- はじめに
- Chapter1 資本主義リアリズムと失われた未来
- Chapter2 アシッド・コミュニズム――再魔術化と反脱魔術化
- Chapter3 変性する世界
- Chapter4 共同体と陶酔――反脱魔術化の身体に星が降るとき
- わが複数の人生 ――あとがきに代えて
- ◆要約:◆感想:
はじめに
・「資本主義の<外部>を想像することができない」という閉塞感。
・<外部>へと通じる出口の不在。「別の世界が可能である」という信念の失効は、資本主義が要請する酷薄な現実へのニヒリスティックな適応以外何ももたらさない。
・マーク・フィッシャー 資本主義リアリズム=「資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を
・もはや真に新しいものは到来しえないという諦念。
・「左翼のメランコリー」 過去の亡霊に取り憑かれ続けること
★「私たちが何を失ったのか思い出せない」。何かを失ったという喪失感はたしかに存在するのだけれど、何が失われてしまったのかは記憶のどこを探しても見つからない。喪失したという記憶の喪失、という二重の記憶喪失。
・過去の記憶、あるいは存在しない記憶の亡霊たち
・堆積した歴史と記憶と夢の残骸、その中から断片を慎重に拾い上げ、それらを再配置する。星座(Constellation)。願わくば、そこに失われた<未来>の痕跡が見出されんことを。
・2019-2021年にかけて大和書房のwebサイトで連載。第4章は書き下ろし。
Chapter1 資本主義リアリズムと失われた未来
1 未来の誕生と喪失
♣ カール・マルクスと胎動する〈革命〉
・1853年 ロンドン ソーホー 3人の子供が落命する マルクスは毎日のように大英博物館図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強していた。
・「弁証法的唯物論」
・ヴィルヘルム・ヴォルフ
・1867年『資本論』第一巻出版
・1862年 アメリカ南北戦争 リンカーン奴隷解放宣言
・イギリス 労働組合運動→チャーチスト運動(人民憲章=People's Charter)
・1863年 ポーランド 1月蜂起 分離主義運動
・フランスではプルードン主義者やブランキ主義者たちが路上に溢れた失業者を組織しながら暗躍
・ドイツ フェルディナント・ラッサール 全ドイツ労働者同盟結成
・ロシア 皇帝アレクサンドル2世 改革が反動的に
・その結果、新たな革命運動が胎動していた。今や国際的な労働運動のネットワークが形成されつつあった。そして1864年9月28日、最初の「インターナショナル(国際労働者協会)」がロンドンの聖マーティン・ホールで成立した。
・1871年のパリ・コミューンで一つのクライマックスに達するヨーロッパの革命運動 路上にバリケード
♣ 虚構としての未来
・1627年 フランシス・ベーコン『ニュー・アトランティス』
・「ユートピア」=ラテン語で「どこにもない場所」
・大航海時代の精神 フロンティアの開拓と富の収奪
・1770年 ルイ=セバスチャン・メルシエ『西暦2440年』
・空想社会主義者 サン=シモン
・ロバート・オウエン「ニュー・ハーモニー協同体」協同組合の原型
・シャルル・フーリエ「情念」
・マルクスの『資本論』はさながらミームのように世界中に伝染していき<未来>を改変していく。虚構としての<未来>。自己成就的予言としての<未来>。
♣ 〈未来=子ども〉の光と闇
・フィリップ・アリエス『<子供>の誕生』 子供の時期を社会に管理される
・「危険人物」というカテゴリー 小児性愛者 児童ポルノ
・フーコー「一方の側には危険に晒された人々がおり、他方の側には危険をもたらす人々がいるような、危険社会なるものが生まれつつある」
・当時のロンドン 子どもの乞食 少女買春
♣ エーデルマンと致死的な〈未来〉
・リー・エーデルマン『ノー・フューチャー』(2004年) クイア理論(変な=元々同性愛者に対する侮蔑語)
・「今と同じ未来を、ここで止める」
2 資本主義リアリズムの起源
♣ チリ・クーデターが崩壊させたもの
・1973年9月11日 チリ・クーデター 新自由主義のはじまり
・アジェンデ→ピノチェト
・Ops room ギー・ボンシーペ(Gui Bonsiepe)デザイン 六角形の部屋
・宇宙船のコックピットを思わせる異様な部屋は、チリのテクノクラートによる重大な経済政策決定を行うために作られた、いわば国家の経済政策における中枢司令部であった。
・ノーバート・ウィーナー『サイバネティックス―動物と機械における制御と通信』「サイバネティクスは機械と有機体の統合」
・自動化、制御の核となるのがフィードバック
・「負のフィードバック」=安定と均衡 エントロピーに逆らうプロセス=恒常性(ホメオスタシス)のプロセス
・「正のフィードバック」=どんどん加速していく。 例:地球温暖化、資本蓄積
♣ サイバネティクスと恒常性
・フェルナンド・フローレス→スタッフォード・ビーア 経営サイバネティクス理論
・アジェンデ政権、世界で初めて選挙によって成立した社会主義政権という実験
・国家の、経済の、ホメオスタシス
・支配を通じた制御ではなく、ホメオスタシスを通じた制御
♣ サイバーシン計画――テクノロジーによる社会民主主義
・最初の1年 主要な鉱山会社と68の重要な製造工場を国有化。全てCORFO(生産開発機構)の傘下。
・サイバーシン計画の土台=国内のコンピュータ・ネットワーク
・サン=シモンの思想=社会組織は巨大な生命的ネットワーク
・上からの一方的なコントロールではなく、何よりも相互間のバランス
♣ 新自由主義の実験場
・CIAによる、反アジェンデ勢力の援助
・シカゴ・ボーイズ、そして新自由主義者
・ミルトン・フリードマン 新自由主義の実験場
・インフレを抑えるため 徹底した民営化、規制緩和、財政支出の削減の3本柱 17万7000人の失業者
・ピノチェト 反対派の弾圧、処刑 8万人が拘束 20万人が国外に逃れる
・サンティアゴ大学からシカゴ大学へ多くの留学生 フォード財団の助成金 フリードマンの歩兵として、ラテンアメリカ全域へ
・福祉制度は解体され、年金制度や健康保険は民間企業に委託された。のちにレーガン政権とサッチャー政権に受け継がれることになる、福祉に対するパージと市場原理主義は、ここチリで始まった。
・「サッチャーはのちに「この道しかない(There is no alternative)」と言った。だが覚えておこう、資本主義リアリズムは、ナオミ・クラインが「ショック・ドクトリン」と呼ぶ、軍事クーデターによって引き起こされた一時的な混沌とショック、その麻痺的な空白状態のもとで半ば暴力的にもたらされた、という事実を。未来に対する「オルタナティヴ」を求めた実験は、テクノロジーによる社会民主主義の夢は、暴力によって、砲弾と爆撃によって奪われたのだ、という事実を。」
・→新自由主義は、少しも自然法則のようなものを含んでいない、どこまでも人為的なイデオロギー的仮構物であり、加えてその始まりには、「暴力」が隠されている。
3 未来を幻視する――失われた連帯のために
♣ 持たざる者たちの連帯と叛乱?
・「アーサーは、どす黒いミソジニーを抱え込んだインセル(involuntary celibate=不本意な禁欲主義者、非自発的独身者)、終末が訪れることを期待し、レディオへッドを聴きながら日々深夜徘徊を行う孤独なドゥーマー(Doomer)、「生誕の厄災」の苦しみを少しでも和らげるため、デヴィッド・ベネターの書物やトマス・リゴッティの『The Conspiracy against the Human Race』を聖書のように敬虔な態度で読む反出生主義者、その他さまざまなレ ッドピルやらブラックピルを求める持たざる若者たちからの眼差しを一心に集める。彼は持たざる者たちにとっての偶像と化す。」
・1981年のゴッサムシティ(≒ニューヨーク)レーガン時代
♣ ポピュリズムは「解放」か「抑圧」か
・右派ポピュリズム:フランスの国民戦線(FN)、オーストリアの自由党、反EUを掲げるイギリス独立党(UKIP)、ベルギーの反イスラム系ポピュリズム政党VB(フラームス・ ブロック/フラームス・ベラング)、アメリカのドナルド・トランプ
・左派ポピュリズム:ギリシャのシリザ、スペインのポデモス、イギリスのコービン労働党(現在は辞任)、イタリアの五つ星運動、アメリカのサンダース、日本のれいわ新選組
・左派ポピュリズムの代表的論客の一人、シャンタル・ムフ ラディカル・デモクラシー ポピュリズムと民主主義の統合、止揚
・グローバル化、新自由主義を受け入れる既存の中道左派に対する苛立ち
★ムフの主張:新自由主義に代わるヘゲモニー編成を選択するために、「合意」(コンセンサス)ではなく「抗争」(コンクリフト)と「敵対性」(アンタゴニズム)の次元に焦点を当てた「闘技民主主義」を目指さなければならない。
・「敵」を措定することで、その対立物としての「人民」が同一化の形式=行為体として遡行的に生成される。両者の関係は相互依存的であり、どちらが欠けてもポピュリズムは成り立たない。
♣ 人びとを繫ぐ共同体を求めて
・フィッシャー2013「ヴァンパイア城からの脱出」 ヴァンパイア城=リベラル左派によるアイデンティティ政治の牙城であるツイッター
・「牧師的欲望」
・ニューレフトのブルジョワ化
・アイデンティティ・リベラリズムの代案 マーク・リラ→共和主義的なシティズンシップ フィッシャー→マルクス主義的な階級の論理
・遺作『アシッド・コミュニズム』ニューレフトとオールドレフトの弁証法的止揚
・フィッシャーが模索した共同体 生産と慈愛と歓びのための集団的能力を志向する新しいコミュニズム=アシッド・コミュニズム
>>いい会社では、会社の中でコミュニズムが実現されている<<
♣ タランティーノと失われた未来――ヒッピーの死、テト攻勢、シャロン・テート
・『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)シャロン・テート事件
・チャールズ・マンソン LSDと洗脳術 カルト教団「ヘルタースケルター」(混乱している)
・デスヴァレー 地下世界への「ウサギ穴」
・1967 ヒッピー・ムーブメントの頂点 ヘイト・アシュベリー 麻薬ディーラーの相次ぐ死 10月6日「ヒッピーの葬式」
・1968 ベトナム戦争 テト攻勢 各地、各大学で反戦運動
・我々は間違っていたのか?とするならどこで間違えたのか?この(シャロン・テート)事件を境にして(1969.8.8)何かが決定的に失われてしまったという感覚を多くの人が抱いた
・そのうちの1人がクエンティン・タランティーノ この映画を通して「失われた未来」を指し示そうとした
4 カウンターカルチャーの亡霊――祓われた六〇年代
・多田智満子「薔薇宇宙」
宇宙は一瞬のできごとだ
すべての夢がそうであるように
神の夢も短い
この一瞬には無限が薔薇の蜜のように潜む
復元された日常のなかでも
あらゆる断片は繧繝彩色がほどこされてある
夢はいくたびもの破裂に耐える
私の骨は薔薇で飾られるだろう
>>国府達矢『ロックブッダ』<<
♣ 濁りきったサイケデリア
・2019トマーシュ・ポパクル『Acid Rain』
・テーマはカウンターカルチャーという亡霊、「失われた未来」 否定的、懐疑的に描く
・「Acid」(アシッド)=LSD
・ローランドTB-303 アシッド・ハウス インドール環(複素環式芳香族化合物)
・野外レイヴのシークエンス LSD特有の「曲がる」感覚
・本作を通底するカウンターカルチャーに対する「批判」或いは、「醒めた距離感」
・サイケデリクスにおける視覚変容→彩度の上昇→目を閉じた際に現れる極彩色の眼閃=瞼の裏側に現れる虹色に輝く無限のフラクタル模様
・多田智満子「薔薇宇宙の発生」
・『Acid Rain』バッドトリップを思わせる「濁ったサイケデリック」
♣ 憑在論的メランコリー
・「ベリアル(Burial)」ダブステップ
・集団的な恍惚
・デリダ「憑在論」=実際には起こっていない出来事、実現するのに失敗し、亡霊的なままに留まっている未来によって取り憑かれているという、その潜在的なものの働き
。資本主義リアリズムに対する順応が機能不全に陥っている証
♣ 保守化したカウンターカルチャーの担い手たち
・Baby boomers (1940-1960)→Generation X (1960-1980)→ミレニアル世代(1980-2000生まれ)→ジェネレーションZ(2000以降生まれ) スノーフレーク世代(雪の結晶のように脆い)
・2019年11月 ニュージーランド議会 緑の党25歳クロエ・スウォーブリック議員「オーケー・ブーマー」
・グレタ・トゥンベリ現象との共振
・カウンターカルチャー世代の80年代以降の保守化
♣ 反体制と消費資本主義――ジョセフ・ヒース
・『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』(2001)
・カウンターカルチャーとフランクフルト学派の「批判理論」との親近性
・啓蒙的「理性」の到達点としてのファシズムとアウシュビッツ
♣ ユートピアの再構築――ヘルベルト・マルクーゼ
・マルクーゼ『エロス的文明』(1955)『一次元的人間』(1964)ニューレフトのオリジネーター的立ち位置
・マルクーゼの理論:一切の快楽原則を排斥し抑圧しようとする現行資本主義体制に対する「否定」の力こそが自由、すなわち快楽原則の解放に繋がるだろう
・エンゲルス「ユートピアから科学へ」→マルクーゼ「科学からユートピアへ」
♣ 意識変革に対するシニシズム
★「ジョセフ・ヒースらは、マルクーゼはフロイトの「抑圧」概念の階級分析への導入を通して、「抑圧の政治」というコンセプトを生み出した、と整理する。「抑圧の政治」はそれまでのオールドレフトにおける「搾取の政治」と異なり、不正の源を社会的/制度的ではなく心理的なものに求める。したがって、まず必要なのは、具体的な制度の変革ではなく、意識の変革であり、それに伴う文化の変革である。」
