マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】篠原雅武『生きられたニュータウン -未来空間の哲学-』(青土社 2015年)

ニュータウンの空間は、透明で、平穏である。そして、この透明感、平穏には、どことなく紛い物めいた雰囲気がある。透明で平穏であるこの状態に現実感がない。現実感がないのは、そこで時間が停止しているように感じられてしまうからである。
村田沙耶香「しろいろの街の、その骨の体温の」
みずからをとりまく世界の停止。何かをしていてもそのことが本当に起きていることであると確信できないという身体感覚は、空間の停止状態と相関している。
ニュータウンは、他の世界との相互接触を欠いている。そもそもが、ニュータウンという区域は、それだけで完結した、自己充足的な世界と見立てられるところにおいて、成り立っている。
・人々のあいだに置かれたテーブルのように、公共空間は、「人間を関係づけると同時に引き離す」
・団地と団地、街区と街区、部屋と部屋のあいだに、様々な「人間を関係づけると同時に引き離す」境界的な空間を創出することが、問題の解決ということになる。
・そもそもニュータウンは、山林や丘陵の只中に穿たれた空白地を充たすことで成り立っている。集まりと出会いのための公共空間などはなかったところに成立している。そこには、古代ギリシアに由来する理念もなければ西洋的な都市の原理もない。空白地が、団地や芝生や公園や学校といった様々な要素空間で整然と充たされていく過程の帰結である。
坂部恵「<ふるまい>の詩学
本当に問題とすべきは、「ふれ」や「響き」というような、気配や雰囲気にかかわる言葉で言い表される何ものかなのだろう。それらは、人の心から独立している状態で実在している。それでも、気配や雰囲気は、事物そのものではない。ものならぬものとして実在している。
ティモシー・モートン「自然なきエコロジー
モートンの立場は、「環境」を、自然への回帰といったロマン主義的な傾向にとらわれることなしに思考しようとするものである。それをモートンは、雰囲気(ambience)としかいいようのないものとして捉えようとする。この立場は、世界を記号や言説で構築されたものと捉える文化論的な立場を批判し、乗り越えようとするものといえる。つまりモートンによれば、世界は、雰囲気、質感、動きに満ちたものである。環境を、質感という感覚的なところから考えていくというモートンの試みは、じつはきわめて現代的である。人文学の関心は、長らく言語の問題に向けられていたが、2000年あたりから、私たちが生きているこの世界のあり方へと向けられるようになっているからだ。
常山未央「不動前ハウス」シェアハウス
ニュータウンは、進歩と成長が信じられた時代に建設され、消費社会化が進む時代に拡張した。その間、核家族的な生活形式は表面上は維持され、幸せな家族像として信じられてきたのであったが、現在はどうだろうか。
ニュータウンは、無限の進歩と成長が可能であるという信念に対応する空間である。
無限の進歩、成長を信じることのできない状態にある人間が、こうした信念の産物である空間のなかでいまだに生きてしまっている。ここには、何らかの歪さがあり、無理がある。
本書は、ニュータウンのような空間のさらなる先を想像しようとする人たちのために書かれている。ニュータウンとは何だったかを見つめ直し、また、この空間において育まれた思考習慣、行動様式を見つめ直し、それらを、現代という転換点において克服する。未来の都市への想像力は、この内省と克服という鍛錬を要する。



 
第一章 生きられたニュータウン
現実感の希薄さ 
団地という"物化" 同質性 皆同じという思想
安部公房「燃えつきた地図」
機能的に区画化され、番号を付された世界
職住分離 (伝承、習俗、風土性)
環境世界の人間化。予期しえないものの除去、馴致
ニュータウンでは、個々の住宅内で営まれている私生活が、重視されている。基本機能が備わっていて利便性が保たれていても、人と人が出会う場や意思疎通を行なうといった私的ならざる公共的な生活のための場が乏しい。他人との関係もまた、予期しえないもの、手なづけえないものであるといえるが、それでも、他人との関係をも可能なかぎり手なづけ、予期可能なものにして制御するということが、ニュータウンでの生活形式を支えている。
モートンは、瞑想(meditation)が大切であると述べている。瞑想は、「私たちの概念的な硬直性を解きほぐし、絡まり合い(mesh)の開放性を探求していくこと」
 
第二章 ニュータウンと自然
黒川紀章ニュータウン 湘南ライフタウン
丹下健三「東京計画1960」
 
第三章 人工・超都市・集団性
その各々は、シリンダー錠で施錠され、自己完結している。複数の密室が、相互的な関連を欠いた状態で、集まっている。
私的ないしは排他的な空間の集合体であるニュータウンは、イメージと言葉と音楽が漂い交錯していく世界の錯綜性のなかに異物として投入されたと考えることができるだろう。
求められるのは、ニュータウンという異物性を、世界の錯綜性の側へと向けて崩し、分解することである。つまり、ニュータウンのなかで営まれている生活を世界の錯綜性へと開き、かつ、世界の錯綜性を、ニュータウンのなかへと招き入れていくことである。
 
第二部
第一章 人工都市の空間
都市を歩くとき、私たちは、その都市に特有の何かを感じとる。 テユ・コール「都市性(citiness)」
アレグザンダー「都市はツリーではない」
長い年月にわたり、ともかく自然にできあがった都市を「自然都市」、
またデザイナーやプランナーによって周到に計画された都市「人工都市」
人間生活は、各々が相互的関連を欠いた状態で団地の住宅のなかで個々別々に断片的に営まれているが、その外に広がる世界は存在しないかのようである。
片寄俊秀「実験都市」
千里ニュータウン、遊べない芝生
千里ニュータウンのマスタープラン作成にも関与した都市工学者、高山英華「敗戦によって、慌ただしく変動するわが国において、その壊滅し混乱した都市の復興を考えた場合、集団的住宅地の建設を通じて、新しい市民秩序を探し求めることは重要なことであろう。」
「たしかに、私たちの身の回りには、あまりにも多くの事物がある。食品、家電、書籍、CD、住居などに顕著だが、不要であるというだけでなく、心身に害悪を及ぼすとしか思えないものも増えている。」
1981年生まれ、トリスタン・ガルシア

第二章 空間の静謐/静謐の空間
写真家 アレックス・ウェブ
「私はときに状況のなかを歩きまわり、ときにうろつき、街路のリズムを把握していく。」
カフェ、いずれにせよ、人はそこで、思考し、議論し、考察を深め、理解していく。思考と理解は、空間を必要とする。
「人間のすべての<ふるまい>が、「せぬひま」、「静慮」、vita contemplativaへのひそかな、しかし何よりもたしかな根づきとつながりを失うとき、人間の<ふるまい>はおそらく、本来人間の<ふるまい>とは呼べないグロテスクな何ものかに変じてしまい、悠久の時このかた、ひとびとの暮らしをひそやかに支えつづけてきた<正気>は、それと気づかれることもないままに生活の舞台をそっと立ち去るであろう。」
テユ・コール NY在住、ナイジェリア人、小説家
「開かれた都市」 NY 仕事のあとの散歩、静けさは、音がない状態を意味しない。穏やかでいられる状態。
「開かれた都市」は、正気を失わないで生きていくことの条件を、静かに、そして着実に描き出そうとする。正気は、いかにして可能か。正気は、静けさを必要とする。
クリストファー・アレグザンダー
「パターン・ランゲージ」「時を超えた建築の道」
アレグザンダーは、空間には、名づけえぬ質があると述べている。
>>空間を味わう。なんとかBARの店内<<
「人間、街、建物、自然の命と精神の根本的な基準となる重要な質が存在する。」
「静謐な気分」
乾久美子 亀岡のみずのき美術館
 
第三部
第一章 巨大都市化と空間秩序
ゲオルク・ジンメル「大都市と精神生活」
「大都市は、社会的諸関係の合理化の過程を前提とする、一般的な形式である」
貨幣経済という、交換価値に基づくものが、日常生活を律するものとして確率されていくというのが、ジンメルのいう大都市化であった。
そこでは、「驚くべき出来事の可能性をあらかじめ除去する、合理的に計算された諸関係のシステム」が成立していく。
丹下健三メタボリズムに連なる建築家たち(黒川紀章、浅田孝、菊竹清訓など)「東京計画1960」「塔状都市」
第一次世界大戦後、全体論がブーム。
浅田孝と高山英華の対比
浅田「都市はすぐれて錯綜した社会的空間的なシステムである」
>>土地制度、土地所有制度の問題<<
複雑系理論の創始者の一人、アンリ・ポワンカレ「科学の価値」
 
第二章 崩壊のふるまい/ふるまいの崩壊
相互連関とふるまいの場
効用が第一の価値基準となった状態で生きること=正気を欠いた世界
車道、区画、面白さ、興味深さの排除
 
第三章 ニュータウンの果て
多木浩二「生きられる空間」
「どんな古く醜い家でも、人が住むかぎりは不思議な鼓動を失わないものである。変化しながら安定している。…住むことが日々すべてを現在のなかにならべかえるからである。」
レム・コールハース
「日本列島にスペースはもうない―日本はほとんどが山で、居住に適したわずかな土地は、何世紀もかけて細密な所有権のパッチワークにされている。」
メタボリズム運動の頂点が、大阪万博であった。万博会場は、千里ニュータウンと隣接していた。
「彩都」文化都市、研究学園都
コールハースは、現在の郊外都市を、ジェネリック・シティと呼んでいる。そこは、「ただひたすら今のニーズ、今の能力を映し出すのみである。それは歴史のない都市だ。大きいからみんなが住める。お手軽だ。メンテナンスも要らない。手狭になれば広がるだけ。古くなったら自らを壊して刷新する。どこもエキサイティングで退屈だ。」住むことが必要とされれば住宅が建てられ、受験勉強が必要とされれば学習塾が建てられる。老人が増えれば介護のための建物が建てられる。空白と、そこを充たす建物がある。必要とされれば空白は充たされるが、必要がなければ空白は放置される。また、不要とされた施設は壊され、空白になる。
ニュータウンにおいて、空白、空虚、あるいは荒廃として現実に生じている。だがそれも、空虚や荒廃といった言葉を与えられることで私たちははじめてそうだと気づき、考えるようになるといった類のもので、そのような言葉がないならば、私たちは、雰囲気として、気配として現実に生じているのにも拘らず、それに気づくことのないままやり過ごすことになりかねない。
そのためにも、ニュータウンという空間に漂う空虚としかいいようのない雰囲気について、論理的に考えておく必要がある。
 
