- はじめに
- 序 章「欺瞞」と「恫喝」
- 第1章 原発プロパガンダの黎明期(1968~79)
- 第2章 原発プロパガンダの発展期(1980~89)
- 第3章 原発プロパガンダの完成期(1990~99)
- 第4章 プロパガンダ爛熟期から崩壊へ(2000~11)
- 第5章 復活する原発プロパガンダ(2013~)
- 資料(日本原子力産業協会 会員名簿)
- 参考文献
- おわりに
- 要約&感想
はじめに
・世界有数の地震大国日本になぜ54基もの原発が建設され、多くの国民が原子力推進を肯定してきたのか。そこには電気料金から生じる巨大なマネーを原資に、日本独特の広告代理店システムを駆使して実現した「安全神話」と「豊かな生活」の刷り込みがあった。40年余にわたる国民的洗脳の実態を追う、もう一つの日本メディア史。
「広告」は何を担ったか
・一見、強制には見えず、さまざまな専門家やタレント、文化人、知識人たちが笑顔で原発の安全性や合理性を語った。原発は豊かな社会を作り、個人の幸せに貢献するモノだという幻想にまみれた広告が繰り返し繰り返し、手を替え品を替え展開された。その広告展開のために電力9社(原発がない沖縄電力を除く)が1970年代から3・11までの約40年間に使った普及開発関係費(広告費)は、実に2兆4000億円に上っていた(朝日新聞社調べ)。これは、国内で年間500億円以上の広告費を使うトヨタやソニーのような巨大グローバル企業でさえ、使用するのに50年近くかかる金額であった。
・電力会社以外に、電気事業連合会(電事連)、経産省、資源エネルギー庁、環境省などの政府広報予算、NUMO(原子力発電環境整備機構)
・これら大量の広告は、表向きは国民に原発を知らしめるという目的の他に、その巨額の広告費を受け取るメディアへの、賄賂とも言える性格を持っていた。あまりに巨額ゆえに、一度でもそれを受け取ってしまうと、経営計画に組み込まれ、断れなくなってしまう。そうしたメディアの弱点を熟知し、原子力ムラの代理人としてメディア各社との交渉窓口となったのが、電通と博報堂に代表される大手広告代理店であった。
日本の広告業界の特殊性
・欧米の広告業界=1業種1社制、広告制作部門とメディア購入部門の分離が大原則 日本=メディアは、電博に「広告を売ってもらう」という弱い立場にある
・反原発報道を望まない東電や関電、電事連などの「意向」は両社によってメディア各社に伝えられ、隠然たる威力を発揮していった。東電や関電は表向きカネ払いの良いパトロン風の「超優良スポンサー」として振る舞うが、反原発報道などをしていったんご機嫌を損なうと、提供が決まっていた広告費を一方的に引き上げる(削減する)など強権を発動する「裏の顔」をもっていた。そうした「広告費を形にした」恫喝を行うのが、広告代理店の仕事であった。
・そして、原発広告を掲載しなかったメディアも、批判的報道は意図的に避けていた。電事連がメディアの報道記事を常に監視しており、彼らの意図に反する記事を掲載すると専門家を動員して執拗に反駁し、記事の修正・訂正を求められたので、時間の経過と共にメディア側の自粛を招いたのだった。
・こうして3・11直前まで、巨大な広告費による呪縛と原子力ムラによる情報監視によって、原発推進勢力は完全にメディアを制圧していた。つまり、日本の広告業界の特殊性が、原発プロパガンダの成功の大きな要因だったのだ。筆者は本書で日本の原発プロパガンダ史を検証するのと同時に、日本の戦後広告史の暗黒面(ダークサイド)をも描くつもりだ。
序 章「欺瞞」と「恫喝」
「プロパガンダ」とは何か
・第二次世界大戦中のナチスドイツ 宣伝省(正確には国民啓蒙・宣伝省:Reichsministerium für Volksaufklärung und Propaganda 略称・RMVP)ゲッペルス宣伝大臣 戦勝国によって、ナチズムという狂信的イデオロギーを広めるために稼働した「悪の機関」とされ、同時に「プロパガンダ」という言葉自体が機関(宣伝省)と一体化し、決定的な負のイメージがついた
・しかし、プロパガンダという言葉それ自体は、なにもナチスが発明した訳ではない。その語源はラテン語のpropagare(繁殖させる、種をまく)であり、1623年に設置されたカトリック教会の布教聖省(Congregatio de Propaganda Fide)、現在の福音宣教省の名称として歴史に登場している。つまりはキリスト教世界で最も重要な、宣教活動を指す言葉でもあったのだ。
・その後、プロパガンダは国家間の戦争において必要不可欠のものとなっていった。それは印刷技術の進歩により紙媒体を中心に発展したが、その手法は、ラジオや映画という新しいメディアが登場した第一次大戦時に長足の進歩を遂げた。太平洋戦争で日本の対外宣伝放送を担当した池田徳眞氏は、その著書『プロパガンダ戦史』(中公新書、1981年)の中で、第一次大戦中最も熱心にプロパガンダを研究し、効果的に戦場で展開したのはイギリスであったと指摘している(イギリスはすでにその頃、「ウエリントン・ハウス」「クルーハウス」という宣伝機関を持っていた)。
・また、大戦に参加した主要国のプロパガンダを紹介した書としてハンス・ティンメ『武器に依らざる世界大戦』を詳細に分析、外務省や参謀本部に報告したとしている。アメリカも1916年に「アメリカ合衆国広報委員会」を設けており、すでに20世紀初頭において、先進国はプロパガンダの重要性を十分に理解、研究していた
ヒトラーの「反省」
・これに対し、第一次大戦当時のドイツはプロパガンダについて、全くといっていいほど無頓着であり、連合国が仕掛けた謀略宣伝に対しほとんど無力だった。実際に戦争に参加し負傷したアドルフ・ヒトラー(後のドイツ第三帝国総統)はこの事実を肌身で感じ、後に著作『わが闘争』の中で、「宣伝を正しく利用するとどれほど巨大な効果を収めうるかということを、人々は戦争の間にはじめて理解した。(中略)われわれのこの点でぬかっていたものを相手は未曾有の巧妙さと真に天才的な計算で出迎えたからである。この敵の戦時宣伝から、わたしもまた限りなく多くのものを学んだ」(『わが闘争Ⅰ』、角川文庫、232頁)と述べている。そして彼は後年、宣伝省を作ることで、その反省を十分に活かしたのだった。
・このように、プロパガンダ戦略は第一次大戦時にすでに連合国によって実施されており、ナチスはその敗戦の反省を活かすために宣伝省を設けたに過ぎない。プロパガンダはナチスの専売特許ではなかったのであり、過度にこの言葉とナチスを一体化させるのはまちがっている。
・それでも、戦後の徹底的なナチス断罪(結果的にそれもプロパガンダだったのだが)によって、「プロパガンダ」とは人を欺く邪な宣伝活動、という負のイメージが定着した。しかし第二次大戦後に、米ソによる冷戦構造の中、互いの社会体制の優位を喧伝する熾烈なプロパガンダ合戦が行われたことは歴史的事実である。さらにその後の冷戦終結後、アメリカによる対中東戦略、とりわけ全世界に対しイラク戦争を正当化するために強力なプロパガンダ戦略が展開されたことは、ノーム・チョムスキーやE・W・サイードの著作によって明らかにされている。
日本における結実
・つまり、プロパガンダ=広告宣伝は、時代の要請により、世界各地で手を替え品を替え、最先端で強力なテクニックを駆使して展開されてきた。その技術を磨いてきたのが、世界各国の広告会社、PR会社、日本においては電通と博報堂の二大広告代理店である。そしてその結実の一つが、日本における原発推進広告、つまり「原発プロパガンダ」であったのだ。
・これは、1950年代に原発推進を国策と定めた時点で当然の帰結であった。国策と決めたからには、万難を排して原発を推進しなければならない。しかし戦後の日本は民主主義国家であり、いくら国策といえども成田空港闘争のように反対派を強行排除してばかりでは、全国で原発建設を円滑に進めることはできない。そこで、かりそめでも良いから、国民の多数における合意の形成(チョムスキーはそれを「合意の捏造=マニュファクチャリング・コンセント」と名付けた)が必要とされた。つまり、多数の国民が原発を容認している、という世論の形成を目指したのである。
