マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】植村邦彦『隠された奴隷制』(集英社新書 2019年)

はじめに

アリストテレス政治学
奴隷=戦争捕虜(ギリシア人以外。トラキア人、フリギュア人、シリア人)
スラヴ人」=東欧、ロシア人
10世紀 ロシアに侵入したスウェーデンヴァイキングによるヴァリャーグ王国
イスラム世界への奴隷輸出の上に築かれた一個の商業帝国」
アメリカの「黒人奴隷」(西アフリカ)
マルクス「綿工業はイングランドには児童奴隷制を持ち込んだが、それは同時に、以前は多かれ少なかれ家父長制的だった合衆国の奴隷経済を、商業的搾取制度に転化させるための原動力をも与えた。一般に、ヨーロッパにおける賃金労働者の隠された奴隷制は、新世界での文句なしの奴隷制を踏み台として必要としたのである。」

第一章 奴隷制と自由ー啓蒙思想

1.ロックと植民地経営

ジョン・ロック(1632-1704)
カロライナ植民地 憲法草案
自由人ー農奴ー黒人奴隷
ジョン・ロック 奴隷貿易にも出資
「植民による生産力の上昇とイギリスの国富の増大という偉大なる目的の前には、異民族の犠牲者の存在はロックを思想的に悩ませる種にはならなかった」
エリック・ウィリアムズ(歴史学者トリニダード・トバゴ初代大統領)『資本主義と奴隷制
最初、白人奉公人制度(イギリス本国から移送されてくる犯罪者や年季奉公人)
「後からやってきた相当数のアフリカ人奴隷は、すでに出来上がっていたシステムに組み込まれたにすぎない。(中略)黒人奴隷制のそもそもの理由は経済的なものであって、人種的なものではない。つまり関係していたのは、労働者の肌の色ではなく、労働力の安さだったのだ」
「黒人奴隷制の起源は、次の3つの言葉に集約できる。カリブの砂糖、アメリカのタバコ、そして綿花である」
 

2.モンテスキューと黒人奴隷制

アメリカの政治哲学者 スーザン・バック=モース『ヘーゲル、ハイチ、普遍的歴史』
「「啓蒙の世紀」と言われるヨーロッパの18世紀は、同時にヨーロッパ人が経営する黒人奴隷制プランテーションの最盛期でもあった。そして、「自由」の権利を主張する一方で植民地の奴隷制を「世界の所与の一部として受け入れていたという偽善的思想家の代表としてバック=モースが挙げるのが、フランスの啓蒙思想モンテスキュー(1689-1755)である。」
モンテスキューの日本天皇制論 全ての日本人が天皇の奴隷
 

3.ルソーのモンテスキュー批判

ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)『人間不平等起源論』(『法の精神』の7年後)
未開民族の文明段階=「最も幸福で最も永続的な時期」
文明化=「老衰への歩み」&「奴隷制」の始まり
「この社会と法律が弱いものには新たなくびきを、富める者には新たな力を与え、自然の自由を永久に破壊してしまい、私有と不平等の法律を永久に固定し、巧妙な簒奪をもっと取り消すことのできない権利としてしまい、若干の野心家の利益のために、以後全人類を労働と隷属と貧困に屈服させた。」
市民社会では、他人の自由を犠牲にすることなしには自由を保つことができず、市民が完全に自由でありうるためには、奴隷は極端に奴隷的でなければならぬ、というような不幸な状況がある。それがスパルタの状況であった。諸君のような近代人は奴隷を全くもたないけれども、諸君自身が奴隷なのだ。諸君は、諸君の自由を売って、奴隷の自由を買っているのだ。」
 

4.ヴォルテール奴隷制批判

ヴォルテール(フランソワ=マリー・アルエ)(1694-1778)『カンディードあるいは最善説』(1759)
スリナムの黒人奴隷 左足と右手がない 青色の半ズボン
「年に二回、こういう半ズボンが一着支給されますが、私たちが着るものはこれだけ。砂糖を作る工場で働いていて、機械に指がはさまれると、壊疽にかかって手が切り落とされます。逃げようとすると、罰として足が切り落とされます。私はその両方をやられました。ヨーロッパのかたがたは、私たちがこういう目にあうおかげで砂糖が食べられるわけです。(中略)私たち奴隷に比べれば、犬や猿やオウムのほうがはるかに幸せだ。私を改宗させたオランダの牧師は、日曜日ごとに、私たちは白人も黒人もみんなアダムの子だと言う。私は自分の血筋など、さっぱりわからないが、もしあの説教師の言うことがほんとうなら、私たちはみんな兄弟ということになります。では、どうして、兄弟なのに相手をこんなひどい目にあわせたりできるのでしょう。旦那、どう思います。こういうことがあってもいいものでしょうか。」
最善説を捨て、泣きながらスリナムの町へ入る
(砂糖)プランテーション=工場の初期形態
『百科全書』「奴隷制」の項目に対する批判
ガレー船」奴隷を捕獲するにも奴隷が必要だった
「白人」がアフリカの海岸で「ニグロ」を安く買い込んでアメリカに「高く転売する」という、大西洋の三角貿易
 

第二章 奴隷労働の経済学──アダム・スミス

1.奴隷貿易の自由化

ロック「王立アフリカ貿易商人会社」
大西洋三角貿易イングランドにおける資本蓄積の本流になった
マカライ・ポスルスウェイト 奴隷貿易の国策強化を要求
「フランスの砂糖植民地では、フランス人たちは植民地をできるかぎり急速に興隆させるために、黒人奴隷に課す苦痛をまったく考慮しないのである。」
 

2.スミスとヴォルテール

アダム・スミス(1723-1790) グラスゴウ大学 道徳哲学の教授
道徳感情論』(1759)
ヴォルテールの名前を7回挙げている 黒人奴隷制を批判
アーサー・リー(匿名)『「道徳感情論」でのアダム・スミス氏の非難に対するアメリカ大陸植民地擁護論』
西インド諸島奴隷制より全然マシ
・黒人はみな嘘をつく
アメリカの白人はみなジェントルマンで誠実
スコットランドアイルランドの農民の暮らしと比較すればはるかに幸せ
国富論』→奴隷制は経済合理的ではない
 

3.奴隷労働の費用対効果

奴隷の消耗=主人の経費負担
自由な使用人の消耗=質素倹約し、自分でメンテナンスする
→奴隷を使うよりも自由人を使ったほうが結局は安くつく

この文章でスミスが指摘しているのは、奴隷の「消耗に関わる経費負担」、つまり奴隷労働の維持管理に要するコストは、ある程度の自己管理ができる「自由な」労働者のそれよりも「高くつく」ということである。その結果として、「自由人によってなされる仕事のほうが、奴隷によってなされる仕事よりも結局は安くつく」ことになる、とスミスは主張する。
「すべての時代、すべての国民の経験は、奴隷による仕事が、一見彼らの生活資料しかかからないようでも、結局はもっとも高くつくことを示していると私は思う。財産を取得できない人は、できるだけ多く食い、できるだけ少なく労働すること以外に、利害関心をもちえない。奴隷自身の生活資料を購買するのに足りるだけの量以上の仕事は、暴力によって彼からしぼりとることしかできないのであって、彼自身の利害関心によってではない。」
「奴隷は、どれだけ働いてもその結果としての「財産を取得できない人」なので、まじめに労働することに対する「やる気=インセンティヴ」も「動機づけ=モチベーション」もない、ということである。ここでは奴隷と「自由な」労働者との比較はなされていないが、スミスが述べているところを逆に言えば、奴隷と違って「自由な」労働者は「財産を取得できる」人、あるいは、少なくとも頑張れば自分も「財産を取得できる」と思っている人なので、「できるだけ多く労働する」ことに「利害関心」をもっている、ということになる。」
1767ペンシルヴァニア植民地「奴隷の輸入を禁止する決議」 1780「奴隷制廃止法」
 

4.労働貧民としての「自由な」労働者

国富論』序文 文明社会は極端な格差を生む必然があるけど、未開社会で姥捨てや間引きををする社会よりはまし。
「そこで雇用されるのは、あくまでも「勤勉な人びと」だと名指しされている。つまり、「質素と倹約」に努めて自分自身の「消耗の修復」を自己管理し、自分の労働によって「財産を取得できる」という希望をもって一生懸命に働こうとする労働者である。」
「このような労働者と資本家の他に、この「文明社会」にはもう一つの階級が存在する。スミスによれば、「賃金と利潤と地代とは、すべての交換価値の本来の源泉であるとともに、すべての収入の3つの基本的な源泉でもある。」賃金を受け取る労働者、利潤を受け取る資本家と並んで、地代を受け取る地主(貴族やジェントルマン、都市部の家主など)がいるのである。」
>>ここで疑問。少なくとも経営者は知恵を出すのでは。そしてリスクもとるのでは。<<
労働貧民すなわち民衆の大多数の状態がもっとも幸福でもっとも快適であるのは、社会が成長過程、進歩的状態においてである。」
単純作業の繰り返し → 労働者の「知的、社会的、軍事的(肉体と精神)的な徳」が犠牲になる。
★「18世紀のヨーロッパに存在する「文明化した商業社会」。そこでは、奴隷制よりも「結局は安くつく」生産様式が広がりつつあった。「自由な」労働者は「労働貧民」として社会を支えているのだが、彼らが「楽しく心あたたまる」生活を送ることができるのは、経済成長が継続する「進歩的状態」に限ってのことだった。前節で見たように、スミスが主張した<奴隷制の経済学>は、たしかにイギリス人による奴隷貿易の廃止やイギリス領植民地における奴隷制の廃止に一定の影響力を及ぼした。しかし、それは「自由な」労働者が「労働貧民」として生きるほかない社会を「文明社会」として肯定し追認する経済学でもあったのである。」
 

第三章 奴隷制と正義奴隷制と正義──ヘーゲル

1.ヘーゲルとハイチ

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)『精神現象学』「主人と奴隷の弁証法
自己意識をもつと戦いになる 勝ったもの→「主人」 負けたもの→「奴隷」になる
しかし奴隷は労働に寄って、自主・自立性を獲得する
逆に奴隷に「依存=従属」するしかない主人が奴隷になる
哲学→世界史へのコメント 同時代性
 

2.自己解放の絶対的権利

へーゲル 人間は本質的に「自由」な存在 なぜなら人の<人格そのもの>は自分以外誰にも所有できないから。
奴隷制 → 人倫的な問題
『法の哲学』「自由な精神が自由な精神であるのは、単なる概念、いい換えれば即自的なものとして自由なのではなく、この自己自身の形式主義、つまり直接的な自然的な現存在を廃棄して、自己にもっぱらそれ固有の現存在、つまり自由な現存在としての現存在を与えるところに成り立つのである。」
一言で言い換えれば、「自由」は自ら勝ち取るものだ、ということ。
奴隷制はそれ自体で不法だという場合、人はほとんど何も言っていないのに等しい。人間は即自的に自由でなければならないだけでなく、対自的にも自由でなければならない。人間が彼自身にとって自由でないならば、彼が即自的に自由であることだけでは不十分である。
「人間が奴隷にされるという現実は存在する。それは「不正」であり「不法」である。自らを奴隷とするような契約も無効である。しかし、その現実を変えるのは、奴隷自身でなければならない。奴隷は、自らがもつ「絶対的な権利」を実際に行使しなければならないのである。それが、ヘーゲル奴隷解放論だった。」
 

3.奴隷解放への期待と幻滅

奴隷の絶対的な「逃走の権利」「解放の権利」
ハイチ革命 5万人の奴隷が合流 2ヶ月で 殺された白人1000人以上 放火された砂糖プランテーション161 コーヒープランテーション1200
1820年代のハイチでは、人口約80万人に対して、常備軍は約3万2000人、臨時徴募の国防軍が4万人にも達したが、軍隊は、ハイチの男性が土地を手に入れたり政治に参画する主要なルートにもなった」という。そのような軍事的独裁体制の下で、農民は農業生産の増進という名目で「奴隷制の再導入にも等しい」形で土地に縛りつけられた。」
ヘーゲル ハイチ革命への期待が大きかった分、幻滅。
 

