マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】浅田彰『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫 1999年)

単行本は1994年。
目次

 

第1章 歴史の終わり? フランシス・フクヤマとの対話

・1989 フクヤマ「歴史の終わり」
ヘーゲル「歴史とは、異なったイデオロギーを奉ずる者たちの繰り広げる闘争の歴史」
・元々はコジェーヴ
自由主義全体主義に勝利し、共産主義にも勝利した
フクヤマの祖父 河田嗣郎(京大教授→大阪商科大学初代学長)
シンクタンク ランド・コーポレーション
・対談は92年 クリントン大統領誕生前夜

「歴史の宙吊り」から抜け出す日本

・日本 新憲法によって戦争を放棄し、世界史のゲームプレイヤーであることをやめて、外交と安全保障に関して全面的にアメリカ依存。そして、国内における経済成長に専念→「歴史の終わり」ではないにしろ、「歴史の宙吊り」
・50-60年代 日本でもアメリカ的モダニズム → 70年代以降 豊かな消費社会の中で記号のゲームに耽る、一種のポストモダニズムコジェーヴの言う日本的スノビズム
80年代末、消費社会とバブル経済の自閉的な爛熟の中で、ある種の閉塞感
土井たか子 社会党の旧体制によって引きずりおろされる
・他方、もっと強力な歴史回帰の動き 小沢一郎江藤淳
フクヤマ本の訳者 渡部昇一

「歴史以後」の経済的競争

・軍事的な競争(闘争)→経済的な競争(闘争)
・激しい競争→人々に企図を与え、歴史以後の無為から救い出してくれる
・「気概」(thymos)の概念
・テクノ・ナショナリズム
・政治的イデオロギーをめぐる闘争→経済的イデオロギーをめぐる闘争

モザイク化とブロック化

>>この頃はアジアのリーダーに日本がなる予測もあった<<
・東西の対立→南北問題

第二世界と第三世界

世界システム論 南側の低開発は北側の発展の裏面

「最後の人間」――アメリカと日本

・まず問題になるのは、歴史以後の人間のありかたです。歴史的闘争の緊張から解き放たれた人間は、安逸と退屈のなかで、ニーチェのいう「最後の人間」(末人)のような存在へと退化してしまうのではないか。アメリカ的あるいは日本的な消費社会における人間はすでにそうなっているのではないか。
・日本に対するあなたの評価に比べて、コジェーヴの評価ははるかにアイロニカルなものだったと思います。かれは、物質的充足のなかで惰眠をむさぼる「アメリカ的動物」と、もっぱら見かけだけのために無意味な形式の反復と洗練に没頭する「日本的スノップ」を、歴史以後の人間のとり得る2つのパターンとしてあげている。鎖国下の無風状態のなかで、茶道や華道はおろか、武道、はては切腹まで様式化してしまった江戸時代の文化が、後者のパラダイム(範例)です。そういう無意味な洗練こそ歴史以後の時間つぶしにふさわしいと言ってのけ、歴史以後の世界は日本化していくだろうと予言するコジェーヴの口調には、悪魔的なアイロニーといったものさえ感じられます。
フクヤマ 日本について驚くべき点は、それがはじめて純粋な大衆文化を持った国のひとつだということです。そこではだれもがTVをもっていて、同じクイズ番組を見ている。 もちろん、これは世界的な傾向であるには違いありません。とはいえ、フランスのような国では、良くも悪くも、まだエリート文化と大衆文化の区別の名残がある。ところが日本では、文化全体の水準が大衆文化によって決定されている。それが文化全体の質を侵食しているのです。
浅田 たしかにそれは安定しているし、見かけはカラフルでもある。と同時に、全体として画一的で、救いがたく退屈です。
フクヤマ さっきも言ったように私はロシアから帰ってきたところですが、ロシア人たちが喉から手の出るほど欲しがっているのは、まさしくその日本的な安定と退屈なんですね(笑)。

