マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】柴田三千雄『フランス史10講』(岩波新書 2006年)

目次

第1講 「フランス」のはじまり

フランス史」とは何か――予備的な考察

・一国史の集積が世界史だと考えるのは、19世紀に生まれた「国民国家」という国家モデルの観念にすぎない。フランスは、「ヨーロッパ地域世界」という、より広い歴史空間に属しており、フランス史の展開は、そのなかでこそ理解できる。同様に、日本は「東アジア地域世界」に属している。

1 ガロ・ローマ時代

ガリアとガロ・ローマ

・ローマ 北方のケルト人を蛮族とみなし、その地を「ガリア」と名付ける。ガリアの一部はローマの属州となる。
カエサルガリア知事 武力征服→全土を属州に。ケルト文明とローマ文明の融合=「ガロ・ローマ時代」

ゲルマン人の大移動とローマ帝国の滅亡

ローマ帝国→東西に分裂
ゲルマン人 スカンジナビア半島 フン族ウクライナへ侵入 押し出される形でゲルマン民族大移動
・476年西ローマ帝国皇帝がゲルマン人の一部族の傭兵隊長オドアケルによって放逐される 西ローマ帝国滅亡 

2 フランク王国

ゲルマン部族国家とフランクの興隆

フランク族フランク王国クロヴィス王(在位481-511) 西ゴート王国ブルグント王国を倒し、ガリアのほぼ全域を征服

クロヴィスの改宗

・統治にはキリスト教との関係が重要
・教会内部のアタナシウス派アリウス派との教義論争 ローマ化がおくれて異教徒のままのクロヴィスはまだ白紙状態だった
・おそらく496年洗礼を受ける ゲルマンの部族王のなかで唯一のカトリックの王となる

メロヴィング王朝からカロリング王朝へ

・分割相続の慣習
カロリング家 宮宰シャルル・マルテル トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)でイスラム教徒を敗走させる
・マルテルの息子ピピン3世、カロリング朝を開く(751年)
・塗油の儀式
ピピンの子シャルルマーニュカール大帝)800年末、教皇レオ三世の手から「ローマ皇帝」の帝冠をうける 

ヨーロッパ地域世界の成立

カール大帝=地中海を内海とする古代ローマ世界帝国の解体後に、コンスタンティノープルを中心とするビザンツ帝国、中東から北アフリカイベリア半島までを制圧するイスラム勢力圏の二大「地域世界」とならんで、ヨーロッパの西の地域に「ヨーロッパ地域世界」が成立
ビザンツ帝国が皇帝教皇主義として、またイスラム世界が神政政治として政権と教権が一体化しているのにたいして、ここでは西ローマ帝国の普遍主義的な「帝国」理念がローマ教会に継承されながらも、教会の宗教権威と王の世俗権力とがそれぞれ自立して共生関係にある

カロリング帝国の分割

シャルルマーニュの孫の代にヴェルダン条約で三分割 ロタール領東フランク王国西フランク王国 現在のイタリア、ドイツ、フランスの原型

3 フランスの誕生

誕生の要因
民族大移動の最後の波

ゲルマン人ヴァイキングの南下

領邦君主領とカペー朝の誕生

・西フランクの「領邦権力」=ブルゴーニュ公、アキテーヌ公、ノルマンディ公、プロヴァンス侯、フランドル伯など11世紀には約15をかぞえた。
・「領邦君主領」(プランシポーテ)と呼ばれるその支配領域は、大小さまざまであり、公(デューク)・侯(マルキ)・伯(コント)といった称号の違いは、大きさや格式とは関係ない。
・領邦権力の成長につれて、王はしだいに影の薄い存在になり、西フランクでは9世紀末になると、とうとう領邦君主や司教が王位の世襲制を廃止し、これを選挙にかえた。
・987年ロベール家のユーグ・カペー 長子を後継者に指名して選出し、カペー王朝が始まる。
・同じ頃、東フランク、ザクセン公オットー1世 962年「神聖ローマ帝国」 ドイツの原型

フランク神話

フランク王国=ローマ文明の継承者 → 「神聖ローマ帝国」ができるまで

ランスの聖別

ピピンによる751年の塗油礼の記憶
・遡ってクロヴィスの洗礼 ランス大司教ヒンクマール(806頃-882)『聖レミの生涯』 「参列者が多いため洗礼盤に近づけない司教レミが天を仰いだとき、一羽の白い鳩が聖油の小瓶を口にくわえて天から舞い降りた。レミはその一部を洗礼盤に入れてクロヴィスに洗礼し、そのあと聖油で彼に十字のしるしをつけた。ヒンクマールによれば、鳩は精霊の化身である。こうして3世紀前にトゥール司教グレゴワールによって「新しいコンスタンティヌス」とされたクロヴィスは、ヒンクマールによって「新しいキリスト」となった。こうして、クロヴィスの「洗礼」は「聖別」(サクル)となる。「聖別」とは単に王が人民の代表として即位するのではなく、塗油によって超自然的な力が王の身体に宿るとする儀礼である。したがって戴冠は神によってなされる。
・こうして西フランクの王権イデオロギーは、クロヴィスの改宗(これはシャルルマーニュの戴冠より古い)にまでさかのぼって構築され直した。これはドイツの中世史家カール・ヴェルナーが強調するように、その後のフランス史の展開にとって重要な意味をもっている。それは神意に立脚する王権というきわめて宗教色の強い王権イデオロギーとなり、さらには特別の使命をもつフランス国家という観念にもなる。ヴェルナーの言をかりれば、国家の「起源」は重要な文化の問題なのである。

