マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】2018年に読んで面白かった本ランキング

2022年1月にこのエントリを書いている

1位 浅田彰『構造と力―記号論を超えて』(勁草書房 1983年)

非常に面白い。山口昌男クリステヴァラカンバタイユドゥルーズの思想などの紹介。
これを情報が限られた当時に26歳の若さで書き上げるのはまさに天才だと感じる。

2位 すが秀実『増補 革命的な、あまりに革命的な』 (ちくま学芸文庫 2018年)

これははっきり言って教養がなく半分も理解できなかったのだが、
なんとなく68年を準備した当時の歴史状況や、重要な作品などが知れてよかった。
「反帝反スタ」の新左翼 ブントは芸術や享楽に革命を見出そうとした。
結局マイノリティ運動、ポリティカル・コレクトネスに乗っ取られて挫折したという結論は、乱暴すぎてかなり批判もされている。

3位 竹田青嗣現代思想の冒険』(ちくま学芸文庫 1992年)

現代思想の概観が知れる本。思想を要約することは大事なことであり自然なことという要旨は、自分の思想家トレカ作成に勇気を貰った。

4位 安田浩一『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書 2018年)

愛宕山事件」「松江騒擾事件」「明朗会事件」「大東塾事件」など、終戦時本物の右翼は終戦撤回の決起や集団自決などしていたことを知った。
その後の「親米・反共」の日本の右翼は全部偽物、権力の駒だということがよくわかった。

5位 篠原雅武『全―生活論: 転形期の公共空間』(以文社 2012年)

「生活」「都市開発」をキーワードに、戦後日本社会の変容を考察した書。
「私たちの生活様式そのものが、無関心と無感覚の論理に浸潤されつつある」
人間が生気のないゾンビのようにされていく。

【読書メモ】浅田彰『構造と力―記号論を超えて』(勁草書房 1983年)

目次
本書の構成について

序に代えて
《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試み――千の否のあと大学の可能性を問う
 1 目的としての知と手段としての知
 2 宗教としての知と技術としての知
 3 〈教養〉のジャングルの中へ
 おわりに

I 構造主義ポスト構造主義のパースペクティヴ

第一章 構造とその外部 あるいはEXCESの行方――構造主義の復習とポスト構造主義の予習のためのノート
 1 ピュシス あるいは 生命の世界
 2 カオス あるいは 錯乱せる自然
 3 象徴秩序 恣意性・差異性・共時性
 4 間奏曲
 5 交換と《贈与の一撃》
 6 象徴秩序とカオスの相互作用
 7 《女》について
 8 《近代》について
 9 むすび あるいは はじまり

第二章 ダイアグラム――ヘーゲルバタイユの呪縛から逃れ出るための
 はじめに
 1 構造
 2 構造とその外部――弁証法的相互作用
 3 機械・装置・テクスト――二元論からの脱出
 おわりに

II 構造主義のリミットを超える――ラカンラカン以後

第三章 ラカン 構造主義のリミットとしての
 1 個と対
 2 相互性と双数性
 3 想像界象徴界
 4 構造とその外部
 5 構造と力

第四章 コードなき時代の国家――ドゥルーズ=ガタリのテーマによるラフ・スケッチの試み
 はじめに
 1 コード化・超コード化・脱コード化
 2 三段階図式と歴史
 3 原国家と近代国家
 4 エタとナシオン

第五章 クラインの壺 あるいはフロンティアの消滅
 1 内と外――二元論の神話
 2 クラインの壺――二元論の終焉
 3 都市的なるものをめぐって

第六章 クラインの壺からリゾームへ――不幸な道化としての近代人の肖像・断章
 1 ふたつの教室
 2 近代の不幸な道化
 3 砂漠へ

あとがき
初出一覧

序.大学について
1.目的としての知と手段としての知
・「実学
>>star of detectives<<
・シラケつつノリ、ノリつつシラケる
・色メガネ=ドクサ
・裸眼で世界の実相を見る=エピステーメー
・知と戯れる
・カイヨワ<聖−俗−遊>の「遊」
 
2.宗教としての知と技術としての知
・「恣意性の制限」としての文化(ソシュール
レヴィ=ストロース「冷たい社会」と「熱い社会」
・「冷たい社会」=安定的な象徴秩序、コスモスとノモス
・「もちろん、そのような仕組みをとったからといって、象徴秩序の中にカオスを回収しつくすことはできない。未だ象徴秩序に包摂されざる部分、そこからはみ出した過剰なる部分、バタイユの言う「呪われた部分」が、常に残っている。「冷たい社会」は、周期的な祝祭における常軌を逸した蕩尽によってこの過剰なる部分を処理し、そのことによって日常における象徴秩序の安定性を維持していると言っていいだろう。」
・「熱い社会」=それらを脱コード化(ドゥルーズ)→アノミー
・差異(前進)を追い求める。破局を先送りし続ける。
・「従って、「冷たい社会」が周期的な祝祭を必要としたのに対して、「熱い社会」は祝祭を知らない。過剰なる部分は、一歩でも余計に進もう、余分な何かを生産しようとする日常の絶えざる前進そのものによって、形を変えて実現されているのだ。その意味で、バタイユの礼賛したポトラッチは、近代社会と無縁である。むしろ、日常の生活そのものが、世俗化された持続的ポトラッチと化していると言うべきだろう。」
・「国家のイデオロギー装置」(アルチュセール)としての教育機構
>>「ぴっかぴか音楽館」「そんなの当たり前さ21世紀」と万博<<
・「近代社会の全身運動の不安定性」「経済学史に例をとれば、最も大きな声で王様は裸だと叫んだ子供は、ほかならぬマルクス
・→ケインズもコスモス/ノモスの安定
・「幻想的安定感」
・世界−全体性−連続性
・コンヴィヴィアリティ=生き生きと生きること。
 
3.<教養>のジャングルの中へ
・「ドゥルーズ=ガタリはそれを欲望機械と定式化するのだが、相手かまわず連結し、また切断し、それを際限なく繰り返すその無節操ぶりの方が、やせ細ったアイデンティティなどよりはるかに生産的だということは、強調しておいてよい。」
・「本と娼婦は、ベッドに連れこむことができる」ベンヤミン
 
I.構造主義ポスト構造主義のパースペクティヴ
・第一章 構造とその外部 あるいはEXCES(ズレ)の行方
1.ピュシスあるいは生命の世界
2.カオスあるいは錯乱せる自然
・生きた自然からのズレ、ピュシスからの追放。
・「これこそ人間と社会の学の出発点である。人間はエコシステムの中に所を得て安らうことのできない欠陥生物であり、確定した生のサンス(方向性)を持ち合わせない、言いかえれば、過剰なサンスを孕んでしまった、反自然的存在なのである。」
>>言語以前、言語以後<<
・「理性のヒト(ホモ・サピエンス)」
象徴界想像界
・ピュシス→カオス
 
