マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

作品#05「コスモス 社会学用語図鑑トレカ」62枚(番外) 哲学&続哲学用語図鑑トレカの14枚

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哲学#36 カール・マルクス

生産関係

人間が生きるためには衣食住が必要です。マルクスは、衣食住に必要なものを生産するための土地や材料などを生産手段と呼びます。また、生産のために取り結ぶ人間関係のことを生産関係と呼びます。封建制での領主と小作人、資本主義体制での資本家と労働者のように、生産手段を持つ者と持たない者との間に、支配と服従というかたちで生産関係はあらわれます。
生産関係は、それぞれの時代の技術レベルによって決まります。やがて技術レベルが進歩し、生産力(生産物の供給能力)が向上すると、被支配階級が力を持ち始めます。そして被支配階級が支配階級から独立することで、次の時代の生産関係へと移行します。

資本家階級(ブルジョアジー)/労働者階級(プロレタリアート

封建制は終わりを告げ、領主と小作人という生産関係はなくなりました。けれども次に訪れた資本主義制度は、資本家階級と労働者階級という新しい生産関係を生み出してしまったとマルクスは言います。
さらにマルクスは、資本主義がかかげる自由競争(自由放任主義)のもとでは、資本家同士だけが利潤の追求を行い、それによって労働者が搾取され続けることになると考えました。これを避けるために、土地や工場や設備などの生産手段は私有してはならず、公共化するべきだとマルクスは主張します。

疎外

資本主義体制の下では、労働者は生産手段を持っていないので、自分の労働による生産物も、労働自体も、労働者自身のものではありません。労働者は生産物や労働自体から、疎外されている(のけ者にされている)のです。また、本来ならば、生産活動(労働)や生産物は、人々が連帯して生きていく(類的存在になる)ためのものですが、生産活動や生産物から疎外されるため、そうした連帯もできなくなるとマルクスは考えました。

階級闘争

支配階級と被支配階級の生産関係は一度出来上がってしまうと、支配階級がその制度を維持しようとするため固定化します。ところが技術の進歩によって生産力(生産物の供給能力)が向上すると、現状の生産関係に不都合が生まれ、階級闘争が起こります。その結果、新しい生産関係の時代が生まれるとマルクスは考えます。

上部構造/下部構造

マルクスは、各時代の生産関係による経済的な仕組みを、社会の 土台をなす下部構造と捉え、この土台の上に法律、政治制度や、宗教、芸 術、学問といった文化が上部構造として成立しているとしました。人間の 意識のあり方である上部構造は、経済的な土台である下部構造によって決 まるため、生産力が発展することで経済的な土台が変化すれば、それにと もなって上部構造も変化するとマルクスは考えます。
上部構造(人々の意識のあり方)→法律、政治、道徳、文化など人の意識のあり方
下部構造(経済構造)→各時代の生産関係による経済構造。その時代が封建的か、資本主義的か社会主義的かなどの下部構造が、人の考え方である上部構造を決定する。たとえば、「贅沢」に対する人々の意識は、中世封建制では厳禁、社会主義では平等をけがすもの、資本主義では憧れとなることが多い。つまり、人の意識が経済構造を作るのではなく、経済構造が人の意識を作る。

イデオロギー

自分の思想や信念は自分の意識が生み出したわけではなく、その時代の下部構造に決められているとマルクスは考えます。たとえば、中世封建制において贅沢は悪ですが、資本主義体制では悪ではありません。このように社会的な条件の下で共有される観念をイデオロギーと呼びます。
自分が生きている時代の生産関係を意識せずに、あたかも自分が主体的に考え出した意見のように発せられた主義主張をマルクスは疑似意識と呼んで批判しました。

唯物史観

人は衣食住のために、物を生産し続ける必要があります。そのため人は、その時代の技術レベルに見合った生産関係を結びます。すると、生産関係が土台(下部構造)となって人の意識のあり方である政治制度や文化(上部構造)が生まれます。やがて技術の進歩により生産力(生産物の供給力)が増大すると、それまでの生産関係が維持できなくなり、階級闘争が起こります。こうして時代は、奴隷制封建制→資本主義→社会主義共産主義の順で進歩するとマルクスは考えました。この ように、歴史を動かす原動力を、人の意識といった精神的なものではなく、生産力の発展といった物質的なものだと考えることを唯物史観史的唯物論)といいます。

続哲#26 ヴァルター・ベンヤミン

アウラ

芸術作品を写真に撮ったり、印刷したりした複製物は、それがどれほど精巧に作られていても、唯一無二の本物ではあり得ません。「今」「ここに」しかない本物の作品に備わっている目に見えない力のことを、ベンヤミンアウラ(オーラ)と呼びました。
近年、芸術作品はますます技術的に複製されやすくなりました。けれども実物が帯びている唯一性や歴史性などは複製物には欠落しているのです。
映画や写真などの複製芸術の登場は、芸術の概念を「崇高」で「貴重」なものから「身近」で「気軽」なものへと変えました。ベンヤミンは、複製技術の進歩によるアウラの凋落を嘆きます。しかし一方で、いくら権力が芸術、表現、情報などを管理、規制したとしても、複製技術の進歩は芸術や表現を権力から解放するとベンヤミンは考えました。

パサージュ論

ドイツ生まれのユダヤ人であったベンヤミンは、ナチスから逃れてパリにいました。そこで彼はパサージュの中の遊歩者となり、『パサージュ論』という断片集の執筆を始めます。パサージュとは19世紀のパリにできたガラス屋根の商店街をいいます。ガラス越しの淡い光の中には、様々な古道具が並んでいました。
ベンヤミンは、19世紀の人々がこれらの商品に見た夢を追想します。そうすることで、当時の人々の資本主義に対する考えを知ろうとしたのです。物や街並みから人々の意識を捉えようとするこうした手法は、後の大衆文化研究(カルチュラルスタディーズ)にも大きな影響を及ぼしました。
「パサージュは外側のない家か廊下のようだ。 夢のように」と彼は表現しました。けれども実際のパサージュの外側には、ナチスの足音がせまっていました。彼は、パサージュのぼんやりとした光に包まれた、まだナチス政権のなかった19世紀の記憶の中に逃げ込んでいたのかもしれません。
1940年、ナチスがパリを侵略。ベンヤミンは未完の『パサージュ論』の原稿を、当時パリ国立図書館に勤務していた友人の哲学者ジョルジュ・バタイユ(1897~1962)に託し、パリを脱出します。ピレネー山脈を徒歩で越えようとしましたが、国境付近で足止めされ、服毒自殺を遂げました。

哲学#55 マックス・ホルクハイマー

批判理論

「近代社会はなぜナチズムを生んでしまったのか?」この問題の解明を生涯のテーマとしたのがホルクハイマー、フロム、ベンヤミンアドルノなどのフランクフルト学派の思想家たちです。
フランクフルト学派のメンバーであるホルクハイマーやアドルノは、ファシズムの誕生や、ユダヤ人の虐殺は、近代以降続いてきた理性万能主義に原因があると考えました。
彼らは、近代以降のヨーロッパの理性は「何かを成し遂げるための道具」として発展してきたことを指摘しました。何かの目的を達成するための理性は、現実を部分的に分析するだけで、大きな視点を持ちません。
目的達成のためだけに発展してきたヨーロッパの理性は、利益追求に結びつき、ファシズムの政治政策や戦争兵器開発の道具となってしまったと彼らは言います。彼らはこうした理性を道具的理性と表現しました。
このように、フランクフルト学派の考えは、分析的な側面よりも社会批判的な側面が強いので、批判理論と呼ばれています。批判理論は現在でも、哲学、社会学、経済学などの分野に大きな影響を与えています。


哲学#46 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

言語ゲーム

たとえば、「今日はいい天気だ」という主張(言語)があるとします。この場合、今日がよい天気ならば、この主張は正しく、そうでなければこの主張は間違っているということになります。
けれども、一概にそうとは限りません。なぜなら、時と場合によって主張の意味は変わるからです。事実と言語とは1対1で結びついているわけではないのです。
私たちは、ある言語とその言語の意味とを結びつけるルールを理解し、そのルールに従って振る舞っています。こうした言語活動のルールは、実際に日常生活を送りながら習得するしかありません。社会生活とは、言語ゲームに参加することだとウィトゲンシュタインは考えました。

哲学#36 シモーヌ・ド・ボーヴォワール

第二の性

ボーヴォワールは、男性こそが人間の主体として扱われているのに対して、女性はその主体にとっての他者である第二の性の立場に置かれていると指摘しました。「女性」は、先天的にそのようなものとして生まれるのではなく、後から文化的・社会的に作られるのだと彼女は言います。