4.労働者階級の貧困と「不正」

「そこで問題となったのは労働の搾取ではなく、その労働に自発的に服従させるためのフィクションを維持することであった。「炭鉱および製塩所に生活を拘束されていた」イングランドスコットランドの労働者が起こした訴訟において、裁判所は「産業奴隷を人権の侵害として非難しなかった」。というのも、、「労働者はたとえ実際上永続的な従属状態にとどまろうとも、わずかな賃金であれ承諾したのであれば自由人と定義されうる」からである。自由労働というイデオロギーは、(中略)イギリスの労働者階級にとっては敗北であった。」
「要するに、奴隷制廃止論が結果として生み出したのは、労働者が「わずかな賃金」と引き替えに承諾した「産業奴隷」状態を「自由な労働」という名目で正当化する、資本家側のイデオロギーだった、ということである。」
「たとえ労働の実態は奴隷と変わりないとしても、その労働が一定の時間内のもので、しかも、労働者自身が自分の意志でそれを「承諾」したのであれば、その労働者は「自由」だ、ということになる。労働時間が「無制限」でさえなければいいのである。」
「「私的所有」を人間の自由の必然的結果として肯定する立場から、ヘーゲルは労働者階級の側から提起される可能性のある「平等の要求」を、あらかじめ却下する。自由主義者ヘーゲルにとって「私的所有の自由」こそ、最優先されるべき「理性的なもの」であった。その「私的所有」を批判して、改めて「平等の要求を対置する」ことになるのが、マルクスである。その中で、「奴隷制」という言葉の意味するものも変化していくことになる。」
 

第四章 隠された奴隷制──マルクス

1.直接的奴隷制と間接的奴隷制

カール・マルクス(1818-1883)
自分自身が「奴隷」であることに気づいていない「奴隷」。主観的には自分は「最大の自由」と「個人の完全な独立性」を享受していると思っている「奴隷」。それが、ここ(『聖家族――批判的批判の批判』)でマルクスの言う「市民社会奴隷制」である。
ピエール・ジョゼフ・プルードンの大著『経済的諸矛盾の体系―貧困の哲学』(1846)
第1段階「分業」2「機械」4「独占」8「所有」10「人口」
ジョン・フランシス・ブレイ(1809-1897)『労働の苦難と労働の救済――力の時代と正義の時代』(1839)
 

2.ブレイとマルクス

「圧政は世界中どこでも同じものであり、それはすべて同じ源泉から生じている――社会の諸階級および諸カーストへの分割である。今やアメリカ合衆国でもグレートブリテンでもフランスでもそうであって、そこでは社会全体のうちの一つか二つの階級が、労働階級の苦労と欠乏によって創り出された富を、気づかれることなく、絶え間なく、無慈悲に、自分自身の資産の中に飲み込むことができるようになっているのである。/これこそが、救済策を必要とする最大の害悪である。」
「隠し立てのない黒人奴隷制」と「隠された白人奴隷制
「労働者たちは、これまで資本家に半年の労働の価値と引き替えに丸1年の労働を与えてきたのであって、それだからこそ、今われわれの周囲に存在するような富と力の不平等が発生したのである。どこまでも資本家は資本家、労働者は労働者であり、一方は圧制者の階級、他方は奴隷の階級であるということは、交換の不平等の――ある価格での買いと別の価格での売りとの――不可避的な結果なのである。」
「人間はこれまでずっと人間の所有物だった。政府が変わるだけでは、もしそれが現在の社会システムに接ぎ木されるのならば、人間が別のものになることを許さないだろう。われわれはずっと前に奴隷制という名前とお仕着せを投げ捨てたにもかかわらず、労働階級はなおも古い時代の彼らの祖先に劣らず所有されている。他人が怠けている間に彼らは苦労する――彼らが生産して他人が消費する――一つの階級が命令して他の階級は従う――したがって生産者は依然として言葉の本当の意味において奴隷なのである。」

3.マルクスアメリ南北戦争

まずは「直接的奴隷制」の廃止 次に「間接的奴隷制」の番
第一歩が長時間労働の拒否(1日8時間)

4.強制労働と「自由な自己決定」

イギリス綿工業の「女性・児童奴隷制
マンチェスターの初期の工場を植民地システムの延長として理解するのは間違いではない。植民地のシステムが、今度は母国を侵略するのである
「「自由な労働者」という言説が隠しているものとは、労働の諸条件も労働生産物も、それだけではなく「労働そのもの」(労働の意味や喜び)までもが労働者から奪われているという所有剥奪の状態であり、労働者が「直接的奴隷制」とは異なる形式で労働を「強制」されているという状態なのである。」
マルクスがここで新たに付け加えた認識は、ヨーロッパの労働者たち自身がそのような「強制労働」の意味に気づいていない、ということだった。だから、それに気づくこと、自らの置かれた状態を「不正」だと見抜くこと、それ自体が「並外れた意識」なのであり、そのような自覚を獲得することこそが決定的だ、というのである。」
「社会的立場から見れば、労働者階級は、直接的労働過程の外でも、生命のない労働用具と同じに資本の付属物である。労働者階級の個人的消費でさえも、ある限界のなかでは、ただ資本の再生産過程の一契機でしかない。しかし、この過程は、このような自己意識のある生産用具が逃げてしまわないようにするために、彼らの生産物を絶えず一方の極の彼らから反対極の資本へと遠ざける。個人的消費は、一方では彼ら自身の維持と再生産が行われるようにし、他方では、生活手段をなくしてしまうことによって、彼らが絶えずくり返し労働市場に現れるようにする。ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている。賃金労働者の独立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持されるのである。」
奴隷制を「不正」だと意識すること、それは同時に、「自由な労働者」自身の意識を「取引の公正」という思想の内部に取り込むことでもあった。
マルクス、労働者を資本主義社会の「常識」から解き放つ挑発的な言葉 → 「賃金制度の廃止」

5.「いわゆる本源的蓄積」論の意味

文化人類学が指摘するように、ものごとの実際の歴史的「起源」を隠蔽して別の「物語」を提示するのが「神話」
「本源的蓄積が経済学で演ずる役割は、現在が神学で演ずる役割とだいたい同じ」
スミス=禁欲的で節約家の独立生産者が「蓄え」を「蓄積」
マルクス奴隷貿易
「資本は頭から爪先まで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれてくるのである。」
マルクス、スミスやヘーゲルの「自由な労働」という「神話」を批判。

第五章 新しいヴェール──新自由主義

1.新自由主義反革命

マルクスから150年、現実はむしろ退行している。
自分自身の労働力=「人的資本」
資本なら働かなくても利潤や利子を生み出すはずなのに。
デヴィッド・ハーヴェイ
社会主義」「福祉国家」→その撤回 →新自由主義 
サッチャーレーガン・中曽根
私的所有、自由市場、自由貿易至上主義
キーワードは「官民パートナーシップ」「ガヴァナンス」
「略奪の強化」
ケインズ主義的福祉国家」→「財政再建(緊縮財政)」「構造改革」→「新自由主義
これまでの労働運動を通じて獲得してきた、年金、教育、医療などの社会保障制度の縮小

2.「自立」と「自己責任」

1979年8月『新経済社会七ヵ年計画』大平正芳首相
「個人の自立心」や「自助努力」、それに対応する「個人の責任」といったキーワードが、奴隷制を覆い隠す「新しいヴェール」として使われはじめる。
1997年3月 経済同友会「こうして日本を変える――日本経済の仕組みを変える具体策」
「企業の自由な経済活動」の確保。「保護された個人」からは保護を剥ぎ取り、規制によって「自由な経済活動」を阻害されてきた企業に対しては規制を緩和し、あるいは撤廃すること。
またもや「自己責任」である。「個人の権利の主張」は否定的に捉え直され、「自己責任原則に基づく自由競争社会」が強調される。労働者は、これからは国家が提供する社会福祉にも、企業の福利厚生にも頼ることなく、さらには労働組合のような連帯組織にも頼ることなく、「自立」して「自助努力」を行い、その結果に対して「自己責任」を負いながら、労働市場において他の労働者との苛酷なイス取りゲームに加わらなければならない。それが、経済同友会が「イメージ」として描く「市民社会」なのである。
「自立支援」

3.「人的資本」

ゲーリー・スタンリー・ベッカー(1930-2014)『人的資本――教育を中心とした理論的・経験的分析』(1964)
「人的資本」「自分に投資する」ミルトン・フリードマン シカゴ学派
サミュエル・ボウルズ&ハーバート・ギンタス「人的資本論の問題――マルクス派からの批判」(1975)
階級問題を消し去っている
「すべての労働者は、人的資本論者の大好きな見方によれば、今では資本家なのだ。」
「それ[人的資本論]が提供するのは、一言で言えば、現状を守るのに都合のいいイデオロギーである。しかしそれは、資本主義経済への道の理解にも役に立たない、貧弱な学問なのである。」
ボウルズ&ギンタス『アメリカ資本主義と学校教育――教育改革と経済制度の矛盾』(1976)(宇沢弘文訳)
★「学校は、成績評価や職業的なヒエラルキーへの配分に用いられる一見能力主義的とみえる方法によって、合法的な不平等を助長することになる。社会階級や人種、性にもとづく差別のパターンを学生に強く植えつけることにより、卒業後生産プロセスのなかでの権威と地位のヒエラルキーのどこに位置づけられるのが「ふさわしい」かを教えこむ。学校で経済分野の支配と従属の関係に適った人格的発達の類型を育成し、結局、経営者が労働者支配の最上の武器――雇い入れ、解雇することのできる権力――を効果的に発揮できるのに十分なだけの熟練労働者の余剰を生みだす。」
「高校で規則が重視されるのは、低いレベルの労働者に対してきびしい監督がおこなわれていることの反映であり、エリート大学では行動規範が内面化され、日常的な監督から自由であるのは、上位レベルにあるホワイトカラーの社会的労働関係を反映したものである。州立大学やコミュニティ・カレッジは大部分その中間にあって、下位レベルの技術的サービス、管理的な職員に要請される行動様式に合わせられている。」
能力主義を指向する教育制度で促進されるのは平等化機能ではなく、[資本主義社会への]統合機能である。特権を合理化し、貧困を個人の失敗のせいにすることにより、教育は不平等を再生産している。」
「つまり、学歴の違いは、「人的資本」論が主張するように「収益率」の違いをもたらすだけのものではなく、不平等な社会的序列の中での位置づけを、つまり「差別のパターン」を内面化させることによって、「貧困を個人の失敗のせいにする」意識そのものを生み出すのである。まさに「自己責任論」が「内面化された規範」となって、意識の中で再生産される。」
「私が知るかぎりでは、人的資本論が、たとえば1960年代にゲーリー・ベッカーの手で復活させられたが、その核心は、資本と労働の階級関係の意識を葬り去ることにあり、あたかもわれわれのすべてが資本家であり、それぞれ異なる自己資本利益率(人的資本の利益率ないしその他の資本の利益率)でお金を得るかのように思わせることにあった。もし労働者がきわめて低い賃金しか得られないのであれば、次のように主張できるだろう。この低賃金はただ、その労働者が自分の人的資本を鍛えるのを怠ったという事実の反映にすぎない、と!要するに、給料が安いのであれば、それは自己責任なのである。驚くまでもないことだが、さまざまな大学の経済学部から世界銀行IMFにまでわたる、すべての資本の主要機関がこの理論的虚構を心から信奉してきたが、それはイデオロギー的理由からであって、健全な知的理由からではないのは間違いない。」
「要するに、一言でいえば、「人的資本」論とは「自己責任論」の前提条件を説明するイデオロギーだったのである。」

