マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

作品#03「哲学用語図鑑トレカ」紹介(4)#31-40

目次

31.ゴットリープ・フィヒテ

33.ゲオルク・ヘーゲル

ドイツ観念論

カントの哲学は、世界を現象と物自体に分けることになりました。そして、理論理性は現象の認識を担当し、実践理性は物自体にかかわる行動を担当します。つまり、認識と行動では異なる理性が働くことになるのです。しかし、理性はこのように分裂しなければならないのか。フィヒテシェリングヘーゲルはそんなことはないと主張します。カントに始まり、ヘーゲルで完成した人間の精神の哲学をドイツ観念論といいます。

絶対精神

人間は物自体という客観は認識できないとカントは考えました。けれどもヘーゲルが考える人間の認識能力はカントが考える認識能力のように機能が固定されていません。認識能力は社会の中で教養を身につけながら自分の中で行う弁証法によって、いずれ客観の全貌を完璧に提えるまでに成長します。そのような完全な認識能力を持った精神をヘーゲルは絶対精神と呼びます。

弁証法

ヘーゲル弁証法という手法を進めていけば、人間は絶対的かつ普遍的な真理を知ることができると考えました。ある1つの主張があれば、それには必ず反対意見が存在します。これを否定せず、お互いの良いところを取り入れて統一し、新たな考えを作り出せば、1つ高い次元の知識が完成します。これを繰り返していけば、人はいつか絶対的な真理をつかむ絶対知を手に入れることができると彼は考えたのです。この絶対知を手にするまでの一連の手法が弁証法です。
はじめの主張をテーゼ(正)または即自、それを否定する立場のことをアンチテーゼ(反)または対自といいます。そして2つを統一して、より高い次元の考えを生み出すことをアウフヘーベン止揚)といい、生みだされたものをジンテーゼ(合)または即自かつ対自といいます。
ヘーゲル弁証法は人間の思考の進化だけでなく自然や社会など世の中すべての進化の原理原則だと考えました。
弁証法・・・矛盾や反対の立場を受け入れ、統一していくと最終的に絶対値に行き着く

歴史

カントは自分の格率と道徳法則を一致させ、それを実践することが自由だと説きました(自律)。けれどもヘーゲルにとっての自由は、そのような個人の内面の問題ではなく、現実社会で具体的に実現されなくては意味がないものでした。ヘーゲルは、具体的な自由が弁証法によって現実社会で実現する過程が歴史であると考えました。
ヘーゲルの考える歴史・・・ヘーゲルは「歴史」とはすべての人間が自由を手に入れるまでの進歩の過程だと考えた
ヘーゲルは、歴史を根底で動かしているものは人間が絶対精神を手にいれて自由になりたいと思う意識であると考えました。そしてその意識は少数の人間が自由だった時代から、すべての人間が自由を手にする時代へと歴史を推し進め、最終的に、人倫といわれる共同体を誕生させると主張しました。
古代奴隷制→中世の教会支配→絶対王政→共和制→ナポレオン
ヘーゲルはナポレオンの登場で自由が実現すると思った。彼はナポレオンを見て言う。「世界精神(絶対精神が歴史の中にあらわれたもの)が馬に乗って通る」

人倫

人間が生活するうえで行為の規範となる法と道徳とを弁証法的に総合したもの。
道徳・・・個人の内面の自由は尊重されるべきだが 道徳は主観的な信念にすぎないので社会性にとぼしい
法律・・・法律は社会秩序を維持し、客観的な自由を保障するものだが個人の内面はおろそかになる
ヘーゲルは個人の内面である道徳と、社会全体の秩序を作る法律が矛盾なく共存する共同体を人倫と呼びました。人倫とは真の自由が実現される社会です。主観的な道徳と客観的な法律は相容れないもの同士のように思われますが、この2つが弁証法によって統一されれば、それを生み出すことが可能だとヘーゲルは考えました。

