マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

作品#03「哲学用語図鑑トレカ」紹介(3)#21-30

21.ルネ・デカルト

演繹法

デカルトなどの大陸合理論の哲学者たちは、演繹法によって正しい知識を導き出そうとしました。演繹法とは、一般的な原理から理性的な推理によって、個物の真理を突き止める方法です。演繹法では、前提が真理であれば、結論も真理になります。けれども、初めの前提が間違っていれば、その先の結論も真理に到達できません。例:人間は必ず死ぬ→A君は人間だ、ゆえに、A君は必ず死ぬ

大陸合理論

デカルトスピノザライプニッツといった大陸の哲学者たちは、イギリ スで発展したイギリス経験論とは違う考えを持っていました。
人は見間違いをしたり、実験結果を間違えたりします。五感(聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚)による経験(体験)はアテにならないというのです。
デカルトは、人は生まれながらにして神や善悪といった観念を持ち合わせていると考え、生得観念の存在を認めます。これは、人は生まれつきイデアを知っているとするプラトンの考えに連なるものです。彼は、この生得観念をたよりに演繹法によって、正しい知識を身につけていくべきと考えました。
この考えは、主にヨーロッパ大陸で発展したので大陸合理論といいます。大陸合理論は生得観念はないとするイギリス経験論と対立します。

我思う、ゆえに我あり

仮にものすごい真理が解明されたとします。けれども「そんなこと言ったって、そもそもこの世の中はすべて夢かもしれない」と言われたら返す言葉がありません。そうならないためにも、デカルトはこれだけは絶対に確かといえる原理を探そうとします。
そこでデカルトは「この世は夢かもしれない」と意図的に疑ってみること にしました(方法的懐疑)。そうすると、目の前に見える風景も、本に書いてあることも、数学も、自分の肉体の存在さえも疑わしくなりました。けれどもたった1つだけ疑うことができないものが残りました。それは「夢かもしれない」と疑っている自分の意識の存在です。さらに「夢かもしれないと疑っている自分」を疑っても、最後まで自分の意識は残るのです。
こうしてデカルトは自分の意識の存在は疑いようがないことを発見しました。彼はこれを「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)と表現します。「我」の存在の確定は数学における1+1=2のような定理に相当するので、デカルト哲学の第一定理とされました。

神の存在証明

デカルトは方法的懐疑によって、自分(の意識)は確かに存在することを証明しました。その自分をとりまく世界の存在はどうやって証明したのでしょうか?そのために彼はまず神の存在証明をする必要があると考えました。
人間は不完全な存在です。不完全な存在は原理的に完全を知らないはずです。それなのに人間は完全という観念を持っています。その完全という観念は完全である神から与えられたとしか考えられないとデカルトは主張しました。(※観念=自分が意識している事や物)
神が確かに存在するとしたら、神から与えられた人間の能力は正しいはずです。なぜなら神が人間を欺くはずがないからです(神の誠実)。デカルトは神から与えられた理性を正しく用いることができれば、真理を認識することができるようになるのだと結論づけました。

生得観念

人間には基本的な観念が生まれつきそなわっているとデカルトは考えました。たとえば善悪の区別、完全の概念、平行線は交わらないことなどは経験によって学んだことではないと彼は主張します。この人間特有の先天的な観念を生得観念といいます。(※観念=自分が意識している事や物)
生得観念を認めると、人間なら誰でも同じ認識能力を持てることになります。しかし一方で、認識能力は人それぞれで違うようにも見えます。そのため、生得観念はあると考える大陸合理論は、ないと考えるイギリ ス経験論と対立することになります。

主観/客観

デカルトは人の意識の存在を発見しました(我思う、ゆえに我あり)。これ以降、デカルトは世界を認識するもの(主体)とされるもの(客体)に分けて考えます。前者の意識を主観、後者を客観と呼びます。デカルトは自我の意識が主体となる近代哲学をスタートさせました。