・そしてそれを可能たらしめるためには、全国を覆う巨大メディアと地方に根ざしたローカルメディアの両方をフル活用して国策を宣伝し、国民に「原発は安全で必要不可欠なシステムである」という意識を浸透させる必要があった。だから国と電力会社は、原発建設が始まった1960年代後半から3・11まで、その基本スタンスに忠実に、巨費を投じてプロパガンダを推進してきたのである。
・しかし、この目的には2つの大きな問題があった。それは原発というシステムがきわめて不完全であり、この40年間で度々事故が発生したことと、日本は世界有数の地震大国で、原発を設置するには全く不向きな地域であったことだ。この原発推進には致命的な欠陥を、徹底的に隠さなければならなかった。そこで、単純な「原発は安全ですよ」という生やさしい「宣伝広告」レベルではなく、何が起きても絶対安全、事故など起きるはずがないという、神懸かりともいうべき「安全神話」を流布する、徹底的な「プロパガンダ」の必要性が生じたのである。
・投入された金額は、電力9社の普及開発関係費(広告費)だけでも、約40年間で2兆4000億円(朝日新聞社調べ)という途方もない巨額に上った。にもかかわらず、国民の多くがプロパガンダの存在に気づいていない、という状況こそ、その成功を如実に物語っている。だまされている人々にそれを認識させないことこそ、プロパガンダの目的であるからだ。
・そして、そのプロパガンダの手法、様々な広告表現の技術は、年代とともに洗練され、説得力を増していった。最初は学者の解説ばかりで硬い印象だった広告が、次第にイラストや漫画、原発で働く人々の写真を取り入れ、さらにはタレントや著名人の対談なども登場させていった。そして最終的には、女性向けや子供向けなど、ターゲット別の表現にまで行き着いた。つまり、原発プロパガンダの歴史とは、そのまま日本のメディア史、広告業界の歴史と重なっているのである。
原発プロパガンダを流布したメディア
・本来は警鐘を鳴らすべき報道メディア(新聞やテレビ、雑誌等)が完全に抱き込まれ、原発推進側(原子力ムラ)の協同体となってしまっていた メディアは長期間にわたり巨額の「広告費」をもらうことによって原子力ムラを批判できなくなり、逆にそのプロパガンダの一翼を担うようになってしまった。
・特に2003年以降、新聞でもテレビでも、原発に関するネガティブな情報発信は自粛され、ほとんど国民の目に触れなかったのだから、大半の国民は問題の存在にも気がつかなかった。たまに事故報道はあっても、保安院(当時)や御用学者らによって「すべては軽微な事象(彼らは絶対に「事故」とは言わなかった)」とされ、批判するものを総攻撃していた。
・長年原発プロパガンダの片棒を担いだ事実について、ほとんどのメディアは検証をしようともしていない。主要メディアできちんと過去を検証して自己批判したのは、朝日新聞「原発とメディア」(2012年に書籍化)くらいだろう。そして、事故から5年たった今、多くのメディアは原子力ムラの巻き返しによって再びその軍門に下ろうとしている。大多数のメディアにとって、プロパガンダに従ったなどという体裁の悪い事実は存在せず、そもそも原発プロパガンダがあったことも認めたくはないのだ。
原発プロパガンダのキャッチフレーズ
・プロパガンダはその実施を悟られずに人々をマインドコントロールすること、つまり気づかせないことこそが真骨頂である。
・原発は日本のエネルギーの三分の一を担っている、原発は絶対安全なシステム、原発はクリーンエネルギー、原発は再生可能なエネルギー
・2009年の内閣府調査、国民の8割が原発推進に肯定的
「刷り込み」を担った広告代理店
・90年代以降の広告マーケティング理論と手法は非常に成熟し、いくつかの偶発的案件を除けば、商品が売れるか売れないかは、投下される広告量であらかじめ決まることが明らかになっていた。つまり投下する広告量が多ければ多いほど、そこで使用されるキャッチコピー(見出し)は人々の記憶に残るわけで、これを業界用語で「刷り込み効果」と呼んでいる。
原子力ムラは総括原価方式で集めた金を湯水のように注ぎ込み、新聞・雑誌などの活字とテレビ・ラジオによる映像や音を駆使し、ひたすら原発安全神話を国民に「刷り込んで」きた。
ここで大事なのは、電力会社が直接広告を作ったのではなく、実際に制作したのは、電力会社から依頼を受けた広告代理店だったことだ。広告を制作し、メディアの枠を購入するのは大手広告代理店にしかできないから、彼らの協力は絶対不可欠であった。そしてその多くは、東電のメイン代理店だった電通が仕切っていた。
・メディアが権力側に与して国民を扇動し、日本が滅亡の危機に瀕した例が、太平洋戦争だった。これはすでに歴史的事実として誰もが知ることで、戦後のメディアはその反省に立ち、再出発したはずであった。
・戦後の日本は、国民が主権者である民主主義国家となった。そのため、それ以前の超国家主義や自己犠牲を賛美・強要して国家に尽くす全体主義的な扇動はできなくなった。それに成り代わって登場したのが、「個人の生活向上、経済的恩恵」を強調する図式であった。
特に原発立地県のローカル紙(地元新聞)においては、原発を誘致すれば電源三法交付金制度による税金が大量投入され、生活が劇的に向上し地域が豊かになる、という記事や広告が氾濫していた。原発の誘致が個人の幸福に直結するという図式は、義務感ばかりを強調した戦時プロパガンダよりはるかに巧妙かつ魅力的であり、多くの人々の共感を生んだのだった。
原発立地県と消費地で異なるメッセージ
・消費社会の到来によって高度経済成長期に突入し、日本全体が豊かになりつつあった1960~70年代においてさえ、福島県や福井県、青森県や新潟県など、後に原発を誘致した地方は成長産業が少なく、当時すでに過疎による地域衰退に悩まされていた。そうした地域に「生活の向上」という甘い幻想を植え付けたのが、原発立地地域における原発プロパガンダだった
・立地県
(A)原発を誘致すれば、電源三法交付金等の税金が大量に投下され、地域経済が豊かになり、従って個人の暮らしも豊かになる
(B)電源三法交付金等で地域のインフラを整備できれば、その後の地域発展の起爆剤となり、新しい産業育成・誘致の基礎を作ることができる
(C)原発は日本経済に絶対不可欠な電力供給の根幹であり、それを誘致するのは「電力のふるさと」として国策に貢献することとなり、大変誇らしいことである
(D)原発は何重もの多重防御が施されているから、重大事故は絶対に起きないし、平時でも万全の監視体制が敷かれているから、放射能漏れなどもない
・以上のような内容の広告と記事が、特に1970年代から80年代の原発稼働時に、地元ローカル紙、テレビ局に大量に掲載され、著名人を呼んだシンポジウムも頻繁に開かれた。それらの広告のスポンサーは主にその地域の電力会社、関連企業、県庁であり、10月26日の「原子力の日」前後には、電気事業連合会(電事連)による広告や政府広報も掲載された。
・消費地
(D)+(E)資源がない日本には、自前のエネルギー確保が必須であり、そのためには発電コストが水力・火力発電より優れている原発が最適である
という発電コストの優位性を強調するものや、特に1997年の京都議定書採択後は、
(F)原発は発電時に二酸化炭素を発生しないクリーンエネルギーである
という文言が必ず使用されるようになった。この「原発はクリーンエネルギー」という主張は特に女性層や若年層に向けて発信され、女性誌にも頻繁に広告が掲載された。その響きの良さからか、いまだに原発がクリーンエネルギーと勘違いしている人が多く存在する。
・ このように、一口に「原発プロパガンダ」と言っても、実行者側は地域・性別・年齢ごとのターゲットを細かく設定し、そのターゲットに最も効果がある手法で広告を実施していた。
東京電力広告費、膨張の歴史
