マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

作品#03「哲学用語図鑑トレカ」紹介(7)#61-72

目次

61.ジル・ドゥルーズ

トゥリー/リゾーム

系統図に代表されるように、西洋の思考は、1つの絶対的なものから展開していく思考に取りつかれているとドゥルーズとフェリックス・ガタリ(1930~92)は考えました。これをトゥリー樹木)に例え、ときに1つの体系に組み込まれないものを排除する考えだと彼らは言います。トゥリーに対抗する発想として彼らはリゾーム)を提唱します。
トゥリーに対してリゾームは始まりも終わりもありません。網状に逃走線を持ち、縦横無尽に広がります。リゾームのイメージで物事を捉えると、ヘーゲル弁証法のように異なった考えを統一していくのではなく、差異を差異のまま認め合う発想ができるとドゥルーズガタリは考え ました。

スキゾ/パラノ

ドゥルーズガタリは、絶えず増殖しながら四方八方に広がる分子のようなイメージで欲望を捉えます。この増殖しながら広がる力が世界を動かす原動力となっています。彼らは欲望によって動かされているこの世界を欲望機械と呼びます。欲望機械には私たち人間も含まれます。そして無意識下で私たちの身体のあらゆる器官をも動かしています。
(世界は欲望というきわめてシンプルな原因で動いている)
(世界は四方八方に広がる欲望が原動力となって動いている。けれども社会がそれを抑圧して体系化しようとする)
本来、人間は欲望のおもむくままに動くべきなのですが、親や社会の抑圧装置が働き、この拡散する分子のような動力を自分自身で1つの方向に統一しようとしてしまいます。こうしてできるのがアイデンティティです。
アイデンティティの誕生の仕組み
本来人間は欲望のおもむくままに行動するべき。この状態を器官なき身体という→脳を司令塔にして欲望をトゥリー化。親や社会の抑圧装置が働き、自分自身で欲望を体系化してしまう
一度自分のアイデンティティを自分自身で作ってしまうと、社会的な役割に縛られ、他人の評価を気にしながら、多くのしがらみを背負って生きることになります。このような状態をパラノイア(偏執症)と呼びます。パラノはあらゆることを自分の価値基準の領域に囲い込もうとします。これでは新しい価値を生みだすことはできません。
パラノイア(偏執症)・・・「自分はこういう人間である」というアイデンティティを作って自分をトゥリー(樹木)化してしまうと、社会的な役割や他人の評価で身動きがとれなくなる
スキゾフレニア(分裂症)・・・本当の自分なんかないよ~だ! ワーイ!自由だ~ 
反対に自分の人格やアイデンティティを持たない立場をスキゾフレニア(分裂症)と呼びます。スキゾは欲望のおもむくままにその時その時を楽しみます。そしてあらゆる価値をこだわりなく受け入れます。ドゥルーズガタリはスキゾ的生き方を理想としました(ノマド)。

ノマド

メモ:『千のプラトー』では、ノマドは「戦争機械」となって、抑圧的な国家に対抗するというビジョンが語られている
私たちは安住を好み、財を蓄え、人生を充実させようとします。けれどもドゥルーズガタリによると、この生き方は社会的な役割や他人の評価に縛られ、多くのしがらみを背負う生き方です。安住はやがて自分と異なる考えを受け入れられなくなり、あらゆることを自分の価値観だけで解釈するパラノイアになってしまいます。
トゥリー的なパラノイアから自由になるために、彼らはノマド遊牧民)の生き方に着目します。
1ヵ所にとどまることなく、つねに多種多様な価値の領域をリゾーム的かつスキゾ的に横断するのがノマドの生き方です。ドゥルーズガタリノマドをイメージして生きることを提案します。
単なる旅行好き(トゥリー・パラノ的)・・・旅行好きはホーム(自分の領域)を拠点に往復を繰り返す。そして自分の価値観で異文化を解釈する 旅行で得た知識を自分のホームに持ち帰る。偏執的な知識がどんどんホームに溜っていってしまう
ノマド的な生き方(リゾーム・スキゾ的)・・・ホームを持たず様々な価値を横断する。イメージは「旅行好き」ではなく「引っ越し魔」に近い