二元論

デカルトは精神と物体は別々に存在していると考えました(我思う、ゆえに我あり)。そして、身体は物体と同じく機械的なものだと捉えました。これを心身二元論といいます。
彼はこの解釈を広げ、世界を二分する二元論を生み出しました。

延長

延長とは物質が空間的に広がることをいいます。広がる物は、高さ・幅・奥行きを物理的に測ることができます。
デカルトは、世界は精神と物体という2つの実体から成り立っていると考えました。そして、精神の本質は思考、物体の本質を延長と規定しました。このことは、感情や感覚、あるいは感覚が捉える色や匂いなどは、精神や物体の本質的な性質ではないことを意味しています。

実体

実体とは何にも依存しないで、それだけで存在するモノを言います。物の本当の姿、正体とも訳されます。「実体とは具体的に何か?」はあらゆる哲学者が問題にしています。
プラトン→「実体」とはイデアのことだ!
アリストテレス→「実体」とは形相と質料からなる個物のことだ!
デカルト→無限の「実体」は神。有限の「実体」は精神と物体の2つに分かれるのだ!
スピノザ→「実体」とは汎神論の神のことだ!
ライプニッツ→「実体」とはモナドだ!
ヘーゲル→精神が絶対知へと展開する!

22.バルフ・デ・スピノザ

汎神論

デカルトは意識を発見した(我思う、ゆえに我あり)後、意識と身体(物体)は別々に存在していると考えました(心身二元論)。けれどもスピノザはこの考えに疑問を持ちます。
なぜなら意識と身体が別ならば、たとえば意識が悲しいと思った時に身体から涙が出る理由が説明できないからです。
この問題を解決するために、スピノザは私たちの意識も身体も自然もすべてひっくるめて一つの神と考えます。
スピノザによると私たちは自然の一部です。そして自然は神が創ったものではなく、神そのものなのです(神即自然)。つまり、その中に含まれる私たちの精神と身体も神の一部です。こう考えると精神と身体はつながっているので、悲しい時に涙が出ることに矛盾は生じません。
神と世界は同一であるというこのような考え方を汎神論といいます。
心と体は別というデカルトの二元論に対して、スピノザはすべては一つの神という一元論を唱えました。この考えは、神を人格的存在と考えるキリ スト教と相容れないため、キリスト教からバッシングを受けました。

永遠の相の下

スピノザは人間には自由な意志はないと考えます。人間は神の一部(汎神論)なので、神の考えの下に動いています。そして私たちはそのことに気づいていません。
自分の行動が自分の意志によるものと思うことは、石ころが誰かに投げられているのに自力で飛んでいると思い込んでいるようなものだとスピノザは考えます。
※意識は行動より後にあらわれることは最新の脳科学でも定説になっている。自分の行動があたかも自分の意志によるもののように脳に思い込まされているのだそうだ
身に起きていることは自然現象の一部であり、永遠の中の1コマにすぎません。けれども、その1コマはあなたがいないと成り立たないのです。スピノザはこれを永遠の相の下と表現しました。
それでは、あなたが何をするために神はあなたに自然の一部を確保しているのでしょうか?スピノザはそれを考えることが人の幸せであると主張します。
神は僕に何をさせるんだろう?僕の役割は何だろう? → たぶんあれだ!よしやろう!今からやってみよう!
神はあなたに何かしらの役割を与えているはず。あなたはその役割を直感できる

23.ゴットフリート・ライプニッツ

モナド

世界を精神的な存在と考えるならば、それを分割していくことができます。ライプニッツは、こうした精神的存在の原子に相当する概念をモナドと呼びます。そして世界はこのモナドが調和しあってできていると考えました。モナドは世界が最善になるようにあらかじめ神によってプログラミングされています。このような考えを一元論に対して多元論といいます。神のプログラミング通りにモナド同士が調和して世界を創っている。

予定調和

ライプニッツによると、モナドは世界が最善になるようにあらかじめ神によってプログラミングされています。そしてモナドは予定通りお互いに調和しあい、最善の世界を創ります。これを神の予定調和といいます。ライプニッツにとってこの世界は偶然できたものではないのです。
このようにライプニッツは世界を楽観的に捉えました。