第四部
第一章 都市の物語 箱、錯綜、混淆
人間生活は、子育て、研究、会話、散歩、料理、音楽、読書、メール、打ち合わせ、通勤通学といった無数の主体的活動で構成される。マヌエル・デランダの主張を踏まえていうならば、その各々が、精神とは独立の世界において、現実的な出来事として起こっているということになろう。ではいったい、このような出来事をいかにして捉えたらいいのか。精神とは独立の世界とはどのような世界であるか。本書では、こう主張したい。この出来事の現実性は、空間性のある世界において営まれているものとして考えることができる、と。つまり、各々の人間活動は、何らかの外的空間と特別に結びついている。私室、街路、公園、市場、ショッピングモールといった空間である。
ロバート・パーク「都市は、人間がつくりだした世界であるとしたら、そこは人間が今後も生きることを強いられるようになる世界である。かくして、都市をつくることで、間接的に、そして自分がしていることの性質をはっきりと自覚することもなく、人間は己自身を作りなおしている。」
フェリックス・ガタリ「三つのエコロジー
「親族のつながりは最小限に切りちぢめられる傾向にあり、また家庭内の生活はマスメディアの消費のためにむしばまれている。夫婦生活や家庭生活は往々にして一種の行動の画一化によって「形骸化」しているし、隣近所とのつきあいも一般にこのうえなく貧しい表現しかとりえないようになっている。」
安部公房「都市の国家に対する自立性の回復」
能作淳平「ハウス・イン・ニュータウン
「縁」(へり)。山本理顕の閾
能作の考えでは、ニュータウンには人が交流するのにふさわしい空間がない。そのために、戸建て住宅の中に生きている人たちは外の世界から切断されてしまう。孤立状態は、子育てなど、さまざまな人の助けを借り受けなくては困難な営みにとって、望ましいことではない。
 
第二章 静かな都市
空間の気配や雰囲気
空間は作り出すもの。
生きられたニュータウン=古くなる。
ラース・フォン・トリアー 2003「ドッグヴィル
ニュータウン=空間の秩序化
tofubeat「水星」 神戸 ニュータウン
中島晴矢
ニュータウンは私の地元であり、この街の小奇麗な秩序に対して、両義的な思いがある。」
日 直彦
ニュータウンが建設された60年代後半は、国民のあいだに私生活主義が蔓延していく時代でもあった。ニュータウンは、「政治への不信から私的領域を自力で充実させて行こうとする生活防衛」の気風に適合的であった。なお、藤田省三の高度経済成長批判は、私生活主義への批判であったといえるだろう。私生活主義を批判し、公的世界の復権を主張するというのがその骨子である。

【読書メモ】篠原雅武『全―生活論: 転形期の公共空間』(以文社 2012年)

目次
序章 生活の失調(生活への問い/ 本書の概要)
第1章 公共性と生活(公共領域の衰退が問題なのか/ 監視と放置/ 「開かれた公共性」の陥穽/ 抽象化と停滞/ アソシエーションと公共性/ 分子的領域の失調)
第2章 装置と例外空間(刺激と無関心/ 無関心装置/ 装置と生活様式の変貌/ 装置の非対称的な配備/ 例外空間)
第3章 誰にも出会えない体制(養育の場の失調/ 生産性の論理と子殺し/ 子どもコレクティブという実験/ 生産性の論理からの解放/ 誰にも会えない体制、抑圧/被抑圧の関係性/ 痛みと出会い)
第4章 開発と棄民(植民地主義という関係形式/ 高度経済成長と生活破壊/ 「暗闇の思想」の現代的意義/ 資本への対抗か、反植民地主義か/ 棄民化)
第5章 生活世界の蘇生のために(失調と事故/ 権利をもつ権利/ 消費主義からの覚醒/ 精神の私有化と破局的状況の深刻化/ 廃墟に埋もれた未発の未来/ 生活を織り成す/ 解きほぐすこと)
 
生活=心的とも物的ともつかぬ組織体
高度経済成長 1972 田中美津
「人間の意識を管理していく要領は、人びとに己れは光の中にいる人間だと思い込ませて、闇に目を向けさせないことだ。「痛み」を「痛い」と感じさせないことだ……「痛み」を「痛い」と感じない人は痛くない人ではなく、それをあくまで光の中にいると思い込みたい人なのだ。「痛み」を痛いと感じないように呪文をかけ続けている人だ」
「痛み」を「痛い」と感じさせない体制。
生活を問い直すことの起点となるのは、痛みからの思考である。この世に生きていることの痛みは、生活という組織体の綻び、解体から、生じるものであるからだ。綻び、壊れつつある生活を作り直し、痛みの生じることのないものへと仕立て直さないかぎり、痛みはけっして軽減されず、むしろ、いっそう深刻になる。
感覚を麻痺させるこの体制
 
序章 生活の失調
アンリ・ルフェーブルの日常生活批判
藤田省三の高度経済成長批判
奥田英朗「無理」東北の衰退していく地方都市が舞台
衰退商店街
 
第一章 公共性と生活
公共性=国家から自立した市民的な領域
さまざまな人びとが集まるところに形成される共通世界、複数の人びとをつなぎ、関わらせる、間としての公共領域
藤田省三 私的安楽主義 1985「「安楽」への全体主義
消費主義 私的なものの肥大化
私的領域/公的領域 両方が荒廃している。
監視社会化
個々人が「観測・分類・統計処理の可能な確率的存在へと還元されている」
ジョルジョ・アガンベン「装置について」
「生きものたちの身振り・操行・臆見・言説を補足・指導・規定・遮断・鋳造・制御・安全化する能力をもつすべてのもの」
「今日では、個人の生において、何らかの装置の鋳造・汚染・制御も受けていないような瞬間はない」
アーレント「暗い時代の人々」、ハイデガーの「存在と時間」に依拠して、
「人間存在についてかれの描くところによれば、現実的もしくは真正なものはすべて公的領域から抗しがたく生ずる「空話」の圧倒的な力によってうちのめされ、こうした「空話」が日常的存在のあらゆる局面を支配し、未来がもたらすあらゆる事物の意味あるいは無意味を予期したり、拒否したりしているのである」
2006年 秋田県藤里町
二幼児殺害事件
金子郁容 1992 「ボランティア」
金子はボランティア活動を巨大システム下での結びつきの間接性、抽象性、閉塞状況を打開していく潜在力を秘めたものとして評価する。
市民からは、伝統や権威に対する批判的対峙の姿勢が失われ、「予定調和的に行政や企業と協働するものとあらかじめ位置づけられてしまっている」
「現状とは別様なあり方を求めて行動しようとする諸個人を捉えて、その行動を現状の社会システムに適合的なように水路づける方策」
朝倉喬司 神戸連続殺傷事件
神戸のニュータウンで育った少年にとって、世界は一般化され抽象化されたものとして存在している。そこに暮らしている人間も同じく、一般化され抽象化されたものとして、生きている。そこでの生活も、一般化され抽象化された、具体性を欠落させたものとして、生きられることになる。
・朝倉はこの殺傷事件を、少年が生きていた状況の具体性のなさを露呈させたものとして捉える。そしてそれは、じつは私たちが生きていた、「「人間」にまつわる経験の逆転」という状況を露呈させただけではなかったか。
・私たちは、抽象化=具体性の欠如が徹底化されて行き着くところまで行き着いてしまっただけでなく、それにともない、その先が展望できなくなってしまった状況を生きるようになっている。
柄谷行人「日本人はほとんど政治的意見や思想的意見をもたない。ただ、話題がインテリアとかファッションのような「「家」の内部の生活をより豊富にし得ること」になると、異様なほどに洗練を示し、且つ雄弁になる。」
ドゥルーズ=ガタリガブリエル・タルドの議論に依拠して)
集団表象と分子的領域にかんする区別。
集団表象=社会、国家、共同体など
分子的領域=新年と欲望(情動的なもの)
分子的領域の開放が課題。集団表象の問題とは別次元。
 
第二章 装置と例外空間
・情報という名の雑音。情報統制というよりはむしろい情報過多。過剰な刺激、雑音が撒き散らされていくさなか、感覚は麻痺し、本当のところいったい何が起こっているのかわからなくなる。
・このような、過剰な刺激、雑音による感覚の麻痺がいったいどういうことであるのかは、ショッピングモールにいけばよくわかる。多数多様な刺激にみちた閉鎖空間は、現実世界の動向から逃れ、何も起こらない世界を生きているのだという幻想を醸成し、人々の感覚を麻痺させていく空間の典型であるといえるだろう。
J・G・バラードの小説「千年紀の民」が提示する世界観によれば、ショッピングモールに具現化された空間の論理は、いまや惑星のいたるところに、有無をいわせずひろまりつつある。惑星の総体が、潜在的にはショッピングモール的なものになりつつある。多くの人が知らぬ間に、ショッピングモール的な空間を成り立たせている論理とでもいうべきものにしたがって生活するようになっている。
・「大量虐殺戦争、世界の半数が貧窮で、残る半数は脳死状態で夢遊病者のように彷徨っている。われわれはそのくだらない夢を購入してしまい、いまでは目覚めることができない。」(1996「コカインナイト」)
・バラードは、この状態を、脳死状態、夢遊病者の状態だという。無関心、無感覚、現実世界の衰微としかいいようのない状態が人びとのあいだに蔓延しているということだ。無関心、無感覚は、雑音的な余計な刺激が過度に撒き散らされている状況下で、半ば条件反射的につくりだされているのではないか?
・無関心の蔓延
・「原子力都市」矢部史郎柏崎市そのものに漂う無関心。柏崎市に対する東京の無関心。
・この無関心は、近代人の酷薄さ、公共的徳の劣化といったことだけでは、説明がつかない。矢部は、この無関心が、メディアによる嘘と秘密の全域的・恒常的な利用によって維持されているという。「嘘と秘密の大規模な利用は、人間と世界との関係そのものに作用し、感受性の衰退=無関心を蔓延させる。」
・鈍感になるように働きかける空間。
・私たちの生活様式そのものが、無関心と無感覚の論理に浸潤されつつある。
・ティクーン(Tiquun)ウェブサイト「装置」
この論考によれば、現代人はまず、世の出来事に無関心になっている。世界に対し疎遠な状態、世界が欠如した(world-poor)状態にある。
・車社会
・装置の論理に忠実にならねば生きていけない状態において普通に生きていこうとするなら、それをかき乱す出来事には鈍感にならざるをえない。むしろ、それに鈍感になるほうが、生きていくうえでは楽なのだ。
・装置が維持する円滑性、安定性はじつのところは作為的に創出された人工物である。
アガンベン「現代の装置の特質は、主体化プロセスを欠いていること、脱主体化しか起こらないこと。」
・「膨大な脱主体化プロセスによって貫かれた、惰性だけで動く生気のない身体たちの群れ」
・高度成長 大量生産 大量消費 人間の経験のあり方が、根本的に変容していく。
・洗濯機一つとってもそうである。桶に水をはり、洗濯機をいれ、洗濯板でゴシゴシ荒い、すすいで絞って干すという一連の動作が、自動洗濯機の導入によって省かれる。水に手を浸すことによる「冷たい」という感覚が、石けんによる手荒れが、ゴシゴシすることによる疲労が、すべて除去される。藤田はこれを「不快の素の一切をますます一掃しようとする「安楽への隷属」精神が生活を貫く」過程と把握する。そこでは、物との相互交渉、驚きにみちた対面といった可能性が、回避され、除去され、排除されていく。
・利便性の追求と不快の除去
モブ・ノリオ「ダンスクラブ摘発を考える」
装置化=都市空間の浄化
貴重な集いの場であるクラブ空間の消滅
ジョン・バージャー 2011 ロンドン暴動
「8月8日、子どもたちは暴動をおこした。なぜならば、彼らには未来もなく、言葉もなく、行くべきところもなかったからだ」。彼らは、消費主義に絡めとられた都市空間では不可視であり、存在しえないものとして扱われている。
・単一の流動的な市場へと呑み込まれていく都市空間は、消費のための区域と化した。そこで消費者は
「消費しないかぎり、茫然自失していると感じるか、もしくはそう感じるようにさせられる」。消費することではじめて、自分が何をしているか、どこにいるかを実感できるようになる、というわけだ。
・暴動を起こした若者たちは、この消費者の茫然自失状態において、完全に無視されている。知覚されない状態にあるものへと追いやられている。
・装置に絡めとらえぬものがある。だが装置は、これを執拗に絡めとろうとする。痛みが、辛さが、現れないようにする。感覚させないようにする。それでも、痛みは打ち消しえないものとして、執拗に残存する。
・(ショッピングセンター)この空間は、その外部を寂れさせていく。装置化が及ぶ範囲は、自足した空間内部に限定されるが、この限定は、その外を寂れさせるということと裏腹の関係にある。
富田克也、相澤虎之助 2007「国道20号線」。甲府の国道沿いでは、90年台後半に、風景が変わった。まずはドンキホーテができ、さらに消費者金融のATMが、イオンといったショッピング施設ができた。つまり、どこにでもある均質的な風景へと変貌した。だが、富田と相澤が着目したのは、風景の均質性ではない。むしろこの均質性の隙間に現れた「やばいもの」である。
・パチンコ店と道路を渡った向かいの駐車場のなかに併設された消費者金融
・齋藤純一「近さ」「親密さ」
・西川長夫「植民地なき植民地主義」。グローバリゼーションは、第二の植民地主義。「植民地は世界の到る所に、旧宗主国や覇権国の内部においても形成されうるからである。新しい植民地の境界を示しているのは、もはや領土や国境ではなく、政治的経済的な構造の中での位置である」
・これに対し現代においては、植民地主義的状況が、植民地的関係性が明示されないやりかたで、グローバリゼーションというイデオロギーのもと、世界のいたるところに形成されつつある。
「「われ買う、ゆえにわれあり」という信条と所有的個人主義とが一体となって、表面上は刺激的だが、奥底では空虚な、偽りの満足の世界」デヴィッド・ハーヴェイ新自由主義
 