★「ここから、リチャード・ローティなどが批判対象とする「文化左翼」というカテゴリーが生まれてくる。チャールズ・ライクは、カウンターカルチャーを讃えた『緑色革命』の中で「革命というものは文化的でなければならない」と書いた。今や文化と心理学が下部構造を決定づけると考えられる。逆ではない。すなわち、経済を変えたければ、文化を変える必要がある。そして、文化を変えたければ、人々の意識を変えなければならない。かくして、人間本性の変容可能性=意識変革こそが、焦眉の問題として前景化してくる、というわけである。」
・ここにこそドラッグがカウンターカルチャーに要請された契機を求めることができる
・ヒースの主張:こうしたカウンターカルチャーによる文化革命/意識革命の運動は、なんら社会制度の具体的な変革には結びつかず、むしろ後続の大量消費文明を用意する元凶にまでなった。
・「差異」を求める心理は「主流」に対する反抗として現れる。カウンターカルチャーの反逆――「主流」社会の規範の拒絶――は大きな差異の源泉となり、競争的消費の主要な原動力となった。
>>ヒース→冷笑系リアリストの親玉<<
♣ 資本主義リアリズムに罹患した世界
・「左翼のメランコリー」=例.「第3の道」 既に諦めている
・「憑在論的メランコリー」=諦められない
・資本主義リアリズムは、過去40年にわたって、この「自由を求める亡霊」を祓おうと努めてきた。そして、それは概ね成功を収めた。慈愛と喜びを生産する集団的能力、これこそが60年代以降のカウンターカルチャーが育もうとし、同時に世界から祓われた当のものである。
Chapter2 アシッド・コミュニズム――再魔術化と反脱魔術化
1 マーク・フィッシャーと再魔術化する世界
♣ アシッド・コミュニズムとは何か
★「マーク・フィッシャーは絶筆となった『アシッド・コミュニズム』の序文の中で、アシッド・コミュニズムとは、とある亡霊に与えられた名前であると述べている。その亡霊とは、70年代以降の新自由主義のヘゲモニーと資本主義リアリズムによって祓われた亡霊、すなわち60年代カウンターカルチャーの核心であった「自由」を求める亡霊である。」
・「同様にフィッシャーは、アシッド・コミュニズムのコンセプトとは挑発であり約束であり、また同時にジョークのようなもの、しかしひとつの切実な意志を伴ったジョークであると告げる。アシッド・コミュニズムが追求するひとつの意志、それは、ある時期では必然と思われたが、今となっては不可能であるかのような意志、すなわち、階級意識の一点への集中、社会主義者フェミニスト間における意識の上昇、サイケデリック・コンシャスネス、新たな社会運動とコミュニストのプロジェクトの融合、日常生活の空前の美学化 (aestheticisation)、そういった事柄への意志である。」
★「フィッシャーにとってネオリベラリズムとはまず何よりも、このアシッド・コミュニズムという名の「亡霊」を祓うためのプロジェクトに他ならなかった。ネオリベラリズムが標的とした真の敵、それはソビエトブロックでも、みずからの矛盾の重みによって自壊していったニューディール政策でも社会民主主義でもなかった。ネオリベラリズムのプロジェクト、それは60年代後半と70年代前半に華開いた民主社会主義とリバタリアンコミュニズムにおける数々の実りある実験を完膚なきまでに破壊することに主眼があった、という。」
・「これらの可能性の根絶による最終的な帰結こそが資本主義リアリズム、すなわち私たちが現在そのもとで生きている世界である。そうフィッシャーは述べる。資本主義の他にはどのようなオルタナティヴも存在しないという宿命論的な見方を受け入れること、資本主義リアリズムはそのように私たちに要請してくる。」
・フィッシャー 資本主義リアリズムの端緒となった決定的な出来事は、アメリカに支援されたピノチェト将軍のクーデターによるアジェンデ政権の暴力的破壊であろうと、『アシッド・コミュニズム』序文の中で遂に明言。
・マルクーゼ アート=「大いなる拒絶」 無意味な労働に支配された世界に対する脅威としての60年代カウンターカルチャー
・マルクーゼ 資本主義文化はビートニクやギャングスターといった「異なる生の方法の諸イメージ」を、「一定のタイプの生を送る変人」へと転化させた
・かくして、社会に対する「拒絶=否定性」を担っていた反逆は、マルクーゼの言う「一次元的な社会」へと統合=回収されていく。
・60年代は諸々の「偶像」と「クラシック」な音楽、そしてノスタルジッ クな懐古談に切り詰められ、カウンターカルチャーに本来宿っていた可能性はどこまでも中和化されてしまっている。
・「だが、それでも(もしくはそれゆえに)60年代の亡霊は止むことなく回帰してくる。資本主義のもとでの抑圧的な生が続く限り、「苦役から解放された生への期待」というカウンターカルチャーに内在していた潜性力は私たちに繰り返し取り憑いて離れることをしない。その意味で「過去」は未だに始まっていない。亡霊は過去を伴いながら回帰し、現在に到来する。そう、それは逆説的にも「未来」に属しているのだ。」
・60年代のカウンターカルチャーと70年代以降の消費文化との間に連続性を認めるか否か ヒース→連続性を認める フィッシャー→断絶性を見出す
★フィッシャーからすれば、ヒースらのような見立て自体が、カウンターカルチャーを祓おうとする試みのひとつに他ならない。
・70年代以降の消費文化に取り込まれたカウンターカルチャーと区別される、60年代のカウンターカルチャーに本来的に備わっていた、と同時に未だに汲み尽くされず、現動化されていない純粋な可能性=潜在性とは具体的にはどのようなものなのだろうか。そして、その亡霊性をいかにして現代の後期資本主義社会に取り憑かせ、未来に向けて解き放つことが可能なのだろうか。これが、次に立てられるべき問いとなる。
・渡邊拓哉による論文「再魔術化の文化研究:20世紀後半期における自己変容の技術と欲望」キーワード「反脱魔術化」
♣ 脱魔術化――世界からの疎外、生の意味の喪失
・「脱魔術化」(Entzauberung/disenchantment) マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905)
・「脱魔術化」=徹底的な合理化 ≠世俗化
・この「脱魔術化」のプロセスは、必ずしも近代に特有の現象ではなく、紀元前の古代ユダヤ教にまで遡ることができる、西洋世界に連綿と流れる精神史上のプロセスであった。たとえば、ユダヤ思想の律法の伝統は、アニミズムや呪術的信仰の根絶をその基盤としていた。
・この古代ユダヤに端を発する信仰の呪術からの解放のプロセスは、16世紀以降のピューリタニズム(とりわけカルヴァン派)によって頂点に達した。
・ウェーバー カルヴァン派→あらゆる感覚的文化への原理的な嫌悪 内面的孤立化→ピュウリタニズムの歴史をもつ諸国民の「国民性」と制度の中に生きているあの現実的で悲観的な色彩をおびた個人主義→資本主義の精神の宗教的諸基盤を形成
・このことは、ミルチャ・エリアーデなどの言う「聖なるもの」の消滅のプロセス、つまり宇宙的なリズムや世界から立ち現れる根源的な力からの完全なる疎外のプロセスとも無関係ではない。こうした、世界をそれ自体としては無意味な物体の集合であるとする見方、 同時に人間をそこから疎外された観察者とする見方を醸成するプロセスは、近代テクノロジーの発展と結びつきながら、自然を絶え間なく挑発し、そこからエネルギーを収奪せんとする態度、ハイデガーのいうところの「ゲシュテル」 (Gestell) の態度とも結託していく
★「 『デカルトからベイトソンヘ世界の再魔術化』のモリス・バーマンは、以上に示したような事態を一言で「参加しない意識」と要約してみせている。バーマンは、科学革命前夜までの西洋世界を「魔法にかかった世界」(enchanted world) と呼ぶ。そこでは、(近代以降の)醒めた意識が見据えるのとは異質の、不思議な生命力をたたえた世界への畏怖と共感があった。人間は疎外された観察者ではなく、宇宙の一部として直接参加する存在だった。個人=ミクロコスモスと宇宙=マクロコスモスとが互いに照応し合い、この結びつきが生に豊かな「意味」を与えた。バーマンは、このような意識のあり方を「参加する意識」と呼んでいる。」
★「バーマンに従えば、近代化とは、この生にとって根源的な役割を果たしていた「意味」の喪失のプロセスに他ならない。それは言い換えれば、世界から「魔法」が解けていくということを意味する。たとえば、デカルトに端を発する機械論的哲学は、精神と物体を明確に分断する思考法を推し進めた。主体と客体を常に対立させる二元論的思考は、自然への参入ではなく、自然との分離に向かう意識、すなわち「参加しない意識」を生み出した。無意味な世界のなかで、内面的に孤立化した諸個人が暮らしているのが私たちが生きる近代社会のあり方なのだ。」
・我々が魔法から醒めてしまったこと 憂鬱症が標準的な精神状態である時代
・フィッシャー 憂鬱症とメンタルヘルスの問題 「資本主義リアリズムは、資本主義が本質的に機能不全であるという事実を、不断に個人の自己責任の問題にすり替えることで、資本主義に代わるオルタナティヴは存在しえないというイデオロギーを堅牢に保つことに成功する」
・資本主義リアリズムは「認識」の問題であるとも言える。つまり、「このリアリティが唯一のリアリティではないというリアリティ」の獲得こそが資本主義リアリズムの打破への鍵となる。いかにして、もうひとつの別な現実へ、オルタナティヴ・リアリティへとアクセスすることができるのか。バーマンの文脈で言えば、それは「参加する意識」をいかにして取り戻すか、という問いと関わってくる
・「参加への道は、過去の暗闇のなかに失われた進化のパターンを呼び戻し、それを逆向きに生き直すことによってしか取り戻すことができない。「どちらの認識論が上か?」という問い自体が意味をなさなくなるところへ我々自身を送り届けること。それは、不思議の国のアリスのように、ウサギの穴に落ちることだ。鉛が黄金に変成しもする、我々の遠いふるさとへ。いまの我々のままでは、そんな世界を知ることはできない。 中世が本当にそんな世界だったかどうかも知ることができないのだ。」
・Jefferson Airplane「White Rabbit」
♣ 再魔術化――ニューエイジ運動、あるいは世界変革という名の自己変容
・70年代以降 消費の再魔術化/宗教の再魔術化
・ニューエイジ運動 スピリチュアリティ文化 自己変容による世界変革 スピリチュアリティ、霊的なものへの関心 東洋や異教的なものへの関心
・プロテスタンティズム的な宗教への反発 「参加する意識」を排除しない宗教の復興
・宗教の商業化 宗教組織の企業化 代替医療や健康食品 霊感商法 占いアプリ
・個人化した宗教 宗教の私事化 後期資本主義の個人主義的な消費文化にたやすく適応しうる 自己変容文化・自己啓発と近しい
♣ 反脱魔術化――カウンターカルチャーと消費文化の断絶
・再魔術化とわざわざ区別した反脱魔術化 60年代と70年代の断絶、不連続性を強調する
2 近代からの逃走――スイスに胚胎したカウンター思想の源流
♣ マックス・ウェーバーの死
・ウェーバー1917年の講演『職業としての学問』 第一次大戦末期に猖獗を極めた反脱魔術化運動への対決
・=ワンダーフォーゲル運動を母胎としながら台頭した青年運動、秘境的な(ステファン・)ゲオルゲ・クライス(サークル)、カーニヴァル(謝肉祭)に陶酔する前衛的な若者たち、ネオ・ロマン主義にかぶれた知識人たち
・ウェーバー「ただ自分の仕事(ザッへ)に仕えよ」と若者を叱咤 1920年死去
♣ 脱魔術化への疑義
・1920、ゲオルゲ派のカーラーによるウェーバー批判の書『学問の職分』 ウェーバーの専門人に対して「全体的人間」の復興をぶち上げる
・人間中心主義の新しい学問の陣営 生物学のユクスキュル、ヤーコプ・ブルクハルト、ディルタイ、カッシーラー、シュペングラー
・シュペングラー『西洋の没落』第一次世界大戦が終結した1918年に刊行 死者総計2000万人 「文明ヨーロッパの自殺」
・フランクフルト学派『啓蒙の弁証法』と同じ図式が第一次大戦後にもあった。脱魔術化された合理化のプロセスや進歩、理性への根本的な疑義。
・学問以外の領域でも、ドイツ表現主義運動、ダダイズム、シュールレアリズム、神智学など。
・チューリッヒ・ダダの創設者フーゴ・バル 第一次大戦軍隊を除隊 1915年スイスに脱出し16年「キャバレー・ヴォルテール」を開く。
・バルの日記『時代からの逃走』アナーキズムへの傾倒 国家批判、戦争批判、ブルジョワ的合理主義、その元凶としてのカント批判。
・「レゾーン(理性)を一切打破し、カント主義を廃絶した最初の哲学者」としてニーチェを評価。
♣ 異端者たちの狂騒――キャバレー・ヴォルテール
・スイス 亡命者や革命家らの聖地
・キャバレー・ヴォルテール 異質なものたちの、芸術の出会いの場 レーニン夫妻
♣ 「真理の山」と「魔の山」――カウンター思想の結節点
・アスコーナ 菜食主義者コロニー「モンテ・ヴェリタ」
・文学者、菜食主義者、裸体主義者、神智学者、母権制支持者、アナーキスト、舞踏家、等々ありとあらゆる種類の流れ者
・ヘルマン・ヘッセ、D・H・ロレンス、ジェイムス・ジョイス、カール・グスタフ・ユング、ルドルフ・シュタイナー、イサドラ・ダンカン、ウラジミール・レーニン
・マーティン・グリーン『真理の山―アスコーナ対抗文化年代記』
・都市生活に象徴される近代文明からの逃走 ルソー的な「自然人」への回帰
・結果、アスコーナは同時代における様々なカウンター的かつアウトサイダーな思想、言い換えれば反脱魔術化の思想が流れ込む結節点となる。後年のカウンターカルチャーの源流はこの地ですでに胚胎していた
・菜食主義 食餌療法 自然療法 西洋を支配する科学および合理的思考に対する全般的な闘い
・トーマス・マン『魔の山』サナトリウム 結核 ダボス
・アレクサンダー・シュペングラー『ダヴォス、土地と風土』
・ユング アスコーナ郊外の高台にある邸宅「カーサ・ガブリエッラ」家主オルガ・フレーベ=カプテイン女子「エラノス会議」1933年第1回
・カール・ケレーニイ、ジョーゼフ・キャンベル、ミルチャ・エリアーデ、ゲルショム・ショーレム、エーリッヒ・ノイマン、カール・レーヴィット、井筒俊彦、鈴木大拙、等々