家族/市民社会/国家

家族は愛情で結ばれた対立のない共同体ですが、個人の意識は独立できません。やがて子は独立して市民社会の一員となりますが、そこは互いの欲望がうずまく競争社会です。家族の愛情の結びつきと市民社会においての個人の意識の独立が弁証法によって統一したものが国家であるとヘーゲルは言います。彼にとって国家は人倫の理想的な形なのです。

観念論

世界をかたちづくるものの根源は、物質ではなく精神的なものだと考えることを観念論といいます。プラトンヘーゲルが代表的な観念論者です。
プラトン・・・世界はイデアのあらわれにすぎない
バークリ・・・世界は知覚されたものにすぎない
ヒューム・・・私は知覚の束です。実体はありません
ライプニッツ・・・世界はモナドでできている
シェリング・・・宇宙は精神を持った1つの生命だ
ヘーゲル・・・絶対精神が歴史を動かしている

34.アルトゥール・ショーペンハウアー

ペシミズム(厭世主義)

ヘーゲルは、歴史の進歩は人間が自由を手にするまでの過程であると考えました。けれどもショーペンハウアーは、人の行動やそれによってもたらされる歴史の変化に何か特別な意味はないと言います。
ショーペンハウアーは世界は盲目的な生への意志でできていると考えます。たとえば、細胞はつねに弱い細胞を駆逐しながら生き延びようとします。そこには存在への欲望があるだけで目的や意味などありません。ただ自然界の法則に従っているだけなのです。ショーペンハウアーは人間の行動とは、このような制御することのできない「存在したい」という意志が起こす衝動にすぎないと考えました。
この盲目的意志による争いの苦しみは永遠に続きます。社会全体がどれだけ変化しても、個人の苦しみがなくなるわけではないのです。このようなショーペンハウアーの思想はペシミズム(厭世主義)と呼ばれます。
ペシミズム・・・「存在したい」という「盲目的な生への意志」によって争いの苦しみだけが永遠に生み出される
彼はこの盲目的意志から一時的に逃れる方法は芸術に浸ることだと言います。また根本的に逃れるためには、他者に同情することで苦しみを人と共有するか、さもなくば仏教で解脱するしかないと説きました。

35.セーレン・キルケゴール

あれか、これか(弁証法の否定)

ヘーゲルにとって真理とは、みんなが納得する普遍的な考えのことです。それに対してキルケゴールが大切にした真理とは「私にとって真理であるような真理」でした。彼は誰にでもあてはまる一般的な真理を知ったところで意味はないと言います。弁証法のように「あれも、これも」取り込んで普遍的な真理を導きだすことよりも「あれか、これか」を主体的に選び取ることがキルケゴールの生き方でした。

主体的真理

ヘーゲルにとって真理とは、広く一般的なものをいいます。これに対してキルケゴールにとっての真理とは「私にとって真理であるような真理」、つまり主体的なものです。前者を客観的真理、後者を主体的真理といいます。

例外者

ヘーゲルは、万人に共通する(普遍的な)価値のためには例外的な価値が犠牲になることはやむをえないと考えました。これを「偉大なナポレオンが歴史を前に進めるために、行く先にある花を踏み潰すのは仕方がない」と表現しています。これに対しキルケゴールは普遍的な価値に含まれない例外者として存在することこそ本当の価値だと考えました。
キルケゴールにとって例外者として生きるということは、大衆の考えの中に埋没することなく、自分の信じるもの(彼の場合は神でした)の前にたった1人で立つ単独者であることを意味します。

実存主義

キルケゴールにとって重要だったものは、これまで哲学が探求してきた普遍的な真理ではなく、「私にとって真理であるような真理」(あれか、これか )でした。彼のように、今のこの現実を一般的な考えとは無関係に主体的に生きることを実存と呼びます。そして既存の哲学のように、客観的に世界を把握するのではなく、「この私」にとっての真理を探求する立場を実存主義といいます。
実存主義は、神など人間を超越した存在と対話する有神論的実存主義キルケゴールヤスパースなど)と、神を否定する無神論実存主義ニーチェハイデガーサルトルなど)に分かれます。