フェミニズム

男性中心主義的な社会に異議を唱え、性差別の廃止や女性の解放・権利拡張を目指す運動や思想をフェミニズムと呼びます。フェミニズムは歴史的に見て、第1波、第2波、第3波に分けられます。
第1波→19世紀~1960年代 参政権など、法的に男性と同等の権利を獲得するための運動が展開される
第2波→1960~1970年代 古い結婚観、性別役割分業などを見直し、形式だけでなく実質的な平等が求められていく
第3波→1990年代~ 性に関するアイデンティティが多様であることを前提に、「女性らしさ」や「男性らしさ」の意味が問い直される

哲学#60 クロード・レヴィ=ストロース

インセスト・タブー

あらゆる社会で、近親相姦(インセスト)はタブーとされています。レヴィ=ストロースは「未開社会」の人々と生活をともにしながら、なぜ、彼らの社会で近親相姦がタブーとなったのか、その成り立ちを調査しました。
贈与と返礼による交換は、人間社会の存続にとって根本的な要素でした(贈与論)。レヴィ=ストロースは婚姻を、他の集団との間の「女性の交換」として捉えました。近親として結婚がタブー視される女性/結婚相手にできる女性の区別は、他の集団に交換相手として贈る女性/他の集団から贈られてくる女性の区別を意味するのではないかと考えたのです。
交換の対象となるものには価値が付与されます。つまり、近親女性は他の集団に贈る(交換する)ための価値を持つ対象となります。そうであれば、近親相姦は交換の仕組みを閉ざしてしまう行為となり、タブー視されるは ずです。
西洋にも日本にも女性が嫁ぐ習慣がありますが、私たちはその習慣の本当の意味を意識してはいません。「女性の交換」に限らず、贈与と返礼の交換という習慣で社会を維持する構造は、様々な社会に見られるとレヴィ=ストロースは言います。社会の根底に横たわるこうした構造(習慣や文化)に、人間は無意識に従っているだけだと彼は考えます。

構造主義

フランス人は蝶も蛾も「パピヨン」という言葉で言いあらわします。つまりフランス人にとって「蛾」(あるいは蝶)は存在しません。このことで「蛾」という存在があるから私たちはそれに「蛾」という名前を付けているわけではないということがわかります。
まず一つ一つの要素が存在していて、それに名前が振り当てられているのではありません。私たちが世界を言語で区切ることで一つ一つの要素が存在できているのです。私たちはこの言語世界の範囲内で思考しています。このことから、人間の思考(の構造)は、自分が属する社会や文化(の構造)に無意識的に支配されているとレヴィ=ストロースは考えました。
たとえば「未開社会」と呼ばれてきた共同体に暮らす人々は、西洋とは違った世界の区切り方をしています。その区切り方で成立している社会は、西洋の「文明的」な社会と比べて、人間として遅れた発展段階にあるわけではありません。これが構造主義の考え方です。
西洋が「科学」を発展させてきたので、無意識のうちに西洋の思考を進んだものと考えてしまう。けれども「科学」は、環境破壊や大量破壊兵器を生み出した。西洋の科学的思考が、「未開社会」とされている人々の思考と比べて、進んだ思考の構造とはいえない。

続哲#32 ルイ・アルチュセール

国家のイデオロギー装置

学校、福祉、メディア、宗教などの制度は、個人の思想やイデオロギーを国家に適したように育成する国家のイデオロギー装置だとアルチュセールは考えました。国家のイデオロギー装置で作られた個人は、いつしかみずから進んで国家に服従し、今度はイデオロギーを作る側にまわると彼は言います。
国家の装置は、抑圧装置(軍隊、警察など)とイデオロギー装置(学校、宗教、メディアなど)からなる。

哲学#64 ジャン=フランソワ・リオタール

ポストモダン

資本主義経済の発達や科学技術の進歩、民主主義の定着によって、世界は近代(モダニティ)の時代を迎えました。そして近代化を推し進めれば、封建的な古い秩序は塗り替えられ、世界に普遍的な(全人類に共通した)正義や幸福がもたらされると信じられていました。
けれども、核兵器の開発や大規模な環境破壊などが進み、近代化の限界が明らかになると、人々が近代化に託していた普遍的な価値に対して疑いの目が向けられます。リオタールはこれを大きな物語の終焉と呼びます。現代は、差異や多様性を認め合い、不確定なものを肯定し、それらが共存する道を模索しようとするポストモダン(近代の後)の時代だと彼は言います。

哲学#62 ミシェル・フーコー

生の権力

中世の君主は人々に死を与える権力(死の権力)で支配を成立させていました。けれども近代(資本主義)の権力は逆に、人々を生きさせる生の権力(生-権力)であるとフーコーは言います。生の権力は、学校教育や軍隊の訓練によって人々を効率的に調教し、また医療や保険などを整備して人々がより健康で安全に生きられるよう管理します。人々の身体と生命を「生かす」方向に権力が行使されているのです。
18世紀以前・死の権力→絶対的な権力者が死刑の恐怖を与えることによって、民衆を支配していた
19世紀以降・生の権力→人々を生かす方向で権力が行使されている。一見すると人々に優しい姿をしているが、人々を資本主義社会に適合させるための効率的な管理体制

パノプティコン

近代社会(資本主義社会)の権力は、支配者が上から押し付ける構造ではないとフーコーは考えました。彼によれば、近代社会の権力は、人々が社会生活の中で自分から規律に従っていく構造になっています。こうした権力のあり方を彼はパノプティコン(一望監視装置)という監獄にたとえます。
パノプティコンのように、つねに監視されているという意識から、自分から進んで規律に従順になっていく仕組みは、監獄に限らず会社や学校、病院など日常生活のあらゆるところに浸透しています。
日常のバノプティコン効果によって、人々はいつしか資本主義社会の矛盾に疑問を持たなくなります。そして自分たちとは異なる価値観を持つ人物を異物として排除していくようになるとフーコーは言います。

哲学#65 ジャン・ボードリヤール

記号的消費

生活必需品が普及し尽くしても、商品が売れなくなるわけではありません。その後に訪れる消費社会では、人々は何かを購入するとき、その商品の実質的な機能を購入するのではなく、他者との差異化のための記号(情報)を購入します(記号的消費)。消費行動は人々の個性やセンスを示すものとして機能し始めるのです。
高度消費社会を迎えた現代では、絶えず商品が発売されて新たな記号が生み出され、他の記号(商品)との間に差異を生じさせ続けます。人々は差異を求め続けるので、この消費行動には終わりがありません(差異の原理)。人々の欲求はもはや個人の主体性によって発せられているのではなく、この記号のシステムによって駆動されているのです。
現在、差異を生み出す記号はファッションブランドはもちろん、「シリアルナンバー」「エコ・ロハス」「有名人の愛用品」「ヴィンテージ」「会員制/少人数制」「商品の持つ歴史や物語」など多岐にわたります。

シミュラークル

現代は記号を消費する時代であるとボードリヤールは考えました(記号的消費)。記号とは本来、現実に存在するオリジナルを模倣した模像です。けれども、そうした模像が作られていく中で、オリジナルを持たないものがいくつも作られています。
たとえば仮想の世界設定で作り込まれたコンピュータ上のデータは、現実を代替するものではあるものの、模倣されるもとになったオリジナルが存在しません。ボードリヤールはオリジナルのない模像をシミュラークルシミュラークルを作り出すことをシミュレーションと呼びました。
そしてオリジナルな模像が現実に作られると、何がオリジナル(現実)で何が模像(非現実)なのかわからなくなります。現代社会はそのような環境に取り巻かれています。ボードリヤールはこうした状態をハイパーリアルと呼びました。

哲学#56 ユルゲン・ハーバーマス

公共圏

ハーバーマスは18世紀のイギリス、フランス等の都市で広まったコーヒーハウスに着目しました。コーヒーハウスでは異なった階層の人々が対等に議論する公共圏(市民的公共圏)が生まれていたと指摘します。
コーヒーハウスでの討論は新聞などの活字メディアで紹介されます。そして活字メディアをもとにまたコーヒーハウスで議論が積み重ねられます。このプロセスによって公権力に批判的な意見が形成されるという流れが公共圏です。公権力に対抗する力を持たなかった公衆が、公共圏の成立によって、公権力に対抗する力を持つことができるようになったのです。
けれども、メディアの中心が活字からテレビになると、状況は一変します。
公共放送は政府のプロパガンダを一方的に放送します。また民間放送は、スポンサー企業にとって都合のよい情報しか提供しません。大衆はそれらの情報をただありがたがるだけだとハーバーマスは言います。テレビの普及にしたがって、公共的な討論を生む公共圏は廃れていきました。
近年、インターネットの普及により、公共圏に似たものが復活しました。ただし、インターネットは顔の見えない人同士の無責任な独り言が浮いているにすぎず、公共的な討論の場とはいえないという見解もあります。

