マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】河出書房新社編集部編『7・8元首相襲撃事件 何が終わり、何が始まったのか?』(河出書房新社 2022年)

2022年7月8日午前11時31分、奈良市近鉄大和西大寺駅北口前の路上
[目次]

大澤真幸 不可能性の時代の果て

「2度目は笑い話」として

・大正10(1921)年9月28日、安田財閥安田善次郎刺殺事件 犯行ウルトラ・ナショナリスト朝日平吾
橋川文三 明治的なテロから昭和的なテロへのターニングポイント 思想が深まった

「虚構の時代の果て」から「不可能性の時代の果て」へ

・「理想の時代→虚構の時代→不可能性の時代」25年区切り 45→70→95→2020 1970大阪万博→1972あさま山荘事件→80年代東京ディズニーランド→95地下鉄サリン事件→2022安倍銃撃事件
・虚構の時代=理想が描けなくなり、虚構に逃げ込む時代 不可能性の時代=虚構すら不可能な時代→現実そのものが不可能だと感じる人がでてくる

虚構の時代の宗教

宗教2世

・不可能性の時代は宗教すら不可能 山上容疑者の母は虚構の時代を生きていて精神的な渇望がある 不可能性の時代を生きている山上は虚構すら救いにならない

1Q84

ヤマギシ会、連合赤軍オウム真理教 ユートピア運動の系譜
・「確かに、教団としてのオウム真理教は今や事実上なくなっています。しかし、僕らの社会は、オウム的なものを真には克服できていない。かつてオウムというものが社会の中でなんらかの機能を果たしていたとして、それに代わる「何か」を、つまりオウム的なものを必要としなくなる「何か」を、私たちの社会は提供できていないということです。
宗教2世の話に戻りますと、母の世代は虚構の時代の宗教に救われてしまっているけれども、子供の方にそれに代わるような支えというものをこの社会は与えることができていない。子の方は、ただの脱落者としてこの社会に登場する。1995年にひとつの組織との戦いという点ではオウムを解体することができたけれども、私たちは、そこで提起されている精神的な問題を社会的に解決することができなかった。」

ニヒリズムアイロニー

ニーチェ「最後の人間」=精神に核のない現代人のこと=人間の生に意味を与える神をなくしたニヒリズム=自分は何のために生きているのか、自分の人生がめざすべき究極の価値や目標をもたない状態
・虚構の時代=消極的ニヒリズムに対して、積極的ニヒリズムを対置すること 
・神もなく、究極の価値もない=消極的ニヒリズム 「ない」ということを、「無がある」に転換してしまう。これが積極的ニヒリズムなのです。
・"There is nothing" を "There is Nothingness" と捉え返す、ということ ほんとうは両者は同じことなのですが、後者(積極的ニヒリズム)では、何か究極の実在(大文字のNothingness)があるように感じられてくる――ほんとうはニヒリズムなのに、ニヒリズム性が隠蔽される。虚構の時代の、よくできた新宗教がやっていたことは、このようなトリックです。たとえば、ただのつまらない男(神的なものは何もない人物)が、「最終解脱者」という神のごときものに置き換えられる。虚構の時代の宗教は、消極的なニヒリズムによって生きる気力を失っていた最後の人間に対して、積極的ニヒリズムを与えることで癒している、という構図=アイロニカルな没入
・アイロニカルな没入=ディズニーランドでミッキーマウスが気ぐるみだということをわかっていても、没入することができる 虚構をわかった上で没入する

まなざしの地獄

・1968永山則夫 他人のまなざし=自己肯定感、自己否定感に直結 まなざしの地獄から逃れられる個室が欲しい 

まなざしの不在の地獄

・2008加藤智大=まなざしがないことが地獄
・オウムのトレードマークにもなったヘッドギア。あれは、教祖の脳波や身体の波動を直接、個々の信者の脳や身体に伝えるものです。要するに、信者に、教祖のまなざしが来ているんだということを実感させようとしているのです。この世界の中で孤独で孤立していている人が、教祖からの直接のまなざしで生きる。信者同士が完全に個人化していて、その個人化した信者を教祖と直接的に繋ぐ。そうすると教祖を媒介にみんなが関わっていることになり、結果的にはコミュニティができるという構造になっているわけです。信者同士の間に相互扶助のコミュニティをつくっていた旧新宗教との大きな違いです。しかし、孤立していた個人は、教祖の特権的なまなざしを実感することで、「まなざしの不在の地獄」から救済されるわけです。

まなざしの不在のもっと深い地獄

・加藤の場合には、不在のまなざしへの希求があった。しかし、山上には、それすらない。地獄があまりにも日常になってしまったため、地獄の外への想像力もなく、外に逃げたいという気持ちすらない。
・山上、twitterで『ジョーカー』に対する言及14回

世界のコンテクストでの宗教

・(偽の)原理主義も資本主義下の不遇の受け皿 日本には宗教原理主義はない

家族という問題

・いまは家族への逆流が起きている その中で家族からも疎外されると、どこにも行き場がない 自己肯定感の調達場がどこにもない

島薗進 政治に守られた人権侵害

はじめに

新宗教=現世救済、現世肯定 新新宗教=現世否定的

現世肯定と現世否定

・新新宗教=隔離型 内側で強固に団結し、外に対しては攻撃的 しかし長続きしないので短期で穏健化する=アーミッシュエホバの証人

攻撃的な関わりが持続された

・献身→食口→マイクロ隊→霊感商法
岸信介福田赳夫金丸信らとの関係

偽り、脅し、収奪の肯定

政治運動や宗教運動の攻撃性強化

・当時朴正煕軍事政権 ベトナム戦争 反共、半平和運動=「原理運動」

1984年の『文藝春秋』掲載記事

1984年副島嘉和襲撃事件
・70年代 文鮮明 コリアゲート事件 83年脱税で収監
統一教会のフロント組織である「世界日報」の副島嘉和編集局長と井上博経理部長 自立して一般読者を獲得できる紙面に転換しようと試みた→統一教会側がこれを裏切りとして副島・井上両氏を追い出す→追い出された2人は連名で『文藝春秋』に内部告発記事を書く→雑誌が店頭に並ぶのは84年6月10日。6月2日に副島氏が自宅付近で襲われ、滅多刺しにされた。辛うじて命は取り留める。