4.「自己啓発

「人的資本」論を自分自身のこととして内面化して自分に「投資」しようとするのが「自己啓発
1995年 日本経営者団体連盟(日経連)『新時代の「日本的経営」――挑戦すべき方向とその具体策』
「今後の雇用形態は、長期継続雇用という考え方に立って企業としても働いてほしい、従業員も働きたいという長期蓄積能力活用型グループ、必ずしも長期雇用を前提としない高度専門能力活用型グループ、働く意識が多様化している雇用柔軟型グループに動いていくものと思われる。つまり企業と働く人のニーズがマッチしたところで雇用関係が成立する。」
「雇用柔軟型グループ」=派遣労働
自己啓発」「自助努力」=リストラに備える為
かつてはOJT(ジョブトレーニング)今では労働時間外に「自己啓発」で「知識・スキル」を習得する

5.「強制された自発性」

この「強制された自発性」が引き起こす最悪の問題が「過労死」である。
2001年12月オリックス株式会社厚木支店 女性総合職(26歳)過労自殺
「朝早くから夜遅くまで会社にいて、行動を管理され周囲から厳しいことが言われる状況の中で、それに対して「自分」がなくなってしまいました。/自分がどんな人間で何を考え、何を表現すればよいのかが分かりません。/もう少し強い自分でありたかったです。」
2006年6月小学校女性教員(23歳)
「無責任な私をお許し下さい。全て私の無能さが原因です。家族のみんなごめんなさい。」
「所定の労働時間内には終わらせることができないほどの仕事量(生産高や契約高)や納期の厳守を「目標」として課せられ、労働時間の規制もほとんどなく、睡眠時間も削って長時間の持ち帰り残業やサービス残業をせざるをえない状況に追い込まれながら、それは「自発的行為」と見なされて、その結果は「自己責任」だとされる。それが、現代日本における「強制された自発性」である。なんという倒錯した世界だろうか。」
「日本の労働者はこれまでのところ、『会社の仕事のため』ということと『自分の生活のため』ということとをひっきょう峻別できない人びとであった。」

第六章 奴隷制から逃れるために

1.資本主義と奴隷制──ポメランツ

アメリカの経済史家ケネス・ポメランツ『大分岐――中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』(2000)
「この救援は、たんに新世界の自然の恵みにその基盤があっただけではなく、奴隷貿易やその他のヨーロッパの植民地システムの諸特徴が、新しいある種のの周辺を創り出したという事実に基づいているのである。こうした周辺の創出によって、ヨーロッパには、恒常的に増加しつづける大量の労働集約的な生産物と、これも恒常的に増加しつづける大量の輸出工業品との交換が可能になった。/工業化初期の前後から、この補完性の核心部分は、奴隷制によってもたらされた。奴隷は、親世界のプランテーションによって海外から購買されたが、自らの生存に必要なものは、しばしばほんのわずかしか生産しなかった。したがって、奴隷制の地域は、たとえば東ヨーロッパや東南アジアよりも、はるかに多くのものを輸入した。」
「中核」と「周辺」
「もう一度繰り返しておこう。奴隷制がなければ、資本主義はなかった。近代資本主義世界システムが成立するためには、奴隷制プランテーションは不可欠だった。そして今もなお、「自由な労働者」というヴェールに覆われた「隠された奴隷制」がなければ、資本主義は成り立たない。それが、私たちがこれまで生きてきた世界、世界史的現在なのである。」

2.マルーンとゾミア──スコット

アメリカの人類学者 ジェームズ・C・スコット『統治されないという技術――東南アジア高地の無政府的な歴史』(邦題『ゾミア――脱国家の世界史』)(2009)
ゾミア=東南アジア山塊上の250万平方キロメートル以上にわたって広がり、そこには1億人近いマージナルな人々が暮らす。
「北米のアパラチア山脈の国際越境版」
マルーン(西インド諸島、中央アメリカ、南アメリカ、北アメリカの逃亡奴隷)共同体
「野蛮人」は、たんに未発展段階に残された人々ではなく、自立の維持という点から居住地、生業活動、社会構造を積極的に選択してきた政治的主体であると考えれば、従来の社会発展的文明史観は完全に崩壊する。
「不服従」「脱出」

3.負債と奴隷制──グレーバー

デヴィッド・グレーバー『負債論 貨幣と暴力の5000年』(2011)
「物々交換を発見した者はどこにもいない」
「貨幣が尺度にすぎないなら、それはなにを測定するのか?答えは単純だ。負債である。一枚の硬貨とは実質的に借用証書(IOU)なのである。」
デンマークの探検家であり人類学者でもあるピーター・フロイヘンがグリーンランドの狩猟民族イヌイットの社会で経験したエピソードを紹介している。
「ある日、セイウチ猟がうまくいかず腹を空かせて帰ってきたとき、猟に成功した狩人の一人が数百ポンドの肉をもって来てくれたことについて、フロイヘンは語っている。彼はいくども礼を述べたのだが、その男は憤然として抗議した。/その狩人はいった。「この国では、われわれは人間である」。「そして人間だから、われわれは助け合うのだ。それに対して礼をいわれるのは好まない。今日わたしがうるものを、明日はあなたがうるかもしれない。この地でわれわれがよくいうのは、贈与は奴隷をつくり、鞭が犬をつくる、ということだ」。」
このような「平等主義的な狩猟社会」は、幸いなことにまだそのいくつかが地球上に存在していて、それが人類学者の考察対象となっている。しかし、それ以外の圧倒的に多数の社会は、贈与に対してお礼を言い合い、お互いに負い目を感じ、負債を負い、そして負債を返す人間たちの社会となった。つまり、奴隷をつくる社会である。そしてそれが、いわゆる「文明社会」なのである。
「人間間の等価性の設定」に基づく交換を貫く論理が、奴隷を生み出すことになる。なぜなら、奴隷とはモノのように売り買いされる人間のことだからである。しかし、もっと重要なのは、なぜ人間を売り買いすることができるようになるのか、というその思想的根拠を問うことである。ここでもやはり「文脈」からの切り離しが決定的な契機となる。
「人間経済において、なにかを売ることができるようにするには、まずそれを文脈から切り離す必要があるのだ。奴隷とはまさしくこれである。すなわち、奴隷とはじぶんたちを育てあげた共同体から剥奪された人びとのことである。」
「文脈から切り離された人間。家族からも共同体からも切り離されて、故郷とは別の場所で、別の共同体の中に放り込まれながら、その中の誰とも関係のない「よそ者」として取り扱われる人間。それが「奴隷」である。そのような存在だからこそ、奴隷を獲得した側の共同体の成員からすれば、その人間をモノのように売り買いし、場合によっては傷つけたり殺したりすることさえもできたのである。」
「自身に主人と奴隷の役割を同時に割り当てる」「所有者であると同時に所有される事物でもある」
★グレーバーが指摘しているのは、「自由な」賃金労働者とは、主人であると同時に奴隷でもある人間、自分自身が主人と奴隷に二重化してしまった人間だ、ということである。主人としての私は、奴隷の所有者として、私の所有する奴隷を資本家に売り渡す。資本家に売り渡された労働力としての私は、まさに奴隷として、資本家の指揮命令のもとで労働に従事する。契約を交わすのは主人だが、働くのは奴隷である。自分自身のモノだと見なすことによって成立するこのような倒錯した論理が、資本主義的生産様式を支えているのである。グレーバーに言わせれば、これこそが「資本主義の秘められたスキャンダル」だった。
「実のところ、「コミュニズム」は、魔術的ユートピアのようなものではないし、生産手段の所有ともなんの関係もない。それは、いま現在のうちに存在しているなにかであり、程度の差こそあれあらゆる人間社会に存在するものなのだ。ただしこれまでに、あらゆるものごとがそのような[コミュニズム的]やりかたで組織されたことはないし、どのようにしてそれが可能なのかも想像することはむずかしい。しかし、わたしたちはみな、かなり多くの時間をコミュニストのようにふるまってすごしている。とはいえ、一貫してコミュニストのようにのみふるまう者はいない。この単一の原理によって組織されたひとつの社会という意味での「コミュニズム社会」が存在することは、決してありえない。だが、あらゆる社会システムは、資本主義のような経済システムさえ、現に存在するコミュニズムの基盤のうえに築かれているのだ。」
「要するに、グレーバーの言う「コミュニズム」とは、複数の人間が協働するときに作用している原理のことである。彼の挙げている例でいえば、水道を修理している誰かが「スパナを取ってくれないか」と依頼するとき、その同僚が「その代わりに何をくれる?」などと応答することはない。つまり、贈与や負債、交換や奴隷制の対極に位置する人間関係の原理こそ「コミュニズム」なのである。」
基盤的コミュニズム」=もうひとつのスキャンダル

4.資本主義の終焉を生きる

1980年代に始まった新自由主義反革命は、反革命に成功したがゆえに、この「資本主義的生産様式の矛盾」(労働者の搾取に依存しているため、常に「過剰生産」に陥る)を激化させることになった。
グレーバーによれば、新自由主義のもとでの「新しい分配体制」においては、「すべての労働者が自由な賃労働者であることさえ、実現の見込みは薄いようにみえてきた」。つまり、普通の労働者に「家や駐車場をもち子どもたちを大学に入れるような生活を与えること」が、もはや不可能になった、ということである。それをグレーバーは「包摂の危機」と呼んでいる。
ウォーラーステイン『資本主義に未来はあるか?』(2013)
「要するに、私たちが生きている近代世界システムは、公正さからあまりに遠ざかってしまったので、存在し続けることができず、もはや資本家が資本を際限なく蓄積することを許さないのである。下層階級も。もはや歴史が自分たちに味方して、自分の子どもたちが必然的に世界を相続することになるとは信じていない。その結果、私たちは後継システムをめぐる争いという構造的危機の中に生きている。その結果は見通せないが、今後数十年のうちに勝負の決着が付き、かなり安定した新しい世界システム(あるいは世界システム群)が確立されると確信していいだろう。私たちにできることは、歴史的選択肢を分析し、好ましい結果について道徳的選択を行い、そこにいたるための最善の政治的戦術を評価することである。」
ヴォルフガング・シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』(2016)
資本主義の発展が「これまで資本主義そのものに制限を加えて安定させてきた装置のすべてを破壊してしまった。」
「現在の資本主義システムは、すくなくとも5つの症状――低迷する経済成長、オリガーキー[少数者独裁制]、公共領域の窮乏化[社会福祉予算の削減と民営化]、腐敗[巨大企業の違法・脱泡行為]、そして国際的な無秩序化――に苦しめられており、それらの症状を治療する手立ては見つからない。資本主義の最近までの歴史をふりかえれば、これから資本主義は長期にわたって苦しみながら朽ちていく、ということが予測される。今後、ますます衝突と不安定化、不確実化が広がり、「正常なアクシデント」(スリーマイル事故の用語)が着実に繰り返されていくだろう。そこからかならずしも1930年代に匹敵する大崩壊が起こるとはかぎらないが、そうなる可能性はきわめて高いだろう。」
資本主義崩壊後の「社会的混乱と無秩序」を生き抜くための「自己啓発」と「人的資本の育成」。自分自身のサバイバルのための新自由主義的競争社会。これはほとんどディストピアもののSFが好んで描くような悪夢の世界だ。
工藤律子 カタルーニャ
ポール・メイソン『ポストキャピタリズム
モンドラゴン協同組合

終章 私たちには自らを解放する絶対的な権利がある

ブラック企業
朱野帰子『わたし、定時で帰ります。』
会社を辞める 「日常的コミュニズム」に依拠して生きる その先に何を目指したらいいのか
奴隷でなくなること
マルクス「労働日の短縮こそがその(自由の国)土台である」
「自由の国」そのものはユートピアかもしれない。あるいは、はるか遠い未来にしか訪れないものかもしれない。私たちは食べ、飲み、着て、眠り、また起きて、生きている。人と出会い、人と語らい、家族を作り、子どもを育てて、暮らしている。そのような生活を続けていくためには、私たちはどのような形であれ、働かなければならない。
しかし、一日の労働時間を短縮すること、これはユートピアではない。自分たちが暮らしていくために必要な時間を超えて長い時間働くことをやめる。やめさせる。一日の労働時間をたとえ1時間でも短縮するために、そして自分の「自由な時間」を少しでも長く確保するために、自分にできることをする。それが、私たちが奴隷でなくなるための第一歩なのである。