フランク人かガリア人か

フランス革命前夜の政治パンフレット シエイエス『第三身分とは何か』 貴族=フランク人 農民=先住民のガリア人
・起源に関する言説は、国家のアイデンティティにかかわる死活問題として、歴史のなかできわめて重要な働きをする

第2講 中世社会とカペー王国

ヨーロッパ地域世界の秩序観念

ヨーロッパ史の中世=6-15世紀 前期(6-10)、中期(11-13)、後期(14、15)
・中世中期の社会の再建=食糧生産など単に経済生活の復興だけでなく、人びとが安心して暮らせる新しい社会秩序の観念
★フランスで9世紀後半に生まれたとされる秩序観念 人間を3つの職分に区分 「神の家」は祈り、労働、戦いの3機能からなっており、それが地上では聖職者、農民、騎士によってそれぞれ担われる 王がこの3機能を統合し、普遍的な秩序を保証する存在 王、聖職者、騎士は「働く者」(農民)に保護を与え、そのかわりに労働の奉仕をうける相互奉仕の関係
・はじめは必ずしも不平等関係ではない3機能が、やがて階層関係となり、「働く者」が劣等な3番目に位置づけられる時代的変化
・社会秩序の形成力を単一の権力(とくに領主権力)ではなく、生活規範を管理する教会、治安を担当する領主、経済活動の中心となる民衆という3つの自律的な要因によって構成
・教会を第一に、領主を第二に、それ以外の民衆をまとめて第三として序列化する点 中世ヨーロッパ地域世界に特徴的な観念
・付言すれば、秩序観念は社会から排除されるべき存在を必ずともなうが、それにはユダヤ人と異端があてられた。

1 領主権力と騎士

領主制と封建制

・「従士制」「恩貸地制」
・ノルマン人やイスラム教徒の侵入と内乱のため部族国家の公的秩序が乱れると、「恩貸地」はしだいに世襲的な「封」となり、これをもつ職業的戦士は土地の世襲的な主人となった。国家の保護を当てにすることができない農民が保護を求めるのは、身近にいるこのような有力者であり、この場合には、戦士は単に耕作関係で結ばれる地主ではなく、その地域の住民全体を支配・保護するため「命令権」をもつ「領主」となった。
・こうして領主と領主との間、領主と農民との間に直接的な〈支配=従属〉関係の複雑なネッ トワークがつくられていった。前者の領主間の関係をさすのが狭義の「封建制」、後者をもふくめた階層的な政治社会構造をさすのが広義の「封建制」(「封建社会」ともいう)の概念である。封建社会の最盛期は10世紀から13世紀。

城主と従士

・城主もまた上級の領主、とくに領邦君主と従士制の関係で結ばれているが、自分の城塞勢力圏では一国一城の主人ではあった。彼らは、城内に法廷や牢をおき、域内の秩序の管理者として近隣の農民を保護・支配する「命令権」者となる。さらには、勢力圏内の市場を管理し、そこを通過する旅行者から通行税をとって、一種の公権力の性格を帯びはじめた。
・「臣従礼」(オマージュ)という儀式。臣従=従属ではなく友情に基づく関係。
・このような騎士の儀礼が生まれたことは、それが特権的・閉鎖的な世襲身分となったことと関連している。戦闘形態の変化のため歩兵から費用のかかる重装備の騎馬戦士に重心が移ったのである。同時に、弱者の保護と教会への奉仕という使命、あるいは勇気、誠実、忠誠といった価値が騎士共通のアイデンティティとして確立し、しかもそれが継承されるべき名誉ある血統とされた。こうして一二世紀末、その後のフランス史で重要な役割を果たす「貴族」(ノプレス)身分が生まれた。

2 キリスト教と教会

修道院改革

・教会内部の3つの改革運動 ①修道院改革運動 クリュニー修道会→シトー修道会→フランチェスコ会ドミニコ会 封建権力から独立

「神の平和」

・②「神の平和」(「神の休載」)運動 領主たちの戦闘・暴力行為を制限するため司教が中心となって教会会議を開き、特定の場所、特定の社会層(聖職者、農民、商人、巡礼者など)を戦闘から保護するよう領主に宣誓を求めたもので、拒否した領主には破門などの制裁をおこなった。修道院改革運動が領主からの宗教機関の独立を目的としたのにたいして、この運動は、教会が魂の問題だけでなく、王権や城主権力にかわって公共秩序の維持にかかわりはじめた点で、きわめて大きな意味をもっている。 

