はじめに
・4つの異なる主体概念
・ハーバーマス - 普遍的な近代的個人
・フーコー - ルネサンスの万能人
・アルチュセール - 主体はイデオロギーによる所産
・ラカン - 精神分析はまた別の地平 例えば死の欲動
・文化、人間、民主主義そもそもがマイナスのもの チャーチルの有名な警句 原初の「外傷」 原罪
・ラクラウ=ムフの根源的民主主義=「根源的」に無理である、不可能であるという前提 ↔ これがマルクスとの違い
・「ヘーゲルこそ最初のポスト・マルクス主義者である」というテーゼ
・弁証法=一種の諦め、妥協
・ヤルゼルスキ政権下のポーランド 夜間外出禁止
・本書の目的3つ
・1.ラカン派精神分析の基本概念の紹介
・2.ヘーゲルの再評価
・3.ラカンを通して、イデオロギー理論に新たに寄与する≒「ヘーゲルを救う」ために、ラカンを通して、ヘーゲルを読み直す。それによって現在の「ポスト・モダニズム」の罠を回避する。
第1部 症候
1.いかにしてマルクスは症候を発明したか
マルクスとフロイトー形態分析
・商品の分析と夢の分析
・フロイトは「なんでもかんでもセックスに結びつける」という批判
・結局のところ、夢とは、睡眠状態の諸条件によって可能になるような、思考の一特殊形態に他ならない。その形態をつくり出すのが夢の作業であって、この夢作業のみが夢の本質であり、夢の特殊な性質を解きあかす鍵なのである。
・アルフレート・ゾーン=レーテル「現実的抽象」=商品交換というきわめて現実的な中で働いている抽象作用
・貨幣=物質であると同時に「象徴界」の存在でもある。
・無意識=その存在論的位置が思考のそれではないような思考形態、つまり、思考そのものの外にある思考形態
・抽象的秩序=思考に先立ち、思考の外にある思考形態
・行為者が自らの行為の抽象性に気づかない≒エスノメソドロジー
・「普遍的理性」は何にも影響を受けていないか?
・ゾーン=レーテルの簡単な公式「このように現実を知らないことが、その本質の一部なのである」
★交換過程の社会的現実性は現実の一部であり、それに参加している人間がそれの本来の論理に気づかない場合にのみ存在しうる。すなわち、その存在論的整合性が、その参加者たちのある種の非知を含んでいるような現実である。もし人が「よく知っている」ようになり、社会的現実の真の機能を見抜いたならば、この現実は霧散してしまう。おそらくこれが「イデオロギー」の基本的次元である。
★イデオロギー=参加者がその本質を知らないことを前提とした社会的現実。すなわち、その再生産のためには人間が「自分が何をしているのか知らない」ことを前提するような社会的現実である。
・症候=「その整合性そのものが主体の側のある種の非知を前提とする形成物」。ここでイデオロギーと症候が結びつく。
社会的症候
・ある概念の普遍化は、一方でそれを自ら否定する一部の症候を引き起こす。
・共産主義=生産手段の共有化=搾取の無い世界、疎外の無い世界
・要するに、「ユートピア的」という言葉は、症候のない普遍性、つまりそれ自身の内的否定として機能するような例外をもたない普遍性が可能だという信念をあらわしている。
・プロレタリアート=「合理そのものの不合理」
商品の物神性(フェティシズム)
・商品も人間も、他と比べることで初めて自分の価値がわかる=鏡像段階理論
・全ては関係性。たとえば、ある人間が王であるのは、他の人間たちが彼にたいして臣下として相対するからに他ならない。ところが一方、彼らは、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思い込んでいる。
・「王であること」は、「王」と「臣下」との社会的諸関係の網の効果である。だが――ここに物神的な誤認があるのだが――この社会的絆の参加者たちの目には、この関係がかならず反対に見える。彼らはこんなふうに考えている――自分たちが王に仕える臣下であるのは、王自身がすでに、臣下との関係とは無縁に、王だからである、と。あたかも、「王であること」を決定するのが、王である人物の「自然な」属性であるかのように。
・ラカン「自分を王だと思い込んでいる狂人は、自分を王だと思い込んでいる王以上に狂っているわけではない。」
・資本主義になって領主が退陣したことは置換にすぎないのだ。つまり、「人間どうしの関係」の脱物神化を埋め合わせるために、「物どうしの関係」における物神性、すなわち商品の物神性が出現したかのようだ。
・商品の値段に夢作業のようなマジック(イデオロギー)がある。1000万円の住宅は本当に1000万円か?