「優越願望」と「対等願望」

・「気概」、「優越願望」をどのように制御できるか。
>>安定した、平和な社会が実現したときに最大の敵は退屈<<
ヘーゲルの言うように、究極的には、人間は死を賭してみせるからこそ人間なのであり、戦争はそのための最高の試練なのです。ヘーゲルは、戦争を否定していません。戦争は人間が真に人間であるために必要であり、「歴史の終わり」にあっても消滅することはない、と考えていたのです。しかし、ヘーゲルの時代には核兵器はなかった。 それが最大の問題です。
・本格的な戦争の不可能な時代

自由民主主義は人類の最終解決なのか

・「歴史の終わり」=どこまでいっても仮説
(『SAPIO』1993年1-2月号)

第2章 「世界新秩序」の内部と外部 スラヴォイ・ジジェクとの対話

ジジェク スロヴェニア民主化運動」のリーダーの一人 1990年大統領選出馬
・過激なアイロニーを帯びたドグマティックな断定を機関銃のように打ち出しながら憑かれたように語りつづけるその姿のなかに、われわれは、東欧の小国で波瀾に満ちた現代史を生き抜いてきた知識人の悪魔的なまでに鋭い弁証法的知性を見る
・ある政治システムが完成されて勝利をおさめる瞬間は、それがはらむ分裂が露呈される瞬間
・実際、勝ちをおさめたかに見える自由民主主義の「世界新秩序」は、「内部」と「外部」の境界線によってますます暴力的に分断されつつあります。「新秩序」のなかにあって人権や社会保障などを享受している「先進国」の人々と、そこから排除されて最も基本的な生存権すら認められていない「後進国」の人々を分かつ境界線です。しかも、それはもはや国と国との間にとどまらず、国の中にまで入り込んできています。かつての資本主義圏と社会主義圏の対立に代わり、この「内部」と「外部」の対立こそが現在の世界情勢を規定していると言っていいでしょう。
ブルース・スターリング『ネットの中の島々』(1988) サイバーパンク中世(プレモダン)
自由主義的資本主義に内在するネガティブな諸契機
・資本主義と伝統との矛盾に直面したとき、かれらは二重否定を行い、資本主義を拒否すると同時に、伝統をも解体してゼロからやりなおそうとする。=カンボジアクメール・ルージュ、ペルーのセンデロ・ルミノソ
★これが表していることは、資本主義が前資本主義的な社会的紐帯の支えなしには存続し得ないということ=基盤的コミュニズム
ポル・ポトマラルメランボー研究の仏文学教授、アビマエル・グスマン=カント空間論研究の哲学教授
・ネガティヴな面=過去の残滓ではなく、ポストモダンの産物
リオ・デ・ジャネイロ 豊かな人々と貧民の2つの世界、子供が車に轢かれても気にしない

ユーゴスラヴィアの悲劇

・現代世界のもっとも鋭い矛盾は、資本主義システムの「内部」と「外部」の境界線上に見いだされる
セルビアによるムスリム虐殺 「民族浄化

レイシズムと”メタ・レイシズム

レイシズムが、リベラルな外見、むしろレイシズムに反対するかのような外見を取る=バリバール『人種・国家・階級』
・リベラルな排除

リベラリズムと「ラディカルな悪」

・ポリコレ主義
スピノザ主義=神→智 vs ファンダメンタリズム原理主義)、ラディカルな悪
(『SAPIO』1993年3月号)

第3章 歴史の袋小路をぬけて エドワード・サイードとの対話

・PNC(パレスチナ民族評議会)議員 PLOパレスチナ解放機構アラファトと近い仲
・「歴史の終わり」。しかし、冷戦が「歴史の宙吊り」だったなら、むしろ「歴史の再開」。
・ヨーロッパ中心主義というパースペクティブ
>>日本=記号(ポストモダン)の牢獄。日本自体がディズニーランドのような虚構のシミュラークル<<

ポスト植民地時代のアメリカ帝国主義

・ポスト植民地時代の帝国主義の問題を正しく視ること
アメリカ帝国 人口の6%を占めるアメリカが世界の石油の30%を消費する権利をもつ
・1947-67 年に1回はアメリカによる世界各地への介入 グレナダパナマニカラグア
湾岸戦争 国連の利用とメディアを駆使した世界の世論操作
・石油を確保するための戦争
歴史の袋小路に追い込まれるパレスチナ
パレスチナ自治区居留地アメリカ・インディアンのような境遇
グラムシ「認識においては悲観主義者、意志においては楽観主義者であれ」