コミュニケーション的理性

初期のフランクフルト学派は、理性を自然や人間を支配するための道具にすぎないと考えました(道具的理性)。けれどもフランクフルト学派の2世代目にあたるハーバーマスは、理性にはコミュニケーション的理性(対話的理性)もあると主張します。
相手に自分の意見を押し付けるための道具としての理性ではなく、お互いの合意に達する対話のための理性もあるとハーバーマスは考えたのです。ただしこうした対話のためには、発言の機会が平等に与えられた公共圏のような状況を確保する必要があります。

生活世界の植民地化

ハーバーマスは、コミュニケーションを最も理想的な行為と考えました。そして日常的なコミュニケーションのために、発言の機会が平等に与えられた世界を生活世界と名付けました。
けれども資本主義社会である現代は、経済の仕組み(システム)が人々の行動や地位を自動的に決めてしまっているので、コミュニケーションによる合意で物事を決める機会はめったにありません。こうした状況を(経済)システムによる生活世界の植民地化とハーバーマスは呼びました。

哲学#71 エドワード・サイード

オリエンタリズム

近代西洋社会は、東洋(オリエンタル)の社会を、自分たちとは異なる存在とみなしてきました。その視線は西洋を文明の中心とし、東洋を支配の対象とするような考え方を含むものでした。サイードは、この西洋中心主義的な姿勢をオリエンタリズムと呼びます。
オリエンタリズム的な視線は、怠惰で好色、非論理的などのイメージで東洋を捉えます。その見方は、西洋こそが世界を正しく理解でき、東洋のこともよくわかっているという考えにつながり、東洋の植民地支配を正当化するものになりました。
西洋と東洋という区分自体、自然なものではなく、西洋が自分たちの文化や価値観を中心にして作り上げた線引きにすぎません。

哲学#70 ジュディス・バトラー

ジェンダー

生物学的な性差をセックスと呼ぶのに対して、社会的・文化的に作られた性差をジェンダーと呼びます。ジェンダーには「女性は社会に出てはいけない」といった社会的なメッセージを含むことが多くあります。ジェンダーという概念を知ると、「女らしさ」や「女性は家事が得意」といった発想が、男性優位な社会に捏造されたものにすぎないということが見えてきます。
そして生物学的な性差であるはずのセックスもまた、その視点には社会的に作られた要素が多分に含まれています。たとえばセックスの「男/女」という単純な二分法はセクシャルマイノリティが考慮されていません。
また、鳥類や爬虫類などがオスメスの区別に着目した名称ではないのに対して、人間の属性である「哺乳類」には母性を感じさせる言葉が採用されています。このように生物学的、科学的な用語にも、女性の社会的な立場が暗に結びつけられています。ジェンダーは、こうしたことを気づかせる重要な概念だとバトラーは言います。

作品#05「コスモス 社会学用語図鑑トレカ」62枚(6) #51-#62

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#51 Robert David Putnam ロバート・パットナム

社会関係資本

近隣住民同士の関わりを深めて、地域のネットワークを密にすれば、治安もよくなって犯罪も減り、統治の効率もよくなるとパットナムは考えました。善意や共感に基づく個人間の信頼関係は、自分にとってだけでなく、社会全体にとっての資本(財産)になると彼は言います。これが社会関係資本ソーシャルキャピタル)という概念です。
かつてブルデューは、社会関係資本を個人に宿る文化資本の一部として捉えました。ブルデューにとって社会関係資本は「個人の人脈」を意味したのです。これに対してパットナムは「社会にとっての資本」の側面に注目したといえます。

#52 Jock Young ジョック・ヤング

包摂型社会/排除型社会

1960年代頃までの社会は、労働と家族という2つの領域に大きな価値が置かれていました。そしてこの2つの領域を軸にした、同じような生活スタイルや価値観をみんなが共有していました。だからこそ、社会から逸脱する人がいたとしても、その人を共通の価値観へと包摂していこうという風潮がありました(包摂型社会)。
ところが1970年代になると、人々の生活スタイルも価値観も多様化していきました。共通の価値が失われると、自分が信じる価値が社会の多数派に認められていると信じることが難しくなります。すると、異質な人たちを排除・否定することで、自分や自分の属する集団の価値を高め(信じ)ようとするようになるとヤングは考えました(排除型社会)。

#53 Manuel Castells マニュエル・カステル

集合的消費

人口が増えて都市化が進むと、道路、公園、学校、病院などの整備を急ぐ必要があります。これらの生活基盤は、対価を払わなくても使用(消費)し続けることが可能でなくてはなりません。よって市場だけで供給し続けることが難しくなります。そこで国家が担うことになります。
こうしたサービスのあり方を集合的消費と呼びます。カステルは、都市化とは、消費の中心が個人的消費から集合的消費へと向かう過程であると考えました。集合的消費が増えると、集合的消費を担う国家は市民の日常生活を一元的に管理・支配できることになります。
こうした国家権力が暴走した場合、グラスルーツ(草の根=一般市民)の積極的な社会運動(都市社会運動)が必要だとカステルは主張しました。

#54 Gayatri Chakravorty Spivak ガヤトリ・C・スピヴァク

サバルタン

サバルタン(従属的社会集団)は、植民地支配の統治下に置かれた人々をあらわす言葉として使われてきました。インド出身のスピヴァクはそうした人々の中でも特に女性に注目して、サバルタンという言葉を用います。
植民地の人々は、世界システムという構造の中で、ただでさえ搾取される立場に置かれています。それなのに、植民地の内部では男性中心主義的な性質も根付いてしまっています。サバルタンの女性たちは二重に疎外された存在となっているのが現状です。
彼女たちはみずからが置かれている立場を客観的に把握するための場にアクセスできません。また彼女たち自身の方法で抵抗をしたとしても、それが抵抗として認識されることもありません。さらにスピヴァクは、サバルタン当事者ではない人間が、自己満足ではなしに、サバルタン当事者を支援したりその声を代弁することが、いかに難しいかを指摘します。

#55 Mark Granovetter マーク・グラノヴェッター

弱い紐帯

ラノヴェッターは、労働者たちに現在の職を得た方法を聞く調査を行い ました。その結果、親や親戚(強い紐帯)よりも、弱い関係(弱い紐帯)にある人からの情報の方が職を得るのに有益な傾向がありました。
強い紐帯関係の人は、自分と同じ情報や交際範囲を持つことが多いのに対して、弱い紐帯関係の人は自分とは異なった情報を感知している傾向が強くなります。未知の情報を得ることで自分が成長するには、弱い紐帯が重要だったのです。

#56 Richard Sennett リチャード・セネット

公共性の喪失

政治家が政策ではなく、人柄や私生活の振る舞いによって評価されることは少なくありません。こうした例のように、公的なことでも私的な感情によって評価される現代社会の傾向をセネットは公共性の喪失と呼びます。彼によると、公共性は18世紀の都市で生まれましたが、資本主義が進むにつれて失われていきました。
公共性の喪失によって、私的な感情と公的な生活とのバランスを保つことが現代人にはできなくなってしまいました。自分の欲望と社会全体の利益の区別ができない現代人のこうした心理状態をセネットはナルシシズムという言葉で表現しています。
18世紀、人々は、家庭内での振る舞いとは異なる公的な場での公的な振る舞い(公共性)も大事にしていた → 資本主義社会という公的領域よりも家庭という私的領域こそが個人を守るという感覚が生まれ人々は公共性を大事にしなくなっていった
内部指向型から他人指向型へ移行するというリースマンの説は順序が逆であるとセネットは言う

#57 Ulrich Beck ウルリッヒ・ベック

リスク社会

原発事故に象徴されるように、高度な科学技術がもたらすリスクは、危険の程度を実際に知覚することが難しく、いつ誰に降りかかるか予測できません。現代型のリスクは、高い階級や特定の地域の人々だから安全であるとはいえないのです。近代化にともない、すべての人が見えないリスクにさらされているとベックは主張します。
こうしたリスク社会に対応するため、中央政府にすべてを任せるのではなく、人々が科学技術などへの意識を高めて、それぞれの現場で問題解決の道を探る動きが台頭し始めました。ベックはこれをサブ政治と呼びます。
中央政府や特定の専門家に未来を丸投げする時代は終わりました。どういう世界が「善い世界」なのかをこれからは自分で考えなくてはなりません。私たち一人ひとりの価値観が、今後の世界のあり方に大きく関わっているとベックは言います。

#58 John Urry ジョン・アーリ

観光のまなざし

観光地において、観光客は自分があらかじめ持っているその土地のイメージをそこに探そうとします。アーリはこれを観光のまなざしと呼びました。また、観光客を受け入れる側も、観光客のまなざしを意識することで、自分たちの伝統や文化を再認識せざるを得なくなります。結果、観光のまなざしが求めるような対象物を生み出し続けていくことになります。
さらに観光地がグローバル化すると、もともとその土地になかったはずの建造物や風景を、観光のまなざし的なイメージに合わせて、新たに作り上げるという事態も起きます。観光地は過剰に演出され、伝統や文化はもち ろん、観光される土地の人々のアイデンティティをも変えていきます。