第三章 誰にも出会えない体制
・養育という相互性の回復は、弱さ、依存ということの意味の問い直しを不可欠とするが、これは合理性、効率性を第一義とする管理機構に侵蝕される社会とは別の社会をつくりだす原点となりうる。
・海と出会う話
田中美津「いのちの女たちへ」。「<結婚こそ女の幸せ><子供こそ女の生きがい>という耳ざわりのいい言葉がさしのべられれば、女という女のほとんどが、メスとして生きる道に、活路を見出そうとするのは<女の意識性の低さ>故の問題では決してあるまい。」
・生産性の論理のもとでは、男も女も、痛みを痛いと感じることができないようにさせられている。たとえ痛みが生じていても、それを痛いこととして感じさせない装置が、いたるところに配備されている。痛みから目を背けさせ、鈍感にさせる、無関心にさせる、そういう装置が配備されている。
・それが田中のいうコレクティブ(集合体)である。つまり、「出会えない体制の中で、最大限の出会いを追求していく場」
・子供コレクティブ=「母子一体化幻想」を破壊するための実践(実験)。
・「だが、まちがえないでほしい。子供と「共に」生きるんじゃない。子供と共に「生きる」んだ。」
・女同士、背を向け合って生きている不毛から抜け出したい。日常の暮らしでいかに自分たちが背を向け合っているか、分断されているか、出会えないかを、痛感しつつ共に生きる。そこで、いかなる共同体が可能であるかを共に問う。
→共同保育所
・生活の失調は、制度や構造の不調というのでは捉えられない。それゆえに、この失調は、普段は知覚しがたいところで進行している。虐待や殺害などというようにして何かが起こってしまうことでしか、顕在化しない。
・日常生活に課された分断と敵対の体制、これが人間的なものを脅かしていると、田中は直感的に把握していた。それは、人間性が生産性の論理へと絡めとられ、馴致されていくことである。男らしさの論理は、人間を、労働力商品へと仕立て上げ、そこでとり乱さずに生きていくよう、自己凝固を強いる。それに対し、女らしさの論理は、女を子産み機械に仕立て上げていく。家事育児に、女を縛り付け、それに満足することを強いる。

第四章 開発と棄民
西川「いまでは植民地主義が「継続」していることを指摘するだけでは足りないだろう。それは形を変え、より強力に、したがっていっそう危機的な形で世界を支配しているのだから、そして危機的な形で世界を支配しているのだから。そして危機的な状況において真実が姿を現わすという真理はここでも正しいのではないだろうか。私たちはここまで来て、植民地領有は植民地主義の特定の段階を示すものであって、植民地主義は必ずしも領土としての植民地を必要としないのでは、という一見不条理な、だがおそらくはきわめて本質的な問いに直面せざるをえない。」
・次第に洗練されてきた支配の関係形式が、全世界を覆い、日常生活のいたるところに浸透し、人間の生活形式を徹底的に変えていく。
エメ・セゼールが「植民地主義論」で提起した、植民地化=物象化という方程式は、けっして過去のことではない。それは現在、私たちが日々経験していることである。セゼールがいうには、植民地化する者と植民地化される者のあいだには、「いかなる人間的接触もなく、あるのは支配と屈従の関係であり、その関係は植民地化する側の人間を一兵卒、曹長、看守、鞭に変え、原住民側の人間を生産のための道具に変える」。さらに、この支配と屈従の関係におかれた被抑圧者である原住民の側では、社会が形骸化し、文化が踏みにじられ、土地が奪われ、宗教が蹂躙され、芸術が壊滅させられていく。抑圧された人間が生産道具へと変えられ、生活世界が破壊される。
甲田寿彦 産業公害について、「煉獄のような産業公害がなぜ私たちを脅かすのか。脅かす人間と脅かされる人間がどうしてつくられたのか。脅かされている人間の忍従と犠牲によって、脅かす人間の経済繁栄が保証されて来たことに、やがて私たちは中央と地方の同心円的な関係を見出すであろう。」
・開発も、一種の植民地化である。植民地なき植民地主義の典型であるといっていい。国家総体なるものが、地方に対し、忍従と犠牲を強いる。国家は経済成長し、豊かになっていくかもしれぬが、その豊かさは、地方における生活破壊を必然的に引き起こしていく。そこでは、植民地主義的な関係形式が強制されているのだ。
・高度成長期から70年代にかけて、日本列島各地では、ニュータウンが建設された、均質的で人工的な虚構のような街なみである。だが、このニュータウンが建設され、地方出身者をはじめとする若い夫婦が住まい、子供を育てて暮らし始めたまさにそのとき、農村や漁村では、大規模な開発による生活破壊が進行していた。その破壊は、そこに暮らしている人々の心身を、蝕んでいくものだった。
ニュータウンの拡張にともなう列島の虚構化、消費社会化がすすむ裏では、あまりにも惨い破壊が、着々と進んでいた。それは、ニュータウンに普通に暮らしているかぎり、なかなかみえてこないし、感覚されることのない現実であった、ニュータウン的なものの成立と農漁村の開発=破壊は、抑圧/被抑圧の関係にあったといえるだろう。開発による破壊の痛みは、ニュータウンでは感覚できない。それは、開発がまさに行なわれている現地でしか、感覚できない(だが現地でも、補償金のせいで感覚できなくさせられるのだが)。
ニュータウンの人工性、虚構性 → 若林幹夫「郊外の社会学
豆腐屋 松下竜一 暗闇の思想 配達の途中 河口の橋を渡るとき、橋上から、周防灘の沖に向かって開かれた風景を眺めていた。色んな種類の鳥の風景。
稲葉振一郎 動物化
宮本常一「<島>をめぐる方法の苦闘」
柄谷行人 資本主義の対抗運動は 生産しない(働かない)ことと、消費しないこと
ネオリベラリズムと表裏一体のナショナリズム。「われわれ」意識を経済的な豊かさで下支えすることが困難になりつつある。
「われわ日本国民」まず、同化(暴力)の限りを尽くし強制的に日本国内に居住させた236万人余の朝鮮人を、異族の民として分離する。さらに天皇をはじめとする上層の日帝本国人を守る為に、島民の四分の一の命を奪った沖縄、そこに生存した沖縄人民をあっさりと棄民する。こちらは米国への天皇からの貢ぎ物であり沖縄の二次使用であった。
・自分も「国の発展」に貢献し、その担い手として、国民として包含されているという自負が、開発のために自分たちの生活世界の推力が失われるという現実を見えなくさせる。この乖離、矛盾が、日本国民という幻想に絡めとられた意識において、隠蔽されてしまう。
・松下「豊穣なる本物を喪い、その薄っぺらな代替物が氾濫しているにもかかわらず、それと馴れゆき、逆に本物には耐え切れぬほどに精神は衰弱し始めている」。
これにともない、それは棄民されうる被支配者だという自覚も、希薄になっていく。国民へと包含され、絡めとられていく過程で、こうした自覚は否認されてしまう。
田中美津松下竜一は、70年代前半という、やはり経済成長の負の問題が激しく問われた時期に、別の生き方を模索した先駆者であったといえるだろう。二人ともに、痛みを痛いこととして感知しようとするところから、思考し、行動した。棄民であること、被支配者であること、であるがゆえに民衆であること、こうした自覚がその核心にあった。
 