ヨーロッパ人の人権とパレスチナ人の人権

ドゥルーズ=ガタリ 資本主義の「脱領土化」、国家の「再領土化」
・『GS』ジュネ特集
・68年全共闘世代の転向はあまりにひどい。
・ベルナール・アンリ・レヴィ 反パレスチナ
・ハバーマスの公衆(カフェ)=過度に理想化された18世紀ヨーロッパへのノスタルジー 形式としての対話の空虚さ 「熟議」批判
・サイード 専門的知識人ではなく一般的知識人。論壇、文壇の存在意義

地中海的な多様性をめざして

・最近の民族運動や宗教運動=古い形態への回帰ではない。むしろ、ポストモダンの産物。
・多様性をはらんだ地中海世界は近代ヨーロッパの礎 ルネサンス=アラブ世界からの刺激
・地中海の文化交換 交流 開かれたスタイル
・中国→朝鮮→日本
(『SAPIO』1993年4月号)

第4章 ベルリン-バグダッド-リオ アラン・リピエッツとの対話

・フランス レギュラシオン(調整)学派 緑の党
・『ベルリン-バグダッド-リオ』
・89/91 第一のサイクル、1917年のロシア革命に始まる中央集権型の社会主義サイクルが終わった
・第二のサイクル 18世紀の啓蒙主義に始まる、技術的進歩と生産力の増大が社会的進歩と生活の向上につながるはずという進歩主義
・73年のチリのクー・デタをひとつの終止符と考えることもできる アジェンデ→ピノチェト
・45年フォーディズムの始まり 73年の石油ショックまで急速な経済成長→どこかで必ず限界に達する
・68年5月革命=フォーディズムに基づく大量生産・大量消費社会に対する根源的な異議申し立て。エコロジカルな要素。

ベルリン―「壁」の崩壊の負の遺産

・イタリアの南北問題

バグダッド湾岸戦争の意味

アメリカおよび西欧が自らの作り出した「フランケンシュタイン」を破壊しようとするという倒錯
・言うまでもなく石油のための戦争
・日本やドイツ→省エネへシフト。アメリカは相変わらず

リオ―「地球サミット」はなぜ貴重な第一歩を踏み出せなかったか

・1992年6月リオ・デ・ジャネイロ「環境と開発に関する国連会議」「地球サミット」温暖化問題の最初
湾岸戦争=ヨーロッパと日本がアメリカに追随

「北」と「南」の相互貫入と矛盾の激化

アメリカとメキシコの国境では、アメリカの企業が低賃金労働を求めてメキシコに工場を作るといった形で、アメリカがメキシコに滑り込んでいくと同時に、かつてはメキシコに特有だった低賃金や社会的排除の現象がアメリカの内部に入り込んでくるという、北と南の相互貫入を見て取ることができる
・「富者の人種差別」と「貧者の人種差別」
テオ・アンゲロプロスこうのとり、たちずさんでギリシャ国境 移民・難民問題
・地球規模のマーシャル・プラン=単なる理想論ではない

政治的エコロジーの展開

・人新世
・ロンドンの都市の惨状=ディケンズの小説
・さて、社会的に言えば、資本家に賃金労働者の生活を考慮させ、彼らを保護する制度的手段をとらないかぎりプロレタリアの消滅を通じて資本主義の解体がもたらされかねないことを理解させたのは、社会主義の闘争の偉大な成果でした。社会主義といっても、なにか理想的な状態をめざす社会主義ではなく、資本主義社会の中にあって現実的に矛盾を克服しようとする運動としての真の社会主義です。=それこそがマルクスによる共産主義の定義→住環境の改善や上下水道の整備
・衛生学運動はフーコーの言う生-権力の一部か?
・北側のマルサス主義的な反応=新参者を制限する=南側の人口爆発と発展のせいにする