#59 David Lyon デイヴィッド・ライアン

監視社会

日常の様々な場面で、私たちの振る舞いは個人データとして記録されています。そして収集されたデータは、いつどこで誰がどのような目的で使用するのかわかりません。ライアンは本人に影響を与えるような個人データの収集行為はすべて監視だと言います。彼はこれまでの監視社会(パノプティコン)とは異なる、新しい監視社会を現代に見いだしました。
監視の対象は生身の人間ではなく、人間の断片的な事実です。新しい監視社会において、A君とは、A君の身体のことではなく、A君に関する情報(データ)の集まりをさすことになりました(身体の消失)。
こうした監視は、人々を管理する側面もありますが、同時に人々の生活を守る側面もあります。たとえば監視によって集積されたデータがあるからこそ、病院で適切な診断や治療をすばやく受けることができます。
人々が、効率化や安全を求める以上、テクノロジーの進歩とともに監視社会は加速していくとライアンは考えます。

#60 Eve Kosofsky Sedgwick イヴ・セジウィック

ホモソーシャル

ホモセクシャルは同性間の性的な関係を示す言葉として用いられますが、対してホモソーシャルとは同性間の性的でない絆をあらわす言葉です。セジウィックは、男性間のホモソーシャルには単に性的か否かだけではない問題があることを見いだしました。
男性間のホモソーシャルな関係が築かれる中で、しばしば女性は男性たちにとって異性愛の対象としてのみ存在します。セジウィックはそうしたホモソーシャルな絆の中に、ミソジニー女性嫌悪・蔑視)や、ホモフォビア(同性愛者嫌悪)、またパターナリズム(家父長主義)的な女性支配の構図が含まれていることを指摘しました。

#61 Dick Hebdige ディック・ヘブディジ

サブカルチャー

自分が所属している社会の多数とは価値観が異なる文化をサブカルチャーといいます。
日本語の「サブカル」は、個人が自由に選択する少し変わった趣味趣向という意味で用いられることがありますが、社会学者のヘブディジはサブカルチャーを「社会の多数派ではない人同士が集まって作る文化」だとしています。
サブカルチャーは、大勢がよしとするハイカルチャー(上位文化)やポップカルチャー(大衆文化)などのメインカルチャーとは違う価値の置き方を人々に提示することができると彼は言います。

#62 Michael Hardt マイケル・ハート

<帝国>

大きな国家が軍事力をもとにして、他の小さな国や地域へと領土を広げていく政策は帝国主義と呼ばれてきました。また、軍事・経済・文化などで強い影響力を持つアメリカを比喩的に「アメリカ帝国」と呼ぶこともあります。いずれも、帝国とは、ある強大な国が勢力を拡大していくものでした。
それに対してネグリとハートはグローバル化が進む現代の新しい権力のあり方を〈帝国〉というキーワードで表現します。〈帝国〉はかつての帝国主義のように、特定の強国が中心となるわけではありません。資本主義のもとで、多国籍企業国際連合世界銀行などが国境を越えて結びついた中心を持たないネットワーク状の権力が 〈帝国〉です。グローバ ル化を牽引するアメリカさえも〈帝国〉の内にあり、中心ではありません。
〈帝国〉は日常生活の至る所に浸透し、人々を資本主義に順応させるために、人々を管理・育成しています。けれども〈帝国〉に対抗する民衆の力もまた〈帝国〉の持っている性質の内側から生まれます。ネグリとハートはそれをマルチチュードと呼びます。

マルチチュード

ネットワーク状のグローバルな権力である〈帝国〉は、人々を資本主義に順応させるように管理しています。けれども〈帝国〉が持つネットワークという性質は、世界中の人々とつながることも可能にします。であるならば、世界中の多種多様な民衆が、このネットワークを利用することでつながり合えば〈帝国〉に対抗できるとネグリとハートは考えました。
ネグリとハートはこのような多種多様な民衆をマルチチュードと呼びます。居住地や性別、職業、宗教などの垣根を越えて、人々がネットワーク状につながり、資本主義が引き起こす問題点を一つひとつ解決しようとする力がマルチチュードです。
〈帝国〉の本質であり最大の武器であるネットワークそれ自体を利用して多種多様な民衆が結託すれば、〈帝国〉すなわち資本主義の矛盾に対抗できるとネグリ&ハートは考えた。このように〈帝国〉の内側から生まれ、帝国そのものへ抵抗する多種多様な民衆をマルチチュードという。

作品#05「コスモス 社会学用語図鑑トレカ」62枚(5) #41-#50

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#41 Howard Saul Becker ハワード・S・ベッカー

ラベリング理論

犯罪などの逸脱行為について考えるとき、行為者に注目するのではなく、その人に対して周りが「この人は逸脱者である」というラベルを貼りつける過程(ラベリング)に注目する考え方をラベリング理論といいます。まず注目すべきは、「何が逸脱(異常)であるか」 はあらかじめ決まっているのではなく、時代や社会が決定するという点です。
つまり逸脱(犯罪や不良)は、行為そのものに付随しているのではなく、周り(社会)の意識の中にあります。そして、逸脱行動を起こした人に対して、周りが「逸脱」のラベルを貼ると、貼られた人は逸脱者としてのアイデンティティを作り上げてしまいます。すると周りはますますその人を遠ざけ、その人の逸脱行動はさらに増えていくことになります。人々(社会)は、それを行えば逸脱となるようなルールを作り、誰かにラベルを貼ることでそれを適用し、逸脱を生み出し続けているのです。

#42 Peter Ludwig Berger ピーター・L・バーガー

社会構築主義

「現実」或いは「常識」は、社会によって構築されるという主張。
社会構築主義の焦点は、個人や集団がみずからの認知する現実の構築にどのように関与しているかを明らかにすることである。このため、さまざまな社会現象が人々によってどのように創造され、制度化され、慣習化していくかが問われることになる。社会的に構築された現実は、絶え間なく変化していく動的な過程として捉えられる。現実を人々が解釈し、認識するにつれて、現実そのものが再生産されるのである。バーガーとルックマンによれば、全ての認識は、日常生活の常識扱いされ軽視されているものまで含めて、社会的相互作用を基にして構築され、維持される。人々は相互作用を通じて、互いの現実認知が関連していることを理解する。そして、この理解に立って行動する時、人々が共通して持っている現実認知が強化される。この常識化した認識が人々によって取り決められると、意味や社会制度が客観的現実の一部として現れるようになる。この意味で、現実とは社会的に構築されたものである。
社会的構築主義に立つ理論家にとって、社会的構築物とは、それを受け容れている人々にとっては自然で明白なものに思えるが、実際には特定の文化や社会で人工的に造られたにすぎない観念を指す。
伝統的な知識社会学理論に従うなら、ある社会階級(社会階層)が現実だと思っているものは、その階級の状態に由来する。例えば資本家であるか労働階級に属するかに応じて、特にその階級に作用する経済的基礎との関連で、現実認知が変わる。古典的知識社会学理論を定式化したカール・マンハイムが提起した立場によれば、知識人は他の階級とは違って、社会的立場によって課される拘束から一定程度自由な、特殊な地位を占めている。
アントニオ・グラムシヘゲモニー理論は、今日の社会構築主義理論にとって先駆であり、またそれを拡充してくれるものでもある。グラムシマルクス主義者であり、階級間の不平等がどのようにして維持されるか、そしてその過程において認識が果たす役割は何か、といったことに興味を持っていた。マルクス自身も、階級構造の維持にとって認識が重要な役割を果たすということを認めていた。マルクスによれば、社会に広まっているイデオロギーは往々にして支配的階級のイデオロギーであり、社会構造からもたらされる虚偽意識によってプロレタリアートが抑圧されている。以前のマルクス主義の論者がヘゲモニーを政治的イデオロギー的な主導権という意味で用いていたのに対して、グラムシはそれをイデオロギー的優位という意味に理解し、日常の常識的な認知をめぐるものにまで拡張させた。グラムシによれば、支配的階級の関心は政治やイデオロギーに反映されるだけではなく、常識扱いされる取るに足らない認知にも反映される。ブルジョワジーの関心を自然的で不可避なものとして擁護するある種の常識を受容することを通じて、プロレタリアートが支配されることに「同意」するのである。
ディスクールおよび(ディスクール形成)についてのミシェル・フーコーのよく知られた主張も、社会構築主義の理論に貢献すると思われる。
構築主義の立場は要するに「本質的で客観的な真理」は人間にとっては直接観察不能であり、何らかの枠組みによって観察されざるをえないのであるから、問題はどのような社会的枠組みに依拠しているのかといった足場に向かう議論である。