・東電の普及開発関係費(広告費)の推移 1965年7.6億→2005年293億
・79年スリーマイル、86年チェルノブイリ、02年東電原発トラブル隠し、04年美浜原発3号機事故 トラブルが起こるたびに膨張 一般的な企業の広告目的とかけ離れた思惑
原発広告の特異な二面性
広告こそ原発プロパガンダの力の源泉
★原発広告のもう一つの、そして最大の目的は、巨額の広告費を払うことにより、その広告を掲載するメディアに対し暗黙の圧力を加えることにあった。
ジャーナリズムだの報道機関だのといっても、しょせんメディアも商売であり、私企業である。だから巨額の広告費を払ってくれるスポンサー、特に定期的に広告枠を買ってくれる大スポンサーは非常にありがたい存在だ。それが年間数千万、数億円ともなればなおさらであり、おのずとそういう企業の不祥事追及は甘くなる。これはすべてのメディアが抱えるアキレス腱であり、原子力ムラはまさにその弱点を突いたのだった。
原発事故以前の電力会社はどこでも超優良スポンサーであり、広告掲載料のディスカウントを要求せず、定価で払ってくれるありがたいお得意様だった。さらに、その地域においては昔も今もスポーツイベントや催事、花火大会などの有力スポンサーとして、地域に欠かせない存在であった。原発以外の広告(省エネの呼びかけなど)も積極的に出稿していた。そのような地域の雄である電力会社に対し、特にバブル崩壊以降の景気低迷で広告収入の減少に苦労したメディア各社は、そういう優良スポンサーに楯突いて貴重な収入源を失うことを極端に恐れた。自然と広告の内容審査は甘くなり、電力会社の広告はノーチェックで新聞・雑誌上に溢れるようになった。
そうなるとさらにスポンサーとしての地位が上がり、ますます「アンタッチャブル」な存在として君臨するようになる。特に財務基盤の小さいローカル新聞社やテレビ局は自前の科学専門記者も少なく、先端技術の集合体である原発に対し、批判的に対峙することは不可能に近かった。そのため、電力会社の発表をそのまま無批判に紙面に掲載・ニュースに流すという慣習が成立していったのである。
電力会社側も自分たちの優位な立場を十分理解していて、たまに反原発を匂わせる記事掲載があると、記事を担当する編集局ではなく、まずは広告を担当する営業局に文句をつけ、広告出稿の削減をちらつかせて圧力を加えるのが常套手段であった。そして、そういった「メディアの弱み」を原子力ムラに指南したのは、メディアの収益システムを隅々まで熟知していた広告代理店だったのだ。
つまり、平時における電力会社の広告出稿は、常に原発政策はバラ色ですと報道してもらうための「賄賂」であり、事故などの有事の際は、出稿引き上げをちらつかせてメディアに報道自粛を迫る「恫喝」手段に変貌するのだった。これは一般的なスポンサー企業にはありえない姿であったが、2011年の原発事故まで、このシステムはほとんどのメディアに対して有効に機能していた。つまり、戦後70年の間に確立した広告ビジネスの構造が、原発プロパガンダの力の源泉となったのである。
原発プロパガンディストたち
・A 政府(自民党)および行政機関(経産省・文科省)
B 電力会社(全国9社)及びグループ企業
C 原発メーカー(日立製作所、東芝、三菱重工)、建設会社、その他周辺企業
D 東大を頂点とする原子力関連研究機関
E メディア(新聞社、出版社、テレビ局、ラジオ局)
F 電通、博報堂を頂点とする広告代理店
・さらにこれらの集団に加えて、電力会社に巨額の融資を行っている金融機関を含めた433社が「原子力産業協会」に登録している(2016年1月現在)。つまりこの団体の名簿こそが、俗に言う「原子力ムラ」の一覧に他ならない。これを目にした人は、日本を代表する一流企業がきら星のごとく名を連ね、原子力ムラとはすなわち日本の社会そのものだという、深い絶望感を味わうことになるだろう。
原発プロパガンダの構成要素
・3つの柱
(A) あらゆるメディアを使用した広告展開(対国民)
(B)電気事業連合会によるメディア監視(対メディア)
(C)巨額広告費を背景にした言論封殺(対メディア)
・90年代以降、東電・電事連・NUMO(原子力発電環境整備機構)は全国テレビキー局及びローカル局において、夕方のニュース番組を数多く提供していた。原発で何か事故が起きれば真っ先に報道されるのがニュース番組であるから、それらの提供スポンサーとなって、不利な報道をされないように睨みを利かせていたのだ。
・「広告スポンサー」としての表の顔とは別に、電事連には裏の顔があった。それは、原発に関してネガティブな記事を書いたり、放映したメディアに対し、執拗に抗議し訂正を迫る「圧力集団」としての顔である。
・その例は枚挙に暇がないが、たとえば電事連がHP上で公表していた「関連報道に関する当会の見解」の2004年3月から5月にかけてでは、
- 3月23日 朝日新聞社説『サイクルに踏み込むな』について
- 3月25日 日刊工業新聞『家庭での省エネ対策提示 電事連が「ガス」挑発」について
- 3月31日 時事通信『原発引当金を一括管理へ』について
- 4月19日 共同通信『原発の運転長期化要求へ 検査間隔5ヶ月程度延長』について
- 5月12日 日経新聞一面トップ『増殖炉実用化を断念』について
- 5月13日 時事通信 『ウラン試験を当面凍結』について
- 5月24日 朝日新聞『ウラン再処理節約量わずか』について
- 5月27日 共同通信『日本の原子力政策に変更の可能性』について
などが列挙されていた。これらはすべて当該記事の内容を誤りとし、中には専門用語を延々と羅列し、掲載メディアに対し、その訂正を迫ったものも多々あった。
このように、およそ原発に関する記事をすべて監視し、その意向に反する記事に対しては訂正を要求する行為をくりかえせば、記事を書く記者たちに強いプレッシャーをかけることができる。ことあるごとに電事連から抗議が来るのなら、「面倒だからもう原発批判の記事を書くのはやめよう」という気持にさせる目的があったのだ。
ちなみにこれらの記録はすべて電事連のHPにアップされていたが、原発事故後の2011年4月11日に全削除された。それは、原発プロパガンダに荷担した証拠隠しの一端だったのだろう。
・ノーム・チョムスキーによる「プロパガンダ・モデル」の構成要素
(1)マスメディアの規模、所有権の集中、オーナーの富、利益指向性
(2)マスメディアの主要収入源
(3)政府や企業、権力の源泉から情報を得る「専門家」へのメディアの依存
(4)メディアを統制するための「集中砲火」(批判)
(5)国家宗教と化し、統制手段となっている「反共産主義」
・特に(1)と(2)はいわゆる「資本の論理」であり、たとえ報道部門に骨のある記者がいたと しても、広告予算とその企業の収支を担当する経理部門に圧力をかけ、結果的に報道を自粛さ せるように仕向けていた。もしそうしなかった場合は、当該部署や担当を更迭するまで抗議したり、実際に広告を取りやめたりした例(92年、広島テレビ)もあった。これらは、電事連のメディア監視と相まって、とにかく原発批判は面倒だからやめておこうという厭戦気分を醸成させていた。
・以上のように原発プロパガンダは、国民に対しては原発政策支持者を増やすための「欺瞞」であり、メディアに対しては真実を報道させないための「恫喝」という極端な二面性を持っていた。そしてこの仕組みこそが、メディアによる批判と検証を封殺し、福島第一原発の悲劇の要因となったのである。
第1章 原発プロパガンダの黎明期(1968~79)
最初の原発広告 福井新聞(68年)
・1970年敦賀原発(日本原子力発電)、美浜原発(関西電力)、71年福島第一原発(東京電力) 竣工記念広告
・今と違って「広告」の明示が義務ではなく、記事なのか広告なのかはっきりしない広告もあった
福島でも原発広告の掲載開始
・福島民報と福島民友 数ある原発立地県の地方紙のなかでも随一で原発に協力的
・福島民友75年11月に掲載した連続企画「原発を見直す」のキャッチコピー