・パトロンはボーリンゲン財団(メロン財閥)
3 LSDと知覚の扉―― 帰郷、あるいは自己変容による革命
♣ LSDの誕生
・スイス サンド社製薬研究所 1938年 アルバート・ホフマン
・LSD リゼルグ酸ジエチルアミド 麦角菌の派生物25番目
・ホフマン『LSD――幻想世界への旅』 中立かつ正確なオーバードーズの臨床記録
♣ ホフマンとユンガーのトリップ・セッション
・エルンスト・ユンガー 第一次大戦後 保守革命派 特異な「総動員」の思想 塹壕の彼方に屈強なユートピア 反動としての政治的ロマン主義
・他方で幻視文学の書き手 幻想的未来都市文学『ヘリオ―ポリス』
♣ 現実の複数性と超越的現実
・ホフマン 幼少の頃バーデンの森での神秘体験
・ホフマンの思想「現実は複数存在する」
★ホフマンによれば、現実というものは、それを体験している主体、すなわち自我を抜きにして考えることはできない。現実、それは「送り手」である外界と、「受け手」である自我の相互関係において成り立っている。ホフマンはこうした外界と自我の関係性をラジオの受信機に喩えている。すなわち、現実とは自我の内奥にある感覚器官のアンテナを用いて受信された外界の写しであって、送り手と受け手のどちらかが欠けても現実は成立しないのである。そして、LSDはわれわれの脳、つまり受け手の中枢にあるアンテナに強く働きかけ、生化学的な変化をそこに生じさせ、それによって受け手は通常の現実とは異なった波長を受け取ることが可能となる。LSDはそれまでの、さながら自然律であるが如く強固で不動であるかのように思われた「現実」とは本質的に異なるまったく異質な「現実」を構成するのである。 外界の波長が無限に多様であるとすれば、LSDがその都度もたらす様々なアンテナの変化によって構成される現実も権利上は無限に存在するだろう。「その現実は、否、もっと正確に言えば現実のこの様々な層は、互いに排他的な関係にあるのではなく、むしろそれらは相補的であり、それが一緒になってすべてを包括した悠久の超越的な現実を構成しているのである。」
★もう一つ、ホフマンは日常の現実と、LSDによって引き起こされるもうひとつの現実との間の本質的な相違はどこにあるのか、という問いを提起している。彼はそれに対して、日常においては、我々の自我と外界との間には本源的な分離が横たわっているのだが(外界は我々にとって客体として立ち現れる)、LSDの酩酊状態においては、外界とそれを体験している自我との境界が、その酩酊の深さに比例して取り払われることになるのではないか、と述べている。
つまり受け手と送り手との間に区別がなくなり、両者の間の行き来が生ずる。自我の一部が外界へ、事物へと転移される。それによって、外界は生き生きとし始め、より深い意味を持つようになる。それはわれわれに至福感を感じさせることもあれば、逆に恐怖を抱かせるような悪霊的なものを感じさせることもある。至福感を伴う場合には、新しい自我は外界の事物そのものと結びつき、また他の人びととも精神的に一体化するように感じられる。この体験は、自我と宇宙に存在する一切のものとが一体であるという感情の昂まりとなる。
自我はその輪郭を曖昧にしていき、外界へと溶け出していく。ホフマンにとって、LSDがもたらすのは「没我」の経験であり、その意味でそれは多かれ少なかれ「自分自身からの離脱」(フーコー)を本質的な契機として含み込む。他方で、とりわけ強烈な酩酊状態にあって到来する、陶酔を伴う「宇宙との一体化=合一」の経験は、さながら中世ドイツのマイスター・エックハルトや、あるいは16世紀ドイツのヤーコプ・ベーメといった神秘思想家の宗教的ヴィジョンを思わせる。
♣ MKウルトラ計画
・CIA 中東や第三世界を舞台とした秘密工作 1953イラン 1954グアテマラ
・ドラッグによるマインドコントロール実験計画「MKウルトラ」
・ダレスと彼が擁する化学者シドニー・ゴットリープ博士はLSDを民間人に無断で投与し、トリップの経過を観察した。彼らの見立てによれば、「一時的な精神障害的混乱」を引き起こすとされるLSDを多量に投与された被験者の脳は一時的な白紙状態(タブラ・ラサ)に置かれる(この過程は「パターン解除」と名付けられた)。この間に徹底した条件付け(コンディショニング)を行うことで(この過程は「サイキック・ドライヴィング」と名付けられた)、洗脳または逆洗脳が可能になるのではないか、というわけだ。有り体に言えば、ソ連のスパイをトリップさせて、その間にたくみに誘導することで祖国への忠誠心を合衆国への忠誠心に切り替えさせることができるのではないか、とCIAの科学者たちは考えた。
・このドラッグを用いた「ショック・ドクトリン」(!)は、しかし70年代になるとまったく異なった形で、すなわちチリにおける軍事クーデター(パターン解除)とその後の新自由主義化(サイキック・ドライヴィング)という形で回帰することになる。
・その頃になるとアメリカ国内に大量に流出していたLSDは、必然的に反体制側の手にも行き渡っていた。かくしてケン・キージーやティモシー・リアリーをはじめとした導師(グル)たちの伝道によって、LSDは「精神をエンパワーメント」するためのツールとして60年代以降のカウンターカルチャーの原動力となっていく。もっとも、それ以前にもカナダのウエイバン病院でLSDとメスカリンを研究していた精神科医ハンフリー・オズモンドなどは、1952年の時点でメスカリンによって引き起こされる意識変容と統合失調症(精神分裂病)に見られる症状との類似性を指摘しており、1953年には、そのオズモンド立ち会いのもと、『すばらしい新世界』の著者オルダス・ハクスリーみずからメスカリンを服用、そのレポートを翌年『知覚の扉』にまとめている。以来、Psychedelics (サイケデリクス)という呼び名とともに、幻覚剤はその他の麻薬類と区別され肯定的な響きを伴うようになっていった。こうした土台の下に、ケン・キージーらに象徴されるフラワーチルドレンのLSD受容がカウンターカルチャーの到来とともに急速に進んでいくのである。
♣ 再プログラミングとしてのLSD
・ティモシー・リアリー 囚人更生プログラム サイケデリクスによって人間の人格を新たに「再プログラミング」する
・リアリー「エクスタシーの政治学」→「私たちには戦争、階級闘争、民族間の緊張、経済的搾取、宗教紛争、無知、偏見はすべて偏狭な社会的条件づけに原因があると思えた。政治問題は心理的な問題の表面化で、その本質は神経、ホルモン、化学的な問題なのだ。人々を脳の共感回路にプラグインさせることができれば、望ましい社会変革が起こるのだ。」
・リアリーにとっては、社会変革も革命も少し規模の大きい集団的な刷り込みと条件付けの問題にすぎない。その意味では、リアリーの採る戦略はどこまでも個人の脳の可塑性に基づいた唯物論的かつプラグマティックなものであり、同時にすべての問題を個々人の意識や心理の問題に還元してしまうという意味で還元主義的でもある。自分が変われば、世界も変わる。=CIAの「ショック・ドクトリン」と同じ。
・バロウズは、サイケデリクスは大衆を解放するより、むしろ彼らを「コントロール」するのに利用されるのではないかと警戒していた。
4 霊的資本主義――スピリチュアル、自己啓発、スマートドラッグ
♣ 世界に纏わせたフィルターを払う
・1953年ハクスリー『知覚の扉』 メスカリン=ペヨーテと呼ばれるメキシコ原産のサボテンから抽出される幻覚剤
・ウィリアム・ブレイクの詩「知覚の扉澄みたれば、人の眼に ものみなすべて永遠の実相を顕さん」
★ハクスリーはこの興味深い認識論的事態を、哲学者C・D・ブロードによるアンリ・ベルクソンについての議論を参照しながら説明しようと試みる。それによれば、私たちの脳は減量バルブのような機能を生来的に持っている。その機能のおかげで、外界から入ってくる膨大な量の情報に押しつぶされずに生きることができる。減量バルブは、無意識下で情報の選別を行っているのだ。私たちは減量バルブを通して、生きるのに有用であると脳が判断した、わずかな量の意識内容をもとに、それに形を与え表現するための言語という表象体系とそれに内在する哲学を練り上げてきた。≒象徴界と現実界、ラベリング理論、エスノメソドロジー
・つまりハクスリーはこう言わんとしている。私たちが普段見ているこの現実とおぼしきものは、実はいささかも現実ではない。私たちが見ている世界は、脳内の減量バルブによって、あらかじめ調整され、再構成されたものでしかない。この世界は仮象である。
・だが、なんらかの要因によってこの減量バルブが機能しなくなったらどうなるか(ハクスリーはサイケデリクスこそがその要因であると考えた)。あるいは減量バルブを迂回するバイパスのようなものがあれば。そのとき、世界はありのままの姿を現前させるだろう。これこそが本来的な「現実」に他ならない。つまり、ハクスリーはここで「幻覚」と「現実」の既成的関係を転倒させている。普段私たちが見ている世界は幻のようなもので、幻覚剤によってこそ〈リアル〉に到達することができる、とする逆説。
・ヒッピーが反転した姿がオルタナ右翼
♣ エサレン研究所とアブラハム・マズロー
・70年代 カウンターカルチャーの退潮(変質)
・カリフォルニア ビッグ・サー エサレン研究所 ヒューマン・ポテンシャル運動 精神探究の中心地
・エンカウンターグループ、瞑想、ヨガ、数々のワークショップ
・ウォルター・トルーエット・アンダーソン『エスリンとアメリカの覚醒――人間の可能性への挑戦』エサレンの公式の哲学「進化の大きな飛躍」
・エサレンの精神的支柱 心理学者のアブラハム・マズロー 『完全なる人間』心理学における「第三の勢力」 健康な人間、優秀な人間の研究
・マズローは自身の理論を練り上げるにあたって、ゲシュタルト心理学者クルト・ゴールドシュタインの自己実現の理論から決定的な影響を受けている。ゴールドシュタインによれば、すべての人間の行動を取り仕切る決定的要因とは〈自己実現〉と呼ぶべきものであり、これは「潜在的に本人がなりうる可能性をもつものへとなろうとする」人間の企てだと定義できるという。この自己実現の概念はマズローによって「欲求のヒエラルキー」理論に取り入れられ、ピラミッドの頂点の位階に据えられた。
・自己啓発やマネジメントの起源
・ダグラス・マグレガー『企業の人間的側面』XY理論(企業統制→自己実現への欲求) マズローはそのさらに先をいくZ理論「人間は自分が思っている以上にもっと凄い能力者である」
♣ サイケデリクスからニューエイジへ
・LSDを用いたワークショップ ドラッグ乱用規制修正条項 1965年製造販売は軽犯罪 1968年所持も軽犯罪、販売は重罪
・幻覚剤研究復活キャンペーン
・サイケデリクス→エンセオジェン(内なる神聖なるものを呼び起こす)
・かくして、サイケデリクスは現実を転倒させる革命のための武器から、崇高な〈至高体験〉を味わい人生のネクストステージへの階段を昇るための霊的な護符へと変質していった。このサイケデリクスの変質の過程は、アメリカにおけるカウンターカルチャーからニューエイジ運動への移行の過程とほぼ同期している。
♣ ハイパフォーマンスのためのスマートドラッグ
・ビジネスマンやプログラマーによるマイクロドージング。LSDの完全な骨抜き。渡邉拓哉「HPMのスピリチュアル化とビジネス化」。
・「反脱魔術化」→「再魔術化」
・エサレンでセミナーやワークショップを行った人物、東洋宗教学者アラン・ワッツ、心理学者アブラハム・マズロー、パラサイコロジストJ・B・ライン、人類学者グレゴリー・ベイトソン、精神分析家ヴィルヘルム・ライヒ、建築家で発明家バックミンスター・フラー、神学者パウル・ティリッヒ(エラノス会議でも講演)、神話学者ジョーゼフ・キャンベル→ジョージ・ルーカスに影響
Chapter3 変性する世界
1 反知性主義の起源を求めて――大覚醒、食物中毒、集団幻想
♣ 知の奪還――大衆に開かれたLSD
・アレン・ギンズバーグ、ティモシー・リアリーの「平等主義」「大衆主義」
♣ 信仰復興運動と反知性主義
・16世紀の宗教改革に端を発するルター主義の要諦=万人司祭主義=聖職者の特権を否定し信仰の内面化を主張する宗教的個人主義
・カルヴァンはルター主義をさらにラディカルに推し進めた。カルヴァン派の教義の中心にある二重予定説(神はあらかじめ救う人間を決めており、人間の側はその決定を変えることも、窺い知ることもできない)は、現世における苦行や善行の蓄積の内に救済される運命の確実性を読み取るため、不断の自己抑制と合理的な自己吟味/自己審査を個人に課した。かくして世俗世界と修道院における信仰の世界とを画然と分かつカトリック的な二元論は、カルヴァン派における「世界の修道院化」によって一元化された。世俗内禁欲とは、世界の脱聖化ではなく、逆に神の遍在化をこそ意味していた。
・ピューリタン=イングランド国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタント(カルヴァン派)の大きなグループ。その一部(分離派)、1620年迫害から逃れてアメリカへ メイフラワー号ピルグリム(渡り者)・ファーザーズ
・アメリカの精神は、近代初期のプロテスタンティズムを鋳型として形成された。思想は第一義的に実用的であるべきだという感覚、教義学説の蔑視や思想を研くことの蔑視、情緒に訴える力のある――あるいは世論操作にたけた――人間を思想家より上位に置く見方。これらはすべて20世紀に始まったことではなく、アメリカ・プロテスタンティズムの遺産であった。
・上層階級→高度に発達した礼拝形式に関心 下層階級→情緒に訴える教派、黙示録的、千年王国的な傾向を持つ「熱狂主義」と批判的に呼ばれる教派に惹き寄せられる
・たとえばペンシルベニアに植民したクエーカーは、聖職者や儀式は一切みとめず、信仰者個々人の神との霊的交わりを重視した。集会において霊感に満ちた者が震え立つさまから「クエーカー(震える者)」と呼ばれるに至ったこのピューリタン諸派は、外的な制度的権威を一切排除し、各人の魂を照らす 「内なる光」(inner light)を重んじた。
・18世紀半ば信仰復興運動「大覚醒」