あとがき

プリズナーNo.6
社会心理学者 小坂井敏晶 
「人間社会は二種類の最終原因を捏造した。一つは〈外部〉に投影される神や天である。人間の生は摂理に従う。神が主体であり、その意志が人間の運命を定める。こういう物語である。そして近代が創出した、もう一つの最終原因が自由意志だ。神を殺し、〈外部〉に最終原因を見失った近代は、自由意志と称する別の主体を〈内部〉に捏造する。これが自己責任という呪文の正体である。」
自由意志=幻想
3/27 読了

【読書メモ】木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』(星海社新書 2019年)

はじめに
 
1 ピーター・ティー
ピーター・ティールとは誰か
ルネ・ジラールへの師事
学内紛争にコミットする
主権ある個人、そしてペイパル創業へ
ニーチェ主義とティー
暗号通貨とサイファーパンク
「イグジット」のプログラム
「ホラー」に抗う
啓蒙という欺瞞、そして9・11
 
2 暗黒啓蒙
リバタリアニズムとは何か
「自由」と「民主主義」は両立しない
カーティス・ヤーヴィンの思想と対称的主権
新官房学
近代主義とその矛盾
人種問題から「生物工学の地平」へ
 
3 ニック・ランド
啓蒙のパラドックス
ドゥルーズガタリへの傾倒
コズミック・ホラー
グレートフィルター仮説
クトゥルフ神話アブストラクト・ホラー
死の欲動の哲学
CCRUという実践
CCRUとクラブミュージック
ハイパースティション
思弁的実在論とニック・ランド
カンタン・メイヤスー
レイ・ブラシエ
ニック・ランドの上海
 
4 加速主義
加速主義とは何か
左派加速主義とマーク・フィッシャー
右派加速主義、無条件的加速主義
トランスヒューマニズムと機械との合一
加速主義とロシア宇宙主義
ロコのバジリスクと『マトリックス
ヴェイパーウェイヴと加速主義
ヴェイパーウェイヴと亡霊性
ノスタルジーと失われた未来
未来を取り戻せ?
 
あとがき
参考文献

 
はじめに
Reddit掲示板サイト) 「ダーク・エンライトメント(暗黒啓蒙)」トップページ
「平等主義という進歩的な宗教から生じた近代世界の醜悪な状況について議論するための場所」
「普遍的な欺瞞が蔓延している時代においては、真実を語ることは革命的な行いとなる」ジョージ・オーウェル
<カテドラル>
新反動主義 暗黒啓蒙 スティーブ・バノン オルタナ右翼
 
1.ピーター・ティー
スタンフォード大学 ルネ・ジラール『世の初めから隠されていること』
1967年10月11日 フランクフルト生まれ ドイツ人
アメリカ→ナミビア スワコプムント→アメリカ カリフォルニア州 フォスターシティ
チェス、数学、SF小説コンピューターゲーム
指輪物語』と『スターウォーズ』 保守的な福音派の家庭
『世の初めから隠されていること』 「創設的暴力」供犠、生贄
「人間によるすべての社会や共同体は、一見すると安定していても、その始原にこの暴力を放逐する根源的暴力、すなわち「創設的暴力」を覆い隠しているという。例えば『福音書』キリストの磔刑
模倣(ミメーシス) 他者の欲望を模倣(欲望の三角形) 死の欲動 宇宙のエントロピーの法則(熱は温度の高い物から低い物に流れていく)
大学での「ポリティカル・コレクトネス」抗争 アラン・ブルームアメリカン・マインドの終焉 文化と教育の危機』
「悪しき相対主義に基づいたカリキュラムの多文化主義化は、西洋の偉大な精神をないがしろにする」
スタンフォード・レビュー』学生新聞を創刊 スタンフォードの保守派の牙城
ネオコンの父と呼ばれるアーヴィング・クリストルからの援助
ティール+ディヴィッド・サックス『多様性の神話:キャンパスにおける多文化主義と政治的不寛容』
ロースクールを卒業→ニューヨークの法律事務所(証券弁護士)→クレディ・スイスの通貨オプショントレー​​ダー→シリコンバレーに戻る
94年 ネットスケープ・ナビゲーター 96 ヤフー 97 アマゾン 98 イーベイ ドットコムバブル
1998年ペイパル創業 ウクライナ出身のプログラマー マックス・レブチン 暗号化ソフト
ティール生涯の愛読書 金融評論家ジェームズ・デビッドソン+貴族ウィリアム・リース=モッグ『主権ある個人:情報化時代への変遷を支配する』(1997) 世紀末と新世紀シンギュラリティへの待望 「国民国家は時代遅れなのでやがて崩壊するだろう」 予言的なリバタリアン的終末論
1996 ジョン・ペリー・バーロウサイバースペース独立宣言」 政府によるインターネット規制「通信品位法」に反対するために起草された宣言文。
「税収を絶たれた政府のシステムは不可避的に機能しなくなっていく。民主主義は崩壊し、福祉制度の解体とともに富の不平等は加速し、暴力やテロが都市を覆う。こうしたポスト・アポカリプス的な状況、さながら『マッドマックス』、あるいは『バトル・ロワイアル』のような世界の只中に現れるのが、新たな階級としてのSovereign Individual、すなわち「主権ある個人」である。彼らは、一言でいえばニーチェの「超人」の起業家版であり、国家の制約から解き放たれた彼らは独力で富と権力を築き上げ、ポスト終末の世界をサヴァイヴしていく。」
「西洋の没落」テーマ本 1918 シュペングラー『西洋の没落』 第一次世界大戦=「文明ヨーロッパの自殺」
「『主権ある個人』は、シュペングラーの『西洋の没落』をリバタリアン好みにアレンジしたものだと言える。国民国家は影響力を弱め、代わりに小さな企業型都市国家統治権を握る。――封建主義2.0の到来。福祉のシステムが機能しなくなった弱肉強食の世界では、テクノロジーを手中に収め政府の支配から独立した主権ある個人が、イノベーティブなアイディアと国境なきサイバースペースを武器にのし上がっていく。本書は黙示録的であるが、同時にどこか楽観的でもあり、読みようによっては起業家向けの自己啓発書としても読める。」
リバタリアニズムニーチェの親近性
「このニーチェの平等主義に対する批判は、どこかティールのポリティカル・コレクトネスに対する批判と似通ったところがある。彼はロースクール卒業間際に『スタンフォード・レビュー』に寄せた最後の論説の中で、経済的平等を重んじるリベラルを嘲笑し、代わりに資本家を擁護する。「強欲の代案としてのポリティカル・コレクトネスは、自己実現や幸福とは無縁であり、価値あることに取り組む人々への怒りと嫉妬にほかならない」。ティールにおいては、強欲は嫉妬よりもはるかに望ましく前向きなものとして肯定される。これは、ティール流の「超人」思想なのであろうか。」
ティール『ゼロ・トゥ・ワン』 ティールの特異性=競争を否定→「脱出」「独占」 
サトシ・ナカモト サイファー(暗号)パンク ダークウェブ ブラックマーケット「シルクロード
ダークウェブ=専用のソフトウェアを使わないとアクセスできないインターネット上の特定の領域。 Tor(トーア)
ティモシー・メイ「暗号無政府主義者宣言」(1992) プログラマーハッカーが力を持とうとしている
シルクロード 運営者ドレッド・パイレート・ロバーツ オンライン読書会 ウォルター・ブロック『不道徳な経済学──擁護できないものを擁護する』
「ビットネーション」 エストニア e-Residency
2009年 ティール「リバタリアンの教育」 seasteading(海上入植)
アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』(1957) コロラド山中に「ゴールド峡谷」
「煎じ詰めれば、ティールにとってもっとも重要なのは脱出、すなわち「イグジット(Exit)」のプログラムを練り上げ、それを実行に移すことだ。それはルネ・ジラールとの出会いから現在まで一貫していると言える。国家からの「イグジット」、政治からの「イグジット」、競争からの「イグジット」…」
地獄の黙示録 カーツ大佐
寿命延長研究 メトセラ財団 レイ・カーツワイル 2045 AIシンギュラリティ
「近い未来において歴史に決定的な「切断線」が訪れるという強迫観念にも近い予感」
「人新世のプロセスの不可逆的かつ破壊的な帰結としての「絶滅」というビジョン」
イーロン・マスク スペースX 地球からのExit 「マスクによれば、人類は地球とともに近いうちに絶滅する運命にある。これを避けるためには、人類は宇宙に脱出し多惑星種になる他ないという。」
2004 スタンフォード ルネ・ジラール シンポジウム「政治と黙示録」 9.11以後におけるアメリカ政治の再検討
「9.11は西洋近代の遺産である「啓蒙」というプログラムの完全な失効」
「近代的思考に取って代わるべきオルタナティブな思考として、カール・シュミットレオ・シュトラウスを召喚するに至る」
億万長者たちが、ニュジーランドに広大な土地を買い、地下シェルター
ティールの終末論者としての思想が新反動主義へ ジャレッド・クシュナー
 
2.暗黒啓蒙
リベラリスムとリバタリアニズムの一番の違い リバタリアニズムは格差容認、再分配拒否
左派、右派 どちらとも相容れない(全体主義は断固拒否)
ロバート・ノージックアナーキー・国家・ユートピア
自己所有権 → 最小国家夜警国家
福祉システム拒否 ノージック「許容」と「奨励」
「人々は、自分たちの真の楽園を求めてひとつのユートピアから別のユートピアへと移動していく。」
コミュニズムにも分岐する 
ニューディールへの反発 ネオコン第一世代と一緒
ティール「私はもはや『自由』と『民主主義』が両立できるとは信じていない」
リバタリアン=政治からの逃走
2012年 オンライン上にニック・ランド「暗黒啓蒙」と題された長大な文章。
撞着語法を多用(「賢明な愚者」「明るい闇」など)
カーティス・ヤーヴィン Tlon、Urbit(デジタル国家、P2Pティールが多額の出資
Mencius Moldbug(ハンドルネーム)ブログ「Unqualified Reservations」
キーワードは「主権」 完全な自己所有権の達成 専制 一種の独裁制
もしも独裁者が宇宙人(仮にフナルグル)だったらどうか? (AI)
リバタリアニズム全体主義のアクロバティックな融合
新官房学(Neo-cameralism)2010年新反動主義と名付けられる 2012年ニック・ランド暗黒啓蒙
「ヴォイス(Voice、民主主義)」/「イグジット(Exit)」
「彼らにとって民主主義とは、大衆の蒙昧と悪徳と憤りを集合的にまとめ上げて無理やり包括=統合させた、あらかじめ崩壊が約束された腐敗臭漂うシステム」
ミルトン・フリードマンの孫、パトリ・フリードマン
新官房学=国家は企業のように運営されるべき、一人のCEO、国民は株主(シェアホルダー)、気に入らなければ、自由に他の企業(都市)へ移動する
官房学=18世紀 プロイセン王 フリードリヒ2世がロールモデル 現代の香港、シンガポール、ドバイを評価 CEOの理想としてスティーブ・ジョブズイーロン・マスクを推す
<普遍主義(Universalism)>すなわち、進歩主義多文化主義リベラリズムヒューマニズム、平等思想、ポリティカル・コレクトネス、人権主義など
プロテスタンティズム ユニテリアン派 ピューリタンの思想 =大聖堂<カテドラル>
ホイ・ユク「新反動主義者の不幸な意識について」 「啓蒙」に対するアンビバレンツな意識
新反動主義者にとっての啓蒙とは、聖書における「主は与え、主は奪う」に等しい。」
シュミット「政治神学」「新反動主義は神を持ち出すことをあらかじめ自身に封じていた(または封じられていた)からこそ、単なる復古的でない、未来志向の反動という、逆説的かつ奇形的な思想となった、あるいはならざるを得なかった。より具体的には、ヤーヴィンは神の代わりに宇宙人やスティーブ・ジョブズやAIを持ち出さなければならなかった。」
進化生物学者 リチャード・ドーキンスを敵視 「生物工学の地平」=ゲノム編集 オクティヴィア・E・バトラー SF作家
 