第五章 生活世界の蘇生のために
アリストテレス「事故[=偶有性]は実体を露にする」
ポール・ヴィリリオ「「実体」の発明は「事故」の発明でもある」
原発事故 殺人事件
・覚醒とは、眠り込んでいる状態からの目覚めを意味するのだろうが、ではいったい、私たちはどのような微睡みの状態を、これまで生きてきたのだろうか。さしあたり、それは消費主義だったと、考えることができるのではないか。日本の消費主義、それは資本主義的な経済システムの転換(生産から消費主導の経済発展への転換)だったというだけでなく、「シラケ」ること、シニシズムの蔓延である。
マサオ・ミヨシ「オフ・センター」
「体系的に脱歴史化された日本の集団的非個人は、西洋もそれ以外も含めて全世界の国民や国家を、自己を空虚にし、理想もなく、目的も喪失した生産と消費、そして白日夢のディストピアへと導きつつあるように思える」
シニシズムとは、消費主義により創出されたこの空虚、没理想状態を基礎とする精神状態である。シニシズムはけっして価値中立的ではないし、醒めた現実認識でもない。シニシズムは、消費資本主義というシステムが絶対に揺らぐことのないものだという信念に根ざす、一種のイデオロギーである。
・消費主義の蔓延のもとで、いったい何が忘却されたか。何が隠蔽されているのか。まずなによりも、それは、抵抗の(あるいは覚醒の)記憶である。
市場原理主義の元、教育や保育をはじめとする公的なものの私有化/商品化、労働力のいっそうの商品化、土地の商品化。
>>これを逆戻りさせるべき<<
進歩史観的な消費論=消費者欲求の絶え間なき変化は進歩であり、基本的には肯定すべきである。ここに兆しつつある「時代の感性」を信じなくてはならない、という言説の支配、コントロールフーコー案件。
・「経済成長は行なわれよ、たとえ世界は滅びようとも」というわけだ。破局的状況のありうべき帰結を想像させないようにする装置は、今後もますます配備されるし、さらなる進歩を遂げるかもしれない。3.11のショックの凄まじさは、想像力の目覚めのきっかけとなったが、それとは真逆の、なおも微睡ませようとする思想的傾向性が、いっそう強化されるはずだ。
3.11は、進歩という強風のもとで進行していた廃墟化の実相を、あらためて突きつけた。
これが破局的事態であるというのは、ただ単に原発の危険性に異議申し立てするだけでは十分でない、ということだ。この消費社会化という進歩主義により絡めとられ、微睡まされ、貧困化しつつあった想像力を、目覚めさせる好機とすべきである。
・藤田「戦後、国家の崩壊が持つ明るさ。欠乏が却って空想のリアリティを促進し、混沌が逆にコスモス(秩序)の想像力を内に含んでいた。」
・人を「出会わせ」、生活を再活性化する。その回路、場の創出こそが、切に求められている。
伊藤計劃「ハーモニー」<父性>と<母性>
・惑星に依拠した全体性(planet-based totality)
 
あとがき
岡崎京子リバーズ・エッジ」 あたし達は 何かをかくすために お喋りをしてた
何かとは何か
 
8/23読了
 
山形浩生の批判。

【読書メモ】竹田青嗣『現代思想の冒険』(ちくま学芸文庫 1992年)

現実認識の方法(エスノメソドロジー
十人十色の<世界像>=「世界観」
欲望が社会に「規定」されている
アーサー・ミラーセールスマンの死」資本主義的能力に人間の価値像
☆ 思想は、人間が自分のうちに抱え込んでいる一般的な<世界像>に対する違和の意識から発し、この<世界像>や価値観に対する意識的な抗いの行為である。
彼は、自分の中で、社会に重く蓄積されたこの<世界像>を編み変えようとすることを通じて、自分自身の生き難さを支える。
だからわたしたちは、優れた思想のうちに、必ず、ひとりの人間が、与えられた生の条件の中を、どのように生きようとしたかという、個人の生の痕跡をも見るのである。
☆☆☆ しかし、わたしの考えでは,どんな複雑なニュアンスを持った思想も、それがそれまでの<世界像>に対する、編み変えの作業にすぎないという側面では必ずもっともシンプルなかたちに翻案することができる。思想を要約したり翻案したりすることには、その思想家の独特なニュアンスを殺す危険があるということも本当だが、しかしどんな複雑難解な思想も、それがひとりひとりの読み手によって受け取られるときには、必ずその読み手の中で、一体今までの<世界像>のどこが編み変えられたかという要点が、いちばんシンプルな形に置き直されて受け取られているのである。
・おそらくこの抑圧感は、戦後の民主主義教育によって与えられた自由な個人の理念と、現実社会が結び上げていく経済社会の秩序との間の大きなズレに由来している。
マルクス主義の「実験」
マルクス主義の失敗 社会主義国の現実 連合赤軍事件 高度経済成長1億総中流
階級→能力 抑圧感の所在の変化
マルクス主義はこの現にある社会を超えた彼岸のユートピア社会を、人間の理性の力によって現実化しようとする未曾有の実験だった。
・美しいもの豊かなものへの欲望の源泉を、これら絶えず差異化され洗練されてゆく高度社会のイメージの群から汲んでいる。
・じっさい、テレビやメディアがもたらす、さまざまな豊かで美しいエロス的イメージにわたしたちは包囲されており、ひとびとの欲望は、そのエロスイメージに吊り上げられる。そして生活上の現実的な抑圧感は、直接的な衣食住への欲求から離れて、自分の現実がいつもその先端的なエロスイメージから大きく乖離しているというところからやってきているからである。
マルクス主義 ―ポスト・マルクス主義 ―ポスト・モダニズムに分岐
形而上学(←→唯物論)>を批判、解体
 
デカルト―カント―ヘーゲルマルクス 主流
ソシュール言語学
シニフィアン(記号表現)―シニフィエ(記号内容)
②ラング(言語規則)―パロール(個々の発語)
③共時態(その時、その空間)―通時態(歴史的)
・言葉というものは、すでに客観的に存在する事物の秩序に、わたしたちが記号によって名前をつけていったものではなく、むしろ、事物の秩序とは、人間が言葉によって編み上げたものにほかならない。
・それだけでなく、この見方は、ヨーロッパの哲学や認識論を通底していた「実在論」の発送を打ち砕き、「関係論」というパラダイムを導き入れる重要な転回点になった。
・詩など、パロールがラングの体系を乗り越える。
「言葉」という、いい加減なものに思考が、認識が、規定されている。
構造主義
フッサール現象学 ―メルロ=ポンティ ―J・P・サルトル
サルトル →マルクス主義が欠いていた人間学を補充。
レヴィ=ストロース 人間の共同的な無意識の構造。
結婚というリベラル。
マルクス主義「あらゆる歴史は階級対立の歴史」
レヴィ=ストロース 人間の無意識が作り上げている構造
ドゥルーズ=ガタリ「欲望史観」
ラカン想像界象徴界」 
構造主義はこのように、社会や人間のありようを、目に見える制度のメカニズムの説明としてではなく、むしろその背後に隠されている、より普遍的な「構造」として捉えようとするモチーフを持っていたのである。
構造主義ヘーゲルマルクス主義現象学との対比で考えてみると、それが、人間の理性の<意識>的な働きから重点をズラして、理性や意識の背後に拡がりそれを規定している「構造」へと、認識の焦点を移したことがわかる。
マルクス主義思想の倫理主義的発想(ひとりひとりの人間が、社会の変革に責任を持つべきだという発想―これがスターリニズムや党派教条主義の根になったと見なされた)を相対化しようとするモチーフが横たわっている。
・<意識>された人間の動機と、社会制度の間に、無意識の「構造」という中間項をはさみこむ。
 
3.記号論 ―ロラン・バルトの「神話作用」
言語 ―社会のうちの一切の意味作用を担うもの。
デノテーションコノテーション
例えば「エキゾチック・ジャパン」 明示的な意味(デノテーション) 言外の意味(コノテーション
報道される事件、社会的イベント、ファッションや音楽のモードの流れ、演劇、祝祭…
一切が記号。社会の意味的作用の体系
カルチュラル・スタディーズ
高度消費社会の「神話的」抑圧構造を告発
 
4.現代思想のもうひとつの源流―ニーチェと反形而上学
ポスト構造主義 反=人間中心主義、反=西欧中心主義、反=理性中心主義
ニーチェ 近代哲学(=近代形而上学)の基本の考えに対する徹底的なアンチテーゼ
近代形而上学とは、キリスト教から続く、デカルトの<意識>(主体)主義、カントの道徳思想、ヘーゲルの歴史哲学、ルソー以後の民主主義、そして社会主義思想
ニーチェは、これら西欧の形而上学の思想全体を「ヨーロッパの理想」として一括。じつはその土台にニヒリスティックな性格(生への否定)を本質的に持っている、という大変興味深い批判。
ニーチェの基本的な考え方
1.キリスト教や道徳思想の起源は何か(=系譜学)。これらの起源は、支配された人間、弱者が、現実のみじめさを心理的に打ち消そうとして作り出した「禁欲主義的理想」である。そしてその本質は、弱者のルサンチマン(恨み、反感)にほかならない。この本質は、「禁欲主義的理想」に、人間の、生を肯定し、享受する力を否認させるような性格を与えている。
2.これらルサンチマンから発生した思想は、現実の世界を誤った、仮象の世界と見なし、その背後に<真の>世界があると考える。近代哲学における世界の「客観的認識」「普遍的認識」への志向は、そういった発想から現われ出たものだ。だがじつは、「客観的認識」や「普遍的認識」というものはあり得ない。どんな観点も、客観的ではあり得ず、一切は特定の視点から見出された「解釈」にすぎない。
3.<真の>世界を見出そうとする認識の働きは、やがてその極限で、<真理>や<客観>など決して存在しないことを見出すに至る。このことが、ヨーロッパの理想に、必然的にニヒリズムをもたらす。ニヒリズムとは、もはや人間や社会の存在に意味や価値を与える超越的な存在はどこにもないという確信である。
4.重要なのは、ニヒリズムを隠蔽するために何らかの価値の根拠を取り戻そうとすることではなく、むしろニヒリズムを徹底的にその最後まで貫き通すことである。そのときはじめて、<真>の世界を見出そうとする近代哲学の発想とは全く違ったかたちで、ニヒリズムを克服し得る道すじがはじめて現われる。
5.その道は、何らかの隠されていた価値を発見することではなく、むしろ人間にとっての新しい価値の秩序を創り出すことでなくてはならない。この価値の指標をなすのは次のことである。生の力を否認するルサンチマンから現われた価値(否定的、反動的な)の代りに、生を享受し肯定する、能動的、肯定的な力をどこまでも高揚させてゆくような、そういう価値基準であること。ニーチェはこれを「逆の価値定率」と呼ぶ。
 
5.ポスト構造主義の思想―<脱=構築>へ
フーコー ヨーロッパにおける、「歴史」「社会」「人間」といったパラダイムが、基本的に、権力=知による特権的な作業によって成立した。
ジャック・デリダ「脱=構築」
デリダフッサール現象学批判
現象を言い当てようとするとき、人間は必ず言葉を用いねばならず、言葉はもとの「ありのまま」から必ず隔たったものとなる。さらにこの「ありのまま」も、実はすでに言葉(記号)によって編まれているものではないだろうか?
<起源/再現>という問題に孕まれるパラドックス
「話すこと」「書くこと」の間に本質的な断絶を見出す。
パロールエクリチュール
デリダ 「超越論的な<意味されるもの>の不在は戯れと呼ぶことができようが、この不在は戯れの無際限化であって、つまり存在論=神学と形而上学との動揺である。」『グラマトロジーについて』
形而上学=ontology 
いったい、<現実>とは、そもそも言葉によって言い尽くすことができるのか?
 
