マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】橋爪大三郎、大澤真幸『ふしぎなキリスト教』 (講談社現代新書 2011年)

 
■目次
まえがき

第1部 一神教を理解する――起源としてのユダヤ教

 1 ユダヤ教キリスト教はどこが違うか
 2 一神教のGodと多神教の神様
 3 ユダヤ教はいかにして成立したか
 4 ユダヤ民族の受難
 5 なぜ、安全を保障してくれない神を信じ続けるのか
 6 法律の果たす役割
 7 原罪とは何か
 8 神に選ばれるということ
 9 全知全能の神がつくった世界に、なぜ悪があるのか
 10 ヨブの運命――信仰とは何か
 11 なぜ偶像を崇拝してはいけないのか
 12 神の姿かたちは人間に似ているのか
 13 権力との独特の距離感
 14 預言者とは何者か
 15 奇蹟と科学は矛盾しない
 16 意識レベルの信仰と態度レベルの信仰

第2部 イエス・キリストとは何か
 1 「ふしぎ」の核心
 2 なぜ預言書が複数あるのか
 3 奇蹟の真相
 4 イエスは神なのか、人なのか
 5 「人の子」の意味
 6 イエスは何の罪で処刑されたか
 7 「神の子」というアイデアはどこから来たか
 8 イエスの活動はユダヤ教の革新だった
 9 キリスト教の終末論
 10 歴史に介入する神
 11 愛と律法の関係
 12 贖罪の論理
 13 イエスは自分が復活することを知っていたか
 14 ユダの裏切り
 15 不可解なたとえ話1 不正な管理人
 16 不可解なたとえ話2 ブドウ園の労働者・放蕩息子・九十九匹と一匹
 17 不可解なたとえ話3 マリアとマルタ・カインとアベル
 18 キリスト教をつくった男・パウロ
 19 初期の教会

第3部 いかに「西洋」をつくったか
 1 聖霊とは何か
 2 教養は公会議で決まる
 3 ローマ・カトリック東方正教
 4 世俗の権力と宗教的権威の二元化
 5 聖なる言語と布教の関係
 6 イスラム教のほうがリードしていた
 7 ギリシア哲学とキリスト教神学の融合
 8 なぜ神の存在を証明しようとしたか
 9 宗教改革――プロテスタントの登場
 10 予定説と資本主義の奇妙なつながり
 11 利子の解禁
 12 自然科学の誕生
 13 世俗的な価値の起源
 14 美術への影響
 15 近代哲学者カントに漂うキリスト教の匂い
 16 無神論者は本当に無神論者か?
 17 キリスト教文明のゆくえ

あとがき
文献案内
 
近代=西洋的な社会
キリスト教 ローマ中心西側 カトリック 東側 正教会(オーソドクシー)
西洋=キリスト教型の文明
現代は近代を相対化しなくてはならない時代。
 

第一部 一神教を理解する ー起源としてのユダヤ教

1 ユダヤ教キリスト教はどこが違うか
ユダヤ教キリスト教=ほとんど同じ。
イスラム
ユダヤ教を内包する 否定的なものとして肯定する
たった一つだけ違う点→イエス・キリストがいるかどう
旧約聖書ユダヤ教
廃されるのではなく、残されている
ユダヤ教 ヤハウェ(エホバ)
間に誰かを挟む=預言者 ヨハネ
イザヤ、エレミア、エゼキエル、モーセ → イエス
「メシア」(ヘブライ語)=救世主=「キリスト」(ギリシア語、ラテン語
エス預言者より上。だって神(の子)だから。
イスラム教のムハンマド預言者
 
2 一神教のGodと多神教の神様
神道多神教
多神教=神様は仲間、友達
一神教のGodは人間を「創造する」
Godは怖い。
Godを信じるのは安全保障のため。
Godとの契約=日米安保条約みたいなもの。
 
3 ユダヤ教はいかにして成立したか
イスラエルパレスチナ)=エジプトとメソポタミアの両大国に挟まれた弱小民族
バビロン捕囚
マックス・ヴェーバー「古代ユダヤ教
ヤハウェは、最初、シナイ半島あたりで信じられていた、自然現象(火山?)をかたどった神だった。「破壊」「怒り」の神、腕っぷしの強い神だったらしい。そこで「戦争の神」にちょうどいい。イスラエルの人びとは、周辺民族と戦争しなければならなかったので、ヤハウェを信じるようになった。
日本にも似たような「八幡」という神。
逃亡奴隷やならず者やよそ者もヤハウェを祀る祭祀連合
旧約聖書の歴史はおそらく嘘(モーセヨシュア
 
4 世俗の権力と宗教的権威の二元化
Godが王を選ぶ。 預言者 権威と権力の分離
イスラエル王国 南のユダ王国に分裂
アッシリア バビロニアの侵攻 バビロン捕囚
イスラエルの民の神→世界を支配する唯一の神 に格上げ
ヤハウェにどうやって仕えるか
1.犠牲を献げる 祭司 サドカイ派
2.預言者に従う 預言者ヨハネ、イエス
3.モーセの律法を守って暮らす 律法学者(ラビ) パリサイ派
 
5 なぜ、安全を保障してくれない神を信じ続けるのか
6 法律の果たす役割
律法 「国家はあてにならない。あてになるのはGod(ヤハウェ)だけだ。Godとの契約を守っていれば、国家が消滅しても、また再建できる。」
 
7 ギリシア哲学とキリスト教神学の融合
8 イエスの活動はユダヤ教の革新だった
アブラハム、イサク、ヤコブ……60万人
モーセ出エジプト記
シナイ半島を40年さまよい
カナンの地(いまのパレスチナ)に定着
人間中心か神中心か。これが多神教一神教の違い。
「人生のすべてのプロセスが、試練(神の与えた偶然)の連続なのであって、その試練の意味を、自分なりに受け止め乗り越えていくことが、神の期待に応えるということなんです」
「試練とは、神が人間を「試す」という意味ですね。神は人間を試していいんです。人間が神を試してはいけない。」
 
9 全知全能の神がつくった世界に、なぜ悪があるのか
仏教は言ってみれば、唯物論
仏教の法則は、言葉にできないので、量産できない。一人一人修行するしかない。
「この、Godとの不断のコミュニケーションを、祈りといいます。」
この種の祈りは、一神教に特有のもの。
祈りを通して、ある種の解決が与えられると、赦しといって、Godと人間の調和した状態が実現する。
そうすると、残る考え方は、これは試練だ、ということ。
「アーメン」=「その通り、異議なし」
 
10 ヨブの運命――信仰とは何か
ヨブ記
ヨブ記のサタン=神の代理で地上を査察して回る係。
神のとんちんかんな答え
この世界が不完全なのは、楽園ではないから。そして人間に与えられた罰だから。
これが、試練ということの意味です。試練とは現在を、将来の理想的な状態への過渡的なプロセスだと受け止め、言葉で認識し、理性で理解し、それを引き受けて生きるということなんです。信仰は、そういう態度を意味する。
グノーシス主義 一世紀頃発生
善と悪との完全な二元論
 
11 なぜ偶像を崇拝してはいけないのか
一神教 侵略や戦争など過酷な環境
一神教、仏教、儒教=神々の否定
儒教=脱魔術化
偶像崇拝禁止=他の神々の否定 偶像をつくったのが人間だから
人間が自分自身をあがめてはいけない
 
12 神の姿かたちは人間に似ているのか
13 権力との独特の距離感
仏教、儒教一神教=普遍宗教、世界宗教
→多民族が共存した帝国の宗教
ユダヤ民族はもともと寄留者(移民)だった 土地所有が認められない
7日目 安息日 奴隷や牛馬の消耗を防ぐ 社会保障
50年目ごとに債務を帳消しにして奴隷を解放する「ヨベルの年」という規定もあった。
落ち穂拾い 寡婦や孤児の権利 こういう社会福祉的な規定「カリテート」
「カリテートは、イエスの教えの根底にも流れている考え方で、ユダヤ教がこの点を強調しなかったら、キリスト教もありえなかった。貧富の格差の拡大や社会階層の分解を警戒し、権力の横暴を見過ごせない。低所得者や弱者への配慮を、ヤハウェは命じている。」
ユダヤ教と権力
1.王権神授
2.長老の同意
3.預言者の批判
王権を民衆がコントロールするという、一種の民主主義。
 
14 預言者とは何者か
シャーマン 神がかり
民衆の中からふいに出現する
→ジャーナリズムの起源
 
15 奇蹟と科学は矛盾しない
預言者のしるしとして奇跡を与える 奇跡は科学に属する
 
16 意識レベルの信仰と態度レベルの信仰
 

第2部 イエス・キリストとは何か

1 「ふしぎ」の核心
イエス・キリスト預言者ではなく神
エスヘブライ語ではヨシュア
 
2 なぜ預言書が複数あるのか
マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ福音書=証言録
福音書の前にパウロの書簡
 
3 奇蹟の真相
ナザレ出身
 
4 イエスは神なのか、人なのか
父、大工のヨセフ 母、マリア
きょうだいあり 自身も大工 地元のシナゴーグに通い、旧約聖書をよく勉強した(パリサイ派モーセの律法)。
30前にナザレを出て、洗礼者ヨハネの教団に加わる。その後、何人かを連れて教団を離れる。ガリラヤ地方や、パレスチナ各地を訪れ説教。
預言者のように行動。あちこちで、パリサイ派サドカイ派とトラブルを起こす。エルサレムで逮捕され、死刑。
処女懐胎
預言者→グレードアップ→メシア(ヘブライ語)、キリスト(ギリシャ語)
メシアは、救世主なので、世の中をつくりかえる。ただ神の言葉を伝えるだけの預言者とは違います。マルクスレーニンのような感じで、革命家なわけです。
ところが死んじゃった。失望。→3日後に復活。
メシアからさらにグレードアップ。
パウロ 小アジアのタルソで生まれたユダヤ教徒。ローマの市民権。キリスト教迫害の急先鋒だったが、復活したイエスを見て「回心」。
 