#43 Pierre Bourdieu ピエール・ブルデュー

文化資本

資本というと、通常はお金がイメージされます。けれども人間が社会生活をする上で有益となるのは、お金だけではありません。知識、習慣、人間関係、趣味なども、その人の立場に利益・不利益をもたらす資本です。ブルデューはこうしたお金以外の資本を文化資本と呼びます。
たとえばクラシック音楽は、正統な文化として社会的に高い評価を受けていて、なおかつ鑑賞に一定の教養が必要です。このような趣味の場合、親がそうした趣味を持っているかどうか(自然とそれらの趣味に触れられるか)が、本人がそれを趣味とするかどうかに大きく影響します。文化資本の有無は本人の努力というよりは、育った環境に大きく左右されてしまいます
そうして得た文化資本は、①客体化された文化資本(絵画、骨董品など)、②身体化された文化資本(言葉使い、所作など)、③制度化された文化資本(学歴、資格など)の3つの具体的なかたちとなり、その人の社会生活に有効に働いていきます。
文化資本が親から子へと受け継がれることで、世代がかわっても社会的な地位が再生産されていくことを文化的再生産と呼びます。表向きは平等な能力主義が謳われる現代社会でも、実際には、本人の能力だけでは得ることが難しい 「正統な文化」という隠れた資本が脈々と引き継がれています。

ハビトゥス

心的な文化資本ハビトゥスという。
人間は日常的な営みの中で、本人も意識しないうちに言葉遣いや考え方、センスや振る舞い方などを身につけていきます。ブルデューは人間の中に形成されたそれらの心的傾向をハビトゥスと呼びます。
ハビトゥスは人間が長い期間をかけて無意識的に身につけていくものです。ある社会階級や特定の場になじむためには、その場において共有されているハビトゥスを身につけていなければなりません。お金は努力次第で手に入れることもできますが、たとえば「貴族のハビトゥス」は、 残念ながら貴族でなければ手に入れることはできません。

#44 Immanuel Wallerstein イマニュエル・ウォーラーステイン

世界システム

先進国と発展途上国との経済格差は南北問題と呼ばれます。このような問題を捉えるには、国家という単位ではなく全世界を1つの大きなシステムとして見る視点が必要です。ウォーラーステインは地球規模の世界システムを中核・半周辺・周辺の3つの地域に分けて考察しました。
中核にあたる地域は、周辺地域が生産する原材料を搾取することで潤っています。つまり中核・半周辺・周辺はちょうど、資本家階級・中間階級・労働者階級に相当します。ウォーラーステインは世界を国際的な分業体制として捉え、これを世界システムと呼びました(世界システム論)。 国家を単位とするのではなく世界規模で資本主義が動いていると考えると、発展途上国の貧困と、先進国の経済発展との関係が見えてきます。

#45 Mancur Lloyd Olson Jr. マンサー・オルソン

フリーライダー

コストを払っていない人が、公的サービスの恩恵を受けている状態をフリーライダーといいます。いわば他人のコストの上にタダ乗りしている状態です。たとえそのサービスの大切さは十分理解していたとしても、人間は目先の合理性を追求してしまうため、自分だけが得をする選択をしてしまうのです。
個人が自分の利益だけを追求したら、社会全体の利益になりません。こうした社会的ジレンマを避けるためには、人々がコストを負担したくなるシステムをいかに作れるかが鍵になります。

#46 Stuart Hall スチュアート・ホール

エンコーディング/デコーディング

ニュースや新聞などの情報には、情報の送り手の価値観や、イデオロギーが多分に含まれています。送り手が情報を放送や記事にする過程(エンコーディング)で、自分の価値観を無意識に取り入れてしまうからです。また、受け手が情報を受け取る過程(デコーディング)においても、受け手の価値観が作用します。送り手の情報と受け手の情報は同じではなく、それぞれが独立して存在しているのです。
①支配的位置=送り手の解釈を受け手がそのまま受け取る立場
②折衝的位置=送り手の解釈を認めながらも、受け手自身の解釈も取り入れる立場
③対抗的位置=送り手の解釈とは対立する立場
ニュースや新聞などのメディアに触れる行為とは、メディアの送り手に従うだけの受動的な行為ではなく、もっと能動的かつ自由な行為であるはずだとホールは言います。

カルチュラル・スタディーズ

カルチュラル・スタディーズ (Cultural studies) は、20世紀後半に主にイギリスの研究者グループの間で始まり、後に各地域へと広まって行った、文化一般に関する学問研究の潮流を指している。政治経済学・社会学・社会理論・文学理論・比較文学・メディア論・映画理論・文化人類学・哲学・芸術史・芸術理論などの知見を領域横断的に応用しながら、文化に関わる状況を分析しようとするもの。日本語に直訳すれば「文化研究」あるいは「文化学」だが、日本国内ではもっぱら「カルチュラル・スタディーズ」と表記される。

#47 Benedict Richard O'Gorman Anderson ベネディクト・アンダーソン

想像の共同体

アンダーソンによれば、国家や国民という概念は、古くから存在していたわけではありません。
中世以前の人々は、自分たちの領主のことは知っていても、領主らが中央で束ねられて国家という形を成しているという認識はありませんでした。
ところが18世紀以降、印刷技術が革新されて、書物や新聞などのメディアが広がり始めました。すると、「自分と同じものを大勢の人たちも読んでいるのだ」という発想が人々の中に生まれました。それにより一定の土地をともにする同士としての感覚が生まれ、国家や国民という認識が形成されたのだとアンダーソンは考えます。
アンダーソンによると、見ず知らずの人たちを国民同士と認識するのは、その人たちと共同体をともにしていると想像しているからです。彼は国民や国家のことを想像の共同体と呼びました。

#48 Anthony Giddens アンソニー・ギデンズ

脱埋め込み

近代以前、人は限られた範囲の空間で生活していました。そこではその地域のみに通じるローカルな時間の計り方がありました。人々の居場所は、自分たちだけの時間感覚によって成り立つ、ごく地域的な共同体だったのです。ところが技術の進歩によって、世界全体に共通の時間が生まれると、それまで結びついていた時間と空間の分離が起きました。
また、通信技術や輸送技術が進歩したことで、遠く離れた者同士の相互行為は増大しました。すなわちグローバル化です。
このように、限られた時間と空間の中にいた人間たちがローカルな脈絡から引き離され、無限の広がりの中に放たれることをギデンズは脱埋め込みと呼びました。
人々が無限の広がりの中に放たれると、それまで自分の行動の拠り所にしていたローカルな習慣や規範、そして価値観が絶対ではなくなります。必然的に、自分で自分を絶えず更新し続けなくてはならなくなります。こうして近代は再帰性の時代となります。

再帰性

私たちは、過去の自分の行為を振り返り、それで得られた知識に基づいて次の行為を決めています。このように、過去の行為を反省的に問い直して、自身の行為に反映させる性質を再帰性といいます。ギデンズは、再帰性こそ近代社会((資本主義社会)の特性であると考えました。近代以前の人々は、自分の外部にある習慣に従って行動しさえすればよかったのです。
現代の行為の特徴は再帰性→今は、過去の自分の行為を絶えず点検し、それを次の自分の行為に反映させながら自分の行為をつねに変化させていかなくてはならない(再帰性とは、過去の行為が後の自分に影響すること)。

構造化理論

社会には守るべきルール(規範)があります。倫理的に守るべき振る舞いや慣習あるいは言語の文法などです。ギデンズはそれらを構造という単語で表現します。構造(守るべきルール)は、人が行為するときの前提条件です。ただし近代において、その構造は変化していくとギデンズは言います。
かつてパーソンズは、社会には、変化しない普遍的な構造があると考えました(AGIL図式)。けれどもギデンズは、社会の構造(守るべきルール)をパーソンズのように固定的なものとして捉えません。そうではなく、人々が行為することで、その行為を決定している構造自体が新たに再生産されていくと考えます。
この新たな構造(ルール)が生まれていくプロセスを掴むことこそ、社会学のなすべき課題であるとギデンズは考え、こうした立場を構造化理論と呼びました。

再帰的近代

リオタールは、現代をポストモダンと捉え、近代は終焉したと考えました。けれどもギデンズとベックにとって近代は終わってはいません。彼らにとって現代は、近代の特性である再帰性(過去の行為が後の自分に影響すること)をより徹底させている時代(近代が近代化する時代)です。彼らは、再帰性を特性とする近代を再帰的近代と呼びます。