6."認識批判"のもたらした難問−<世界像>それ自身への懐疑
数学の公理体系はその中だけではどんな基礎づけも持ち得ない ゲーデル「不完全性の定理」
柄谷はこのポストモダン状況の"浅薄さ"を批判
☆わたしの見るところでは、テクスト論の要諦は、言葉の本質は「世界を映しとる」という機能にあるのではなく、むしろ"言葉の世界"を編むことによってそこにエロス性を創り上げることにある。
 
7. ふたつの現代社会認識―ボードリヤール「象徴交換と死」とドゥルーズ「アンチ・オイディプス
ボードリヤールによるマルクス経済学への批判
全てが記号的円環の中のシミュラークル
高度消費社会における欲望=消費の記号性、自己増殖性
人間はシステムの内側の記号的存在
ドゥルーズガタリ 彼らはまず、社会の総体を、社会的生産のための自動的な"機械"と見なし、これを「社会機械」と
名付ける。そしてこの「社会機械」を動かす根本の動因を、人間の「欲望」であるとする。ドゥルーズではこの「欲望」が一切を動かす源泉と見なされる。
ニーチェの「力への意志」、
ラカンの「欲望」→人間の「欲望」は、本来的には無方向に錯乱してゆこうとするエネルギーとして存在するが、人間は社会の中でそれを一定の秩序(象徴秩序)へと閉じ込める。
錯乱し、 無方向的に伸び拡がろうとする「欲望」の本来的な力のありようを、彼らは「分子的多様性」と呼び、それが一定の枠組みの中にはめ込まれた状態を「モル的集合」と呼ぶ。
そして「欲望」が社会的生産(社会機械)を実現してゆく「モル的集合」を「欲望する生産」と名づける。
欲望ー「欲望する生産」を実現する社会機械の回路を形成する。ー錯乱する多様性へ逃れ出ようとする。
ドゥルーズ=ガタリの「社会機械論」
1. 古代国家ーコードの社会
2.専制主義国家ー超コードの社会
3.資本主義国家ー脱コードの社会
「欲望」がコード化される(一定の流れの決まりが作られる)
近親相姦の禁止
軍事的征服者、帝国
一切の剰余価値がまず「帝国」に帰属し、次に臣民に贈与されるというかたちをとる。こうして、臣民は「帝国」それ自身に永遠の負債を負うことになる。
ところで、これらの社会体制を通じて、「欲望」はつねに一面でコードの流れから脱け出そうとする契機を持っている。
この「欲望」の「脱コード化」の本性は、やがて〈貨幣ー資本〉の動きを通じて顕在化してくる。
だから資本主義機械は、「欲望」の新しいコード化の一形態であるというより、むしろ「欲望」の脱コード化的本性がある意味で解放されたような段階なのである。
・資本主義国家における「欲望」の制度化を支えるものとして「社会的公理系」という新しい概念を示す。
・<<国家>>脱コード化した種々の流れの調整者。
・だから結局資本主義は、「欲望」の運動を普遍的に解き放つ契機と、それを「公理系」によって「再土地化」しようとする契機との対立。
・欲望の脱コード化的本性は「分裂病(スキゾフレニー)」それを再土地化しようとする力は「パラノイア
・そしてこの再土地化「パラノイア」の契機を「欲望」に与え続けるのは、資本主義社会における「家庭」の「オイディプス関係」(父ー母ー子という三角形)。この欲望が内面化されている。
ボードリヤールの〈システム〉=ドゥルーズ=ガタリ〈資本主義機械〉
現在の高度消費社会にはその操作を司る人間的〈主体〉が決して存在せず、社会それ自身だけが〈システム=機械〉の自動運動の〈主体〉。
もはやヘーゲルの示したような主人=資本家、奴隷=労働者という図式は成立せず、この〈システム=機械〉の中では、資本家すら流通する「記号」の一項目、公理系のもとの一機械をなすにすぎない。こうして<システム=機械>の自動運動は、社会的制度(法律、諸コード)を絶えず乗り超えて進むから、この動きは人間にとって、少なくとも社会制度の改変という手続きをとる道すじの上ではまったく〝不可触″なものとなるのである。
 
8. ポスト・モダンと<現在>の世界イメージ
ポストモダン思潮の本質的な性格
1.懐疑論 2.ニヒリズム、3.反社会(システム)的心情
・彼らの仮説は、もともとはマルクス主義的な社会変革の展望を拒否するために現れたものであるにもかかわらず、いつのまにかその反<システム>的文脈だけが、ポスト・マルクス主義的視点の中に移されているのである。
・近代思想は一貫して、<社会>と<人間>の調和を問題としてきた。しかし、この調和の不可能が宣告されたとき、当然、<社会>は<人間>にとって永遠のくびきであるという視線がどうしても現われる。するとそこから<社会>という原理それ自身をいかに解体するかという課題が、一番最後のものとして残る。
<社会>という原理それ自体をとり払ってしまって、そもそも人間の生が可能であるのか?もし可能であるとしてそれはどういう形においてか。
村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
僕と影との会話
 
9."現代思想"の最後の問題点
<社会>(=現実的な人間の生の条件)をとるか、<死><狂気>(=幻想的な人間の生の条件)をとるか。
 
第2章 近代思想の捉え直し
1 近代思想の起点―デカルトの<神>とカントの<物自体>
デカルト−カント−ヘーゲルマルクス
デカルト方法序説」「省察」16世紀ヨーロッパ、ルネッサンス、人間、合理主義、現実主義(プラグマティズム
デカルト「神の存在証明」
"普遍性"を探す。
小林秀雄の解説 デカルトの<神>とは、つまり人間が持っている、善きもの、美しいもの、真なるものに対する信頼。
デカルトは、この現実主義的合理主義によって人間が失ってゆくものを直観した。それは、神学のかわりに合理的理性を得た人間が、その見返りにより重要なものを失っているという直観だった。
人間は富や物質によって生きるだけでない。人間はむしろ精神として生きている。
☆わたしたちはむしろ、そういった思想家の理路それ自体より、それを通して浮かんでくる彼の世界に対する態度のありようを、つねに汲みとるように心がけるべきなのである。
近代以前、<世界>の秩序=すべてほぼ宗教や神学。<世界>の問題は、<神>を認めるか否か、従うか否か。
これでは人間が社会の中で感じる不全感は、<神>−反<神>というきわめてせまい表現の形しか持てない。
カント「純粋理性批判」<物自体>
カントによれば人間が見ているリンゴA'は、客観(物自体)としてのリンゴが人間の感性(感覚能力)というメガネを通して脳裏に映像を結んでいるもので、人間の感性は制限されたもの(たとえば神のような存在と較べると)だから、主観に現われているリンゴは客観としてのリンゴ(=物自体)と決して「一致」しない、と言うのである。
人間が認識し得るのはいわば<物自体>(本質、客観としての世界)の制限された一部分だが、この制限のされ方は人間が先験的にもっている認識の装置の共通性によって同じである。だから、「現象」として現われ出た世界(経験世界)のありようは、必ず一定の法則によってとらえられる。こうしてカントは、人間の認識が制限されていることを認めることによって、世界を<本質の世界>(可想界)と<現象の世界>(経験界)に分け隔て、客観的認識は、経験世界においては可能だと説いたのである。
人間が先験的にもっている認識装置の共通性
彼が信じていたのはむしろ、「よきもの、美しいもの」に向かおうとする人間の精神の秩序であったろう。それを彼は<神>は存在するという言い方で説得したかった。
なにが<真理>かは決定的には判らないが、それになるべく近づいてゆこうとする努力に生きることの意味がある。
だからカントの「道徳」という概念は、キリスト教(宗教的真理)とマルクス主義(理性的真理)のちょうど中間に位置している。
 
2 近代社会の危機と自己克服―ヘーゲルからマルクス
デカルトやカントの思想が、一方では宗教的権威から人間の合理的で理性的な精神のありようを解き放つとともに、もう一方で、富の力がもたらす"物質主義"への警鐘を打ち鳴らすもの
中世 安定した秩序 宗教的モチーフ → 近代 競争原理 経済利害上のモチーフ
ヘーゲル カントの認識論にまっこうから反対<主観>も<客観>もわれわれの<概念>=意識の中で立てられた区別
精神現象学」 精神の中で起きている現象
ギターの比喩
人間がものを認識するのは、そういうプロセスの深まりであって、そこには「概念の運動」(=弁証法)があるのだ。
A意識 B自己意識 C理性 BB精神 CC宗教 DD絶対知
・そしてこういう認識の深まりが適切にたどられれば、誰しも自己を社会的な存在として自覚し、社会総体の調和と秩序を自分自身の存在の本質的な意味としてとらえるに至るだろう。<労働>(協調)と<教養>
ヘーゲルの思い描いた"理想"の社会像は、市民社会における人間の自由な欲望の錯綜を超えて、人間の社会的本質の高次の現れである国家(民族国家)という原理がこの欲望のぶつかり合いを調停してゆく、というイメージに落ち着いた。
ヘーゲルの思想は、デカルトから出発した人間の理性的精神が、はじめて厳密な仕方で社会総体の構造を問題にし、その構造を動かそうとしたという点で大きな意味を持っている。
近代哲学がヘーゲルにおいてひとつの完成を見たといわれる所以。
ヘーゲル<家族>−<市民社会>−<民族国家><社会化された人倫>生きるうえで人間はどうしても他人との間で相互に相手を了解し合うような関係を必要としている
マルクスヘーゲルに対する批判
近代国家は、ヘーゲルの予想するような私的な欲望の調停を決して市民社会にもたらさずに、人間の類的本質(社会的、人倫的本質)と、個々の私的な欲望する存在としての(自由な市民としての)本質を、永遠に分離するものとして機能してしまう。なぜか、その理由は近代国家が、富(資本−貨幣)の原理を基礎として構成されているからにほかならない。
ヘーゲルの<労働>
・彼らは価値を交換しているのではなく、むしろ存在を了解しあっているのだ。それが<労働>を介して人倫を見出すということの意味である。
ところが、<資本−貨幣>の原理がそこに入り込むとどうなるか?<労働>は賃金−貨幣に"還元"され、生産物もまた商品−貨幣に"還元"されるだろう。このことによって<労働>をどれほど積もうと、人間は(資本家も労働者も)自己の人倫(類的本質)を表現することも深めてゆくこともできない。、<労働>→「労働力商品」
資本の原理のもとでは、人間の類的本質は、そのような<物神>移し変えられる。
この"転倒"は<資本−貨幣>の原理が働く限り原理的であり、したがってこの社会構造それ自身を改変しない限り、変わらない。
 