3.象徴秩序 恣意性・差異性・共時性
・「自然の秩序たるピュシスからはみ出し、カオスの中に投げ込まれた人間は、そこに文化の秩序を打ち立てねばならない。「自然の秩序は、はるかに強力に、ホメオスタシス、調整作用、プログラム化によって支配されている。人間の秩序こそが、無秩序の星の下に展開されるのである。」この文化の秩序が必然的に、恣意的・差異的・共時的な構造、即ち象徴秩序という形をとることを明らかにしたのは、構造主義の最大の功績である。」
・「カオスに投げ込まれた人間は、ピュシスに代わりうるような何らかの秩序を構成することなしには生きられず、その意味で文化の秩序は不可欠であるが、文化の秩序がある特定の形をとる根拠を問うならば、そこにはピュシスにおけるような必然性はなく、根源的な恣意性に突き当たらざるをえない。」
・文化の秩序=「恣意性の制限」「恣意性の制度化」
・象徴秩序=文化の秩序=言語の秩序
 
4.間奏曲
・「ピュシスの代替物として構成される象徴秩序は、ある意味で当然の成行きとして、自らの恣意性・人為性を隠蔽すべく己が生成過程を消去し、万古不易の自然であるかのように装う。あの恐るべきカオスの記憶、「あらゆる共同体の企てに洪水を引き入れかねない大いなる生の宇宙の記憶」は、是が非でも抑圧されねばならない。かくして、部分にすぎない象徴秩序がその外部を隠蔽しつつ全体を僭称するに至るのである。これこそイデオロギーの原基形態ではなかったか?
構造主義は外部たるEXCESを無視している
 
5.交換と<<贈与の一撃>>
・象徴秩序の再生産は、交換ないしコミュニケーションによってなされる。
・近親相姦の禁止=女の交換(交流)
ブランショ宮川淳吉岡実の芸術批評。イマージュ。
・贈与=浮遊するシニフィアン
・象徴秩序と原初(始源)のカオス
・「だから、誰もが言語以前の世界を心の奥底で夢見ている。」
・コスモス(宇宙)/ノモス(法律、礼法、習慣、掟、伝統文化といった規範)が安定した支配を確立すると、カオスへの入口は岩でふさがれる。
 
6.象徴秩序とカオスの相互作用
ジュリア・クリステヴァ サンボリック(象徴界、父の命令)とセミオティック(言語以前、現実界、母)
・「ピュシスの類同代理物たる象徴秩序は、いわば有能な演出家として、各人に舞台とシナリオを割りふる。アルチュセールの言葉を借りれば、各人を「主体」にするのである。この主体は、上から見れば構造の《臣下》であるにもかかわらず、自らは《主君》気取りで、与えられた舞台とシナリオを、自己の選択によるものと思いなす。こうして、主体は象徴秩序の一隅にノエシス(思考)−ノエマ(思考されたもの)的な網を張ってその中心に居座り、架構の始源から架構の終局=目的に向けて自信満々で歩むということになる。これこそ、デカルトから現象学にいたる哲学が前提としてきた、定立的・綜合的な主体、即ち、「名指し述定する主体」に他ならない。」
・人間の欲動は常にエロスとタナトスの両者を過剰に孕む→自らのうちに「分裂」を孕む
・「神秘主義ユートピア思想は、しばしば、すべてをエロス的結合のうちに呑み込んで融合させる生のうねりを、深層に措定してきた。《全婚》を頂点とするフーリエのヴィジョンなどはその極致であろう。我々は、しかし、そこに分裂の契機を持ち込むことにより、決して一様で静的なニルヴァーナに達することのない否定性のダイナミズムを注視せねばならない。」
セミオティックなカオスの象徴秩序への侵入。これは象徴秩序のイデオロギーの最も嫌うところである。
レヴィ=ストロース 供犠(sacrifice)
・「必然的に外部を伴わざるをえない象徴秩序は、トーテミスムと並んで、同期的な祝祭による過剰の処理というメカニズムを備えることによってはじめて、永く秩序を維持できる。こうして、象徴秩序とカオスとの緊密な相互作用が明らかにされる。これを山口昌男は「秩序と混沌の弁証法」と呼ぶ。」
>>象徴秩序に中に生きる者達は、カオスを非常に恐れる<<
・宗教=官僚的機構
バタイユファシズムか祝祭的革命か>
ファシズム 鷲 祝祭的革命 モグラ
光と闇 昼と夜 神と悪魔
クリステヴァの四つの類型
A−オイコス 家
B−ノモス 社会、国家
C−コスモス 宗教
D−カオス 実践、モグラ
 
7.《女》について
ニーチェフェミニズム批判
・彼女らは男になろうとしている
 
8.《近代》について
・近代=国家のコード→資本主義のコード
・すみずみまで脱聖化された同質的な空間
・近代→オイコス−ノモス構造の解体→アノミーの危機→解決方法は永遠の先送り(絶えざる前進)
・「実際、近代社会は、いわば世俗化された持続的ポトラッチという様相を呈する。そこでは、全員が他人を出し抜いて一歩でも先へ進むことだけを願っており、ある意味で、カオスにおける相互暴力のミメティスが再現されているのである。」
>>90年代までは消費社会のダイナミズムがあったが、00年代以降は硬直している。1930年から1975年、ピケティの特別な45年<<
・ゴールを持たない競争
・こうした仕組をもつ近代社会は、祝祭の興奮を知らない
・父とその言葉→物神としての貨幣 「過剰の十全な存在形態」
・貨幣が「新しい中心」
・サンボリックな中心でもありイマジネールな偶像でもある貨幣は、とりわけすぐれたフェティッシュであると言える。
・フェティッシュ象徴界想像界を結ぶ虫食い穴のようなものである。
・「欲望はいわば象徴界に開けられた穴から想像界へと逃げてゆく」
・近代社会の共同的フェティッシュとしての貨幣
>>お金を燃やしては、捨ててはいけないという法律。貨幣損傷等取締法。<<
・「こうして、多方向的な欲動の流れは整流器としての貨幣を通して一方向的な欲望の流れとなり、膨大な一方通行の過程が開始されることになるのである。」
ゲゼルシャフト 集合態的 近代/ゲマインシャフト 共同態的 近代以前
・「ともあれ、商品交換による脱コード化が一般的な規模で進行することによって、貨幣を整流器とする膨大な前進的流れとしての近代社会が成立してしまった以上、その現実を無視した議論はもはや有効性をもちえない。勿論、この現実を肯定しようと言うのではない。近代社会はあくまでも不均衡累積過程として実現されており、確たる目標もなく走り続けねばならないという脅迫観念が、「象徴秩序の中の居心地の悪さ」に優るとも劣らぬ重苦しさで、人々の上にのしかかっている。」
・「にもかかわらず、我々は退路が何重にも断たれていることを確認しないわけにはいかないだろう。まず、疎外論的な戦略の無効性は明らかである。「はじめにEXC-ESがあった」以上、言いかえれば、始源を求めて遡って行ったとき見出されたのは始源からのズレに他ならなかった以上、疎外を克服して透明な始源の世界に回帰し、しなやかな心と体を介して自然や他者たちとコスモロジカルな交響を奏でるという夢は、はかない夢に終わらざるをえない。むしろ、こうしたユートピア思想は、カオスを導き入れるための仕掛けとして、意図されざる効果をもたらしてきたと言うべきかもしれない。しかし、今や、カオスの叛乱という図式自体もまた、有効性を失っている。すでに述べた通り、近代社会はそれ自体カオスの吸収装置とでも呼ぶべき仕組になっており、その融通無礙な機能ぶりは、侵犯のエネルギーをなしくずしに回収してしまうだろう。カオスの噴出による祝祭的革命というイメージは美しいが、ひとたび脱聖化された社会に祝祭の興奮をよびさますことは絶望的に困難である。」
 