『記者襲撃』から見えてくるもの

・樋田毅『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店、2018年)
筑紫哲也編集長『朝日ジャーナル1984-1987年 統一教会批判記事
・1987年朝日新聞阪神支局記者散弾銃で殺害 犯人捕まらず

政治家が行ってきた統一教会を守る働き

1984岸信介 文鮮明釈放嘆願の手紙をレーガン大統領に送る
・1992年ソウル合同結婚式 桜田淳子山崎浩子 この年入管法上は入国できない文鮮明が入国 金丸信の招き、中曽根康弘とも会う

霊感商法以後の収奪と日本の貢ぐ役割

霊感商法→巨額献金 先祖解恩 先祖の罪を償うため献金をさせる
・日本は「エバ国家」、「アダム国家」である韓国の教祖のために貢ぐ義務がある

法的規制の必要性

・宗教法人法の認定基準・取消基準の曖昧さ 税制優遇 フランスの反セクト法 

中島岳志 何が彼を動かしたか、そして連鎖を止めるために――秋葉原事件朝日平吾福田恆存

秋葉原事件 ソーシャルインクルージョン(社会的包摂) 関係性の貧困 
・山上家の破産から20年間、山上の人生になにがあったのか
統一教会の影響力を過大評価するべきではない 約8万票
安田善次郎暗殺 →1ヶ月後→ 原敬暗殺 →翌年→ 虎ノ門事件 →2年後→ 治安維持法成立 テロによって必ず治安維持権力が肥大化する
福田恆存「1匹と99匹と」99匹(の羊)を救うのは政治の領域、1匹を救うのは文学や芸術の領域
福田恆存「文学者の戦争責任」権力に加担したことが問題の本質ではない 1匹に寄り添えなかったことが問題 

菊地夏野 安倍/統一教会問題に見るネオリベラル家父長制――反ジェンダー運動とネオリベラリズムの二重奏

アメリカの著名なフェミニストのナンシー・フレイザーは、2017年にトラ ンプが大統領選に当選した時、リベラル左派に警告した。リベラル左派は当然ヒラリー・クリントンが当選するものと思っていた。その予想が裏切られたのは、リベラルたちの傲慢に労働者や失業者・貧困層が反乱を起こしたからだと。リベラルたちはフェミニズムや反レイシズムを旗印に、ネオリベラルな経済政策を支持し、一般の労働者たちを追い詰めたのだ。追い詰められた下層の人々がトランプに投票した。
・戦前の大日本国憲法 家長の絶大な権限 結婚にも家長の許可が必要 = 統一教会と同じ
・家庭教育支援法制定運動=国の規範を内面化した「少国民」の育成
少子化危機突破タスクフォース、ウーマノミクス、女性活躍 → ネオリベラルフェミニズムが政権に利用されている
ネオリベラリズム保守主義の二重奏 「反ジェンダー運動」 ネオリベラル家父長制

杉田俊介 二十一世紀のニヒリズムに抗した「ひとつの革命」

・21世紀型のニヒリズム=破滅型 右派=愛国を自称しながら国を滅ぼす 左派=資本主義に反対しながら、資本主義に完全に屈服する
橋川文三はかつて「昭和超国家主義の諸相」という論文で、明治的なテロリズムと大正・昭和初期のテロリズムの違いを論じたけれど、それで言えば「令和の超資本主義の諸相」を分析する必要があるのでしょう。たとえば、左右両側からのポピュリズム、脱出主義的なリバタリアニズム、加速主義やトランスヒューマニズム、反出生主義など、それらはいずれも「超資本主義」的なイデオロギーの諸形態に見えます。それらはおそらく、資本主義の中で資本主義を超えるものを探し求めながら、自分たちの足元を掘り崩しつつ究極の「無」を欲動しているように思えます。日本の絶滅をひそかに欲望するような、言わば反日民族主義者たちの欲望もそうでしょう。
・「世界の終わりを想像するよりも資本主義の終わりを想像する方が難しい」ように「日本が滅亡することを想像するよりもこの国の政治が変わることを想像する方が難しい」
・右も左も、上も下もひそかに陥っている深い深いニヒリズムをいかに自覚していくか。我らの内なるニヒリズムとの闘争がまずは重要