#49 George Ritzer ジョージ・リッツァ

マクドナルド化

マクドナルドに代表されるファストフード店は、効率性の高い合理的なシステムを追求しています。リッツァはこうした規格化、マニュアル化の傾向をマクドナルド化と呼び、今や社会のあらゆる領域でマクドナルド化が進行していると指摘します。
マクドナルドの4つの特徴
①計算可能性 ひとめでわかる量と値段と提供までの時間
②予測可能性 マニュアル化された運用と接客でいつでもどこでも誰にでも同じメニューとサービスを提供
③効率性 マニュアル化された運用と接客で効率よく商品を提供
④コントロール性 マニュアル化された接客で従業員をコントロール。またセルフサービスと最低限の設備で客の動向をコントロール
マクドナルド化は新しい変化というよりは、産業革命以降ずっと続いてきた合理化の一環だとリッツァは言います。かつてウェーバーは、社会の合理化は避けることができないと主張しました。だとすると、社会全体のマクドナルド化は避けることはできません。

#50 Arlie Russell Hochschild アーリー・ラッセル・ホックシールド

セカンド・シフト

近代の家族は、男性が賃労働をするために、女性が家事労働を担うことによって成り立ってきました。ところがこうした性別役割分業の習慣は、たとえ夫婦共働きであったとしても、女性がいざ家庭に戻ると、家事労働に従事せざるを得なくなります。女性は、賃金が支払われる労働であるファースト・シフトのすぐ後に、家事労働であるセカンド・シフトをする羽目になってしまうのです。こうした現状では、雇用者にとって女性は使いづらい存在となってしまい、 男女雇用の不平等を引き起こしているとホックシールドは言います。

感情労働

商店での接客、教育機関、医療など、現代社会は対人サービスが必須な職業であふれています。対人サービスは、肉体の労働以上に感情のコントロールが必要です。ホックシールドはこうした労働を感情労働と呼びます。
感情労働には、表面だけの丁寧さですむ場合もあれば、心から感情を込めなければならない場合もあります。特に、相手に深い共感を持たざるを得ない医療や介護の専門職の場合、労働者は過度なストレスを呼び込み、燃え尽きてしまうことがあります(バーンアウト)。感情労働には、真の充実感と過度なストレスの2つの側面があると自覚することが重要です。

作品#05「コスモス 社会学用語図鑑トレカ」62枚(4) #31-#40

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#31 Michael Young マイケル・ヤング

メリトクラシー

近代社会(資本主義社会)では、生まれや家柄ではなく自分自身の能力によって社会的な地位が決定されるようになりました。このように個人の能力が地位や権力を決定する社会や状況のことをヤングはメリトクラシーと呼びました。
メリトクラシーのように、生まれではなく個人の能力が社会的地位を決める世の中は、平等で望ましいように思えます。けれども能力による選別が絶対的なものになると、新たな格差や支配構造を生んでしまいます。ヤングはメリトクラシーという言葉を用いて、能力主義の行きすぎに警鐘を鳴らしました。

#32 Charles Wright Mills チャールズ・ライト・ミルズ

パワーエリート

第二次世界大戦後、アメリカには「豊かで、人々が自律的な、理想的な民主主義社会」というイメージがありました。
けれども実際のアメリカは、経済・軍事・政治の3分野の支配層であるパワーエリートたちが連合して権力を握っている国です。そのため一見能動的に見える大衆は、政治を制御していけるような力を持っていないとミルズは主張しました。アメリカの真の姿は、少数のエリートが支配する典型的な階級社会なのです。
真のアメリカの姿は、パワーエリートたちの私利私欲と、それに擦り寄る中間層(大企業の役員、中小企業の社長なども含まれる)と、それらに疑問を持たない労働者でできているとミルズは考えた。


#33 Harold Garfinkel ハロルド・ガーフィンケル

エスノメソドロジー

人々の行為や会話(言語)の方法は、属している社会によって異なります(言語ゲーム)。ならば、人々が当り前に行っている会話や行為の方法を調べれば(共通認識を調べれば)、その人たちが属している社会の本質が見えるとガーフィンケルは考えました。こうした考えに基づく会話や行動の分析はエスノメソドロジーと呼ばれ、現在でも盛んに行われています。

#34 Ralph Gustav Dahrendorf ラルフ・ダーレンドルフ

コンフリクト理論

ダーレンドルフは、一見、社会の均衡を脅かすかに見えるコンフリクト(抗争・対立)という要素の重要性に着目します。権力を持たない側の人々が権力側に対抗することで、権力側に修正を加えることができるからです。資本家対労働者といった立場の違う人たちのコンフリクトによって、社会が変化・改善されていくという彼のような考えをコンフリクト理論といいます。
また、ダーレンドルフは、AGIL図式のような社会システムに決定された役割に従うだけの人間をホモ・ソシオロジクス(社会学的人間)と呼んで批判しました。



 

未来へ

#35 Erving Goffman アーヴィング・ゴッフマン

スティグマ

ラベリングには、よいイメージのラベルと、悪いイメージのラベルがあります。このうち社会から望ましくないとみなされる悪いイメージのラベルをゴッフマンはスティグマ(烙印)と呼びました。
属性や特徴そのものがスティグマではない。よって「スティグマを持つ者」は実在しない。「スティグマを押す」とは、ある社会の中で、ある属性や特徴を差別すること。
スティグマは社会が生み出します。ですからスティグマを押された人や集団に対する偏見を、社会が正当化していることが多くあります。

ドラマツルギー

私たちはしばしば、他人に好印象を与えるような振る舞いを意図的に行います。こうした振る舞いを自己呈示または印象操作といいます。この振る舞いを演技と捉え、日常生活を舞台にした演技者としての人々を考察するのがゴッフマンのドラマツルギーという視点です。
日常における人前での演技は、自分を思い通りに見せたいという個人的な欲求のためだけにあるのではありません。上司と部下、先生と生徒など、互いが自分の役割に沿った振る舞いをすることで、「職場」や「授業」といった自分の置かれている場の秩序が成り立ちます。私たちは、演技者として、また演技を受け取るオーディエンスとして、共同作業しながら社会を成り立たせているのです。
私たちはしばしば、混み合った電車やエレベーターの中で、お互いに他人を意識していないような演技をします。こうした儀礼的無関心も日常の秩序を保つ相互作用の1つです。
人間同士が役割を演じ合うことで、社会を成立させているとするドラマツルギーの視点は、人間同士の相互行為が社会を成立させているとするブルーマーのシンボリック相互作用論の発展型だといえます。


#36 John Itsuro Kitsuse ジョン・I・キツセ

構築主義

現在、児童虐待ドメスティックバイオレンスセクシャルハラスメントなどが社会問題となっています。けれども50年以上前は、これらの問題は存在しませんでした。それが問題であるという認識が人々になかったからです。
社会の中にある問題は、あらかじめ客観的に存在しているわけではありません。人々がそれを「問題である」と言語にしたとき、その事実は生まれるのだとスペクター(1943~)とキツセは言います。
キツセらのように、事実とは言語によって縁取られることで構築されると考える立場を(社会)構築主義といいます。たとえ何か問題が起きていたとしても、誰かが言葉にしない限り、それは現実ではありません。
構築主義はベッカーのラベリング理論から発展。

#37 Nathan Glazer ネイサン・グレイザー

エスニシティ

1つの社会や国家を構成する人々は、皆同質というわけではありません。その社会を構成する人々でありつつも、独自の帰属意識や文化を持つ集団をエスニック・グループと呼びます。そしてエスニック・グループが存在している状況やエスニック・グループの性質をエスニシティといいます。
地域間の移動が日常的になったことによって、移民・出稼ぎ・亡命・難民などの人々が行き交い、様々な国が多民族国家となりました。そうした背景のもと、エスニシティという概念は生まれました。
現在、多文化主義や文化相対主義が語られるのも、エスニシティという概念が広く浸透したことと強く結びついています。
アメリカは「るつぼ」と呼ばれていた→多種多様な人々が「同化」して、1つの価値になっているという認識
現在、アメリカは「サラダボウル」と呼ばれている→多種多様な人々が多種多様な価値のまま共存しているという認識

#38 Zygmunt Bauman ジグムント・バウマン

リキッド・モダニティ

近代(資本主義社会)になり、人々は伝統的な秩序から解放されました。バウマンは、少し前の近代性をソリッド・モダニティ(固体的近代性)と呼びます。ソリッド・モダニティの時期には、伝統的な秩序を壊しながらも、人々がおさまるべき新たな枠組みが作られていました。ところが近代化がさらに進むと、固定的な枠組みが崩壊し、流動的なリキッド・モダニティ(液体的近代性)の時代が到来するとバウマンは言います。リキッド・モダニティの時代は、人々に多様な選択肢をもたらしますが、同時にあらゆることの責任を個人として引き受けなければなりません。現代は、個人の新たな居場所が整備されない、不安定で不確実な時代なのです。
今後、人々は、習慣や常識、家族や会社、地域や国家に管理、拘束されることはない。むしろ自由な振る舞いを強制される。そうなると、自分以外の他者には関心がなくなってしまうとバウマンは言う。
メモ:パノプティコンのような巨大権力ではなく、人々が進んで監視しあう今日の情報環境をバウマンはポスト・パノプティコンと呼んだ。