グローバルに行動し、ローカルに考えよ

・2040年人口100億人の予測 >>当時の予測よりだいぶ鈍化している。現在78億<<
排出権取引

「純粋な自然」への回帰をとなえる神秘的エコロジーの危険性

・14世紀半ばから2世紀の間、ペストの大流行 欧州で1億人死亡
・「反動的イデオロギー
・「社会」の外部性 呪われた部分
(『SAPIO』1993年 10月、11月号)

第5章 シミュレーションの彼方に ジャン・ボードリヤールとの対話

・92年『終わりのイリュージョン』西暦2000年は来ない
ヴェネツィアビエンナーレ ハンス・ハーケ ドイツ館

終わりのイリュージョン

・歴史の終わりではなく、歴史の再開でもなく、歴史はたんに中途で雲散霧消してしまった。
・「歴史の消失」
・「この歴史の消失については、いくつかの見方があります。出来事を生み出す過程があまりに加速されたため、それがいわば脱出速度を超えてしまい、各々の出来事は意味を失って、地上の歴史的現実をはなれ、軌道上のシミュレーション空間に飛び去って行ったのだ、と考えることもできるでしょう。また逆に、人口がいわば臨界質量を超えて大衆社会を形成するとき、その大衆の膨大な無関心の慣性のため、巨大な質量をもつブラック・ホールの近傍におけるように、歴史の時間の流れがだんだん遅くなり、ついには止まってしまうのだ、と考えることもできるでしょう。あるいは、あまりにも高度のハイファイ装置が音楽らしい音楽を消失させてしまうように、すべての出来事をリアルタイムで詳細に報道するメディアのおかげで、歴史が情報の洪水のなかに散逸してしまうのだ、と考えることもできるでしょう。いずれにせよ、歴史は中途で雲散霧消し、私たちは知らぬ間に歴史の終わりの向こう側まで出てしまっていたのです。」
・ポリティクス→トランスポリティクス エコノミクス→トランスエコノミクス ヒストリカル→トランスヒストリカル もはや合理性がない 自動機械のよう
歴史的な価値のとめどもないデフレーションニーチェ「最後の人間」(末人)
・『湾岸戦争は起こらなかった』TVのスクリーンを埋める映像のように、歴史の空虚を意味もなく埋めてゆく非-出来事。
・反動的イデオロギーもシミュラクルにすぎない

意味を失ったリアル・ポリティクス

・あるシステムが普遍化されるということは、そのシステムの矛盾も普遍化される

シミュレーションの彼方に

★「私は情報化された消費社会においてシミュレーションがすべてを覆い尽くしてゆく状況を分析したわけですが、そのときも、現に起こっている出来事を、クールに、ただし若干のアイロニーをもって記述しただけであり、シミュラクルを捨ててありもしない「現実」に回帰すべきだなどと言ったことはありません。それが私とシチュアシオニストとの違いです。」
・68年の疎外論はもはや通用しない。疎外ではなく絶滅。緩慢な絶滅
・シミュレーションの全面化は克服すべき問題というよりも、消費社会に現に起こっている出来事
・シミュラクル=オリジナルなしのコピー

イリュージョンへの賭け

記号論的な差異が飽和し、無差異=無関心(アンディフェランス)の点にまで到達してしまった

「日本的スノビズム

・70-80年代の日本のポストモダン消費社会の爛熟ぶりは、世界に例のないものだった。→もっとも興味深い実験場。
(『SAPIO』1993年8、9月号)

第6章 メディア・ランドスケープの地質学 J・G・バラードとの対話

・上海生まれ。日本軍の収容所『太陽の帝国』(84年)
・『結晶世界』(66)、『ヴァーミリオン・サンズ』(71)
アポロ計画までのアメリカの宇宙計画=巨大なショー・ビジネス
・宇宙時代さえ、75年には終わった。

進歩の夢は60年代に死んだ

・63年ケネディ暗殺
ボードリヤールアメリカ』。文化の〈砂漠性〉。「アメリカにディズニーランドが必要なのは、アメリカ全体がディズニーランドであるという事実を隠すため」
ケネディ暗殺は60年代以後の世界を生み出す触媒だった。
・虚構としてのレーガン

日本だけが未来を夢見ている?