充足理由律

今の世の中はA図のような感じです。なぜB図のようにならなかったのでしょうか?それはA図の状態が最善だからだとライプニッツは考えます。
ライプニッツにとって世界はただ「ある」のではなく、神が最善の状態にしたからそう「なった」のです。すべての物事はただ「ある」のではなく、何かしらの理由によってそう「なった」と考えることを充足理由律といいます。

24.トマス・ホッブズ

リヴァイアサン

近世では、国王の権限は神に与えられたもの(王権神授説)であり、その下で国家が形成されていると考えられていました。
これに対し、ホッブズは国家のしくみをもっと論理的に捉えようとします。彼はまず、公的権力がない状態(自然状態)だと国はどうなるかを考えました。そして自然状態では、人々は互いに自由を奪い合う「万人の万人に対する戦い」が起こると主張しました。
これでは個人の自由が保てません。そこで、お互いにケンカをしないように契約を結ぶ必要があります。
ケンカをしないという契約を守らない人を処罰するためには、絶対的な力を持つ公的機関が必要になります。そこで国王が必要になってくるわけです。このような公的権力をホッブズ旧約聖書ヨブ記に出てくるリヴァイアサンという恐ろしい海獣にたとえます。国王はリヴァイアサンのような強い力を持たなければ国は機能しないと彼は考えました。
ホッブズは王権神授説に頼ることなく、国家のしくみを説明しましたが、かえって絶対王政を論理的に擁護するものとなってしまいました。

25.シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー

26.ジャン=ジャック・ルソー

一般意志

ルソーはホッブズの考え(リヴァイアサン)とは反対に自然状態こそが人間にとって一番理想的なものと考えました。彼はこれを「自然に帰れ」と表現します。公権力は必要なく、本来みんなが共通に持っている助け合いの心(一般意志)を確認し合って、国家が直接民主制をかたちづ くることを理想とします。
みんなでよく話し合って、共通の利益となるような「一般意志」を確認し合う→国王なんて必要ない!直接民主制がイチバン!→この考え方はフランス革命へ…

27.ミシェル・ド・モンテーニュ

モラリスト

1492年、コロンブスが新大陸に上陸しました。当時のスペイン人の多くは、新大陸に住む人たちを野蛮人と決めつけました。
モンテーニュは当時のスペイン人が行った新大陸での略奪、文化の押しつけ、虐殺をとても悲しみました。
同じころヨーロッパではキリスト教徒同士が争う、宗教戦争が起きていました。彼はこのことにもひどく心を痛めます。
モンテーニュは考え方や文化の違う人間に対して、偏見、独断、おごりを捨て、謙虚に相手の考えや文化を 学ぶ姿勢が大切だと主張します。このような考えを持つ人をモラリストといいます。
モンテーニュは「~すべきだ」という言い方はせずに自分の体験をエッセー風に語ることによって、これらのことを表現しました。

28.ブレーズ・パスカル

人間は考える葦である

近世以後、合理主義が普及し、あたかも人間の理性は万能であるかのような考えが広まりました。このことにパスカルは強い危機感を覚えます。宇宙の中で人間はちっぽけな葦のように無力です。そのことを十分理解することが重要です。
人間は自分の知識や理性には限界があることを自覚することができます。そういう意味で人間は尊いパスカルは考えました。彼は「人間は考える葦である」という言葉を残します。パスカルもまたモンテーニュと同じく、西洋の知性の暴走を予言したモラリストの1人でした。

繊細の精神

数学者でもあったデカルトは、数学をひな形にして哲学や道徳を捉えようとしました。彼は演繹法を武器に「公理」「定義」「証明」などの用語を駆使し、物事を順序立てて考えていきます。
デカルト幾何学の精神
泥棒は悪だ→A君は泥棒をした→よってA君は悪い人だ
デカルトはこのような考えで、どんなことでも、たとえば神の存在をも証明できると考えていました。パスカルもまた数学者でしたが、彼は物事の判断は数学のように論理だけではできないと主張します。
物事や人の心はたくさんの矛盾をはらんでいるはずです。それらの矛盾を含めたまま、一度に直感で判断することも理性の1つだとパスカルは考えました。これを幾何学の精神に対して繊細の精神といいます。
パスカルの繊細の精神
たくさんの矛盾をはらんだまま一度に直感で判断することも理性→A君は悪い人ではない…