第二章 ダイアグラム −ヘーゲルバタイユの呪縛から逃れ出るための
はじめに
・「今日、だれもが知っている、バタイユは今世紀でもっとも重要な作家のひとりだ。」ミシェル・フーコー
栗本慎一郎 文化人類学者「パンツをはいたサル」 パンツの存在とそれをあえて脱ぐ侵犯の快楽との相補性
 
1.構造
現実界と物自体界 観念論
・カントにおいて、表象体系を構成するのは、各人が超越論的主観としてア・プリオリに分有する普遍的な形式であるとされた。この形式が実は共同主観的な形成体であり、従って、表象体系を個々の文化に固有の構造をなすと考えるのが、構造主義であると言ってよい。
ア・プリオリではなく恣意的
 
2.構造とその外部ー弁証法的相互作用
ヘーゲル
エーテルの如く世界を満たしているエレメンタールな基質としての<精神>。
バタイユ「留保なしの賭け」
・「留保なしの消尽と絶対的な喪失の只中で自己が溶融し、他社との連続性のうちに燃えさかるとき。<至高性>の顕現が垣間見られるのはこのときをおいて他にない」
クリステヴァ サンボリックな秩序 セミオティックな否定性
・「サンボリックな秩序は禁止によってセミオティックな否定性を排除しつつ構成され、他方、セミオティックな否定性は侵犯によってサンボリックな秩序の只中に噴出しこれを組み替える。このような侵犯は、祝祭ばかりではなく、詩的言語の中に、さらには、マルクスの言う真に自由な労働や革命の中に、見出されるであろう。」
・超越的中心に吊られた構造の支配とそのような中心をひきずりおろし混沌の中で構造を組み替える侵犯との、周期的な交替のヴィジョン。
ドゥルーズ=ガタリの機械=構造+力(エネルギー)
・工場は、そして、そこに働く人々もまた、諸機械
・工場は、そのまま、国家についても当てはまる。 アルチュセール、国家装置論
デリダエクリチュール> 書き言葉 ←→バロール(話し言葉
・バルド<テクスト> 文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする思想
・資本の自己増殖
 
Ⅱ.構造主義のリミットを超える ―ラカンラカン以後
第三章 ラカン 構造主義のリミットとしての
1.個と対
間主観性アポリア サルトル存在と無
・「ピアジェ的誤謬」=元々自己中心的
・ワロン 出発点は自他未分
メルロ=ポンティ 根源的脱自態(前人称的な生の大海)
・自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができる
・生の大海=主体同士が出会ったときにパースペクティヴを交換することを可能にする根源的条件
・「ひとの身になってみる」
・身体=根源的脱自態の境位(きょうい。ある思想や解釈による位置づけ。)
 
2.相互性と双数性
メルロ=ポンティの発送の源泉=ゲシュタルト理論
ラカン=人間は動物と違う
・本能→欲動
・視知覚の早すぎる成熟→想像界(イマーゴ)の発展
鏡像段階=自己のまとまりすらとれない混沌から、想像界の力を借りて、輪郭、境界を発見する
・半熟卵の比喩 不可能な全体性を求める
・ナルシス同士としての母子が、狂おしく互いを求め合うとき、それが互いを傷つけ合うことと同義であったとしても、何の不思議もないのである。
ゲシュタルト的な相互性=円環 イマジネールな双数性は「シーソー」ないし「天秤」
・安定しているどころか、矛盾の発端を内包している <主>と<奴>の間の疎外を産む
・☓想像界 ○鏡像界と訳した方がよい
 
3.想像界象徴界
・<主体>=<他者>に従属する臣下。
・錯乱せる自然の無秩序としての想像界(母)
象徴界=父 「人間を人間にするものとしての去勢」
ラカンバタイユ コジェーヴヘーゲル講義
 
4.構造とその外部
象徴界構造主義=閉じた円環
ラカンバタイユ=それを支える北極星たる外部を必要とする
・<浮遊するシニフィアン> >>シニフィエシニフィエ自身の中に存在しない。繰り返されるズレと置換を通してそれ自身が構成されたシニフィアンのネットワークの下を浮遊するつかみどころの無い流れとして、シニフィエをイメージした ( 浮遊するシニフィアン:意味、つまり自己同一性を欠いた不在の中心 )。<<
象徴界(言語)は現実界を網羅しきれない、拾いきれない
ラカン「欲望とは存在欠如の換喩である」
・ex 幼児の叫び Fort-Daの遊び(いないいないばー)。
象徴界の外部は、その限界であると同時に条件
・外部があるから欲望が吸い上げられる
 
5.構造と力
・「アンチ・オイディプス」=構造主義批判
 
第四章 コードなき時代の国家
はじめに
>>萱野稔人のSASUKE<<
・いたるところに国家がある。「国家」は自明か?
・国家=矯(た)めようとする力とそれに反発する力の織りなすドラマ
>>かつてのキリスト教へのルサンチマンと今は資本主義へのルサンチマン<<
・王への崇拝、潜在的ルサンチマン
・「ここで登場する「最後の領域性」こそ、エディプス三角形に縮約された家族に他ならない。共同体とそれを規制するコードから外に放り出された近代の私的人間は、家族につながれエディプス化されて、定型的な主体―フロイトの言葉を借りれば、超自我を内面化した主体―となる。言ってみればひとりひとりが「小さな植民地」となるのであり、すでにこの段階で欲望の多形性が規制されるのである。ここで見出されるのは、王に対する無限の負債であったものが主体に内面化され、自己に対する負債と化すという構図である。」
・「主体は自らに負ったこの負債を埋めるべく、際限なしに走り続けねばならない。今や<主>は存在せず、しかも、<奴>でないものはひとりもいないのだ。当然、王に向けられていたルサンチマンは自己に差し戻されるという最悪のコースを辿る。ニーチェの喝破した通り、ルサンチマンの時代に続くのはやましい良心の時代である。」
 
2.三段階図式と歴史
・「そして、主体たちを包摂する超越者とは、言うまでもなく、神にして王にして父、あるいはそれらに集約的に表現された象徴秩序そのものなのであり、財の世界で言えば貨幣に他ならない。」
・文化とは、当のはじめから、カオスを矯めようとする力とそれに反発する力。
>>右翼・左翼ではなく、カオス(混沌)とロウ(秩序)<<
・「実際、近代とはすぐれて中心なき時代である。超コード化は、中心をいわばブラック・ホールとして超越的な位置に置き、それとの絶対的なポテンシャルの差によって象徴秩序を金縛りにして吊り支えるという構造を構えていたのだったが、脱コード化によってそうした中心を消去することこそ、近代の第一歩なのである。」
・近代資本制における貨幣=いわば地上に現れたブラック・ホールとして、欲望の流れを一方的に吸引し続けるのだ。
グラムシアルチュセール-国家のイデオロギー装置論 Os Aparelhos Ideológicos de Estado (AIE)
・私的領域の隅々にまで浸透しつつ日常的に働いている整流器としての役割り
AIE 中世→家族と教会 近代→家族と学校
・ひとりひとりの個人をエディプス化し定型的な主体とすることが文化の課題
 