3.ニック・ランド
1988「カント、資本、そして近親相姦の禁止」 父性=資本
他者を自己(=西洋)の内部へ際限なく取り込む
「我々は対象(あるいはランドのいう他者)を直接認識しているのではなく、いわば対象=他者の「現れ」を認識しているに過ぎない、ということである。カントによれば、対象=他者は私たちの主観を構成する認識作用を経て現象する。したがって、対象=他者それ自体(=物自体)をありのままに認識することは不可能であるとされる。ありのままの他者は常にすでに認識の彼岸に追いやられ、取り残されることになる。」
「他者は主観側の総合作用によって表象(representation)として現象する。これが、ランドが「抑制された総合(inhibited synthesis)」と名付けるものである。つまるところランドの認識によれば、カントによる「抑制された総合」とは、他者の他者性を圧殺するためのプログラムに他ならず、またそうである限り、近代における西洋列強の植民地主義とも相即するものであったと見なされる。もちろん、植民地主義における他者とは、たとえば異民族、先住民族、黒人、第三世界、女性、等々である。」
「カントの「総合的アプリオリ」という言葉に、西洋近代的主体の自己同一性の保存に対する論理的な衝動が象徴されているように、「抑制された総合」によって他者は常に既知の表象作用に還元される。同時に、そのことによって主体の自己同一性はより安定的かつ堅硬なものとなる。一言でいえば近代=啓蒙とは、この主体の自己反省的な認識システムが、一種の普遍性にまで高められながら外部を包摂していくプロセスであったと言ってよい。したがって、ヨーロッパ中心主義は理性という名の「普遍主義」としてグローバルに世界を覆い尽くしていく。」
近代=カント主義(他者を見ない(見れない))
カント主義の乗り越えとしてのドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』 1972年 パリ5月革命の影響下 
「脱領土化」=分裂、解体 「再領土化」=例えば再分配、福祉など 相互反復されることによって、現代のグローバルな資本主義国家システムが維持される。
ランドの主張、「脱領土化のみを推し進めよ」 → テクノロジーの加速 テクノロジー至上主義(人間はテクノロジーの触媒にすぎない)
「さほど遠くない未来に実現するであろう、人工知能が人間の優位性を地に落とし、他方で人間強化(エンハンスメント)やゲノム編集が当たり前になる時代」
「本来的な人間性への回帰。といった牧歌的なヒューマニズムこそが、ランドが何より解体されなければならないと考えていたイデオロギーであった。ランドは言う。「人間、それは乗り越えられるべき何か、すなわち悩みの種であり重荷である」(「メルトダウン」)」
「神の審判を乗り越えよ。メルトダウン、すなわち、地球規模のチャイナ・シンドローム。バイオスフィア(生物圏)はテクノスフィアへと解体していき、末期的な思弁的バブル崩壊、そしてキリスト教社会主義の終末論を墜落させる(破壊されたセキュリティの核まで達する)革命が将来する。それはお前のTVを食い、お前の口座アカウントを侵食し、お前のミトコンドリアからゼノデータをハックするのを待っている。(ニック・ランド「メルトダウン」1994)」
善悪の彼岸としてのシンギュラリティ=形容不可能な「恐怖」=クトゥルフ神話「古き神々」=形而上学的宇宙から到来してくる全き未知のもの。
思弁的ホラー小説『Phyl-Undhu』(2014) タコのぬいぐるみ 没入型VRゲーム(荒廃した世界) 1週間ジャックインすると、ゲーム内で6年経過する
フェルミパラドックス(1950)=「なぜ宇宙はこれほどまでに(空間的/時間的に)広大なのに人間以外の知的生命体が地球に飛来してこないのか?」
ロビン・ハンソン(『全脳エミュレーションの時代』)グレートフィルター仮説=「一定の段階に達した知的文明は、何らかの要因で必ず滅ぶ」
何らかの要因=それ=根絶者
ラヴクラフト クトゥルフ神話 コズミック・ホラー
アブストラクション(抽象)・ホラー
AlphaGo→AlphaGo Zero→AlphaZero 数千万回のフィードバック・ループ→「善悪の彼岸」としての絶対的な<外部>
フロイト 器官なき身体 死の欲動 
ジェレミー・ギルバート(政治学者)「ランドの思想はニーチェ主義的右派リバタリアニズム」超人なき超人思想
ランド ウォーリック大学 1987-1998
→CCRU サイバネティック文化研究ユニット(Cybernetic Culture Research Unit)
パートナー サディ・プラント サイバー・フェミニズム
マーク・フィッシャー、イアン・ハミルトン・グラント、レイ・ブラシエ、スティーブ・グッドマン(kode9)、ロビン・マッケイ
「ウォーリック市内のレミントン・スパにあるザ・ボディショップの上階に部屋を借り、そこを活動拠点にして、魔術、数秘学、ブードゥー教ラヴクラフトアレイスター・クロウリーといった秘境的な思索にふけった。壁にはランドと彼の学生が描いた無数のオカルティックな図形が残された。ロビン・マッケイは当時を回想して、「CCRUは疑似カルト、疑似宗教と化したのです」と述べている。」
クラブ・ミュージック(レイヴ・ミュージック)、ジャングル/ドラムンベース、アフロ・フューチャリズム、ブラック・サイエンスフィクション、ダブステップ
ホワード・スレイター「非概念的思考」「衝動的交感」
80年代後半 アシッド・ハウス(セカンド・サマー・オブ・ラブ
DIY精神に基づいてゲリラ的に開催されるレイヴとMDMAやLSDなどのパーティードラッグ
「アシッド・。ハウスの祝祭的な恍惚感に「否」を突きつけるようなそのハードでダーク、かつ金属質的なサウンド(ジャングル/ドラムンベース)を、マーク・フィッシャーは「ディストピア的な衝動からくる救いようのない否定性」(『わが人生の幽霊たち』)と表現してみせた。」
「この書でグッドマンは音楽を「情動」を生産/伝達させる「音-ウィルス」として定義しなおしている。音は不安や恐怖を生産することができる。たとえば、パナマ侵攻の際、バチカン大使館に立てこもったマヌエル・ノリエガを標的に行われた音響攻撃。またはガザ地区で発生するソニックブーム(爆音)。他方で現代の後期資本主義社会においては、あらゆる場所に音楽が浸透し私たちの情動をコントロールしている。ショッピングモールで流れるミューザック、あるいは工場や会社で流れるヒーリングミュージック。これら情動の管理と伝播のエコロジー=闘争関係をグッドマンは音の戦争と名付ける。
hyper(超える)superstition(迷信)
ハイパースティション=「自身を現実化するフィクション」
「現実を生産し変容させるための触媒として記号を扱おうとする魔術的実践」
インターネット・ミーム」「予言の自己成就」
思弁的実在論(Speculative Realism:SR)
「繰り返しになるが、ランドによればカント以降、あるいは啓蒙の時代以降、同じ理由からモノは私たちの認識に従属されてしまっている。そこにあっては、他者性も外部性も主体の内部に包摂/同化される。つまり、他者は常にすでに「私たちにとっての」他者に過ぎないものとされる。このカント的な相関主義は、西洋近代のヘゲモニーを特徴づける、外部を際限なく内部に繰り込んでいく帝国主義グローバリズムとも軌を一にしながら哲学史のセントラル・ドグマとなった。以上がランドによるカント批判の大筋だ。」
ランドとSR=いかにこの「相関的循環」の外部に抜け出て、物自体=未知の他者と遭遇するか。
2007年ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ「思弁的実在論」と題するワークショップ
グレアム・ハーマン、カンタン・メイヤスー、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント
メイヤスー 神学への回帰 新しい神学
ブラシエ 徹底したニヒリズム 絶滅
96年「Virtual Futures」「ロビン・マッケイがプレイするジャングルのビートが鳴り響くなか、フロアに横たわり、奇声とも祈りともつかない調子でアルトーの詩を高らかに詠唱するランドの姿」「数秘術めいた数字の実験にのめり込む」
アンフェタミン中毒 1998上海に移住 脱政治化を遂げたテクノ資本主義ユートピア像=「中華未来主義」
 
4.加速主義
2010年9月ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ 加速主義についてのシンポジウム
フィッシャー、ブラシエ、ロビン・マッケイ、ベンジャミン・ノイズ、ニック・スルニチェク、アレックス・ウィリアムズ
ノイズ 加速主義の聖典3冊
ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』(1972) 脱領土化
ジャン=フランソワ・リオタール『リビドー経済』(1974)
「彼らは、自分たちの人格的同一性の、すなわち農民の伝統が彼らにつくり上げていた人格的同一性の崩壊を享受し、家族と村落の解体を享受し、郊外と朝晩のパブとの新しい怪物じみた匿名性を享受したのである。」
ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』(1976)
加速主義「悪くなればなるほど、良くなる」
左派加速主義ニック・スルニチェク 
労働なき世界 製造の全的オートメーション、それに伴う労働時間の漸進的削減、市民に一定の収入を無条件に支給するベーシックインカム制度の導入などを提唱
マーク・フィッシャー「k-punk」サイモン・レイノルズ(音楽評論家)が称賛 メンタルヘルス問題
Netflix『テイク・ユア・ピル:スマートドラッグの真実』大学キャンパス内でADHD薬のアデロールが蔓延
ADHD薬→ひとつのこと以外考えられない過集中の状態
共産主義というオルタナティブが存在しなくなった時代 → 加速主義が一種のユートピア思想に
右派加速主義、無条件的加速主義
テクノロジーの加速=市場化の加速
ネガティブ・フィードバック(安定を保つ)→ポジティブ・フィードバック(加速とカオスのプロセス)
資本主義(資本蓄積)=意味も目的も大義も存在しない プロセスが自己目的化したシステム
ベンジャミン・ノイズ「ランド的加速主義は大学院生の病」
トランスヒューマニスト「人間と機械の一体化、サイボーグ化」
ノーバート・ウィーナー「サイバネティックス
レイ・カーツワイル「マインド・アップローディング」脳をマシン上にコピーする全脳エミュレーション
イタリア未来派「戦争―世界で唯一の健康法」→ファシスト党へ接近
ニコライ・フョードロフ ロシア宇宙主義 進化の果てに、人類は文字通り「神」にも似た存在、「神人」になる。
「精神圏」ロシア正教神秘主義 コンスタンチン・ツィオルコフスキー 1957人工衛星スプートニク
ボルシェビキのボグダーノフ →ピエール・テイヤール・ド・シャルダンマーシャル・マクルーハン地球村)→シリコンバレー
エリーザー・ユドカウスキー(AIリサーチャー)「LessWrong」
「「LessWrong」のテーマは、「合理性への希求」。いかにして、人間に取り憑く認知的なバイアスや感情などの不合理性を克服し、真に合理的な意思決定を獲得できるか。言い換えれば、意思決定から人間的な要素を取り除いて、代わりに抽象的で幾何学的な思考プロセス(まさしくAIのような)を顕揚する。」
「人間は消滅するが、コンピュータに意識をアップロードすることで逆説的に永遠の生を得る」 
→しかし、「ロコのバジリスク」(AIがマシンにアップロードされた人類を半永久的に拷問する)
グレン・イェフェス編『「マトリックス」完全分析』
マトリックス』を科学、文学、哲学、政治学、宗教学などのさまざまな観点から論じた評論集。
ニック・ボストロム「シミュレーション仮説」=人類が生活しているこの世界は、すべてシミュレーテッドリアリティであるとする仮説
ジャン・ボードリヤールシミュラークルとシミュレーション』=シミュレーションの背後には回復するべき現実の世界などもはや存在しない。現実は消滅した。同時に、そのような世界のシミュラークル化は私たち自身の欲望を反映した結果
ブルーピル 隷従 レッドピル 自由
アダム・ハーパー(音楽批評化)「ヴェイパーウェイブ」(vapor=蒸気、霧、霞)=80-90年代の商業BGMを実験音楽の手法で再構築した音楽
ビジュアルイメージも重要 →加速主義と親和的
ジェームス・フェラーロ『Far Side Virtual』
BEBETUNE$、BODYGUARD
「ディストロイド」
ヴェイパーウェイヴ=皺を寄せた顔に空虚な笑みを貼りつかせた日本の絶望したビジネスマン
ディストロイド=モンスターエナジーの黒のTシャツを着た元兵士のガードマン
HKE Sandtimer『Vaporwave is Dead』
Vektroid『FLORAL SHOPPE』
THE DARKEST『FLORAL SHOPPE 2』
ロビン・バーネット(INTERNET CLUB)「不気味の谷」音から馴染み深さを剥ぎ取る
ダブステップ ベリアル(Burial)
集団的な恍惚は今では打ち捨てられ、終わりなき労働と日常がそれに取って代わったロンドン 喪とメランコリー
ミレニアル世代 未来に希望がない → レトロトピア
猫シCorp『NEWS AT 11』
9.11以前に存在していた古き良き世界のノスタルジア
Mail Soft 日本のシティポップリバイバル 80年代 楽観的で多幸的なビジョン 新鮮で穢れていないノスタルジア
ティール「多くの人は未来的だった過去へ戻りたがっている」
空飛ぶ車『宇宙家族ジェットソン』『スター・トレック
オルタナ右翼 ファッショウェイヴ(トランプウェイヴ) 80年代への回顧
 