62.ミシェル・フーコー

エピステーメー

意味:時代ごとに異なる知の枠組み
メモ:古代ギリシアでは「学問的な知識」を意味する
人の思考は古代から連続して進歩してきたのではなく、各時代に特有なものであるとフーコーは考えました。たとえば「狂気」に対する人々の考えは近世以前と以降ではまったく異なると彼は言います。
中世において「狂気」は真理を語る存在であり、何かしら神聖なものとして扱われ、人々と共存していました。けれども近世以降の社会構造になると、労働力にならない「狂気」ははっきりと隔離されるようになります。
フーコーはこのような各時代でまったく異なる人々の思考をエピステーメーと呼びます。彼は西洋社会を16世紀以前、17~18世紀、19世紀以降の3つの時代に分けて、それぞれのエピステーメーを考察しました。
中世の中国の百科事典に書かれた「動物」の項目を見たところ、意味がまっ たくわからなかったとフーコーは言います。これと同じように、エピステーメーの違う未来の人類が21世紀の科学の本を読んでも、理解不可能なのかもしれません。

人間の終焉

メモ:「人間」という概念は、近代というエピステーメーの中で誕生した
人々の思考や感情は各時代のエピステーメーに支配されているとフーコーは言います。この考えから彼は「人間」という普遍だと思われていた価値も、たかだか19世紀に誕生した最近の発明にすぎないと言います。
生き物の外見ではなく、器官の機能の研究が始まったのは19世紀です。そこから「生命」という発想が生まれ、転じて「人間とは何か」といった研究がしきりに行われるようになったとフーコーは考えました。
けれども彼は人間の終焉は近いと断言します。「人間」は自分の意思で主体的に行動しているわけではなく、社会の構造構造主義)に縛られていることが明らかになりつつあるからです。

生の権力

意味:人々の生に介入して管理しようとする近代的な権力
民主主義の時代になって、国王のような絶対的な権力者はいなくなりましたが、民主国家では顔の見えない権力がそれに取って代わっただけであるとフーコーは言います。かつての権力は死刑の恐怖による支配でしたが、民主主義が作り出した権力は恐怖で人々を管理するわけではありません。
民主国家における権力をフーコー生の権力と呼びます。それは学校や職場などいたるところに存在し、無意識下で私たちを社会に適合するように心理的、身体的に訓練しています(パノプティコン効果)。
18世紀以前・死の権力・・・絶対的な権力者が死刑の恐怖を与えることによって、民衆を支配する
19世紀以降・生の権力・・・私たちの欲望が作り上げた目に見えない権力。それは私たちを資本主義に適合させるように絶えず監視している。私たちは監視者でもあるし、監視される者でもある(学校・職場・病院でみんなの目が光っている。工場や会社での朝礼や体操で管理されている) 

パノプティコン

フーコーは民主主義が作り上げた権力を生の権力と呼び、それが私たちの一般常識を作り上げていると考えました。彼は民主国家をパノプティコンと呼ばれる監獄にたとえます。その監獄に入れられた囚人は、やがて誰に強制されるでもなくみずから規律に従うようになります。
中央の監視室はマジックミラーになっていて、囚人からは監視員がいるかいないかわからない。よって囚人はつねに規律に従わなくてはならない。やがて誰 に強制されるでもなくみずから規律を守るようになる
パノプティコンのような原理は学校、会社、病院、街角など日常のいたるところにあります。24時間365日監視して、私たちを無意識のうちに社会の規範に従順な身体に育てていきます。
日常のパノプティコン効果によって、いつしか人は社会の矛盾に疑問を持つことがなくなります。そして常識から外れた人を、狂人として排除していくのです。