「放射線を多重防護 ケタ違いの対策、規制」
「暴走しても心配ない 原子炉の安全実験進む」
「温排水の利用 漁業振興に役立てる 海の生活環境にも害ない」
「安全設計の原子炉 集中化しても問題ない」
・福島民報78年2月の連載特集「エネルギーと新電源開発」
「石油は確実に枯渇 『油断!』(堺屋太一氏の小説)は空想ではない」
「過疎一転裕福な町 豪華な施設が林立」
「計り知れない恩恵 就労の場を提供」
・両紙ともにこのような特集記事を年に3~4回ずつ掲載し、原発に懐疑的な記事はほとんど掲載されなかったから、県民の大多数が原発の危険性に思い至らなかったのも無理のないことであった。しかも3・11直前までその傾向にほとんど変化がなかったから、福島県は日本でもっとも「安全神話プロパガンダが信じられていた地域」であったと言えるだろう。
・福島県での原発広告が多いのは、原発を管理稼働させている東京電力と、福島県内の電力を供給するのは東北電力、という2つのスポンサーがあったことも大きかった。つまり福島県内では2つの電力会社が共同で原発広告を出稿していたのだ。
★ちなみに、70年の民友は7月5日の一面トップで「本県にもきょう”原子の火”」と臨界テストの様子を伝えているが、このときの表記は立地地名である「大熊原発」であった。それが、翌年3月の竣工広告では「福島第一原発」になり、以後はその呼称で統一されている。
国内の原発のうち他に立地県名で呼ば れているのは島根原発だけで、おそらくは当時福島県全体の繁栄を願い、あえて地名よりも県名をつけたのだろうが、それが約40年後の事故によって福島県全体のイメージダウンに繋がるとは、当時誰も予測できなかっただろう。
1974年、朝日新聞に出稿開始
・今では非常に想像しにくいが、以前は新聞やテレビに広告を掲載するのに様々な規制があった。貸金業や賭博(パチンコや競馬、競輪、競艇)などの広告が全面的に解禁されたのは90年代に入ってからであり、他にも細々とした規制があった。そのもっとも大きなものが原発広告の自主規制で、全国紙は70年代に入ってからもしばらくの間、原発広告を掲載していなかった。しかしその頃吹き荒れていたオイルショックの影響で広告が激減、どの新聞社も新規開拓に血眼になっていた。その中で朝日新聞は全国紙でいちばん早く、原発の意見広告掲載を決断する。それを見た讀賣新聞が「そもそも原発は自分たちの元社主、正力松太郎が日本に導入したモノなのに、その広告がウチに載らないのは面目が立たない」と自社にも広告掲載を要求し、さらに毎日新聞も掲載に踏み切っていった。
・74年8月6日の朝日新聞に掲載された10段広告 広告主:原子力文化振興財団(現:日本原子力文化財団)「70年代——新エネルギー世紀のはじまり」というタイトルでその後毎月1回掲載、14回シリーズ
1974年8月6日掲載「放射能は、環境にどんな影響を与えるか」
8月30日「原子力発電所から環境へどの程度の放射能が出るのでしょうか」
9月25日「原子力発電所から海へ出る放射能はどんな影響を与えるでしょうか」
10月26日「10月26日は原子力の日です」
11月26日「原子力発電所の安全設計はどこまで信頼できるのでしょうか」
12月25日「原子炉がもしも事故を起こしたとしたら発電所とその周辺はどうなるでしょうか」
1975年1月23日「発電所の温排水とは……将来はどう考えるべきでしょうか」
2月23日「放射線は、私たちの健康とどのようなかかわり合いをもっているのでしょうか」
3月24日「原子力発電は、なぜ必要なのでしょうか」
4月27日「原子力発電所で起こっている故障は、安全上心配ないのでしょうか」
5月27日「原子炉で使われる核燃料とはどんなものなのでしょうか」
6月30日「放射線の安全基準は、どのように定められているのでしょうか」
7月26日「原子力発電の安全問題は、どのように考えるべきか」
8月27日「原子炉が爆発しないのはなぜか」
・この頃の執筆陣はほとんどが大学教授たちで、学問的な見地から原発の構造や安全性を語っているが、原発事故の可能性は100万年に1回とか、放射性廃棄物の問題はじきに解決される見通しだとか、今読むと首を傾げる内容が多い。
・この朝日新聞の10段広告シリーズは、単に初めての本格的な原発広告掲載というよりも、はるかに大きな意味合いを持っていた。なぜなら、それまで模様眺めしていた讀賣新聞や毎日新聞が5段や7段広告を続々と掲載したうえ、地方誌での出稿ペースが上がったからだ。つまり、「広告審査が厳しい朝日が大丈夫なら、ウチも」という空気が新聞業界で醸成されたのだ。そういう意味でも、朝日新聞の責任は非常に大きいと言えるだろう。
電通の圧力でテレビ局を退社に追い込まれた田原総一朗氏(76年)
・田原総一朗『原子力戦争』(1976年)
「これは名前を出さない方がいいんですが、大手広告代理店が原発反対の住民運動への対策を東京電力と組んでやっていたんですね。いかに住民たちを反対派から推進派にしていくかってことをね。そのことを書いたらその代理店がテレビ東京に「こういう連載を続けるならスポンサーを降りる」と圧力をかけたんです。
いまはテレビ局は割に強いからそういうことはないんですが、当時テレビ東京は弱い局でしたから、スポンサーに代理店を経由して乗ってもらっていた。それをやめると言ってきたんですね。それで僕はテレビ東京の上から「連載をやめるか、会社をやめるか」という選択を迫られた。
「そんなことは関係ないだろう」と僕は言ったんですが、局長と部長が処分された。監理不行き届きみたいなもので。その処分の通達が廊下に出ていました。「ここまでくるのか」と思っていたら、別の局の局長から電話がかかってきて、「お前やめた方がいいんじゃないか。上司にこんな迷惑をかけて…」ということを言われまして、これも会社の意志だと思って、連載をやめないで会社をやめたんです。」
・当時、テレビ業界のスポンサー窓口はほぼ完全に電通の独占状態だった。日本の民放の立ち上げをそれぞれの開局時から支援したのが電通であり、「電気紙芝居」などと揶揄されてスポンサー集めに苦労した時代に、一緒に汗をかいたのが電通だったからだ。その記憶は現在でも各局幹部クラスの記憶に残っていて、電通には足を向けて寝られない、とその恩を口にする幹部がいるほどだ。博報堂がテレビ媒体に力を入れて電通の牙城を侵食するのは、80年代後半に入ってからである。
最初の警告 スリーマイル島事故と新聞出稿(79年)
・1979年3月28日にアメリカのスリーマイル島原発で発生した事故は、原発推進に邁進してきた日本の原発政策に冷や水を浴びせた。ところが、全国紙やテレビではその事故の深刻さが報道されたものの、福井や福島での事故の新聞扱いは非常に少なく、逆に事故を覆い隠そうとするかのように広告出稿が加速していった。それは、先の広告出稿表で79年の段数がいきなり200段以上、と異常に突出していることからも明らかである。
福井ではスリーマイル島で事故が起きた79年3月に大飯原発1号機が稼働し、同年12月に2号機が稼働していて、この年の福井新聞には過去最高となる204段の原発広告が出稿されている。同紙は原発広告の掲載数は多いものの、この頃の社説や記事では原発の安全性に対し厳しい意見を載せることもあり、この事故をめぐる記事でも「原発の安全性が揺らいでいる」という表現もあった。つまり同社の中では、記事を書いている編集局と、広告を集める営業局が完全に分離され、ある程度原発に批判的な記事を掲載する自由度が保たれていたと見ることができる。
これに対し、福島民報は事故後一か月近くたった4月22日に「原発 良心と英知を信じよう」という題名で、事故は軽微であり人為的なミスが大きく、原発技術そのものが否定されたわけではないとして、技術者や科学者を信頼して原発を推進しようという歯の浮くような社説を掲載した。同紙と福島民友の原発推進姿勢が群を抜いていたことは既に述べたが、両紙とも事故の深刻さについての記事は見られず、逆に広告出稿は福島民報295段、福島民友227段と過去最高を記録した。