3.原国家と近代国家
・国家装置=超コード化を通じて社会の全域に浸透する微視的な力の網の目。
・ひとつの決定的なメタファー=ベンサムパノプティコン
・「脱コード化によって王の首が落ち、権力が顔を失って非人称化されるとき、そこに集中していた過剰な力は社会全域に拡散し、日常生活の隅々にまで浸透する権力へと転化する。この権力はすでに述べた通り個々の主体そのものに内面化される。」
・「言いかえれば、ひとつの「顔を欠く視線」があれば十分なのであって、囚人たちはやがてそれを内面化し、自分で自分を監視するようになるのである。「太陽(ルイ14世)をも鷲(ナポレオン)をも無用にする装置」。脱コード化段階の国家の核心。」
・「これらの装置をメタファーとして理解される近代国家の働きによって、エディプス化された主体、自分自身の債権者であり監視者である主体が絶えず再生産され、自らに負った負債を埋めるべく、自らに監視されながら、一定方向に自動運動を続けることになるのである。」
・そして貧民が囚人にとって代わる
・「言いかえれば、パノプティコンは、国家の抑圧装置のひとつとしての監獄の形態的モデルである以上に、国家のイデオロギー装置の機能的原理を示すものである。」
☆重要なのは主体に内面化された非人称の視線
 
4.エタとナシオン
☆家族
・「実際、近代以前の薄明に代わって、パノプティコンの示すような真昼の明るさが世界を満たすというのは、事態の半面に過ぎない。近代と共に生まれるのは、昼ではなく、昼と夜の双対性、オフィスや工場を照らす白々とした蛍光灯の光と、どす黒いジェラシーが渦巻くベッドタウンの闇の、双対性なのだ。
ここで蝶番の役割りを果たすのは家族である。すでに見た通り、家族は近代国家のイデオロギー装置のうち最も重要なもののひとつであり、主体を成型して外へ送り出す整流器として機能する。」
・「しかし、そうやって放り込まれた外の世界は、決して居心地のいい所ではない。そこを貫流する脱コード化された流れは、コード化・超コード化による支えを失ったものたちが、究極的なゴールもなく、ただかりそめの安定感を得るために、群れを成して一方向に走っている、という体のものであって、ひとは永遠の宙吊りの不安定性に耐えねばならないのである。してみると、日が落ちるとき、彼が安息の場を求めて家路につくのは、至極当然のことと言えよう。彼は、そこで自らを、そして家族そのものを再生産しなければ、生きていくことができない。こうして、家族は整流器としての役割りと人間の再生産の場としての役割りを二重に背負わされ、奇怪な相貌を帯びて立ち現れることになる。」
森毅「父と母、そして子と」
 
第五章 クラインの壺 あるいはフロンティアの消滅
1.内と外 ―二元論の神話
精神分析は、人間が<過剰>を孕んだ存在である、狂った本能、即ち欲動をもつ動物である、という認識から出発する。
想像界=恋愛、殺人(戦争)=現状への不満、イメージとの乖離=欲望=あらぬ幻
>>日本で言えば天皇象徴界の中心(吊り支え点)<<
>>オタクは想像界を生きる。会社員は象徴界を。<<
肛門=呪われた部分
象徴界=レッテル貼り 「不良少年」
現実界=呪われた部分=祝祭における侵犯=荒れ狂う過剰な力が非日常の時空を現出させる
栗本慎一郎 政治の中心=光の都市 商業の中心=闇の都市
 
2.クラインの壺 ―二元論の終焉
・「それまで象徴秩序を吊り支えてきた(超コード化してきた)中心が消失すること、神が死に王が斬首され父の言葉が絶対性を失うことによって、近代が始まるのだというのは、誰もが知っている通りだ。こうしてローカルな象徴秩序がすべて解体されたあとにひろがるグローバルな場。それを全体としてとらえるとき、その中心に見出されるのは、ほかならぬ貨幣である。」
・「差別化の悪夢」
・自己との間のズレ=欲望
象徴界(宗教、規範)的な解決か、終わりなき差別化(差異化)か?
・<過剰>をエネルギーとした、終わりなき欲望が、終わりなき前進運動に利用=搾取された
→近代資本制が史上はじめて全世界を覆うまでに膨張していった原動力の秘密
・記号の構造分析→フィギュール(図像)の流体力学
クラインの壺→外部がそのまま内部になっている
 
3.都市的なものをめぐって
アンリ・ルフェーブル 農村を都市が覆い尽くす
・<エロスの記号>←→本質的なエロス
クラインの壺=外部がない=出口がない=近代
>>ネオコン=表象のヒエラルキーへの憧憬<<
 
第六章 クラインの壺からリゾーム(地下茎)へ
1.ふたつの教室
・教師が前に座ってる 教師が後ろに座ってる
・不在の視線は子どもたちのうちに内面化される
・第一の教室が前近代 第二の教室が近代
 
2.近代の不幸な道化
マルクス 貨幣が析出されてくる論理的過程→一段高くなり「貨幣は諸商品の神であり王」
・オブジェクト→メタ→オブジェクト→メタ 貨幣-資本が展開する絶え間ない運動
・貨幣-資本はパラドキシカル・ジャンプを繰り返しながら走り続ける軽業師
・あらゆる社会が直面するひとつの問題がある。放っておけばどちらを向いて走り出すかわからない人間という怪物を、いかにして社会秩序の中に組み込むかという問題。
・その解決方法の種類 スタティックなタイプの解決 と 全員をともかく一方向に向かって走らせるという動的安定化の問題(競争社会)
・そうした競争過程への第一の誘導装置がパパ-ママ-ボクのエディプス的家族
・「負債」が自己の中に埋め込まれる
山口昌男「道化」「道化とは、メビウスの輪のまさにそのひとひねりに位置する存在である」
・広告都市 ボードリヤール
 