・資本主義社会=人間どうしの社会関係が物どうしの社会関係の形によって偽装される。
イデオロギーの一形態としてのシニシズム
・おそらくイデオロギーのいちばん基本的な定義は、マルクスの『資本論』の有名な一節だろう。「彼らはそれを知らない。しかし彼らはそれをやっている。」
★問題は、イデオロギーの歪んだ眼鏡を投げ捨てて、事物(すなわち社会的現実)を「ありのままに」見ることではない。大事なのは、どうして現実そのものが、いわゆるイデオロギー的ごまかしを抜きにしては再現されないのかを明らかにすることである。たんに仮面が事物の本当の状態を隠しているというのではない。イデオロギー的歪曲はその本質そのものに書き込まれているのである。
・スローターダイク『シニカル理性批判』イデオロギーは何よりもまずシニカルに機能する
・シニシズムは公式的イデオロギーのいわば倒錯した「否定の否定」≒リベラル批判、弱者叩き
イデオロギー的空想
・彼らが知らないのは、彼らの社会的現実そのもの、つまり彼らの活動が、ある幻想、すなわち物神崇拝的な転倒によって導かれているということ。
信仰の客観性
・封建社会→資本主義社会では、主体は解放され、自分たちは中性的な宗教的迷信から解放されていると信じており、おのれの利己的な関心にのみ導かれた合理的な功利主義者として他人と関係する
・近代、人間は宗教的迷信から解放されたが、実は物それ自体が信仰をもっている。人間のために祈っている。=経文を貼り付けた風車
・ラカン「精神分析は心理学ではない」
・コロス 古代ギリシア劇の合唱隊(劇の情況を説明したり批評したりするなど、進行上大きな役割を果たす) 笑い声のSE
「法は法」
★信念なるものはけっして心の奥底に「秘められた」もの、つまり純粋に精神的な状態ではなく、つねにわれわれの現実的な社会的活動の中に具体化されるということだ。信念は、社会的現実を規定している空想を支えているのだ。
・いわゆる(官僚制など)「カフカ的世界」は「社会的現実の空想的イメージ」ではない。それどころか、社会的現実そのものの真只中で発動している空想を表現したものである。
・精神分析的アプローチは、何よりもまず、社会的現実そのものの中で働いているイデオロギー的空想に狙いを定める。
・パスカル「われわれは精神であるのと同程度に自動機械である」
・パスカル「習慣は、それが受け入れられているというただそれだけの理由で、公正さそのものである。それが習慣のもつ権威の神秘的な基礎である。習慣をその起源まで突きつめていくと、それを破壊してしまうことになる」
・理不尽(不合理)なこと=権威の決定的条件=精神分析における超自我なる概念の基本的特徴
・カフカ『審判』「気の滅入るような結論ですね」「虚偽が普遍原理にされているんだから」=法の権威には真理は含まれていないということ
・マレク・カニエフスカ『アナザー・カントリー』ケンブリッジ大学 ジョン・コーンフォード、ガイ・バージェス
・精神科医と患者の転移
アルチュセールの批判者カフカ
★結局やっていることが、信仰していること
・信仰とはすなわち死んだ、理解不能な文字への服従である。心の奥底に秘めた信仰と外的な機械とのこの短絡こそが、パスカル神学のもっとも革命的な核心なのである。
・アルチュセールが見落としたもの
・国家装置という外的な「機械」は、それが、主体の無意識的経済において、外傷的で無意味な命令として受け取られるときはじめて、その力を行使するのである。
・不合理な官僚制こそが最初に直面しかつ最大の国家のイデオロギー装置
★ラカン 夢=本当の欲望=〈現実界〉