また、この年福島で稼働した原発は福島第一原発6号機だけであったが、福島民報・民友はそれぞれ12月5日に「東京電力福島第一原子力発電所完成特集」と銘打った120段(8ページ)の広告特集(記事含む)を組んだ。これは過去最大の広告特集で、年間出稿量の半分近くをこの一度で稼いだわけだが、その内容は二紙共に
・原発はすでに全電力の一割を担う重要な電源となっている
・安全確保には万全を期している
・電源三法交付金で町は大変豊かになった
・今後も原発がある限りこの豊かさは続いていく
という、まさに原発信仰ともいえる作りであった。ここまでの大特集は両紙共に例がなく、広告の増加要因がスリーマイル島原発事故の不安払拭にあったことは明らかであった。
ちなみに福島第一原発6基のうち4基は大熊町、2基が双葉町にある。そのため、当初の交付金支給が終了すると、90年代から双葉町は深刻な財政難に陥った。その打開策としてもっとも期待されたのが、7号機・8号機の増設(3・11事故後に中止)だった。電源三法交付金は一時的に財政を豊かにしたが、それが切れるとまるで薬物依存のようにそれなしではいられないという、まさに補助金頼みの体質になってしまうのであった。
第2章 原発プロパガンダの発展期(1980~89)
飛躍的に増加する出稿
・1970年代の広告は大学教授ら専門家の解説や説明調の文言が多かったが、1980年代になると、広告技術の発展によって表現のレパートリーが拡大し、イラストや写真も多用されるようになった。また、原発の建設現場やそこで働く人々の写真を起用し、巨大技術の信頼性や、多くの人々によって支えられている現場を紹介し、読者に親近感を持たせる手法も登場した。さらに、80年代には東電や中部電力が早くもテレビCMを開始していた。また86年には、のちに定番パターンとなる、タレントや著名人と電力会社幹部の対談シリーズ広告が早くも登場している。原発プロパガンダの原型が整いつつあった。
原発先進県 福井と福島の相違
・81年4月4日 福井新聞社説「敦賀原発事故隠し、5つの罪」
・81年4月27日 福島民報「敦賀の事故を教訓に 安全管理をさらに徹底」 福島第一原発所長談「福島は二重、三重のガードがあり、敦賀とは違う。事故は絶対に起きない」「今度の現地ルポを通じ、東京電力、東北電力は日本原電と比べようがないほど安全管理に心を砕いていることがわかった」などという珍妙で軽薄な文章
チェルノブイリ事故を越えて(88年)
・1986年4月、ソビエト連邦(当時)ウクライナのチェルノブイリ原発で、原子炉が爆発する大規模な事故が発生。このチェルノブイリ原発事故は、日本でも大規模な反原発デモを引き起こした。大手メディアもこの事故を大きく扱ったため、東電は事故の86年に121億円だった普及開発関係費(広告費)を翌年150億円に引き上げ、「事故はソ連という社会主義国の旧型原子炉で起きたもので、条件が異なる日本では絶対に起こらない」というアピー ルに必死になった。
東電の普及開発関係費はその後も膨張を続け、88年に180億円、89年に206億円と、たった3年後に年額200億円を超えるに至る。さらにその後も増え続け、美浜原発3号機事故の翌年、2005年には遂に293億円に達した。その後は08年のリーマン・ショックもあって減少するが、それでも2011年の福島第一原発の事故まで、年間200億円を下回ることは一度もなかった。これは普通の民間企業ではありえない、明らかに異常な伸び率であった。
それでも出稿が伸びた東奥日報(86年)
・東奥日報の広告掲載量は群を抜いている。2000年代後半の2年連続600段以上にも驚くが、いちばん目を引くのは、86年に777段という年間最高段数を記録していることだ。この年は前述のようにチェルノブイリ事故が発生し、他紙では広告出稿が減少したのだが、核燃料サイクル建設のスタートにあたっていた青森県では、逆に広告出稿量を増やして県民の不安を鎮めようとしたと考えられる。
この年の主要な広告主を挙げてみると、
・日本原燃(株)
・日本原燃サービス
・日本原燃産業
・電事連
・青森県
・資源エネルギー庁
・科学技術庁
など七つもあり、それぞれが様々な広告を掲載した。また特筆すべきは、青森県庁による広告が非常に多いことである。青森県は1989年から毎年10名ほどの県民と高校生を「原子力の先進地」であるヨーロッパに派遣し、その報告を毎回15段広告で行っていた。当然その派遣費用も広告費も、すべて県民の税金から出ていた。
・同紙は3・11以前から原子力産業協会に加盟しており、完全な原発推進の立場に立っている。ただし、福島民報や民友のような、一方的な原発翼賛記事はほとんど見られず、チェルノブイリやJCOなどの事故報道は、量的にかなり多い部類に入っていた。
つまり、広告を担当する広告局と報道を担当する編集局にある程度のバランスが保たれ、広告量が記事の内容に影響を及ぼす割合が小さかった、といえるだろう。そうはいっても原子力産業協会に加盟している以上、新潟日報や北海道新聞に見られるような、原発に対して痛烈な批判記事はほとんど見られない。そこには、ある程度原発事故の報道はするが、原発の存立に関わるような根源的部分を批判しない、という不文律のようなものが存在しているのだろう。
『広告批評』天野祐吉氏の警告(87年)
・ 『広告批評』主催天野祐吉 87年6月号原発広告特集 巻頭言 3.11事故の20年以上前に原発を批判していた慧眼
原発の事故がもし起こったら、絶対安全を売りこんでいる原発の広告は、どうするつもりなんでしょう。やせ薬の広告がインチキだったとしても「ウソツキ!」「ゴメン」でまアすみますが、チェルノブイリ級の事故が起きたら日本は壊滅状態ですから、「ゴメン」ですむモンダイじゃありません。もっともそのときは、ぼくたちもみんな死んでいるし、原発関係者も死んでいますから、文句をいうヤツもいないし、責任を問われることもない。原発は安全だとハンコを押している学者も、政治家も、経営者も、広告マンも、案外、そう考えているんじゃないでしょうか。核廃棄物のモンダイ一つとっても、いまや危険がいっぱいの原発を、この際すべて廃棄して欲しい。原発をかかえたままで「明るい明日」をんて、ありゃしません。そういうイミで、「明るい明日は原発から」。
・特集
4章立て54ページ
・広告に対する反論権
ローカルテレビ局への圧力①「核まいね」事件(88年)
・1988年青森放送制作「NNNドキュメント」「核まいね(核はダメ)――揺れる原子力半島」
六ヶ所村の核燃料サイクル施設の建設をめぐって分断される地元の悲哀と苦悩を鋭く描き出した番組として大好評を博し、「日本民間放送連盟賞」「『地方の時代』映像祭賞」「ギャラクシー賞奨励賞」などの受賞に輝き、七回のシリーズ放送にまで発展
・この番組はまず、青森放送のローカル番組「RABレーダースペシャル」の枠で放送され、好評だったので全国放送が検討された。しかし、全国放送の「NNNドキュメント」で放送する前に噛みついてきたのが科学技術庁だった。科学技術庁の担当官(青森原子力連絡調整所所長)が、「事実誤認がある」として、青森放送に対し全国放送の前に次の二点を訂正するよう求めてきたのである。
①「英、仏から返還されるプルトニウム25トンは原爆5000発に相当する」と字幕表示しているが、この計算方法自体が間違いである。原爆に換算するのはやめるように。
②「核燃料サイクル施設の安全性を保障する技術はまだ確立していない」と放送したが、安全性は確立しているので訂正せよ。
という、番組内容そのものを変更することを要求してきたのだが、青森放送はこれを拒否、「核まいね——揺れる原子力半島」として日本テレビ放送網の全国ネットで放送し、高い評価を得たのだった。
・しかしその後、その内容に科学技術庁、日本原燃(核燃料サイクル施設建設担当)から強いクレームがつき、社内を揺るがす大問題に発展。ついには青森放送の社長の首まですげ替えて、番組の制作母体であった青森放送の報道制作部を解体し、番組そのものを終了させてしまったのだった(『原発テレビの荒野』加藤久晴著/大月書店参照)。