・ジョージ・ホイットフィールドなど、彼ら復興運動の説教者たちは高度に知的な教説や聴衆の理性に働きかける説教を斥けた。代わりに、あらかじめ準備した説教ではなく、アドリブで聴衆と直接対話するという(フリー)スタイルを採った。 罪の意識、救済への渇望、神の愛と慈悲への希望、等々を直接的に論じ、感情のほとばしりや発作、悲鳴や呻き、地にひれ伏す動作など、その説教のスタイルは聴衆の情動に直に働きかけることを意図したものだった。彼らは教会制度の枠内で働く牧師を罪深い存在だと言い放ち、救済に必要なのは学問ではなく精神だと説いた。彼らはまさしくアメリカにおける反知性主義のパイオニアなのである。
♣ ピューリタニズムと民主主義を結ぶもの
・政治哲学者A・D・リンゼイ『民主主義の本質』 反知性主義と民主主義はどちらもピューリタニズムを共通の根として持っている。民主主義≒反知性主義。ポピュリズムは宿命。
♣ 一八世紀の「大覚醒」、六〇年代の「トリップフェスティバル」
・ホフスタッター『アメリカの反知性主義』 最後にビート族に言及
・歴史学者メアリー・キルバーン・マトシアン『食物中毒と集団幻想』 「大覚醒」の根底に麦角中毒の存在があったという仮説
・麦角中毒症の代表的な症状としては、「痙攣」や「ひきつけ」を引き起こす神経的機能不全筋失調症――が挙げられる。また、いくつかの麦角アルカロイドは、脳内のドーパミンのはたらきに干渉し、混乱妄想・幻覚をもたらす。こうした麦角中毒による症状は、ヨーロッパ中世では「聖アントニウスの火」とも呼ばれ恐れられてきた。
・1741年ニューイングランド 1692年セイラム魔女裁判 1800年ケンタッキー州フロンティア 集団的な(バッド)トリップ
2 蜂起を生きる――カント、フーコー、フィッシャー
♣ 世界という不条理の〈外部〉
・資本主義リアリズムとは集団的に夢見られたバッドトリップである。それはひとつのイデオロギーであり夢に過ぎないが、夢であることが忘却された夢である。それどころか、それは強固で避けがたい一貫性のある現実として振る舞い、私たちをそこに留めおこうと常に監視の目を光らせている。
・『アシッド・コミュニズム』序文 『不思議の国のアリス』1966年BBCドラマ ジョナサン・ミラー監督版
・普通の世界はノンセンスの織物のように見え、理解しがたいほど一貫性がなく、恣意的で権威主義的で、奇妙な儀式、反復、自動症(オートマティズム)によって支配されている。アリスを苦しめ、困惑させる大人たちの陰気で自閉的な試練の中に、私たちはイデオロギーそのものの狂気を見ることができる。
・常識とされてきたものの奇妙さと矛盾を暴露する哄笑
・この世界が一貫性と恒常性を伴った、改変しがたい強固なものではなく、むしろ矛盾だらけで可塑性のある、ある種の「壊れやすさ」を伴った世界であること、この世界が恣意的で偶然的な基盤=イデオロギーに支えられたシステムに過ぎないことを暴露
♣ イグジットとしての「啓蒙」
・哲学=思考による思考自体への批判作業
・カントの<啓蒙>=外的な権威にいっさい依らずに、自分の理性だけを行使して世界に対して判断を下す勇気を持つ意志
♣ 批判――境界の恣意性を示す
・批判=限界(境界)の分析
・積極的な問いへと反転させられた「批判」は、限界を縁取る線――超えることを諦めるべき限界の画定作業にもはや従事しない。むしろ、そのような線がいつ、誰によって、どのように引かれ、そしていかなる諸要素によって構成されているのかを精査するのがここでの実践的「批判」の作業となるだろう。限界の線、それは所与ではない。普遍的でも、超歴史的でもない。それはあるとき、ある目的をもって引かれた、人為的な構築物である。ならば、その線を引き直すことは可能なのではないか。いや、可能でなければならない。そのためにも、私たちは線上に、境界に立つべきなのだ。
・フーコーの実践的批判の試みは、カントによる超越論的な問いを経験的な次元(人間と世界についての知)に差し戻そうとするもの
♣ 不服従と霊性
・1978ソルボンヌ大学フーコー「批判とは何か――批判と啓蒙」 批判=統治されないための技術、いかなる犠牲を払っても、このような方法で統治されないための技術
・フーコーによれば、西欧において、15世紀と16世紀に「いかに統治すべきか」という基本的な問いの一つが提起された。様々な集団、都市、国家をどう統治すればいいのか、自分の家族、自分の身体、精神をどう統治すればいいのか、等々。こうした統治の技術は、系譜学的には中世キリスト教会における司牧者たちの活動を端緒とする。そこでは一連の良心の指導、人間を統治する技法、すなわち「それぞれの個人は、その年齢と地位にかかわらず、その一生をつうじて、みずからの行動の細部にいたるまで、ある他者によって統治されるべきであり、統治されることをうけいれるべきであり、すべての人はこの他者とのあいだで、全体的であると同時に、緻密で詳細な服従の関係を結んで、みずからの救済を目指すべきだという考え」に基づく諸々の統治の技術の育成が見られたのである。さながら牧者が羊の群れを見張るように統治者が人間たちを見張り指導=善導する技術の誕生。
・15世紀頃を境に、世俗化に伴い統治の技術は修道院の外部へと浸透していった。世界の修道院化。教育、政治、経済、そして国家。今やすべてが統治の技術によって貫かれる。
・<批判的な態度>=統治の技術を警戒し、これを拒否し、これを制限し、その適切な大きさを決定し、これを変革し、この統治の技術の適用を免れる方法として生まれた
・いくつかの歴史的な準拠点 ルターの宗教改革=聖書についての教導権をもつ教会の権威に対して、<このような形で統治されないこと>を望むもの 君主が要求する服従に対抗して、普遍的で不滅の「法=権利」を対立させる、自然法を巡る闘争
・フーコー「批判とは、みずからの意志によって不服従を求める技術であり、省察を重ねたあげくに不従順になるための技術。批判は一言で言えば、真理の政治学とでも呼べるゲームにおいて、本質的に主体が服従から離脱する機能をはたす。」
・神秘主義と叛乱の結びつき
・フーコーは、上の講演が行われたのと同じ1978年度のコレージュ・ド・フランス講義『安全・領土・人口』においても、ほとんど同じテーマ系を繰り返し採り上げている。それは「操行上の反乱」「反操行」である。司牧権力の操導に対する抵抗に始まる「反操行」は、たとえば、14世紀オランダに現れた異端 「自由心霊派」、リヨンのヴァルド派、聖杯派やフス派とその分派であるタボル派などの間で現れ、あるいは、修道女神秘主義運動におけるジャンヌ・ダバントンやマルグリット・ポレートなどの女性預言者や、はたまた16世紀スペインにおける十字架のイサベル、フランスのアルメル・ニコラなどの神秘家たちに受け継がれる。他方、18世紀以降では兵役拒否や軍隊からの脱走も「反操行」の一形式とフーコーによってみなされる。
・18世紀以降に出現する秘密結社、とりわけフリーメイスンも「反操行」の一例として挙げている
・フーコー イラン革命について「社会がもちこたえ、生きているのは、つまり諸権力が社会において「絶対的に絶対」ではないのは、あらゆる受諾と強制の背後に、脅迫や暴力や説得の彼方に、生がもはや交換の対象でなくなる瞬間、諸権力がもはや何もできなくなる瞬間、絞首台と機関銃を前にして人々が立ちあがる瞬間の可能性があるからだ。この瞬間がそのように「歴史の外」にあり、かつ歴史の中にあるからこそ、また、そこで各人が生や死を賭けているからこそ、蜂起がその表現と劇作術をあれほど容易に宗教という形式のうちに見いだした理由がわかる。彼方の約束、時間の回帰、救世主ないし最後の日々の帝国の野望、富の分割のない王国、こうしたものは数世紀にわたって、宗教という形式の適している所で、イデオロギー的な服ではなく、蜂起を生きる生き方そのものとなってきた。[中略]私の道徳は「反戦略的」だ。つまり、一個の特異性が蜂起する時にはこれを尊重し、権力が普遍的なものに背くなら強硬な姿勢をとる、ということだ。単純な選択だが、難しい仕事だ。」
・「反操行」=歴史には還元できない、超歴史的(普遍的)な出来事
3 議事堂の中のシャーマン――虚構の時代の陰謀論
♣ 世界のディズニーランド化
・ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』 ディズニーランド=「錯綜したシミュラークルのあらゆる次元を表わす完璧なモデル」
・「ディズニフィケーション」「ディズニーゼーション」アメリカ、さらには世界すべてがディズニーランドと化している
・消費文化やエンターテインメントの流儀がテーマパーク化していくことで、日常は断片的かつ痙攣的なスペクタクルと化す。テーマパークを模した巨大ショッピングモールなど。
♣ 代替現実ゲーム
・ARG(alternate reality game 代替現実ゲーム) altarnate(交叉) 現実と虚構の区別を曖昧にすることで、現実世界それ自体をオープンワールドゲームへと変容させることを目的とする
・日本での第一人者武山政直 ARG=「日常的に接触する各種のメディアを横断して展開するトランスメディアのストーリーテリングであり、同時に謎解きや推理、ミッションといったゲーム的要素を含んだ参加型エンターテインメント(ないしキャンペーン)」
・2004年『Halo 2』のプロモーション「I Love Bees」42エンターテインメントCEOスーザン・ボンズ 元ディズニーのクリエイティブ・ディレクター
・ARG=世界それ自体を体験型アトラクションに変容させる 世界のディズニー化
♣ 大きな物語との一体化
・ジェイン・マクゴニガル『幸せな未来は「ゲーム」が創る』 「人生意味を見出すための最善で唯一の方法は、日々の行動を、何か自分自身よりも大きな存在に結びつけ日々を送ること」『Halo 3』チームプレイで記録達成 壮大(epic)な物語
♣ Qアノンの論理システム
・Qアノンの陰謀論はARGと相即した面を多く持っている。Qアノンらを束ね上げるパペットマスターであるQは2017年10月、匿名掲示板上に「嵐の前の静けさ」(Calm Before the Storm)というタイトルのスレッドを立てたのを契機として、一連の投稿を開始。そのユーザーネームは、国家機密情報にアクセスするために必要とされる、アメリカ合衆国エネルギー省(DOE)のアクセス権限であるQクリアランスに由来しており、つまりQはみずからを最高機密情報にアクセス可能な連邦政府内のインサイダーであることをこの名前によって仄めかしていた。Qの投稿量は膨大であり、2020年2月までの約3年間の間に4953回にものぼる投稿を行っている。
・注目すべきは、投稿の内容よりもその形式である。断片的で暗号化された文章。また、情報を直接伝えるのではなく、「なぜ〜なのか?」といった疑問形を多用した、オーディエンスに問いかけるようなテキストスタイル。こうした、きわめて断片的、かつ暗号的で著しく解像度が低い投稿スタイルを、自身がいみじくも「パンくず」 (crumbs) と表現している。 断片的な「パンくず」の集合は、それを解釈する者たちによって「パン生地」へと生成されていく。Qアノンという陰謀論コミュニティに参加するプレイヤーたちは、Qの暗号的なメッセージ=「パンくず」を共同でひとつひとつリサーチして解き明かしていく。すると、点と点が線で繋がり、その背後にある「大きな物語」、合衆国を脅かす巨大な陰謀が立ち現れてくる。その陰謀とは、ディープ・ステイト、すなわち合衆国政府を陰で操り、ユダヤ系グローバルエリートが支配する新世界秩序(ニュー・ワールド・オーダー)の構築を企む闇の勢力と、それと闘う光の戦士たるドナルド・トランプ、という壮大(epic)な善悪二元論の物語である。
・Qアノン陰謀論は、プレイヤーの能動的な参加と協力によって物語が進行し、またその過程でコミュニティが拡大強化されていくという、QというパペットマスターがプロデュースするARG型の陰謀論とみなすことができる
♣ 瞬間のシナリオを生きるポストモダン
・ウィリアム・ギブスン『パターン・レコグニション(認識)』(2003)ARGを彷彿とさせる作品 「すみずみまで想像された文化的な未来は、べつの時代、”いま”という言葉がもっと長い期間を意味した時代に許されたぜいたくだ。われわれの場合は、いうまでもなく、あらゆるものが急激に、強烈に、かつ深刻に変化する可能性があるため、祖父母の考えていたような未来には、その立脚点を築きあげるだけの”いま”がたりない。われわれに未来がないのは、われわれの現在があまりにも流動的であるからだ」「われわれに残されたものは危機管理だけだ。与えられた瞬間のシナリオを紡ぐこと。 パターン認識。」
♣ 自己啓発としての陰謀論
・Qアノン=反知性主義≒自己啓発(自分の頭で考えなさい)
・主にオルタナ右翼や陰謀論者のコミュニティでは、“TAKE THE REDPILL”(レッドピルを飲め)は彼らにとっての符丁のように機能している。主流メディアと知的エリート層によって捏造された、偽りと仮象の世界から目覚め、この世界の「真実」にアクセスすること。言ってみれば、このレッドピル的な世界認識と、先に述べたARG的な世界認識とが結びついたところにQアノン陰謀論は存立している。
・レッドピル的な世界認識は、この二重化された現実世界/物語世界というヒエラルキー的な階層構造を反転させる。つまり、Qアノンが紡ぎ出す物語世界=陰謀論的世界こそが「真実」を写した世界であり、現実世界と呼ばれているものは実のところ偽の世界に過ぎない、という転倒した世界認識が、レッドピルがもたらす「覚醒」によって獲得されるのである。