★だから彼は目覚めるのだ。恐ろしい夢の中で姿をあらわす、自分の欲望の〈現実界(リアル)〉から逃れるために。眠り続けるため、自分の盲目を維持するため、自分の欲望の〈現実界(リアル)〉へと覚めないようにと、彼はいわゆる現実(リアリティ)の中へと逃げ込むのである。
・現実(リアリティ)は、夢に堪えられない者たちのためにある。「現実(リアリティ)」とは、われわれが自分の欲望の〈現実界(リアル)〉を見ないですむようにと、空想がつくりあげた目隠しなのである。
・イデオロギー=現実(リアリティ)に近い
・イデオロギーの機能は、われわれの現実(リアリティ)からの逃避の場を提供することではなく、ある外傷的な現実(リアル)の核からの逃避として、社会的現実(リアリティ)そのものを提供することである。
・『精神分析の4つの基本概念』荘子 胡蝶の夢
・主体とはなにか その場所では、彼あるいは彼女の中身全体は他者によって、すなわち相互主体的な関係の象徴的な網によって、調達される
・その主体の中身――「彼が何であるか」――は、彼が同一化できるようなものを彼に提供し、象徴的な命令を彼に課す、外部のシニフィアンの網によって決定されることになる
・→しかし、それだけではない。根拠になるのは空想
現実の支えとしての空想
・ラカンのテーゼ「われわれは夢の中においてのみ真の覚醒に、すなわちわれわれの欲望の〈現実界(リアル)〉に接近するのである」
・われわれが「現実(リアリティ)」と呼んでいるものの最後の支えは空想である、とラカンはいうが、けっしてこれを、「人生は夢にすぎない」とか「われわれが現実(リアリティ)と呼んでいるものは幻覚にすぎない」といった意味に解釈してならない。反対に、すべては鏡に映った幻の戯れである、などといったふうには絶対に還元できないような、固い核、残滓がかならずある、というのがラカンのテーゼである。
・ラカンと「素朴なリアリズム」の違いは、ラカンにとっては、われわれがこの〈現実界(リアル)〉の固い核に接近できる唯一の場所は夢である、ということである。夢から覚めたとき、われわれはふつう「あれはただの夢だったのだ」と独り言をいい、それによって、覚醒時の日常的な現実(リアリティ)においてはわれわれはその夢の意識にすぎないという事実から目をそらす。われわれは夢の中においてのみ、現実(リアリティ)そのものにおけるわれわれの活動と活動様式を決定する空想の枠組みに接近できたのだ。
・われわれのイデオロギー的な夢の力を打破する唯一の方法は、この夢の中にたちあらわれるわれわれの欲望の〈現実界(リアル)〉を直視することである。
2.症候からサントムへ
症候の弁証法
バック・トゥ・ザ・フューチャー
・分析=意味のない想像界の傷跡を象徴界に統合すること
・無意味=本質的に想像的なもの=主体の歴史の「象徴的発達に同化されえなかった想像的固着」=象徴的発達がなされた段階には実現されてしまっているもの
・真実とはすなわち、症候にその象徴的位置と意味をあたえるシニフィアンの枠組み
・われわれが象徴秩序の中に入るやいなや、過去はつねに歴史的伝統という形であらわれ、それらの傷跡の意味はあたえられない。その意味は、シニフィアンのネットワークの変容にともなってつねに変化しつづける。
・転移=無意識の現実(リアリティ)の実現
・ウィリアム・テン「モーニエル・マザウェイの発見」
・サマセット・モーム『シェピー』「サマーラでの約束」
歴史における反復
・ローザ・ルクセンブルクとエドゥアルド・ベルンシュタインの論争 ローザ「最初の権力奪取は必然的に「時期尚早」である」 まず時期尚早にやってみてしまうこと
・ロベスピエールの有名な文句「修正主義者が欲しがっているのは「革命なき革命」なのだ」