安藤礼二 世界の「右傾化」は何を意味するか――安倍銃撃の背後にあるもの

・アレクサンドル・ドゥーギンの娘ダリヤ爆殺
・ヨーロッパは基本的に政教分離している=ライシテ
折口信夫 天皇=霊的ボルシェヴィズム
生長の家創価学会 それぞれ神道の仏教の平等思想
・ドゥーギンの思想 リベラリズムでもなく、共産主義でもなく、ファシズムでもなく、さらなる第4の極を目指す 参考はハイデガーの哲学 ナチズムのレイシズムは否定するがファシズムは肯定する ほとんど日本の「近代の超克」議論と同型
・轟孝夫によるハイデガーの思想=ユダヤ教に端を発するヘブライズムと、プラトン哲学に端を発するヘレニズムの双方が、原初の存在、原初の自然を曇らせてしまった。だからユダヤ教以前、プラトン哲学以前に還らなければならない。
神道、仏教、一神教の問題=折口信夫鈴木大拙井筒俊彦の問題
井筒俊彦 イランイスラーム革命 パーレビ王家 スーフィズム老荘思想
・唐 則天武后武則天) 女性や、性をもたない宦官たちをも包含する絶対平等の教え、大乗仏教思想のなかでも、特に華厳を重視 
・あらゆる多様性を、その多様性のまま「一」なる宇宙、その宇宙を体現する太陽の仏、ヴァイローチャナこと毘盧遮那仏の表現とするのです。太陽からさまざまな度合いをもった光が生まれてくるように、さまざまな多様性をもった生命が生まれてくるのです。まったく同時期、やはりアーリア人を祖とするソグド人たちがゾロアスター教マニ教ネストリウス派キリスト教などを唐の都長安にもたらします。華厳の教えはそのような異教の教えとも親和性をもち、対話可能なものでした。マイノリティを自らのなかに包含するものでした。そのような時代を背景として、やはりソグド人の血を引く安禄山の乱を契機として、唐の皇帝たちから帰依されたのが、空海がその生まれ変わりと自称した不空でした。
・不空はソグド人の血を引いているという資料もありますし、セイロン島で生まれたという資料もある。要するに、民族的なアイデンティティが存在しない人なんです。さらに空海サンスクリットを習った般若という人は、今でいうとアフガニスタンカシミールあたりで生まれた人で、漢語よりもソグド語の方がよくできたらしい。そうした人々の間で形になった仏教を、空海は日本にもってくるんです。極東の仏教には、インドに生まれた仏教、中国で大きく変容した仏教、それが朝鮮半島を経て根付いた仏教の地層があるだけでなく、それらの上にはさらにソグド人たちの仏教があるのです。サマルカンドを母国とするソグド人たちは、そこから離れ、シルクロードを縦横無尽に旅する商業民となります。彼ら、彼女らはゾロアスター教マニ教ネストリウス派キリスト教と、そして仏教を信仰していた。それらの教えは、多様性をもちつつも、ソグド人たちの間では相互に対話可能なものであった。われわれが空海を経由して受け継いだ仏教は、どうもそのような仏教らしい。不空の仏教はマイノリティのすべてを平等に受け入れる仏教であると同時に、護国の仏教でした。マイノリティたちの守護者である皇帝に、強烈な権力を与える仏教でした。しかしながら、皇帝を多国籍からなる、あらゆるマイノリティからなる人民の上に超越させない。皇帝をマイノリティたちのなかに内在させる。そのことによって無敵の帝国が形作られます。

古川日出男 7・8の真の出発点に立つ

斎藤貴男 安倍神格化を促す「冷笑」の侵襲を憂う

国葬菅義偉の弔辞 山縣有朋の本
山縣有朋 軍国主義の権化 山城屋事件 
・玉川徹 羽鳥慎一モーニングショー 「国葬電通」舌禍事件
ひろゆき 辺野古座り込み揶揄騒動 堀江貴文 マイナンバーカード反対派冷笑ツイート

清水知子 「美しい国」の顛末――「失われた30年」と暴力の行方

1 銃の矛先

・思えば、1990年代初頭、バブル経済崩壊から始まった急速な景気後退、長引く不況、大手金融機関の破綻、大企業の倒産、そしてリストラの増加。「失われた10年」は、やがて20年に、そして30年になった。安倍政権は、加速度的に進行してきた日本社会の劣化と崩壊に拍車をかけ、独自の仕方でそれを深化させたように思われる。特定秘密保護法、安保法制の強行採決桜を見る会森友学園加計学園をはじめとする数々の疑惑を易々と否認し、のっぴきならぬ嘘を平然と重ねた。その歳月のなかで幾人もの人々が命を失った。そして、もはやまるで失われたものなどなかったかのように、この国の子どもたちは「失われた」時代に生まれ育ち、それが日常と化している。
・果たして真に「失われた」ものとは何か。最も懸念されるのは、この状況に麻痺してやり過ごしてしまうことである。何が問題の本質なのか。それを見極め、思考停止に陥らないこと。だからこそ今、私たちは戦後日本の構造的問題を直視しなければならない。

2 「責任の奪用」と「ダークヒーロー」の出現

アメリカの哲学者ジュディス・バトラーは、「責任」という考えが新自由主義に奪用された問題の重大さについて述べている。新自由主義は、労働者が経済的に自立する可能性を奪い、同時にその責任を労働者自身に負わせる。「自立しろ」という「責任」の要求に従うほど、ひとは社会的に孤立し、不安定さに陥る。こうした逆説的な状況において、労働者は資本によって「使い捨て可能」な存在とされ、にもかかわらず、自らの生存の責任を自分で負わなくてはならなくなった。
・バトラーはこのような過酷な生存条件を「不安定性(プレカリティ)」と呼んだ。「不安定性」とは、ある種の住民――女性、クィアジェンダー・マイノリティ、貧者、身体障害者、無国籍者、宗教的、人種的マイノリティーが他の住民よりも社会的、経済的な支援のネットワークから脱落して苦境に陥り、差別的な仕方で侵害、暴力、そして死に曝されるような、政治的に誘発された状況を指す。こうした過酷な生存条件こそが、人々の生を傷つきやすいものとし、生きるに値する生とそうでない生を区分してきた。
フランコ・ベラルディ(ビフォ)『大量殺人の“ダークヒーロー"――なぜ若者は、銃乱射や自爆テロに走るのか?』生きることが耐えがたい重荷となった人々は、自らの生を犠牲にして、「不幸を生産する工場」と化した世界を爆破する。
・ロンドン郊外に暮らす移民の子どもたちを描いてきた作家ハニフ・クレイシ、社会学者ガッサン・ハージ イスラム原理主義に走る心理 自分たちを痛めつける西洋と近代の拒絶 神のもとの平等
・イギリスのジャーナリスト、オーウェン・ジョーンズ『チャヴ 弱者を敵視する社会』現代のイギリス社会では、かつて重要な意味をもった労働者階級は無力化され、攻撃対象と化し、階級そのものが不在化されつつある。彼らはもはや抑圧、差別されるのではなく、あたかも存在しないかのように不在化され、階級闘争そのものが排除されている