63.ジャック・デリダ

ポスト構造主義

西洋の哲学は、古代ギリシアから構造主義に至るまで、物事を「○○はこうなっている」というように、1つの様式に囲い込んで捉える特徴がありました。このような固定的なものの見方を反省し、新たな哲学を模索した後期のフーコーデリダドゥルーズなどの思想をポスト構造主義(「構造主義より後」という意味)といいます。
ポスト構造主義の思想に共通の目立った特徴はありませんが、固定的なものの見方を乗り越えようとする点では、ある程度の類似性があります。

二項対立

西洋哲学は「善/悪」「真/偽」「主観/客観」「オリジナル/コピー」「正常/異常」「内部/外部」のように、前項が後項よりも優位だと考えられている二項対立によって構築されているとデリダは指摘しました。
そして二項対立の優劣は西洋人特有の「論理的なものを何よりも優先する「思考」「目の前にあるものを信用する思考」「男性的なものやヨーロッパを優位だとする思考」「世界は目的をもって進むとする思考」「書き言葉よりも話し言葉を優先する思考」によるものだとデリダは言います。
これらの思考には何の根拠もありません。そればかりか二項対立を想定して、その関係に優劣を見いだすことは、異質なものや弱者の排除につながるとデリダは考えました。ナチス政権下のユダヤ人であった彼は二項対立を「ドイツ人/ユダヤ人」の関係に重ね合わせたのです。彼は脱構築という方法でその対立軸を抜き取り、これを解体しようと試みます。

脱構築

デリダによれば、西洋哲学は往々にして「善/悪」「主観/客観」「オリジナル/コピー」「強/弱」「正常/異常」「男/女」のように、「優/劣」の二項対立によって構築されています。物事を二項対立で考えることは弱者や異質なものを排除することだと考えた彼は、二項対立の解体を試みます。これを脱構築といいます。
デリダ脱構築の方法をオリジナルとコピーの関係を例にとって説明してみましょう。たとえば、ハンドバッグを見てかわいいという感想(思考)を持ったら、言葉で「カワイイ」と伝えます。つまり言葉は感想をコピーしたものです。オリジナルである感想(思考)はそのコピーである言葉より優位な存在ということができます。
ところがデリダは感想はオリジナルではないと考えます。なぜならじつは人間は、既存の言葉で思考しているからです。言語は自分で作ったものではありません。感想はどこかで見たり聞いたりした言葉のコピーなのです。こう考えるとオリジナルとコピーの関係は逆転します。
このように「優/劣」は容易に反転する可能性があります。彼は物事を二項対立で捉えることの危うさを脱構築で説明してみせたのです。

差延

メモ:フランス語ではdifferance。「差異」と「遅延」という二重の意味を表したデリダの造語
西洋では文字(書き言葉)は声(話し言葉)を代理するためのコピーだと考えられているため、声は文字より価値が高いといわれています。これを音声中心主義といいます。
音声中心主義は、目の前にあるもの、直接的なもの、わかりやすいものを最優先する危険な思考だとデリダは考えました。彼にとって音声中心主義は、わかりやすく直接的な言葉と、芝居がかった演説で人々を先導したナチス政権と重なったのです。
デリダは文字は声の正確なコピーではないと考えます。声が文字に変化する時、それは動的な存在から静的な存在へと形を変えるからです。さらに変化するまでの時間的なズレもあります。声と文字は一致しているとはいえません。デリダは声→文字のようにオリジナルとコピーが差異を含みながら変化することを差延と呼びます。文字と声が一致していない以上、文字は声の代理ではなく、2つを同等に扱うべきだと彼は言います。
さらにデリダによると、声はまったくのオリジナルではありません。人間は自分が知っている言語の中から妥当なものを選んで思考しているからです。今までどこかで目にした文字が差延されて声になっている可能性も十分にあるのです。デリダにとって物事は→オリジナル→コピー→オリジナ ル→コピー→と永遠に差延されていきます。そこに優劣はありません。