・想像(力)と現実とが価値反転するという構造は、しばしばポジティブ・シンキングの領域においても見られる。ポジティブ・シンキングとは、乱暴に一言でまとめれば「強い思考やイマジネーションはものごとの原因となる」という考え方で、たとえば成功哲学で知られるナポレオン・ヒルの著書の邦題『思考は現実化する』は、ポジティブ・シンキングの要諦を簡潔に示したものだ。他にも、1903年に原著が刊行され、現在でも盛んに翻訳されているジェームズ・アレン『「原因」と「結果」の法則』では、私たちが思うことは必ず現実になるし、そのことに例外はひとつもない(ただし努力すれば)、と説かれる。このように、ポジティブ・シンキングにあっては、いわば想像が現実の条件となっている。言い換えれば、未だ現実化していない想像の領域にこそ最大の強調点が置かれるのだ。付言しておけば、ドナルド・トランプは、ポジティブ・シンキングの唱道者として知られる牧師ノーマン・ヴィンセント・ピール(彼は19世紀アメリカの霊性運動ニューソートから霊感を得ていた)に学び、とりわけ著作『積極的考え方の力』を若い頃から熱心に愛読してきたとされる。
・牧野智和『自己啓発の時代』 自己啓発が氾濫する情況=この世界全体を一つの原理のもとに単純化してくれるようなメッセージと、それを断定的に与えてくれる権威へのニーズの、現代におけるかつてない高まり
♣ マルチビジネスを彩るパステルQアノン
・マルチレベル・マーケティング(ネットワークビジネス)ヤング・リビング社 ジョーダン・シュラント
・パステルカラー、ピンクとゴールドの配色、水彩画、手書きフォント、自然風景と豊かなライフスタイル、いかにも幸福そうな笑顔の画像、等々……。パステルQアノンは陰謀論の無害化と衛生化に努める。ヨガのサークル、ウェルネスと健康食コミュニティ、そして育児ブログといった、一見して政治色のないオンライン世界において、柔らかい言葉遣いと美しい画像が添えられた有毒な陰謀論が拡散されている。Qアノン陰謀論は、拡散先のコミュニティに合わせて、さながら変異ウィルスの如く自在に書き換えられていくのである。
♣ 議事堂の中のシャーマン
・コンスピリチュアリティ(Conspirituality)=スピリチュアリティ(Spirituality)と陰謀論(Conspiracy Theory)を足し合わせた造語
・January 6 2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件
・ジェイク・ アンジェリ(Jake Angeli)元海軍→マジックマッシュルームアセンションやペヨーテを嗜み、啓発と次元上昇(アセンション)のための学校――スター・シード・アカデミーの設立者。自己啓発型シャーマン。
・コンスピリチュアリティ=「再魔術化」のある極点
・行き場を失った寄る辺のない「霊性」や「信仰」の回帰=ニューエイジ・カルチャー、新興宗教などの再魔術化現象
4 可塑的な〈世界〉へ――資本主義リアリズムからの解放
♣ 能力主義社会が追いやる人びと
・アン・ケース、アンガス・ディートン『絶望死のアメリカ』中年白人アメリカ人の死亡率急激な上昇 自殺、薬物中毒、アルコール中毒による肝疾患
・オピオイド ケシの実から採取されるアルカロイド 鎮痛剤 モルヒネ、ヘロイン系統
・コデイン アヘン由来のアルカロイド 咳止め薬エスエスブロン錠
・能力主義社会(メリクトクラシー)では、入試試験に合格し、エリートコースに進めなかった者、社会の落伍者と見なされた人々は、グローバル化とオートメーション化に常におびやかされる単純労働作業に従事することを余儀なくされ、そこから抜け出すチャンスは遂に訪れることはない。同時に、グローバル化の進展に伴い労働組合は弱体化し、市場と政治の力は労働から資本へと移行する。企業と雇用者はますます強力になり、他方で政府の認可に守られた一部の製薬会社は、フェンタニルのような中毒性の高いオピオイドや抗不安薬を抑圧された労働者たちに販売し、何十億ドルもの利益を得ている
・能力主義はエリートたちに、自分たちの成功は自身の「実力」によるものである、といった自己正当化のための幻想を与える。だが、『資本主義だけ残った』の著者ブランコ・ミラノヴィッチも指摘するように、実際に起こっていることは不平等の世代間継承でしかない。ミラノヴィッチによれば、今日のリベラル能力資本主義(とりわけアメリカ)のもとでは、同類婚ないし釣り合った結婚、すなわち学歴や所得水準が同じか、よく似た者同士の結婚の割合が高い傾向にあるという。高学歴で高所得の夫婦は、当然我が子にも高い水準の教育を受けさせるだろう。結果としてそこで起こることは、経済資本と文化資本の世代間における移転であり、不平等と階級格差の固定化と再生産である。アメリカンドリームとは、固定化された不平等を覆い隠すためのイデオロギーに過ぎないのかもしれない。
・つまるところ、現在の新自由主義=リベラル能力資本主義を生きる、上位1パーセント以外の人々を支配するのは、マーク・フィッシャーの言うような「再帰的無能感」であろう。みずからが原因ではないのにもかかわらず、「自己責任」の名目のもとにすべての責任が個人に帰属されることによる疲弊と無能力感のフィードバック・ループ。この閉塞感には逃げ場がない。資本主義リアリズムに出口がないのと同じように。
♣ 自己責任のメンタルヘルス――マネジメントとレジリエンス
・「世界の疾病負荷研究(GBD)」の調査 現在、世界の鬱病患者数 約2.6億人
・1980年代末から 新世代抗うつ薬(SSRI) 製薬会社と結びついた世界的なマーケティング 脱スティグマ化 病のカジュアル化
・鬱病が軽症化していく一方で慢性化、常態化
・企業による被雇用者のメンタルヘルスの監視=管理 ストレスチェック制度
・労働者によるメンタルヘルスの自己監視/自己管理も求められる セルフモニタリングと生活習慣の管理、セルフケア、自律訓練法とマインドフルネス、ストレスマネジメント、レジリエンス・トレーニング等々
・企業側には職場環境を変えるインセンティブなど一切ない。企業側にとっての関心事は、被雇用者が「どれだけ(ストレスに)耐えられるか」であって、耐えられないと判断すれば過労死される前に解雇すれば済む話なのだ(そう、代わりはいくらでもいる)。企業にとって、被雇用者のメンタルヘルスの問題あるいはプレゼンティズム/アブセンティズムによる業務生産性の低下は潜在的リスクの問題でしかなく、リスクは適当な(払うに値すると見なされる)コストによってへッジされれば問題でなくなる。 職場におけるメンタルヘルスは労務管理上のリスクマネジメントに還元される。
・その意味で、企業側にとっては労働者のストレスに対する可塑性、あるいは「レジリエンス」(resilience)こそが投資のしがいのある最関心事項だと言える。「レジリエンス」は英語で「回復力」 や「弾性」を意味し、たとえば9・11以降、アメリカ軍は多額の資金をつぎこんで、兵士に対するレジリエンス・トレーニングを行っているという。そこでは、過酷かつストレスフルな状況に耐えうる兵士の開発が目指されており、兵士を一律にレジリエンスな存在にすれば、戦地での精神障害やPTSDの発症を極力抑えることが望める、という算段である。また、医療人類学者のアラン・ヤングの指摘するところによれば、このレジリエンス概念が「正常」 概念を置き換える勢いを持ち始めているという。レジリエンスが人間の「デフォルトのコンディション」であると見なされる社会の到来。レジリエンス、それは個人に課せられる義務であり新たな倫理である。現代の企業は労働者に対して、メンタルヘルスの疾病の予防、あるいはそこからの早急な回復のために、レジリエンスを身につけることを不断に、しかし当人の自由意思という名目のもとに強制している、と言えるのではないだろうか。 強制された自発性。あまねく労働者たちよ、ストレスマネジメントやレジリエンス・トレーニングを日々の習慣とせよ、そしてそれらを「自己の技法」として会得せよ、さもなくば……。
♣ 鬱は資本主義に固有の病である
・現在、鬱病は脳内の神経伝達物質の均衡が崩れることによって発症すると考えられている(モノミアン仮説)。
・フィッシャー「全ての精神障害が神経学的な仕組みによって発生することは論を俟たないが、だからといってこのことはその原因について解明するものではない。例えば、鬱病はセロトニン濃度の低下によって引き起こされるという主張が正しいとすれば、なぜ、特定の個人においてセロトニン濃度が低下するのかが説明されなければならない。そのためには社会的・政治的な説明が求められるのである。」
・なにが原因で神経伝達物質の変化が起こったのか。言い換えれば、鬱病の状況因や誘因こそが問われるべき
・精神病理学社会の加藤敏「職場結合性うつ病」 1869年内科医のベアード、アメリカに特徴的な新種の病態として「神経衰弱」という概念を提唱
・加藤「現代の日本で増加している職場結合性うつ病は、ベアードのいう神経衰弱、またクレペリンのいう作業神経症の病態水準からより深い段階へと進行した病態と位置付けることができ、19世紀に比べ仕事のスピード、仕事量が加速度的に増大した産業・情報社会のありようと大きく関連していることは間違いない。」
・職場結合性うつ病、それは産業革命から連綿と続き、なお深刻化していく資本主義に固有の病である。加藤は別の箇所で、「脳は不断に社会との関係の中で構築され続けている」とも指摘している。そこで重要となるのは、個人の苦悩の背景にある人間と周囲との関わりのあり方、つまりは関係性コンテクスト (relationship context) である。
・新自由主義=リベラル能力資本主義のもとでは、蔓延化/慢性化するメンタルヘルスの疾病あるいは職場結合性うつ病は、社会的/政治的課題として真剣に検討されることはない。そうした問題は社会的に解決されるものではなく、あくまで個人の自助努力(セルフヘルプ)によって解決されるべきものとされる。絶えざるセルフモニタリングとストレスマネジメント、そして服薬。生活に組み込まれた自己監視と自己規律の技法。
♣ 魔術的自立主義と自己啓発
★自身もまた重い鬱病を患っていたフィッシャーは、「何の役にも立たない(“Good For Nothing")」と題したテクストの中で、イギリスの臨床心理学者デイビッド・スマイルが提唱した「魔術的自立主義 (magical voluntarism)」という概念に言及している。魔術的自立主義とは、自分の力だけが自分を変え、なりたい自分になることができるという信念であり、フィッシャーによれば、それは現代におけるネオリベラリズムの支配的なイデオロギーを構成している、という。そして、鬱病とはこの「魔術的自立主義」の裏返しに他ならない、とすれば?つまりはこうだ。鬱病の原因はいつだって自分にあり、自分の不幸の責任は自分にしかなく、それゆえの苦しみを受けるに値する、と。再帰的な悪循環と無能感。ここから、また別の自己責任が招来してくる。貧困、機会の喪失、失業、それらもまた自分自身だけの責任であり、その境遇を受け入れなけ ればならない。イギリスの元首相サッチャーがかつて言ったように、ここに「社会」なる領域が存在する余地はない。
・レジリエンス。脳の可塑性。 自主独立。 魔術的自立主義。1980年代の抗うつ薬の一種であるプロザック・ブーム以降、多くの人々が生産性や業務のパフォーマンスを上げるために向精神薬やスマートドラッグを飲み、みずからを「神経化学的自己」へと改造(エンハンスメント)していった。自分の脳の神経伝達物質はいかようにも変更することができる、のみならずそれだけがこの世界に対して自分ができる唯一の対処法=攻略法なのだ、という確信(あるいは諦念?)。
・そう、ここにはエンハンスメントへの、自己の(可塑性の)強化への欲望と幻想が根を張っている。そして、魔術的自立主義のもうひとつの裏面である「自己啓発」がプレゼンスを高めてくるのも、またここを描いて他にない。
・前節で述べたように、自己啓発やネットワークビジネスは「強い思考やイマジネーションはいずれ現実化する」というポジティブ・シンキングの発想を主要な参照点としている。身も蓋もなく言えば、「自分が強く願えば自分/世界は変わる」もしくは「自分が変われば世界も変わる」という考え方がそれらのベースにある。言ってしまえば、それはどこまでも唯心論的、さらに言えば独我論的な世界観である。
★自己啓発セミナーは、自己の抑圧からの解放を志向する。しかし、それはどこまでも自己の内部で起こる出来事であるがゆえに、世界を変えることは遂にない。世界とそこで起こる事象は、すべて自己の内側の心的表象に還元されてしまうのだ。そこに見られるのは、自己の外側に存在する世界/社会を変えることはできないので、それらを自己の内側に取り込んだ上で「自分が変われば世界も変わる」という発想に繋げていくという、一種の認識論的な詐術である。ここには、<外部> が存在しない。世界に対する唯心論的なアプローチにおいては、外部=環境を変容させるのではなく、外部環境の受け取り方(解釈)を変容させることが目指される。
・小池靖『セラピー文化の社会学―ネットワークビジネス・自己啓発・トラウマ』「セミナーでは、人間はものごとをありのままに受け取っているわけではなく、長い人生のなかで形成された特定の枠組みでものごとを見ていると考える。そしてそれは変えられると信じられている。ひとことで言えば One Creates One's Own Reality、つまり「世界はあなたが世界をどう見るかにかかっている」という見方であり、現象学的、唯心論的とも言える世界観である。」
・あなたがあなたの現実を作る。自分が変われば世界も変わる。だがこうした考え方の底には、小池が引いているカウンセリングの第一人者國分康孝の発言中にあるように、「環境(体制)を変えたくない権威者が、カウンセラーを採用して、環境への受けとめ方を変容させることによって、体制維持をはかるかもしれない」といった危うさを常に内包している。
・自己啓発は個人を自己の檻のなかに閉じ込める。すべてが絶えず自己に再帰してくる。自分が変われば世界も変わる、という希望とともに。だが、それは同時に呪いでもある。
・鬱病と自己啓発は表裏の関係にある。どちらも魔術的自立主義という自己幻想を所与としたリベラル能力資本主義に支配的な「病」である、という点において。自分の力だけが自分を変え、なりたい自分になることができるという信念。可塑的な脳と、強固で不可逆な資本主義という制度。
・もし、この交換不可能で二項対立的なイデオロギーこそが、資本主義を維持させている当のものである、としたら? つまり、資本主義は見かけほど強固でも不変でもなく、脳と同じく(あるいはそれ以上に)可塑的かつ改変可能である、としてみたら?