3 No Future――「心の闇」と否認の政治

鈴木智之『「心の闇」と動機の語彙』当初、この言葉は、動機の不透明性が際立つ事件が続くなかで「心」に「闇」を孕んだ〈他者〉の内面を深く詮索しようとする「解釈的行為」を呼び起こすものだった。しかしそれは、次第に「一定の既視感のなかでその出来事が処理され、あるいは情報として消費されていくという事態」へと転換していく。つまり、〈他者〉の「心」に対する関心を手放すための言葉へ、「包摂」ではなく「排除」へと向かう言葉へと変質していった
・2016年相模原障害者施設殺傷事件 植松聖 衆議院議長大島理森への手紙 
・ここに読み取れるのは、「不安定性」が不均衡に再配分される社会への叛逆や復讐ではない。むしろ、統治者による生政治=死政治の論理を内面化し、それを予め先取りすることで、権力に同化しようとする姿勢である。「安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければ」と請うこの手紙を、自分が「あなた」の思惑に適う、いかに役立つ存在であるかをアピールする従順を装ったメッセージとして読むことはできないだろうか。なぜ安倍晋三なのか。もちろん彼が一国の首相だからだ。しかし、それだけでなく、じつは「安倍晋三」そのものが、自分と共振するスペクタクルなマリオネットであることを、彼がどこかで感じ取っていたとしたらどうだろうか。

4 荒廃した世界の嘘と暴力

・思い起こせば、安倍政権では、「データ」がつくる「イメージ」の操作に余念のない政治が執り行われていた。厚生労働省による「『非正規』という表現を使うな」という言葉の操作は、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた「ニュースピーク」さながらの世界を想起させた。企業、政治家、役所による相次ぐ統計不正とデータの「改変」、「消去」、「隠蔽」。「言葉」や「イメージ」をコントロールし、政府に「不都合な真実」は消去できるかのように、否認を重ねた言動は、正確には、政治ではなく、数々の看板政策を打ち出し、あたかも政治に取り組んでいるかのようなイメージをつくりあげる営みだった。
・そこに浮かび上がるのは、政治的責任を果たし、政治家として真摯に応答する意志ではなく、現実と理想、実態とイメージとの間に広がる埋めようのないギャップを、あたかも存在しないかのように見せ、事なきを得たい、という否認のメカニズムである。
フロイトによれば、「否認」とは、ある現実を意識の外部に押し出す「抑圧」とも、ある現実を表象ごと心的組織の外部に締めだす「排除」とも異なり、現実の認識を維持したまま、それが失われている状態を指す。つまり、そのような事実は望ましくないということを知りながら、それを知ることを拒むのだ。確認しておくべきは、この否認が単独に成立するものではなく、否認されているものについて何も知りたくないという共通の関心で封印された「否認共同体」によって支えられていることである。
・私たちは今日、「客観的な事実よりも、虚偽であっても、感情や個人的信条に訴えるものの方が影響力をもつ」「ポストトゥルース」の時代に暮らしている。
フェイクニュースが蔓延する「ポストトゥルース」の時代には、誤った情報が拡散するだけでなく、事実が事実だと信じられなくなる。それが怖いのは、「事実」の認識の齟齬が深まると、もはや対話の条件となる共通の土台が見出せず、コミュニケーションをとること自体が不可能に感じられることだ。
ハンナ・アーレントは、1971年にペンタゴン・ペ ーパーズ流出事件を機に執筆した「政治における嘘」のなかで、「伝統的な嘘」と「現代の嘘」の違いについて述べている。「伝統的な嘘」は不都合な真実を隠蔽する。対して「現代の嘘」は「事実」それ自体を破壊する。つまり、現代の嘘は、敵を欺くために隠蔽するのではなく、真実というカテゴリーそのものを破壊し、場合によってはそれに代わる「別のリアリティ」を造り出し、そのイメージの内に住まおうとするというわけだ。安倍政権時代に重ねられた様々な「イメージづくり」は、「伝統的な嘘」と「現代の嘘」を見事にハイブリッドした巧妙なものだったように思われる。
・この「イメージづくり」としての嘘は、事実と虚構の区別そのものを葬り去る。もはや、自分が騙されていようが、嘘つき扱いされようが一向に構わない。アーレントによれば、そうした「軽信とシニシズムの同居」こそ、全体主義が理想とする体制である。アーレントは言う。人びとが事実よりも希求しているのは「一貫した世界観」であり、複雑きわまりなく、偶然性に満ちた悲惨な現実よりも首尾一貫した納得できる世界の理解の仕方を 説明してくれる嘘である、と。
・この意味で、「安倍晋三」は、否認のメカニズムによってこの国を「アンダーコントロール」しようとしただけでなく、「不安定性」のなかで混迷を深める日本社会の現在そのものを否認しようとする人々の欲望を反映したマリオネットとして、きわめてスペクタクルな形象ではなかったか。
・相模原事件と山上事件 暴政的権力に対する服従化か脱同一化かという選択肢の結節点として浮上したのが「安倍晋三」だった

