マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】仲正昌樹『現代思想の名著30』(ちくま新書 2017年)


1 現象学実存主義
フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』―「生活世界」から捉えなおす
ハイデガー存在と時間』―現代思想の金字塔
サルトル存在と無』―「自己意識」めぐる葛藤
メルロ=ポンティ『知覚の現象学』―「身体」と「世界」のつながり
レヴィナス『全体性と無限』―倫理の可能性
 
2 構造主義
レヴィ=ストロース『野生の思考』―文化人類学の留まらない思想
ラカン『エクリ』―フロイト理論の再解釈
⑧バルト『エクリチュールの零度』―言語体と文体の間
アルチュセールマルクスのために』―科学としてのマルクス主義
フーコー『言葉と物』―近代の特異性
 
3 ポスト構造主義
デリダ『グラマトロジーについて』―西欧的思考への批判
ドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス』―エディプスと資本主義
⑬リオタール『ポスト・モダンの条件』―「合意」から「相違・対立」へ
エーコ『開かれた作品』―秩序が一致しない世界で
クリステヴァセメイオチケ』―対話するテクスト
 
4 表象文化面からの資本主義批判
ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』―芸術と生産条件
アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』―啓蒙的理性への批判
ボードリヤール『消費社会の神話と構造』―記号への呪縛
ブルデューディスタンクシオン』―文化を表象する分類闘争
デリダマルクスの亡霊たち』―価値を否定されたものの表れ
 
5 文化的他者論
㉑ファノン『地に呪われたる者』―暴力による脱植民地化
㉒サイードオリエンタリズム』―「東洋」をめぐる根深い問題
スピヴァクサバルタンは語ることができるか』―ポストコロニアル批評の先駆け
㉔バトラー『ジェンダー・トラブル』―アイデンティティ脱構築
ネグリ/ハート『<帝国>』―新しいグローバル資本主義批判
 
6 日本の現代思想
吉本隆明共同幻想論』―脱近代的な人間観
廣松渉『世界の共同主観的存在構造』―本当のマルクス主義哲学
蓮見重彦『表層批評宣言』―文学・批評の制度を解体する
柄谷行人マルクス その可能性の中心』―マルクス記号論的視点
浅田彰『構造と力』―ポストモダンの教養

 
はじめに
「大学などのアカデミックな制度の中で、狭義の「哲学」とされてきたものの限界を超えて、他分野の手法も取り入れながら、「自我」や「主体」に囚われない思考様式を獲得しようとしたのが、「ポストモダン思想」である。」
近代哲学の解体を試みる
「生産から消費へと軸を移し、人々の欲望やライフスタイルを多様化させることで成長を図るようになった、現代資本主義」
 
1 現象学実存主義 
フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』―「生活世界」から捉えなおす
科学的世界と生活世界の関係が転倒した
 
ハイデガー存在と時間』―現代思想の金字塔
「だからこそ、「ヒト」は「死」を直視することを避ける。死はいずれ来るがずっと先のことだろうと自分に言い聞かせて、自己の生に対して「責め」を負う「決意」を先送りにし続ける。そうした「ヒト」の閉鎖性を脱して、「終わり」としての「死」を見据えながら、自らの「運命」を選択すべく決意している状態を、「先駆的決意性」と呼ぶ。「先駆的決意性」によって、現存在は、自らにとっての本来的な時間性を生きることができるようになる。」
 
サルトル存在と無』―「自己意識」めぐる葛藤
実存主義 
「タイトルから連想できるように、ハイデガーの『存在と時間』を強く意識した著作であり、「世界内存在」「実存」「不安」といった主要概念を取り入れているが、ハイデガー理論を忠実に継承、もしくは補完しようとしているわけではなく、人間の主体性と自由をより際立たせる方向に議論を発展させていく。」
「即時存在」(鉱物や植物)/「対自存在」(人間)
「人はどうしても変わっていく」→「どうしようもないほど自由」→「実存(自由)は本質に先立つ」 
実存主義=若者が陥りがちな、過剰な自己意識ゆえの葛藤を、政治や文学へと結びつける思想的回路
 