・父性→母性的に全てを包み込む(宇野常寛の議論)
・87年ブラック・マンデー→日本のバブル景気へ

バラード的想像力の勝利

シュールレアリスムとレアリスムの総合。夢を現実として、現実を夢として捉えなおすこと
(『03』1991年5月号)

第7章 「事故の博物館」のために ポール・ヴィリリオとの対話

・「事故」=偶然的なものではなく、本質的なもの
キリスト教の「原罪」にならって「原事故」。はじめから事故を内包している

地政学から時政学へ

・『純粋戦争』日常がすでに戦争

過剰露出

ナムジュン・パイク
マクルーハン「グローバル・ヴィレッジ」
・技術に、したがって事故に、あえて身を曝すこと。
ドゥルーズの「超人」解釈=あらゆる技術(≒事故)に開かれた者。開かれたインターフェースの集積≒このうえなく弱い。だからこそ「超人」。
(『朝日ジャーナル』1988年11月号)

第8章 芸術とは、別の手段による戦争の継続である I・ギュンターとの対話

・87年カッセル<ドクメンタ8>
>>政治イベントの集客、マネタイズの可能性<<
ヨーゼフ・ボイス「芸術家は絵筆や画布を捨てて社会の中へ出て行き、境界を越えて活動すべき」
・ロバート・ロンゴ「ボードリヤールや、ボードリヤール流のシミュレーショニストたちは、消費社会の華やかな表層をなぞってみせるに過ぎない。しかし本当の問題は、そんなところにではなく、消費社会の背後のグローバルな資本主義と、そのテクノ-ミリタリー・システムにあるのだ。それを問題にしているヴィリリオのほうがずっと面白いし、自分もそういう次元で勝負をしたい。」
・(特に芸術の分野での)「前衛」という言葉の形骸化。戦わない、安全な「前衛」。
・いまの戦場は、メディアを通じた情報の戦争=脳、マインドをめぐる戦争
クラウゼヴィッツ「戦争とは別の手段による政治の継続」→「芸術とは別の手段による戦争の継続」

巨大システムの裂け目に潜入する

・ランドサット衛星

反コミュニケーションのマニフェスト

・クラウス・フォン・ブルッフ ドイツのビデオアートのパイオニア
(『朝日ジャーナル』1989年6月号)

第9章 アメリカは退屈で死に、日本は虚無をぬくぬくと生きる S・ロトランジェとの対話

・雑誌『セミオテクスト』、叢書『フォーリン・エージェント』
コジェーヴが、ヘーゲル流の歴史が終わったあとのポストヒストリカルな状態のモデルとして、まず物質的飽和に基づくアメリカ的生活様式、次に空虚な形(形式)の反復に終始する日本的スノビスムをあげている
浅田彰「子供の資本主義と日本のポストモダニズム」(『現代思想』1987年12月<日本のポストモダン>)→すべてが母体あるいは子宮の中に包み込まれている
★「日本人が退屈に甘んじて、虚無の中でぬくぬくとしているとすれば、アメリカ人は退屈を恐れ、虚無を絶えず物質で満たすことを社会の原動力としているのです。飽和点はアメリカ社会にとってきわめて危険だ。アメリカが死ぬとしたら退屈で死ぬだろうと私は思いますね(笑)。」
>>ポストモダンにとって、「退屈」が重要なキーワード<<
アメリカの「自由社会」全体が、ソフトな監獄に見えないこともない。
・ロバート・メイプルソープ 写真家
・「とにかく、フランスから来て驚いたのは、アメリカ人が個人主義の国だというアメリカが、実は社会的統制の行き渡った国だということでした。」
アメリカ、これほど死を忌み嫌う、逆に言えば意識する国民はいない≒健康食品、ジョギング