5 裏切られた民主主義――宗教とジェンダー

デリダ「国家は放っておけば、真理を教条主義や正統性に倒錯させる危険をつねに冒すので、国家が真理の大義に通じていないかどうかを監視しなくてはならない」

武田崇元 統一教会問題の暗部とリベラルへの踏み絵

反共トライアングル

統一教会が日本に進出したのが1964年で、68年に国際勝共連合が誕生しますが、それは東アジアにおける反共トライアングル形成の過程でした。日本の自民党朴正熙の韓国軍事政権、台湾の蒋介石政権をつなぐトライアングルです。それを媒介したのが統一教会岸信介笹川良一で、その背後にはCIAがあった。
岸信介はCIAです。これは陰謀論的な話ではなく、アメリカの反共政策を貫徹するために、アメリカは戦犯だった岸を復活させた。そこには日本を反共の防波堤にするには岸でなくてはだめという強固な意志があったわけです。岸は60年安保で政権の座を去りますが、隠然たる力をもち、アジア反共同盟を進める上でのキーパーソンとして生き延びた。ですから、統一教会の問題はまずアメリカの反共政策という世界史的な流れのなかで見なければならない。
・『ジャカルタ・メソッド』(ヴィンセント・ベネス著、竹田円訳、河出書房新社アメリカが第三世界で展開した反共十字軍政策の歴史が徹底的に告発されている
・1965年インドネシア9・30事件 スカルノナショナリズム、宗教、共産主義の三位一体を唱え、軍と共産党の調停者的な立場で権力を維持し、バンドン会議第三世界の旗手として、アメリカの新植民地主義とは対抗的な姿勢を打ち出していた。これに対してCIAは早い段階から軍に莫大な資金を投入して同盟者として培養していました。そしてスハルトはその意を受けて共産党のクーデター事件をでっちあげ300万人を虐殺してインドネシア共産党を文字通りの意味で殲滅したわけです。
統一教会の日本上陸と並行して、ベトナム戦争が仕掛けられ、インドネシアで大規模な白色テロが行われたことは何を意味するか。アメリカの世界戦略として、日韓に強力で安定的な反共親米政権を培養する必要があった。その媒介になったのが統一教会だったわけです。
・日本が安保闘争の渦中にあった1960年、韓国では学生や民衆の蜂起によって李承晩独裁政権が打倒される。いわゆる四月革命です。一挙に民主化が進み、南北和解ムードが広がりますが、61年5月に朴正熙が軍事クーデターで権力を掌握し、猛烈な弾圧をやり、反共親米政策を打ち出します。この過程でそれまでちんけな集団だった統一教会は、共産主義は悪魔であるという反共イデオロギーを全面展開して、朴政権と癒着していきます。1957年に何人かの陸軍将校が統一教会に入信していますが、その連中がKCIAの要員になり、統一教会金鍾泌率いるKCIAと一体化していくわけです。
・その統一教会と接近したのが岸信介とその盟友の笹川良一です。笹川もA級戦犯でしたが、アメリカの意向で復活した人物です。モーターボート競走法の成立に暗躍し、社団法人全国モーターボート競走会連合会全(全モ連)の会長におさまり、競艇という公営賭博の利権を握り、さらにその収益の受け皿として船舶振興会(のちに日本財団)を設立します。株式会社なら創業者の利権はブルジョア法的に正当ですが、公共性を持つ公営賭博の利権を笹川一族が握るというきわめて前近代的なことが戦後日本社会の中でまかり通っていたのもおかしな話です。
・もうひとつ重要なのは、1965年の日韓基本条約
・日韓の国交正常化をめぐる会談は李承晩政権の1952年からずっとあったわけですが、韓国側の賠償請求に対し、日本側は韓国併合は合法的なので賠償義務はないとし、さらに、鉄道を敷設したし水田も増やしたやないか、あんたらが勝手に独立したおかげで遺棄せざるを得なかった資産の返還を請求する権利がわしらにはあるんやと主張した。こういう、いまでもネトウヨがよく言う論理を、日本政府を代表して外務官僚の久保田貫一郎がまくしたてたわけです。植民地支配するのに基本インフラの整備はあたりまえだし、そもそも鉄道は軍隊の移動が目的で敷設されたわけで感謝しろというほうがおかしいわけですが、そういうことを平然と言ってのけたわけです。
・さすがにこの久保田発言は一九五七年末に外務大臣が取り消しますが、こういう居直りはずっ と潜在的にあって、それが近年また露骨に言われるようになってきた。これは本当に情けないこ とで、戦前においてすら、まともな右翼は韓日合邦運動を推進した一進会の李容九に対する血債 それなりに自覚していた。対等合邦が併合にすり替えられ一進会も解散という日帝政府の非道の措置に、李容九は授爵を含むあらゆる栄誉を拒否し、明治44年死の病床で「わしは世界一の大馬鹿者だった」と涙を呑んで死んでいく。そういう経緯を知りもせず、最近の保守論客といわれる連中は韓国側から併合を望んだというようなことを平然と言うわけです。