メルロ=ポンティ『知覚の現象学』―「身体」と「世界」のつながり
ゲシュタルト(総体)的に把握する
視覚、聴覚、触覚、運動感覚は別々に働いているのではなく、統合された形で対象を志向する。そうした(非人称的な主体としての)身体と世界との総合的な関わり方が習慣化している
慣習に拘束される 身体(人間サイズ)に拘束される 社会構築主義 身体構築主義
 
レヴィナス『全体性と無限』―倫理の可能性
「他者」「顔」
★「顔」はトレカ重要ワード
他者に対する「応答可能性」=責任(responsabilité)
「他者」の「顔」は、「私」に「責任」を引き受けるよう命じるが、決して「私」を飲み込んで、主客未分化の始原の状態へと”逆戻り”させることはしない。「私」が一人の主体として、周囲から「分離」された状態を維持させる。
距離があるからこそ、主体も、愛も生じる余地がある。
 
2 構造主義
レヴィ=ストロース『野生の思考』―文化人類学の留まらない思想
サルトルとの論争 
「熱い社会」「冷たい社会」
西洋批判 
 
ラカン『エクリ』―フロイト理論の再解釈
エクリ=マニフェスト
象徴界 le symbolique」 父の権威 規範的命令
鏡像段階」=生後6ヶ月から12ヶ月にかけての、自己の身体の統一的イマーゴ(心像)の獲得を試みる段階
子供は、母親や兄弟など、周囲にいる他者たちのリアクションを”鏡”として、自らの身体のイマーゴを徐々に形成するようになる。そのように、知覚とイメージから生じてくる「私」を中心に構成されるのが、「想像界 I'imaginaire」
★「想像界」と「象徴界」に対して、「私」は知覚あるいは言語によってアクセスすることができるが、そのいずれによってもアクセス不可能で、コントロールできない、無意識のままで混沌とした次元、逆説的な意味でカントの「物それ自体」と同じように機能する次元が、「現実界 le Reel」である――私たちが日々経験している「現実」は、想像や象徴を含んでいるので、「現実界」そのものではなく、むしろ私たちが「現実界」に直接接することがないよう、フィルタ―の役割を果たしている。
想像界象徴界現実界」の三区分は、後期フロイトの「自我/超自我エス」にほぼ対応している――「エス Es」は、英語の<it>に相当するドイツ語の代名詞<es>を名詞化した言葉で、無意識の匿名的な次元を指す。
自らの書いたこと(エクリ)に後からどんどん解釈・修正を加えていくので、彼のテクストは複雑で読みにくい。
結局、象徴界(言葉)でしか思考、アウトプットできないジレンマ。
 
⑧バルト『エクリチュールの零度』―言語体と文体の間
古典主義的エクリチュール

1848 二月革命

フローベール モーパッサン写実主義)→社会主義リアリズム

カミュ『異邦人』
 
アルチュセールマルクスのために』―科学としてのマルクス主義
マルクススターリン→(批判から)ヒューマニズムルカーチ アンリ・ルフェーブル
アルチュセールはそれのカウンター
「認識論的切断」
「問題系(問題の立て方)」自体がイデオロギーを帯びる
自らがそれまで属していた「問題系」のイデオロギー姓が見えてくるような、別の「問題系」の平面へと移行しない限り、既存のイデオロギーの場に囚われ続けることになる。
マルクスのテクスト群に構造主義的な分析を適用する
マルクス前期 ヒューマニズム的なイデオロギー → 自己批判 →科学的言語=唯物弁証法によって思考する「問題系」 フォイエルバッハからの影響
一般的性質を素材(マテリアル)とみる
具体的な「実践」がなくても、前者から後者が生じてくるかのような議論をしたのがヘーゲルの誤りであり、”物質(的現実)”が自動的に生成変化して、共産主義社会が実現するかのような語り方をする俗流マルクス主義はその誤りを上書きしていることになる。
 