5 「人の子」の意味
最古の黙示文学『ダニエル書』
 
6 イエスは何の罪で処刑されたか
当時ユダヤはローマの属州
罪状「神を冒涜した」罪
先輩格のヨハネも非業の死
 
7 「神の子」というアイデアはどこから来たか
神の言葉を直に述べる。100%神の意思と合致している。
 
8 イエスの活動はユダヤ教の革新だった
エスがやっていたことはユダヤ教の革新運動
 
9 キリスト教の終末論
神の国が近づいた」
ユダヤ教の終末論=ヤハウェが直接介入してくる。ユダヤ民族が救済される。
エスの「神の国」は崩壊 世界がリセットされて、つくり直される。
神の国」に入れる人と入れない人がいる。秩序が全て逆転する。
>>ユートピアと退屈と欲望について<<
 
10 歴史に介入する神
ノア→アブラハムモーセ→イエス
 
11 愛と律法の関係
愛は律法がたかちを変えたもの 関係のないところに関係をつくる
愛=自分がほかの人を裁かない事 1階に律法、2階に隣人愛
 
12 贖罪の論理
昔は報復、復讐法だった。
 
13 イエスは自分が復活することを知っていたか
14 ユダの裏切り
最後の晩餐「この中で一人、俺を裏切る」
「自己成就的な予言」
「ユダの裏切りがプロットのために絶対必要だが、そうすると、福音書で最も大事な役割を果たし、神の計画を完成させているのは、ユダなんです」
ペテロ 一番の弟子 天国の鍵 代々 カトリック教会の法王
 
15 不可解なたとえ話1 不正な管理人
「神と富の両方に仕えることはできない」「不正にまみれた富で友人をつくりなさい」
 
16 不可解なたとえ話2 ブドウ園の労働者・放蕩息子・九十九匹と一匹
17 不可解なたとえ話3 マリアとマルタ・カインとアベル
18 キリスト教をつくった男・パウロ
パウロ パリサイ派 
青年行動隊長 新興勢力のキリスト教徒を片っ端から捕まえては尋問し、弾圧していた。
エルサレムからダマスコに移動する最中、イエスに会って落馬→回心
12人の弟子の能力(教養)があまりに低かった。パウロギリシア語が出来た。
 
19 初期の教会
313年 ローマ コンスタンティヌス帝 キリスト教公認
392年 ローマ テオドシウス帝 キリスト教国教化 
 

第3部 いかに「西洋」をつくったか

1 聖霊とは何か
三位一体 「父なる神」「子なるキリスト」「聖霊
パウロの手紙→聖霊が書かせた→聖書
 
2 教養は公会議で決まる
多数派が正統、少数派が異端
公会議聖霊が働いているから、従わなくてはならない
381年、第一回コンスタンティノープル会議
 
3 ローマ・カトリック東方正教
西側 カトリック/東側 正教(オーソドクシー)
ローマ帝国分裂
ラテン語ギリシア語 ケザロパピズム(皇帝教皇一致主義)ロシア正教会 セルビア正教
 
4 世俗の権力と宗教的権威の二元化
八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』
ケルト人、ゲルマン民族ドルイド教
樹木崇拝、小人、妖精→キリスト教に入り込んだ
聖職叙任権闘争封建制(荘園貴族制)
教会や修道院 旧約聖書の10分の1税を求めた
王権と教会が併存する 西ヨーロッパ社会の骨格
教会の情報ネットワーク 人間の救済に関する権限
「そして、結婚にも介入した。結婚は本来、世俗のことがらで、キリスト教と関係なかったんですけども、教会は何百年もの長い時間をかけて、それを秘跡サクラメント)だということにした。教会が認める結婚が、正式な結婚になった。主権者である神の許可によって、結婚できるというわけです。どういうふうにこれが政治力になるかというと、封建領主の権力基盤は土地で、それを相続するでしょう。相続権は、正しい結婚から生まれた子どもに与えられることになっていったから、教会の協力がないと、封建勢力はみずからを再生産できない。世代交代のたびに、教会にあいさつが必要になる。王位継承や土地相続のたびに、教会に介入のチャンスが生まれる。これが政治的パワーになった。」
教会と封建領主は持ちつ持たれつの二人三脚
 
5 聖なる言語と布教の関係
ラテン語はちんぷんかんぷん→絵画、音楽、儀式
王=大名 新興武士
「ここで教会と王(キング)の関係が焦点になる。教会は王を支援して、戴冠という儀式を考えた。あなたは正統な王です、みたいな証明の儀式です。教会はこうして、少なくとも名目上、王に対する優位を確保した。教会が王よりも優位なら、教会のトップである教皇が命じて、王たちを戦争に行かせる、十字軍みたいなことも可能になるのです。」
 
6 イスラム教のほうがリードしていた
イスラム教 成立 7世紀 ムハンマド預言者
ヴェーバー、合理化、合理性=近代化
キリスト教の優位、一番は自由に法律をつくれる点→経済(ビジネス)と親和的
宗教改革は、キリスト教の原則に立つなら、伝統社会の慣習も教会の慣行も、聖書に根拠をもたないならすべて無意味であるという結論を導いた。ローマ教会は慣習の塊だったから、宗教改革のこの批判は決定的な意味をもった。」
宗教戦争→負け組がボート・ピープルとなって新大陸へ
 
7 ギリシア哲学とキリスト教神学の融合
アリストテレスの影響 トマス・アクイナス
神の法/自然法/国王の法
自然法=理性を働かせれば発見できる
理性は、神に由来し、神と協働するもの。
 
8 なぜ神の存在を証明しようとしたか
ヤハウェ=「存在」という意味。
否定神学=神については何も言えない。
 
9 宗教改革――プロテスタントの登場
プロテスタント=16世紀から17世紀にかけてカトリックの主流派を批判して出てきた、キリスト教のさまざまなグループ。
神-聖書-人間
余計なものを排除 潔癖 ミサや、教会、儀式を否定
「極端を言えば、聖書さえあればよく、自分と神だけが対話している、これが理想です。」
なかには教会は必要ないという、無教会派。 たいていは集団(教会)をつくり、牧師を置いている。
プロテスタントは曖昧さを許さないため、いくつものグループ(教会)に分かれる。
ルター派カルヴァン派、クウェーカー、バプティスト、アングリカン・チャーチ(英国国教会)など無数。
メソジストは分裂しまた合流
プロテスタント 教会を中抜き/カトリック 教会を重視
分裂したとはいえ、キリスト教なのは共通
 
10 予定説と資本主義の奇妙なつながり
ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
特にカルヴァン派のつくり出した教義に規定された生活態度(エートス)が、近代的な資本主義への決定的なドライブ
カルヴァン派=予定説
1.神の国に行けるか地獄に落ちるか既に決定されている
2.人間はそれを知ることができない
ピューリタン=イギリスのカルヴァン派
「なのに」勤勉に働く=神の恩寵を受けているのではないか?
→進んで、「成功」
 
11 利子の解禁
利子は、キリスト教徒の間ではもともと禁じられていました。とりわけ、中世には厳しく禁じられていた。最大の罪の一つ。
ユダヤ教同士では禁止。異教徒から取ることはOK。キリスト教徒はユダヤ教徒から、ユダヤ教徒キリスト教徒からお金を借りる。利子を払って。
シェイクスピアヴェニスの商人』 シャイロック ユダヤ
「ではなぜ、利子を取ってはいけないのか。利子それ自体がいけないのではなくて、利子を取ると同胞を苦しめることになるから。借金を申し込むのは、多くの場合、困窮した人です。困窮した同胞に借金を頼まれたら、利子を取って追い打ちをかけてはいけない。利子なしで貸してあげなさい、という規定なのです。」
質屋 上着は夜返す 石臼は駄目
利子の禁止は、単純に困る人がいるから
ジャック・ル=ゴフ『煉獄の誕生』 天国と地獄の中間
利子はせいぜい煉獄
 
12 自然科学の誕生
科学革命の担い手は、むしろ熱心なキリスト教徒。しかもたいていプロテスタント
1.人間の理性に対する信頼が育まれた
2.世界を神が創造したと固く信じた
=自然科学の車の両輪
スチュワードシップ 空き家になった地球を人間が管理・監督する権限 自由利用権 クジラの油、石炭
経験科学
神の真の意図が、聖書をはじめとするテキストにあるのか、それとも自然そのものにあるのかの違い
ガリレオ・ガリレイアリストテレス主義者は真理は『物語の本』にあると思っているが、自然こそが真に偉大な書物なのだ」
>>宇宙の始まりの意味<<
つまり、自然は、聖書以上の聖書
 
13 世俗的な価値の起源
主権や国家の考え方はみな、神のアナロジー
「人権も、神が自然法を通じて、人びとに与えた権利という意味がある。神が与えた権利を、国家が奪うことはできないから、そのことをはっきり、憲法に人権条項をつくって書き込んでおくのです。」
ネイチャー(神がつくったそのまま)の法。
市場メカニズムも ジャスト・プライス(正当価格) 靴がいくらか パンがいくらか →職業を守るため
 
14 美術への影響
音楽 絵画
 
15 近代哲学者カントに漂うキリスト教の匂い
カント ものすごく厳格なプロテスタント
定言命法=普遍的な倫理
隣人愛 誰をも尊重する
キリスト教から脱したように見える部分で、実は最も強い影響が現れている。
ヘーゲル)、マルクス主義を生み出してしまうのもキリスト教
マルクス「宗教はアヘンだ」→マルクス主義自体が宗教だったから。 
 
16 無神論者は本当に無神論者か?
宗教とは、行動において、それ以上の根拠をもたない前提をおくこと

17 キリスト教文明のゆくえ
あとがき

5/25読了 これでは不足

【読書メモ】『東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦 』(講談社BOX 2009年) その他2冊