・資本主義リアリズムは、可塑的な脳と魔術的自立主義というイデオロギーを不断に再生産することで自らを見かけ以上に強固なものに見せている。
・脳深部刺激療法(Deep brain stimulation; DBS)の鬱病への応用
・脳深部に電極を埋め込むことは、ヨガやマインドフルネスといった諸々のエンハンスメント・プログラムの延長に過ぎないということだ。私たちはここに、魔術的自立主義と自己啓発――「自分が変われば世界も変わる」、それとトランスヒューマニズムが交叉する点を認めることができるだろう。そして、脳のサイボーグ化――精神の物理的コントロールにより、いずれすべての精神疾患がこの地上から消えることになる。あまねく精神疾患は脳状態の平均値からの逸脱=偏差として数値化され、そうした脳状態の偏差はDBSによって「正常化」することが可能となるのだ。鬱の状態で死ぬまで横たわっているか、脳の「快楽の座」に電極を埋め込んで喜びに満ち溢れながら死ぬまで資本主義に搾取されるか、二つの選択肢のうち一つを選ぶことができる、というわけだ。
♣ 世界の可塑性――反脱魔術化としてのスピノザ主義
・もちろん、病とされている逸脱だけではない。危険な、あるいは逸脱していると捉えられた感情や欲望までもがそこでは「正常化」されうる。しかし、ここでの危険=逸脱とは何なのか。一体何からの逸脱が逸脱と捉えられるのだろうか。私たちは、すべての病や過剰や逸脱を個人に帰属させ、それをあまねく「正常化」しようとする欲望に潜む政治的含意こそを読み取らなければならない。そして、たとえばフレデリック・ロルドン(『私たちの“感情"と“欲望"は、いかに資本主義に偽造されているか?――新自由主義社会における〈感情の構造〉』)が唱えたように、制度的秩序を転覆させる潜在的力能である「欲望」を組織化させる流れをせき止める、あらゆるシステムに抵抗しなければならない。 そう、ここで問われているのは、フィッシャーの言うように、個人のセロトニン濃度の問題ではなく、社会的・政治的な問題なのである。
・新自由主義のみならずリベラリズムにおける伝統全体の核心にある、自律的な個人という信念
・デイビット・スマイル『Power, Interest and Psychology: Elements of a Social Materialist Understanding of Distress』「我々が思考、決定、意志の“因果的"なプロセスだと思っているものは、しばしば我々の行動に付随する一種の注釈にすぎない」多くのセラピーが前提としている内面性は、イデオロギー的な特殊効果にすぎない。
・スピノザ 「内面」(inside)なるものは、実際には外側(outside)が折り畳まれたもの 私たちの「内側」にあるとされるもののほとんどは、より広い社会的領野から備給されたもの
★真の自由というものがもしあり得るとすれば、それは己の不自由さを精査していく中にしか存在しえない。
・資本主義リアリズムによって再魔術化された個人――魔術的自立主義というイデオロギーを、ふたたび脱魔術化すること。ただし、リベラリズムの個人主義とは別の方向で。すなわち、再魔術化でも単なる唯物論的還元主義としての脱魔術化でもない、反ー脱魔術化としてのスピノザ主義を構想すること……?
・自己の可塑性を世界の可塑性に向けて押し開くこと。自己の可塑性ではなく、世界の可塑性こそを信じること。そうすることによって、私たちは、鬱の状態で死ぬまで横たわっているか、脳に電極を埋め込んで死ぬまで資本主義に搾取されるか、という二つの選択肢のどちらでもない、別の可能性の未来に思いを馳せることができる。
Chapter4 共同体と陶酔――反脱魔術化の身体に星が降るとき
1 否定と治癒 ――逸脱者たちの目覚め
♣ 資本主義はなぜ健常でいられるか
・精神科医中井久夫『治療文化論』「健常者」→病者/非病者 「健常者症候群」の一つの類型「転移による疑似健常者」=フランスの心理学者ピエール・ジャネによって「蛭」と名付けられた、他者のエネルギーを無限に吸い取って生きているタイプ。
・「転移による疑似健常者」=資本主義それ自体でもある。個人に狂気の「徴(しるし)」を与え、賃金労働者から剰余価値という名のエネルギーを姪のように吸い尽くすことで、みずからの狂気と病を隠蔽し、健全なシステムとして立ち振る舞いながら無限に肥大化を続ける、この擬似健常システム。
♣ 幻想となった〈外部〉
・フーコー『異常者たち』「正常化=規範化」 精神鑑定が「非行者」「異常者」「危険人物」を生む リスクという観点から、すなわち社会にとって「危険」な人間であるか否かという観点から分析と解釈の対象となる。
・社会は異常者たちから防衛されなければならない。かくして、「正常化=規範化」の権力は、潜在的な「危険(リスク)」という次元に介入する権力として、司法的権力とも医学的権力とも区別される。
・それにセクシャリティが加わると、「倒錯者」というカテゴリーが新たに作り出される。同性愛者。
・フーコーにとって19世紀とは、「狂気」の絶えざる内部への包摂化、言い換えれば怪物的な生を権力の内側へと際限なく繰り込んでいく、そういったプロセスに他ならなかった。もはや怪物は表象不可能な<外部>などではない。それは科学的/医学的に検証・計測可能な対象でなければならない。もはや怪物は存在せず、代わりに異常者という一群のカテゴリーの存在者たちが可視的な光の下に囚われる。
・もはや外部は存在しない 「真理はこの世界に属している」 真理すら政治的、経済的、制度的「体制」の結果
♣ 生権力 ――規律から生政治へ
・規律権力/生政治 (『監獄の誕生』『知への意思』)
・規律権力=個人の身体行為をターゲットにした権力 「身体の調教、身体の適性の増大、身体の力の強奪、身体の有用性と従順さとの並行的増強、効果的で経済的な管理システムへの身体の組み込み」「人間の身体の解剖ー政治学(アナトモ・ポリチック)」 軍隊や学校
・生政治=「繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命、長寿、そしてそれらを変化させるすべての条件」が重視される。「人口の生ー政治学(ビオ・ポリチック)」 人口統計学 所得統計
・身体行為に関わる権力(規律権力)個別化+人口の調整(生ー政治)全体化=「生ー権力」≒「司牧権力」ユダヤ=キリスト教的伝統における羊飼いをモデルとする、群れに対して「全体的かつ個別的に」配慮し導く権力
♣ 規範というファクター
・この2つの「生権力」を媒介するファクターこそが「ノルム=規範」(norme)
・中世における癩病患者→「追放」「排除」/18世紀におけるペスト患者→「封じ込め」「管理」
・ペストの発生によって封鎖された地域は、綿密で詳細な分析と細心な網羅的警備の対象となる。それは切れ目のない権力の組織化と、中断のない監視とを伴う。都市の市民の名前はすべて登記簿に記載され、視覚的な検査とあらゆる情報(病気である者と病気でない者の分類)の登記簿への再登記によって住民集団は絶えざる管理のもとに置かれる。そこでの焦点となるのは、健康、生命、寿命、個々人の力を、最大限にまで導くこと。すなわち、健康な住民集団を産出することこそが喫緊の課題となる。「問題は、規則性の領野の恒常的な検査です。つまり、そうした検査によって住民一人一人を絶え間なく評価し、彼らがはたして規則に適っているかどうか、定められた健康の規格に適っているかどうかを知ることが問題なのです」。
・社会に現れる人口を切り分け、正常と異常を区分し、あるいは社会に対する内なる「敵」を評定し抽出するためのスティグマとして機能するのが、ここでの「規範=ノルム」の役割に他ならない。「規範=ノルム」を指標として、正常から異常を切り出し特定の者たちに「徴」を刻印する規範化社会の台頭。
・「規範=ノルム」が効率的に作動するにあたって広範な影響力を行使したのが人口統計学、そして進化生物学。
・「平均」の概念→「正常」。「正常」の概念は、統計的平均の概念とともに再強化され、人口統計学は、そうした「正常」からの偏差、すなわち危険性/異常性の度合いを探査し測定するためのテクノロジーとして立ち現れる。
・ダーウィン『種の起源』(1859)→歪曲され、ハーバート・スペンサーらによる社会ダーウィニズム 「弱肉強食」「優勝劣敗」
・ダーウィンの主張→進化は種の「分岐」でしかない。どちらが優れているということはない。
・19世紀の進化論者 進化とは「完成=調和」へと向かう合目的性を備えた神の「計画」の漸進的プロセスに他ならない
・ドイツの進化論者エルンスト・ヘッケルは、優生学的理由から死刑制度を肯定したテクストの中で、「すべての矯正不能な犯罪者を仮借なしに絶滅させれば、善良な人々にとっては生存闘争が大幅に軽減されるだろうし、そればかりか、この人為的な選択によって多くの利益がもたらされることになるであろう。なぜならば、それによって、退化したならず者が、遺伝を通してその悪い性質を伝える可能性を奪われることになるからである」と述べている。
・犯罪者(変質者)の大半は遺伝的要素によって本能を侵されている、という主張 アルコール中毒も遺伝する
♣ 異常と正常の連続性
・ノルム=平均からの距離 連続性(スペクトラム)になっている
♣ 精神疾患をラベリングする感情管理社会
・注意欠如・多動症(ADHD)や自閉スペクトラム症(ASD)といった発達障害に含まれる一群の精神疾患にカテゴライズされる人々
・21世紀を迎えて、診断が急増→社会の側の変化=新自由主義が労働者に要請するフレキシビリティ
・20世紀フォーディズム(工場での大量生産)→21世紀臨機応変さを求められる感情労働(A・R・ホックシールド)
・組織が定める感情規則に則った上で自身の感情を常にモニタリングしながらコントロールすること(感情管理)が求められる。
・能力主義→ハイパー能力主義 必ずしも数値化されない 意欲、コミュニケーション・スキル、リーダーシップ、創造性などが求められる
・アンソニー・ギデンズ 常にダイナミズムとリスクに晒され、アップデートし続けなければならない再帰的な自己アイデンティティ
♣ 包摂は誰のためか
・『鏡の国のアリス』赤の女王「同じ場所にとどまるためには、走り続けなければならない」
・落伍者たちをなるべく補足し、すくい上げ、再び社会に包摂する必要がある(包摂による統治)。かくして、自立支援制度と特別支援教育が導入され、ソーシャルワーカーやスクールカウンセラーや精神保健福祉士が動員される。近年における発達障害の診断数の増加は、こうした情況と明らかに不可分なものとしてある。たとえばASDの特徴のひとつとして、他者の声の調子、身振り、表情などから相手の気持ちを読み取る能力が定型発達者に比べて劣ることが挙げられるが、これは、相手の感情を読み、それに応じて自身の感情をフレキシブルに表出することが常に求められる感情管理社会を生きる上で不可欠な能力である。
・現行の社会に適応できない者、言い換えれば正規分布における平均値から逸脱した者たちは、ただちに「障害」としてラベリングされ、教育的支援や福祉的支援といった諸々のセーフティネットを介して再び社会に包摂される。だがそこで行われる自立支援とは、要するに平均値からの偏差を可能な限り矯正することであり、他人に迷惑をかけるような、過大な不満、分不相応な意思、不届きな欲望を持たないように、言い換えれば、わきまえた欲望を持つことができるように善導してあげること、「正常なもの (le normal)」に少しでも近づけるよう適切にマネジメント=方向づけをして、社会が当人に定めた相応な位置に再配置することである。小泉義之も指摘するように、「精神障害」とされる者の過半数が極めて低い所得での生活を強いられている、という現実から目を背けるべきではない。
2 痙攣する身体
♣ 魔女狩りと資本主義
・魔女→もともとケルトやゲルマンの豊穣神崇拝 キリスト教により異端審問
・16世紀 気候の寒冷化 ペストや天然痘の流行 貨幣経済の浸透 インフレ 印刷術の発明 民衆のヒステリカルな群衆化
・シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』
・「再生産と人口成長が、知的な言説の主要な対象としてだけでなく国家の問題となったのは、(フーコーが論じたように)18世紀のヨーロッパにおける飢饉の終焉ではなく、16世紀と17世紀の人口危機のためであったというのが私の主張である。さらに、「魔女」の迫害の激化と、国家が生殖を管理し、再生産に関して女性が及ぼす力を破壊するために新たな規律化の手段をこの時期に導入したのも、この危機に端を発していると私は考えている。」
♣ 搾取される身体――生殖機械と労働機械
・これらは、当時のフランスやイギリスにおける国家主導の下での出生率上昇を促進する一連の公的救済と資本主義的再生産政策とも相即するものだった。結婚を奨励し、独身者に罰を与える法律が可決され、同時に、人口動態の記録と、性行動、生殖、家庭生活の監視といった国家介入も始まった。中世においては、貧しい女性による嬰児殺に対しては寛大な扱いがされたが、いまや嬰児殺しは死刑に値する犯罪となっていた。