フーコー『言葉と物』―近代の特異性
西欧人が諸対象を認識する「エピステーメー」の変遷。
今のエピステーメーで過去を見てもわからない
エピステーメーの断層を明らかにしていく作業が「考古学」
ポストモダンは人間の終焉
 
3 ポスト構造主義
デリダ『グラマトロジーについて』―西欧的思考への批判
グラマーの学 エクリチュールの学
パロールエクリチュール
シニフィアンシニフィエ の人ごとの、状況ごとの、微妙な「ズレ」「差異」
ズレ、差異の拡大=「差延
パロール(音声中心主義)の梯子を外す
 
ドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス』―エディプスと資本主義
エディプス・コンプレックス」=自我形成の過程
三角形に収まらなかった 躁鬱、神経症
ドゥルーズ=ガタリは、明確な根拠があるとは言えないエディプス仮説が精神分析医たちに受け入れられているだけでなく、多くの知識人に直接的・間接的に影響を与えている背景として、近代の「家族主義」を指摘する。近代市民社会において各人は、父親と母親と子供から成る核家族での躾を介して社会的規範を身に付けることが期待されている。それは、家族が労働者の再生産の場になっているということでもある。労働者である父が工場で得た収入によって家族が生存し、新たな労働力である子供たちが――一定の規範を身に付けて――育ってくることが、資本主義が存続するための条件である。エンゲルスは、『家族・私有財産・国家の起源』で、原始の乱婚状態から西欧近代の一夫多妻制への発展を、原始共産制社会から資本主義社会への発展と不可分の関係にあるものとして描き出している。
人間の欲望と生産、人格的同一性の形成が、「家族」という狭い空間へと囲い込まれていく
”まともな人間”
「欲望機械」
器官なき身体」欲望の集合が「モル」状になって蠢いている「社会的機械」
「原始大地機械」固有のコード→「専制君主機械」超コード→「文明資本主義機械」
資本主義と家族はセット、対
資本主義機械 次第に自己解体していく 「分裂分析」スキゾアナライズ 加速主義の祖
 
⑬リオタール『ポスト・モダンの条件』―「合意」から「相違・対立」へ
大きな物語」が終わった
大きな物語(主に科学)、平たく言えば嘘にすぎなかった
マンデルブロ フラクタル理論 ルネ・トム カタストロフィ理論
普遍的原理によって根拠付け、絶対的な解答を目指すのではなく、不完全な情報に基づいて、限定的な仕方で自己を正統化する新しいタイプの知の物語=「パラロジー
理性の秩序 「合意」が崩れた
島宇宙化、バトルロワイヤル化
ルーマンハーバーマスのようなグランドセオリーは無理 → 脱正統化 → 新しい言語ゲーム
 
エーコ『開かれた作品』―秩序が一致しない世界で
読者に自由に解釈させる作品 オープンソース
詩 ヴェルレーヌ マラルメ 
小説 ジョイスユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク
詩的言語は、そのコードの規則から見て曖昧なメッセージを作成し、日常言語に対抗する無秩序をもたらすもの
文法を解体し、シニフィエを曖昧にし、既存の秩序に揺さぶりをかける。
 
クリステヴァセメイオチケ』―対話するテクスト
「記号分析」意味産出の仕組み
フィリップ・ソレルス『数』
バフチン ドストエフスキー ポリフォニー(多声)性
自己生成する物語
カーニヴァル ②メニッペア ③ポリフォニー 清涼院流水
  
4 表象文化面からの資本主義批判
ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』―芸術と生産条件
アウラ 呪術の祭具 神的な力
「写真」、そして「映画」へ
>>結局、自分の一番訴えたいことを表現すればいい<<
舞台(演劇)と映画の違い 一回性
ナマの空間 ナマの人間
レニ・リーフェンシュタールナチス 元女優)
 
アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』―啓蒙的理性への批判
ホメロスオデュッセイア
これらの怪異は、母なる自然=混沌の懐を離れ、理性に導かれて自己形成の航海に出た「主体」を、元の状態(主客未分化状態)に引き戻そうとする、自己の内と外の「自然」からの働きかけを象徴している。
理性(ratio)合理化(Rationalität)
この等式を安定させるのが、「等価性」の基準になる「貨幣Geld」である。「貨幣」はいったん導入されると、あらゆる事物を自己に関係付け、世界を等価性の原理で覆い尽くし、普遍的な「妥当性Geltung」を獲得する。美や善を含めてあらゆる事象が、金銭価値で判断されるようになり、主体たちは貨幣によって表示される自らの財産を増やすべく努力するようになる。「貨幣」は「主体」たちをして、自らの内外の「自然」を可能な限り搾取して財に転換するように仕向ける。哲学者や科学者たちは、貨幣の同一化作用に合わせて、世界を抽象化された数として認識しようとしてきた。数的に把握できないものは切り捨てられる。市民社会は、等価交換原理によって支配されている。フッサールメルロ=ポンティ現象学における「間主観性」の問題は、アドルノ=ホルクハイマーにあっては、等価交換原理の浸透という形で、力の問題として捉え返される。」
「ポリュペイモスとオデュッセウスの関係の変化の根底には、自然と渾然一体であったヒトが計算能力=理性を身に付けることによって、神秘的な力を帯びているように見えた自然の呪縛を抜け出して「主体」化し、今度は逆に、自らの名による財産価値を増やすため自然を痛め付けるようになる、という図柄があるように解釈できる。それこそが「脱呪術化」としての啓蒙の本質である。」
「自然の猛威を象徴するポリュペイモスや主客未分化状態に引き戻そうとするキルケーとセイレーンを退け、故郷への航海を続ける交換主体オデュッセウスは、彼の帰還を待ちわびている人たちの視点からは、英雄に見える。しかし、彼によって退治される怪異たちに寄り添った見方をすれば、彼は、自らの母体である自然を騙して痛めつけ、(交換的)正義という新しい法の名の下に自己の行為を事後的に正当化する、暴力の化身かもしれない。」
主体化は、全てを支配しようとする野蛮な欲望と表裏一体の関係にある。
3章 サドの『ジュリエット』=負のカント
4章 広告
5章 反ユダヤ主義 一体性への憧れ ミメーシス願望 
啓蒙に内在する暴力性
 