実存の三段階

キルケゴールは、人間が真の実存に到達するための道のりを三段階に分けて考察しました。これを実存の三段階といいます。
① 美的実存 第一段階は欲望のままに快楽を追求し、感覚的に生きるあり方です。これを美的実存と呼びます。このあり方では、いつまでたっても欲望が満たされることはないので、やがて自分を見失い、心身の疲れと空虚感によって絶望してしまいます。
②倫理的実存 第二段階は絶望した者が立ち直るために、自分の正義感をもとに社会貢献をして自己実現しようとするあり方です。これを倫理的実存といいます。けれども人間は完全ではないので、自己中心的になってしまい、やがて社会との摩擦が強くなって絶望してしまいます。
③宗教的実存 けれども、人間はこの絶望を通じて最終段階である宗教的実存へと到達します。宗教的実存とは神の前にたった1人で立つ単独者であることをいいます。絶望の中、神と直接対話するこの生き方で、初めて人間は本来の自分を取り戻せるとキルケゴールは考えました。

36.カール・マルクス

資本家階級(ブルジョワジー)/労働者階級(プロレタリアート

封建制は終わりを告げ、領主と小作人という生産関係はなくなりました。けれども次に訪れた資本主義制度は、資本家階級と労働者階級という新しい生産関係を生み出してしまったとマルクスは言います。
さらにマルクスは、資本主義がかかげる自由競争(自由放任主義)のもとでは、資本家同士だけが利潤の追求を行い、それによって労働者が搾取され続けることになると考えました。これを避けるために、土地や工場や設備などの生産手段は私有してはならず、公共化するべきだとマルクスは主張します。

生産関係

人間が生きるためには衣食住が必要です。マルクスは、衣食住に必要なものを生産するための土地や材料などを生産手段と呼びます。また、生産のために取り結ぶ人間関係のことを生産関係と呼びます。封建制での領主と小作人、資本主義体制での資本家と労働者のように、生産手段を持つ者と持たない者との間に、支配と服従というかたちで生産関係はあらわれます。
生産関係は、それぞれの時代の技術レベルによって決まります。やがて技術レベルが進歩し、生産力(生産物の供給能力)が向上すると、被支配階級が力を持ち始めます。そして被支配階級が支配階級から独立することで、次の時代の生産関係へと移行します。

(労働の)疎外

資本主義体制の下では、労働者は生産手段を持っていないので、自分の労働による生産物も、労働自体も、労働者自身のものではありません。労働者は生産物や労働自体から、疎外されている(のけ者にされている)のです。また、本来ならば、生産活動(労働)や生産物は、人々が連帯して生きていく(類的存在になる)ためのものですが、生産活動や生産物から疎外されるため、そうした連帯もできなくなるとマルクスは考えました。

階級闘争(社会革命)

支配階級と被支配階級の生産関係は一度出来上がってしまうと、支配階級がその制度を維持しようとするため固定化します。ところが技術の進歩によって生産力(生産物の供給能力)が向上すると、現状の生産関係に不都合が生まれ、階級闘争が起こります。その結果、新しい生産関係の時代が生まれるとマルクスは考えます。

上部構造/下部構造

マルクスは、各時代の生産関係による経済的な仕組みを、社会の 土台をなす下部構造と捉え、この土台の上に法律、政治制度や、宗教、芸 術、学問といった文化が上部構造として成立しているとしました。人間の 意識のあり方である上部構造は、経済的な土台である下部構造によって決 まるため、生産力が発展することで経済的な土台が変化すれば、それにと もなって上部構造も変化するとマルクスは考えます。
上部構造(人々の意識のあり方)→法律、政治、道徳、文化など人の意識のあり方
下部構造(経済構造)→各時代の生産関係による経済構造。その時代が封建的か、資本主義的か社会主義的かなどの下部構造が、人の考え方である上部構造を決定する。たとえば、「贅沢」に対する人々の意識は、中世封建制では厳禁、社会主義では平等をけがすもの、資本主義では憧れとなることが多い。つまり、人の意識が経済構造を作るのではなく、経済構造が人の意識を作る。