3.砂漠へ
・真に悦ばしい遊戯の場はいったいどこに見出されるのだろうか?
・ここで、前近代モデルを想定するものは、言葉の真の意味で「反動的」である。
・そこでの遊戯の歓びは空間的、時間的な制限を受け入れた上ではじめて体験されるものだったのであり、そうした制限を課す絶対的秩序の優越をいささかもゆるがさない。
・監視が厳しいほどイタズラのスリルが増す、日常の規律が厳格であるほど祝祭の興奮が高まる、禁止されているからこそ侵犯の快楽が身を灼く、といった愚にもつかぬ「弁証法的関係」、いやむしろおぞましい共犯関係は、そのような秩序のもとでのみ成り立つものだった。そのとき遊戯は、秩序の安全弁として機能するための、あるいはせいぜい秩序を再活性化するための、「スプーン一杯の混沌」へと堕してしまうことになる。
ニーチェドゥルーズ=ガタリ、外へ出よ。さらに外へ出よ。
・常に外へ出続けるというプロセス。それこそが重要なのである。憑かれたように一方的に邁進し続ける近代の運動過程がパラノイアックな競争であるのに対し、そのようなプロセスはスキゾフレニックな逃走であると言うことができるだろう。
ニーチェ、「真の賭け」
ジョン・ケージ
白石かずこ「砂族」
 
あとがき

19/2/1読了
最高に面白い。秩序と混沌の弁証法的関係。前近代の静的な社会から、近代の動的な社会へ。貨幣をニンジンとして、欲望の力で一方向に走り続けるしかない社会。そこにおける家族の役割。心の中に「負債」を背負う、近代的主体。パナプティコン的装置から逃げ出せない、鉄の檻。
そして、処方箋、結論のようなものは、今で言う加速主義のそれだが、36年経ったいま振り返れば、結局は資本の思う壺だったようにも思う。
しかし、それ以外にオルタナティブもない現状をみれば、いかに資本制が強力なシステムなのかと、改めて呆然とする以外にない。

【読書メモ】平井玄『現代思想選集 路上のマテリアリズムー電脳都市の階級闘争』(社会評論社 1986年)

路上
TシャツとGパンとバスケットシューズを身に着けて古代唯物論の世界へと降りたっていた
火と水と石と木の世界ーすなわち、
火炎ビンと放水っと投石とゲバ棒の街頭へと。
=マテリアリズム
バリケードの向う側に待っていたもの。それは、まさしく国家だった。
70年代の国家が行っていいった弾圧攻勢とそのサバイバル戦略を、単に運動に対する直接的な暴力的鎮圧としてだけ受けとめるのでは、全く不充分だろう。むしろ、それを街路と室内と器官をめぐる「政治」、蛇行し模索しながら行なわれた多面的な都市戦略の集合体として捉えること。今、都市を語ることに意味があるとしたら、それはここにしかありえない。そうした方向で、都市を国家と和解させようとする一切の都市論を打倒すること。本書のモチーフの一つがここにある。
70年代に入って、路上の国境は日毎に増殖していった。そして、その向うに見え始めていた光景、それは夥しい数のきらびやかなモノたちの乱舞する「商品の植民地」に他ならなかった。
70年代 路上→室内へ
「書を捨てよ町へ出よう」1967
デカダンス 病的な感受性を重んじ、唯美的で背徳的な傾向。非社会的で、倦怠におぼれた生活をすること。
→80年代コンピュータへ。
資本主義は一切の<外部>をみずからの<内部>へ飲み込む。
現在の都市は、その全域にわたって資本主義の「明るい廃墟」と化しつつある。
僕らが帰るべき路上
目次
1.ドゥルーズガタリをめぐる階級闘争 情報のポリティクスの中で<浅田彰>を読む
決定的に生きること。本気で生きる。
賃労働と消費の牢獄
アントナン・アルトー器官なき身体」=「欲望する身体」器官=命令、制御
TVスクリーンという現代の「御真影」への盲目的な信仰
思想の核心を消去する言説
フランツ・ファノン 第三世界革命論 ポスコ
サルトル
帝国主義=新たな資本主義
カフカ――マイナー文学のために」
「偉大で、革命的なのは、マイナーなものだけである。」
ゴダール 重要なのは二項対立の線ではない。それらをごっそり南に持っていく線
イタリア、アウトノミア(ネグリ) 緑の党 パンク
柄谷、浅田=秀才 ドゥルーズガタリルンペンプロレタリアートの可能性も支持する。
ポール・ピッコーネ「資本のパラドックス
チョムスキー「知識人の責任」
ジュリア・クリステヴァ
国家から資本主義に暴力が移った?
エルンスト・ブロッホ「ここでは、行動するものだけが理解する。厳密には、かれが行動しようと欲するかぎりでしか理解しない。……正しい思考とはつねに、いまここで何をなさねばならないか、という視点の下におかれた思考でしかない」
ボブ・ディランより、ジェイムズ・”ブラッド”・ウルマー
●電子闇市論 ―その逆説的眺望
映画「ワイルドスタイル」NYブロンクス
ビー・バッパー=ナウい
文化情報戦 すぐ資本に回収される
クラッチング=レコードの楽器化
自由ラジオ運動
闇市」の記憶
魂の植民地化
<地下都市>ノート
山谷、東京
解放区闘争 神田、新宿
>>天皇制反対左翼は単に敵を見誤っていないか?<<
竹の子族
南千住
ソル・ユーリック「夜の戦士たち」「狙われた盗聴者」
山谷労働者運動に「右翼」の凶弾
山岡強一
「右翼」と建設業界
映画監督 佐藤満夫
ポール・ヴィリリオ「カメラの視線と銃眼の視線の相合性」
「映画」
「山谷―やられたらやりかえせ」
リュミエール兄弟
1895.12.28 パリ グランカフェ シネマトグラフ
ドゥルーズ 無類の映画好き
絵画 劇場的視覚 近代ヨーロッパの文化的身振り
映画=眼=銃=思考
個人→サラリーマン→消費者
需要と供給
リゾーム=地下茎
下方のノマディスム 下層社会を疾駆する遊撃思想
 
2.音楽機械あるいは金属都市
ジェイムズ・”ブラッド”・ウルマー
チョー・ヨンピル
YMOプロパガンダ
ジャック・アタリ「音楽/貨幣/言語」
世襲の僧、神主」
オーティス・レディングジョン・コルトレーンチャーリー・パーカー
宇崎竜童「身も心も」
中曽根康弘
船戸与一「夜のオデッセイア
新宿ジャズ喫茶 ピット・イン 風月堂
アルバート・アイラーの声
ゲットーの解体政策
オーネット・コールマン
ロイ・ジョーンズ
 