ボードリヤール『消費社会の神話と構造』―記号への呪縛
生産 → しかし20世紀の後半、西欧先進諸国が、重工業中心の成長から、文化、情報、サービス等、第三次産業中心の成長へとはっきりシフトしていく中で、人々の「消費」をいかに刺激するかに資本主義の存続がかかっていることが改めて認識されることになった。
「モノ」を徹底して「記号」として見る 「記号」である「モノ」を消費している
ガルブレイス『ゆたかな社会』→ジョンソン「グレート・ソサエティ
「モノ=記号」の「システム(コード)」によって、人間の行動も既に規定されている。
物神 物質崇拝
欲望を生みだす、欠乏を生み出すためにために、常に差異が作られる → 平等にはならない。
「人々を「モノ=記号」の「消費者」にする、広告を中心とするマスメディアは、アメリカの歴史化ブーアスティンが『幻影の時代』で述べているように、疑似イベント(出来事)、疑似歴史、疑似文化など、「ネオ・リアリティ」の世界を作り出す。「ネオ・リアリティ」は、生々しい現実の経験に根ざしているわけではなく、もっぱらコードの諸要素とメディアの操作によって構成される。例えば、テレビのワイドショーやネット上のニュースサイトで「○○という新商品で△△することが□□な人たちの間で流行っており、彼らは◇◇な生き方を満喫している」といった調子で定型化された情報が流布し、それを模倣する人たちが出てくると、それはメディアの世界では”現実”になる。参加している各人にとって、自分が「◇◇な生き方を満喫した」ことが”現実”になる。」
「直接商取引と関係している情報だけでなく、芸能人のゴシップや政治家のスキャンダル、凶悪犯罪等に関する情報も一体となって、「ネオ・リアリティ」の世界を形成し、私たちを仮想の世界に登場する「モノ=記号」に呪縛し続ける。」
「幻想の時代に生きる私たちは、自分たちの生の基盤を「リアリティ」から「ネオ・リアリティ」へと全般的にシフトさせつつあり、その結果、”(理想の)日常生活”のシミュレーション・モデルに従って、日常生活それ自体が営まれるようになる。」
「この転倒の中で、私たちの「肉体」までも記号化され、消費の対象になる。メディアは、自分の「肉体」をよく眺め、ウェイト・トレーニングやダイエット、エステ・サロン等によって一番美しい形へと鍛え上げるよう、私たちを誘導する。どのように恋愛体験を、どのように性的快楽を経験すべきかまでメディアによって規定されつつある。言ってみれば、各種の肉体的欲求の”主体”である私たちのの存在様式自体が、「ネオ・リアリティ」に置き換えられつつある。たとえ「疎外」による”自己”喪失を感じたとしても、取り戻すべき”真にリアルな自己”を見出すことはできない。知識人が消費社会ににおけるモラルの低下をいくら激しく糾弾しても、「ネオ・リアリティ」を解体することはできない。むしろ、知識人たちによる糾弾は、消費社会に刺激を与え、再活性化する疑似イベントになっている観さえある。」
「ネオ・リアリティ」の複合体から抜け出し、ナマの身体性を回復することはできるのか?
 
ブルデューディスタンクシオン』―文化を表象する分類闘争
ディスタンクシオン=「区別」「卓越性」「名誉」「勲章」「気品」
階級ごとの慣習行動、身体化された振る舞い 「ハビトゥス
①「経済資本」
②「文化資本」(学歴資本+相続文化資本
③「社会関係資本」(家族、友人、上司、同僚、同窓生、知人など)
この合計が「資本の総量」
実業家、大商人層 ①と学歴 重視
教授、知識人層 ② 重視
医師、弁護士、デザイナー ③ 重視
支配階級が大衆に対して「自らを卓越化する」やり方
①食費②身体や住居の手入れ③教養娯楽費
ほっそりとした体 服、外見の手入れ
スポーツ 見るだけ ゴルフ、テニス、ヨット サイクリング、サーフィンなど(カリフォルニア型)
演劇や音楽なども同じ
ブルデューはこうした対立を、被支配階級を巻き込んだ「象徴闘争」として捉える。
政治、新聞、思想の右左も(実業家、商人は右、知識人は左)
マルクス主義 → 経済資本にだけ焦点を当てる(文化は上部構造)
ブルデュー → 文化資本社会関係資本も「資本」。それによって階級が再生産される。
「自らをより「卓越」したものとして他の階級に対して「表象」しようとする「分類闘争」が「階級」の構成に寄与している。「階級闘争」は、「分類闘争」としての側面も持っている。」
 
デリダマルクスの亡霊たち』―価値を否定されたものの表れ
90年代 ポストモダン左旋回 後期デリダ
1989 ベルリンの壁崩壊 フランシス・フクヤマ「歴史のおわり」
終わったか?→否 グローバル化により、かえって資本主義が内在していた矛盾が明らかに
デリダは、規制緩和の帰結としての失業、大量の無国籍者の存在、兵器産業の肥大化、共同体に対するアルカイックな幻想の復活、マフィアや麻薬カルテルなどの幽霊国家の増殖、国際法を無視する超大国ヘゲモニーなど、「新世界秩序」の十災禍――旧約聖書の『出エジプト記』における十災禍のもじり――を挙げている。
第一インターナショナル」が結成されたときの時代状況に似ている。
シェイクスピア 近代資本主義が誕生しつつある時代の英国
革命 revolution=回転
「亡霊・幽霊」=現に妥当している「法」を超えた「正義」の可能性
 