・同時に、財産の移転と労働力の再生産を提供する主要な制度として、家族にそれまでにない重要性が与えられる。貨幣経済と家族制度、そして19世紀にフルタイムの主婦(専業主婦)が創造されることで頂点に達する新たな体制の下で、女性は公的空間から家族という私的空間に囲い込まれた。家庭内労働は労働と見なされず(不払い労働)、彼女たちは賃金獲得の過程から放逐される。
・こうして、人口危機を経験したヨーロッパにおいて、17世紀から18世紀にかけて、「人間を単なる原材料、すなわち国家のために働く者と、国家のために養育する者のように考える、人間についての新たな概念」が着実に定着していった。中世には女性は様々な避妊方法を用いることで、出産過程を自分でコントロールできたが、以降、「女性の子宮は公的領域となり、男性および国家によって支配され、出産は資本主義的蓄積にとって役立つものとして位置づけられた」。労働力再生産としての生殖は(それが不払い労働の一部という意味でも)搾取の領域と化す。それは取りも直さず、「生産性」という、近代それ自体に深く根ざした固定観念=強迫観念(オブセッション)がこの時期のヨーロ ッパに胚胎していたことをも意味する。生産的であらねばならない、勤勉であらねばならない、幸福であらねばならない、云々。
・オランダは魔女狩りが最も早く終わった地域であると同時に、臨床医学すなわち大学において患者を診察するという試みが最初に本格的になされた国である。これはフランスに先立つことおよそ2世紀近いできごとである。そして最後に精神病者を――その他の浮浪者や売笑婦、犯罪者とともにではあるけれども――オランダにおいて盛んである毛織物工業での集団労働によって治療しようとする、今日の作業療法をはじめて行なった国でもある。
・現代社会においても依然として支配的な「治るとは働くことである」といった固定観念(これは中井も指摘するように、容易に「働くと治ったことになる」という命題に反転して患者をさらに抑圧する)の端緒、それはこの時代のオランダが実践した、魔女狩りに代わって登場した精神医療の基本線のひとつとしての患者の「労働改造」に求められる。
・17、18世紀を通じて、オランダ(そしてスイス)というカルヴィニスト国家は、脱魔術化と世俗化を他国と比べても早期の段階で徹底させ、現世内禁欲、契約に基づく人間関係、勤労の讃歌、といったプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神を貫徹させた。そこでは、悪魔との闘争も現世における勤労によってなされるべきだとするリアリズムが魔女狩りの集団的パラノイアに対して優勢となったのである。この過程の中で、民衆の中に根付いていた魔術は不正な力の行使、つまり労働をせずに欲しい物を手に入れる手段=労働の拒否と見なされ、根絶の対象となった。
・こうして男性の身体は「労働機械」へ、女性の身体は「産む機械」へと変容させられる。「資本主義によって発展した最初の機械とは、蒸気機関でも時計でもなく、人間の身体だったのだ」。身体の脱魔術化の完成。いまや人間の価値は「生産性」と「有用性」で測られる。終わりのない労働。他方で、働かない者は道徳的に堕落した怠け者の烙印を押される。ピューリタニズム(カルヴィニズム)に端を発する近代的市民社会の下では、魔女はもはや存在しない。ただ精神病者、身体障害者、犯罪者、娼婦、浮浪者、等々の「異常者」たちが存在するだけであり、そして彼らがこれ以上堕落しないためには、強制的にせよ労働させなければならない。
・ニック・スルニチェク『未来を発明する――ポスト資本主義と労働なき世界』すべての労働がオートメーションに置き換わり、すべての人にユニバーサル・ベーシックインカムが配られる未来
・私たちは労働から解放されたとして、空いた時間を何に用いればいいのか誰からも教えられていない 資本主義に根ざした労働規範は、私たちの自己同一性(アイデンティティ)や欲望のあり方を深いレベルで規定しており、労働と競争の存在しない世界――終わらない日曜日――とそこでの生き方がどのようなものでありうるか、想像することすらできない。
・「労働は私たちの自己像のまさに中核を占めるに至っている。それも、労働を削減するアイディアを提示されても、多くの人々が「でもそうなったら俺は何をすればいい?」と尋ねるほどに。労働の外側で有意義な生活を送ることを多くの人々が想像すらできないという事実は、労働倫理が私たちの心をどれだけ侵食しているかを示している。」
★低賃金で劣悪な労働が一向に減らず、本来は不必要な「ブルシット・ジョブ」が際限なく生み出されるのは、「働かないことは悪である」というイデオロギーが新自由主義を駆動させている主要なエンジンであるからに他ならない。労働は私たちの自己同一性(アイデンティティ)に組み込まれ、真の自己実現のための唯一の手段として喧伝されている。ポスト資本主義における欲望とはどのようなものだろうか。それとも結局、欲望は資本と労働に回収されてしまう運命なのだろうか。
♣ 生産性――現代社会に通底する優生思想
・ナチス ドイツの刑法学者カール・ビンディングと医学者アルフレート・ホッヘ『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』(1920)
・当時のドイツ 第一次大戦での敗北→スペイン風邪と巨額の賠償金
・同書は、「最重度の知的障碍者」を「完全なる精神的な死のすべての前提条件を一番に満たすと同時に、誰にとっても最も重荷となる連中」と規定し、「これらのお荷物連中」の事実上の強制的安楽死を提案
・「ひょっとしたらいつの日にか、次のような見解の機が熟するかもしれない。すなわち、精神的に完全に死せる者の排除は決して犯罪でもなければ、不道徳行為でも、感情を逆撫でする暴挙でもなく、むしろ許された有益な行動なのだという見解である。
さて、ここで何よりも我々の関心を呼ぶのは、どのような性質と働きが精神的な死の状態を適切に特徴づけるのかという問題である。外面に関しては容易に認識できる。すなわち、人間の社会では精神的に死せる者の異様に映る身体特徴、一切の生産的な能力の欠如、第三者による扶助を必要とする完全な無力状態である。」
・1939年ナチス「T4安楽死計画」秘密裏に実行 日本2016年相模原事件「言葉を持たない重度の障害者は生きている価値がなく、殺したほうが社会のためだ」
・ホッヘ「精神遅延の人々の養護に年間人あたり平均300マルクかかっている」というデータを引き合いに出しながら、この負担は国家財政上の問題であり、莫大な財が「非生産的な目的」のために費やされている、と主張
・佐野誠「ここには、生殖細胞や遺伝子レベルでの人間の資質を主たる問題とする、社会ダーウィニズムや優生学では説明のつかない安楽死への要請があったということだろう。ナチスの安楽死計画と言われるとき、我々は真っ先に、優生学や人種衛生学をイメージしがちであるが、ビンデイングやホック、そして[テオドア・]モレル、さらには十九世紀の[アドルフ・]ヨストらの安楽死肯定論の根拠づけには、これらの優生学的根拠は希薄である。優生学や人種衛生学は安楽死肯定のイデオロギーとして利用されたとしても、当時の安楽死肯定論者の本音は経済効率の向上にあったと言っても過言ではないのである。」
♣ 抵抗と痙攣――身体の反脱魔術化
・フーコー 1632年ルーダンの悪魔憑きに言及 「肉の痙攣」 身体の中で、支配力同士が戦争をする 個人の身体のレヴェルにおける、キリスト教化に対する抵抗
・フーコーはたしかに語り落としていたのだ。女性の痙攣する身体は、キリスト教化に対する抵抗の帰結だけではない。それは、魔女狩りを通して、産児制限を犯罪化し、子宮を人口増加のために、かつ労働力の再生産と蓄積のために奉仕させようとする初期資本主義の要請に対する抵抗の帰結でもあったはずだ。女性の身体、労働、性的能力や再生産能力を国家の管理下に置き、それらを経済的資源に変容させる新たな家父長主義体制に対する抵抗。従属させられた「生産性」に対する抵抗。「産む機械」に変容させられることへの抵抗。諸々の権力に貫かれた身体の不随意的かつ自動的な肉の痙攣という運動。
♣ 適応不全を知らせるもの
・チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラ 「オートポイエーシス(自己産出)理論」=自律的な生命システムと環境の間の相互作用を記述するための理論 システムと環境の間の構造的カップリング 例:人類と地球
・両者の間に適応不全が起こると、破壊的相互作用が引き起こされ、結果、オートポイエーシス・システムは崩壊する。痙攣する身体、炭鉱のカナリア、反-脱魔術化の身体。それは、環境(社会制度)との間に修復不可能な適応不全を起こした身体、環境の変化に適応できず、世界に身を委ねることができない身体、オートポイエーシス・システムから離脱し、跡形もなく分解してゆく身体……、そうした身体なのではないか。事実、現在推し進められつつある環境(アーキテクチャ)による統治は、システム(人間)の自律性を根本から掘り崩しうる。自律性の霧散は、主体の消滅でもある。
3 鏡の牢獄――既知と自己の乱反射
♣ 個人を規定するアーキテクチャ
・「環境(アーキテクチャ)」 1999年憲法学者ローレンス・レッシグ『CODE』「コードは法である」 今で言うGAFAの支配
・アーキテクチャ=あらかじめ設計された物理的な技術や構造であり、人々が行為する物理的な環境を構成し、人々の行動を一定の方向へと(意識的/無意識的に)誘導する。
・ゼロ年代中盤 東浩紀ら 規律権力の機能不全を補うポストモダン型の権力としての「環境管理型権力」の台頭
・ゼロ年代後半以降 経済学者のリチャード・セイラーと法学者のキャス・サンスティーン 行動経済学/プロスペクト理論の知見をもとにアーキテクチャを積極的に活用した社会設計の方法を説き、奇しくも日本においても法哲学者の安藤馨が功利主義の立場からアーキテクチャによる統治を正当化する、といった「アーキテクチャ論の転回」(成原慧)が起こってくる
・こうした背景のひとつにあるのは、近年における認知心理学やプロスペクト理論がもたらした、認知バイアスにもとづく意思決定モデルの登場である。そこにあっては、もはや19世紀的な合理的/理性的な意思決定主体は想定されていない。あるいは、市場経済モデルが前提としてきた「経済人」や、民法が前提としてきた「合理的でかつ対等な個人同士の合意として行われる契約」自体が(現実世界に即していない)ある種のフィクションでしかないことが証明されてきた、とも言える。たとえば、認知心理学者のダニエル・カーネマンは著書『ファスト&スロー』の中で、合理的経済主体モデルで想定されている選好の論理的一貫性などは幻想に過ぎないと喝破している。ファストな「直感」とスローな「論理」。
♣ ナッジは自由を制約するのか
・リチャード・セイラーとキャス・サンスティーン こうした避けがたい認知バイアスを逆手に取って「ナッジ」を提唱 リバタリアン・パターナリズム
・無意識的な誘導を特徴とする(選択)アーキテクチャは、自由の価値を促進するよりも、個々人の厚生の向上に目標を置いている点で、功利主義と相性が良い。「最大多数の最大幸福」と「帰結主義」をセントラルドグマとする功利主義からすれば、たとえば「自由」や「自律」、あるいは「自己決定」といったファクターは、あくまで厚生(快楽)の向上のための手段に過ぎず、さらに言えば厚生(快楽)をもし阻害する場合などがあれば、それらを抑圧もしくは排除することも(少なくとも功利主義の立場からすれば)十分に正当化される。大屋雄裕「自由か、さもなくば幸福か?」
・選択アーキテクチャは、「自由」を与えられた一定の選択肢の枠内における「選択の自由」に還元しているという点で、「自由」をいたずらに矮小化していると言えよう。一見、自由な選択を提供しているように見せることで、欲望を満足させながら、同時に欲望の創造的可能性を制限する。これは後期資本主義がしばしば用いる狡猾なトリックのひとつである。極言すれば、資本主義とは、欲望を触発すると同時にそれを制限=調整するシステムなのである。
♣ 最適化する環境、偶然性の喪失
・ビッグデータによる、ターゲティング広告、おすすめ 「個人化された環境」
・個別化された選択環境は学習を促さない。個別化された環境は、過去の自分の選択と矛盾しない結果となるように選択を誘導することで、視野を広げるよりはむしろ狭める。「個人化された環境」、それは過去の自分の似姿が無限に乱反射する鏡地獄である。ここでは、未知の他者との出会いも、新しい自分との出会いもありえない。言い換えれば、いかなる「変化」も「変革」も最初から奪われている。個人化された選択環境にもとづく受動的な選択は、主体から能動性を奪い取る。偶然性やエラーを徹底して排した個人化された環境は、逆に過去の選択にもとづく「習慣」への順応を促し、人を既知とデジャヴに取り囲まれた「共鳴室( エコーチェンバー )」の牢獄に閉じ込める。ここに欠けているのはセレンディピティ、すなわち偶然的な未知との出会いである。
♣ 自由意志と責任
・イーライ・パリサー「フィルターバブル」