3.哄笑機械 疾走都市
ブエナベントゥラ・ドゥルティ
五木寛之 青春の門
バンカラ ハイカラのアンチテーゼ
クレイジーキャッツと高度経済成長の浮力
50年代から60年代にかけて、この国の人口の三割が洪水のように大都市に殺到し、60年代中頃、東京オリンピックの頃からは、都市の内部でそうしたエネルギーが回流し始める。排水口に集中してきた水が渦を巻いて流れ込むように。その量とスピードは60年代後半にピークを迎えた。
音楽と流体
H・E・カミンスキー
61「スーダラ節」
1961年、前の年の安保闘争の余韻がまだ十分に残っていたはずのこの年の秋、突然クレイジーキャッツの「スーダラ節」が出現する。
テレビは早くから家の床の間に鎮座していた。
イージー・ライダー」と「イージー・ライター」(青山のミニコミ、都会出身)
戦後、アメリカの生活、「奥様は魔女」等 "ホームドラマ"に憧れ。
テレビ "有用性"からかけ離れたイメージ放射装置。
ベンヤミン「パリ―十九世紀の首都」
植木等の時代」→所ジョージ
<高校全共闘少年>
小川プロ 虐殺の森
あの時培われたもの、それは単なる若い年代の個人的な反逆心やあらかじめ整序された社会意識には還元できないもっと混沌とした、暴動のような共同体的なもの。遊びのようでいてしかも笑いと怒りとが一つになったような奇妙なパッション。社会への一瞬の構想力のようでもあり、同時に鋭い皮肉に満ちたクールな視線のようでもある集団的行動力。大都市の真ん中に異常発生したことによって資本主義の甘美な毒に免疫性を持つ反資本主義的精神。昨日までの遊び場が、今日は「首都中枢占拠」の市街戦の模擬戦場になってしまう可笑しさに堪えながらする街頭アジテーション。余りにも風俗的だったから敗北したのではなく、より徹底した風俗の変革に至らなかったからこそ敗北した闘い。こうした全共闘大衆の行動群に流れていた未完の可能性こそがもう一度検証されねばならない。
●<60年代の新宿>のトポス(場所)性
寺山修司
爆発的なインダストリアライゼイション
=爆発的な労働人口の移動=急激な都市集中
農山漁村から都市への人口大移動
3000万人 3分の2が60年代
中心は若い層 団塊の世代が若かった
金の卵、工員→大学生→サラリーマン
竹内静子「1960年代―現代ファシズムと労働」
商品が個人の価値の具体的な表象
能力―出世―能力の表象としての商品、生活スタイル
「資本の支配体系の新たな核心」=金、商品
共同的な熟練労働―最低限の助け合い生活の持続 → 個人の労働―個人目的―市民生活の充足
アメリカの個人主義
自分のゼニは自分一人で稼ぎ、自分一人で使う。ただし資本というお釈迦様の掌の上で
=資本主義的自我
資本が投げ与えたエサ=幻想としての生活スタイル
「山の手」中産階級 「持ち家(マイホーム)」幻想の散布 60年代に爆発的に普及したテレビ ホーム・ドラマ
演劇・音楽・映画・思想あらゆるアヴァンギャルドたちもまたこの街に集中する。
ジリつき、貧乏臭く発情した雑階級どもが溢れかえる街―新宿の60年代。このカオス。
ジャズ喫茶と雀荘
バリケード。不思議に魅力的な"リアリティ" 路上のリアリティ。生のリアリティ。
「学校群」方式
青山高校 新宿高校 定時制
新宿に最初の超高層ビル 濁流の勢いは遠心化し、雑階級は「中産階級」へ 郊外の住宅地へ
学生反乱でなく階級闘争
反撃は二つの方向からやって来た。まず、そうした街路のリアリティそのものを強大な国家の暴力によってあらゆる路上から拭い去り、次に、路上の人々を再び企業の共同性へと統合し直し、さらに総ての生活領域を商品というモノの氾濫によって覆い尽してゆくこと。この時商品とは、人々を「中産階級」のリアリティへと誘い込む無数の通底器として機能していったのだった。
全共闘衝動>とは、急激に成長する資本主義が自ら解き放った人間的諸力の流れが、資本主義そのものを転倒させる力に転化しようとするその瞬間に爆発的に生じた無数の物質の覚醒、無数の物質の飛翔。
兵頭正俊
ボブ・ディラン=ジューイッシュ
野崎六助
小林信彦「夢の砦」野坂昭如「新宿海溝」
新宿DUG
さよなら、60年代の新宿
12/12読了。








 

【読書メモ】外山恒一『良いテロリストのための教科書』(青林堂 2017年)

「あの青林堂
反"管理教育"活動
"自作自演インタビュー"形式
目次
ファシスト=右翼版のアナキスト
DVで2年投獄
呉智英
フランス革命 右翼−立憲君主制(イギリスのような)を主張
左翼−共和制を主張
「要はグラデーションを成しているわけです」
フランス革命→資本主義
身分性が廃止されて、人が身分と土地に縛られなくなったから。
商人はフランス革命を支持した。
「で、フランス革命の結果、さまざまな"規制"は撤廃されて、経済的な意味での自由主義すなわち資本主義も全面開花することになったんです」
「自由・平等・友愛」の「平等」の部分が怪しくなった
一握りの資本家と大多数の貧乏人
社会主義
「社会問題」=「格差社会問題」に取り組む人々が「社会主義者」と呼ばれるようになった。
→「生産手段」の「私有」禁止。
(生産手段の)共有財産主義=共産主義
マルクス=資本主義が進めば、その力を利用して、必然的に共産主義になる。
ロシアで起こったことは想定外。ドイツかフランスで起こると思っていた。レーニンも無理矢理。
スターリンがさらに強引に。
2000年 ネグリ・ハート「帝国」"現代の共産党宣言"
ナショナリズムインターナショナリズム
日本 西郷ー頭山満
     −中江兆民幸徳秋水
アナキズムは、共産主義にも反対する。
→「プロレタリア独裁
マルクスに言わせれば資本主義社会でおこなわれている政治は「ブルジョア独裁」です。国家権力は支配階級が被支配階級を抑圧するための道具にすぎず、資本主義社会では資本家階級が労働者階級を抑圧するために国家権力を握っている。」
「だからアナキストマルクス主義を批判したんです。当初は高邁な理想を掲げていても、いったん国家権力を握ってしまえばそれを手放そうとせず、腐敗して、場合によっては革命前より酷い専制国家が実現されかねない、と。実際そうなりました(笑)」
労働組合
右翼と左翼の違い。人間の「理性」を信じるかどうか、あるいは、「普遍的正義」の存在を信じるかどうか。
 
第2章 60年代学生運動が"試合に負けて勝負に勝って"ポリコレ化が始まった!―新左翼運動史・概説
共産党の本来は「武装闘争」
社会民主主義者は議会主義路線。武装闘争を否定。マルクスには肯定的だがレーニンには否定的。
共産党社会党は社会運動の分野で激しく対立、分裂。
新左翼は"反米反ソ""反自民・反共産"
1956フルシチョフによる「スターリン批判」
宮本顕治「自主独立路線」
宮本顕治不破哲三志位和夫
キャンプファイアーとフォークダンス 超軟弱路線
1956「ハンガリー事件」ハンガリー民主化運動をソ連が武力で弾圧
1958「ブント」結成
1960「60年安保闘争
全学連」「全日本学生自治会総連合
「ブント」=「共産主義者同盟」ブント=バンド
マルクス・レーニン主義「唯一の前衛党」
ブント=共産党に変わる唯一の前衛党として若者が結成
革命的共産主義者同盟」=「革共同」 革命的がついていない方がブント
革共同はどっちつかずで漁夫の利
革共同 中核派革マル派に分裂
60年代新左翼党派の細かい離合集散
60年代、細かい党派がバカバカしい学生が「ノンセクト・ラジカル」に
「70年安保」という呼び方は不適切 もっと範囲が広い 学内運動 →「全共闘
大学は学生自治が当たり前だった
自治会でなくて非公認に「〇〇共闘会議」など
各大学でバリケード籠城立て籠もり
民青が最大の敵
60年安保=詰め襟の学生服 全共闘ジーパン
ベトナム反戦
被害者としての反戦→加害者としての反戦
とにかく”欺瞞が大嫌い”。自己否定の強迫観念
「自己否定」+「加害者としての自覚」
羽田闘争勝利で盛り上がる→機動隊も装備を充実し、その後勝てず後退局面
新左翼の「反差別」路線を決定づけた華青闘(華僑青年闘争委員会)告発事件
主要8党派幹部 壇上で懺悔
「正しさ」と「力強さ」
東アジア反日武装戦線
安全圏で”反戦”を叫んでいるだけのくせに軽々しく”ベトナム人民との連帯”とか言うな
本気なら、こっちも死刑になるくらいの闘争をしなきゃならん
兵器産業、アジア諸国を経済侵略している企業を標的
革マル派黒田寛一松崎明 ゼネストだけが革命への道 秘密主義 徹底的に陰湿 自派の利益のみ追求
 