#39 Ivan Illich イヴァン・イリイチ

シャドウ・ワーク

労働の対価として賃金が支払われることが資本主義社会の基本です。ですから資本主義社会では賃金が支払われない労働(アンペイド・ワーク)は、労働とみなされにくくなります。こうした無償労働イリイチはシャドウ・ ワークと呼びます。
近代の家族は、男性が賃労働をするために、女性が家事労働を担うことによって成り立ってきました。ところがこうした性別役割分業は、女性が男性に対して従属的な立場に置かれていくことへとつながっていきました。
イリイチシャドウ・ワークという概念を用いて、男女の不平等を白日の下にさらしました。

脱学校化

思想家としてのイリイチは、学校、交通、医療といった社会的サービスの根幹に、道具的な権力、専門家権力を見て、過剰な効率性を追い求めるがあまり人間の自立、自律を喪失させる現代文明を批判。それらから離れて地に足を下ろした生き方を模索した。
学校教育においては、真に学びを取り戻すために、学校という制度の撤廃を提言。パウロフレイレの革命的教育学と並んで、地下運動から国際機関まで世界中を席捲した。イリイチの論は「脱学校論」として広く知られるようになり、当時以降のフリースクール運動の中で、指導的な理論のひとつになった。

バナキュラー

バナキュラーは、そもそも、「家庭で最初に身につける言葉」などを意味する語であるが、イリイチは、この言葉が有給の家庭教師を雇わずとも身につけられることに焦点を当て、バナキュラーを「一般の市場で売買されないもの」と拡大規定した。しかし、近代産業社会のサービスによって、このバナキュラーは交換可能なものとなり、結果として、人びとの生活からバナキュラリズムが失われていくさまをイリイチは指摘している。

サブシステンス

人間活動の自立・自存。近代以降失われつつあるもの。

医原病

また、イリイチは、医療制度は「専門家依存」をもたらすものであり、すなわち人間個々人の能力を奪い、不能化するものであると批判し、これを広義の医原病(社会的医原病、文化的医原病)であるとしている。

#40 Niklas Luhmann ニクラス・ルーマン

ダブル・コンティンジェンシー

近代社会(資本主義社会)において、人間は基本的に自由です。ですから誰もが自分の欲求が叶うような行動をしようとします。すると、次に自分がどう行動するかは相手の出方次第であり、相手にとってもこちらの出方次第という状況が起こります。こうした状態をダブル・コンティンジェンシー(DC)といいます。 世の中はDCだらけなのに、どうして他者との相互行為は次々に行われて、物事は進んでいるのでしょうか?
パーソンズは、相互行為を行う両者の間に、あらかじめ価値観(社会秩序)が共有されているので、お互いが何を期待しているかが予測できるからDCを回避できていると考えました(期待の相補性)。
これに対してルーマンは、相互行為を行う両者の間にはじめから共通の価値観は必要ないと言います。なぜなら、互いの身振りや反応を見ながら相互行為のきっかけを見つけ出すことができると考えるからです。むしろDCという秩序が成り立っていない状況があるからこそ、人々がその状況を解消しようとコミュニケーションすることで、新たな社会秩序が生まれ続けているとルーマンは言います(ノイズからの秩序形成)。

複雑性の縮減

近代社会において、人間は基本的に自由です。しかし、自分の欲求が叶うような行動をした場合、相手がこちらの思い通りの行動をとるかどうかわかりません。それでも私たちは通常、相手が行うかもしれないあらゆる可能性(複雑性)の存在を意識することなく、安心してやりとり(コミュニ ケーション)をしています。ルーマンはこれを複雑性の縮減と呼びます。
「このようなときにはこのように行動する」という複雑性の縮減が十分に行き届いた社会では、見知らぬ人たちとの関わりでも安心して相手の行動を予期してやりとりをすることができます。これを複合性の増大といいます。
小さな共同体で暮らしていた過去とは違い、近代社会は見知らぬ人たちとのやりとりばかりです。そのため近代社会では、個人の人格への信頼ではなく、規範への信頼が必要となります。ルーマンは、そうした規範がどう生まれ、どう守られているのかを複雑性の縮減という概念を手がかりに突き止めようとしたのです。
複雑性の縮減を鍵に、社会(規範)が成立している仕組みを説くルーマン社会学は、マクロの視点にミクロの視点を取り入れるものでした。

オートポイエーシス

ルーマンは、社会を構成している要素は、人間ではなく、コミュニケーションだと考えました。コミュニケーションが次のコミュニケーションを自動的に生み出し続けることで、コミュニケーションを構成要素とする社会は存続していると彼は言います。社会を成り立たせている要素(コミュニケーション)が社会自体によって生産される、こうした性質をオート(自己)ポイエーシス(生産)呼びます。
ルーマンの考える社会→分子がつながってモノを構成するように、コミュニケーション(情報+伝達+理解)という分子が次のコミュニケーションを生み出し、つながることで社会(制度・規範)というモノを構成する。そしてその社会が私たちの行動を規制する。
社会(規範)なしに人間は生活できませんが、社会のシステムの中に各個人の意識(心)までが機能的に取り込まれているわけではないとルーマンは考えます。そのため彼にとって人間は社会システムの構成要素ではないのです。

作品#05「コスモス 社会学用語図鑑トレカ」62枚(3) #21-#30

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#21 Erich Seligmann Fromm エーリヒ・フロム

権威主義的パーソナリティー

近代(資本主義社会)になり、人は伝統的な枠組みから解放され、自由を手にしました。けれどもその結果、様々な絆から切り離され、自分の生き方を自分1人で決めなくてはならなくなりました。こうした不安や孤独に耐え切れなくなると、人は自分を縛る権威を進んで受け入れてしまいます。フロムはこれを権威主義的パーソナリティと呼びました。
フロムは、ナチズム期のドイツにこの権威主義的パーソナリティという社会的性格を見いだしました。ドイツ国民のナチズムへの傾倒は、人々が自由であったからこそ生まれた現象だと彼は考えたのです。
 

近代から現代へ

#22 Alfred Schütz アルフレッド・シュッツ

現象学的社会学

目の前にリンゴがあれば、「リンゴがある」と私たちは考えます。けれども、「リンゴがある」ことを事実として確信できる根拠は、自分の意識の中に「リ ンゴがある」から以外にはありません。自分の意識の外の、客観的な世界に本当に「リンゴがある」のかどうかはわからないのです。
つまり世界は、意識の中だけに存在しているといえます。このような視点から、現実の世界がどのように出来上がっていくのかを考えるのが現象学です。
社会は、私たちの意識と無関係に客観的に存在しているのではないとシュッツは言います。そうではなく、私たちの意識が共有する認識が「現実」を作っていくから、社会が存在すると捉えます。こうした考えを現象学的社会学と呼びます。
シュッツの理論は、ガーフィンケルなどのエスノメソドロジーに受継がれ、日常生活の相互行為、とりわけ会話を分析する独特な方法が生み出されました。

#23 Herbert George Blumer ハーバート・ジョージ・ブルーマー

ミクロ社会学

社会全体の構造を客観的に捉える社会システム論は、確かに科学的です。けれども、その社会を構成している個人の主観を無視することはできないと考えるのが意味学派です。私たち人間は動物とは違い、様々な対象に意味づけをし(対象を解釈し)、その意味に基づいた相互行為をします。意味学派は、そうした相互行為の意味を理解することで、社会を捉えようとします。こうした社会学はミクロ社会学とも呼ばれます。

シンボリック相互作用論

私たちは、様々な物事に意味づけをしながら行動しています。物事の意味はあらかじめ固定的に決まっているわけではなく、他者との相互行為の中で導き出されます。そしてその意味は絶えず解釈し直され、修正されます。
ブルーマーのシンボリック相互作用論は、社会を確固たる特定の価値によって成立しているものとしては捉えません。人間の主体的な解釈によって物事の意味がそのつど修正されていくダイナミックな過程として社会をイメージします。
パーソンズの構造機能主義は、社会は変化しない特定の構造(AGIL図式)を持ち、それを維持するために、人々の行動があるとしました。これに対してシンボリック相互作用論は、人々が様々な対象に意味づけをし、その意味に基づいた行動をすることで社会が成り立つと考えます。社会が人間の行動を規定するのではなく、人間が主体的に社会を成立、そして変化させているというわけです。