グレゴリウス改革

・③司教職の叙任権奪還運動 「グレゴリウス(7世)改革」 要するに、この叙任権紛争とは、世俗権力にたいして教皇権力側が勢力の「境界」区分を提案したことであり、これによって封建社会のなかでの教会の地位と役割が確立するとともに、聖職者の道徳的・知的資質が向上した。この結果、13世紀には、大司教区・司教区・教区といったキリスト教組織の階層的編成も整備され、洗礼・結婚・巡礼など教区を単位とする日常的な民衆生活の規範的枠組みが固まった。真の意味での社会のキリスト教化がはじまった、ともいえる。
・ロマネスク様式の教会

十字軍

・聖地イェルサレムをアラブ人から奪還するため 1096年第一回 200年にわたって間歇的に 「聖戦」 騎士身分の神聖化 キリスト教と封建倫理の一体化

3 商業の復活と都市の興隆

農業の発展と村落の成立

・騎士領主制による治安の回復と、教区教会による社会規範の管理は、11世紀から13世紀にかけて、農村を変貌させた。フランスの人口は、紀元1000年から1200年の間に約2倍になり、1300年には4倍になったと推定されているが、この基礎には、大規模な開墾と技術改良による食糧供給の増加がある。ヨーロッパの経済と社会にとって、この時期の農業生産の変化は、18・19世紀の工業生産の変化(産業革命)に匹敵する大転換といわれる。

商業の復活と都市

・中世都市の誕生は、新しい社会的・政治的・文化的な空間の出現を意味している。その住民はパン屋、肉屋、宿屋など土地所有からはなれた経済活動に従事する。条件しだいでは急速に財産を築くことも可能な社会であり、そのため金儲けや倹約といった領主や農民とは無縁な経済観念をもつ ブルジョワ」(「町の人」)という新しいタイプの社会層が生まれた。
・同業者の組合 相互扶助 同業者の増加を制限する

コミューン

・領主にたいする都市の自己主張の表明=コミューン運動 多額の貨幣提供や定期的な納税とひきかえに、都市は行政、課税、裁判の自治特権を獲得
・司教座都市 大聖堂(カテドラル) ロマネスク建築→ゴシック養式 アーチ状の天井と薔薇窓のステンドグラス(採光)

中世都市パリ

・北イタリア諸都市とフランドル地方(ベルギーなど)とを結ぶセーヌ川の水路 カルチェラタン地区の大学 ノートルダム大聖堂 13世紀にはヨーロッパの経済、政治、文化の中心

4 カペー朝の成功

新タイプの領邦君主領

・王国の約4分の3を支配下

カペー朝の成功

・「カペーの奇跡」といわれる生物学的要因 レジスト(法曹家)と呼ばれす新しい知識人、イデオローグ、テクノクラート

第3講 中世後期の危機と王権

中世後期の位置づけ

1 「危機」の時代

飢饉とペスト

・14、15世紀 危機の時代 飢饉、疫病、戦争3つの災害が重なる
・11世紀はじめからの人口増加にたいして、耕地の拡大や技術改良が頭打ちになったため人口過剰
・この西欧世界を、7世紀もの間なりをひそめていたペストがおそった。1347年末、中東からイタリア商船に運ばれてマルセイユに上陸したペスト菌は、栄養不良のため抵抗力を弱めていたヨーロッパ社会に2年のうちにたちまち蔓延する。ペストはその後も周期的に流行をくり返し、フランスでは1世紀半のうちに、住民の30~50パーセントの命を奪ったといわれるほどの猛威を振るった。

百年戦争

・仏vs英 1339年

ジャンヌ・ダルク

・1429年オルレアン「奇跡的」に解放→ランス進撃 シャルル7世聖別式 パリ近郊の戦いで捕まり、1431年 ルーアンの広場で焚刑 1453年百年戦争終了
・愛国の聖女

危機の帰結

・王政の強化 
・「教会大分裂」(シスマ)→「ガリカニズム」(国家教会主義)

2 王政の強化

王政機構の整備

・高等法院(司法)、会計検査院(財政) 地方機構バイイ(セネシャル)

全国三部会

・聖職者、領主(貴族)、市民(平民、第三身分)の会議

王権の理論と王の儀礼

・王権神授説 カントロヴィッチ「自然的身体」と「政治的身体」 「王家」と「王位」
・「ロイヤル・タッチ」、「アントゥレ・ロワイヤル」などの儀礼

領邦君主領の消滅

ブルゴーニュ公シャルルvsフランス王ルイ11世

中世国家終結の比較

第4講 近代国家の成立

近代世界の開幕

フランス革命以前「アンシアン・レジーム」(旧体制) すべての過去と決別するのだというフランス革命当時の強烈な断絶意識
・16世紀に開始する「世界の一体化」
・国内秩序の再建を優先する「内向」的な東アジア国家と、実り多い海外活動の拡大を志向する「外向」的なヨーロッパ国家との相互規定関係を示すものにほかならない。そして、この「外向」と「内向」との補完関係だけでなく、多種多様な従属関係をもつアメリカ、アフリカ、アジア諸地域世界をふくんだ多様な相互規定関係の総体が、近代の「資本主義的世界体制」 である。