・脅迫神経症者(の男性)とヒステリー症者(の女性)との対立。前者は行為を先延ばしし、後者は行為を先走る(自分自身を追い越す)
・カエサル=カイザー=皇帝
・ここでの核心的な点は、ある出来事の象徴的な地位が変化するということである。その出来事が最初に起きたときには、それは偶発的な外傷として、すなわちある象徴化されていない〈現実界(リアル)〉の侵入として体験される。反復を通してはじめて、その出来事の象徴的必然性が認識される。つまり、その出来事が象徴のネットワークの中に自分の場所を見出す。象徴界の中で現実化されるのである。
・すべてはミネルヴァのフクロウ、終わった後でわかる
・殺された父親の代わりに「父-の-名」(法)があらわれる。
ヘーゲルとオースティン
・ジェイン・オースティン 18-19世紀イギリス郊外の平凡な家庭の話
・『高慢と偏見』『マンスフィールド・パーク』『エマ』
★『高慢と偏見』ダーシーとエリザベス 他者の中に見つけた欠点の中に、われわれは、それとは知らずに、自分自身の主観的な立場の虚偽性を見出すのである。他者の欠点とは、われわれ自身の視点の歪みを客体化したものにすぎないのである。
ヘーゲル的小話二題
・ポーランド人とユダヤ人の小話
・人と人の転移関係
・〈対象a〉=欲望の原因であり――パラドックスなのだが――この欲望によって遡及的に設定されるもの
・「空想を通り抜ける」ことを通じて、われわれは、この空想-対象(「秘密」)がわれわれの欲望の空虚さを物質化したものにすぎないことを体験する。
・カフカ『審判』掟の扉
・欲望はすべて個人的なもの。他者への距離、ないものねだり。
時間の罠
★誤認が本来もっている積極性、すなわち誤認は「生産的」動因として機能する。=馬鹿だからできること。
症候としてのタイタニック号
・〈現実界(リアル)〉VS〈象徴界〉
・症候=享楽のリアルな核
・われわれはあらゆる手段を尽くしてそれ(現実界)を飼い慣らし、ジェントリファイ化し(ちなみに、これは都市の「症候」としてのスラムを飼い慣らそうとする戦略を指す用語である)、説明によって、すなわちその意味を言葉にすることによって、それを解消しようとするが、症候は剰余として生き延び、回帰してくる。
・1898モーガン・ロバートソン『無益』14年後そっくりの船『オマル・ハイヤームのルバイヤート』タイタニック=タイタン
・大型豪華客船=社会の自我理想
・タイタニックの船上=享楽そのもの
症候からサントムへ
・「〈象徴界(シンボリック)〉から排除されたものは症候の〈現実界(リアル)〉の中に回帰する」
・男=象徴界 女=現実界 女のシニフィアンは存在しない→女は男の症候である
・言語→コード化・暗号化
★症候は解釈されることを待っている
・どうして、解釈されたにもかかわらず、症候は溶解しないのか。どうして生き延びるのか。もちろんラカンの答えは、享楽だ。症候は単に暗号化されたメッセージであるだけでなく、同時に、主体がおのれの享楽を組織化する手段でもある。
・精神分析の2つの段階 症候を解釈→幻想を通り抜けること
・サントムという造語(合成人造人間、症候と幻想との総合、聖トマス、聖者…) 意味の享楽の担い手というシニフィアン
★サントムとして捉えられた症候は、文字通りわれわれの唯一の実体であり、われわれの存在の唯一のポジティブな支えであり、主体に一貫性をあたえる唯一の点なのである。言い換えれば、症候とはすなわち、われわれ――主体――が、われわれの享楽を、われわれの世界-内-存在に最小限の一貫性をあたえる意味的・象徴的形成物に縛りつけることによって、「狂気を免れ」、「無(極度の精神病的自閉、象徴的宇宙の破壊)の代わりに何か(症候形成)を選ぶ」ということなのである。
