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【映画メモ】ガリー・キーン、アンドリュー・マコーネル監督『ガザ 素顔の日常』(アイルランド・カナダ・ドイツ 2019年)

@横浜シネマリン
 
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以下引用。
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・1967年、イスラエルとアラブ連合(エジプト・シリア)の間で第三次中東戦争 ガザはイスラエルの軍事占領下に置かれる
・1987年、パレスチナ人の不満が一挙に爆発し、 ガザ地区の難民キャンプから「インティファーダ」と呼ばれる反占領闘争が広がる。 デモやストライキ、子どもの投石、イスラエル製品の不買などの抵抗運動は世界中に占領の実態を知らせ、 イスラエル国内でも占領の是非に関する議論が起こる
・1993年にノルウェーの仲介により、 イスラエルのラビン首相とPLOパレスチナ解放機構)のアラファト議長の間で「西岸及びガザで5年間のパレスチナ暫定自治を開始する」という暫定合意条約(オスロ合意)が米国で調印される。
パレスチナ自治の開始
1994年以降、ガザとヨルダン川西岸でパレスチナ自治が開始されました。 外国の援助による難民キャンプのインフラ整備も徐々に進み始めました。 しかし、細分化された「自治区」の多くは依然としてイスラエル軍の占領下にありました。 そして、自治政府の腐敗や非効率性がパレスチナ経済の発展を阻害しました。
一向に変わらない状況への強い不満を背景に、武装組織によるイスラエルへの攻撃が続けられました。 それらに対し、イスラエル側は激しい報復措置とさらなる自治区封鎖を行いました。 多くのパレスチナ人が刑務所に収容され、入植地の建設はさらに活発になっていきました。
・和平の破綻とイスラエルの大侵攻
2000年、PLOアラファト議長イスラエルのバラク首相によるキャンプデービット会議が不調に終わり、 パレスチナ人の間に失望感が広がります。 同年、イスラエル右派のアリエル・シャロン元国防相が一団の武装集団を引き連れてエルサレムイスラム教聖地を強行訪問し、 パレスチナ人の怒りが再燃しました(「第二次インティファーダ」のはじまり)。 イスラエル側は重火器を投入して一般市民を攻撃し、パレスチナ側では自爆攻撃が相次ぎました。
イスラエルでは2001年にシャロン政権が誕生し、2002年4月にはパレスチナ自治区への武力攻撃がかつてない規模で開始されます。 戦車や戦闘機が大量投入され、多数の非武装市民が犠牲になりました。 2000~2005年の間の衝突による死者は、パレスチナ側3,339人(うち子ども660人)、 イスラエル側1,020 人(うち子ども117人)にのぼりました。
自治区封鎖の強化と「隔離壁」の建設
2005年、ガザ地区からイスラエル軍・入植者が撤退しました。 しかし同地区は依然イスラエル軍に包囲され、封鎖が続いています。 2007年の選挙結果によって、ガザにそれまでのPLOではなくイスラム政党ハマス主体の政府ができて以降は、 封鎖は更に強化されました。
2008年、2012年にはイスラエルによる大規模な軍事侵攻が行われ、多数の一般市民が犠牲になりました。 人や物資の移動も制限され、ガザ地区では深刻な物資不足や生活環境の悪化、経済・社会活動の停滞が起きています。
西岸地域では、2002年から巨大な「隔離壁」(西岸とイスラエルを隔てるコンクリートや鉄条網の壁)建設が開始されました。 隔離壁は1949年の停戦ラインを超えて建設され、ユダヤ人入植地や入植者専用のハイウェイも組み込まれたため、 パレスチナ自治区は飛び地状態になっています。 国際司法裁判所は、この隔離壁パレスチナ自治を阻害し、生活圏を分断するものであり国際違反と裁定を下しましたが、 壁の建設は続行されて西岸は取り囲まれ、人々の移動が制限されています。
・かなわぬ平和への願い
国際社会では2012年、パレスチナの国連へのオブザーバー加盟が圧倒的多数で承認され、 パレスチナは国家としての存在を認められました。 2014年は国連パレスチナ連帯年とされました。 しかし、パレスチナの状況は大きく改善されてはおらず、パレスチナ人の独立・平和への強い願いはかなえられていません。 2014年夏には再びイスラエル軍によるガザへの大規模な軍事侵攻が勃発し、450人の子どもを含む、 2,200人以上の人々が犠牲となり、 2021年5月には11日間にわたって空爆が続き、民間人や子どもを含む約2,500人が死傷しています。
イスラエル国内では、パレスチナとの和平や交渉を望まない人が増え、排外的な政治がますます強まっています。 国際社会はこうした状況に有効な手が打てておらず、犠牲は増える一方です。 また、イスラエルパレスチナという二つの独立国家が隣り合わせで共存するという構想もとん挫したまま、 残念ながら展望はみられません。
・1948年、イスラエルの建国宣言を受けて第1次中東戦争が勃発しました。 200以上の村が破壊され、70万人以上のパレスチナ人が故郷と家を失いました。
これを、パレスチナでは「ナクバ」(破局)と呼んでいます。 周辺諸国に逃れたパレスチナの人々は、以来「故郷への帰還」を切望しながら、70年以上にわたり難民として生活してきました。
当初70万人だった難民は、避難先で三世代、四世代目となり、 今や約560万人に達して世界で最も大きな難民グループとなっています。
UNHCR(国連高等難民弁務官事務所)が発表している世界の難民総数およそ2,590万人に照らすと、 実に5人に1人がパレスチナ難民です。
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引用終わり。
・狭い場所に200万人 封じ込め
・頻繁な停電 電気は1日4時間
・慢性的な不況
インティファーダ、投石 不当逮捕
・鮮やかなアラブ衣装/アバーヤ、ヒジャブ
・漁業可能海域も徐々に狭められる
・ラップ
・自由がない 普通の独立国になりたいだけ
ハマス
 
アフタートーク
手島正之(パレスチナ子どものキャンペーン)
関根健次(ユナイテッドピープル)
バックパッカー、99年ガザ初訪問
・200万人中140万人が難民
・経済封鎖→完全封鎖
・水、食料、燃料、医薬品がない
・麻酔無しで手術
・カメラマンzoomインタビュー
・人道、人道主義はどこにいったのか
・ネットがない、電気がない、スマホ充電できない
・戦争ではなく虐殺 一方的
・とにかく即時停戦
・外国人ジャーナリスト一人も入れない
・世界最大レベルの人口密集
・ネタニヤフ連立政権 ユダヤの力=極右政党 核兵器使用発言
 
◆感想:ガザのことを具体的にほとんど知らなかったので、
この映画で普段の生活がとてもわかり易く描かれていて大変ためになった。
なんとか明るく振る舞っているが、いつでも戦争と隣り合わせ。
国外旅行や留学する自由もない。
慢性的な不況。
電気も一日4時間くらいしか使えない。
身内がイスラエルに殺された人などは当然憎しみを抱える。
それがハマスに結びつく。
インティファーダ、国境の壁への投石運動。
この不条理で悲しい状況はいつまで続くのか?という映画だったが、
この映画から4年後のいま、さらに最悪の状況になってしまった。
 
この映画は自分から見れば非常に抑制的に、非政治的に撮れていると感じるが、
ガザの不条理な状況を世間に知らしめることが目的の映画であることは間違いないので、
イスラエル側からみれば、パレスチナの肩を持つプロパガンダ映画ということになるのかもしれない。
だとしたら、イスラエル側の正義を主張する映画がもしあるのなら観てみたい。
自分にはイスラエルの正義が全くわからない。