・まるで93年の広島テレビで起きた「プルトニウム元年」事件と同じだが、全国のローカル局にとって地元の電力会社はどこも最大級の大スポンサーで、場所によっては株主でさえある。ローカル局では土・日曜日の午前中などで30分〜1時間枠で電力会社の一社提供枠があったり、夕方のニュースや天気予報番組なども大量にスポンサードしていた。原燃はそんな安定的で巨大なスポンサーの権力をフルに使い、青森放送の報道制作部まで解体させてしまったのだった。こうして、ローカル局の真摯な活動は一つ一つ潰されていった。
第3章 原発プロパガンダの完成期(1990~99)
洗練され完成へ向かう広告パターン
・1990年代は、ソ連のチェルノブイリ原発事故による反原発運動が峠を越え、さらに原発推進体制を立て直して原発PRの完成形に至る10年間である。
チェルノブイリ後の反原発運動の高まりに危機感を覚えた原子力ムラは、東電が中心となってメディアにいっそう多額の「広告費」という名のあめ玉を配りつつ、移り気な国民と油断ならないメディアの懐柔方法を検討し、91年に「原子力PA方策の考え方」を策定する。これはその後の原発プロパガンダの指針となった重要施策であり、性別、年代別訴求の必要性を唱え、さらには莫大な資金力によって知識人やタレントの囲い込みも強力に推進していくこととなる。
その指針に従い、90年代は原発広告の表現テクニックにおいても完成形に到達した。それまでのどこか野暮ったいビジュアルはなくなり、コピーも洗練されていく。さらに、御用学者に加えてタレントや知識人を出演させた対談形式を多用し、専門知識と親しみやすさを兼ね備えた広告パターンができあがっていった。またこの頃から、東電による「報道番組提供戦略」が始まり、報道番組をスポンサードすることで、原発のネガティブイメージの露出を減らす動きが加速していく。
原子力PA方策の考え方(91年)
・チェルノブイリ事故による反対運動の高まり→そこで推進派は、91年、科学技術庁(当時)が原子力文化振興財団(現:原子力文化財団)に委託し、「原子力PA方策の考え方」という指針を作らせた。PAとは「パブリック・アクセプタンス(社会的受容のための施策)」のことで、原子力発電を社会に受容してもらうためにはどうすればいいか、様々な方策を検討・解説している。社会的受容といえば聞こえがいいが、これがその後の原発プロパガンダの基本方針となったのだから、いわばナチスドイツがユダヤ人に対する施策方針を決定したヴァンゼー会議のような役割を果たしたのだ。
Ⅰ全体論
1広報の具体的手法
1.対象
(1)対象を明確に定めて、対象毎に効果的な手法をとる。
2.頻度
(1)繰り返し繰り返し広報が必要である。新聞記事も、読者は3日すれば忘れる。繰り返し書くことによって、刷り込み効果が出る。いいこと、大事なことほど繰り返す必要がある。
(2) 短くともよいから頻度を多くして、繰り返し連続した広報を行う。政府が原子力を支持しているという姿勢を国民に見せることは大事だ。信頼感を国民に植え付けることの支えになる。
3.時機(タイミング)
4.内容(質)
(5)一般人が信頼感をもっている人(医者、学者、教師等)からのメッセージを多くする。医者や教師が正しい理解をしているかどうかが問題で、彼らに情報を提供する必要がある。
5.考え方
6.手法
自然放射線の存在を語る手法
7.その他
学校教育
原子力の日
見学
事故対応
広告
2PAのPRについて
国の役割
科学技術庁長官
ポスター・広告
イベント
ラジオ・テレビ
講師派遣
反対派
学校教育
見学
地方紙
Ⅱマスメディア広報
1総論
ロビーの設置
(1) 原子力に好意的な文化人を常に抱えていて、何かの時にコメンテーターとしてマスコミに推薦出来るようにしておく(ロビーの設置)。
・これは非常に重要な提言だったと言えるだろう。この指針を受け90年代以降、いわゆる 「原発文化人」の育成を大々的に展開し、各種メディアに華々しくプッシュしていく。記者ク ラブや論説委員まで取り込もうとする点は徹底していて、推進派ロビーの形成に伴い、逆に反対派有名人をメディアから排除していったのだった。
2映像メディア
(2)テレビで討論会、対談、講座等を行う(政府提供では視聴率が悪いので工夫を要する)。「朝まで生テレビ」
(14)何かの時には、原子力に好意的な文化人をコメンテーターとして推薦できるようにしておく。新聞、テレビがこの人のコメントを載せてほしいと思う人をリストアップし、その名前が自然にしみこむように、日頃の仕事の中で心がけていくことが大切である。
3マスコミ関係者に対する広報
(1)広報担当官(者)は、マスコミ関係者との個人的なつながりを深める努力が必要ではないか。接触をして、いろんな情報をさりげなく注入することが大事だ。マスコミ関係者は原子力の情報に疎い。まじめで硬い情報をどんどん送りつけるとよい。接触とは会って一緒に食事をしたりすることばかりではない。
(2)関係者の原子力施設見学会を行う。見ると親しみがわく。理解も深まる。特に、テレビや新聞の内勤者の人たちにみせるのが効果が高い。彼らは現物を知らないので、観念的批判者になってしまっている。
(3)5~6人からなるロビーを作り、常に交流を図るのも一つの方法である。
(4)テレビディレクターなど製作現場の人間とのロビー作りを考える(テレビ局を特定してもよい)。特定のテレビ局をシンパにするだけでも大きい意味がある。テレビ局と科学技術庁の結びつきは弱い。テレビディレクターに少し知恵を注入する必要がある。
(5)人気キャスターをターゲットにした広報を考える。事件のない時でも、時折会合を持ち、原子力について話し合い、情報提供をする。例えば、有名な人に30分くらい話してもらい、質疑応答する。(略)何かことが起きて原子力がターゲットとなったときに、人気キャスターを集めて理解を求めることが出来るなら、これが最も効果的で、いい方法である。(略)
(6)広報担当官は、マスコミ関係者と個人的つながりを深めておく。人間だから、つながりが深くなれば、当然、ある程度配慮し合うようになる。
(7)日頃から、役立つ情報をできるだけ早く、かつまた、積極的に提供しておく。それが信頼関係を築く。記者にとってはありがたい存在になる。
(8)記者のポストが変わっても、情報の提供を継続していく。別の部局に移っても、情報資料を郵送する。ポストは2年くらいで変わるから、ずっと対象を広げていけば、強力な支援ネットを築くことになる。(略)
・ディレクターやマスコミの人間に対する上から目線を強く感じるが、要は接待などを通じて、日常的に接触を密にせよということだった。事実、マスコミ関係者向けの原発見学会は頻繁に行われ、宿泊費や交通費は全て電力会社側が負担することが慣例化していた。記者一人にマンツーマンで電力会社の広報担当がつき、原発見学に名を借りた接待が状態化していたのだ。
巻原発住民投票(96年) 新潟日報の意地
・しかし、新潟日報の記事面の公平性は揺るがなかった。通常、これだけの巨額広告が掲載されれば、記事面でそのスポンサーを批判する、または不利になるようなことを書くなどありえないし、むしろ記事面でも広告主を持ち上げるのが普通である。しかし、同社の記事は賛成・反対派双方に対して厳格なまでに中立で、原発誘致のメリット・デメリットを同じ記事量(文字数)で紹介した。報道機関としては当然というべきだが、原発立地県の報道機関としてはきわめて珍しい現象だった。
推進派の宴会をスクープ
・そして同年8月4日の住民投票により、町を二分した原発誘致は否決された。様々な要因があるが、やはり唯一の県紙である新潟日報の報道姿勢が与えた影響は計り知れないものがあっただろう。そして、ここで原発誘致が阻止されたことは、全国の反対運動に大きな弾みをつけた。