近代

29.アダム・スミス

(神の)見えざる手

イギリスで産業革命が始まると、資本主義経済がヨーロッパに広がり始めました。資本主義の基本原理である「自由競争による個人の利益の追求」は、はたして社会全体に利益をもたらすのでしょうか?
アダム・スミスの答えはYESでした。彼によると個人の利益の追求は(神の)見えざる手に導かれ自然とみんなの利益につながります。したがって、国家が市場に介入する必要もないというわけです。

自由放任主義レッセフェール

自由な経済競争の下で、個人が自分の利益を追求すれば神の見えざる手に導かれ、国が介入しなくても、結果的に社会全体の利益につながるとアダム・スミスは考えました。これを自由放任主義レッセフェール)といいます。
自由放任主義・・・自由な経済競争の下で個人が自分の利益を追求すれば社会全体の利益につながる。よって市場に公的機関が介入すべきではない
(スミスの自由放任主義は、道徳を無視して私益を追求してもいいということではない。したがって単純な市場原理主義ではない)

30.イマヌエル・カント

ア・プリオリ

カントはイギリス経験論と同じように知識は経験によるものだと考えました。それではなぜ、まったく同じ経験をしているわけではないのに、私たちはお互いの話を理解することができるのでしょうか?
その答えは、人間には共通の経験の仕方と理解の仕方があらかじめプログラミングされているからだとカントは言います。経験に先立って成立していることをア・プリオリといいます。
そして、このア・プリオリな人類共通の経験の仕方を感性の形式、理解の仕方を悟性のカテゴリーといいます。カントは感性の形式の特徴として、人は物事を必ず空間的、時間的に捉えると言います。また、悟性のカテゴリーの例として、原因と結果をあげます。人は何かが起こったら、必ずその原因をさぐると彼は考えました。

物自体

赤いレンズのサングラスをかけたら物(世界)は赤く染まります。もし私たちの目が生まれつきこのような構造になっていたら、私たちは本当の物(世界)を見ることができません。それでは実際、私たちは本当の物(世界)を見ているのでしょうか?決してそんなことはありません。私たちの目の構造がリンゴは赤く、レモンは黄色く捉えるだけで、実際のレモンやリンゴは何色をしているかわからないのです。
もちろん色だけではありません、形だって同じです。お酒に酔うと物(世界)は歪んで見えます。もし酔った状態が人間の正常な認識能力だとしたら、私たちは歪んでいない物(世界)を見ることはできません。この場合、さわった感触も歪んだ見た目のまま認識、記憶されます。
私たちは私たちの感覚器の構造が捉えた情報をたよりに、意識によって物(世界)を作り上げているだけなのです。だから物(世界)が本当はどのような姿形なのかを知ることはできません。人は物自体に行き着くことはできないとカントは言います。

カテゴリー

人が対象をコップだと認識するまでの一連のシステムを見てみましょう。まず、五官によって知覚された対象を感性の形式が空間的、時間的に捉えます。次に悟性のカテゴリーが対象を認識します。
人には12通りのカテゴリーが備わっているとカントは主張します。その1つが原因と結果という考え方です。
カントはこの一連のシステムのことを理性(理論理性)と呼びます。そしてこのシステムは先天的(ア・プリオリ)に備わっていると彼は言います。

現象

人が対象を空間的、時間的に捉え、カテゴリーが分析したあとの対象の姿をカントは現象と呼びます。言い換えると、物自体が人間によって認識されてリンゴになった状態が現象です。
従来の考え方は、対象=現象 カントの考え方は、対象≠現象