AIDSとコンピュータ・ウイルス

・「AIDSはすぐれて現代的な感染症の範例であって、コンピュータ・ウイルスとも共通するところがある。どちらの場合も、小さな情報の鎖がシステムを内側から乗っ取ってしまうわけですね。たとえば生物学の場合、DNAこそは生物の基本設計図、いわば聖書であって、その一部をRNAという使い捨てのコピーに転写し、それを鋳型としてタンパク質を作るのだというのが、分子生物学のセントラル・ドグマだった。ところが、AIDSウイルスのようなレトロウイルス、つまり逆転写酵素をもったRNAウイルスは、自分のコピーである小さなDNAシークエンスを、宿主のDNAの中に挿入してしまう。いわば聖書の中に異端のページが差しはさまれるわけです。そうなると、それは元からあったページと見分けがつかない。実際、聖書の中にはそういう異端のページがいくつも含まれていた、言い換えればオリジナルはコピーのコピーだったということがわかってきたんですね。そして間違ってそういうページを読んでしまうと、細胞は自分の部品を作っているつもりで、自分を破壊するウイルスを作ってやることになり、最後にはウイルスを放出して死んでしまう。これはまさに生物学的なテクストの現実的なディコンストラクション(脱構築)にほかなりません。」
ポストモダン=現実感のないシミュラクルの世界に生きることが日常の経験になる。
ボードリヤールアルトーのネガ ボードリヤールのシニカルさ
ポストモダン=終わることさえ終わってしまい、われわれはすべての終わりの後の真空状態をゾンビのように生き延びるしかない。
・今の状況でいっそう興味深いのはカフカ 極端な孤独を生きたカフカ
バタイユアルトーが終わりや死の切迫の中で思考したのに対し、カフカは冬眠して越冬する昆虫のように、終わりの後を生き延びる術を探っていたのかもしれない
(『朝日ジャーナル』1989年5月号)

第10章 アドルフ・ヒトラーからマイケル・ジャクソンへ J・F・リオタールとの対話

・1979年リオタール『ポスト・モダンの条件』
大きな物語」(人類の進歩やプロレタリアートの解放)→多数の「小さな物語」が争異をはらみながら浮遊するポストモダン
・左翼からの「転向」と攻撃された
★ポスト・モダンと資本主義的ニヒリズムは違う
マルクス主義社会主義か野蛮か」→これも間違いだった
・<物語>の機能。構造。
・リオタールの問題意識=近代以後にいかに思考すべきか、<大きな物語>なしにいかにして批判の作業を続け得るか
パスティーシュ=模倣

大きな同一化の神話と小さな差異の戯れ

フランス革命以降の3つの流れ
1.科学技術と産業の進歩というサン=シモン派の物語
2.欲望の解放というフーリエ派の物語
3.ヘーゲル派の物語(歴史の弁証法マルクス
・この時点で大きな物語ではなく中くらい
・ルイ・ボナパルトナポレオン3世) ポピュリストの元祖
・『ドイツ・イデオロギー』既にイデオロギー批判。『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』=歴史は茶番の反復。→大きな物語批判はすでにこの時期からあった
・もう〈大きな物語〉は信じられないという、ある意味でポスト・モダンなこの認識こそが、モダニズムの運動、断絶の連続としての前衛の運動をスタートさせたという逆説がある
フローベールボードレールクールベやマネ、最良のモダニストの中には一片のポスト・モダニズムがあり、逆もまた真
・前衛=「革新」(イノベーション)ではなく、もっとも古く、もっとも無意識の諸前提の想起が必要
・<崇高>=世界が今ここにかく生起しているという驚き
ヘーゲルの言う悪無限
デリダ脱構築は資本主義的ニヒリズム
・「私はナチズムというのはかなり特殊な現象であって、簡単に一般化し得ないのではないかと思います。それは二つの側面の奇怪な結合の産物でした。つまり、一方でドイツは経済力においても文化においても当時もっとも進んだ国のひとつだった。しかし他方、この国は類例のない悲惨と恥辱の中に投げ込まれていた。第一次大戦に負け、不条理なヴェルサイユ条約を押しつけられたこと。そもそも国家的アイデンティティをながらく持てなかったこと。せっかく手に入れた帝国としてのアイデンティティ戦勝国に否定され、代わりに共和国の形態を押しつけられたけれど、これは明らかに時期尚早で、そのため共和国は皆に嫌われた......。ナチズムは、こういう特殊な状況の中から、同一化の神話として生まれたのです。ゲルマン民族の神話が動員されて他の民族との差異が強調され、この神話を体現する指導者=総統との同一化が推進された。しかも、こうしたすべてが強力な経済的・軍事的・技術的・文化的手段によって行われたのです。」
・「ジーバーベルクの言うように、映画とともに、アウトバーンだってそうです。アウトバーンには経済的機能があるばかりか、一種の機能主義的美学もある。ナチスバウハウスを追放したけれど、バウハウスの遺産は回収した。ほかにも多くを追放したけれど、使えるものは何でも回収した。このように、すでにほとんどポスト・モダンと言ってもいい高度の技術的・文化的発展が、しかし他方で、反普遍主義的な国家的神話の再構築というきわめて反動的な企てと結びつくわけです。この特殊な結合にナチズムの秘密があった。私はそれが繰り返されるとは思いません。」