3 近代思想の転換点
デカルト、カント/ヘーゲルマルクス
もはや人間の自然な倫理性を純化したかたちで語ってもなんにもならない。むしろそういった社会の"構造"を問題にするほかない。
ペシミスティックな現実認識
いかにして、この近代社会の構成を変えてゆくか→社会主義運動
 
第4章 反=ヘーゲルの哲学
1 キルケゴールと実存
近代社会の軸2つ<主観/客観>の"認識問題"
"人間の問題"この世でひとが生きることの意味と可能性。
近代の思惟、合理主義、理性主義、歴史主義、客観主義
キルケゴール 猛獣と大蛇と鼠と古井戸の比喩
このエピソードは、人間が生きているということが煎じ詰めれば「絶体絶命」状態の内側にあるということを鮮やかに示している。つまり人間は基本的には<死>という絶対的な限界を持っている。キルケゴールの哲学は、このことがわたしたちの生に与えている意味を深くとらえようとするところから始まっているのである。<有限性−無限性>の絶望
いずれの道をとろうと、人間はまず中途半端なところまでしかゆけない。<可能性−必然性>の絶望
可能性の度合い=意味
幸運な人間は次々に自分の可能性を実現する。だが、人間が自由な現在を生きるためには、欲望の実現ではなく、むしろその絶えざる可能性こそが必要なのである。
ユートピアディストピア
思い切って単純化すれば、ヘーゲルがいわば<歴史>や<社会>のほうから<人間>を見つめたとすれば、キルケゴールは個々の生を生きる<人間>のほうから<歴史>や<社会>を見たのである。<社会>/<人間> <客観>/<主観>
・だから根本的かつ最終的に問題なのは、誰にとってもただ自分の固有の生をどうするかということだけなのである。こうしてキルケゴールによれば、<社会>の問題はじつは人間の固有の生(=実存)の問題に還元され得るが、人間の固有の生の問題は<社会>の問題には決して還元され得ない。
これが、いわば<個人>から<社会>を見上げる<実存>的な視線のエッセンスである。
2.ニーチェ ―反形而上学ニヒリズムの克服
ニーチェヘーゲルマルクス主義に至るまでの西洋形而上学キリスト教を含む)の"理想"は、じつは弱者のルサンチマン(うらみ)から発したニヒリスティックな本質を持っていた。
「貧しきものこそ幸いである」
弱者の価値は、つねに強者の価値への反動として生じる。
ほんとうは誰しも豊かな生を享受したいと思っている。しかし、この世の強者と弱者と秩序がどうしても動かし難いものと感じられるとき、弱者は、現実の秩序をそのままにして、ただ心情の秩序の中で価値の逆転を行おうとするのである。もちろんこのことはある程度避け難い人間の心の動きだろう。問題は、キリスト教の道徳がこの価値をひとつの真理として固定し、そのことによって人間から現世的な生の可能性を奪い、ただ彼岸における(つまり神の審判の後の)生の可能性だけをひとびとに与えるということだ。ニーチェキリスト教の道徳や教義に直観していたのは、このような歴史的な欺瞞にほかならない。
・世界を否定し、生を敵視し、官能を信ぜず、哲学者(宗教者)たちに特有な脱俗的態度
「禁欲主義的」理想
世界は理想の状態に変えられねばならないという考えは、理想の状態が「存在」するはずであるという考えを導く。
原理的にニヒリズムを呼び寄せてしまう。
社会の改変へのどんな努力にかかわらず、<社会>が、物神的な欲望のオートマティックな永続的システムとしてこの努力を回収してしまう。
☆ヨーロッパの形而上学は、世界は矛盾に満ちている、したがってこの世界は誤った、偽りの世界だ、と考えてきた。だが、この考えをきっぱり捨て去るべきだ。むしろ、次のような根本的事実を承認しなければならない。要するにこの世界には、力を持った強い人間と、力の劣った弱い人間が存在し、強者は弱者を利用して自分の力への意志を実現する。それだけが事実であって、こういった世界以外にはどんな世界も全く存在しない。真の<世界>、あるべき<世界>とは、弱者の目から見られた世界の一解釈にほかならないのである。
今までの一切の世界観は、総じて弱者から見られた世界の解釈
それは苦悩、不幸、悲惨、反感などの<意識>に裏打ちされている。<意識>は世界を解釈する、だがまさしくそのことがかつての世界観に、生の否定に向かうような性格を与えていた。
したがって<意識>からではない価値の尺度を与えることが問題。
ニーチェの目論見は、要するに、もしも人間がそこへ向かうなら、総体として思想が生の否定に陥らず、生が能動的で肯定的なものとして是認され続けてゆくような、そういう「価値」を世界の中に作り出す(定立する)ことにほかならない。そしてそのために、ニーチェはひとつの根本的な仮説を提出している。それは「力への意志」を高めること、そこに人間の生の根本モチーフがある、という仮説にほかならない。 →「超人」「永劫回帰」へ
 
第5章 現象学と<真理>の概念
1 <主観/客観>という難問
フッサール
「認識は、それがどのように形成されていようと、1個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。しかも認識には、認識される客観が対立しているのである。ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのだろうか?認識はどのようにして自己を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか?」(「現象学の理念」)
「一致」は原理的に確かめ得ないばかりでなく、むしろ一方に<主観>があり、もう一方に<客観>があるという近代哲学の前提そのものがそもそも誤りにすぎない。
デリダ的視線の結論―<主観>の数だけ真理がある。「クレタ人のパラドクス」のように、言説の真偽は誰も確かめられないというかたちで論証。
ドゥルーズ的「生成」の概念―自然の生成は決して整合的な秩序をもたず、またどんな目的も持たない。したがって人間の認識は、決してこの自然の生成それ自体をとらえることができず、ただそれを人間の認識の秩序に合わせて切りとっているにすぎない。
ニーチェ力への意志」=ドゥルーズ欲望
フッサールによれば、近代哲学が<客観>と呼びその実在を確かめようとしていたものの正体は、じつは、間主観性として(二つ以上の主観に共通して)成立する、恣意的にはどうしても動かし難い「確信の構造」ということなのである。<主観>とか<真理>→二人とか百人の間に共通の確信が成立するか否か。<ノエシスノエマ><内在−超越>
たとえば人間の一番強固な(動かし難い)共通の確信は、<自分>の外側に実在する自然世界が拡がっており、<自分>はその中で、ものや<他人>とともに、それらと関係して生きているという了解である。ただし<自分>は<自分>として存在しているという確信、<他社>は<自分>と同じような<意識>として存在するという確信も、<世界>が存在するという確信と同時的かつ対応的に成立する。
フッサール「本質把握や本質直感というものは、(略)感性的知覚作用の類比物であって、空想作用の類比物ではないのである」
現象学の視線のエッセンス「ほんとう」「確信」「信憑」ということについての、ひとつの徹底したつきつめ。
フッサールのこのような考え方は、伝統的な形而上学の<真理>概念を一変するような意味を持っていた。これも単純化して言うと、<真理>とは、<われわれ>の彼方に存在するのではなく、ただ<われわれ>の相互的な納得を見出すことにだけある。 
 
第6章 存在と意味への問い
1 実存の意味
人間の生の根本条件が大きな制約をもっているからこそ、人間は<社会>や<歴史>(あるいは「美」や「真」)という関係の像を信じ、それに届こうとする努力を生み出している。
"でもやるんだよ"根本敬
2 ハイデガー存在論−実存論
「そもそもあるとはいったいいかなることか」
世界の中に人間が存在している 実存(存在)


世界とは、われわれの<意識>の中にある 実存論(存在論
ネガとポジ
「体験」の構造
日常の中でごく一般的に存在する人間(=世人)は、どういうあり方で生きているだろうか。ハイデガーはこれをある独創のニュアンスをこめて「頽落」という言葉で呼ぶ。「頽落」とは堕落しているということではなく、世間日常の一般的な世事にとりまぎれているという意味だ。
ハイデガーによれば、現存在(人間)が存在するいちばん基本の事実は「気遣い(ゾルゲ)」という術後で呼ばれる。人間は要するに、いろんなレベルでいろんなものごとに関心を向け、興味をもち、欲望し、可能性を見出して生きている。こういう「気遣い」として人間が存在しているから、事物は人間にとって<開示>してくる。飲みたいとか食べたいという欲望があるから、水や食べ物、働いて金を稼ぎ、物を買うという日常生活の秩序が呼びよせられ、それが日常<世界>を組み立てている。あらかじめ日常世界の秩序があって、その中に人間は投げ入れられその秩序を認識するのではない。
「死」を自覚すると「良心の呼び声」がやってくる。
「良心」="端的なよきもの"に向かおうとするような人間の欲望のありよう
人間の生の意味=自由
被投性 それを破ろうとする可能性 欲望
 
終章 エロスとしての<世界>
1 バタイユの<死>の乗り超え
欲望はつねに理性を超えてわたしたちを誘惑し魅惑する、「よいもの」「喜ばしきもの」「美しきもの」「豊かなもの」「快であるもの」を意味している。そういう欲望の性格を表現する言葉としては、良心でも真理でも善でもなく、エロス性という言い方がもっともかなっているように思える。
バタイユ エロティシズム 神聖を瀆すこと。犯す。侵す。
☆☆「われわれ人間は不連続の存在であり、不可解な偶発事のなかで孤独に死んでゆく個体であるが、失われた連続性への郷愁をもっている。そして、偶然の個体に釘づけにされ、死ぬべき個体に縛りつけられているわれわれの置かれている状況が堪えがたい。この死すべきものの存続に不安な望みをいだくと同時に、全的にわれわれを存在に再び結びつける原初の連続性に対する執着をもっている。」
死の不安の乗り越えを味わう それが生の過剰 浪費性
人間の<実存>から見れば、ひとびとの生を根本的におしているのは、限定されたこの生から(まさしくそれが限定されているという理由によって)、できる限りエロス性を味わいたいという衝動である。人間の欲望がこの衝動に規定されていることは、いわば「根本的な事実」であろう。
非連続性のうちに閉じ込められた人間の土台、最後の可能性=<他者>との相互了解への信
人間の性的な<エロス>が、本質的に具体的な<他者>との"非連続性"を乗り超え得るという幻想性への欲望にそのモチーフの根を持っていたように、<美>とは、いわば日常世界における生の硬化(=非連続性)を乗り超えて存在し得るという幻想への欲望をモチーフとしている。
要するに、<エロス>や<美>というものも、じつはその内実のうちに、人間にとっての<他者>との了解(通じ合うこと)の可能性という契機を、最も本質的な核心として孕んでいるのである。
現実を"変えうる"という可能性を手放すな。
 
あとがき
哲学を"耳学問"で済むようなものに引き下げたかった。
8/7読了。

【読書メモ】すが秀実『増補 革命的な、あまりに革命的な』 (ちくま学芸文庫 2018年) 