イデオロギー

自分の思想や信念は自分の意識が生み出したわけではなく、その時代の下部構造に決められているとマルクスは考えます。たとえば、中世封建制において贅沢は悪ですが、資本主義体制では悪ではありません。このように社会的な条件の下で共有される観念をイデオロギーと呼びます。
自分が生きている時代の生産関係を意識せずに、あたかも自分が主体的に考え出した意見のように発せられた主義主張をマルクスイデオロギー(疑似意識)と呼んで批判しました。

唯物史観

人は衣食住のために、物を生産し続ける必要があります。そのため人は、その時代の技術レベルに見合った生産関係を結びます。すると、生産関係が土台(下部構造)となって人の意識のあり方である政治制度や文化(上部構造)が生まれます。やがて技術の進歩により生産力(生産物の供給力)が増大すると、それまでの生産関係が維持できなくなり、階級闘争が起こります。こうして時代は、奴隷制封建制→資本主義→社会主義共産主義の順で進歩するとマルクスは考えました。この ように、歴史を動かす原動力を、人の意識といった精神的なものではなく、生産力の発展といった物質的なものだと考えることを唯物史観史的唯物論)といいます。

唯物論

世界をかたちづくるものの根源は、精神的なものではなく物質だと考えることを唯物論といいます。デモクリトスマルクスが代表的な唯物論者です。
タレス・・・万物の根源は水である
デモクリトス・・・世界は原子でできている
エピクロス・・・僕も万物は原子でできていると思う
ホッブズ・・・国家は人工的に作られました
マルクス・・・生産関係が歴史を動かしている
現代の一般的な科学者・・・世界は物質でできているなんて常識です

37.フリードリヒ・ニーチェ

ニヒリズム

産業革命以降、工業化による公害や景観の悪化、過酷な労働など、新たな問題が次々に生まれました。それまで文明の進歩は人類を幸せにするものと信じられてきましたが、じつはそうではないかもしれないという考えが蔓延し始めます。
そして、キリスト教も合理的な近代文明とは相容れない価値となり、影響力を失っていきます。キリスト教を道徳の基準としていた人々は心の寄りどころを失ってしまいました。
人々が自分の行動の目的を見失うニヒリズムの時代の到来を確信したニーチェは「神は死んだ」と宣言します。このような時代の中、自分自身で新しい価値を作り出す能動的ニヒリズムという生き方と、既存の価値の損失によって、生きる気力を失ってしまう受動的ニヒリズムがあるとニーチェは言います。
能動的ニヒリズム・・・今までの価値が間違っていたのなら自分だけの新しい価値を作ろう!
受動的ニヒリズム・・・今まで信じてたものがすべて間違ってた!もうどうでもいいや!

ルサンチマン

弱者が、力ではかなわない強者のことを悪に仕立て上げ、自分を納得させる心理をニーチェルサンチマンと呼びます。たとえば貧しい人がお金持ちを悪だとみなすことによって精神的に優位に立とうとすることです。
ルサンチマン・・・元々は「恨み」「怨恨」の意。これをニーチェは弱者が強者を憎悪する心理を表す語として用いた。弱者は自分を善、強者を悪と思い込むことによって自分を精神的に優位に立たせる。弱者のこの性質によってキリスト教が爆発的に広まった
キリスト教は、人々の心の中にあるルサンチマンを道徳という言葉に変えて正当化したので、爆発的に受け入れられたのだとニーチェは考えました。