経営面を考えれば、原発を誘致すればさらなる広告出稿を望めるのだから、新潟日報社内には誘致に賛成する声もあったにちがいない。しかし、この頃すでにチェルノブイリ事故の深刻さは明らかになっていたし、国内の原発でも無数の事故が発生していて、福井県内の世論調査では原発反対の世論が強いことが報道されていた。既に稼働していた柏崎刈羽原発の特需も先が見え、冷静に考えれば、推進派の唱えるバラ色の未来などあり得るはずもないことは明白だった。そうした流れを大局的に見て、短期的な収入増に惑わされず、報道機関としての使命を全うした同社の姿勢は、長く歴史に残るだろう。
第4章 プロパガンダ爛熟期から崩壊へ(2000~11)
意識的にニュース番組を提供
「原発はクリーンエネルギー」という虚妄
・2000年代の原発プロパガンダにおける重要なキーワードは、「原発は二酸化炭素を排出しないクリーンエネルギー」というロジックだった。それまで、原発は資源のない日本にとって貴重な国産エネルギー(ウランは輸入されているから、厳密にはこれも誤りである)であり、安全で安価であるというのが基本ロジックだったが、1997年の京都議定書採択以降、推進派は地球環境保護という錦の御旗を原発推進に大いに活用した。
東電トラブル隠し(02年)とテレビ番組スポンサード戦略
・忘れてはならないのは、日本の場合、テレビ局は新聞社と資本が繋がっていることが多いことだ。……テレビ局を押さえることによって新聞社の報道にまで影響を及ぼすことができる
・東電、電事連、NUMOがスポンサードした(CM)を流した番組
日テレ:NEWS ZERO、真相報道バンキシャ、情報ライブミヤネ屋、NNN news every
TBS:ピンポン!、NEWS23、ぴったんこカン・カン、Jスポ、ひるおび、報道特集&ニュース、S★1
フジ:FNNスーパーニュース、ネプリーグ、すぽると
テレ朝:ワイド!スクランブル、報道ステーション、シルシルミシル、スーパーJチャンネル
テレ東:開運!なんでも鑑定団、トコトンハテナ
NUMOの欺瞞
・何の実績も上げていない。後援に共同通信社。
有名雑誌を総なめに
・タイアップ広告=記事風の広告
証拠隠滅に躍起になったプロパガンディストたち
★その後事故の深刻さが明らかになると共に、原発プロパガンダに手を染めていた企業や団体は、脱兎のごとく証拠隠滅に走った。原子力ムラ関連団体は、それまでHP上に所狭しと掲載していた原発CMや新聞広告、ポスター類の画像を一斉に削除したのだ。
事故以前、東電のHP上には様々な原発推進広告が掲載されていたが一斉に消去され、2006年から新聞や雑誌広告と連動させてHP上でも展開していた漫画によるエネルギー啓蒙企画「東田研に聞け エネルギーと向き合おう(弘兼憲史)」もいち早く3月末には削除した。弘兼氏は漫画家の中でも原発推進に熱心なことで有名であり、各地で開催された原発シンポジウムにもゲスト出演していた。さらに氏の代表作と言われる「島耕作シリーズ」の『専務 島耕作』第2卷(2007年)では主人公に「もんじゅ」を見学させ、その必要性を語らせていた。
さらに原発プロパガンダの総本山である電事連でさえ、原発に批判的な記事をあげつらって反論していた「でんきの情報広場」の過去記事を全て削除した。NUMOも、過去の新聞広告やCMの記録をHPから全部削除した。そして資源エネルギー庁も、HPに掲載していた子ども向けアニメ「すすめ! 原子力時代」などを削除した。また、2010年から大量の原発広告を出稿した東芝も、自社HPの広告ライブラリーから原発に関連する広告画像をすべて削除した。
そうした証拠隠滅に走ったのは、原子力ムラ関連団体だけではなかった。驚くべきことに、大手新聞社や雑誌社の過去掲載広告事例集からも原発広告が削除された。事故の前年に10回も原発広告を掲載していた讀賣新聞でさえ、自社の広告掲載事例から東電の原発広告を消去した。このように、原発PRに手を染めていたプロパガンディストたちの狼狽ぶりは、まるで戦争に敗れた国が大慌てで戦争犯罪記録を焼却するかの如くだった。
これらの団体や企業が、それぞれが関与した証拠をことごとく消去したのは、そこに後ろめたさがあったからに他ならない。莫大な金を投入して作ってきた広告は、すべて嘘だったのだ。
あれほど絶対安全だといい張り、クリーンだなどと幻想を振りまいていたのに、事故が起きたらその証拠を消去しなければならないほど、自分たちの言説に責任も誇りも持っていなかった。カネに魂を売って安易に作り続けてきた作品群は、カネの切れ目が縁の切れ目とばかり、あっさりと闇に葬られた。そこには、営々と国民を「説得し続けてきた」責任感も使命感もなかった。それまでの体制が崩壊したことにより慌てて証拠隠滅を図る様は、まさしくそれが悪 しきプロパガンダであったことを、鮮やかに証明したのだった。
第5章 復活する原発プロパガンダ(2013~)
神話の崩壊と復活への胎動
・『週刊現代』(講談社)と『週刊ポスト』(小学館)の対比。小学館とKADOKAWAは東電を追求しない。企業姿勢の差。
・2013年3月24日東奥日報 電事連と日本原燃 神津カンナ
『週刊新潮』に掲載された原発広告
・2014年1月から計4回のシリーズ 電事連 デーモン小暮、手嶋龍一、舞の海秀平、宮家邦彦「原発が停止すると、割高な原油を購入しなければならず、膨大な国富のマイナスになる」という新しいロジック
原燃と原研の欺瞞
青森県の六ヶ所村再処理工場を経営する日本原燃(株)と福井県のもんじゅを経営する原研 (日本原子力研究開発機構) どちらも巨額の税金を投入しながら事故や故障が続き、一度もまともに操業していない
「安全」神話から「安心」神話へ
★そこで、かつてのような原発の安全性を謳う広告・PR展開がほぼ不可能になる中で、原子カムラはついに安全性への言及を諦め、別の方策を実行し始めた。それが、原発事故の影響を極力矮小化し、「事故で放出された放射能の危険性は小さく、健康への悪影響はない」という「安心神話」の流布である。
これには、強力な援軍があった。3・11後、「原発事故の風評被害」に悩む様々な地域から、風評被害撲滅の要請が政府、環境省、復興庁に殺到した。その結果、「復興対策費」の一つとして「健康不安軽減対策」「風評被害対策」という予算項目が確立したのだ。これにより、特に福島県を中心とした「安心プロパガンダ」が加速していくこととなった。
環境省の説明
・平成24年〜25年度の環境省の入札関係を調べると、電通が先ほどの
・放射性物質・汚染廃棄物等処理・啓発普及業務(7億円)に加え、
・東日本大震災に係る災害廃棄物の広域処理等支援業務(9億円)
・東日本大震災に係る除染等に関する広報業務(11億円)
・除染情報プラザ事業(14億円)
などを受注していることがわかる。つまり、この指定廃棄物や除染に係わる広報関連はすべて電通が担当しているのだ。
・ちなみに「除染情報プラザ」とは除染の情報提供、情報発信を行い、放射性物質の基礎知識に関する講習や放射線量測定方法の指導を行う専門家を派遣する施設となっているが、その実態は電通から人材派遣のパソナに丸投げされ、14人の職員全員が派遣社員で専門家が一人もいないことが朝日新聞で報道されている。
「なすびのギモン」
政府広報一五段「放射線についての正しい知識を。」広告
・2014年8月17日に朝日・毎日・讀賣・産経・日経の全国紙5紙と福島県の福島民報・民友の2紙に掲載された「放射線についての正しい知識を。」というタイトルの政府広報 紙面に登場する東大病院放射線科の中川恵一准教授が「福島で小児甲状腺ガンは増えない」「放射線について慎重になりすぎると発がんリスクを高める」などと持論を展開。同年5月に発生した『美味しんぼ』騒動に対するカウンター。
「風評被害撲滅」という合言葉
・そこで現在は、事故の深刻さを伝える報道や発言を「風評だ」「風評被害を発生させる」と叩きつつ、同時に「事故による健康被害は発生していない」「健康や作物へのダメージは小さい」という「ダメージ緩和」を喧伝し、さらに輸入資源の高騰で国際収支が赤字となっている現状を捉えて「エネルギーベストミックスによる原発必要論」を前面に押し立てる戦略にシフトした