【内容目次】
第?部 ニューレフトの誕生
「歴史の必然」からの自由がもたらされた時/文化的ヘゲモニー闘争の「勝利」とアポリア/「実存的ロマンティシズム」とニューレフトの創生/大江健三郎における保守的革命主義の帰趨/廣松渉による「疎外革命論批判」の深度と射程
第?部 カウンターカルチャーと理論的実践
詩的言語の革命と反革命アンダーグラウンド演劇のアポリア/小説から映画へのエコロジー的転回/宇野経済学と「模型」千円札
第?部 生成変化する「マルチチュード
世界資本主義論から第三世界論へ/戦争機械/コミューン/ゾンビをめぐるリンチ殺人から内ゲバという生政治へ/一九七〇・七・七という「開戦」
 
2000−2002 早稲田文学に掲載
「世界革命はこれまで二度あっただけである。一度は1848年に起こっている。二度目は1968年である」ウォーラーステイン他「反システム運動」
ジャン=フランソワ・リオタールポストモダンの条件」
蓮實重彦「知性のために」
 
小熊英二「民主と愛国」
いわゆる「挫折イメージ」。
網野善彦「無縁・公界・楽」サイードオリエンタリズム
そのような「リオリエント」は「68年の思想」の画期性と世界性を隠蔽することにしか寄与しない。
宇野弘蔵マルクス経済学」柄谷行人マルクスその可能性の中心」
1956 フルシチョフによるスターリン批判とハンガリー事件
トロツキー「裏切られた革命」
大正期「アナ・ボル論争」大杉栄
構造改革派(構改派)」
全自連 野口武彦
「<構改>先に立たず」日和見主義
スターリン批判とハンガリー事件の矛盾、「進歩的」知識人への批判
→ニューレフト
内田英世、富雄兄弟、西京司・岡谷進、太田龍革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派黒田寛一らによって「日本トロツキスト連盟」機関紙「反逆者」
59年8月 革命的共産主義者同盟革共同)と改称し、理論的・政治的な実効性を保持して、60年安保へといたっていく。
武井昭夫 全学連 →共産主義者同盟(第一次ブント)
石原、大江、江藤、谷川俊太郎、寺山、浅利「若い日本の会」
文学史的には「純粋戦後世代」と呼ばれる彼らのメンタリティは今日でいうサブカル的なもの
松下圭一「大衆文化論」加藤秀俊「中間文化論」
米 ビート 英 アングリーヤングメン 仏 シチュアシオニスト(ダダ、前衛芸術、反資本主義)
脱植民地運動としてのブント「反米」「民族独立」
西部邁「60年安保 センチメンタル・ジャーニー
大江健三郎「われらの時代」
レーニンロシア革命スターリンによって裏切られたとする
トロツキーの「裏切り史観」
サルトル「主体性論」
「政治と文学」論争 埴谷雄高 黒田寛一
トロツキー=政治的前衛と芸術的前衛の幸福な結合
ニューレフト=芸術的なセンス
文化的ヘゲモニー 文学→映画
ブントは今ここの騒擾・享楽において革命という歴史的必然を見いだそうとした。
革共同中核派(享楽) 革マル派(黒田。享楽に否定的)
1930年代問題 平野謙「昭和十年前後」 「近代の超克」問題
ジャン=リュック・ナンシー無為の共同体
大西巨人神聖喜劇
革命を遠い未来に設定しておく埴谷的歴史観
花田清輝
ロマン的イロニー
保田與重郎
橋川文三「日本浪漫派批判序説」
実存主義とはなにか?→三島 天皇
未来社 松田政男
橋川「私の考えでは、昭和の精神史を決定した基本的な体験の型として、まず共産主義・プロレタリア運動があり、次に、世代の順を追って「転向」の体験があり、最後に日本ロマン派がある」
大正 退行・廃退的文化 ←→ 農本主義
ロマン=空虚ゆえのフェティシズム 故郷、民族、アジア
新木正人「敗北の予感」
重尾隆四「権力に対して、前実存をさらすのだ」→ニューレフトの新しい感性
総会屋雑誌 現代の眼
車谷長吉「贋世捨人」
三島 美学「実存的ロマンティシズム」「青の時代
大江「見るまえに跳べ」「われらの時代」「遅れてきた青年」
ファシズム的ムード」「保守革命
「行動主義」行為へといざなう。
ニーチェ革命
「われらの時代」大江 60年 25才
青年将校」無頼性
アナキズム的 「ノンセクト」の学生アクティヴィスト 集団を先取り
ハイデガー「故郷喪失」「実存的ロマンティシズム」=男根的美学主義
>>大きく言えば、WWⅡへの大きな反動<<
ルカーチ 物象化論「歴史と階級意識」=いずれ量が質に転化する。
第三世界は「故郷」でもなければ、「本来性」でもなく、先進国が自らの願望を投影したファンタジーに過ぎないことが明らかになってしまったのである。
大江に代わって、学生アクティビストたちが愛読したのは、より生真面目に神経症的/パラノイア的な高橋和巳
67.10.8羽田闘争 一片の声明のみで権力を批判しえたと信じる「進歩的」知識人批判。
大江的なその無責任こそが真に68年的な革命性にほかならない。
数の増殖。統一されたイデオロギーは要らない。
廣松 社青同 ローザ主義
>>諸子百家の時代<<
ベ平連 大学管理法 エンタープライズ 慶応、早稲田学費
66 ブント再建
岩田弘「世界資本主義論」
廣松渉「疎外革命論批判」
マルクーゼ「エロス的文明」 三浦展「箱化」
廣松は、疎外論人間主義マルクス主義)を批判。もっと理論的、科学的に。エンゲルス評価。≒スターリン主義
中核派=ブント的「大衆運動主義」 革マル派=「党」前衛 立花隆「中核vs革マル
ブント 労働者、学生の即時的な「感性」に依拠した自然成長的大衆運動による階級意識形成の延長上に党建設を展望する。
=ローザ主義 甘いという批判
大江「われらの時代」都市に流入した学生=「故郷喪失者」の感性的反乱 この傾向を加速したのが日本の風景を一新した64年東京オリンピック
青年ヘーゲル派、「観念論」は甘い ブントは青臭い
廣松 (大学は)「労働力商品の再生産工場」「産学協同路線反対」観念論でなく唯物論
吉本「大衆の原像」「表出」現象学
「疎外」を克服すべき課題としながら、「疎外」を肯定し、それに依拠している矛盾。
入沢康夫「詩は表現ではない」 カウンターカルチャー「革命陶酔」への批判
廣松「ドイデ」。疎外論から物象化論へ。
フーコーレヴィ=ストロースサルトル批判。
60 実存主義 68 社会構成主義
 
天沢退二郎 つげ義春ねじ式
ベンヤミン「芸術の政治化」
三島由紀夫「美学」と「糞尿」
68年=反システム運動
演劇 ベンヤミン「神話的、法措定的暴力」のための文化装置としてのナショナル・シアターの役割
資本主義に疎外されているアンダーミドルクラス
資本主義に包摂されているアッパーミドルクラス
ニューレフト 美学主義 黙示録的革命主義
ブント「全世界を獲得するために!」=スターリンに反対するトロツキー主義
一国平和主義/世界革命(永久革命) 平和共存/暴力革命
佐藤信鼠小僧次郎吉」 バフチン的、カーニヴァル的騒擾
「前衛」からの離反者が、そのロマン主義的な反動として、民衆的下層に――たとえば柳田国男などを介して――就くことでアイデンティティーを保とうとした。
三島 文化防衛論 空虚な中心たる、文化概念としての天皇に包摂される。
菊(天皇、雅)と刀
小劇場 寺山修司 フォルマリズム=構造主義
石牟礼 谷川雁サークル村
京大パルチザン 小川紳介
 
宇野弘蔵マルクス経済学」=ニューレフトの基本的な参照先
岩田弘「世界資本主義論」→第二次ブント
講座派(共産党)/労農派(社会党
福本和夫=ルカーチ主義
フランクフルト学派社会学研究所」
 
赤瀬川 模型千円札 ネオダダ=「反芸術」運動
ベンヤミン 複製品「アウラ」情念がこもった作品
宇野 マルクス 等価交換論=同一の労働量が投入
人間が「商品化」されるという疎外
ドイツ・イデオロギー=労働の廃棄
岩田弘 ― 世界資本主義論
吉本隆明黒田寛一 ― 疎外革命論
廣松渉 ― 物象化論
平田清明 ― 市民社会
毛沢東ゲバラ ― 第三世界
ルカーチ、マルクーゼ ― フランクフルト学派系疎外革命論
三井三池炭鉱大争議「総資本対総労働」
山田宗睦「危険な思想家」
67美濃部達吉「革新都政」
社共ら旧左翼の「欺瞞」批判
イデオロギープロパガンダ)=言説空間の歪曲
福祉政策=日本「国民」の組織化と安定 朝鮮戦争ベトナム戦争
>>動機の不在。本当に革命したいのか?
マルクス=資本の運動を解明
フーコー的な社会にどう対抗するか?<<
藤本進治 毛沢東主義
滝田「ならずもの暴力宣言」 毛沢東「ならずものこそ素晴らしい」
1970.7.7 華僑青年闘争委員会 津村喬 マイノリティー運動 ポリティカル・コレクトネス
 
ヘルメットとゲバ棒「現代暴力論」「学生運動」がなくなった。
戦争責任は国民にある。「王殺し」
 
つまり 華青闘の告発によって、ポリコレ化し、反独裁の独裁、暴力が消えた。

【読書メモ】大澤聡編集『1990年代論』(河出ブックス 2017年)

目次
死なない九〇年代の歴史化へ――序文にかえて(大澤 聡)

[共同討議]東 浩紀 × 速水健朗 × 大澤 聡  一九九〇年代日本の諸問題

part.A 社会問題編
A-01[社会] 仁平典宏 終わらざる「社会」の選択――「一九九〇年代」の散乱と回帰
A-02[政治] 吉田 徹 「敵対の政治」と「忖度の政治」の源流――獲得された手段、失われた目的
A-03[労働] 阿部真大 安定からやりがいへ――「やりがい搾取」のタネは九〇年代にまかれた
A-04[家族] 水無田気流 「平凡」と「普通」が乖離した時代
A-05[運動] 雨宮処凛 リスカバンギャで右翼な青春
A-06[心理] 松本卓也 「ゼロ年代」の序章としての九〇年代の「心理」
A-07[宗教] 大田俊寛 ニューエイジ思想の幻惑と幻滅――私の精神遍歴
A-08[科学] 水出幸輝 震える、あの頃の夢
A-09[情報] 飯田 豊 インターネット前夜――情報化の〈触媒〉としての都市
A-10[思想] 大澤 聡 のっぺりした肯定性――「喪の時代」前夜の理論たち