奴隷道徳

ダーウィンによれば、自然界の生物は強い者が生き残る自然淘汰によって進化してきました。そこには善悪という道徳は存在しません。強い草花が弱い草花を駆逐して増えたからといって強い草花が悪ということではないはずです。
ところが人間界には往々にして才能や健康に恵まれた強者が悪で弱者が善という道徳が見て取れます。どうして人間界だけにこのような価値観が存在するのでしょうか?
ニーチェによれば人間の弱者は束になって、実際の力ではかなわない強者を「思いやりがない」とか「欲が深い」と決めつけ、精神的に優位に立とうとします(ルサンチマン)。このような弱者の畜群本能が道徳という価値を捏造したのだとニーチェは考えました。
つまり道徳は大多数である弱者が少数の強者に抵抗するための生存本能だというわけです。そしてキリスト教はこれを支持したために、爆発的に広まったのだとニーチェは考えました。彼はキリスト教が説く道徳は本来の価値を反転させたいびつなものであり、奴隷道徳であると主張しました。
ニーチェは奴隷道徳にかわって、貴族主義的な「主人道徳」を説いている)

力への意思

ニーチェは人の行動原理は力への意志だと考えました。強くありたいという気持ちがすべての感情や行動のもとになっているというのです。人が怒ったり笑ったり悲しんだりするのは自分の力が認められたり、けなされたりするからだとニーチェは言います。
部下が挨拶しないと上司は「常識がない」と言って怒ります。けれども本当は部下に常識がないから怒るのではなく、自分が無視されて悔しいからだとニーチェは考えます。もっともらしく一般的な正義や道徳を持ち出す背後には強くありたいというカへの意志が隠されているのです。
ニーチェの「力への意志」という思想には、ショーペンハウアーの哲学の影響が見て取れる)

遠近法主義(パースペクティヴィズム)

ネコにはネコの、人には人の景色の見え方があります。人間はネコよりも「高度」に世界を理解していると思ってしまいそうですが、「高度」という考え方は人間特有の考え方にすぎません。もしこの世界に人間がいなければ高度も低度もないのです。客観的事実は存在せず、あるのは人間の解釈のみだとニーチェは言います。
つまり世界に普遍的な価値は存在しないのです。同じ景色を見ても一人一人別々の消失点があるように価値も一人一人違うはずです。この考えを遠近法主義(パースペクティヴィズム)といいます。

永劫回帰

石ころをいくつかつかんで、地面にばらまく行為を何回も繰り返せば、いつかはまったく同じかたちで地面に配置されます。この行為をさらに無限回繰り返せば、何度も同じ配置になるはずです。
ところで、原子は100種類ほどあるといわれていますが、すべての物質はその組み合わせによるものです。私たちの世界は原子の組み合わせでできています。
物事が変化する前後で原子の種類と数は変化せず、時間は無限だと考えると、さきほどの石ころの例のように、私たちが今生きている世界とまったく同じ原子の組み合わせは、無限の時間の中で、今後何度も回ってくるし、過去に何度も繰り返されていたことになります。
永劫回帰・・・ビッグバン→宇宙の誕生→私たちの生活→ビッグバン→宇宙の誕生→私達の生活→ビッグバン→宇宙の誕生→私たちの生活
このように考えると時間は円環運動をしていることになり、歴史に進歩や前進はなく、ただ変化のみが存在するのです。ニーチェはこれを永劫回帰と呼びました。
キリスト教ヘーゲルの歴史の考え方は目的に向かって進歩している
ニーチェにとって歴史は進歩も前進もないただ円環運動する時間の中で変化するのみ

超人

人類には共通の目標があり、歴史はそれに向かって進歩しているというのがヘーゲルの考え方でした。けれども、神が死んだニヒリズムの世界では、人は目標に向けて生きる力を失い、ダラダラと毎日を生きることを求めるようになるとニーチェは言います。彼にとって私たちは円環運動をする時間の中をただ生きているだけなのです。
ニーチェはそれでも永劫回帰を肯定します。なぜなら既存の価値に捉われず自分自身で自由に目標を決めることができるからです。
ニーチェ永劫回帰を「これが生きるということか。ならばもう一度」と肯定的に受け入れ(運命愛)、既存の価値に捉われずに新しい価値を生み出す人間を超人と呼びます。彼にとって超人とは真の意味で自由な存在なのです。
超人は奇想天外な発想で新しい価値を作る・・・(たとえばユダヤ教の教えを破ってでも自分の信念を貫き通したイエス・キリストは新しい価値を生み出した超人。ニーチェキリスト教は強く批判したが、イエス本人のことは否定していない)
ニーチェによると超人は、奴隷道徳に捉われている人たちから初めは理解されませんが、奇想天外なアイデアで既存の価値を失った重苦しいニヒリズムの世界に風穴をあけます。
そして、次に訪れるルサンチマンの存在しない世界で、超人たちは子供のように無邪気に楽しく生きることができるのです。