山上の一撃が明るみにしたもの

・1965年12月、朴政権との間で日韓条約が締結されます。9・30事件の3ヶ月後です。無償3億ドル、有償借款2億ドルで決着という内容でしたが、これには韓国ではもの凄い反対運動があった。それを朴正熙戒厳令を敷いて弾圧して強行した。この5億ドルを日本は恩着せがましく言うわけですが、北朝鮮と対峙する軍事政権の基盤を強固にすることは、日米の支配層にとっては至上命題だったわけです。しかし日本政府は口が裂けても賠償とは言いたくない。賠償と言うと日韓併合の不正議性を認めることになる。だから賠償なのか援助なのかそこは問わないということで朴正熙は妥協したわけです。
・この日韓条約ですべてカタがついたという日本政府の態度、さらにはどこまでも日韓併合の合法性にこだわる居直りが、統一教会の日本における掠奪経済を可能にした背景にあるという点を押さえておく必要がある。そこを見ないで統一教会の壺がけしからんといってもはじまらない。
・韓国のキリスト教 巫堂(ムーダン)のようなシャーマニズム的風土 再臨主義的で原理主義的傾向が強い=ホット
・反共のためだったらどんな連中とでも手を握るというアメリカと日本の支配層の強固な意志

歴史の力学

・政府も裁判所も信用できず、民衆の力が脆弱ないまの日本で、反カルト法というようなものが制定されたらどこまでいくかわかったものではない。暴対法だって現にいろんな問題を起こしていて、例えばお祭りでテキ屋が排除されたり、明らかにおかしい。テキ屋は日本の伝統文化なんでね。僕は伝統主義者だからそういう伝統を破壊するのはちょっと許せない。

小泉義之 悲劇と直接行動

政党政治の腐敗

井上日召自伝 「当時は政党全盛の時代であった。政友会と民政党と、二大政党が対立して、交互に政権を維持していたが、どちらが内閣を組織しても政治はちっとも巧く行かなかった。それは、彼等が党利党略を考える外に、毫も国利民福を慮らなかったからである。彼等は国民大衆の生活を犠牲にして、財閥に奉仕した。そうすることによって自家の権益を擁護し得たからである。/政友会は三井財閥に、民政党三菱財閥にそれぞれ結託して、専ら財閥本位の政治を行っていたことは、当時の有識者の常識であった。だから、あの不況時代にもかかわらず、財閥は年と共に富んで行ったのである。これに反して、国民大衆は失業と薄給と重税とに虐まれて、月と共に疲弊し困憊して行った。/かかる政治の腐敗に対して、国民の一部にはその非を鳴らす声があったが、多数国民は政党に踊らされて、選挙といえば、政友会か民政党に無批判な一票を投じていた。政治家自体に至っては、露だにも反省する色はなかったのである。」

家族の悲劇

ヘーゲル 国家と家族の止揚が人倫

啓蒙と三面の敵

ヘーゲル 「専制政治というものは、概念を欠いた総合的統一を、実在する国とこの理想の国とのあいだで打ちたてたものであって――なんとも奇妙に一貫性を欠いた存在なのだ――、それは大衆の不出来な洞察と、僧侶どもの陋劣な意図のうえに君臨して、その双方をまたじぶんのなかで統合している。民衆の愚かさと混乱に乗じて、手段として欺瞞に満ちた僧侶階級を使いながら、その両者を軽蔑しつつも利益を引きだす。つまり安定した支配を手にいれ、情欲と恣意とを満たすのだ。専制政治はたほう同時に、おなじ愚かしさを洞察については共有し、ひとしい迷信と誤謬をともにしている。」
・このような情勢の下で、「啓蒙」は、「三面の敵」と闘うことになる。すなわち、専制政治と僧侶教団と大衆とである。しかし、ヘーゲルの見立てでは、啓蒙はその闘いに敗北して没落する。しかもそうであるからこそ歴史が動いていくのだ。
・結局、啓蒙の問題はどこにあるのか。啓蒙と三面の敵、これら双方を契機として動いているもの、双方を没落させつつ進行する歴史を捉えていないところにある。
・感情と知性の問題 大衆を見下す知識人

国家に対する反抗の遺産

・「正しさ」は正しくない バトラーのアンティゴネー論
・山上は国粋主義者であり文化右翼
・歴史はいつ動くか? 

小田原のどか おまえはよこたわっている

ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒト 1918年11月ドイツ革命 ドイツ共産党 1919年銃殺と撲殺
・1990長崎市長銃撃事件と2007長崎市長射殺事件 本島等伊藤一長
・ロシアの映画監督セルゲイ・ロズニツァ『国葬』(2019) スターリン国葬
・アーティスト渡辺篤 池田大作肖像画 鑑賞客を装い自ら雑誌に手紙を送って拡散する
・Murasaki「見えないところ、ここにいる」、海野林太郎

井口時男 孤独なテロリストたちに贈る九句

小松川女子高生殺人事件 李珍宇 自殺衝動と殺人衝動は常に表裏一体
大江健三郎『叫び声』「おれはこの現実世界から拒まれている。おれはこの世界の正規の人間じゃない。そこでおれは逆に自分でこの世界の人間みなを拒否することで、おれがおれ自身の国からきた怪物だということを間接的に立証したんだ。」
・小学校から長期欠席をつづけ、「知」というものから疎外されつづけてきた彼は、獄中でマルクス主義という最高峰の「知」を学習し、ついに「無知」を克服して「真理」に覚醒した。自分のほんとうの敵は、貧困を放置し、貧富の格差を拡大してやまぬ資本主義社会の構造そのものだったのだ。それなのに、自分が殺したのは下層の労働者たち、社会変革において共闘すべき仲間たちだった。自分は拳銃を向ける標的を間違えて「仲間殺し」を犯してしまった。「無知」ゆえに犯した自分の罪にいま心から「涙」を流す。