目次
さやわか 概要
門下生同人誌『ケフィア』project1980(廣田周作(やずややずや)、三ツ野陽介)
門下生同人誌『最終批評神話最終批評神話(峰尾俊彦、村上裕一)
門下生同人誌『チョコレート・てろりすと』形而上学女郎館(雑賀壱、筑井真奈)
門下生同人誌『Xamoschi』Xamoschi(藤田直哉、井上ざもすき)
道場破り同人誌『plateau』より(「資本主義の抑圧と物語の可能性」フランス乞食(山田あずさ)「パロディの世紀と文化の未来」フランス乞食(坂上秋成))
道場破り同人誌『新文学』より(「アスペクト論」文芸空間(天野年朗)「ライトテロルの新文学」文芸空間(松平耕一))
道場破り同人誌『筑波批評 ゼロアカ道場破り号』より(「フィクションするとは一体いかなる行為か」筑波批評社(シノハラユウキ)「フラグメンタルアプローチ」筑波批評社(塚田憲史))
 
「鼎談 批評は何を語るのか」大澤信亮+杉田俊介+三ツ野陽介  
・柄谷「本質的な思想家は一生かけてただ一つの問題に取り組んでいくのだ」
・レイプファンタジー批判。そのときに、宇野常寛の分析は不気味に鋭くなっていく。批評家の実存性と批評は切り離せない。
・自分のなかに入り込んでいる社会性みたいなものを問うことで社会分析に繋がっていく。
赤木智弘の実存。北関東。家族。
(・むしろ人との関係の中にだけ、自分が現れる)
宮台真司『美しき少年の理由なき自殺』。
・ロスジェネ問題なんていうふうに言うけど、労働の問題は誰でも避けられない。どうやって金を稼いで飯を食っていくのか。
・何を論じれば「いま」的か、という問題ではない。常にすでにそこにある自分の足元について考えることが、他者の心を打つ問いとして響いてくる。
・三ツ野さんにとっての固有の問いっていうのはなんだろう 
鎌田哲哉
ゼロアカそのものを批評する
自分に固有の問題
 
創造のためのレッスン 三ツ野陽介
1.運命を創ること
サルトル「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」
・フランス人青年の問い 自由フランス軍に参加するか、母の元に留まるか
・つまり、人は何か理由があって一つの道を選ぶのではない。理由は、選んだ後に見出されるものにすぎない。何らかの既成の価値に従って選択が為されるのではなく、むしろ価値は選択そのものによって事後的に創られる。
・これを言い換えれば、人の生きる道はあらかじめ原因、理由、運命などによって定められているというよりも、人は生きながらその原因を、理由を、運命を創っていくということになる。
・「君が再び生きたいと願うに違いないような仕方で生きよ。それが義務なのである。というのも、いずれにせよ君は再び生きることになるのだから」とニーチェは言った。
・本当は僕たちはどこかで、自分の未来がどうなるかを知っているのではないだろうか。何をすればどんな未来になるのか知っていながら、それでも愚かな過ちを犯しつつ、生きているのではないだろうか。
・人間は、定められた運命に抗うことができるとか、いつでも過去を否定して別の自分に生まれ変わることができるという意味で自由であるのではなくて、自らの運命を肯定しその運命を積極的に創り出していくという意味で自由なのだ。そうやって僕らは自分たちの未来を定めていく。
 
2.判断を保留すること――「萌え」の構造
・萌え=判断保留 
九鬼周造『「いき」の構造』 いき=ツンデレ 諦め
・遊女に本気で惚れ込んで散財することは=野暮
・九鬼「恋の現実的必然性と「いき」の超越的可能性」
・判断を留保するなどということが本当にできるだろうか。それができるのは、僕たちが時間を止めることができる場合と、時間を巻き戻せる場合のみである。つまりありえない。判断を留保しているうちに、刻々と時間は過ぎていき、僕たちに残された時間は少なくなっていく。
・『東京タワー オカンとボクと、時々オトン』判断留保的なモラトリアムのなかで、しかし確実に時間が流れていき、父は老い、母は病にかかってやがて死んでいく、そんな時の流れの痛みを胸に刻みながら、主人公は成長したくないのに成長させられてしまう
・「成熟するとはどこまでも自分を創造すること」
 
3.降り積もる時間と記憶
・桜がなぜ美しいのかと言えば、それはたんに、いま目の前で咲き誇り散っていく桜の花びらが美しいだけではなくて、これまでの人生で見てきた桜と、それを見ていた自分がよみがえり、いまここにある桜と一緒に咲き誇っているから美しいのだ。そして僕はこれから死ぬまでにあと何回、桜を見ることができるだろう。桜はそういう未来も予告している。「いま」この瞬間のなかには、これまでの過去と、これからの未来がすべて詰まっている。「いまここ」が重要なのは、そういう意味においてである。
ジル・ドゥルーズが『差異と反復』において強調したのは、反復において繰り返されるのは「同じもの」ではなく「異なるもの」だということである。
フランス語の反復という語にはもともと「練習」という意味が含まれている。僕たちが生きていくなかで、同じことを繰り返すということは、それを「練習」することである。人間が「同じもの」の反復としての因果律から自由であると言えるのは、そういう意味においてである。要するに、僕たちが生きているからだ。
 
4.創造力の問題
・一般的に言って、ポストモダニズムの思想は、創造という概念を否定するもの。
ベルクソンは、デカルトのような考えに抗いながら、自らの考えを「創造的進化」という言葉で表現した。この宇宙は、細切れの瞬間の連続的な移り変わりではない。「宇宙は持続する」。過去は消え去らず、そのまま過ぎ去らずに、その記録を持続的に増大させていく。現在は一つの瞬間であると言うよりも、過去の情報の総体である。世界は過去を保持しつつ、新しい出来事を創り出しながら、創造的に進化していく。それは、そこで生きる僕たちにしても同じことで、いまこの瞬間の自分のなかには、これまで生きてきた人生のすべてがある。つまり、「一個の運命」がある。
桑島秀樹『崇高の美学』。崇高なものとは例えばこの「なんの変哲もない石ころ」であり、「ただの石という小さな物体の内蔵しているメモリーの容量」(種村季弘)には凄まじいものがある。崇高とは「ほんらい天上世界の高みに求められるものではなく、むしろこの地上世界(あるいは地下世界)に存在するいっけん下卑てみえるもの――まさに「なんの変哲もない石ころ」のようなもの――のなかにこそ求められるべき」
・確かにひとつの石ころには、その石が辿ってきた様々な歴史が詰まっているだろう。様々な噴火や堆積や浸食などを記録した末に、石はそこにある。これはひとつのハードディスクに多くのことが記録されているという今日的な事態と、本当はさほど変わらないことのはずであり、人間は莫大なデータを記録した宇宙のなかでずっと生きてきた。僕がこの原稿でずっと語ってきたのは、例えば人が桜を見て、桜にまつわる記憶を思い起こすのは、その人が記憶していたからと言うよりも、桜が記憶していたからであるということで、そんなわけないと思うだろうが、そういうふうに考えると世界はより美しい。
自然法則に抗って創造するのではなく、むしろ自然の自由な進化に身をゆだねて、そこから創造する力を汲み取っていく。過去を懐かしむときには、それが現在を愛するためであるように。未来を夢見るときには、それが現在を楽しむためであるように、自分が生きてきた記憶だけでなく、この世界そのものに記憶されているものをも呼び出しながら、その運命のすべてに肯定的な表現を与えることで、未来を創り出していく。創造的であるとはそういうことだと思う。
 
元長柾木 『現代哲学辞典』『新哲学入門』市川 山崎 『マブラブ』アージュ エロゲーナショナリズム
佐藤友哉 北海道 千歳市
新井素子 練馬 昭和30年代 100坪が基本 建ぺい率50%以下 必ず庭
岡田昌彰 シアトル ガスワークス・パーク
円城塔 ゲーデル不完全性定理
速水健朗 再ヤンキー化 上京のJポップ・歌謡史 『真夜中のカーボーイ
松平耕一 0年代の学生運動
あとがき
「そうか、批評ってなんでもありなんだ」
 

『ゲンロン1 現代日本の批評』

鈴木忠志 富山県利賀村
現代日本の批評
東浩紀「いま評論の世界では江藤淳の名をほとんど聞かないけど、じつはわれわれが直面し、頭を悩ませているネトウヨパラダイムは彼によって作られているんですよ。」
ニューアカ世代は、資本主義に寄生しながらも、それを内側から食い破るといった話が好き。浅田さんがよく「あえて」と言っていたのと、同じ構造ですね。蓮實さんにも通じるシニシズムと韜晦がある。
オウム事件の影響で、日本ではニューエイジ的な感性が断絶した。
 

『若者たちの神々―筑紫哲也対論集 (Part1)』

浅田彰京都大学人文科学研究所助手(経済学・社会思想史専攻)】1957年神戸生まれ。
糸井重里【コピーライター】1949年群馬県生まれ。
藤原新也【写真家】1944年福岡県生まれ。
坂本龍一【ミュージシャン】1952年東京生まれ。
ビートたけし【コメディアン】1948年東京生まれ。
全共闘世代との距離感 しかし若者への違和感 資本主義の圧倒的勢い 

【読書メモ】マーク・フィッシャー著、セバスチャンブロイ、河南瑠莉訳『資本主義リアリズム「この道しかない」のか?』(堀之内出版 2018年)


はっきり言わせてもらおう。たまらなく読みやすいこのフィッシャーの著書ほど、われわれの苦境を的確に捉えた分析はない。 ースラヴォイ・ジジェク
帯裏
未来の創造を諦め、ノスタルジア・モードにとらわれるポップカルチャー、即時快楽の世界に放置される若者の躁鬱的ヘドニズム。後期資本主義の不毛な「現実」に違和感を覚えつつも、その要請を淡々と受け入れてしまう人々の主体性を、マークは映画、音楽、小説の中に見出していく。生活世界をめぐる具体的事象から、社会構造に関わる抽象的問題へのすみやかな視点移動は、ネオ・マルクス主義理論の系統を踏まえているが、彼の文章がなかでも読みやすいのは、単なる哲学的思弁に留まることなく、自らの講師、ブロガー、音楽批評家としての生きた経験をもとに発せられた言葉だからだろう。この言葉を通じて、マークは2000年代以降、みながぼんやりと実感していながらも、うまく言語化できなかった不安感に的確な表現を与えてきた。
 