1 近世ヨーロッパの大変容

近世の東アジア
大西洋経済

・はじめスペイン、ポルトガル→17世紀オランダ、イングランド、フランス

イタリア戦争から30年戦争へ

・イタリア戦争1494年 1618年30年戦争 ドイツを舞台にカトリックvsプロテスタント 1648年ウェストファリア条約で終わる

主権国家システム

・オランダなど新興の海洋国家やオーストリアのような大陸国家が構成する国際関係が、「主権国家システム」と呼ばれる近代ヨーロッパ独特の国家間システムである。その特徴は、普遍主義理念を追求する中世的な帝国や教会にかわって、王家を中心とする個別国家がそれぞれ主権をもって自国の利益追求を目的とすることで、そのため宗教やイデオロギーよりは国益を優先させる。もちろん主権は常に尊重されるとは限らないが、恒常的な戦争状態を避けるため、また突出した強国の出現を防ぐため、軍事以外の国益追求の手段、すなわち同盟関係によって強国をチェックする外交が重視され、「バランス・オブ・パワー」の観念が生まれた。この国家間システムは、都市国家が死活をかけて競い合い、レアリストの政治家マキアヴェルリを生んだ近世イタリアではじまった。そのため、各国の宮廷が外交官を相互に常駐させる慣例が生まれたのだが、これがヨーロッパ全体に一般化した。

2 絶対王政への歩み

貴族とブルジョワ

・土地から貨幣へ 領主が没落し、新興ブルジョワ層が勃興

宗教戦争

プロテスタント(フランス語で「ユグノー」)
・「サンーバルテルミの虐殺」
アンリ4世が収拾

ルイ14世の体制

・財務総監コルベールの辣腕

ヴェルサイユ

・はじめは宮廷の祝宴用のため、パリ西南郊ヴェルサイユにある先王の狩猟場の休憩所を改造したのが、約40年間にわたる工事のすえにヨーロッパ最大の宮殿に仕上げられ、さらに1682年に王がそこに定住するようになってからは、それまでの王宮の観念が変わった。王宮は単に王の居所、中央政府の執務室ではなく、王の権威を内外に誇示する一大装置となった。王の起床から就寝まで、接見・宴会から着替えにいたるまで一日の王の日課がすべて厳密な儀礼をともなって運営され、数千人の貴族がそれぞれ序列によってそれに参加した。2、300人の朝の引見、50人の就寝前の引見にあずかれるかどうかは、貴族にとって大問題だった。何故ならば、ヴェルサイユ宮は王を中心にして動く太陽系であり、王との距離がすべての規準となった。フロンドの乱で武器をとり王権に戦いをいどんだ血気盛んな貴族たちは、いまや一族郎党を捨ててヴェルサイユに居をかまえ、毎日伺候して王の機嫌をうかがい、王が気前よくばらまいてくれる恩恵にあずかった。こうしてヴェルサイユ宮は、貴族の牙を抜いて馴化させる「黄金の檻」となり、また、それ以上に重要なのは、国家そのものが、王宮の私室のなかに密閉され、硬直化したことだった。

3 フランス絶対王政の構造

中間団体

・…最も社会の底辺にあるとされる農民でも、住民集会を開き、村長を選び、課税額を配分する「権利」を与えられていた。このように王から認可され、権利を与えられる団体を、近年の歴史学は「社団」と呼ぶ。自生的な社会的関係と社団の違いは、自生的関係は流動的で、社会変化によって絶えず緊張関係が内部に生まれ、そのため、社会的安定にとっては攪乱要因になるが、第二次的社会関係の社団は、社会を固定させるための編成原理なのである。

「貴族とブルジョワ」再論――売官制

・官職の保有は直接の報酬のほかに、謝礼や賄賂をともない、さらに社会的な箔と信用をもたらした。そのため、官職購入は権威と利得を同時に手にしうる有利な投資であり、金のある平民、つまり商工業ブルジョワは競って官職を買った。
・官職保有によって貴族に叙せられた「成り上がり貴族」を、中世以来の伝統的な戦士貴族(「帯剣貴族」)にたいして、「法服貴族」という。
・こうして、アンシアン・レジームは二つの秩序原理に立脚している。一つは家門や血統を原 理とする伝統的な身分秩序であり、そこでの価値体系の根幹は武勲に由来する「名誉」である。中世以来の帯剣貴族が、この階層制の頂点にいる。もう一つは才能を原理とする秩序であり、才能は国家のためにこそ役立てられるべきものとされるから、この価値体系の根幹は国家への「功績」である。この秩序原理に基づいて近世のブルジョワは法服貴族にまで成り上がる。そして、この二つの階層の諸階梯はそれぞれ「社団」として編成され、どちらの階梯も「社団」の編成者である王権の手中で合体している。王権が名誉と功績の二つの価値体系の調整者なのである。
・こうして、フランス王権は貴族原理とブルジョワ原理の双方を、貴族原理の優越のもとに総合し、貴族とブルジョワの双方をたがいに牽制させることに成功した。