第3章 ”80年代以降”の左翼運動史 現在の左翼地図
ポストモダン思想=68年の思想
筑紫哲也「若者たちの神々」 日本では政治運動と結びつかなかった 日本ではサブカルチャー 日本では左翼的な政治運動に反発
『現代の偶像』 朝日ジャーナル朝日新聞社 1969年 ASIN B000J9HIHK
もっと「楽しいこと」。正しさより楽しさ
80年代後半以降。”ドブネズミ系”と”パヨク”
1965−1975生まれ
早熟がドブネズミ系、或いは”ヘサヨ”。遅咲き(3.11以降)がパヨク。
ドブネズミ系「だめ連」「素人の乱
パヨク「首都圏反原発連合」「しばき隊」
パヨクの代表的論客 野間易通 「ドブネズミ系は『サブカル』」要するに不真面目
辻元清美保坂展人 真面目系
浅羽通明 小林よしのりのブレーン ”右傾化した若者たち”の第一世代は浅羽の影響下
松本哉 ただ単に「お祭り騒ぎ」を作り出したい
素人の乱主催 反原発デモ第二弾で騒動
ヘイトスピーチに反対する会」「フリーター労組」山口素明 が「右からの脱原発針谷大輔のスピーチを認めない
”ヘサヨ”は自らを絶対正義と思い込む。自分たちの姿が傍目にどう映るか気にしない=かっこ悪い
ヘイトスピーチに反対する会」みたいなタイプの左翼=ヘサヨ
パヨク=共産党アレルギーがない
しばき隊=”デモ帰り”の在特会の”お散歩”(在日の店に因縁をつける行為)を阻止する活動
 
第4章 ”左翼の滅ぼし方”新しい愛国運動
呉智英浅羽通明小林よしのり
なぜ”反韓反中”ばかりで”反米”がないのか
山本太郎は真の右翼 天皇陛下に手紙
左翼の滅ぼし方=右翼が左翼のイシューを奪う。
右からの反原発、反TPP、反ネオリベ反グローバリズム
愛国的労働運動
 
11/24読了

【読書メモ】安田浩一『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書 2018年)

プロレタリアートの前衛たる左翼に対して、右翼を「民族の触角」と表現したのは、民族派の重鎮として知られた野村秋介だった。時代への感受性と、危機に直面した際の順応性を、野村は火事場の半鐘に喩えた。
尻込みしない。素早く駆け付ける。人々の命を守るために自らが盾となる。必要とあらば、そのための暴力でさえ肯定した。人々の素朴な心情に寄り添うのが右翼だと説いた。
目次
序章 前史―日本右翼の源流
1932(昭和7).2.9
民政党井上準之助、駒井重次の応援演説
文京区駒本小学校、「昭和テロ」の幕開け。
当時20歳 小沼正
「農村の窮乏、社会の腐敗」への怒りから。
1929(昭和4)世界恐慌
井上日召 前橋→早稲田→満鉄→陸軍の諜報活動→法華経日蓮宗→田中智学(国柱会
「日本精神に生よ」(改造社
資本主義批判とともに左翼思想に対しても批判。
天皇親政、「昭和維新
「一殺多生」
三菱財閥総帥、団琢磨←菱沼五郎
四元義隆
欧米→労働者階級を主軸とする社会主義革命
日本→右翼テロ(天皇の存在)
大洗海岸、磯浜、日蓮宗東光山護国寺
日本の右翼の源流=水戸学
日本初の右翼団体 福岡 玄洋社 頭山満
「大アジア主義」 海外部門「黒龍会
中江兆民 フランス帰り ルソー研究科
優先されるのは、人権か 国家か?
部分最適 全体最適
1917(大正6)年 ロシア革命
日本の支配層に大きな恐怖
→体制維持の先兵 支配層の暴力装置 争議弾圧
→1940 大政翼賛会に組み込まれる。
1925(大正14)治安維持法
神州不滅=水戸学
46年1月
「或種ノ政党、政治的結社、協会及其他団体ノ廃止ノ件」
350の右翼団体、4万9000人公職追放
 
第一章 消えゆく戦前右翼
愛宕山事件」「松江騒擾事件」[明朗会事件]
ワシントンハイツ 少年野球チーム 「ジャニーズ」 ジョン・ヒロム・キタガワ
「大東塾事件」
 
第二章 反米から「親米・反共」へ
愛知 三ヶ根山 殉国七士廟
岸信介の揮毫
岸・児玉ライン "巣鴨仲間"
>>僧とかに相談する<<
東条ら7名 48(昭和23)年12月23日
絞首刑 巣鴨プリズン→横浜久保山火葬場
三文字正平 林免郎
東アジア反日武装戦線
「左翼の血盟団
福田素顕
右派=国家社会主義ナチスも)
「皇道」→「防共」
48−50「赤狩り」「マッカーシズム」「レッドパージ
「防共新聞社」「防共挺身隊」
現在、右翼と言えば黒塗りの街宣車と、大音量で流される軍歌といったイメージが強いが、そうした街宣スタイルを確立させたのが、まさに「防共挺身隊」だった。
赤尾敏大日本愛国党
山口二矢 1960浅沼稲次郎社会党委員長暗殺事件
石原莞爾「都市解体、農工一体、簡素生活」
 
第三章 政治・暴力組織との融合
木村篤太郎「反共抜刀隊」
全国の博徒テキヤ、愚連隊ほか約20万人
暴力装置としての即戦力。
「政・暴・右」のトライアングル
院外団「自由民主党同志会」
日本青年社
右翼は体制維持の「別働隊」として機能した
「室町将軍」政界フィクサー三浦義一 佐藤栄佐久の相談役
安岡正篤「昭和の黒幕」陽明学
「全愛会議」「時対協」
児玉誉士夫「アイク歓迎実行委員会」
三無事件 破防法適用第1号
怪僧池口恵観 鹿児島出身 鮫島正純
小泉純一郎の父 鮫島純也
中国・上海「児玉機関」
→「関東会」
 