目次

第一章 資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい

アルフォンソ・キュアロントゥモロー・ワールド」(2006)
・後期資本主義の特性
対テロ戦争 危機の常態化
・「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」フレドリック・ジェイムソンスラヴォイ・ジジェクの言葉
・資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態
・『トゥモロー・ワールド』における災禍は、「これから起こるもの」でもなければ、「すでに起こったもの」でもない。むしろ、今まさに私たちはその中を生き抜こうとしているのだ。災難がある特定の瞬間に訪れることもなければ、世界は大きな爆発で終わるわけでもない。その姿は徐々に潰れ、消え、崩壊していくのだ。何が災難を招いたのか、誰にもわからない。害悪な存在の気まぐれとでも思えるほど、その原因は現在から切り離され、遠い過去のものになっている。負の奇跡、いくら後悔しても解けない呪い。そんな破滅的な状況は、呪いの起源となったものと同じくらい予測不可能な何かによってしか、和らげられることはない。行動は無駄であり、意味のない希望にだけ意味がある。救いなき者が最初に流れつく場として、宗教や迷信がはびこる。
新しい驚きがない。
T・S・エリオット「荒地」
・バターシー発電所 メタルマックス
・あらゆる文化に貨幣価値を付与「等価体型」
アーティファクト(人工遺物)
マルクス・エンゲルス共産主義者宣言」
「(資本は)敬虔な法悦、騎士の情熱、町人の哀愁といった清らかな慄き(おののき)を、利己的打算という氷のように冷たい水の中に沈めた。個人の尊厳を等価交換に貶め、お墨付きを得て既得権となっていた無数の自由を、ただ一つの、非情な商業の自由に置き換えた。一言でいえば(中略)宗教的、政治的な幻影で覆われていた搾取を、あからさまな、恥知らずな、直接的な、ぶしつけな搾取に置き換えたのである。」
・資本主義とは、さまざまな信仰が儀礼的・象徴的な次元において崩壊した後に残るものであり、そこにはもう、その廃墟と残骸の間を彷徨う消費者=鑑賞者しかいない。
アラン・バディウ「あらゆる存在が金銭的観点のみによって評価されるという、極めて不平等で残酷な事態が、私たちに理想状態として提示されている。自らの保守主義を正当化しようとする既成秩序の擁護者たちは、この秩序を素晴らしいとか、理想的だとはなかなか言えないが、代わりに、その他すべてのものが最悪だと言うことにした。彼らは言う。確かに、われわれは完璧に善い状況を生きているわけではない。しかし、悪のうちに生きていないだけ幸運だ。われわれの民主主義は完璧ではない。けれど、めちゃくちゃな独裁国家よりはマシだ。資本主義は不公平だ。けれど、スターリン主義のように犯罪的でもない。アフリカで何千万人をもエイズで死なせてはいるものの、ミロシェヴィッチのように人種差別的で国家主義的な宣言をすることはない。われわれの戦闘機はイラク人を殺害してはいるが、ルワンダ人がやっているように、彼らの首を鉈で切り落とすことなどしない、云々。」
・ここでいう「リアリズム」とは、どんな希望も、どんな前向きな状態でさえも危険な錯覚だと信じてしまう、鬱病患者のデフレ的視線と類似している。
ドゥルーズ=ガタリ
・資本主義=文化の途方もない脱神聖化
・資本=ジョン・カーペンター「物体X」、接触したものすべてを吸収、代謝、すべてを記号、数字化する
・新しいものはもう生まれないという病、フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」
・「ある時代は、自己自身に対する皮肉という危険な気分に陥り、そこからしてより一層危険な冷笑主義シニシズム)的気分にはまりこむ」ニーチェ「反時代的考察」
・そこでは従事や関与は国際派かぶれの物好き、そして超然とした傍観主義によって置き換えられる。すべてを知っていながらも、まさに己の(自)意識の過剰によって堕落し弱体化される、ニーチェのいう「最後の人間」とはこういう状態のことだ。
フレドリック・ジェイムソンポストモダニズム 未来の挫折 模倣作とリバイバル主義 → 一層深刻となり慢性化 → ある新種への変異を遂げてしまった。
・「ポストモダニズム」→「資本主義リアリズム」の3つの理由
1.社会主義階級闘争が敗れた。炭鉱ストのスト破り。マーガレット・サッチャー「この道しかない(there is no alternative)」
2.モダニズムとの対立関係をもはや示していない。モダニズムの敗北が決定した後
3.今の私たちは、かつて体制転覆の力をもつとされた題材の包摂(インコーポレイション)ではなく、そのプレ・コーポレイション、つまり、資本主義文化による欲望、期待、そして希望の先制的なフォーマット化および形成化に直面しているのだ。
例えば、従来的な反逆や抵抗の身振りをひっきりなしに、しかも、まるで初めてのように繰り返し続ける「オルタナティブ文化」や「インディペンデント文化」といった安定した領域の確立をみてみよう。「オルタナティブ」や「インディペンデント」なるものは、メインストリーム文化の外部にある何かを指すのではない。それらはむしろ、メインストリームに従属したスタイルというばかりか、その中で最も支配的なスタイルにすらなっている。
カート・コバーンの死
・HIP HOP 二重の意味での「リアル」
フランク・ミラーバットマンダークナイトシン・シティ) ジェイムズ・エルロイ(L.A.コンフィデンシャル)
・「もはや怒りも感じず、興味すら持てないほどの腐敗=汚職(コラプション)の過剰飽和」
・感受性の鈍化
 

第二章 もし君の抗議活動にみなが賛同したとしたら?

・このような身振りとしての反・資本主義は、資本主義リアリズムに打撃を与えるというよりも、実はそれを補強してしまう。
・「ウォーリー」(2008) ロバート・プファッラーのいうインターパッシヴィティ(相互受動性)の実例。
・つまり、この映画が反・資本主義を私たちの代わりに演じてくれるので、私たちは罪悪感に悩むことなく消費し続けることを許される。
・資本主義=イデオロギー不要
イデオロギー=むしろ、資本があらゆる主観的信念に依存しないで機能できるという実態を隠蔽する役割。
>>左右の争い、資本は高みの見物<<
・「もし私たちのイデオロギー概念が、幻影は認識の中にあるという古典的な概念のままだとしたら、今日私たちが生きる社会はポスト・イデオロギー社会だということになろう。今日の支配的なイデオロギー冷笑主義シニシズム)だし、人々はもはや、イデオロギーの真実性を信じていないし、イデオロギー的な提議を真剣にとらえる者もいない。しかしながら、イデオロギーの根本的なレベルとは、事物の本当の姿を隠蔽している幻想のレベルではなく、むしろ、私たちの社会的現実そのものを構成する(ある無意識的な)空想のレベルにある。そしてこのレベルにおいて、私たちの社会はポスト・イデオロギー的な社会から程遠いところにある。冷笑的に距離を保つ態度は、イデオロギー的空想の構造的力から目を逸らすためのひとつの方法(中略)にすぎない。たとえ私たちが事物を真剣に受け止めなくても、たとえ私たちがアイロニーによって対象から身を引こうとも、それでも、私たちは加担しているのだ。」
・☓抗議デモ ○政治運動を組織
・反・資本主義運動とは、そもそも叶うはずがないと自ら諦めつつも、一連のヒステリカルな要求を繰り返すものなのだ、との印象。
・知っておくべきは
1.資本主義が超抽象的かつ非人称的な構造であること
2.私たち自身の、地球規模にわたる圧制のネットワークへの加担
  

第三章 資本主義とリアル

・「社会主義リアリズム」↔「資本主義リアリズム」 パロディとしての言葉がマジになった。
・資本主義リアリズムを揺るがすことができる唯一の方法は、それを一種の矛盾を孕む擁護不可能なものとして示すこと、つまり、資本主義における見せかけの「現実主義(リアリズム)」が実はそれほど現実的ではないということを明らかにすることだ。
新自由主義は、倫理的な意味合いでの価値というカテゴリーそのものを排除するよう努めてきた。過去30年間にわたって、資本主義リアリズムは教育や保険制度を含む社会の全てがビジネスとして経営されるのがごく当然なことだという「ビジネス・オントロジー(仕様)」の確立に成功してきた。ブレヒトをはじめ、フーコーバディウに至るラディカルな思想家の数々が主張してきたように、社会の開放を目指す政治はつねに「自然秩序(あたりまえ)」という体裁を破壊すべきで、必然で不可避と見せられていたことをただの偶然として明かしていくと同様に、不可能と思われたことを達成可能であると見せなければならない。現時点で現実的と呼ばれるものも、かつては「不可能」と呼ばれていたことをここで思い出してみよう。
バディウが苦い口調で述べるように、「可能性の範囲が厳格かつ隷属的に定義されることが『近代化』と呼ばれる」のだ。「そうした『改革』はつねに(多数派にとって)実現可能だったものを不可能にし、(支配権をもつ少数派にとって)本来無益であったものを利益を生むものにすることを目的とする。」
ラカン リアル(現実界)とリアリティ(現実)の区別
・アレンカ・ジュパンチッチ
現実原理とは物事の自然な在り方ではないのだ(中略)。現実原理そのものはイデオロギーによって介される。いや、むしろそれがイデオロギーのもっとも高度な形式、すなわち、経験的事実あるいは(生物学的、または経済学的な)必然性として現れる(そして、私たちがしばしば非・イデオロギー的だと捉える)イデオロギーを形成しているとさえ言えるのだ。私たちがイデオロギーの仕組みにもっとも注意を払わなければならないのは、まさにこの点である。」
>>色眼鏡レベルでなく、水晶体レンズに「色」が埋め込まれている。それに気づくこと、名指すことこそ<<
ラカンにとってリアルとは、あらゆる「現実」が抑圧しなければならないものであり、まさにこの抑圧によってこそ、現実は構成されるのだ。リアルとは、目に見える現実の裂け目や、そのつじつまの合わないところのみに垣間見ることのできる、表象不可能なXであり、トラウマ的な空洞だ。だから資本主義リアリズムに対抗する上で可能な戦略のひとつは、資本主義が私たちに提示する現実の下部にある、このようなリアル(たち)を暴き出すことであろう。
・無理(矛盾)の一つは環境問題。
・以下では、まだそれほど政治的議論の対象となっていない資本主義リアリズムにおける二つのアポリアに焦点を当てよう。第一の問題は精神保健(メンタルヘルス)だ。精神保健は、実は資本主義リアリズムの仕組みをあらわす典型的な例である。
・だが今必要とされるのは、それよりもずっとありふれた病いを政治化することなのだ。まさにその尋常性こそが重要なのだ。今の英国では、うつ病はもはや国営医療サービスによって治療されている疾患のうち最も数が多いものとなっている。オリバー・ジェイムズは著書『利己的な資本家』〔The Selfish Capitalist〕のなかで、精神病の増加と、英国、アメリカやオーストラリアのような国が実行している資本主義の新自由主義的な形状との相関関係について説得力のある仮説を提示した。このジェイムズの主張を踏まえて、私は資本主義社会のなかで増加するストレス(および苦悩)の問題を新たな枠組みで考える必要があると主張したい。精神的苦痛の解消を個人の自己責任に帰するのではなく、つまり、過去30年にわたってストレスが大掛かりに個人の問題として私有化〔privatization〕されてきた流れをそのまま引き受けるのではなく、私たちは次のような問いかけをしなければならない。これほど多くの、しかも多くの若い人が病気だという状態がどうして受け入れられるものとなったのか。この資本主義における「精神疾患の大流行」から示唆されるのは、資本主義が唯一機能しうる社会制度であるというよりも、それが本質的に機能不全であり、かつ機能しているという建前を維持するコストさえも非常に高い、ということではないだろうか。
・もうひとつの現象として、私は官僚主義(ピューロクラシー)をとりあげたい。
・脱中心化された形式
・継続教育カレッジ 労働者階級のための学校
 