#24 Paul Felix Lazarsfeld ポール・ラザースフェルド

オピニオン・リーダー
コミュニケーションの二段階の流れモデル

メディアからの情報はオピニオン・リーダーが噛み砕いてみんなに伝える

#25 Talcott Parsons タルコット・パーソンズ

AGIL図式

国家のような大きな社会から家族のような小さな社会まで、どんな社会でも持続していくためには、必ず、A=適応(Adaptation)、G=目標達成(Goal Attainment)、I=統合(Integration)、L=潜在性(Latency)の4つの条件が機能していなくてはならないとパーソンズは考えました。これをAGIL図式といいます。
Adaptation(適応)=内部の集団を生存させるために外部の世界から資源を調達し、外部の世界に適応させていく機能。つまり経済にあたる。
Goal Attainment(目標達成)=集団の目標達成のために人や富を動かす機能。 つまり政治にあたる。
Integration(統合)=人々を統合して勝手な行動を食い止める機能。つまり法や規範にあたる。
Latency(潜在性)=A・G・Iを可能にさせる潜在的な動機づけとなる機能。また、社会の緊張を和らげる機能。つまり教育と文化にあたる。
この考えによれば、人々は無意識のうちにA、G、I、Lの4機能のうちのいずれかとなって社会を支えています。持続可能な社会にはAGIL図式という確固たる構造が存在し、人間は皆、その構造を維持する機能として貢献しているというわけです。
持続可能な社会には、AGIL図式という構造が存在すると考えることで、パーソンズは、社会全体を説明できる一般理論を構築しようとしました(構造-機能主義)。その後、彼の理論(社会システム論)は、マートンルーマンらへと引き継がれていきます。

構造-機能主義

パーソンズは、社会現象のすべてをつらぬく一般理論(グランドセオリー)を構築しようとしました。そして考え出された図式がAGIL図式です。あらゆる社会現象や人間同士の相互行為は、この図式を維持するために存在しているというわけです。
このように、社会には確固たる(変化しない)構造(パーソンズの場合はAGIL図式)が存在し、すべての社会現象や相互行為は、この構造を維持するために機能していると考えることを機能主義といいます。そして特にパーソ ンズの機能主義を強調する場合は構造-機能主義といいます。

マクロ社会学

社会を生命のような構造をしたシステム(ひとまとまり)と捉えることを社会システム論といいます。そして胃が消化という機能によって生命システムを存続させているように、あらゆる人間同士の相互行為が機能して、社会システムを存続させていると考えることを機能主義といいます。機能主義のように、社会全体をシステムとして捉え、その構造が人間の行為にどのような影響を及ぼしているかを調べる社会学はマクロ社会学とも呼ばれます。

#26 David Riesman デイヴィッド・リースマン

他人指向型

リースマンは社会を構成する人々の性格を3つの類型に分けました。共同体の伝統に従う①伝統指向型、共同体から離れて自分自身の良心に従って行動する②内部指向型、そして、他者からどう思われているのかに敏感で、他者の好みや期待に同調しようとする③他人指向型です。
①伝統指向型→人口が一定水準以下だった伝統的な共同体社会(中世以前)において、人々は家族や血族などの価値観を行動指針にしていた
②内部指向型→人口上昇が過渡的で人々の移動が激しい初期資本主義社会(資本主義初期~19世紀)において、人々の行動指針は伝統ではなく、自身の内面のものさしに頼っていた
③他人指向型→近代的な大都市のように資本主義が成熟した社会において、人々は同時代の人々のまなざしや評価を行動指針にする
現代人は、様々なしがらみから解放されたと同時に、孤独感を強めています。そうした孤独感を和らげるため、人々は他者に同調したり、マスメディアに方向性を求める他人指向型になっていきます。現代は、他人指向型の人間が、経済、政治、文化に大きな影響力を持つ大衆社会だといえます。



#27 Robert King Merton ロバート・キング・マートン

順機能/逆機能

社会の中のいろいろな現象や人々の行動は、社会というシステムを存続させる機能(働き)であるとパーソンズは考えました。これを機能主義といいます。 同じ機能主義の立場に立つマートンは、機能には社会にとって役に立つ順機能と、社会に対して負の効果を生んでしまう逆機能があることを指摘しました。

顕在的機能/潜在的機能

人が何か行為をするとき、本人の想定通りの結果があらわれた場合、その作用のことを顕在的機能といいます。逆に想定していなかった結果があらわれた場合、これを潜在的機能といいます。マートンは逆機能とともに潜在的機能という視点を用いて、社会事象の背後に潜むものを考察しようとしました。

準拠集団/所属集団

社会学で最も重要な概念の1つが準拠集団です。準拠集団とは自分が何かを決めるとき、自分に強い影響を与える人々のことをいいます。準拠集団は、具体的な集団とは限らず、ある階層全般などの場合もあり、また自分が直接所属していない集団ということもあります。たとえば、友人集団、尊敬する有名人、ただ単に「富裕層」などがそれにあたります。
自分が所属する準拠集団の価値観によって自分の価値観が左右される。ただし現代人は複数の準拠集団に属しているので、ある選択についてどの集団を準拠集団とするのかは、時と場合によって異なる。
たとえば、自分の頭の中にある準拠集団が自分よりすぐれている場合は、劣等感が生まれたり、彼らに追いつくための向上心が芽生えるかもしれません。反対に、準拠集団が自分より劣っている場合は、優越感が生まれたり、向上心が停滞することもあり得ます。
準拠集団に対し、実際に所属している集団を所属集団という。

予言の自己成就

人々が予言に影響されて行動するから。

中範囲の理論

一般理論(グランドセオリー)ではなく、かといって個々の現象でもなく、その中間の理論を考えましょうという考え。それが役に立つ。

#28 Herbert Marshall McLuhan マーシャル・マクルーハン

メディアはメッセージ

内容だけではなくメディアそのものがメッセージ性をもっている。たとえばテレビ→インターネットで人々の生活は変わった。
マクルーハンは、新しいメディアは、人々の思考や行動を根本的に変えると考えました。ということは、新しいメディアの登場が新しい社会を誕生させるということになります。

人間の拡張

たとえば、望遠鏡・顕微鏡などのメディアは目の拡張、車輪ならば足の拡張というように、人間が作り出したテクノロジー全般をメディアと捉え、生身の身体を拡張させるものとマクルーハンは考えました。メディアを身体と捉えると、新たに生み出されるテクノロジーが、人間の身体感覚に変化をもたらすことがわかります。
一人ひとりの身体感覚が変化すれば、自動的に社会全体も変化することになります。マクルーハンにとって人類の歴史とは、メディアの進化によって人間の身体が拡張し、感覚が変化していく過程にほかなりません。

グローバル・ヴィレッジ

マクルーハンによれば、電子的なマスメディア(ラジオ、テレビ等にはじまる)によって、それまで人々がコミュニケーションをおこなう障壁になっていた時間と空間の限界が取り払われ、地球規模で対話し、生活できるようになった。この意味で、電子的マスメディアによって地球全土がひとつの村に変貌した。
今日ではグローバル・ヴィレッジ(地球村)といえば主に、インターネットとWorld Wide Webを指す隠喩である。インターネットによって世界中の利用者が相互に連絡を取り合うことが可能になり、コミュニケーションがグローバル化した。同様に、ウェブを介して接続されたコンピュータは、人々のウェブサイトを相互に結びつける。これによって文化の面でも、社会学的な意味で新しい構造が形成されることになる。

#29 Philippe Ariès フィリップ・アリエス

〈子供〉の誕生

「子ども」は、いつの時代にも存在していたわけではありません。<子供>という概念は17世紀頃に生まれたとアリエスは言います。近代的な学校制度の整備を転機に「ある程度の年齢までは保護し育てるもの」という発想が生まれ、「大人」とは異なる存在として<子供>が登場したというのです。それまでは、「小さな大人」しか存在しませんでした。
その後、<子供>と親を中心とした単位で考える近代的な家族観が生まれます。<子供>は大人よりも、安全や教育、愛情などが保証されやすくなりましたが、一方で<子供>や母親の広い社交関係は薄れました。
私たちが当り前だと考えている大人/子どもという区別に基づいた家族観は、ごく近代の産物です。遺伝子操作、人工授精、代理出産などが可能となった今、家族観はこの先どう変化していくのか知る由もありません。

#30 Daniel Joseph Boorstin ダニエル・J・ブーアスティン

疑似イベント

マスメディアが事実に似せて製造する出来事や、事実の一部をあえて大々的に切り取ってみせる視点のことをブーアスティンは疑似イベントと呼びました。マスメディアが映すものは往々にして「事実」ではありません。
ブーアスティンは、疑似イベントの仕掛け人が、一方的にこうした視点(感動物語など)を製造していると考えたわけではありません。人々は世界に対して、ドラマ ティックな出来事を期待するものです。疑似イベントは、人々のそうした期待に沿って提供され続けます。