王政の理論

・ルイ12世に仕えた司教クロード・ドゥ・セーセル『フランス王政論』(1519) 彼は国家の政治形態として、古来みられる王政、貴族政、民主政をあげ、王政を最良とする。なぜならば、貴族政は寡頭制、民主政は政治的混乱の危険をもつのにたいして、王政が最も安定性をもつからである。しかし、この王政は暴政を禁ずる「宗教」と、人民の権利の侵害を掣肘する「正義」と、男子相続など統治の基本となる「根本準則」の3つによって制限をうけなければならない。このように、貴族・臣下にたいする王権の絶対性を時代的要請として認めながらも、同時にそれに超越する宗教ないし法の存在を認めるのが、政治理論の基調となった。
・ジャン・ボダン『国家論』(1576)「主権」理論。王が王国における唯一の主権の表現者
・王権は「絶対」ではあるが「専制」ではない。

日本における中間団体

・ヨーロッパでは教会、都市、貴族身分などの大きな中間団体が王政国家の枠をこえて、地域世界全体にまたがる普遍的性格をもっているのにたいして、幕藩体制ではそれがない。

第5講 啓蒙の世紀

再編成の時代

・海外覇権をめぐるイギリス・フランスの抗争、新興国ロシア・プロイセンの台頭による国際政治の変化

1 構造転換の動き

バロックからロココ

ルイ14世の治世 4つの征服戦争(ネーデルラント継承戦争オランダ戦争、ファルツ戦争、スペイン継承戦争)で疲弊
・1715年ルイ14世没 甥のオルレア公フィリップが摂政 多元会議制
・ジョン・ロー「ローのシステム」金融政策(私立銀行の設立と銀行券の発行)と植民地開発政策

「外交革命」と7年戦争

オーストリア・フランスvsイギリス・プロイセン

危機意識

マリー・アントワネットルイ16世の結婚
・財政難による軍事費の不足

2 改革の試み

近代世界の第二期への転換

・農業技術の改良、工業の機械化 「産業革命」 
・植民地争奪競争

2つの秩序原理

・貴族とブルジョワは敵対階級ではない
・古い地方貴族vs「新しいエリート」

「公論」の誕生

・都市化 都会的な生活スタイル コーヒーハウス
・印刷技術の発達 新聞の発刊
・意見(オピニオン)、公論=既存の権力を超越する「理性的な審判者」という抽象概念として発明された

民衆文化とエリート文化

・「啓蒙」の時代
魔女狩り宗教改革以後の信仰統制
・貧民の蔑視 プロテスタンティズム的価値感 自己責任
・民衆は抑圧すべき危険な存在から、教化すべき愚昧な存在になった。その理由は国家の凝集性を強めるため民衆をより統合する必要が生じたからであり、これが「啓蒙」の時代だった。

3 政治危機にむかって

王政改革の開始

・コルベール主義(重商主義)から自由主義へ転換

「啓蒙専制主義」の挫折

・啓蒙専制主義=中間団体を構成する特権貴族にたいする王権の先制攻撃
・高等法院の運動は、170年以上開かれていない全国三部会の開催要求にしぼられる。極度の政治的混迷のなかで、追いつめられた政府は、全国三部会を1789年5月1日に召集することを予告する。これが革命の口火となった。

「大西洋革命」

・各国で敗れた革命家たちがフランスに集まっていた

第6講 フランス革命第一帝政

フランス革命の解釈をめぐって

1 革命の発生の仕方

複合革命論
変革主体の出現

・変革主体=全国各地に叢生しているサロンやサークル
・少数の自由主義貴族を含む知識人集団「パトリオット派」
・『第三身分とは何か』=聖職者・貴族に次ぐ第三身分である庶民の権威を明らかにし、国民主権や代議制など近代憲法の基本原理の理論化

民衆反乱
バスティーユ占拠

・1789年7月14日

「大恐怖」と「8月4日夜の決議」
三極構造

2 ジャコバン主義とは何か

展開の動因

・91年体制/革命独裁/総裁政府の3局面

91年体制

・「人権宣言」=法の前の平等(社団原理の否定)と国民主権専制にたいする自由)という近代国家の原理を表明
・91年体制=リベラル穏健派 制限選挙(有産者に限る) 王の拒否権
・91年8月10日、パリ民衆と地方義勇兵がテュイルリ宮殿攻撃 王権停止
・1793年1月ルイ16世処刑 同年10月のマリ=アントワネット処刑

