マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上)(下)』(新潮文庫 2014年)

単行本は2012年
 
・昭和の巌流島 1954年(昭和29年)12月22日 蔵前国技館 木村政彦(37歳)vs力道山(30歳)
日比谷公会堂前、新橋駅前西口広場、大森駅前、中野駅前、渋谷駅前、上野公園池之端、有楽町の朝日新聞社前(現マリオン)、五反田駅前など、あらゆるところに街頭テレビが設置され、たった一台のテレビにそれぞれ数万単位の人々が群がっていた。電器店の前のテレビにも数千人単位で人が立ち、テレビがある喫茶店や家庭には近所の人たちが集まっていた。
テレビ局はまだNHK日本テレビしかなく、二局ともにこの大興行を生放送していたため、視聴率は一〇〇%である。ラジオも二局が生放送していた。全国民が、いまかいまかと世紀の一戦が始まるのを待っていた。
連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters、GHQ)第一生命ビル
・だが、思うに、木村政彦にとって、命より大切な柔道修行ができないということと生活の糧を得るのが大変だということ以外では、むしろ生き辛い世の中などではなかったのかもしれない。
その生活ぶりをみると、楽しんでいるようにさえ見える。
酒、女、喧嘩、ヤクザ、暴力。
・堕ちよ、と言った。
坂口安吾である。
敗戦からまだ8ヵ月しか経っていない昭和21年(1946年)4月、39歳の安吾が発表した「堕落論』は世間に大きな衝撃を与えた。
思想とも宗教ともムラ組織とも離れたスタンスから、戦争と人間の本質に斬り込んでいたからである。無頼派安吾の真骨頂であった。
《半年のうちに世相は変わった。醜しこの御楯みたてといでたつ我は。大君のへにこそ死なめかえりみはせじ。若者たちは花と散ったが、同じ彼らが生き残って闇屋やみやとなる。
ももとせの命ねがわじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女たちも半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。
人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけのことだ。》
明治43年(1910)に大日本帝国大韓帝国(現在の北朝鮮と韓国を合わせた朝鮮半島全体)を植民地化した直後から、海峡を渡って日本にやってくる朝鮮人は凄まじいスピードで増え続け、併合前年の明治42年に790人だったものが、昭和9年には50万人、昭和15年には100万人、終戦の昭和20年には実に230万人を超えていた(内務省警保局調査)。
・「日本プロレスリング協会」力道山
会長 
 酒井忠正(横綱審議委員会委員長)
理事長 
 新田新作(新田建設社長)
常務理事
 林弘高(東京吉本社長)
 永田貞雄(日新プロダクション社長)
 今里広記日本精工社長)
理事
 加賀山之雄(国鉄前総裁)
 吉田秀雄(電通社長)
 松尾國三(雅叙園観光社長)
 古荘四郎彦(千葉銀行頭取)
顧問
 萩原祥宏(右翼団体黒竜会)
相談役
 大麻唯男(衆議院議員)
 永田雅一(大映社長)
 出羽海秀光(相撲協会理事長)
・その他スポンサー 萩原吉太郎児玉誉士夫 「日本プロレスリングコミッショナー自民党副総裁の大野伴睦、川島正次郎 中曽根康弘
・「全日本プロレス協会山口利夫
会長 
 松山庄次郎(酒梅組)
顧問
 小西寅松 (小西組)
相談役
 石川弥太郎(小緑組)
 本多仁介(本多会)
 石田郁三(倭奈良組)
理事
 西川万太郎(西川組)
 勝間芳次(平錦組)
 田岡一雄(山口組)
 永田熊吉(土井組)
・日本のプロレス界は、まさに力道山の一人勝ちであった。関西の松山庄次郎がプロレス界から勇退するかたちで、東日本の興行は東声会が、西日本の興行は山口組が仕切るかたちになっていた。
力道山は東声会の町井久之(鄭建永)との強力な絆があったし、山口組の田岡一雄の援助も受けていた。そして政治家では昭和32年10月から2代目コミッショナーに就いた大野伴睦を中心に河野一郎中川一郎社会党浅沼稲次郎まで支援してくれていた。右翼の大物児玉誉士夫のバックもあった。「リングで決着をつけたい」という木村の思いなど、どうにもならない差がついていた。
力道山 当時横浜市本牧に本社があった新田建設に資材部長として勤務
・実業家としても成功し、赤坂に自らの住居も兼ねた高級アパートの「リキ・アパート」、ナイトクラブの「クラブ・リキ」、さらに「リキマンション」と名づけたマンションの奔りである高級賃貸住宅を建てた。
渋谷には「リキ・スポーツパレス」という地上9階建てのプロレスの常設会場を作り、その中には「リキトルコ」やビリヤード場、ボウリング場などを併設した「リキレストラン」を建設した。ボクシングジム経営にも進出している。
・「リキ・スポーツパレス」1960年に着工。当時の金額で15億円という巨費を投資し、1961年に完成した。
力道山の想い出の遠征地であるハワイ州ホノルル・シビック・オーデトリアムを模して建造されたホールは、ビルの3階から5階部分までの吹き抜けで、最大収容数3,000人。7月30日に行われたお披露目会には、美空ひばり江利チエミ雪村いづみの「三人娘」を始めとする、テレビ界のスターが多数来場。夢の殿堂とも呼ばれた。杮落としは8月19日の日本プロレス興行で、観客動員は3,000人超満員であった。日本プロレスの常設会場として、「三菱ダイヤモンドアワー・プロレスリング中継」も主に当会場から中継されたほか、ボクシング興行も行われた。
大山倍達 極真会館 会長に佐藤栄作、副会長に毛利松平 
8/31読了
 
◆要約:史上最強との声もある柔術木村政彦の波乱万丈な人生。日本のプロレス黎明期の事情。その後のプロレスと総合格闘技に決定的な影響を与えた男。
◆感想:先輩に勧められて読んだが、少しずつ読んでいたら3ヶ月半もかかってしまった。
長すぎる。前半が冗長できつかった。
後半、プロレスと力道山が出てきて一気に面白くなった。
戦後の闇社会と興行としてのプロレス創成期の関係がよくわかる。
このタイトルは力道山に対して失礼ではないかと思う。
著者が木村政彦を崇拝しているのはわかるが、力道山側の言い分を取材していない。
万が一、著者に人種差別的な視点がないものか憂う。
それを憂うのは著者が櫻井よしこ猪瀬直樹と仲良く写真をとっているのをみたから。
この本を読んだあとに、前田日明在日朝鮮人問題に対するyoutubeを見た。
前田日明の言う通り。彼らは日本の占領下に生まれ、日本人として教育を受け、愛国心すら持っていた。
それが敗戦と同時に、突然日本国籍を取り上げられ、祖国に帰ってくださいと言われても困る。
力道山大山倍達も困っただろうし、ヤクザになってしまった、なるしか道がなかった人たちがたくさんいることも理解できる。
センセーショナルなタイトルを狙ったのだろうが、これは力道山に失礼。
批判したが、この本は格闘技好きには大変おもしろいだろうし、戦後の歴史を知る上でも勉強になった。