平井玄 私怨論

森崎和江谷川雁 筑豊炭田

友常勉 山上決起の意味するもの

・ポリス=言葉による他者の説得と従属を原理とする
プラトン 詩人の追放
・「暴力は、古い社会が新たな社会をはらんだときにはいつでもその助産婦となる。暴力はそれ自体が一つの経済的な潜勢力なのである」マルクス資本論
アガンベン「暴力は自己ー否定である。それは行為者に属することでも、犠牲者に属することでもない。それは高揚と自己の放擲である。古代ギリシャ人が彼らの狂気の神として理解したように、である」 狂気の神、酒神バッカス
アガンベン『カルマン』「行為が引責可能であるためには意図的なものか意志されたものでなければならない」行為とは行為遂行的に決定されている
・目的と手段という二項対立は、ベンヤミンにしたがえば、手段を目的の正しさによって正当化する自然法と、目的の正しさを手段の適法性によって保証する実定法という、適法な手段と正しい目的の連結が可能であるかのような虚偽(ドグマ)の前提を分かちもっている。この虚偽の前提こそが国家の神話を構築する法措定的かつ法維持的暴力を構成する要件となる。民族虐殺・浄化も、ナチス強制収容所アメリカによる日系人強制収容所も、そして死刑制度も、目的の正しさによって手段を正当化し、手段の適法性をこじつけることで目的の正しさを強弁してきた。

仲山ひふみ 銃は外部ではない――相関主義テロリズムに関する即興的覚え書き

シリコンバレーとそれ以外というデジタル封建制とも呼べるような新たな統治性の秩序
・「彼はできない理由を考えるのではなく」
・カンタン・メイヤスー『有限性の後で』 何かを(数学的真理でさえ)誰にとっても絶対的であると主張することはできず、だからこそ各々が絶対的であると信じたいものを信じることが許容される「信仰主義 (fidéisme)」の時代 

木澤佐登志 死後の生に対する暴力に抗して――追悼可能性と構成的暴力をめぐる諸問題

・『ゆきゆきて、神軍奥崎謙三 ニューギニア 独立工兵第36連隊 元中隊長長村は、敗戦の日から24日後、東ニューギニアにおいて部下であり奥崎の戦友であった兵隊2人を銃殺したにも関わらず、厚生省へ「戦病死」と届け出ていた。
丸山真男超国家主義の論理と心理」暴力の連鎖という抑圧移譲 軍隊、家族 暴力のトリクルダウン 近代日本の国家秩序の隅々まで内在している運動法則 家父長制度
信田さよ子『家族と国家は共謀する』DVの被害者である妻が子どもを虐待する加害者となるケース
・奥崎と山上は暴力の連鎖を上方に向けた
・暴力は物理的な暴力だけでなく、制度的レイシズムや社会的不平等といった構造やシステムもまた暴力的であると捉えられる。前述した抑圧移譲もそうした構造的/制度的暴力のひとつである。バトラーは著書『非暴力の力』のなかで、構成的暴力には、暴力から守られるに値する人々とそれに値しない人々を区別する作用が内在していると指摘する。バトラーは別の箇所で、それを追悼可能性の問題にパラフレーズする。
・「暴力や破壊の禁止が、暴力から保護されるべき生物の中にその生を含めるためには、生は追悼可能なものでなければならない――すなわち、その喪失は喪失として概念化できるものでなければならない。ある生が他の生よりも追悼可能であるという状況は、平等の条件が満たされていないことを意味する。その結果、例えば、殺人の禁止は追悼可能な生にのみ適用され、追悼不可能だと見なされた生(既に失われたと見なされ、それゆえ十全に生きていない人々)には適用されないことになる。」
・安倍は国葬だが、一方で悼まれることのない多くの命 相模原事件 被害者の氏名非公表
・ダブル手帳氏「『追悼』とは、紛れもなくその人が生き、唯一性を持ち存在していたことを肌で感じ、その命が絶たれたことの重みを受け止め、何が失われたのかに思いを巡らせ、それを自分の中に位置付ける、という一連の営みである。」
・太平洋戦争で死んでいった人々の慰霊の問題。自国のために無意味に死んだ300万の死者、そして侵略戦争の犠牲者である2千万のアジアの死者。日本は、果たして彼らを道義的責任とともに弔うことができただろうか。無名兵士の墓としての靖国は、一人一人の戦死者たちを英霊という匿名的で抽象的な存在に還元してしまった。それは、彼らが味わったであろう苦しみも絶望も怒りも脱色された、汚れなき、清く潔白な、身体と固有名なき霊魂だけの存在である。加藤典洋は『敗戦後論』において、大戦の死者の弔い方のなかに「汚れ」の意図的な忘却を嗅ぎ取り、そこに戦後日本の「ねじれ」の原因を見て取った。
国葬に付されるべきは構成的暴力を不断に生み出す日本という国家=家族システムそれ自体であり、そのためになされるべきは暴力に抗する暴力、すなわち名もなき死者たちの〝死後の生〟を復活させるための蜂起である。

韻踏み夫 革命と支配のギャングスタ化について

ブライアン・デ・パルマカリートの道』(1993)「カルマ」因果応報
フランシス・コッポラランブルフィッシュ』(1983)ドゥルーズ「68年5月の申し子」 この時代にはやるべきことがなにもない人物
・ミシェル・ヴィヴィオルカ「暴力の新しいパラダイム」 世界革命を目指して暴力を厭わなかったブラックパンサー党から、政治性を抜き取られたストリート・ギャングへというブロンクスの歴史は、まさにヴィヴィオルカが言うような、政治的に意味付与された暴力から「政治以下的暴力」へという歴史をそのまま体現している