64.ジャン=フランソワ・リオタール

ポストモダン

近代の思想はヘーゲルマルクスの思想(歴史、唯物史観)のように、人類全体の進歩について考えるものでした。リオタールはこれを大きな物語と呼びます。
けれども核兵器の開発や大規模な環境破壊など、近代文明の過ちが明らかになった今、大きな物語の時代は終わりました。現代は無数にある価値観を認め合い、共存の道を模索する時代です。リオタールはこのような時代のことをポストモダン(「近代の後」という意味)と呼びました。

65.ジャン・ボードリヤール

差異の原理

経済成長を遂げた先進国の消費社会において、人々は商品(物だけでなく、情報、文化、サービスなども含む)を機能ではなく、他者との差異を生み出す記号(情報)で選ぶとボードリヤールは指摘します。
生活必需品の普及が終わったら、商品が売れなくなるわけではありません。その後に訪れる消費社会では、商品の役割は本来の使用目的から、自分の個性や他者との違いをアピールするための記号に変化します。消費社会は、他とはわずかに違う商品を次々に作り出し、消費欲を無限に作り続けます。そして人はこの構造に取り込まれていくことになるのです。ボードリヤールはこのような原理を差異の原理と呼びました。
差異を生み出す記号はファッションブランドはもちろん、「健康によい商品」「レアもの」「エコ/ロハス」「有名人の愛用品」「ヴィンテージ」「会員制/少人数制」「商品の持つ歴史や物語」など多岐にわたります。消費社会において個人の実体は、これら差異への欲望となります。
差異の原理・・・商品の差異を消費しているのですでにその商品を所有しているから不必要ということにはならない

シミュラークル

意味:オリジナルとコピーの区別が失われていくこと
メモ:フランス語では「まがいもの」「模造品」の意
記号とはオリジナルを代替するためにオリジナルを模倣したものです。けれども消費社会では、オリジナルよりも記号、つまり模像の方が重要であり(差異の原理)、初めから模像の生産が目的です。ボードリヤールはあらゆる現実はすべて模像となると予言しました。
本来、模像にはオリジナルがあります。キャンバスに描いた風景画のオリ ジナルは現実の風景です。けれども、コンピュータ上に描いた自分の未来にオリジナルは存在しません。ボードリヤールはオリジナルのない模像をシミュラークルシミュラークルを作り出すことをシミュレーションと呼びました。オリジナルが存在しない以上、その模像は実体となります。ボードリヤールはオリジナル(現実)と模像(非現実)の区別がつかない現代のような状態をハイパーリアルと呼びました。

66.ジョン・ロールズ

リベラリズム

社会全体の幸せのために誰かが犠牲になっても仕方がないと考える功利主義は、リベラリズムを主張するロールズにとって、正義ではありませんでした。ロールズ功利主義の弱点を克服するために、自分が男か女か、白人か黒人か、体が健康か不自由かなど、自分の置かれた立場がわからないことが前提となる無知のヴェールをみんなでかけた状態で、どのような社会を作ればよいかを考えるべきだとしました。
そうすることによりロールズは、社会正義のための3つの原理を導きだせると考えました。その1つ目は基本的自由の原理です、個人の自由は原則的に保障されなくてはなりません。
2つ目は機会均等の原理です。たとえ経済的な格差が生まれることになっても公正な競争の機会は平等に与えられなくてはなりません。
けれども、体が不自由であったり、差別される立場であったり、恵まれない状況であったりする場合、自由競争に参加できるでしょうか?ロールズは、競争によって生じる格差は、最も不遇な人々の生活を改善するために調整されなければならないという格差原理を最後に提示します。
①基本的自由の原理・・・良心、思想、言論の自由は保障されなくてはならない
②機会均等の原理・・・たとえ格差が生まれても競争の自由は保障されなくてはならない
③格差原理・・・競争によって生まれた格差は最も不遇な人々の生活を改善することにつながるものでなければならない
メモ:単なる「自由主義」と訳すと、誤解しやすいので注意。現代のアメリカでは、富の再分配などを通じて経済的な弱者を救済し、福祉国家的な政策を支持する立場をリベラリズムと呼んでいる