電子情報時代の偶像崇拝

レーガンB級映画のヘボ役者だった。
五月革命=典型的にヘーゲル左派的・疎外論的な運動
(『朝日ジャーナル』1988年9月号)

第11章 「ホンネ」の共同体を超えて 柄谷行人との対話

小林秀雄吉本隆明柄谷行人

イスラムは新たな第三項になるか

・冷戦構造はきわめて安定した構造→内部矛盾を外部の敵に投影することで安定する
イスラムが選ばれたのは歴史的偶然だが、あらゆる矛盾がそこに投影されている

歴史的展望の喪失が原理主義に走らせる

丸谷才一『女ざかり』
原理主義は嘘。全く政治経済的な世俗的な問題。

ヘーゲル主義的世界史像の反転

・『近代の超克』より前、昭和16年、京都学派の高坂正顕高山岩男鈴木成高西谷啓治『世界史的立場と日本』
石原莞爾『世界最終戦論』
・「アメリカ化」と「日本化」

フランスからドイツへ、日本から中国へ?

・1933年ヴァレリー「知的協力会議」

世界史と理念

マルクスハイエク
ハイエク=アナルコ・キャピタリズム

内に向けての民主主義=外に向けてのナショナリズム

カール・シュミット 自由主義と民主主義の対立
石川啄木時代閉塞の現状」=アメリカの移民制限
共産主義者アナーキスト ナショナリスト=民主主義者はいない。だからインターナショナル。
石橋湛山は本当のリベラリストだった。

「ホンネ」の共同体を超えて

全共闘世代 新左翼スターリン主義批判の右翼 現実主義
・インテリを批判することが日本のもっとも典型的なインテリの身ぶりになった。
・→吉本隆明鶴見俊輔
・アカデミズムはもっと徹底的にアカデミックでなければならない→そこからずれるものとして、ある種の知識人が出てくる。夏目漱石

「露悪趣味的共同体」から「偽善的社会」へ

・「現実には「象牙の塔」は大衆化によって解体され、知的権威に対するタテマエ批判がマス・メディアを通じて広まってしまった結果として、非常に単純なホンネ主義が社会全体を覆い尽くしたというのが、最近の日本の状況だと思います。世界的には、逆に、だからこそ理念が必要だ、ということになってきてはいる。ヨーロッパでは自由と人権の理念を復活させなければいけないとか、アメリカではマイノリティの権利を擁護しなければいけないとか、もちろんそれぞれに批判すべき点が多々あるとはいえ、一時はダサくて言うのも恰好悪かったようなことを、やはり真面目に言わないといけないという気分が広まってきてはいるんですね。ところが日本では依然として、あらゆる理念はダサい、ホンネでいってなにが悪いという気分が圧倒的に強い。」
・「夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。つまり、理念を言うと偽善になるから、偽善になるより正直に悪でいたほうがいいというふうになる。これは今でもあてはまると思う。むしろ偽善が必要なんです。」
・「善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られて強力に再構築されている
憲法第9条は、日本人がもっている唯一の理念 しかも、もっともポストモダンである。
・ヨーロッパのライプニッツ・カント以来の理念が憲法に書き込まれたのは、日本だけです。だから、これこそヨーロッパ精神の具現であるということになる。