5 文化的他者論
㉑ファノン『地に呪われたる者』―暴力による脱植民地化
カリブ海マルティニーク出身 アルジェリア民族解放戦線
「脱植民地化」は必然的に「暴力」によって達成されるという露骨な言明
「どうして、対話ではなく、「暴力」が不可欠なのかというと、植民地世界は、白人=抑圧者の町と、原住民=被抑圧者の町にはっきりと二分割され、両者の階層関係が警察や軍隊の暴力によって維持されているからである。原住民のそれまでの経済や文化的慣習は徹底的に破壊され、彼らは倫理や価値を欠いた存在だと宣告される。それだけでなく、白人たちは暴力で威嚇しながら、原住民に「白い価値」を受け入れさせる。」
ルンペン・プロレタリアートが最も活発な担い手になる。
このようにファノンは単に物理的な暴力を賞賛しているのではなく、「暴力」には、抑圧されていた人々を実践の中で統合し、集団的なアイデンティティを作り出す作用があることを示唆する。
左派 ジョルジュ・ソレル『暴力論』(ゼネスト労働組合)=神話的想像力と暴力の繋がり
ファシスト」という批判がある
ヨーロッパ的な「精神」によって押し付けられたのとは異なる「人間性=人類」を創出しようとしたファノンの議論は、第三世界の脱西欧化をめぐる今日的な問題の多くを先取りしている。
 
㉒サイードオリエンタリズム』―「東洋」をめぐる根深い問題
「東洋」 理性によって進歩しすぎた西欧が、自らの失われた良き部分を残している「他者=東洋」に憧れる。
「西洋」は理性的なものとしての自己を表象するために、対立項としての「イスラム」≒「東洋」を必要としていた。
ナポレオン エジプト遠征 ロゼッタ・ストーン
潜在的オリエンタリズム」→ゴビノー『人種不平等論』などの亜流ダーウィニズム
逆転して、西洋とはなにかを告発する書
 
スピヴァクサバルタンは語ることができるか』―ポストコロニアル批評の先駆け
グラムシ「従属的諸階級 classi subalterne」
マイノリティーに寄り添う、知識人の欺瞞を批判
マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』→ナポレオンが弱者(ルンペン・プロレタリアート)を代表した欺瞞を告発
>>ファノンやサイードスピヴァクが取り上げられるのも、西洋的地盤の上。フェミニズムも。<<
「他者」に対する認識の暴力。
植民地の住民を代表する形で、宗主国による統治に関与するエリート。
寡婦が亡夫の火災に飛び込む サティー
白人ー救ってあげた 土着主義者ー実際に死を望んでいた
サバルタン的な抵抗
 
㉔バトラー『ジェンダー・トラブル』―アイデンティティ脱構築
リベラル・フェミニズム/ラディカル・フェミニズム
ジェンダーアイデンティティ脱構築を試みる→クイア研究
ジェンダーだけでなく、セックス(sex)すら実は曖昧
染色体、DNA、ホルモン、両性具有
「女」を「男」に近づけるのでいいのか?
「男」「女」の徹底的な「系譜学」(フーコー)的批判が必要
唯物論フェミニズム モニック・ウィティッグ(フランス) 生殖器によらない快楽の機構 「ポスト性器的な政治」
ベルギー リュス・イリガライ 
「父の名」の下での禁止という契機を重視
母性という符牒を付与される
自らに対抗するフェミニズム/ポストフェミニズム的言説さえも利用しながら、執拗に自己再生産し続ける(ように見える)男根ロゴス中心主義の”根深さ”
バトラーはラカンのテクストを丹念に読み解きながら、象徴的秩序の起点になる「ファルス」がそれ自体としては、あくまで記号であって、解剖学的な「ペニス」と一致しているものではないこと、従って、生物学的な男であっても自らが、意味と力の源泉である「ファルス」を持っている自律的主体であるかのように「仮装」する必要があることに注意を向ける。「主体」は、実は「父のファルス」を模倣することで、自らの「欠如」を覆い隠し、”主体”を演じているだけである。だとすると、その「仮装」の仕方を撹乱できるかもしれない。
クリステヴァ 「象徴界」へと構造化される”以前”の意味生成の場「原記号界」
象徴界」=「父の名(父の否)」
「原記号界」=「詩的言語」=「母の身体」
クリステヴァ=母性主義
バトラーの戦略 男と女の二項対立を避ける 両者の境界線自体を撹乱する
 