67.ロバート・ノージック

リバタリアニズム

意味:個人の精神的自由や経済的自由を至上のものとして尊重する立場
ロールズリベラリズムに批判を加えたのがノージックです。彼は税金を集めて富を再分配すると、国家権力が肥大化してしまうと考えました。国家はあくまで暴力、窃盗、詐欺などの侵略行為を防ぐにとどまる最小国家であるべきだと彼は言います。福祉的役割は民間のサービスが行う社会が彼の理想でした。このような考えをリバタリアニズム自由至上主義)といいます。
メモ:ネオリベラリズム新自由主義)とも重なる部分も多い

68.マイケル・サンデル

コミュニタリアニズム

意味:共同体の道徳や価値を尊重する立場
メモ:コミュニタリアニズムは、リベラリズムに対しても、リバタリアニズムに対しても批判の矢を向けている
自分たちのコミュニティの倫理や習慣エートス)を重視するサンデルのような考えをコミュニタリアニズムといいます。サンデルはリベラリズムリバタリアニズムとは違ったかたちで否定しました。人は育った環境や周りの仲間などに影響を受けながら個性を育てます。個人の背後にある物語を無視して、無知のヴェールで正義の原理を求めるロールズの思想はサンデルにとってあまりにも抽象的でした。
個人のアイデンティティは育った環境や共に歩んできた仲間と切り離して考えることはできない。自分のコミュニティの倫理や習慣を重視して暮らすべきとサンデルは考える

69.シモーヌ・ド・ボーヴォワール

フェミニズム

意味:男性支配的な社会を批判し、女性の自己決定権を主張する思想・運動
メモ:参政権をはじめ、近代民主主義は、男性中心の民主主義から出発した
フェミニズムとは男性が支配する世の中に異議を唱え、男女平等の社会を作ろうとする思想や運動のことです。通常、第1期、第2期、第3期に分けられます。
第1期(19世紀~1960年代)・・・女性が男性と法的に同等の地位につく、具体的な権利の獲得のための運動が展開された(女性が教育を受ける権利、女性の参政権、女性の労働の権利)
第2期(1960~1970年代)・・・目に見えない無意識に残る女性差別が見直されていった(男は仕事、女は家庭 育児、介護、家事は女の仕事 家父長制など)
第3期(1970年代~)・・・同性愛や性転換の肯定などセックス(先天的な性別)やジェンダーに囚われず、自分らしい生き方が模索されている

70.ジュディス・バトラー

ジェンダー

意味:社会的・文化的に形成される性別
メモ:ジェンダー研究は、先天的で本質的だと思っている性別が、社会的・歴史的に構成されたものであることを様々な例とともに示してきたた
ジェンダーとは社会的、文化的、歴史的に人間が後天的に作り上げた性差のことをいいます。生物学的な性差であるセックスと区別されます。
セックス・・・生物学的性差。自然界に先天的に存在すると思われている性差
ジェンダー・・・社会的・文化的性差。先天的な性質ではなく、社会的に作られた性差
女性は育児・家事が得意(裏の意味=女性は社会に出るべきではない)
女性はやさしい(裏の意味=女性は男性に反抗するべきではない)
女性は感情的(裏の意味=女性は論理的ではない)
ジェンダーには「女性は社会に出てはいけない」など裏のメッセージを含むことが多くあります。それは男性に都合良くできているといえます。また、バトラーは生物学的な性であるセックスも社会的に作られたジェンダーであると考え、同性愛・性転換も支持します。