革命独裁・ジャコバン主義

山岳派 ロベスピエール「テルール」(恐怖政治) 民衆統制 民衆の啓蒙による「新しい人間」への人間改造

総裁政府

・一部の総裁政府派議員が政局安定のため、急速に独自勢力として台頭してきた軍部に頼っておこなったのが、99年のブリュメール18日(11月9日)のクーデタ
・1799年11月9日 (革命暦8年ブリュメール〈霧月〉18日)

3 ナポレオン帝国

革命の子

・総裁政府→統領政府 第一統領=ナポレオン・ボナパルト シエイエスは単なるクーデタの道具として彼を利用したつもりだった

第一帝政

・終身統領→世襲皇帝 ナポレオン帝国 専制国家

崩壊

ロシア遠征に大失敗→エルバ島に蟄居→ルイ18世の王政復古→ナポレオンパリに戻り「百日天下」→ワーテルローの戦いで敗北→セント-ヘレナへ島流し

ブルジョワ革命」と「市民革命」

・単純にブルジョワ革命ではない。

第7講 革命と名望家の時代

統合力としての「政治文化」

・ナポレオン没落後、19世紀のフランスの政治体制は、めまぐるしく変転する。復古王政(1814ー30)、七月王政(30ー48)、第二共和政(48ー52)、第二帝政(52ー70)、そして短命な自治体政府のパリ・コミューン(71)を はさんで第三共和政(75ー1940)、といった具合である。フランス革命期を入れると、85年間に11の政体となる。
フランス革命の経験は正統主義、リベラリズム、民主的共和主義、人民投票型デモクラシー、アナーキズムなどの複数の政治文化として形象化され、統合原理として競合するのである。

1 「憲章」体制

復古王政

・1814-15年ウィーン会議 ウィーン体制 「勢力均衡」と「正統主義」(、フランス革命ナポレオン戦争によって混乱したヨーロッパにおいて、それ以前の「正統な」統治者を復位させ、旧体制を復活させることを目指した理念)
ルイ18世 アンシアン・レジームと91年体制の妥協 中道政治 → シャルル10世 反動政治

七月革命

1830年7月27日から29日にフランスで起こった市民革命。 この三日間は栄光の三日間(仏: Trois Glorieuses)と呼ばれている。
・オルレアン公フィリップ 7月王政

名望家体制

・地主、企業家、役人、自由職業人など

七月王政の弱点

ロートシルトロスチャイルド)家など「オート・バンク(大銀行)」と呼ばれる大ブルジョワの寡頭支配に対する中小ブルジョワの反感。

ギゾー

・制限されたリベラリズム 制限選挙制の論理

2 二月革命第二共和政

1848年
二月革命

反革命、変革主体、民衆の三極構造
・凶作と失業による都市騒擾 「改革宴会」禁止令 1848年2月22日~24日 ルイ・フィリップ退位 イギリスへ亡命
・男子普通選挙、言論・集会の自由、「国立作業所」の設置

三極構造の解消

・結局選挙に負ける→ナポレオン3世が大統領に

秩序派とルイ・ナポレオン

・ナポレオンのクーデタ成功 山岳派も秩序派も排除する

3 第二帝政

自由と平等

トクヴィル 臨時政府の外相 デモクラシーを不可避な趨勢とみながらも、欠点も認識

経済繁栄とパリ改造

復古王政期の先駆的思想家サン=シモン(1760ー1825)の産業主義理論が影響力をもっていた。それは社会問題の解決を「人による人の支配」にかかわる政治変革ではなく、「物と物との関係」にかかわる社会的再組織化に求める社会理論である。自らその影響をうけたルイ・ナポレオンは銀行家ペレール兄弟やミッシェル・シュヴァリエなどサン=シモン主義者をテクノクラートとして起用し、国家指導の産業化政策を推進した。
その主なものは、旧名望家的なオート・バンクにかわってクレディ・モビリエ、ソシエテ・ ジェネラルなどの巨大な投資銀行の設立、その出資による鉄道網の大幅な拡張、都市改造をふくむ大規模な公共事業である。鉄道網は第二帝政下の20年以内に約5倍にまで拡大し、これに関連する製鉄業、石炭業、機械工業も急速に発展した。また鉄道網がつくりだす全国市場に刺激されて農業革命がおこった。
・公共事業の一つとして有名なのが、パリの都市改造である。1853年にパリ県知事となったオースマン男爵は皇帝の信任のもと世論の反対を押し切って、病的なまでの情熱をもってパリの大改造を断行した。古い家は容赦なく取り壊され、あとには直線の大通り、高層の建物、瀟洒な公園がつくられ、市の東西にはヴァンセンヌ、ブーローニュの大緑地が整備された。
パリ改造の目的は一つではない。帝国の首都にふさわしい壮麗な都市をつくろうとの皇帝の願望、大きな社会問題だったコレラなど疫病の蔓延を防ぐための衛生化、交通路の整備、それに失業対策などがあるが、それらとならんで、治安対策もふくまれていた。容易にバリケードを築いて都市騒乱の温床となる伝統的な民衆地域の景状を一掃しようというわけである。たしかに、この狙いはある程度の成果をあげ、市街戦型の都市騒乱はその後激減した。しかし、このため労働者は家賃の上がったパリ中央部に住むことができず、郊外への移住を強いられた。パリをとりまく郊外が、その後、左翼勢力の選挙基盤となる「赤い帯」地帯となったのは、そのためである。