・症候に唯一代わりうるのは、無、すなわち、純粋な自閉、精神病的自殺、象徴的宇宙の完全な破壊にまでいたるほどの死の衝動への屈服なのである。だからこそ、精神分析過程の終了に下したラカンの最終的な定義は、症候への同一化である。
・患者が自分の症候の〈現実界(リアル)〉の中に自分の存在の唯一の支えを見出すことができたとき、分析は終了する。フロイトの「エスがあったところが、自我にならなくてはならない」という言葉は、そういうふうに読まなくてはならない。
・ここで女は男の症候であるという言葉に戻ってくる=存在(生)の唯一の支えという意味
イデオロギー的な享楽
★ファシストのイデオロギーにとって、重要なのは、手段としての犠牲の価値ではなく、犠牲の形式それ自体である。それは「犠牲の精神」であり、自由主義的デカダンスという病にたいする治療なのである。
・デカルト 森で迷った旅人の比喩 とにかく、偶然選ばれた方向であっても、真っ直ぐ歩くこと
・ジョン・エルスター「本質的に副産物であるような状態」=陪審制度、パスカルの宗教的な賭け、ローザ・ルクセンブルクの革命のプロセス
・イデオロギーにとってもっとも重要なのはその形式である。つまり、われわれが一定の方向にどこまでも真っ直ぐ歩きつづけるということ、ひとたびわれわれの心がそう決めたら、どんなに疑わしい意見にも従うということ、である。だが、このイデオロギー上の態度は、「本質的に副産物であるような状態」としてしか達成されない。イデオロギー的主体、すなわち「森で迷った旅人たち」は、「その方向を彼らに選ばせたものが最初はたんなる偶然にすぎなかったかもしれない」という事実を、自分たち自身にたいして隠さなければならない。自分たちの決断にはじゅうぶん根拠がある、それは自分たちを目標へと導いてくれる、と信じ込まなければならないのだ。真の目標はイデオロギー的態度そのものの一貫性である。
・イデオロギーは何物にも奉仕しない=享楽の定義
第2部 他者の欠如
3.汝何を欲するか
同一性
記述論VS反記述論
2つの神話
固定指示子と対象a
・「それ(it)」は「真の物」であり、掴みどころのないXであり、欲望の対象-原因。
イデオロギー的歪像
・固定指示子=シニフィエなきシニフィアン
・イデオロギー的構築物の分析において決定的な一歩は、その構築物をひとつに結びつけて支えている要素(「神」「国」「党」「階級」「共産主義」「自由」「アメリカ」「正義」「平和」…)の眩いばかりの輝きに惑わされることなく、その背後に、この自己言及的でトートロジカルで遂行的な機能を探りあてることである。
・たとえば「ユダヤ人」とは、究極的には、「ユダヤ人」というシニフィアンの烙印を押される者のこと
・要するに、純粋な差異が〈同一性〉として捉えられる、つまり関係的・差異的相互作用から逃れ、その均質性を保証するものとして捉えられるのである。われわれはこの「パースペクティヴの誤り」をイデオロギー的歪像と呼ぶことができよう。
・ホルバイン「大使たち」
・イデオロギー的な意味の真ん中で、無-意味の亀裂がぽっかり口を開けている。
同一化(欲望のグラフの下部)
意味の遡及性
「逆行の効果」
イメージとまなざし
i(a)からI(A)
・ラカンによれば、名は理想自我、すなわち想像的同一化の点をあらわすが、姓は父親に由来し、父-の-名として象徴的同一化の点、すなわちわれわれが自分自身を観察し判定する(裁く)際に依拠する審級をあらわす。
同一化を超えて(欲望のグラフの上部)
「汝何を欲するか」
・あなたは私に何かを要求している。だが、あなたが真に欲しているのは何か。この要求を通してあなたが狙っているのは何か。この要求と欲望との間の亀裂が、ヒステリー的な主体の位置を決定する。ヒステリー=本当は何を欲しているのか、うまく言葉にできない。