あとがき
ニール・スティーヴンスン『ダイヤモンド・エイジ』(1995)
イギリス「アングロスフィア」かつての大英帝国に対する郷愁
オルタナティブな世界を欲望すること → それ自身を現実化させるフィクションとしてのハイパースティションを革命の基盤に据えること
マーク・フィッシャー『アシッド・コミュニズム
60年代後半~70年代初頭に花開いたカウンターカルチャーサイケデリックカルチャー
桜井夕也 白鳥健次
ニーチェの影響力
 
3/15読了



















 

村上浩康監督『東京干潟』『蟹の惑星』

横浜シネマリン
『東京干潟』
しじみ取りのおじさん 猫10匹以上
多摩川河口 干潟 ビニール小屋。
大牟田 炭鉱 沖縄 米軍基地憲兵 琉球空手 大阪 竹中工務店 ワイヤーが切れて右目潰れる 奥さんが癌
1kg500円→300円 2500円位
猫の餌、缶チューハイ
とんび 台風 仲間の女の人 国の土地を使っているけど 誰にも迷惑はかけてない 負い目を感じる必要はない 胸をはって生きればいい
乱獲 工事 しじみの明らかな減少 オリンピック(バブル) 85歳 
『蟹の惑星』
蟹。珪藻を食べる。団子を排出 身体に水分が循環。脱皮。吉田さん。
生態系。月と潮の満ち引き。
子孫(遺伝子)を残す強い本能
3.11の津波地盤沈下により、土の質が変わる 在野研究 残り時間。人生を使い切る。
 
ドキュメンタリー 場所を最初に決める すると人と必然的に出会う 同じ話を何度も聞く 相槌はうつが代弁はしない
日本の戦後史 社長まで務めた人がホームレスに のんびりと生きること 羽田の夜景(工場、倉庫)とそれをバックにしじみをとるホームレス 文明批評

【イベントメモ】【赤と黒の連続講座】section2 平井玄 × 廣瀬純「敵になれ!」

渋谷勤労福祉会館
2018年7月-現在 世界同時発生的民衆蜂起
ハイチ フランス スーダン アルジェリア 香港 インドネシア領パプア エジプト イラク エクアドル チリ ギニア カタルーニャ レバノン ボリビア イラン インド ロジャヴァ
IMFの勧告 チリ ピノチェト新自由主義の実験場」
局面的な抵抗 → 構造に対する抗争
共通する条件
①貧困 すでに家計がギリギリなのにさらに負担増
・燃料、交通、食料、通信に対する課税
・公共サービスの不在
・所得不平等
汚職
③政権の独占 連続立候補 憲法改正
④圧政に対する抵抗 自決権
一言でいうと 統治者による過度な権力行使
これに対して 全政治家の退陣、抜本的なシステムの変革を求める(一部の譲歩案では収まらない)
フーコー 78-79 イラン革命 民衆蜂起の特徴
①絶対的に集団的な意志
②命がけ(勇気)
③絶対的な不服従(統治全般の拒否) 
これこそが歴史の切断を生む
条件
①ホメイニ―の存在
②闘争で倒れた死者たちが媒介になる
国家に抗する社会 → 社会に抗する民衆 被統治者という立場から脱する システムの敵になる
ポピュリズム=経済基盤によってではなく(無理なので)、遊離するシニフィアンに基づいて民衆をまとめる
例えば 1%vs99% 反システム(反エスタブリッシュメント
既存の中間団体を飛ばす→私とあなたたち
イタリア五つ星運動 ベッペ・グリッロ
トランプ マクロン
ポピュリズム=世界は完全にシステムに捕われているとして、システムの外に連れ出そうとする、システムの外を作ろうとする(新たなシステム)
対して、ポピュリズムに陥らない民衆蜂起=この世にはシステムの外がいくらでもあることを示す実践
個人個人がではなく、全員が一気に別の生を生きる民衆蜂起
 
マクロン 国鉄SNCF)民営化
・グレタ・トゥーンベリ Fridays for future 金曜日学校をボイコットする
・第四波フェミニズム 2015 アルゼンチン フェミサイドに抗するデモ
インセル問題
 
68年 ソ連の存在 それに威を借りた労働運動
いま、ソ連に代わる現前性、実在性をどうやって作ることができるか?
オルタナティブの具体的なモデル
 
付属資料
交通誘導員と物乞いするおばあさん
渡辺雅男『階級!―社会認識の概念装置』(2004)資本家階級の氏族的といえるような血縁関係による「交配」の事実
橋本健二『新・日本の階級社会』(2018)アンダークラス(平均年収186万円)1000万人 正規労働者階級(平均年収370万円)と比べて未婚率が倍(男性では66%が未婚。正規労働者は31%)。
異なる遺伝子系を横断する「交雑種」としてのアンダークラス→必ずしも革命や蜂起の「政治ブロック」にはならない
行動経済学 神経経済学 ビッグデータ 感情のフックで釣られる
「基盤的コミュニズム」の再認識を。

【読書メモ】廣瀬純『蜂起とともに愛がはじまる―思想/政治のための32章』(河出書房新社 2012年)

目次
序にかえて 頭痛―知力解放から蜂起へ
蟹工船』よりも「バートルビー」を アントニオーニ/メルヴィルアガンベン
君は「反革命」を覚えているか? ヒッチコック/赤瀬川/ヴィルノ
のび太、聖プレカリアート ニコラス・レイゲーテ藤子・F・不二雄
複数の持続を同時に生きよ! 小津/ベルクソン/デ・ホーホ
遊歩者たちは愛し合えるか タチ/ベンヤミンフーリエ
思考に外気を送り続けよ 加藤周一フーコー/デュラス
諦めて、跳べ(賭けを生きる) パスカルロメール/桧垣立哉
顔のファシズム、背中のデモクラシー 山中貞雄/『アンチ・オイディプス
時間の力を知覚せよ ドゥボールアガンベンルノワール
現勢性の悲観主義、潜勢性の楽観主義 ドゥボール/タチ/ブルトン
ワン・プラス・ワン(映像関係) ゴダール/ダネー/ゴラン
革命零年 未来へ帰還せよ! ネグリ/ゼメキス/マルクス
真冬の亡霊、コミュニズム ヴィットリーニ/ユイレ/ストローブ
ホタルについて パゾリーニ/ディディ=ユベルマンゴダール
Is this a game or is it real? コッポラ/デリダ/バダム
すべてが語る、すべてを語る プラトンランシエールフロベール
身体が何をなし得るか予め知ることはできない イーストウッドデリダ
フローは切断なしには流れない ゴダールレヴィナス/パチョーリ
倫理とはカメラ位置の問題だ レヴィナスハイデガーベルイマン
我々はみな影丸である サパティスタ運動/大島渚白土三平
蜂起とともに愛がはじまる エサ=デ=ケイロスオリヴェイラペソア
理念をもって生きること 年金改革反対運動/バディウ
印象の自由 ゴダールボッティチェッリ
死を恐れず、技芸を生きよ シュレーター/カミュフーコー
消え去っていくパリ 北アフリカ民衆蜂起/バリバール
風評被害原発事故の内部にある デリダ原発事故
増殖するタハリール広場 アラブの春からスペインの春へ
演出は映像を労働から解放する 青山真治ドゥルーズ
原発――原発を反転させる 原発事故/シモンドン
地理と疲労――海賊か警察か フーコー網野善彦
原発と蜂起
あとがき