ネグリ/ハート『<帝国>』―新しいグローバル資本主義批判
ネグリ 権威主義的な体質が強いイタリア共産党と一線を画す → オペライズモ(労働者主義)へ
外側からの権力 国連(国際法)を中心とした秩序、「正義」
内側からの権力 フーコー「生権力」 社会の「規範 norme」に従う、正常な「主体 sujet」になることが、その権力への「従属 subjectivation」を意味する。
フーコー「規律社会」 → ドゥルーズ「管理社会」 情報ネットワークと人間工学的な技術(アーキテクチャ) 
メディアや宗教団体、人道的NGOも<帝国>の一部
>>「マルチチュード」は今振り返れば楽観的<<
アッシジの聖フランチェスコ、生の軽やかさ
 
6 日本の現代思想
吉本隆明共同幻想論』―脱近代的な人間観
自己幻想/対幻想/共同幻想
下部構造(経済)を変えたからといって、上部構造が変わらない部分もある
柳田国男遠野物語拾遺』
狐が化けて出る→共同幻想の象徴
家族と村落 部分最適全体最適の問題
古事記伊邪那岐伊邪那美 「国産み」
対幻想の共同幻想への同致
漁労、狩猟→原始父系社会
農耕→母性
素戔嗚→天照
日本の神→農耕
大和朝廷共同幻想
 
廣松渉『世界の共同主観的存在構造』―本当のマルクス主義哲学
対象を〇〇(ex. 芸術作品)として認識する
主体(私)の側も〇〇(ex. 日本人、父)として認識する
「主観」も「客観」も純粋ではない
「意味」はマルクス主義唯物論では退けられる存在 → でもそれは違う
「世界」の記号的な存在構造が私たちの認識を可能にする条件になっている
「記号」や「意味」が実在的なものとして持続的に存在し、私たちの認識、延いては「世界」の在り方を規定しているのは、それらが歴史的に形成された習慣や制度によって支えられ、文化的価値を付与されているからである。私たちは日常生活において自らの個々の行為を自分の意思(だけ)で決めているつもりになっているが、各主体の行為の型はその文化圏・人間関係の特性と、その中での各人のライフスタイルによって予め規定されている部分が――本人が普段思っている以上に――大きい。 社会構築主義エスノメソドロジー
制度としての「役柄ー演技」 <role-taking>(演劇用語)
★「キャラ」の問題
「俳優的な自己」とは異なる「本来的な自己」を見出すことはできない。
こうした人々の「役柄ー演技」の総体が構造的に分節化されたものが、「制度」である。「制度」はそれ自体としてみれば理念的な存在だが、生身の個人によってその都度演じられる限りにおいて、実在するものとして再生産される。安定的な分節構造を備えた「制度」が生身の諸個人の意図から相対的に自立し、逆に、諸主体のアイデンティティや振る舞いを規制する「意味」の源泉になっているのである。人間によって作り出されたはずの「制度」が、あたかもそれ自体の意志や運動法則を持った「物」であるかのように見える、マルクスが「物象化 Versachlichung」と呼んだ現象は、このように説明できる。
「歴史」を動かす”大きな主体”あるいは、普遍的法則――ヘーゲルマルクス
しかし廣松に言わせれば、それは共同主観性に基づく人々の協働を「物象化」したものにすぎない。「歴史」は一つの実体ではなく、共同主観的な拘束力によって保持される社会的活動の総体の連続的な再生産である。
マルクス物象化論を「制度」に適用
 