享楽の矛盾した〈他者〉
・享楽とは象徴化されえないもの=他者の欠如
社会的空想を「生き抜く」
4.汝は二度死ぬ
2つの死の間
・死の欲動に対するラカンの3つの段階
・第一期 言葉は死であり、物を殺すこと 現実が象徴化され、象徴のネットワークに囚われるやいなや、物自体はその即時的・物理的現実性においてよりもむしろ言葉、すなわちその概念の中に現前する
・第二期 発話(パロール)→言語(ラング) 死の欲動=象徴的秩序そのもの
・ラカン「精神分析の領域は意味の領域、すなわち意味作用(la signification)の領域である」
・第三期 象徴的秩序は恒常的均衡を必死に求めるが、その中核、つまりいちばん真ん中には、象徴化されえない、つまり象徴的秩序に統合されえない、なにか異物的な外傷の要素がある。それが〈物〉である。
・大文字の〈他者〉、すなわち象徴的秩序のいちばん真ん中に外傷的な出来事がある。
・シニフィアンのネットワークの全面的・徹底的崩壊の可能性=歴史的伝統の全面的「抹消」の可能性
反復としての革命
・ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』チェス人形の比喩
・「誰が歴史を書くか」→象徴的秩序は誰が作るのか?
・われわれは、意味作用の全体を括弧に入れることによって、シニフィアンを隔離する
・革命=挫折した過去を救うこと
「最後の審判の視点」
・悪手か好手かを決めるのは、その後の頑張り次第。その後の努力によって遡及的に決定される。
・ベンヤミン=「進歩」の概念そのものを根本的に問題にした唯一の人物
★ラカン「発展は支配の仮説にすぎない」
・だからベンヤミンにとって、革命は、連続的な歴史的進化の一部であるどころか、「静止」の瞬間である。そのとき連続は壊れ、それまでの歴史の組織構造、すなわち勝者による歴史記述は崩壊し、支配者側の〈テクスト〉の中では中身のない無意味な疵痕でしかなかった失敗した行為・しくじり・挫折した過去の企てのすべてが、革命の成功によって、遡及的に「救済」され、その意味を受け取る。この意味で、革命はまさに創造説的な行為であり、「死の欲動」の根底的侵入である。すなわち、支配者側の〈テクスト〉の抹消であり、無からの新しい〈テクスト〉の創造であり、そのテクストによって、圧殺された過去は「存在しているであろう」ものになるのである。
>>ジジェクの目的は革命<<
〈主人〉から〈指導者〉へ
・たしかに民主主義は、ありとあらゆる種類の大衆操作・腐敗・デマゴギーの蔓延などを生むが、そうした歪みが生まれる可能性を取り除くやいなや、民主主義そのものも無くなってしまう。われわれはそれを不純で、歪んだ、腐敗した形でしか認識することができないという〈ヘーゲル的宇宙〉の典型的な例といえよう。それらの歪みを取り除いて、〈宇宙〉をその純粋無垢な形で捉えようとすると、正反対の結果になってしまう。いわゆる「真の民主主義」とは非民主主義の別名である。
・したがって、現実には「例外」や「歪み」しかないにもかかわらず、「民主主義」という普遍的な概念は「必要不可欠な虚構」であり、象徴的事実であって、それがなければ、効果的な民主主義は、たとえそれがどんな形であろうとも、みずからを再生産することはできない。
・ジェレミー・ベンサム『虚構の理論』
・〈ヘーゲル的宇宙〉は「現実にはどこにも存在しない」ような「虚構」であるにもかかわらず(現実には例外しか存在しないのだ)、「現実」に象徴的一貫性を与える判断記述として、「現実」に包含されているのである。
第3部 主体
5.“現実界”のどの主体か?