第四章 再帰的無能感、現状維持、そしてリベラル共産主義

・フランスに比べてイギリスの学生は政治的に無関心
・しかし、これは無関心でも冷笑主義でもなく、再帰的無能感の問題であると私は主張したい。
・彼らは事態がよくないとわかっているが、それ以上に、この事態に対してなす術がないということを了解してしまっているのだ。けれども、この「了解」、この再帰性とは、既成の状況に対する受け身の認識ではない。それは自己達成的な予言なのだ。
再帰的無能感というのは、イギリスの若者に共有されている暗黙の世界観であり、〔社会に〕普及した多くの病理と関係している。私が教えた十代の学生の間でも、精神保健(メンタルヘルス)の問題を抱えていたり、あるいは勉強に困難を覚えていたりする者が多かった。鬱病は風土病である。
・現在、後期資本主義のイギリスにおいて「ティーンエイジャーである」ことが、もう少しで病気の一種として再定義されてしまいそうな状態だといっても過言ではない。この病理化によって、政治的な取り組みの可能性は予め除外される。そして、このような問題を自己責任化すること、すなわち、問題の原因が家族背景ないしは個人の脳神経系における化学物質の不均衡のみにあるとみなすことによって、社会制度にまつわる因果関係の追求は度外視されてしまう。
・これまで出会った十代の学生の多くは、鬱病的快楽主義と名づけられるような状態にあったと思う。通常なら、鬱病は非・快楽〔anhedonia〕の状態が特徴だとされるが、ここで述べる状態は、快楽を感じることができないわけではなく、むしろ、快楽を求める以外何もできないというのが特徴だ。
ドゥルーズは「追伸――管理社会について」という極めて重要なエッセイのなかで、フーコーによって描かれた工場・学校・監獄などの閉鎖的空間を中心に組織化されてきた規律社会と、すべての制度が分散型組織のなかへ埋め込まれる新しい管理社会とを区別して論じる。
カフカ『判決』
・管理社会 「仮の無罪」か「無期限の延期」か。
・外的な監視(surveillance)→内的な警備(policing)
・時間の分割という旧来の規律のあり方。
・カレッジの学生たち、快楽(ないしは非・快楽)的なダルさに浸る
・やわらかな昏睡状態、プレイステーション、夜更かしテレビ、そしてマリファナがもたらす家庭的な安心感。
・「過剰接続」 ポスト文字社会の「新しい肉」
・ヘッドフォン ― 公共空間に対して影響力をもち得るのではなく、むしろOedipod的な消費=至福へ引きこもるための、社会性に対する壁
ポスト識字 的な能率のよさ
>>借金をした挙句、16で退学した場合にもできたであろうバイトをする<<
・1968「石畳の下は砂浜だ」
ジョージ・ソロスビル・ゲイツ「リベラル共産主義者
・資本主義に抵抗できても超克はできないという暗黙の妥協を抱える抗議者たちと、資本主義におけるモラルなき非道は慈善活動によって埋め合わせるべきだと唱えるリベラル共産主義者たちを総じてみれば、いかに資本主義リアリズムが現在の政治的可能性の範囲を限定しているのかが伺える。
・ポスト・フォーディズム型の管理社会において、「柔軟性」、「多国籍性」、「自発性」というものはマネジメントの特徴に他ならない。
適応であれば、これまでも必要以上にうまくやってきたことだし、「うまく適応してのける」というのはそもそも管理主義の戦略そのものだ。
・「超格差社会
労働組合の愚かしさ。 
・政治的領域のシフト 給与をめぐる争い → メンタル・ヘルス、「労働」そのものへ。
 

第五章 1979年10月6日―「何事にも執着するな」

マイケル・マン「ヒート」 フラット化したロサンゼルス
・際限なく自己複製するチェーン店の遠景
・このマッコリーの生活態度(エートス)は、リチャード・セネットが、ポスト・フォーディズムにおける労働の再編がもたらした情動の変化についての重要な研究である著書『人格の腐食』で分析したものと一致している。この新しい条件を要約するのは「非長期」〔no long term〕という合言葉だ。
・資本主義は(親から子供と過ごす時間を奪い、互いを感情的に支え合う唯一の慰めになるカップルに耐え難いストレスをかけながら)家族を弱体化させるが、それと同時に(労働力の再生産およびその保護に不可欠な手段、または社会経済におけるアナーキー的状況がもたらす精神的傷を慰めるための救心剤として)また家族を必要としてもいる。
マルクス経済学者であるクリスティアン・マラッツィによれば、フォーディズムからポスト・フォーディズムへの変遷には非常に具体的な日付を与えることができる。1979年10月6日である。連邦準備制度金利を20ポイントほど引き上げ、現在の私たちをとりまく「経済的現実」を構成することとなった「サプライサイド経済学」への道を開いたのは、この日のことだ。
フォーディズム→ポスト・フォーディズム
・硬直性→柔軟性
・パートタイム化、非正規化、アウトソーシング
・労働と生活は不可分となる。資本はあなたを夢の中まで追いかける。時間は線状であることをやめ、混沌となり、点状の区分に分解される。生産と分配が再編成されながら、人間の脳神経もまた再編成される。ジャストインタイム型生産の構成員として効率よく働けるためには、予測不可能な出来事に対応する能力を身につけ、完全なる不安定さ、あるいは気味の悪い新語を使えば「プレカリティー」(「不安定な」(英: precarious、伊: precario)と「プロレタリアート」(労働者階級)(独: Proletariat、伊: proletariato)を組み合わせた語で、1990年代以後に急増した不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者および失業者の総体。)という状態の中で生きることを学ばなければならない。労働期間と失業期間が交互に入れ替わる。概ね、将来の見通しを立てられないまま、数々の短期の仕事を繰り返すことになる。
・惰性的な組織労働者と新しい貧困層の対立
・労働者である彼ら・彼女らは、従来的な階級対立に関心をもちながらも、年金受給者としては自身の投資からの利益を最大化することにもまた関心をもっている。
→分裂症 →双極性障害
・資本主義は人々の感情をエサにしながら、それらの感情を再生産していくのだが、その規模の大きさは、これまでのどんな社会制度にも類例をみない。
精神障害を脱政治化する働き
・例えば、鬱病セロトニン濃度の低下によって引き起こされるという主張が正しいとすれば、なぜ、特定の個人においてセロトニン濃度が低下するのかが説明されなければならない。そのためには社会的・政治的な説明が求められるのである。そしてもし左派が資本主義リアリズムに異議申し立てを試みたいのであれば、精神障害を再政治化していくことが緊急の課題になるだろう。
 