71.エドワード・サイード

オリエンタリズム

意味:西洋による身勝手な東洋イメージのこと
近代の西洋社会から見た非西洋社会は得体の知れない他者にほかなりませんでした。
そこで西洋は非西洋社会をひとくくりに「東洋」と名づけ、「怠惰」「感情的(論理的でない)」「エキゾチック(近代化されていない)」「神秘的(不思議、理解不能)」「自分たちを客観視できない」というイメージで「東洋」を捉えようとしました。
西洋が作ったこのイメージは東洋に対する正しい解釈とされ、映画や小説はもちろん、客観的な学問である経済学や社会学までもが「東洋」をこのようなイメージで広めていきました。
一方、東洋とは対極にあり、論理的で正しく世界を理解している存在とし て「西洋」という言葉が使われます。自分たちの正しい知識を近代化の遅れている東洋に教育するべきという西洋優位の思考は、西洋の植民地支配を正当化してしまったとサイードは言います。
イードは西洋の東洋に対するこのような表面的な理解をオリエンタリズムと言って批判しました。「東洋」である日本も西洋的近代化をみずから積極的に取り入れ、近代化されていないアジア諸国を植民地化した過去があります。

72.アントニオ・ネグリ

〈帝国〉

意味:国境を超えたネットワーク状の主権
メモ:アメリカや中国のような具体的な国家を指すものではない
ネグリマイケル・ハート(1960~)は全世界を支配する新しい権力として〈帝国〉の出現を主張します。かつての帝国は、ローマ帝国大英帝国、あるいは比喩的な表現である「アメリカ帝国」のように、その権力構造は中心となる国王や国家が領土を拡大していくものでした。
これに対して、通信技術や輸送技術の進歩とともに地球上にあらわれたのが〈帝国〉です。〈帝国〉は資本主義のもと、アメリカ政府や多国籍企業国際連合G20、WEF(世界経済フォーラム)、IMF、WHO、国際テロ組織、各国の大企業・メディアなどが国境を超えてネットワーク状に複雑に結びついた権力システムのことをいいます。〈帝国〉は中心を持たず、領土の拡張も必要としません。〈帝国〉において、核兵器などを持つアメリカの役割は強大です。けれどもアメリカもまたこのシステムに従う必要があるので、アメリカ=〈帝国〉ということにはなりません。
(〈帝国〉はテロ組織を内包してしまっている)
(〈帝国〉は私たちの欲望、つまり資本主義が作ったシステム)
〈帝国〉は日常生活の隅々まで浸透し、私たちを資本主義に順応させるために、いたるところから管理・育成しているとネグリとハートは言います。これに対抗するのがマルチチュードです。

マルチチュード

意味:グローバル民主主義を推進する群衆的な主体
メモ:プロレタリアートの現代的な概念と考えることもできる
ネグリマイケル・ハート(1960~)は地球上にネットワーク状の権力である〈帝国〉が出現していると主張しました。〈帝国〉は、私たちを資本主義に順応した人間に育てるためにいたるところから管理、育成します。けれども〈帝国〉がネットワーク状になっているのであれば、そのシステムを逆利用して民衆もネットワーク状につながれば、〈帝国〉に対抗できるとネグリとハートは考えました。
ネグリとハートは国家や資本主義の支配下にいるすべての人たちをマルチチュードと呼び、権力に対抗する力になりうると考えます。けれどもそれはマルクスがかつて唱えた、暴力革命を起こす労働者階級とは異なります。主婦、学生、移民、老人、セクシャルマイノリティ、資本家、会社員、専門家、ジャーナリストなど様々な人々が、自分の得意分野を通じてネットワーク状につながり、時に話し合い、時に集まって、資本主義の矛盾を一つ一つ解決しようとする力がマルチチュードなのです。
マルチチュードが作った公共の「善」を〈コモン〉ネグリは呼ぶ)
マルチチュード・・・人種、国籍、階層を超えた多種多様な人々のこと。彼らがネットワーク状に結託すれば、〈帝国〉すなわち資本主義の矛盾に対抗できるとネグリとハートは考えた