレビ
・消費社会的アイロニズム→消費社会的シニシズム
・コジェーヴ アメリカ的「動物」と日本的「スノッブ」
★浅田「モダンの原理というのは、とにかく自分で自分を乗り越えながら進んでいくということだから、古い自分はどんどん殺して、自己を更新していかなければならない。だから、神は死んだとか、あるいは〇〇主義は終わった、✕✕主義も終わったとかいうことでどんどん動いていく。ところがポストモダンになると、死ぬこと自体も死ぬ、あるいは終わること自体も終わる。したがって死んでいるとも生きているともつかないゾンビのようなものたちが情報バンクの中に宙吊りになっており、それが適宜呼び出されてきては組み替えられてエンドレス・テープのように流れるという状況になるわけですね。これがポストモダンであるとしてみれば、これはまさに「最後の人間」にふさわしいニヒリズムである。」
・高度資本主義を徘徊する消費社会的ゾンビ
・郊外、純化された近代家族、ニュータウンの夢
第四章 ポスト八〇年代のゾンビたち――ロマン主義的シニシズム
・ナンシー関の糸井評にまとわる感傷
・「80年代を捨てきれない大人になったヘンタイよいこ」「その「恩義」は「おもしろくない」ということを差しおいてまで優先させるほどのものなのか」
・大月隆寛「満州としてのギョーカイ」
・「「会社」に象徴される「フツーの暮らし」では実現できないあらゆる「夢」がかなえられる王道楽土」
・90年代 「進め電波少年」「ウッチャンナンチャンのウリナリ」
・1日15時間はテレビを観るという彼女の民俗学的実践。
・アイロニズム的「ユーモア」→シニシズム的「開き直り」
・大月、浅羽『別冊宝島 80年代の正体』
・90年 湾岸戦争 素朴な左旋回
・大月の<ギョーカイ>論
>><ギョーカイ>人に嫉妬、羨望するが故に憎悪する会社員。自分はこんなに我慢しているのに。水泳のターン論。自分の道を(無理に)肯定するために、逆を強く蹴る<<
・2ちゃんねる=マスコミへの過剰な愛
・斜(はす)に構えるのがデフォルト
>>メディア・リテラシーはないが、テレビ視聴リテラシーだけは異常に発達した集団<<
・高度な<裏>リテラシーの「大衆化」
・少なくとも80年代以前においては少数のシニカルなセンスエリートたちの専有物(消費社会的アイロニズム)であったわけだが、80年代以降、テレビというきわめつきのマスな媒体を享受するための凡庸なアイテム(消費社会的シニシズム)となった。
・テレビのニュースとワイドショー 建前と実態のズレ
・テレビと馴れ合いつつ、テレビを嗤う感性
・マスコミを愛し嘲笑する「2ちゃんねらー」的心性
>>テレビがあって初めてインターネットが存在する<<
・テレビ(や新聞)はコミュニケーションのための素材
・接続合理性(場の空気を乱すことなくコミュニケーションを続けていく技量)が極限まで肥大化した社会空間
・<秩序>の社会性(一応よいものを目指す)→<繋がり>の社会性
・90年代なかば以降、若者たちは、大文字の他者が供給する価値体系へのコミットを弱め、自らと非常に近い位置にある友人との<繋がり>を重視するようになる。
・携帯電話の自己目的的な使用
・そこでは、大文字の他者が制御する<秩序>からはみ出すことよりは、内輪での<繋がり>をしくじることのほうが回避されるべき事態となる。
・若者たちの人間関係は、たんに希薄化したのではなく、複数の蛸壺の宇宙のなかで<繋がり>そのものを希求するものへと変移しつつある。
>>ネタがベタになる。アイロニカルな没入。<<
・上野陽子「新しい歴史教科書をつくる会」地方支部の参加者たちの反朝日の雰囲気について「『朝日』を批判すれば、隣に座っている年齢も社会的立場も異なる人とも、とりあえず話のキッカケがつかめる、そんな風に感じ取れた」
・内輪空間の<繋がり>のためのコミュニケーションツール
・実際は、「嫌韓」「反サヨ」といった「本音」なるものも、内輪コミュニケーションのなかで本音として構築された記号的対象と考えるべきである(その記号的融通性ゆえにいっそう手に負えないともいえるのだが)。
・リアリストというよりイデアリスト
・「かれらはジャーナリスト以上にジャーナリズムの理念を信じているようにもみえる。だからこそ、かれらは時に信じがたいほどの正義感ぶりを発揮するし、アイロニーとは程遠い浪花節的な物語(『電車男』)に涙したりもするのだ。」
・2003年 平和記念公園 折り鶴放火事件 14万羽プロジェクト
・アイロニズムが極点まで純化されアイロニズム自身を摩滅させるとき、対極にあったはずのナイーブなまでのロマン主義が回帰する。
・90年代のテレビ「嗤い」→「感動」
・小林よしのり 市民運動へのコミット→「反市民主義」
・『新ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論』
・小林「日本では本来、どこまでいっても生活に追われる庶民のはずが「政治のことを考え始めた」だけでニセの市民と化して、しょせん薄っぺらい政治的発言をし始めるのだ。わしはこのようなやつのことを「市民主義者」もしくは「市民モドキ」あるいは「市民ごっこ隊」と名付ける」
・「支える会」に対して向けられた個別的な批判は、かくして、反市民主義という形式主義的・否定神学的な思想へと転化することとなる。「立場をとること」を拒絶する立場、イデオロギー(思想)と心中することを拒絶する思想としての反市民主義の誕生だ。
・二階堂豹介「何かを信じるという価値観を2ちゃんねるでは攻撃していますが、2ちゃんねらーは何かを信じないという価値観を共有していることに気づいていないのです」
・「ロマン主義的シニシズム」
・ロマン的対象は、一見個々の行為者に行為の理由を与えているようにみえるが、じつは、「私の行為が他者によって接続され(=他者に承認され)てほしい」という実存的な欲求によって事後的に仮構された「理由の備給点」にすぎないのである。
・シニシストの実存主義
★嗤う日本の「ナショナリズム」とは、実存に「ナショナリズム」を下属させる、ナショナリズムからアウラを奪う不遜な実存主義だったのである。
>>ナショナリズムが問題なのではない、本物のナショナリストがいないことが問題なのだ。アベやアソウに日の丸を振っているアイツらが、実は全員愛国者ではなく、売国奴だという「トリック」<<
・人間になりたいゾンビたち
・消費社会的アイロニズム→ロマン主義的シニシズム へ
・2002年6月ナンシー関急死
終章 スノッブの帝国――総括と補遺
・純化された反省=総括 → 「抵抗としての無反省」(消費社会的アイロニズム) → (総括的なものへの距離意識を欠落させた)「無反省」(消費社会的シニシズム) → シニカルな実存主義(ロマン主義的シニシズム)
・「アイロニカルではなく主体的であれ」といっても解決にならない。
・通奏低音としてのスノッブな形式主義
・宮台が転向したのではなく社会が変化した
・リチャード・ローティ アイロニカル・リベラリズム 「ポストモダン・ブルジョア・リベラリズム」
・日本の共同幻想 土台は何か? どこに置くか?
>>「ナイーブ」を乗り越える<<
あとがき
・「現視研」「SF研」「初期『宝島』」的リアリティ
2004年 北田33歳
5/29読了