コペルニクス的転回

コップがあるから人がそれをコップだと認識するわけではありません。じつは、人の感性や理解の仕組みが対象を秩序づけ、コップの認識を構成しているのです(カテゴリー)。
カントはこの考えを「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」と表現します。そして、この発想をコペルニクスの地動説になぞらえてコペルニクス的転回といいます。

理性の二律背反

通常、「○○は正しいけど間違っている」ということはありません。ところがカントは、世界は有限か無限かといった経験を超えた問題は、是非のどちらの立場も、それぞれ理性的な証明ができると言います。理性的に考えたにもかかわらず、まったく正反対の主張が証明されるのは、経験を超えた問題に対しては理性が混乱におちいるからです。こうした理性の混乱を導くカントの議論を理性の二律背反(アンチノミー)といいます。
カントの二律背反の議論は、伝統的な形而上学の批判を目的としていた。すなわち、世界の始まりや神の存在は認識できないことを明らかにしたのだ

道徳法則

自然界に自然法則があるように、人間界には従わなくてはならない道徳法則があるとカントは考えました。なぜなら道徳的な行いを善しとする理性は人間だけに先天的に備わっているからです。道徳法則は良心の声で「汝、~すべし」と私たちの理性に訴えてきます。
道徳法則はみんなが納得できるような行いのことで、自分のためだけになることではありません。カントにとって道徳とは普遍的なものなのです。
さらに彼は、道徳は手段ではなく目的そのものであるべきだと言います。たとえば、人に親切にされるために自分も人に親切にすることは道徳ではありません。なぜなら、これでは道徳が何かの目的を達成するための手段になっているからです。

定言命法

道徳法則は目的を達成するための手段ではなく、目的そのものでなくてはならないとカントは考えました。
つまり道徳は「~したければ、〜せよ」ではなく「〜せよ」と断言できるものであるはずです。道徳的な行為をすることに、理由はないというわけです。この「~せよ」という無条件の命令を定言命法といいます。

現象界/英知界

カントは私たちが見たり聞いたりできる世界を現象界、これに対して物自体の世界を英知界と呼びました。私たちの認識能力では英知界を見ることはできません。
けれどもカントは、英知界には物自体のほかに道徳法則が存在していると考えます。こちらの方は良心の声が私たちに「汝、〜すべし」と、訴えてくるので認識可能だと言います。この声は理性によって聞くことができます。

理論理性/実践理性

カントは人間の理性を理論理性と実践理性の2つにわけます。カテゴリーなどによって物事を認識する能力を理論理性、人間が道徳的な行いを実践しようとする理性を実践理性といいます。どちらも人間に先天的に備わっていると彼は考えました。

格率(信念)

自分で自分に定めた行動の法則をカントは格率と呼びます。格率は信念と言い換えることができます。
格率は自分が自分のために良いと思って決めたことであり、道徳法則とは分けて考えられます。けれども、もし格率と道徳を一致させることができたら、自発的に道徳を行うことができます。こうすることで人は自由を手に入れることができるとカントは言います。
彼はこれを「汝の意志の格率がつねに同時に普遍的法則となるように行為せよ」という定言命法で言い表しました。

自律

理性が聞いた道徳法則の声に従って行動するということは、じつは自分の理性に従うのと同じことです。それは格率と道徳法則が一致している状態です。
つまり私たちが道徳的な行いをしているとき、道徳は神から与えられた他律ではなく、自分で作った自律となっています。カントは道徳的であることは自律的であり、自由であると言いました。

目的の王国

カントは道徳は何かの報酬を手に入れるための手段ではなく、その行為自体が目的になっているべきだと考えました(道徳法則)。彼はそのような行為ができる自律した人のことを人格と呼びます。
そしてお互いの人格をお互いに目的として最大限に尊重し合う世界を目的の王国と表現し、これを理想の社会だと考えました。

批判哲学

カントには『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』という3つの代表作があります。すべて語尾に「批判」とつくので、彼の哲学は批判哲学と呼ばれています。ただしここで言う「批判」とは、「否定」の意味では なく、物事をあらためて根本から吟味し直すという意味で使われています。