「言葉」の復権を求めて

・リアル・ポリティクス=露悪趣味
・「戦争は軍事から経済に移ったと言うけれども、戦争はいつも言葉の戦争です。実際、日本史を見ても、つねに理念の争いをしているわけです。リアル・ポリティクスと言うけれども、それは、実は理念において争うことです。」
・「ヘゲモニー(覇権)という概念は、グラムシが言うように、軍事的・物理的なものではなくて、文化的な問題です。世界のヘゲモニーは、経済的・軍事的な力と必ずしも対応していない。つまり、どういう理念を出せるかということにあります。しかし、日本では、それはタテマエにすぎないと言って片づけてしまう一種の「唯物論」がつねに勝っている。」
・「日本社会はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。」
・「理念に基づく闘争としての歴史が終わったのだとすればそれでもいいかもしれないけれど、幸か不幸か、歴史は終わるどころか再開されたと言ったほうがよく、現実に理念や言葉をめぐる世界史のゲームがどんどん展開されている。にもかかわらず、日本だけが、すべての理念がついえ去ったあと、閉じたホンネの自己肯定に終始しているとすれば、歴史から取り残されるし、実際そうなりつつあると思います。何しろ戦後の45年間、言葉らしい言葉をしゃべらずにきたので、なかなか急には無理かもしれないけれど、それなしでは済まないという意識はもちたいと思いますね。」
(『SAPIO』1993年6月号)

あとがき

・担当編集者 山崎幸雄(『朝日ジャーナル』)、矢野優(『03』)、鈴木正則(『SAPIO』)
・誤りを恐れることなく、マージナルな立場からであっても、倦まず語り続けること

解説 罰あたりパラダイス「中公文庫」特別出張版 福田和也

浅田彰は近代日本の生み出した成果
2/26読了
 
◆要約:フクヤマの「歴史の終わり」、そして「ポスト・モダン」をテーマとした、11人の一線級の知識人、アーティストとの連続対談。
◆感想:非常に面白かった。
メンツが豪華。これだけの有名所と真っ向から対談できる日本人は当分出てこないように思う。
「ポスト・モダン」について、自分は、日本が平和で超景気が良い時代だからこそ出てきた、お気楽な限定的な議論だと思っていたが、もっと強固で抗いきれないものだと、だいぶ認識を新たにした。
どんなに不況で非正規労働者の貧困があろうが、3.11が起ころうが、ロシアがウクライナに侵攻しようが、歴史は終わっているかもしれない。ポスト・モダン状況は何も変わっていないかもしれない。それほどまでに強固な「現象」。
それはつまり、資本主義が加速しすぎて、人間が思考する速度も超えてしまい、歴史の速度も超えてしまい、資本主義だけがあり、人間が終わってしまったように思う。
結構ボードリヤールの議論は衝撃的だった。
個々の感想。フクヤマは思ったより冷静だった。「歴史の終わり」もあくまで一つの説としていっている。
ジジェク、サイードは旧ユーゴスラビアパレスチナの話が勉強になった。
リピエッツ、自分は環境問題は全く響かないのだが、当時の状況を思い出せたし、「マルサス主義」という言葉を知れてよかった。
ポール・ヴィリリオは『純粋戦争』という本が面白そう。
S・ロトランジェが重要人物だということがよくわかった。
リオタールの<物語>の話でいうと、自分はフーリエ派の物語に一番惹かれるとわかった。
柄谷行人との日本論は非常に的確だと思う。
このリアル・ポリティクス系の人たちは政治でも、経済の分野でも、もうすでに資本主義の一部なのだと思う。
実学」系、「プラグマティズム」系、慶應SFC系識高い系的損得勘定系。
フクヤマの議論は、当たっていたと思う。
ただそれは、自由主義の勝利ではなくて、資本主義の勝利だったのだと思う。
「ポスト・モダン」は、人間のための経済が、経済のための人間になった時代だと思う。
社会が世界を呑み込みきった時代。
「ポスト・モダン」は「退屈」がキーワードだとわかった。
嘘の刺激ではなくて、本心から退屈でない人生を生きられるか?
これは自分個人の課題でもある。