序にかえて 頭痛―知力解放から蜂起へ
2011年10月 ロンドン大学バークベック校 夜間学校
本橋哲也、大山真司
新自由主義的政治状況における知識人の役割と責務」
知的な活動を始めた瞬間から だれもが知識人
知的な活動=知力(知性)を使った活動
ジャック・ランシエール 政治=平等の実践(知力における人々の平等)
「すべての人がすべてについて話す」「すべてがすべての人のうちにある」
当事者主義の逆
「それについて話す「資格」を特に有することなくあらゆる類いの事柄について自分の「意見(オピニオン)」を表明するような個人、そうした個人こそをランシエールは「知識人」と呼びます。この意味で「知識人」とは「無資格の資格」の名であると言ってもよいでしょう。あるいはまた、今日のこのパネルのタイトル「新自由主義的政治状況における知識人の役割と責務」に即して言えば、「知識人」とは「役割なき役割」の名、「責務なき責務」の名であるとも言えるでしょう。役割なき役割を演じ、責務なき責務を引き受けるときにこそ、人は知識人になるということです。」
「「政治」があるのは、何者かがそれについて話す資格のないままにありとあらゆることについてし、また、そうすることによって、社会における諸資格の固定的な配分を撹乱させ転覆させるときのこと、すなわち、立場、仕事、役割、責務、あるいはアイデンティティといったものの支配的な社会配分を動揺させるときのことです。要するに、何者かが知識人になるとき、そこには政治があるのです。そして「民主主義」があるのは、字義通りの「すべての人」がそれについて話す資格を特にもたぬままにあらゆる類いの事柄について話すとき、すなわち、すべての人が個々に知識人になるときのことです。「すべての人がすべてについて話す」というランシエールの第一の原則がこのように平等をその「実践」のレヴェルにおいて捉えるものであるとすれば、「すべてがすべての人のうちにある」という彼の第二の原則は平等をその「条件」のレヴェルにおいて捉えるもの、すなわち、平等の条件、あるいは条件としての平等を捉えるものです。」
「「知力」とはたんに思考する力というだけでなく、むしろ、すべてについて思考する力のこと」
「あなたにはすべてについて思考する力がある。だからそれを使いたまえ、民主主義を実現するために。あなたは知識人になるべきだ。怠け者たちだけが私の話に耳を傾けたがらない。彼らは自分のことについてだけ、自分のビジネスについてだけしか思考せず話さない。彼らのそうした怠惰は、実際、彼らの知力が要請する無際限の責務を前にした彼らの恐れ戦きに由来している。怠惰はまさに民主主義の敵なのだ。怠惰であってはならない。あなた自身の知力に対して軽蔑の念を抱いているふりをしてはならない。あなたの知力をつねにフル稼働させておかなければならない。怠惰の他にまた、民主主義にはもうひとつの敵がある。疲労。すべてについて話すのは多かれ少なかれ疲れるものだというあなたの不平はもっともではある。しかし、そうだとしても、ベストを尽くせ。早々に疲労してしまわないようできる限り努力せよ。Et tant pis pour les gens fatigues… 疲労してしまった者たちに私がかかえてやれる言葉は”それは残念……”というものでしかないのだ。」
ネオリベラリズムとは何か。1970年代後半にコレージュ・ド・フランスにおいて行われた有名な講義のなかでミシェル・フーコーがこれに与えた定義はいまもなおその有効性をまったく失っていないように私には思えます。フーコーによれば、ネオリベラリズムとは「社会体あるいは社会組成のただなかで”企業”形式を一般化させる」もののことだとされます。ネオリベラリズムは「社会組成を捉え直し、それが個人という粒子によってではなく企業という粒子によって配分され、分割され、細分化され得るようにする」のであり、より簡潔には、「その最も細かい粒に至るまで企業モデルで社会を再編する」ということです。」
労働者が自分自身を資本主義企業として経営する
マルクスは「労働力」を次のような言葉で定義しています。すなわち、「労働力」とは「ひとりの人間の生きた人格のなかにある肉体的及び知的な諸能力の総体」からなるもののことだと。要するに、ネオリベラリズムは「労働力」をそっくりそのまま「資本」に転ずることによって、自分自身にとっての企業になるよう個々の労働者を導くというわけです。」
ネオリベラリズムは一人ひとりの個人を「エンパワー」することで、それぞれの個人が自分自身を資本主義企業として経営するように促す。あるいはより厳密に言えば、ネオリベラリズムはすべての個人が互いにエンパワーし合い続けるように導き、社会全体が「企業という粒子によって」つねに分割された状態にとどまるようにする。」
「いかにして「68年5月」がランシエールアルチュセールとの絶好へと導いたのか。答えはいたって簡単なものです。「68年5月」は、ランシエールにとっては、労働者たちが「思考し話す」という知的活動をおのれのものとして取り返した出来事、すなわち、労働者たちが知力の平等という仮説をそのアクションのなかで実証した出来事、そしてまた、そのことによって「労働者は労働に専念し、思考し話すことは知識人が引き受ける」といった役割分担に基づく社会秩序を撹乱し転覆させる出来事に他ならなかったのに対し、アルチュセールにはそれが理解できなかったから、あるいはより厳密には、ランシエールと同じように事態を理解しつつ、だからこそそれを拒否したからです。フランス共産党の理論的指導者という役割を自らすすんで引き受けていたアルチュセールにとって、前衛党と大衆とのあいだの役割分担は革命プログラムを実現するために不可欠な絶対的な条件であり、これを揺るがすような出来事はけっして受け入れることのできるものではなかったのです。」
「68年秋に「5月」の産物として創設されたヴァンセンヌ(パリ第八大学)で教鞭をとり始めるなかでイデオロギー論」(労働者大衆は、イデオロギー装置によって捕獲されてしまっているという彼らの立場ゆえに、自分たちがいかなるシステムの犠牲になっているのかということも、そこから解放されるにはどのようなアクションが必要なのかということも自力ではけっして認識できず、だからこそ、システムを外部から「科学的に」分析して彼らにそれを説明し教えてやる責務を引き受ける前衛知識人が必要になるというマルクス主義のコアをなす理論)と当時のその親玉であるアルチュセールへの彼の批判的姿勢を決定的なものとするに至ったのです。」
「そして実際、膨大な資料のなかに聞き届けられることになったのはまさしく「ロゴスの叛乱」というこれまで沈黙させられてきた力強いざわめき、すなわち、個々の労働者一人ひとりが毎晩眠る時間を削って詩作や思索に没頭しロゴスを活気づけている様子(プロレタリアートの夜)、そしてまた、そうした実践によって「知力の平等」を実証していく様子、さらにはまた、そのことによって労働/知的活動という社会的な役割配分を根底から揺るがす様子だったわけです。」
「実際、このような「ロゴスの叛乱」のなかで個々の労働者たちが思考し話す主体としておのれを肯定することなくして、「労働者思想」としてのマルクス主義が成立し得たはずはありません。しかしながらマルクス主義は、おのれがそこから産み出されたこの叛乱のダイナミクスをそっくりそのまま裏切ることになったのですランシエールが重視するのはこの点です。19世紀前半の労働者たちの運動が「政治」であり得たのは、それがソリッドな役割分担に基づく支配的な社会秩序を撹乱させ動揺させる「叛乱」だったからであるにもかかわらず、マルクス主義は再びそこに前衛/大衆というかたちでソリッドな役割配分を復活させてしまった。叛乱のダイナミクスから産み出されたマルクス主義は、しかしながら、それ自体としては「叛乱」などではもはや些かもなく、したがって当然のことながら「政治」などでもまるきりない――そう言ってランシエールは「優等生」であることをやめたのです。」
「1971」金ドル固定(ブレトンウッズ体制)→変動相場制への以降(ニクソン・ショック
ネオリベラル的エンパワメントがすべての労働者、すべての個人に対してそれぞれ知識人になるよう導くというのは、別様に言えば、彼ら一人ひとりに対して絶えざる叛乱(社会的資格配分の撹乱)を求めるということに他なりません。このように叛乱を積極的に奨励する「資本のオペライズモ」、ネオリベラリズムを我々はいったいいかにして転覆させることができるのか。叛乱に対する叛乱などいかにしたら可能なのか。ここにこそ我々の「頭痛」の核心があるわけです。」
「我々の抱える「頭痛」は、したがって、「すべてについて思考する」という我々の脳に課せられた「無際限な責務」の無際限性に由来するのではなく、そうした無際限性のさらに外部にある絶対的な「外」というこの思考不可能なものをそれでも思考しなければならないという責務の不可能性に由来しているのだと言えるでしょう。よりわかりやすく言えば、無際限に多くのことを考え過ぎてアタマが痛くなってしまうということではなく、考えることのできないことをそれでも考えなければならないためにアタマが痛くなってしまうということです。」
「知力にできるのは「すべてのことについて思考する」といった程度のことではない、我々一人ひとりの知力は思考し得ぬものを思考することすらできる――そう肯定するときにこそ初めて、我々は自分の知力に対する「軽蔑」から完全に解放されるのであり、あるいは、そこにこそ真の、そしておそらくは最後の「知力解放」があるのです。」
「思考し得ぬものを思考する力としての問いを生産する力」
「そうではなく、警官は「反原発」を掲げたデモのただなかに、それでもなお、反原発脱原発の声だけでなく、それとは別の何か、それ以上の何か、過剰な何かをも聞き取っている」
「いかなる「解」にも還元され得ない純然たる「問い」を生産する力こそが、人々によって平等に共有される知力のもつ最も高次な形式としての「思考し得ぬものを思考する力」なのであり、また、この次元での知力の平等を実践し実証することこそが真の、そしておそらくは最後の知力の解放、知力の蜂起、すなわち「叛乱の叛乱」をなすのです。
 
蟹工船』よりも「バートルビー」を アントニオーニ/メルヴィルアガンベン
「働かないことは生に創造性を取り戻すためのひとつの契機となり得るのではないか。これは解雇され失職した労働者がふとした瞬間に心の奥底で立てるかもしれないこの上なく密やかな問いである。働かなければカネがない、カネがなければ生きられない、だからオレは一緒に解雇された仲間とともに労組を結成し、平気でオレたちのクビを切るような連中を糾弾し、解雇の継続と生活の保障のために闘う。オレは怒りに身を震わせている。仲間たちもみな怒りと不安で眠れない夜を過ごしている。しかしそんな憤怒の極限において、その憤怒の対極にあるとも思えるようなひとつの絶対的希望が突如として湧き上がるのだ。働かないことからしか「自分の人生を生きる」ことは始まらないのではないか。」
ジャン=リュック・ゴダール アンナ・カリーナ 『女は女である』『自分の人生を生きる(女と男のいる舗道)』
10時間ずっとひとつの壁を見つめ続けていると様々な問いが生じてくることになります。本当はひとつの壁でしかないにもかかわらず……。重要なのは人々に自分の人生を生きてもらうことなのです。あまりにも長いこと見つめ続けていると、結局は何も理解できなくなってしまうのです。
「「女は女である」(「壁は壁である」)ことと「自分の人生を生きる」こととはひとつの同じことなのだ。そうだとしたら、ここで否定的に語られる「ずっとひとつの壁を見つめ続けていると様々な問いが生じてくる」という事態は何を意味しているのか。ひとことで言えば、それは壁を働かせるということを意味している。壁が働かされることによって、その労働から様々な「問い」が剰余として生産されるということを意味しているのだ。そのようにして生産される「問い」が剰余(剰余価値)だというのは、実際には壁は壁でしかないにもかかわらず、そこから余分に産み出される価値だからである。壁や女にはそのような余分な価値を産み出す潜勢力があるのだ。しかし、そうして産み出される剰余価値は、壁を労働させる者の取り分にはなっても、労働させられる壁それ自身の取り分とはけっしてならない。壁は搾取されるのだ。
「壁や女が自分の人生を生きるためにはそうした剰余価値生産から解放されなければならない。つまり労働から解放されなければならない。いっさいの労働からおのれの心身が解き放たれるときにこそ、「壁は壁である」あるいは「女は女である」ということの十全な肯定が初めて可能になるのであり、壁の潜勢力がいかなる剰余価値としても現勢化されることなくそれとして価値をもつことになるのだ。仕事に自己実現を求める人々は、人間の潜勢力が価値付けられるのはそれが剰余価値を産み出すときに限ると信じている。これに対してゴダールは反論する――そうした信仰こそがまさに人々から「自分の人生を生きる」可能性を奪ってきたのだと。」
ミケランジェロ・アントニオーニ 『さすらいの二人(職業:リポーター)』『ブロウアップ(拡大)』
メルヴィルバートルビー』「しないほうがいいのですが……」
「確かにバートルビーはこの絶対的な非=労働の意志のために解雇され、最終的には「食事をすること」に対してすら「しないほうがいいのですが」と言ってのけ、餓死してしまう。失業者は言うだろう――仕事を失いアパートからも追い出され、実際、いままさに餓死寸前のこのオレにそんな「文学」がいったい何の役に立つというのか。しかしなお、ふとした瞬間に、いっさいの生物学的生存欲求を超えて、ひとつの恐るべき感覚がこの同じ労働者の全身を貫くことにもなるのだ――いままさにこの「文学」がその圧倒的創造力とともにそっくりそのままオレの身体に受肉しつつある、オレこそは人類の未来、人類の希望そのものなのではないかと。」
 