水越真紀 その「革命」で追放されるわたしたち

バブル崩壊後、欲望を低下させながら生きる方法
・任期制自衛官、終了後の再就職支援事業をパソナが請け負い

白石嘉治×栗原康 「行為によるプロパガンダ」は「加害としての自然」をもとめる

行為によるプロパガンダ

・五井健太郎「散弾銃から超現実主義へ――アナキズムとシュルレアリズムから考える現在」行為によるプロパガンダ エミール・アンリ爆弾闘争 マラルメ 象徴主義→シュルレアリズム
幸徳秋水 安重根に感激 孟子の仁 誰かが困っていたらがまんできない 勝手に体が動く 蟻塚の幼虫を助けるために火に飛び込む蟻
・幼虫一匹、救えないかもしれない。だけど、我しらず巣にとびこんでいくすがたをみて、他のアリたちも我も我もとアリ塚に突っこんでいってしまう。クロポトキンは言います。生は余剰だ。死にむかって、ムダに生命の炎を燃えあがらせる。猛スピードで燃え尽きてゆく。その火の粉が他の生にもとび散って、みんなの命もメラメラ、バチバチ。生は余剰だからこそ共鳴をよんで拡張していく。それが道徳なのだと。

靖国体制の多頭化として

・堀雅昭『靖国神社誕生――幕末動乱からうまれた招魂社』 靖国とは「長州神社」 
靖国の特殊性は、明治政府の要請にこたえるものです。むりやり徴兵する。そして戦死しても、一括して「招魂」する。そうやって明治の軍事政権を裏打ちする。
天皇制、徴兵制もカルト宗教

加害の転嫁から宗教は生まれる

吉田松陰 7回生まれかわって敵を殺す「七生殲賊」 スピリチュアルなテロリスト
東アジア反日武装戦線 日本の加害者性 加藤三郎「大地の豚」「闇の土蜘蛛」 「大地の牙」大倉組→大成建設 1922年 水力発電所建設 朝鮮人労働者 十数人 信濃川逃亡労働者殺害事件

「野蛮」としての「美」の「痙攣」

・人類は20万年狩猟採取 農耕革命は1万年前から もともと加害性/能動(中動)性で動いていた → 被害者性/受動性

外傷的な「神秘」を

中井久夫『分裂症と人類』、『徴候・記憶・外傷』 外傷(トラウマ)=頭(言葉)で考えるよりも早く身体を反応させるため、健全な機能
・19世紀に加速したわれわれの文明は、外傷的な「直観」にもとづく「神秘」をおさえこんだ
・宗教=実は本当の「神秘」を抑え込んでいる
幸徳秋水に話をもどしてしまうと、かれは最後、『自由思想』という雑誌をだします。おもしろいのは、そのメインが宗教批判なんです。あらゆる迷信を破棄しよう。因習に囚われるな。一切の迷信を唾棄して自由思想をつかめと。じゃあ自由とは何かというと、自己の良心と宇宙の理義を一致させろ、それが自由だと言っています。宗教をたたいていたら神秘主義になっちゃった。

足立正生 映画で山上を引き継ぎたい――なぜ『REVOLUTION+1』を撮ったのか

・山上 誠実に生きようと思ったら殺るしかないというほどの恨み
・とにかく事件を知ってじっとしてられなかった。山上は左翼でも何でもないんだけど、実際の生活の中で世間的には最大級の社会的な矛盾と貧困格差の真っ只中で生きてきて、それと対峙しようとしたら攻撃するしかないというところでそこに集中した。これは尊敬に値します。……つまるところ、許せないものは許せないということをはっきりさせることがいま最重要です。だから山上が突撃したようにこの映画を作ったのです。
5/12読了
 

要約と感想

◆要約:7・8安倍晋三銃撃事件を色々な角度からそれぞれの識者が考察する。
◆感想:面白かった。
まず前提として、自分はこの事件を信じていない。疑っている。
①散弾銃なのに流れ弾が他の誰にも当たっていないこと
②いくらなんでも警備が緩すぎること、2発目まで許している
③準備が整ったところで、目標が容疑者の自宅のすぐ近くで演説することが決まるという出来過ぎなタイミングの良さ
④お金のない一人暮らしの男が狭いアパートで実用に足る散弾銃を作れるものなのか疑問
⑤山で試し打ちなどしていたようだが誰にも気づかれなかったのが疑問
⑥事件後、すぐに統一教会の名前が出たが、警察とマスコミの連携プレーがスムースすぎて違和感
など、自分の中で疑問が多いので。
しかし、そのことは一旦横に置いておいて、この事件を報道の通りと受け入れた上でこの本を読んでも、大変為になった。
 
一番よかったのは武田崇元氏の論考。
日本の自民党朴正熙の韓国軍事政権、台湾の蒋介石政権がCIAの指示のもとに、反共トライアングルを構成する。
それを媒介するパーツが統一教会であり岸信介笹川良一らであると。
この身も蓋もないそもそも論。これを直視することが1丁目1番地だと思った。
 
そして、清水知子氏の論考がよかった。
ごく単純に言えば、この30年、日本はずっと新自由主義の悪政を敷いてきた。
そして特に第二次安倍政権以降は悪政なのにいい政治をしているかのようなイメージ戦略、プロパガンダ戦略に特化する。
倫理を破壊し、モラルハザードを起こした。
そのしっぺ返しとしての暗殺を食らった。
自公政権新自由主義政治の暴力性を直視することが大事だと思った。
 
そして、木澤佐登志さんの、暴力のトリクルダウンこと「抑圧移譲」の話、バトラーの「追悼可能性」の話がよかった。
小田原のどかさんの論考、日本の美術界も結構政治的、社会的な活動をしているんだと知った。
色々な人の論考が読めて、お得な本だと思う。