第六章 形あるものみな広報へと消えゆくー市場型スターリニズムとお役所型反生産

マイク・ジャッジ「オフィス・スペース」(1999)
ポール・シュレイダーブルーカラー」(1978)
・「七つのフレア」(バッジもしくは個人的なアイテムなど)で飾らなければならないのだが、これは「クリエイティビティ」や「自己表現」といったものが管理社会の労働において内在化されたことを示す見事な例だろう。パオロ・ヴィルノやヤン・ムーリエ・ブータンらが指摘したように、今や労働は生産的な要求とともに、情動的な要求も労働者につきつけているのだ。また、こうした情動的な貢献を露骨に数量化しようとする〔経営者の〕試みも、これら新しい協定について多くの示唆を与える。
・充分はもはや充分ではない
・「可(satisfactory)」が「可」として評価されない。
・「目的と目標」「結果主義」「ミッション・ステートメント」をめぐる新しいタイプの官僚主義が浸透してきている。
・マネージメントと官僚主義のさらなる重層化
新自由主義では逆に官僚主義になる
・それらしき表象
・「地方自治体が提供するサービスの向上よりも、それらのサービスがきちんと表象されていることの保証により多くの労力が費やされる」
・「市場型スターリニズム
・実際の成功よりも、成功の象徴に価値を認める
・後期資本主義はスターリニズムに似てくる
・広報的生産の偏在化
・この問題に関して、ジジェクが「大文字の他者」というラカンの概念について述べたことは極めて重要だ。大文字の他者とは、あらゆる社会的分野が前提とする集団的なフィクション、または象徴的な構造のことだ。
・この大文字の他者の本質的無知によって、広報の働きは支えられるのだから、大文字の他者はまさに広報やプロパガンダの消費者
>>プロパガンダを流すことと、街頭インタビューのリアクションはセット。これを含めてのプロパガンダ<<
・「文化が経済へ溶解してしまうポストモダン
・ニック・ランド『メルトダウン』惑星規模の人工知能としての資本 
ドゥルーズ=ガタリ「名づけえぬもの」としての資本 サミュエル・ベケット
・同様に、資本主義が次第に「牙を剥き出しにする」傾向もなければ、強欲、無情、非人間性という資本の「本当の姿」が徐々に暴露されることもない。むしろ反対に、広報・ブランディング・広告によって引き起こされる「実体なき変容」が資本主義において極めて重要な役割を果たす。
・資本主義の企業は社会的責任や思いやりを有するのだと伝えてくる表向きの文化と、他方での、企業は実際のところ無慈悲で腐敗しているのだという広く共有された認識との隔たり。
・ジェラルド・ラトナー ラトナーズ 宝石商
ジジェク「物事をリアリティに還元する冷笑主義シニシズム)は(中略)ここで的を外してしまう。裁判官が語るとき、ある意味では、その裁判官の人格という直接的現実よりも、彼の言葉(=法制度の言葉)のほうに真実性がある。自分の眼に見えるものだけを信じていると、肝心なところを単純に見落としてしまう。「騙されない人は間違える」といったラカンは、まさにこの逆説を狙っていたのだ。象徴界の錯覚・虚構にとらわれないよう、自分の眼のみを信じ続ける者こそが、もっとも間違いを犯しやすい。「自分の眼だけを信じている」冷笑者(シニック)は、象徴的虚構の有効性、つまり、それがいかに私たちの現実経験を構成しているかを見落としている。」
ボードリヤール「ハイパーリアル」
・自らの欲望や趣向といったものを唯一の指令として機能する制御回路に一部品として組み込まれている。しかし、こうした欲望や趣向はもはや私たちのものではなく、大文字の他者のそれとして私たちへ送り返される。
官僚主義大文字の他者との関係 どちらも顔が見えない 
・「すいませんが、規則ですから、私の責任ではありません」
・(大文字の他者によって)つねに、すでに下されている決断を参照することしか許されていない。
この関与否定の構造が官僚主義に固有のものだと見抜いたからこそ、カフカ官僚主義について書いた最も優れた作家だった。〔『城』において〕「K」の公的な身分を明かしてくれる最高権力者へ面会するための旅は、決して終わることはない。大文字の他者そのものに立ち会うことはできないのだから。そこには、大文字の他者の意向の解釈に努める、多かれ少なかれ悪意のある役人しかいない。そしてこの意向の解釈という行為、こうした責任逃避こそが、大文字の他者の姿そのものなのである。
カフカ全体主義には独裁的統治のモデルでは理解できない側面があることを明らかにした。
カフカによる、終着点のない官僚主義の迷宮という煉獄的なヴィジョンは、ソビエト体制が「記号の帝国」であったというジジェクの主張と共鳴する。そこではスターリンモロトフといった共産主義の幹部(ノーメンクラトゥーラ)たちでさえもが、一連の複雑な社会的記号を解読することに従事していたのだ。何が求められていたのかを知っている者は誰もいなかった。特定の身振りや指令が何を意味しているのか、人々は推察するほかなかった。そして、決定的な公式見解を提示できる最高権威へ懇願するという可能性が原則的にさえ残されていない後期資本主義社会では何がおこるのかといえば、それはこうした曖昧さがますます拡大していくことだろう。
・労働者は絶えず象徴的な自己中傷行為
 

第七章 「……二つの現実が折り重なって見えるとき」夢作業および記憶障害としての資本主義リアリズム

・「現実主義的である」ことはかつて、確かで不動的なものとして経験される現実を受け入れるという意味だったのかもしれない。しかし資本主義リアリズムは、限りなく変幻自在でいかなる瞬間にもその姿を変えることのできる現実に服従するよう、私たちに要求する。そこで私たちが目の当たりにするのは、ジェイムソンがエッセイ「ポストモダンの二律背反」の中で描いた、「空間も心理も同様に意の向くままに処理し作りなおせる、純粋に代替可能な現在」である。
・翌日に全く異なる意見を言うマネージャー
・これが「優れた管理能力」というものらしい。同時にまた、これは資本主義の絶えざる不安定さの中で健康を保ち得る唯一の方法なのかもしれない。
・このような陽気さを保ち得るのは、批判的な反省性をほぼ完全に欠き、そして彼のように、官僚主義的権力から受けた指令に冷笑的に従う能力をを身につけている者に限る。もちろん、この服従についての冷笑主義こそが不可欠なのだ。
・このマネージャーは、内的・主観的態度においては自らの指揮する官僚主義的な手続きに対して敵意をもち、軽蔑さえ感じている。ところが、外的行動としてみれば、彼は完全にいいなりになっている。
・アーシュラ・ル=グィン『天のろくろ』
・もしリアル(現実界)に耐えるのが不可能だとすれば、私たちが構成するすべてのリアリティ(現実)は、矛盾だらけの織り物になるはずだ。
・カント、ニーチェフロイトの説は、私たちの生きるこうした作話は合意の上にあるのだという認識。
・比較不可能なもの、意味のないことを疑いなく受け入れるというこの戦略はつねに、正気を保つための典型的な技術であった。しかし、後期資本主義において、つまり、社会的フィクションの創造と放棄が商品の生産と廃棄とほぼ同速度で繰り広げられる、「これまで信じられてきたものの一切を寄せ集めた雑色の絵」においては、この技術は特別な役割を担うことになる。このような存在論的不安においては、忘却が適応戦略となる。
・リアリティやアイデンティティがまるでソフトウェアのように更新されていく状況において、記憶障害が文化的懸念の焦点になってきたのは驚くことではない。
・『ボーン』シリーズ、『メメント』、『エターナル・サンシャイン
ジェイソン・ボーンの自己アイデンティティを取り戻そうという旅は、あらゆる安定した自己意識からの絶え間なき逃亡と連動して描かれる。
・ジェイムソン『ポストモダンの二律背反』=本物の新しさを創造できない。
★新たな記憶をつくることができない、それこそポストモダンの膠着状態を一言で要約できる表現ではないか…。
・ウェンディー・ブラウン「アメリカの悪夢ー新保守主義新自由主義、そして脱民主化
新保守主義新自由主義の同盟関係
・「目的においても手段においても明らかに非道徳的な合理性(=新自由主義)と、明らかに道徳的かつ規制的な合理性(=新保守主義)とは、いかにして交差するのだろうか?意味の世界を空虚にし、生活を劣化させ根こそぎにし、そして公然と欲望を搾取していくプロジェクトと、意味を固定・強制し、生活の特定の様式を保持させ、そして欲望を抑圧・規制することに集中するプロジェクトとは、いかにして交わりあうことができるのだろうか?会社すなわち利己主義という規範的な社会構造をモデルにした統治への支持と、教会権力すなわち自己犠牲と長期に渡る親孝行的な忠誠心という規範的な社会構造、抑制の効かない資本主義によってズタズタにされたまさにその構造をモデルにした統治への支持は、どのように結び合い、またはせめぎ合うのだろうか?」
・両者は全く異なる前提から出発するものの、新自由主義新保守主義はともに、公共圏と民主主義を弱体化させ、政治的プロセスではなく商品に問題解決を求めるような、飼いならされた市民をつくりあげるために協力してきたのだ、とブラウンは主張する。
・「選択する主体と統治される主体は決して相反するものではない……。フランクフルト学派の知識人たち、そしてそれ以前にはプラトンが、個人選択と政治的支配との間の率直な両立性について理論化してきたし、まさしく自由と履き違えられた選択と欲求充足の閉鎖圏に没頭しているがために、政治的な独裁あるいは権威主義に加担してしまうという民主的な主体を描いてきた。」
・ブラウンの議論を基に少し推定してみるならば、新保守主義新自由主義との奇妙な融合が可能になったのは、彼らが共に、いわゆる過保護国家(ナニー・ステイト)とその依存者を嫌悪の対象にしてきたからなのだ、という仮説を立てることができるだろう。反国家主義的なレトリックを明示しているにもかかわらず、新自由主義は実際のところ、国家そのもの・・・・に反対しているのではなく、むしろ、公的資金の特定の運用に反対しているのだ。このことは、2008年に行われた銀行への公的な財政援助からもうかがえる。その一方、新保守主義的な強い国家とは軍事・警察といった機能に限定され、それは個人の倫理的責任感を損ねてしまうとされた福祉国家へ対抗する形で、自己を位置づけることになったのだ。
 