[インタビューA]田原総一朗 『朝生』の時代 (聞き手 大澤 聡)

part.B 文化状況編
B-01[アニメ] 石岡良治 一九九〇年代アニメ、複数形の記述で
B-02[映像] 渡邉大輔 「ポスト日本映画」の起源としての九〇年代
B-03[ゲーム] さやわか 排除のゲーム史
B-04[テレビ] 近藤正高 フロンティアとしての深夜帯
B-05[マンガ/女性編] 五所純子 「すべての仕事は売春である」に匹敵する一行を思いつかなかった
B-06[マンガ/男性編] 杉田俊介 それから、私たちは「導なき道」を歩いてきたのか
B-07[アート] 黒瀬陽平 九〇年代アートにとって「情報化」とはなんだったのか
B-08[ファッション] 蘆田裕史 情報化するファッションデザイン
B-09[音楽] 吉田雅史 翻訳から仮装へ――「系」をめぐる九〇年代音楽論
B-10[小説] 江南亜美子 九〇年代に花開いた作家たち

[インタビューB]宮台真司 共通前提が崩壊した時代に (聞き手 大澤 聡)

?90年代特集?ガイド30――メタ1990年代論(大澤 聡)
年表[1989-2000年]
 
 
現在 メタとネタとベタが融解
郊外 TSUTAYA ショッピングモール
ロードサイドのカラオケボックス ケータイ小説
92年 大店法改正 大学のキャンパスの立地 都心→郊外→都心
援助交際 渋谷が象徴だが 実際は町田 柏など
レム・コールハースジェネリック・シティ」
三浦展ファスト風土
>>ぴあの代替 googleぴあ どんな小さなイベントも<<
J-POP ドリカムの破壊力
テレビドラマとのタイアップ
80年代「都会的な憧れ」 90年代はもっと一般的
「クローズ」「BOY」
ドラゴンボール」の前半と後半の変化
渋谷系」ZEST 
河出「90年代J文学マップ」
阿部和重「インディビジュアル・プロジェクション」舞台が渋谷 三茶
岡崎京子東京ガールズブラボー
「フロッケ」椹木野衣 村上隆
ネットが見えなかったコミュニティを可視化するんだけど、実際は90年代前半までのほうが人々はむしろ出会っていた
90年代前半の東京で都市文化が誕生しそうだったが郊外文化というかたちでそれが流産してしまった
「テニスボーイの憂鬱」→「ラブ&ポップ」渋谷の固有名 村上龍版「なんとなくクリスタル」
失われた20年 文化的な固有名も変わっていない 小沢健二 ミスチル 
消費者は実は保守的 同じカレーをいつまでも食べていたい 消費者の欲望に合わせていくなら、じつは改良などせず延々と同じものを提供し続けるのが正しい。
祭りは、毎年同じプログラムで、同じ屋台がやってくるから「安心」なんです。人々が求めているのはそうした反復なんですよ。そこに社会が気づいてしまった。毎日がギャンブルの世界に人々は耐えられない。終わりなき反復。それこそがポストモダン
 
「元々、近代化の中で浮上した「社会的なもの(the social)」の概念には、平等と連帯という規範的意味が刻印されており、福祉国家の思想的基盤となっっていた」
「社会の終焉」テーゼ 意味的な意味と 新自由主義
>>子供を産めるのはいつも勝ち組 僕らは皆勝ち組の子供<<
「社会連帯」がない。「社会人」という用法。「一般社会では通用しない」
1999 労働者派遣法改正 最高所得税率 50→37%
政治 冷戦 中選挙区 派閥
竹下 宇野 海部 宮澤 細川 村山(自社さ) 橋龍
橋本行革 省庁再編 内閣強化
失われた20年 目的がない 政治改革の目的はなにか?
(実は国をグローバル資本に売り渡す目的)
桐野夏生 「OUT」 東村山 深夜の弁当工場
1990入管法 日系人
校内暴力 → 管理教育
98 小林よしのり戦争論」 
「イマーゴ」 「分裂症」→「解離」 「真理」→「生き延び」
80年代 躁 90年代以降 鬱
80年代の日本を満たしていた煌びやかな全能性の感覚、そしてそれが90年代になってポッキリと折れてしまったときの感覚
大田「オウム真理教の精神史 ロマン主義 全体主義 原理主義
第三次宗教ブーム「貧病争」でない満たされなさ。GLA 阿含宗 幸福の科学 オウム真理教
平井「幻魔大戦GLA 霊性進化論
バラモン教 中沢新一チベットモーツアルト
オウム事件 とても他人事ではなかった
「現代の日本社会、あるいは近代の諸制度自体にうまく馴染めず、別種の次元の「正しさ」をナイーブな仕方で追求した人々の末路」
1970 大阪万博「人類の進歩と調和」
地震予知の失敗
万博 原発からの送電 「月の石」
「夢」や「理想」が崩れた
雑誌文化 カウントダウンTV カラオケ
批評家のレイモンド・ウィリアムズは70年代、自動車やテレビが人びとを公的領域に接続させる機能を備えていながら、まるで自閉的な殻のように、人びとを郊外の私的領域に囲い込んでいるという逆説的な事態を見抜き、このことを「モバイルな私生活化」と呼んだ。個室で深夜ラジオ エアコンの効いた車内でカーステレオ 個室化 ウォークマン カラオケボックス
思想 「喪の時代」後ろ向きに進む時代
否定神学的な思想が可能だった。つまり、いつまでも到来するはずのない「革命」なり「最終戦争」なりを反措定することで世界秩序が保たれていた時代
大きな物語の終焉」リオタール
「歴史の終わり」F・フクヤマ
→思想のタコツボ化 島宇宙
「カルスタ」「ポスコロ」
経験論的、実証主義的で大きな視点がない
「アイロニカルな(資本主義、市場主義)の肯定」→「のっぺりとした肯定」
82「反核アピール」新しい書き手たちはことごとく署名を拒否
→91「文学者の(湾岸戦争反戦表明」
仲正昌樹ポストモダン左旋回」 東・宮台らはそれに反発。
「デタッチメント(関わりのなさ)」から「コミットメント(関わり)」へ。
浅田「スキゾ・キッズ」のバックラッシュ(反動)。
批評が代弁になっていく。
宮崎勤の代弁、自殺願望者の代弁、援交少女の代弁、オウム信者の、オタクの、…
当事者性の論理の隘路 思想の萎縮 小さな安全圏に退却。
アイデンティティ・ポリティクス ポリティカル・コレクトネス
むしろ、90年代の日本社会には、「新しい歴史教科書をつくる会」の運動のように、みすからが信じる(信じたい)「小さな物語=歴史」をセットアップし、それをかつての「大きな物語」の位置に仮設しては、他の物語群をシャットアウトするといった、物語たち同士の徹底した棲み分けが規模の大小を問わず観察された――それがのちのポスト・トゥルース時代を用意する。そうした棲み分けは、インターネットの登場によっていっそう強化された。そして、人びとは、ヴァナキュラーな各々の物語を大きな物語だと素朴(ベタ)に錯覚するようになる(「あえて」の消失)。
批評空間 「必読書150」
知の技法シリーズ → 知のグローバル化ネオリベ
冷戦の終わりが大きい。
 
中曽根 三公社民営化 グローバリズムのはじまり。
田原 朝生 
湾岸戦争 戦後初めて米ソ一致 日本は参加せずに130億ドルだす
クウェートの感謝広告
「正論」「SAPIO「WiLL」「月刊Hanada」「産経新聞
五所純子
岡崎京子 「CUTIE」
東京ガールズブラボー
リバーズ・エッジ」は骸骨だ。
残骸になった東京
東京は腐っているらしい。 ○○○ 少女は東京を目指す。
しかし、それでも、だから、そんなことは関係なく
戸川純 少し椎名林檎
岡崎「pink」援交 バッドトリップ
飯島愛孤独死
あとがき「すべての仕事は売春である」J・R・G 岡崎
「すべてはあたしたちの自由意志だと信じこむための詐術」
「愛や幸福とうそぶくのが少女しぐさなら、資本主義とうそぶくのはポストモダンしぐさだった。」
「いよいよ追い込まれた」「資本帝国主義
封神演義」「ロックンロールミシン
中上健次 熊野 地縁 血縁
郊外 由緒ある歴史とも地縁とも切り離された漂白された土地。
島田雅彦「忘れられた帝国」
柳美里フルハウス
 
宮台
80「ニュー風俗」「初期出会い系」
「熱に浮かされた感じ」「微熱感」「文化祭前夜」
向井秀徳 開戦前夜のこの感じ
「恋愛しなきゃ」占い雑誌「マイバースデイ」

失望
AVブーム お立ち台ディスコ
風俗嬢 → 新興宗教
92年 首都圏 ブルセラ 援交ブーム
→94年 全国に
97 ガングロブーム 退却
黒ギャルが白ギャルを指さして、
「ああいうイタい子が援交やってるんだよ」
「援交第一世代」と「援交第二世代」→主体 と 自傷系フォロワー
ナンパしても「街とまぐわう感じ」が消えた。
宮台 90年代末 鬱になる
「金のため」は第三世代 87生まれ以降
性体験率 20%下がった
96年 「共通前提」が崩れた
1万年前 1対1婚 ストック継承権を定めるため
「普段」はウソ 祝祭に タブー/ノンタブーを反転させる
法内の快楽/法外の享楽
法は通常意識(しらふ) 祝祭と性愛は変性意識(目眩)
つくる会 と 禁煙運動
<新住民的なもの>
細かい新住民的なクズが保守や右を自称する。
83年「隣人訴訟」の判決
箱ブランコの撤去 小川の暗渠化 鉄柵化
「知らない大人と話すな」
花火の水平撃ちを「目が潰れたら責任とれるのか!」→ガチ禁止
花見の焚き火
連続性と接続するもの
→90年代の監視カメラにまで行き着く 監視社会
「法外の前提」
83〜96年 法化社会化
つくる会嫌韓厨→電凸ネトウヨ→第二次安倍政権
都合の悪いものは全て「敵の陰謀」
97年〜 <自己の時代>
何が正しいかは「自己のホメオスタシス」が決める。
<鍋パーティ問題>日本にあるのは、イデオロギーや思想の対立ならぬ、居場所の対立だけ。
浅田彰「京大吉田寮的なもの」など、思想は居場所とキャラクターの問題
マーケティング
「人は自分や他人を主体だと思っているが、実は釣り堀の魚みたいに釣れる自動機械があるだけ」
「しごき」「体罰」も「法外」「共通前提」の問題
街が「ガチ匿名」化した。
二重性、消え行くものと現れて出るものの二重性。
浅草 → 銀座
浅草は 混沌の象徴 銀座は統合の象徴
「生きるに足る「ひだ」」 闇、二重性が消え、フラット化した。
再帰的なアングラは無理。機能しない。
アングラとは近代社会で法外を共有する二重性の営みで、闇と光の綾を享楽する。
ディープな性愛と祝祭が不可能なのと同じ理由。