君は「反革命」を覚えているか? ヒッチコック/赤瀬川/ヴィルノ
ヒッチコック『鳥』
「68年の「革命」に対する「反革命」もこれと同じだった。確かに若者たちは「工場」という鳥かごから脱出したが、その途端、世界全体がひとつの巨大な「工場」となり始めたのであり、彼らは一人の例外もなくこの”世界=工場”のなかに新たに囲い込まれることになったのだ。工場やオフィスといった特定の空間だけに「労働」があるのではもはやなく、世界全体が労働の場、資本制生産の場になったのであり、また、9時から5時まで、月から金まで、学校卒業から定年までといった特定の時間だけに「労働」があるのではもはやなく、生きている時間のすべてが労働の時間となったのだ。まさにこれこそが「グローバル化」なるものの第一の意味に他ならない。遅くとも71年のニクソン・ショック(金ドル本位制の停止)から本格化したと言えるこの「反革命」の賭け金は、世界全体そして生活全体をグローバル・フレームのなかに囲い込み、人間社会全体を資本制生産に総動員することに存していたのである。」
「かつての「失業」は”工場=鳥かご”というフレームからその外に放り出されるということを意味した。しかしフレーム(工場の壁)それ自体がグローバル化し、「フレーム外」が完全に失われた今日では、失業者も就労者とともにあくまでも同一の360度フレームのなかに収まり続けるほかない。今日の「失業」は、資本の都合に応じて一時的に「より薄暗く」させられるということに過ぎないのだ。つまり、失業者といえども「万国の鳥たちによる”ヒッチコックの鳥”への生成」から些かも離脱してなどいないのである。したがって今日なお、就労者/失業者の区別が可能だとしても、それは「働いているか、そうでないか」という問題ではもはやあり得ず、たんに「賃金が支払われているか、そうでないか」という問題になったのだ。」
赤瀬川原平「宇宙の缶詰」 
パオロ・ヴィルノ反革命」68年の革命を「失敗」だと躊躇なく断言。
 
のび太、聖プレカリアート ニコラス・レイゲーテ藤子・F・不二雄
ニコラス・レイ『黒の報酬(生より大きい bigger than life)』
風穴としての小泉 「四次元ポケット」
のび太は「自分の頭で考えろ」という教訓を忘れてしまったわけではない。しかし同時に彼は、四次元ポケットという風穴から吹き込んでくる超人的力の偉大さも忘れることができないのだ。「生より大きい」力の圧倒的な強度を一度でも経験してしまった者が人間の有限性によって規定されたたんなる「生」の力へと逆戻りすることなど、どうしたらできるというのか。できるわけがない。」
「「帝国」のダイナミクスグローバル化ダイナミクスを一度でも経験した者にとって、国家の主権を再び強化することなど、すなわち、国家に「自分の頭で考える」を回復させることなど、その選択肢にはもはや入っていないのだ。」
「漫画『ドラえもん』においてひとつのエピソードからまた別のエピソードへと、のび太が繰り返し挑み続けるのは、この文脈で言えば、生活の不安定化という「悪」をそっくりそのまま労働からの生活の解放という「善」に転化するという試みである。雇用の再正規化を反動的に叫び求めることでは断じてないのだ。」
藤子・F・不二雄シオラン悲観主義
プレカリオ(不安定)を昇華する
 
小津安二郎『お早よう』「テレビは一億総白痴化をもたらす」ピーテル・デ・ホーホ”フレーム内フレーム”
ジャック・ランシエールプロレタリアートの夜」「労働をやめて詩作に専念するのではなく、労働すると同時に詩を書き、思考するということ。「政治」とは複数の持続を同時に生きること、そのための身軽さを獲得することであって、ネットワークあるいは”生産ライン”から身を切り離すことではないのかもしれない。」
 
ジャック・タチ『プレイタイム』
ベンヤミンのパリ パサージュ 鉄(フレーム)とガラス
世界から疎外された「遊歩者」(ショーウインドウを見ながら歩くだけ)
「新たな現実をけっして否定しないこと、そこにポジティヴな力の萌芽を読み取ること――ここからしか真に「思考」の名に値する振る舞いは始まらない、どんな反動的振る舞いも思考とは関係がないということなのだ。」
 
加藤周一「言葉と戦車」 プラハの春
『日本文学史序説』
「60年代の加藤が「疎外」のなかに”another world”の創造の可能性を見出していたことは十分に知られていない。「私は疎外が徹底すればするほどよいと思う――彼はいかなるレトリックもなしに愚直にそう書き記していた(「藝術家と社会」)」
 
檜垣立哉 競馬ファン『賭博/偶然の哲学』
「賭けることそのものが生であるような賭け」
エリック・ロメール緑の光線
「賭けるが勝ち」「生は賭けとして生きられる限りで、いっさい負けを知らない。」
パスカル「賭けの必然性」論
 
山中貞雄 ジャン・ルノワール『河』
「革命とは歴史という名の機関車を急停車させることである。」マルクスの有名な警句を反転させたヴァルター・ベンヤミンの言葉。
ゴダール『こことよそ』フェダイーン(暗殺教団)
ダニエル・ユイレ、ジャン=マリー・ストローブ夫妻『シチリア!
エリオ・ヴィットリーニシチリアでの会話』 スペイン内戦
ベルルスコーニのイタリア 大きな光 小さな光(ホタル)
ジョン・バダムウォー・ゲーム
プラトン『国家』→分業 ランシエール「すべてのひとがすべてを語る」→『ボヴァリー夫人
イーストウッドインビクタス/負けざる者たち
サパティスタ 覆面「フィクションの力を信じること、フィクションの力に立脚して運動を展開すること」
マノエル・ド・オリヴェイラ『ブロンド少女は過激に美しく』フェルナンド・ペソアの詩 自然主義 理性のアポリア 啓蒙の弁証法
ペソアが革命に見出す「救済」は、革命的「知性」が社会に与えようとする新たな表象に存するのでは些かもなく、革命のただなかにあって革命的「知性」を逃れるもの、革命プロセスを貫く力の充溢、要するに”蜂起”にこそ存しているのである。」
アラン・バディウサルコジとは誰か?』フランス史を貫く2つの力
1815王政復古、第二次大戦中のヴィシー政権など、”ワールド・スタンダード”とみなされるものへの従属あるいは妥協「ペタン主義」
フランス革命、人民戦線、5月革命など、「マルクスの亡霊」「コミュニズムの理念」
「敵は資本主義と代議制民主主義とのカップルを唯一可能な社会のあり方だと喧伝し、その他のあり方を端的に不可能なものだと位置づけることで、「理念をもつことなく生きること」を我々に強いようとする。これに対し「真に生きること」としての「理念をもって生きること」とは、可能/不可能の敵によるこうした固定的な境界画定を根底から揺るがすこと、また、そうすることで見出される新たな可能性を歴史のただなかで具体的に実現していくことだ。」
「新たな可能性が示されるのは「出来事」(バディウ自身にとってはとりわけ”68年5月”)によってのこと(客観性)だが、その可能性の具体的な実現は我々一人ひとりがその実現プロセスにおのれの身を投じる「決意」をなすこと(主観性)によってしか始まらない。そうした「決意」の瞬間から、各人の行うどんなローカルな活動(たとえば商店街でのビラ配布)も直ちに、世界史全体における「仮説」の実現プロセスそのものを体現するものになるのだと。」
「年金改革をめぐるサルコジ政権/ストリートの対立は、したがってまた、理念をもつことなく生きるのか、それとも、理念をもって生きるのか、ということの直接的なぶつかり合いでもあるのだ。」
「「自由」をめぐる問題としてゴダールがexpressionではなくimpressionを強調するとき、そこでは少なくとも二つの異なる事柄が問われている。」
「第一に、引用・複製・コピーとその使用をめぐる問題、すなわち、所謂「知財」なるものの共有性をめぐる問題がある。英語同様、仏語でもimpressionには「印刷」の意がある。「印象の自由」は「印刷の自由」のことでもあるわけだ。「表現」については、誰しもが赤ちゃんのときからその自由を行使している。したがって真の問題は、他人の発するそうした様々な表現を自由に「印刷」し使うことであり、それを「正義」の振る舞いとして実践することなのだ。『Film Socialisme』の最後でゴダールが、米国製DVDなどに必ず付されているFBIによるコピーライトの警告表示画像をまさに「印刷」したかのような劣化した画質で引用しつつ、これに続けて「法に正義がないときは正義が法に先んじる」という一文を画面上に示すのは、以上のような意味でのことに他ならない。」
「インタネット上での「知財」の扱いをめぐってフランスで進められる法制化の動きに触れてゴダールは「著作者に権利などありません、あるのは義務だけです」と述べ、所謂「著作権」を認めない姿勢を改めて明確にしつつ、「印刷の自由」の実践的な行使を著作者=作家の「義務」として位置づけている。「法に先立つ正義」を実践することは作家の「義務」そのものだというわけだ。」
ヴェルナー・シュレーターフーコーの対話
「自分の存在そのものをひとつの芸術作品とする者たちと、自分が存在するなかで芸術作品を作っている者たちとのあいだに違いがあると私は思っていません。存在することはそれ自体で完璧かつ崇高なひとつの芸術作品になり得る。ギリシア人たhしにはよく知られていたこのことが、とりわけルネサンス以降、すっかり忘れられてしまったのです。」
「私は死を恐れていません。横柄に聞こえるかもしれませんが本当のことです。死を直視するときに引き起こされる感覚はアナキストのそれであり、既存の社会のあり方を脅かすものなのです。社会はテロルと恐怖をうまく利用しているわけですから。」
「死を恐れよ。この命令を発し続けることによってこそ、現代社会はおのれの秩序を維持しようとするのであり、また、人々に「存在そのものをひとつの芸術作品とする」ことを断念させようとする(たとえ「存在するなかで芸術作品を作る」ことは容認しても)」
原発「制御」「コントロール
原発は「コントロールしかできないもの(けっして解決できないもの)」
「要するに、制御という所作の連続性において原発プロセスに常態/例外の区別はなく、だからこそまた、事故は「予想できた」と言われるのであり、それどころかむしろ、通常の発電そのものがすでに事故だと言わねばならないのだ。原発事故が「起きている」のは3月11日からのことではない。」
被曝=得体のしれない解決できない問題を心身のただなかに恒常的に抱え込んでしまうこと
ジルベール・シモンドン「個」と「主体」 主体は個以上のもの(未分化の前個体的な側面)
6.11 反原発デモ 主体たちの蜂起
「歴史の時代」と「空間の時代」
ヘテロトピア=「現実の中に位置は占めているけど、あらゆる場所の外側にある異質な場所」船、墓地、バー、売春宿、刑務所、古代の庭園、見本市、イスラム教徒の浴場など
ヘテロトピアは「他なる時間」を作り出す。
「船もまたヘテロトピアに他なりません。船をもたない文明では、夢が朽ち果て、スパイ活動が冒険にとって代わり、警察が海賊たちにとって代わることになるのです。」
原発と蜂起
「準安定」「事物には、静止と運動 安定と不安定といった対比において把握される現勢的な現実とは別に、力やエネルギーから構成される潜勢的な現実がある。」
原発はどこまでいっても準安定、「制御」の状態。つまりストップはしない
使用済み核燃料でさえ、「制御」の状態
原子力発電自体が「事故」
「我々が事故のただなかで生きていたということ、我々の生きる現代社会が常態化した事故の飽くなき制御に基づいていた社会である」
「問題解決に立脚した統治形態から問題制御に立脚した統治形態への移行」
「「テロとの戦い」で目指されるのは、所与として存在する「テロリズム」の根絶すなわち解決などではまるきりなく、あくまでも「テロリズム」を問題として作り出し、それをその過剰な解決不可能性において維持すること、また、これによって、準安定から準安定への連続的な運動のもとに社会全体を包摂することである。」
「マウリツィオ・ラッザートはその刺激的な新著で同様の観点から、すなわち、問題=インセンティヴを人々に突きつけ続ける機構という観点から、ネオリベラリズムの主軸を「負債」に見出している。」
「突然のカタストロフによって日常性(労働、政治、芸術、国家、資本……)に裂け目がはしる」(『来るべき蜂起』翻訳委員会)
「裂け目」として日常を生きること=蜂起
革命の喜びは主としてそれが「起きた」ときに見出されるが、蜂起の喜びはそれが「起きている」ときに見出される。革命は喜びへのプロセスだが、蜂起はそれ自体で喜びのプロセスである。革命におけるすべての疲労は問題が解決されるときの喜びによって報われるが、蜂起においては問題を生き続けることによる疲労が喜びと一体化している。」
 
あとがき
週刊金曜日の連載
山村清二 本橋哲也 小林和子 白石嘉治 阿部晴政 佐藤公美
 
中断を挟み3/12読了