第八章 「中央電話局というものはない」

・全体的な統治者など存在しないこと、そして今日、われわれを統治する権力に最も近いものは企業の無責任を引き起こす漠然で不可解な利害関係なのだということを、私たちは政治的無意識のレベルでは受け入れられないでいることを示す証だろう。
・こうした関与否定が起こり得るのは、ひとつには、グローバル資本主義における中心の不在が根本的に想像不可能だからだろう。今や人々は消費者として呼びかけ=審問〔interpellation〕されているにもかかわらず――そしてウェンディー・ブラウンらが指摘したように、政府そのものも一種の商品やサービスとして提示されているにもかかわらず――彼ら・彼女らは依然として(あたかも)市民のようにしか自分たちを想像できないのだ。
・政府そのものも一種の商品やサービスとして提示されている私たちが資本主義における中心の不在を最も身近に直接体験できるのは、コールセンターとのやりとりだろう。
・コールセンターという正気を失うようなカフカ的迷宮
・コールセンターという経験は後期資本主義の政治的現象学を凝縮したものである。PR音楽の甲高い音によってところどころ遮られる倦怠感ともどかしさ、訓練も知識も不足している何人ものテレオペレーターに同じつまらない情報を何度も伝えることの繰り返し、しかるべき対象が存在しないゆえに無力なまま募るばかりの怒り。電話をかけてみれば直ぐ気づくように、答えを知っている者は誰もいないし、もし知っていたとしても何かをやってくれる者は誰もいないのだ。ここで怒りは、はけ口を探す問題としかなりようがない。それは同じシステムの被害者でありながら、共感のしようが全くない他人へ向けられた、真空地帯のなかの攻撃なのだ。怒りには全うな対象がないために、影響力をもつこともないだろう。この無反応そして非人格的な、中心不在の抽象的かつ断片化されたシステムの経験において、あなたは資本の人工的愚かさそれ自体を直視する最も近いところにいるのだ。
カフカのずばぬけた才能は、資本に固有の否定無神学を探求したことにある。そこに中心はなくとも、私たちは中心を探さずにはいられないし、その存在を断定せずにもいられない。そこには何もないというわけではないが、そこにあるものは責任を遂行できるようなものではないのだ。
・キャンベル・ジョーンズ「リサイクルを期待されている主体は誰なのか」
ジュディス・バトラー『戦争の枠組』 「責任化(responsibilization)」
・環境破壊の諸原因は非人称的な構造 
・アラン・パクラ『パララックス・ビュー
ピーター・ウィアートゥルーマン・ショー
・資本主義に陰謀は確かに存在するが、問題なのは、陰謀はその働きをより深いレベルの構造によって支えられることで初めて可能になるということなのだ。
・悪習は構造から生じ、そして構造が残存する限り悪習が自らを再生産していくことは確かである。企業の陰謀に固有の、正体不明で中心をもたない非人格性を浮き彫りにすることにこそ、バラクの映画の力がある。
・シャルレス・デ=メネゼスとイアン・トムリンソンの死
・しかし、経営陣に昇進してみれば、彼らが権力のどんよりとした硬直化にのみ込まれるまではたいていの場合そう長くはかからない。構造というものが明白になるのはここなのだ――人間を乗っとるその姿がまさに目撃され、その鈍化させられた、あるいは鈍化させていく判断が乗っ取られた彼らを通して語りかけてくるのは。
・しかし、行動の責任を問われ得るのは個人のみであるにもかかわらず、それら不正な行為や過ちの原因は組織的・体系的であるというこの手詰まりは、単なる事実の隠蔽ではない。それがまさに、資本主義の欠点を指し示しているものなのだ。
・企業(法人)は実体をもたないがゆえに、企業そのものを処罰することができない。
・いずれにせよ、企業組織が万事の裏で糸を操る深層的行為者(エイジェント)だというわけではない。それらはあの究極的な「主体ならざる原因」によって制約されているのであり、またそれを表現しているにすぎない――すなわち、資本を。
 

第九章 マルクス主義のスーパーナニー

・『スーパーナニー』(子育てリアリティ番組)ナニー=乳母、教育係
ジジェク「父親の機能不全」
・「構造的な問題」
★ここで問題なのは、まさに従来の子育てが基本的に拒否していた欲望と利害の同一化を、後期資本主義は強く要求するとともに、それに依存しているということだ。「父性的」な概念である義務が、楽しめという「母性的」な責務のもとに包摂された文化においては、いかなる形であれ、親が子供たちの楽しみへの絶対的権利を妨害するなら、むしろ親としての義務を果たせていないと見なされるだろう。これは、一部には、両親がますます共働きを要求されることの結果だ。
・父性的超自我――つまり家庭内の厳格な父親、または英国のテレビ放送における(ジョン・)リース的な横柄さ――への回帰が可能でも望ましくもないならば、いかにして私たちは、人々に挑戦や教育の場を与えようとしないことで生まれた、この単調で瀕死状態に陥った順応文化を乗り越えていくことができるのか。
・「父親不在のパターナリズム
ジジェクが『否定的なもののもとへの滞留――カント、ヘーゲルイデオロギー批判』のなかで、後期資本主義のイデオロギーはある種のスピノザ主義だと主張したことは周知の通りだ。
スピノザ、アダムのリンゴ、父権的機能の終焉。
>>右翼は父性、左翼は母性<<
・だが実は、スピノザは後期資本主義の情動的レジーム、つまりウィリアム・バロウズフィリップ・K・ディック、そしてデヴィッド・クローネンバーグによって描かれた、行為主体性(エイジェンシー)が物理的かつ精神的な陶酔の朦朧としたファンタスマゴリアのなかへ溶けていく「ビデオローム」的な統御装置を分析するために極めて豊富な思考材料を提供している。
ドキュメンタリー映画作家であるアダム・カーティスは、この情動的マネージメントのレジームの輪郭を見極めている。
・「今のテレビはもはや、視聴者に何を感じるべきか教えるものだ。もう、何を考えるべきか教えるものではない。『イーストエンダーズ』からリアリティ番組に至るまで、あなたは他人の感情を旅する。そして編集によってテレビは、みなが合意できる感情のあり方をやさしく伝えてくるのだ。僕はそれを「ハグとキス」と呼んでいる。この表現は、マーク・レイブンヒルの秀れた論評から借用したものだが、それによると、今日のテレビを分析すれば、それは誰が「嫌な気持ち」、そして誰が「いい気持ち」を経験してるのかを教えてくれる案内システムだという。そして「嫌な気持ち」になっている人物も最終的には「ハグとキス」の瞬間によって救われることになっている。これはまったくもって、道徳教育のシステムではなく、感情教育のシステムなのだ。」
・モラルは感情によって置き換えられた。この「自我の帝国」においては、まったく唯我論的な状態を脱することなく、誰もが「同情できる」ものなのだ。
・メディア関係者がパターナリスティックであることを拒否した結果が、驚くべき多様性に富んだボトムアップの文化ではなく、ますます幼稚化された文化の誕生につながった。
・ある種のリスクを背負う覚悟のある者。
・「長期性の撤回」〔the ’cancellation of the long term’〕、あるいは永続する構造的な不安定性は結果として、革新ではなく、必然的に停滞と保守主義をもたらす。これは逆説ではない。上述のアダム・カーティスの言葉が明らかにするように、後期資本主義において顕著な情動とは、不安と冷笑主義シニシズム)なのである。こうした感情は大胆な思考や起業家的な躍進を刺激するものではなく、同調そして「最小限の変化」の礼賛を育み、すでに成功した商品に酷似したものを作り出すものだ。
・真の新しい左派の目標は政権を握ることではなく、政府を一般意思に従属させることだということを理解しなければならない。当然ながらこれは、「一般意志」という概念そのものを再興させ、また、個人とその利害の集合体には還元できない「公共圏」といった概念を復活、および改良することを伴う。資本主義リアリズムの世界観である「方法論的個人主義」は、公共のような諸概念を「亡霊」、つまり中身を欠いた実体のない抽象概念だとみなしている点で、アダム・スミスハイエク、そしてマックス・シュティルナーの哲学を前提としている。
・実在するのは、個人(とその家族)のみである。こうした世界観の失敗の兆候はいたるところで散見される。(中略)。「大きな物語」に対するポストモダン思想の疑念とは反対に、私たちは、これら問題が孤立した偶発的なものではなく、むしろ単一の体系的な原因による作用だということをより明確に示さなければならない。その原因とは、資本である。
・2008年、銀行に対する救済措置は、資本主義の終わりをなすどころか、むしろ「この道しかない」という資本主義リアリズムの主張をよりはっきりと断言するものだった。金融制度の崩壊を許すのは考えられないこと・・・・・・・・とされ、その結果、大量の公的資金が漏出し、民間の手に渡った。2008年にたしかに崩壊したのは、1970年代以来、資本蓄積が隠れ蓑にしていたイデオロギー的枠組みである。銀行救済の後、新自由主義はいかなる意味でも信用を失った。しかしこれは、新自由主義が一夜にして消えたということではない。むしろ反対に、その前提は依然として政治経済を席巻するのだが、それはもはや、確固たる促進力をもつイデオロギー的プロジェクトの一環ではなく、惰性的な死に損ないの欠陥〔default〕として、そこに存在し続けるのだ。
バディウが力説したように、有効性のある反・資本主義とは、資本への反発でなく競争相手(ライヴァル)でなければならない。資本主義以前の領土性への回帰は不可能なのだから。反・資本主義は、資本の世界主義(グローバリズム)に、それ自身の正当な普遍性でもって対抗しなければならない。
・本当の意味で蘇生した左派が、私が(極めて暫定的に)概略したこの新しい政治的領域を自信をもって陣取っていくことが決定的に重要だ。本来的に政治性をもつものなど存在しない。ものごとを政治化していくには、「当たり前」とされているものを「誰もが勝手に変えられるもの」へと変えていくことのできる政治的な行為主体(エイジェント)が必要だ。もし新自由主義がポスト68年世代の労働者の欲望を内包することによって勝利を得たとすれば、新しい左派は新自由主義が生み出しておきながら満たせないでいる欲望を足場とすることから始めることができるだろう。例えば、官僚主義(ピューロクラシー)の大規模の削減など、新自由主義が著しく失敗してきた問題に、左派こそが取り組めるのだと主張しなければならない。労働とその主導権をめぐって新たな闘争が必要なのだ。
 