〈現実界〉としての拮抗
・象徴的現実がすべて崩壊し、消滅してしまっても、〈現実界〉はその場所に残る=たとえ世界(すべての象徴的現実)が消えようとも正義を行わしめよ。
・だがこれはラカンのいう〈現実界〉の一面にすぎない。これは1950年代に優勢だった一面である。当時は、〈現実界〉(つねにその場所に回帰する盲目的・前〈象徴界〉的な現実)、われわれの現実知覚を構造化している象徴的秩序、そして〈想像界〉があった。
自由の強制された選択
反対物の一致
・〈現実界〉とは、象徴化の企てがことごとく躓く石であり、いかなる可能な世界(象徴的宇宙)においても不変である固い核であるが、挫折し、失敗したものとしてのみ、影の中でのみ存続し、われわれがそのポジティブな性質を捉えようとするやいなや消滅してしまう。
>>現実界 石油のようなもの? 微分化された挫折の堆積<<
・〈現実界〉は象徴的なものによって前提にされると同時に措定されるもの
・〈現実界〉は記録することができない。シニフィアンとは反対に、書くことそのもの
・〈現実界〉は超越的でポジティブな実体ではない。つまりカントの〈物自体〉のような、到達しえない固い核として象徴的秩序の彼岸のどこかに存続しているものではない。それ自体は何物でもなく、たんなる空無にすぎず、象徴的構造の中の空虚であり、それがなんらかの中心的不可能性を刻印しているのだ。
・それはつねにわれわれの手から擦り抜けるある種の限界であり、われわれはつねに早すぎるか、遅すぎるか、そのどちらかだ。
ヘーゲル的小話をもうひとつ
・ルイス・キャロル アスパラガスを好きだった食べなきゃいけない
・欲望はつねに欲望の欲望
・ラクラウ「スターリニズムが言語学的現象であるだけでなく、言語そのものがスターリニズム的現象なのだ」
・フーコーの役割・立場分析 父として 教師として 主体になるとは服従すること
・ヘーゲルの弁証法 アンチテーゼ=ジンテーゼ
「〈現実界〉からの応答」としての主体
★主体とは、大文字の〈他者〉――象徴的秩序――が発した問いに対する、〈現実界〉からの応答である。問いを発しているのは主体ではない。主体は、〈他者〉の問いに答えられないという不可能性の空無である。
・プラトン『饗宴』アルキビアデス アガルマという秘宝=私の中の、具体化も支配もできない本質的対象=〈対象a〉=主体の一番の核心にある〈現実界〉の点=恐ろしい享楽
・要約しよう。主体は、〈他者〉の問いに対する〈現実界〉の(対象の、外傷的核の)応答である。問いそのものは受け手の中に恥と罪の効果を生みだし、主体を分割し、ヒステリー化する。このヒステリー化が主体の構成である。主体の地位そのものがヒステリー的である。主体は、自分の中の対象に対する主体自身の分割・分裂を通じて構成される。この対象――外傷的核――は、われわれがすでに「死の欲動」――外傷的不均衡、根こそぎの次元――と名付けた次元である。人間そのものは「死にとりつかれた自然」であり、死を招く物〉に魅惑されて、レールを踏み外すのである。
・主体は、彼が知っているべきことをすでに知っているかのように扱われる状況へといきなり放り込まれることによって、告発されるのだ。
S(A)、a、Φ
……はずの主体
仮定された知
「誤ることへの恐怖は……誤りそのものである」
・「〈真理〉はフィクションの構造をもっている」
・〈真理〉に対する恐怖
6.「実体としてだけでなく主体としても」
「精神は骨である」
・生殖器と放尿器官が同じ
「富は自己である」
・このようにして「空っぽ」にされた主体は一体どこに、自分と相関する対象を見つけ出すのだろうか。ヘーゲルによれば、それは〈富〉、すなわちへつらいと交換に手に入れた金の中である。