蓮見重彦『表層批評宣言』―文学・批評の制度を解体する
「文学」や「批評」も「制度」
いわゆる”社会問題”がそうであるように、「Xが問題だ」「Xの解答が見えてこない」といった言説が流布すると、人々の認識においてXという”問題”が実在していることになる――このようにして社会的現実が構築されるという見方を、社会学用語で「構築主義」と言う。
批評も同じ。
誰にとって切実なのか、答えの出しようがあるのか、そもそも答えを出すことに意味があるのかわからない。
「現実」の捉え方が狭い、「貧しい現実」「貧しい言葉」
フーコー『言語表現の秩序』私たちの社会を支えている事物の秩序全体、欲望、真理、権力が、「言説」によって制御されていることを即物的に記述している。「言説」によってセックスや政治に関するタブーが設定され、「理性/狂気」及び「真実/虚偽」の境界線が引かれることで、制度の網目が作られ、私たちが社会の中で”自由”に行動できる範囲が決まる。
あらゆる言語が、言説を通しての支配や異常なものの排除という差別の構造のうえに成り立っている。
「深層」ではなくあえて「表層」をしっかり見る
蓮實の「表層」論は、文学や批評の「制度」を内から解体する、脱構築の戦略だと言える。
 
柄谷行人マルクス その可能性の中心』―マルクス記号論的視点
「労働」ではなく「商品」
「使用価値」でも「交換価値」でもない、ジラール「欲望の三角形」的な価値
言語=「差異づけの体系」 商品も同じ
貨幣=言語における「文字」
余剰価値は搾取からではなく、共同体ごとの価値のズレから
その媒介が可能な、商人資本、グローバル資本
マルクス、大陸哲学を非中心化 → 価値の記号的性格を暴露
マルクスの「階級闘争」とは、単にブルジョワジーの権力を実力奪取するための闘いではなく、「哲学」、「貨幣」、「法」などが作り出す、”普遍性”――市民的な「自由」や「平等」もそこに含まれる――の仮象を解体し、「差異付けの体系」を再流動化するための闘いである。
ナポレオン三世の大衆動員のための表象=代表の戦略を論じた『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』では、農民やルンペン・プロレタリアートなど、ブルジョワジーとは利害を異にすると思われる人たちが、ナポレオン三世を支持した原因として、彼ら自身の利害を代表してくれる(ように見える)階級的表象や言語が欠如していたことが指摘されている。そのため、彼らはナポレオン一世とフランス革命の栄光を表象的に身にまとったルイ・ボナパルトを、自分たちの欲望の『シニフィアン(意味するもの)』=代表と思い込み、彼の下に結集した。王としての彼は、貨幣や文字のような役割を果たしたわけである。そのねじれを解消するには、無意識のレベルに押し込められ、固有のシニフィアンを持たなかった彼らの欲望を、階級的党派性という形で言語化し、ブルジョア的な表象が普遍性を帯びているかのように見える状況を流動化する必要がある。」
結局は記号論
 
浅田彰『構造と力』―ポストモダンの教養
「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」
アイロニカル 脱中心化し続ける
知のリゾーム、あるいは、ジャングルの中をスマートに移動する子供であることこそ、ポストモダンの「教養」だ。
『構造と力』は、「脱コード化」をキーワードとして、様々な知の領域の間を軽やかに移動し、芸術、サブカルチャー、ジャーナリズムとも積極的にコラボする、「ニュー・アカデミズム」と呼ばれるトレンドのマニフェスト的なテクストになった。
 
あとがき
いまは圧倒的に「分析哲学」、「プラグマティズム」の方が人気 資本主義と相性がいいから
しかし、哲学を知らないで、行動経済学的なエッセンスだけ学べばいいと思っても無理
 
11/13読了