あとがき 「諦め」の常態化に抗う――あとがきに代えて

セバスチャンブロイ 河南瑠莉
・資本主義は欲望と自己実現の可能性を解放する社会モデルとして賞賛されてきたにもかかわらず、なぜ精神健康(メンタルヘルス)の問題は近年もこれほど爆発的に増え続けたのだろう?社会的流動性のための経済的条件が破綻するなか、なぜ、私たちは「なににでもなれる」という自己実現の物語を信じ、ある種の社会的責務として受け入れているのだろう?鬱病や依存症の原因は「自己責任」として個々人に押しつけられるが、それが社会構造と労働条件をめぐる政治問題として扱われないのはなぜだろう?もし資本主義リアリズムの時代において「現実的」とされるものが、実は隙間だらけの構築物に過ぎないのであれば、その隙間の向こうから見えるものは何だろう?
・個人の内面性や感情のレベルから、それを形成するマクロかつミクロレベルの社会政治的環境に対して目を開いたとき、私たちは初めてマークの視点を、自らの現実に即して理解したことになる。それは、ルサンチマン冷笑主義、感傷性に身を屈してしまうことなく、私たち各自が現前するリアリティに立ち戻り、すでに失われた(と思われた)未来の姿を、いかに可能性の地平へと取り戻せるのか、その問いを自らに課し続けていくための知性である。そう、諦めの常態化に抗うために。
 
5/3読了

【読書メモ】デイヴィッド・ハルバースタム著、峯村利哉訳『ザ・フィフティーズ1: 1950年代アメリカの光と影』(ちくま文庫 2015年)

目次が大事
序章
シットコムシチュエーション・コメディ
視聴者の憧れの的
3、4年間を海外での戦闘に費した男たちは、人生のやり直しに意欲を燃やした。国許で男たちの帰りを待っていた女たちも同様だ。
→ベビー・ブーマー
インフレ率、比較的低い水準で推移
まあまあの職に就いていれば、たいていは家を買える
 
1.ルーズヴェルトからトルーマン
世界大恐慌第二次世界大戦
史上例のない四選
究極の現代政治家
初めてマスコミを使いこなす ラジオをまるで私器のように
共和党(Republican Party)中央部 ロバート・マコーミック大佐 シカゴ・トリビューン 孤立主義
共和党保守派は、居心地のいい単純な世界、すなわち20年代の世界に戻ることを切望した。
保守派が住んでいるのは"神の国"だった。
トマス・E・デューイ
ニューヨーク=アイルランド
嫌な時代だった。アメリカは魔女狩りの準備を整えていた。
ニューディール政策社会主義というレッテル
アルジャー・ヒス事件 ← ニクソン
ヒスの有罪判決は、ただでさえ荒涼とした時代をさらに暗くし、
国内の破壊活動を巡って拡大しつづける政治的分裂をさらに悪化させた。
 
2.原爆から水爆へ
トルーマン 副大統領→ルーズベルト死去→大統領に
ルーズヴェルトの「炉辺談話」
 
4月まで中断。

【読書メモ】橋爪大三郎、大澤真幸、若林幹夫、吉見俊哉、野田潤、佐藤郁哉『社会学講義』 (ちくま新書 2016年)

目次
第一章 社会学概論 橋爪大三郎
封建的、因習的でどうしようもない世界→勃興しつつある市民階級
→あるべき社会を打ち立てよう
啓蒙主義者たちは「社会契約」によって市民社会を打ち立てるんだという理想と気概
フランス革命が終わっても、ちっとも理想の社会が実現しないじゃないかという、ポスト革命世代の幻滅。
A・コント 実証主義 社会有機体説の時代
社会をアナロジー(比喩)で捉える
G・ジンメル 形式社会学創始者 結合の関係 分離の関係
E・デュルケム 人間の「連帯」「社会的事実」
M・ウェーバー 「カリスマ」
20世紀 「システム」=「多くの要素からなる全体」
タルコット・パーソンズ 構造ー機能分析 AGIL図式
1970以降 「意味学派のミニパラダイム」=ミクロな側面に関心
現在、統計学とコンピュータ
データ解析のスタイル
フーコーの権力分析
アナール学派の社会史
・消費社会論の記号の「戯れ」
フェミニズム
・N・ルーマンの自己組織性(オートポイエシス)
 
第二章 理論社会学 大澤真幸
社会学社会学たらしめている主題=「社会秩序はいかにして可能か」
→規則、規範がいかにして可能か?
クリプキ 規則は存在しない。 「プラス」と「クワス
「自分の中の他者」or「権威ある他者」=第三者の審級
ヘーゲルマルクス
サンシモン→コント
ウェーバー→個
デュルケム→集合
フーコーによると、この建物は、独房において個人化されている囚人を主体化する仕掛けになっている。囚人は監視者に見られているかどうかわかりません。逆に言えば、常に見られている可能性があるわけです。この永続的な監視の可能性によって囚人は、やがて自分で自らを規律するようになります。フーコーは、これと論理的に等価なことが社会全体で成立したときに、主体がつくられると言ったわけです。ある種の従属、支配を媒介にしてはじめて主体性の成立が可能になる、ということです。
見えざる支配者、抽象化されつくしている支配者
抽象的な支配者 ネーション(国民)の誕生
それ以前にはあり得なかったような大規模な共同体(ネーション)への同一化を伴うナショナリズムと、社会の個人への分解とは、一見まったく背反するものに見えますが、じつは相互に依存関係にあります。両者は対立しているかのようにイメージされがちですが、じっさいには、同じ時代に手を携えて出てきたものなのです。
十九世紀におけるナショナリズム個人主義の同時的な登場。
近代→主体が成立→社会学の成立
真木悠介「社会秩序はいかにして可能か」
貨幣 媒介としての普遍性
エスノメソドロジー
構造主義記号論 構造主義=「無意識の規範」
ハーバーマスルーマン
ハーバーマス 合理的な討議
ポストモダン リオタール 大きな物語の喪失
大きな物語=民主主義、自由、人間解放、民族独立、共産主義
生産→消費 ジャン・ボードリヤール
ポストモダン=消費社会「記号的な消費」
 
第三章 都市社会学 若林幹夫
都市社会学 シカゴ学派が始める
急速に発展するシカゴ
マニュエル・カステル「新都市社会学
ウェーバー「都市の類型学」
ジンメル「大都市と精神生活」
ボードリヤール ゴッフマンのドラマトゥルギー
近代ー産業革命と市民革命
若林「熱い都市、冷たい都市」
都市 匿名
旧約聖書のバベルをめぐる物語
ニムロデ
ポストモダン=都市
 
第四章 文化社会学 吉見俊哉
ワース「生活様式としてのアーバニズム」
リースマン「孤独な群衆」
文化社会学 作田啓一 見田宗介 栗原彬 井上俊
山口昌男 前田愛記号論
祝祭論 ミハエル・バフチン「フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化」
「都市のドラマトゥルギー
盛り場=祭り、ハレ
浅草→関東大震災→銀座
浅草 活動写真、浅草オペラ、軽演劇、浅草十二階、私娼窟
銀座 デパート、カフェ、モボ・モガ
新宿→オイルショック→渋谷・原宿
新宿 アングラ演劇、フォークゲリラ、ハプニング、フーテン、学生運動
渋谷・原宿→カタログ的、ファッショナブル
博覧会→百貨店→広告
博覧会=帝国主義プロパガンダの原型、消費社会の広告環境の原型
儀礼研究、結婚式、葬儀
コマーシャル文化=祭りの代替
 
第五章 家族社会学 野田潤
ここで要求される作法のことを、ウェーバーは「価値自由」と呼んだ。これは分析者自身が特定の価値を前提としていることを自覚し、その自らの中の前提を反省的にとらえかえすことによって、相対的な客観性を確保しようとする態度のことをいう。人は誰もがどこかの社会に属しており、何らかの価値を前提とすることなしに物事を考えることは不可能である。たとえそれがどんな色であれ、色のついた眼鏡越しにしか、世界をみることはできないのだ。しかし自分がどのような色の眼鏡をかけているのかを自覚し、その偏りを自ら省みることで、己の価値観を素朴に特権視するような態度から、可能な限り距離をとることはできる。それが価値自由の考え方である。
>>猫の親離れ、子離れ 猫の父親<<
家族は、国、部族それぞれ
テンニース 社会 ゲマインシャフトゲゼルシャフト
パーソンズ 家族の機能
①子どもの社会科 ②成人のパーソナリティ安定
山田昌弘 近代社会の特徴三要件
①家族が外の世界から隔離された私的領域となることである。中世や近世の家族の生活は、地域共同体のなかで家族以外の多くの成員による介入と援助を受けることで成り立っていたが、近代の家族はこうした外部との相互浸透を遮断することで、プライバシーに守られた私的領域として自閉していく。このことは家族の親密性の特権視につながり、さらに切り離された私的領域に再生産労働を割り当てる近代型の性別役割分業の前提要件にもなった。
②家族の生活はすべて家族自身が責任を負わなければならないという自助原則の存在である。①の特徴によって外部からの介入/援助を喪失するため、家族成員の生活保障責任はすべて家族自身が負うことになる。この自助原則は近代型の性別役割分業と結びついており、実践面では経済的な稼得責任が夫に、家事・育児といった再生産労働の責任が妻に課せられる。
③家族の情緒的な結びつきを不可欠なものとして重視する、愛情の規範化である。ここで問題となるのは個々人の現実以上に、社会的な規範の水準である。アリエスが強調したように、家族の親密性が社会のレベルにおいて規範化され、価値づけられるという意味において、近代家族は愛情中心主義なのである。
そして、こうした近代家族のかたちが近代国家による統治の基礎単位として戦略的に制度化されたことも、忘れてはならない重要な特徴である。確立したの高度経済成長期。
今の日本は、パーソンズモデルのまま、非正規化で所得が減ったこと。
ポーランド ジグムント・バウマン
 
第六章 社会調査論 佐藤郁哉
「ヤンキーのエスノグラフィー」
フィールドワークの定義
調べようとする出来事が起きるまさにその現場(フィールド)に身を置き、そこに住む人々と出来事の体験を共有し、現場に流れる時間のリズムやテンポに身を添わせることを通して、調査地の社会と文化をまるごと理解し、またそこに住む人々を理解しようとする作業(ワーク)とその方法。
フィールドワークの報告書=エスノグラフィー
理論屋と調査屋
>>調査としての就職、転職<<
サーベイ屋(統計)
フィールドワーカー
>>インタビューをしたい<<
ロバート・コール「日本のブルーカラー
 
2/23読了