措定的反省・外的反省・決定的反
前提を措定する
・われわれは自分自身がそれに対して形式的に責任があり罪があることに気づかなくてはならない。
・前提そのものを措定する 行為の前の行為
・最も重要なのは、ポジティブで事実的な介入よりも形式的変換の行為のほうが先だということ
・シニフィアン(「海」という文字や、「うみ」という音声)の中にすでに基本的・本質的な象徴的行為がある。
・アウグスティヌスの男根の勃起論
措定を前提とする
・フィヒテとフォイエルバッハ
・狂暴で無意味な現実を引き受けて自分自身の作品として受け入れることを可能にする「空しい身振り」とは、最も初歩的なイデオロギー操作、〈現実界〉の象徴化、そしてそれが意味ある全体性に変形されること、そして大文字の〈他者〉の中に書き込まれること、それ以外の何であろうか。
・この「空しい身振り」が大文字の〈他者〉を措定し、それを存在させる
・この身振りを構成している純粋に形式的な転向とは、前象徴的な〈現実界〉から象徴的現実への、つまりシニフィアンのネットワークの網に囚われた〈現実界〉への転向に他ならない。言い換えると、この「空しい身振り」を通して、主体は大文字の〈他者〉の実存を前提とするのである。
・服従することで主体になる イデオロギーによって主体になる
訳者あとがき
・原書1989年 英語で出版した初めての本
・1991批評空間 単行本2000年
解説 大澤真幸
・カント→ヘーゲル←マルクス
・他者に反復されることによって、初めて思想は完成する。
・キリストは、「神の国」について寓話的にのみ語った。
2022/1/29読了
◆要約:ジジェクによるラカン理論の説明。ヘーゲルの擁護。〈現実界〉と〈象徴界〉(=大文字の〈他者〉)の関係について。イデオロギーとはそもそも何か?主体はイデオロギーに服従する(=「空しい身振り」)によって、主体になる。
◆感想:きつかった。
意味がわからない。自分の教養不足のせいだが、それでも、ジジェクがこの本で何を訴えたいのかがわからない。
ラカン理論のジジェクによる読解ということなのだろうが、それをすることによって、結局なにを目的としたいのかがわからないので非常に読みにくい。
これは言っては悪いが訳者も原文を理解した上で訳しているのか疑問。
なので自分がうっすら仮定しながら読んだのは、ジジェクの目的は真の共産主義革命を起こすこと。
そのためにイデオロギーを解剖し、現在の資本主義イデオロギーからどう脱することができるかを考える本、と仮定してなんとか読んだ。
難しかったが、ラカン理論が少しはわかった。
誤解も多いと思うが、自分で仮定しながら読むしかない。
「大文字の〈他者〉」と呼ばれる〈象徴界〉(=シニフィアンの網)と、〈現実界〉、或いは主体との関係。
イデオロギーなしの状態というのはあり得ない。イデオロギーがないと主体が崩壊する。
必要不可欠な虚構。
ヒステリー者や精神病患者は〈象徴界〉から弾かれて、〈現実界〉に近づいた人。
人間は実はみんな〈現実界〉の原罪(=欠如)を持っていて、実はみんなヒステリー者。
ヘーゲルがわからないので、本の半分がわからなかった。
つまり、アンチテーゼがすでにジンテーゼということ?完璧な論理などあり得ないということ。不安定な状態が正しいということ。
「王様は裸だ」と見抜き、「空しい身振り」をやめることが、イデオロギーを崩す端緒になる。
精神科医にとって治療とはなにか。
しかし本当に意味がわからなかった。これは検証にたえる「理論」と呼べるのか?立証できる理論なのか?
アラン・ソーカルが怒るのもよくわかる。