国際関係と帝国の瓦解

・権威帝政から自由帝政への転換 1870年プロイセンに宣戦布告(普仏戦争) スダンの戦闘で敗北 捕虜になる 第三共和政

第8講 共和主義による国民統合

ベル・エポック

ベル・エポック=良き時代 植民地経営、帝国主義の時代

1 第三共和政の成立

パリ・コミューン

・権力の空白 リベルテール(絶対自由主義)政治文化 → 約1世紀後の「五月革命」に蘇生する

共和派の勝利
「オポルテュニスト」の共和国

・教育政策 教会→国 愛国的な「国民」をつくりだす

ブーランジェ事件とドレフェス事件

・ドレフェス事件 エミール・ゾラ『私は糾弾する』 政教分離

2 急進主義の時代

共和主義による国民統合

・国家の個性 イギリスのヴィクトリア時代自由主義プロイセンビスマルク時代の権威主義、フランスは共和主義

産業社会の確率――新中間層

★要するに、産業化はたしかに一方では旧中間層を減少させると同時に、他方ではあらたに新中間層を創り出すという二面性をもっており、その結果、新旧さまざまなタイプの非均質的な広範な中間層が生まれる。彼らは大企業との競争に脅かされる弱い立場を自覚するが、その対応策として、革命によって社会主義社会を実現するか、あるいは個人の努力によって社会的上昇をとげるかの二つの選択肢がある。前者の道は社会主義組織がまだ弱く、リスクが大きい。後者の道はリスクはないが、個人の努力だけでは覚束なく、国家の支援を必要とする。この後者の道に展望を与えるのが、新しい共和主義であり、その意味でその登場は時宜を得ていた。

共和主義

★共和派新世代の理念的推進者となったガンベッタは、産業化の社会的結果を「新しい社会諸階層」の成立ととらえる。それは特権層と貧困層の中間にある階層だが、サン=シモン主義の系譜をひくガンベッタは大企業ブルジョワから労働者、農民までをふくむ「勤労者」としてこれをとらえ、これを所有によって個人の独立と尊厳が保証されるべき社会の基本的構成員とみなす。それゆえ国家の役割は、人権を尊重し、さりとて社会主義のように所有の否定ではなく、万人が所有にアクセスできるようなチャンスの平等を保証することである。したがって、それを妨げる伝統的権力者や教会の影響力を排し、政治的権利の平等、個人の能力をのばす教育の平等を最重要政策とした。

「急進主義」

・名望家政治→大衆政治 大衆社会

左右からの挑戦

・一方、労働者の間にはプルードン主義の影響でアナーキズム的思考が強く、議会主義政党に傾いた社会党に不満な労働者たちは1895年に「労働総同盟」(CGT)を結成した。総同盟は1906年アミアン大会で「アミアン憲章」を採択し、労働者の解放は国家に頼らず、ストライキなどの直接行動を手段として労働者自身によって実現するという「革命的サンディカリスム」の道を選んだ。これは社会主義政党に指導されるドイツの労働組合とも、社会主義政党から独立しながらも改良主義をとるイギリス労働組合とも異なる独自の路線であった。
・ほぼ同時に、右翼の間にも新世代が登場している。その代表的なものがシャルル・モーラスを理論的指導者として1898年に創設された「アクション・フランセーズ」であり、旧右翼の王政主義にナショナリズムを接ぎ木した。彼らによれば、フランス革命がアトム化した個人あるいは階級をつくりだすことによって祖国を駄目にしたのであり、自由主義社会主義の双方を排撃してナショナリズム、人種主義、反議会主義をそのスローガンとした。知識人の賛同者を多くもち、都市小ブルジョワを支持基盤とし、暴力的な行動力を備えていた。

3 戦争への道

帝国主義

国内の社会的矛盾を国外への膨張主義によってそらす社会帝国主義は、普仏戦争の敗北によって傷つけられた自尊心をいやしたり、外債保有や移民によって小ブルジョワに社会的上昇の機会を約束するなど、フランスでは重要な要因となった。またとくに、植民地化を無知・野蛮な現地人を「文明化」する崇高な使命だという独善的な文化的要因は、海外宣教師の伝統が長く、またフランス革命の人類解放の理念を継承するフランスでは強いとされている。少数の社会主義者による植民地批判にしても、それは軍隊による野蛮な方法についてであって、その「文明化」側面を否定するものではなかった。
ビスマルクの失脚 → 英・仏・露3国がドイツ・オーストリアを包囲する配置