大規模な放射線リスクコミュニケーションの展開
・メディアを使った「安心神話」流布が空中戦だとすれば、福島県を中心に東日本各県で実施されているリスクコミュニケーション(リスコミ)は地上戦である。国は福島県の「放射線被ばくによる健康不安対策事業費」として、2015年度に7億8100万円を計上した。前年度の4400万円から比べると、15倍以上の増額だ。その中には、住民に対して放射線の安全性を説明する"リスクコミュニケーション”に関する実施費も含まれている。これは国が復興予算をばらまき、様々な団体が福島県内をはじめ東北各県、茨城・千葉・長野県などで展開している「安心神話の講習会」である。
・実施団体は「原子力安全研究協会 放射線環境影響研究所福島研究所」であるが、この協会は1964年に設立された経産省・文科省の所管団体で、前理事長が原子力安全委員長でもあった、いわゆる典型的な原子力ムラの一員である。原発事故の47年も前から「原発の安全性」を研究し、「原発は絶対に安全、事故は起こしません」と言っていたのに事故を防げなかった集団が、事故後は「放射線被曝しても安全です」と言っているのだから、滑稽ですらある。
博報堂とADKの「変節」
・原子力ムラの象徴「日本原子力産業協会(原産協)」に博報堂とADKが加入。2013年と2014年。
・それは私企業であるからにはしかたないではないか、という指摘もあるだろう。しかしかつて博報堂には、社会的に何らかの問題が予見される業界には手を出さない、という不文律があった。だから、バブル絶頂期でさえサラ金やパチンコ、競馬など電通が金城湯池としたギャンブル広告をほとんど扱っていなかった。それが博報堂という企業の矜持ともいえたのだが、原産協入りはもはや同社にそうした「企業の良心」がなくなったことを示すようでもあり、一抹の寂しさを感じさせた。
復興予算と広告
・「風評被害対策」関連事業45もの事業に予算
・原発事故による被害をことごとく「風評だ」として隠蔽することは、事故の教訓を見えなくさせ、加害者の責任を曖昧にする。これらの事業が本当に被災地のためになるのか検証が必要だ。
復活する原発広告の真の狙い
・メディアの自粛を促す
新たな錦の御旗
・一度は止まったかに見えたプロパガンダの歯車が、「震災からの復興」「風評被害の撲滅」という新たな錦の御旗を担ぐことによって復活しつつある
・むしろ、3・11以前のプロパガンダ主体が原発推進の受益者である電力会社であり非常にわかりやすかったのに対し、現在は政府が主体となって「風評被害対策」「安心神話」というリスクコミュニケーションを展開する分、受益者が曖昧になり、格段に性質が悪くなったといえる。
・しかし、そもそも風評という言葉の意味は非常に曖昧である。実際に害が発生しているからこそ、その周辺に噂が立つのであって、火のないところに煙は立たない。原発事故によって実際に放射能汚染や被害が発生しているのに、それらをすべて「風評被害」と呼ぶのは、真実を見て見ぬふりをするのと同じである。
・原子力ムラは「人々の素朴な感情」を巧みに利用する。 原発事故の影響は言われているよりも大きくない、自分たちの日常生活には影響がない、と思いたい人々の切実な思いを利用し、まるで住民のためを考えているかのような言説を展開する。しかし、これまでの国と東電の行いを見れば分かる通り、何か起きても彼らは決して責任をとらない。結局は彼らの賠償責任を軽くするための隠れ蓑なのだ。国や東電が今すべきことは、何よりも福島第一原発事故の収束と原因究明、さらには現在もなお避難を強いられている人々の生活を元に戻すことであり、現状を追認するようなリスコミなどは行うべきではない。
原発プロパガンダに抗するために
・先述したように、現在の社会で私たちが触れるニュースは、プロパガンダ・モデルにおけるチョムスキーの「5つのフィルター」によって濾過されたものだと認識することが非常に重要だ。もっと簡単に言えば、大手メディアも単なる利益追求集団(企業)であり、最終的には国家権力に逆らえない構造をもっている、という現実を知ることである。そうした意識を持つことによって、多くのニュースの「目的」を見破ることができるだろう。
・プロパガンダ・メディアに属さない独立系メディアの情報に耳を傾け、支えることだ。その多くは企業からの広告を取らないがゆえに総じて経営規模は小さく、大メディアと比較すれば発信力が小さい。しかし、広告主からの干渉を受けないからこそ、真実を伝える可能性が高く、貴重なのだ。
・さらに、原子力資料情報室やグリーンピース・ジャパンなど、政府や企業からの援助を受けずに活動しているNGOやNPOなども、独自の放射線量調査などを継続的に行っている。こうした団体の会員になるなど少しでも援助することが大事なのだ。バイアスがかかっていない情報を選るには、それなりのコストや努力が必要だということを私たちは認識しなければならない。
・必ず抗議の一報を入れること。一見地味に映るが、それがプロパガンダを止める大事な第一歩。
資料(日本原子力産業協会 会員名簿)
・433社
参考文献
おわりに
★広告とは、見る人に夢を与え、企業と生活者の架け橋となって、豊かな文明社会を創る役に立つ存在だったはずだ。それがいつの間にか、権力や巨大資本が人々をだます方策に成り下がり、さらには報道をも捻じ曲げるような、巨大な権力補完装置になっていた。そしてその最も醜悪な例が、原発広告(プロパガンダ)であった。
・原子力ムラが相変わらず原発広告を作り、メディアがカネほしさにそれらを掲載して平気な顔をしているのは、彼らの所業を記録し、その欺瞞を批判、追及する組織や団体が存在しないというのも理由の一つ
3/12読了
要約&感想
◆要約:電力9社だけで40年間で2兆4000億円。電事連、NUMO、日本原燃、官公庁などを加えればいくらになるのかわからない。
マスメディアにとって、あまりに美味しい飴であり、それを取り上げることをチラつかせることで恫喝にもなる。完全に懐柔されたというか、マスメディアも完全な共犯者。
原発立地県と消費地で広告の使い分け。2本のドキュメンタリーや新潟日報の記事、天野祐吉の『広告批評』など、偉大な仕事も数少ないながらあった。
3.11移行は「安全プロパガンダ」から「安心プロパガンダ」へ。
◆感想:凄本だった。圧巻の内容。
概要は知っていて読んだつもりだったが、詳細を知ると想像以上の内容だった。
自分も完全にプロパガンダにより刷り込まれ、洗脳されていた。
マスメディアは屈服したというよりも完全な共犯関係。
事故後に証拠隠滅とばかりに過去の広告を急いで削除したことが本当に情けない。
そんななかでも、青森放送の「核まいね」、広島テレビの「プルトニウム元年」、新潟日報のスクープ、天野祐吉氏の『広告批評』などの数少ない真摯な仕事には拍手を送りたい。
自分は昨年の福一「処理水」放出時の異常な言論状況に堪りかねてこの本を読んだ。そうしたら、「風評被害撲滅」を合言葉にした「安心プロパガンダ」の説明で、起こっていることがスッキリと理解できた。
この本で原発プロパガンダの詳細がよくわかるが、この仕組みは原発に限らず、例えば安保法案や辺野古基地などの安全保障の分野でも、東京五輪や大阪万博などでも同じことが行われていることが容易にわかる。
先日JR東海の天皇と呼ばれた葛西敬之に関する本を読んだときに思ったのだが、もともと国鉄という税金で作った事業が民営化されて、莫大な資金力を背景に絶大な権力をもってしまう。東電をはじめとした電力会社についてもそれと同じことを感じた。
公共事業であれば、一応選挙という建前上の歯止めが効くのだが、電力会社は民間企業であるので、地域独占、総括原価方式が許された特別な存在なのにやりたい放題でガバナンスが効かない。
巻末の日本原子力産業協会の会員名簿を見ると、財閥系大手金融機関も含めて、日本の財界ほとんど全てという感じがする。
電力とは、財界による国民支配の仕組みなのかなと漠然と感じた。