・新派刑法学=古典学派に代わって19世紀末に現れた、生物学的決定論や社会的決定論などを背景として提唱された刑法学派
・1882年フランツ・フォン・リスト「刑法における目的思考」 社会防衛のため先回りして犯罪を阻止する
・キャス・サンスティーンの二枚舌。ナッジ政策の要諦=個人の意志や選択を管理しながら、かつ自己責任というイデオロギーは堅守すること。
・かくして、身体は環境(アーキテクチャ)へ疎外され、権力はこの第二の身体に焦点を合わせる。人々は「個人化された環境」の鏡地獄の内部で、自身の身体は第二の身体に絶えず触発され、コントロールを失う。
4 それでも未来は長く続く
♣ 当事者研究――現代社会へのアンチ・テーゼ
・当事者研究=自分で自分を研究する
・障害の「医学モデル」/「社会モデル」
・インペアメント=本人に帰属される身体的/精神的な機能障害 / ディスアビリティ=本人には帰属することができない社会的障壁
・当事者研究と自助グループの嚆矢アルコホーリクス・アノニマス(AA)
♣ 障害学とクィア理論――異なる未来を構想する
・批判的障害学の中で重要な位置を占めるのが、障害学とクィア理論の交差点に立ち現れたクリップ(cripple(不具))・セオリーである。これは、健常主義と異性愛主義との共犯関係の下、障害とクィアが共に「正常性」から疎外されると同時に、それを強化・再生産するために、いかように利用され、そして「包摂」されてきたのかを剔抉(てっけつ)するために形成されてきた理論
・アリソン・ケイファーによるリー・エーデルマンへの批判 <未来>を閉ざすのではなく創ること。政治/関係性モデルで「障害」を、コレクティヴな再創造のための可能性がひそむ、場とみなすこと。
・クィア理論家ホセ・エステバン・ムニョス エルンスト・ブロッホ『希望の原理』に依拠 「否定(ノー)」→「未だここにない(ノット・イエット・ヒア)」
♣ 共に在る意味
・中井久夫『治療文化論』「治療集団」ようするに友人集団 敗戦直後に形成された、8人から12人より成る前青春期の親密集団で、大学卒業後も関係が20数年続いたという半永続性を備えた集団 「変哲もなく語り合い散歩し合って、時にそれが深夜、明け方に及ぶだけ」「このグループは、生理的心理的成熟と社会からの成熟容認との間の10年間のモラトリアムを通過する途上で発生する諸々の困難(たとえば父母の不和から食料不足まで)に対処(cope with)しえた。その意味で、このグループは「治療集団」たりえている」
・これを存続させた力は、実に時折の「個人症候群」の発生であって、それはこの集団が単なる「仲よし集団」でなく、社会的階層的困苦の時代を生きとおすための「治療集団」の性格をも併せ持っていたことを示唆する傍証である。「治療集団」といっても、外部にむかっての治療ではなく、一般に「個人症候群」の治療がそうであるように重点は内部治療にある。
★それは「社会的階層的困苦の時代を生きとおすため」に形成された集団であって、折に発生する病や困難を内部治療によって克服することを通して、集団の解体四散を防ごうとする(ここには、 明らかに中井のサイバネティクスへの影響が見て取れる)。ネガティブ・フィードバックによって恒常性(ホメオスタシス)を維持することを目指した、オートポイエティック・システムとしての治療集団。
♣ 公的空間の再構築
・近代国家が公的空間を追いやり、すべてを私的空間に塗り替えてしまったと嘆くアーレントの問題意識
・A・R・ホックシールド『壁の向こうの住人たち』 現在のネット空間を特徴づけるのはエコーチェンバーの牢獄であり、蛸壺化したクラスタやコミュニティが島宇宙を形成しながらそれぞれの「異なる真実を生きている」情況
♣ 新たな始まり――見せかけの必然性を解体する
・自助グループや当事者研究→公的空間なき世界にたとえ仮初であっても公的空間を立ち上げようという、カウンターとしての実験
・アーレントにとって、公的空間は砂漠に現れるオアシスとして捉えられていた。政治学者の小野紀明は、「要するに、アレントの政治哲学の核心は、砂漠とオアシスの緊張関係のなかに身を持することにある」と断言している。意味を喪失した砂漠と化していく世界の只中に共通の空間としてのオアシスが建設されねばならない。しかし、ともすればオアシスは消滅し、砂漠が復活し、そこに砂嵐(=全体主義)がふたたび接近する。その意味で、オアシスは決して安定した堅牢なものではない。オアシスは「休息」の場とはなりえない。それは干上がり砂漠に飲み込まれる可能性に常に曝されている。
・共通世界=公的空間の喪失をノスタルジックに嘆くことに意味はない。それは今に至るまで喪失を不断に繰り返してきた。それはアドホックに、そのつど新たに形成される仮初の領域に過ぎない。
★「活動」によって新たな「始まり」を、言い換えれば共通の空間をこの世界にもたらすためには、今この現実とは異なるもうひとつの世界を「想像=創造」する必要性がある。共通世界は、未来を先取りする行為遂行的(パフォーマティブ)な「活動」によって打ち立てられる虚構(フィクション)を常に土台としている、という意味でそれはユートピア的ですらある。そして、アーレントの思想とSF的な想像力とがマーク・フイッシャーを媒介として結びつくのも、ここにおいてなのである。
・テッド・チャン「SFは現状の転覆がテーマだ。だからこそ、SFは潜在的に政治性を帯びている。SFは変化についての物語だから。昨年、批評家のマーク・フィッシャーの言葉をたまたま読んだ。「解放の政治は、これまで不可能だとみなされてきたものを達成可能に見えるようにすることがその使命であるのと同じく、常に『自然律』という見せかけを打破せねばならない。必要かつ必然だとされるものが、実は単なる偶然にすぎないことを暴かればならない」。これこそSFの目指すところだ。」
★私たちは、非線形的なカオスの流動性が律する砂漠に生きざるをえないのだ。そこにあっては、オアシスは、<未来>は、「予測」することではなく「創造」することによってしかもたらされない。<未来>は無限遠点に位置する接近不可能な対象などではない。<未来>とは、異なる視点で眺められた現在の名であって、それは常にすでに現在の中に埋めこまれている。<未来>とは潜在的なものに与えられた名であり、言い換えれば未だ現実化されていない「すべて」である。潜在性の領野から複数の未来を、「ここではないどこか」を掴み取ること、それだけが、この砂漠の世界に新たな「始まり」をもたらすことができる。
♣ 照応し合う身体と宇宙
・デヴィッド・グレーバー「ここで私たちはジレンマに直面している。革命的な<未来>はだんだんと私たちの多くにとってありえなさそうに見える。しかし私たちは単にそれを諦めることもできない。結果としてこの<未来>は現在になだれ込み始めている。こうして、たとえば共産主義はその見方を知りさえすれば、すでにここにあるのだと主張されるようになる。いわば<未来>は現実の隠れた次元になったのだ。世界の世俗的表層の背後にある内在的現前であり、小さく不完全な閃きとしてであれ、いつでも不意に表に出てくるポテンシャルを有している。」
・<夢時間>としての<未来>。そこでは、時が満ちるとき、過去、現在、未来が――実現しなかった未来と未だここにない未来が、「今」という一点に凝縮し、再配列され、ひとつの星座を描き出す。
・1975年の春、デスヴァレーのザブリスキー・ポイントにおいて、砂漠の大気に包まれたフーコーは、LSDを摂取しながら、星空を見上げていた。
・ウォルター・ベンヤミン「古代における宇宙との交わりは、それ(近代)とは違ったかたちで、すなわち陶酔のなかで、行なわれたのである。というのも、陶酔という経験においてこそ、私たちは最も近いものと最も遠いものとを、どちらか片方だけということは決してなく、確保するのだから。だが、これが意味するところは、人間は共同体のなかでのみ、宇宙と陶酔的にコミュニケーションできる、ということだ。」反脱魔術化の身体と宇宙、ミクロコスモスとマクロコスモスとが陶酔の只中で照応し合う。
・LSDなどのサイケデリクスの「セット」と「セッティング」
・最後
わが複数の人生 ――あとがきに代えて
・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』 ホルヘ・ルイス・ボルヘス「学問の厳密さについて」 縮尺1分の1の地図 シミュラークルの先行 現実性の完全な喪失
・『マトリックス』レッドピル 現実/虚構 真実/偽といった古典的(プラトン的)な二項対立モデル 自己啓発や陰謀論に対するニーズ 単純さ、わかりやすさ
・『鏡の国のアリス』どこまでも懐疑 これが現実なのか夢なのかどこまでも宙吊り
・アルバート・ホフマン「現実は複数存在する」ラジオの受信機 「一般に『現実』と呼ばれるものは、個々の人間の現実をも含めて、決して固定したものではなく、むしろ多様である」 ただひとつの現実とそれ以外である虚構=仮象といった単純な二項対立を退け、可能態である複数の現実が共存在するというヴィジョン
・並行世界(パラレル・ワールド)へのオブセッションに取り憑かれた作家フィリップ・K・ディック 1977年の講演「この世界が悪いとわかれば、他の世界を見るべきだ」 現時点で現実化されている世界とは異なる別の現在、潜在する並行世界についての記憶を「思い出す」こと
・『チェンソーマン』『輪るピンクドラム』アーノロン症候群、ダビデ像
・『鏡の国のアリス』不思議の森でのアリスと鹿のエピソード
・類型的なアイデンティティから逃れ、こうもありえたというもうひとつの人生を、わが複数の人生を生きること。
・編集西山大悟
・シオラン「1冊の本は、延期された自殺だ」 人は少なくとも、何かを読んだり書いたりしている間は自殺をしない。
・「これらの断片を支えに、ぼくは自分の崩壊に抗してきた」(T・S・エリオット)
4/21読了
◆要約:◆感想:
◆要約:
ネオリベラリズム=60年代のカウンターカルチャーを完膚なきまでに潰すプロジェクト。
資本主義リアリズム=その帰結。
近代の脱魔術化 それに抗する反脱魔術化 それすら体制に取り込まれた再魔術化
チューリッヒ・ダダやアスコーナ、エラノス会議の実践
反脱魔術化としてのLSD→再魔術化に取り込まれる エサレン研究所 マズローの自己実現 自己啓発
世界は変えられないので、自分を変える
支配層による統治技術 プロテスタンティズム=自分で自分を統治する
自己啓発と鬱は裏表の関係 魔術的自立主義
世界は変えられないので自分を変えるしかないという深い洗脳
「規範」からの距離で正常と異常を分け、異常者を排除し、「正常」な労働者のみに労働力再生産を許し、人口調整する生権力という統治技術
女性は生殖機械、男性は労働機械に 「生産性」と「働かないことは悪である」という強固な労働規範
そして環境管理型権力、ナッジ、ビッグデータによるさらに進んだ管理社会 新派刑法学で先回りした社会防衛
結局対抗手段は、友人集団と公的空間を作ること? アーレントの「活動」とは砂漠の中のオアシスを作ること
未来とは待つことではなく、今埋まっているものを掘り起こすこと
並行世界を信じること 並行世界の記憶を思い出すこと こうもありえたというもうひとつの人生を生きること
◆感想:
とても面白かった。知らないことが多く勉強になった。大事なポイントの網羅感がすごい。
自分が人文書を読むようになったきっかけは、やはり自分自身も生きづらさを強く感じていて、その正体を知りたかったから。
その生きづらさが、ここでいう資本主義リアリズムということになると思うが、そうなってしまった原因を、一つ一つ丁寧に網羅している。
やはり近代の脱魔術化に対抗する60年代のカウンターカルチャーは重要だったのだなと感じた。ビートニクやヒッピー、パリ5月革命など。
それを簡単に見限ってはいけないし、再評価、再考する必要がすごくあると感じた。マルクーゼの思想が凄く重要だと感じた。
自分は『ビッグ・リボウスキ』が凄く好きなのでヒッピーに共感を持つ。
後半は自己啓発と鬱、正常と異常を分ける「規範」の問題、統治技術、生権力の問題など。
はっきり言って、統治技術と生権力のレベルが発達しすぎていて、被統治者がまったく歯が立たないのが現状ではないかと感じた。
最後にアーレントやフィリップ・K・ディックを引いて、抵抗のための大事なヒント・キーワードが示された。
いまの自分には全然無理だと思う。元気がなさすぎて。友人がどんどんいなくなっていくのが本当にきつい。
でもしぶとく生きて、一歩一歩考えていきたいと思った。
最後のほうにグレーバーの基盤的コミュニズムの話が少し出てくる。
その考えの応用で、いまコンクリートのような、鉄の檻のようなシステム(社会)が地表を覆っているけど、
敷石の下は砂浜で、社会は基盤的世界の上に成り立っている。その基盤を思い出すことが大事かなと思った。世界を宇宙を想起する。
人間は社会だけでは生きられない。世界に触れることで生きられる。その基本が料理をすること、食べることだと思っているが、
日光とか、風の匂いとか、焚き火とか、木登りとか、本当の祭りとか、もっと世界に触れる機会を増やしていくことが大事かなと思った。
社会が世界を侵食し尽くしてるあとに、世界が社会を侵食し返す。そのバランス。