38.ジェレミーベンサム

功利主義

人間とは快楽を求め、苦痛を避ける生き物だとベンサムは考えました。
したがって彼は、何かしらの行為が人の快楽に結びつけばその行為は善、苦痛に結びつけば悪だと定義しました。善悪の判断基準を快をもたらすかどうかに求める考えを功利主義といいます。
善悪を客観的に判断できる功利主義は、現在でも倫理学政治学などの分野にも大きな影響を与えています。
(行為の結果を重視するので「結果説」と呼ばれる)

快楽計算

人間の本質は快楽を求め、苦痛を避けるものだとベンサムは考えました。そして彼はこの快楽と苦痛の数量化を試みます。彼は快楽を強さ、持続性、確実性などの視点で計算しました。これを快楽計算といいます。
快楽計算・・・快楽を強さ、持続性、確実性などの視点で数量化して計算する方法
彼は、快楽計算による点数の高い個人が多い社会ほど幸福な社会であると考えます。身分の高い人の点数もそうでない人の点数も同等に換算されるこの考え方は、民主主義の発展に大きく貢献しました。彼は言います。「個人は等しく1人と数えられ、誰もそれ以上には数えられない」

最大多数の最大幸福

ベンサムは快楽計算による点数の総合計が高い社会ほど幸福な社会であると考えました。
そのためベンサムは、できるだけ多くの人にできるだけ高い快楽指数が与えられなければならないと考えました。彼はこれを「最大多数の最大幸福」と表現し、立法の規準とします。
上部のみ幸福度が高い絶対王政などの封建社会は、快楽指数の合計が低くなってしまいよい社会とはいえない

39.ジョン・スチュアート・ミル

質的功利主義

ミルはベンサムの快楽の数量化(快楽計算)に疑問を持ちます。なぜなら、快楽には量的な違いのほかに質的な違いがあるからです。ミルは快楽の質の方を重要視しました。これを質的功利主義といいます。
ミルは肉体的快楽よりも精神的快楽を質の高いものであると考え、精神的快楽は他人の幸福によって得られるはずだと信じます。彼は「満足した豚であるより、不満足な人間である方が良い」のスローガンの下、功利主義をより理想的なものに修正しました。

40.チャールズ・サンダース・パース

プラグマティズム実用主義

パースにとって「何かについての知識」とは「その何かにどのような行動(行為)ができて、その結果どうなるかの知識」のことでした。たとえば、「氷」を 「知っている」ということは、「氷そのもの」を「知っている」ことではなく、「氷はさわると冷たい」とか「氷は熱をあてると溶ける」ということを「知っている」ということです。たとえ形や素材が「氷」であっても、さわっても冷たくなければ「氷」ではありません。
つまり何かに対する知識とは、何かに対する(実際に検証できる)行動の結果を予測することだということができます。
知識を行為の結果と結びつけたパースの考えをさらに発展させたのが彼の友人だったジェイムズです。ジェイムズは、ある知識をもとに行動した結果が有用であればそれは真理だと言います。これを実用主義といいます。また、デューイは知識それ自体に価値はなく、人間にとって有用な道具でなくてはならないとする道具主義を唱えました。
知識とは効果の予測のことであり、なおかつその知識が人間にとって有用であれば真理であるとみなす立場をプラグマティズムと呼びます。
実用主義(ジェイムズ)・・・実生活で有用な知識は真理
道具主義(デューイ)・・・知識はそれ自体に価値はなく、行動の役に立つ道具でなければならない
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