第四章 新右翼の誕生
牛嶋徳太朗 アイドル養成講座
田吉明「ピース缶爆弾事件」
ジャスコ 反核防統一戦線 「新右翼
一水会鈴木邦男 生長の家 谷口雅春
「早学連」→「日学同」
三島の激励文 森田必勝
維新政党・新風」魚谷哲央→鈴木 ネトウヨ
「全国学協」←「生学連」
実行委員長 井脇ノブ子
日本会議椛島有三・安東巌 長崎大学
椛島や安東らは他の保守系や(国際)勝共連合系の学生、体育会所属の右翼学生などとも手を組んで左翼潰しを図っていました。しかも彼らの背後にいたのは大学当局や警察です。自分たちが、いかにも、か弱い被害者であったかのようなことを言ってはいるが、実はもっとも権力に近い場所から、我々に攻撃を仕掛けてきたのが実情ですよ。」
「彼らは一貫して国家権力の側にいた人々です」
衛藤晟一百地章伊藤哲夫
70年11月25日三島事件
陸上自衛隊 市ヶ谷駐屯地
「聞け!聞け!静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらなければ、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ!」
だが、それに呼応する自衛隊員はいなかった。
72「一水会」「月に1回、第一水曜日に勉強会」
「対米自立」「安保破棄」
千歳基地ストリッパー 防衛庁 正門突破
レコンキスタ
野村秋介
石原慎太郎 新井将敬
北朝鮮から帰化」というステッカー
 
第五章 宗教右派の台頭と日本会議の躍進
岡山県奈義町 明治憲法の復原を決議
岡山は生長の家が強い
「堕胎」
椛島有三日本青年協議会日青協)」
1976 三木武夫 憲法記念大会
自民党本部で 反対に改憲集会
日青協自民党タカ派による造反劇
日本を守る会」朝比奈宗源
富岡八幡宮 富岡盛彦
日本を守る会」設立当初の役員は、生長の家富岡八幡宮だけでなく、明治神宮浅草寺、佛所語念会、世界真光文明教団修養団モラロジー研究所など、いずれも宗教団体の代表者たちであった。いわば宗教界右派の大同団結である。
「戦後の弊風を一掃して倫理国家の再建」
戦後民主主義へのバックラッシュ
元号法制化運動」
生長の家神社本庁がツートップ
草の根運動のノウハウ
日本を守る会」+「日本を守る国民会議」=「日本会議」97(平成9)
97「新しい歴史教科書をつくる会
村上正邦
「見落とされがちだが、重要な動機がある。公明党創価学会の政権参加が、宗教者の危機感をあおり、統合を後押ししたというのである」
>>オウム真理教事件の危機感も。権力にすり寄る。<<
櫻井よしこ 浅野一郎 中西輝政 西修 堺屋太一 津川雅彦 田久保忠衛 三好達 青山繁晴 葛西敬之 百田尚樹
会員数約4万人 47都道府県本部 243の支部
日本会議国会議員懇談会」280名
17年5月の集会 安倍首相 改憲スケジュール2020
国旗国歌法 外国人地方参政権反対運動
教育基本法改正 首相の靖国神社参拝
06年 第一次安倍 教育基本法改正
学校教育の目標に、「豊かな情操と道徳心」、「公共の精神」、「伝統と文化を尊重」が明記。
つくる会藤岡信勝西尾幹二小林よしのり高橋史朗
日本書籍 編集者「すさまじかったですよ。あらゆる非難を受けました。」
従軍慰安婦問題
→実際に採択が減った。
03年倒産
いまではほとんどの教科書が慰安婦問題には触れていません。
自虐史観」という言葉。
分裂。「日本教育再生機構育鵬社
現在 22都府県 約600校。
ネトウヨ企業 「フジ住宅」
高橋史朗「親学」
日本会議神道政治連盟(神政連)、車の両輪
「本来、神社はイデオロギーとは無縁の場所にあるはず。神社本庁や神政連は結局、改憲運動などを通して権力による支配の道具に成り下がってしまったと思うのです。彼らの言う『伝統』にしても、要するに戦前回帰、大日本帝国のことですからね。伝統を口にするのであれば、神社を本来あるべき祈りの場に戻すべきです」
 
第六章 ネット右翼の跋扈
国際的な基準で言えば「極右」
JCは<一言で言うとバカ>
宇予くん
<中国、韓国は自分たちを棚に上げて、日本だけに文句を言って来てるど。一言で言うとバカだど(中略)日本はこのバカ二国と国交断絶、もしくはミサイル爆撃したほうがいいど。><反日洗脳偏向報道機関のNHKだど。><ガイキチ朝日新聞。>
プロフィール欄<保守思想、趣味は筋トレ、好物は肉>
公益社団法人日本青年会議所」(日本JC)
JCの憲法改正推進委員会

アカウント消去、ウェブサイトでお詫び。
JC=2代目、3代目の経営者や役員。
「今世紀に入ったあたりから、自民党に近いJC幹部らによって、改憲に向けた世論づくりが議論されるようになった」
「自らが自民党と一心同体であることを隠さなくなった。」
私は、これこそがいま、もっともポピュラーな右翼の姿だと思っている。嘲笑と冷笑、そしてヘイトスピーチ。差別と偏見をむき出しに「敵」を次々と発見しては、個別に撃破していく。ネット出自の日本版「極右」は、各所で今日も暴れまくっている。
国政選挙最終日の秋葉原
日の丸の小旗
ネット
「匿名」ということ。
反日」「国賊」「売国奴」「非国民」
06年末「在特会
500→1万5000人
2ちゃんねる
年代や職業もさまざま。
ネットで真実を知った」
陰謀論フェイクニュース
「日本を支配しているのは在日」
09年12月 京都朝鮮第一初級学校に押しかける
朝鮮学校を日本から叩き出せ」「キムチ臭い」「スパイの子」
桜井誠(本名=高田誠)福岡出身 非正規雇用
日本文化チャンネル桜
12年 李明博 竹島上陸
「カウンター」
16年 国会「ヘイトスピーチ解消法」
自民党も「何らかの法的整備が必要」
桜井 日本第一党 16年 東京都知事選 11万票
右翼の主体は気分に乗せられた一般人
18年2月23日朝鮮総連銃撃事件
外国人を「ウジ、ゴキブリ」とブログに書き込む神社の宮司が書いた本に、推薦の言葉を寄せたのは安倍晋三首相だった。
高江ヘリパッド メインゲート前
「花瑛塾」仲村之菊(38歳)沖縄に常駐
民族派を自称するのであれば、他国の軍隊が日本に居座っている状態に異を唱えて当然です。」
木川智(33歳)現在約30人
愛国者」を自称しながら、しかし、あまりに不平等な日米地位協定を無条件に受け入れているのは、矛盾も甚だしい。
「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴とののしられた世の中を、私は経験してきた」三笠宮崇仁親王
右翼は国家権力の手足として振る舞うだけでよいのか。そんな思いを抱えながら本書を書き上げた。マイノリティを威嚇するだけの右翼など、あまりに惨めではないか。不公平、不平等への涙から生まれたはずの右翼が、日本社会を、地域を、人の営みを壊しているような現状が残念でならない。
11/19読了。