開戦と「パトリオティズム

・戦争は国内政治の矛盾を解決する1つの手段である。
・左翼、社会主義者であっても、パトリオティズム反戦を上回った。
・1914年6月28日サラエボ事件

第9講 危機の時代

世界戦争の時代

1 第一次世界大戦と戦後二〇年代

全体戦争

・マルヌの戦い 4年の膠着状態 計画生産、労働者の徴用、生活物資の配給制など国家干渉型の戦時経済 総力戦

ヴェルサイユ条約

・史上空前の犠牲者 フランス140万人、ドイツ180万、イギリス90万

戦後処理と中道政治

・ドーズ調停、ロカルノ条約、ドイツ国際連盟参加
・電気、自動車、航空機の産業発展

2 三〇年代の実験

共産党の成立

・1917年ロシア革命 レーニン ボルシェヴィキ政権 19年「第三インターナショナル」(「コミンテルン」)設立
・加盟条件 内部から改良派を排除して鉄の規律を確立し、モスクワの指導部の決定に厳格に従うこと フランス共産党は参加
・しかし、21年のドイツの革命運動の退潮、ソ連の革命防衛的態度への傾斜は世界革命への希望を失わせ、フランス共産党の内部から脱党者が続出した。しかもコミンテルンの方針は、党勢拡大よりはきたるべき革命に備える前衛分子を確保することにあったから、他の社会主義者を「改良主義者」として攻撃するセクト主義に傾き、共産党議席は減少していった。
・他方、少数派として社会党にとどまった人びとは、ボルシェヴィズムへの失望者を受け入れて「 古い家」を守った。ブルームもまたマルクス主義者であり、社会主義への移行段階として一種の「プロレタリア独裁」を認めてはいたが、「ブルジョワ・デモクラシー」の条件がある限りは、できるだけ合法活動によって社会改良を達成することを主張した。社会党共産党とは逆に、消長はあったが党勢をのばした。しかし、選挙で党勢をのばすためには、労働者だけでなく公務員、小企業者、農民など中間層に基盤を拡大する必要があり、かつての急進社会党との違いが曖昧にならざるをえない。このため共産党社会党を「社会ファシスト」と攻撃し、社会党共産党を「モスクワの手先」とやり返し、社会主義政党労働組合はどちらも完全に分裂した。
・こうして、社会主義実現をめぐって、ソヴィエト型(共産主義)と西欧型(社会民主主義)との対立構図ができた。この時点での「共産主義」とは、所有制度や経済制度に関する理論というよりは、むしろ、その国家の支配的な政治文化にたいする対抗文化(カウンターカルチュア)の意味を強くもっている。フランスでは、それはリベラル・デモクラシーの対抗文化であり、たとえば同時期に生まれた日本共産党の場合には、それは近代天皇制の対抗文化であった。

世界恐慌と「二月六日事件」

・二月六日事件=極右諸団体の大規模な反議会デモで内閣が辞任

「三〇年代の精神」

・右翼も左翼も、第三共和政の伝統政治からの脱却を模索

「人民戦線」の成立

共産党の提唱による社会党との反ファシズム統一行動 スローガンは「パン・平和・自由」

崩壊

・労働者の間には「祝祭的」な雰囲気がみなぎり、自然発生的なストライキが全国的に発生した。これを沈静化させることがブルーム内閣の最初の仕事となり、6月7日、首相官邸(オテル・マティニョン)で団体協約の締結、組合結成の自由、賃上げなどの労使間の合意(「マテイニョン協定」)がなされ、6月末までに、40時間労働制、2週間の有給休暇などが制定された。しかし、ストライキはすぐには沈静化せず、その中止を説得する社会党共産党の指導部は「裏切り者」と非難された。
・スペイン、フランコ将軍のクーデタへの対応を誤り崩壊

3 第二次世界大戦

ミュンヘン協定

ミュンヘン協定=チェコスロヴァキアを犠牲にして、全面戦争を回避しようとする妥協策 → 失敗

開戦から敗北へ

・39年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵入し、3日にイギリス、フランスがドイツに宣戦して戦争開始となる(イタリア・アメリカは中立宣言)。39年秋から40年春にかけて、ドイツの軍事行動はポーランド、ついでデンマークノルウェーで展開し、この間、フランス軍20年代から構築しはじめた国境沿いの防衛陣地「マジノ線」の内側にこもって、スポーツ、芝居などで倦怠をいやしながら攻撃を待つ、という「奇妙な戦争」となった。議会内にはまだドイツとの話し合いに期待する有力な平和主義グループがいて、とても挙国一致体制どころではない。反ヒトラーの先頭に立っていた共産党はといえば、青天の霹靂の独ソ不可侵条約の締結で困惑の極に達して分裂し、党としては「スターリンは正しい」とする公式見解をとったため、人民戦線でせっかく高めた信用を一挙に失って、党は非合法化された。
・ドイツ軍がオランダ、ベルギー、フランスに一斉攻撃をかけるのは40年5月10日である。たちまちマジノ線は突破され、6月14日、無防備都市を宣言したパリにドイツ軍が入城する。フランスの敗北は空軍力の劣位と、「電撃戦」というドイツの戦略にたいする無力に原因があった。6月10日には、イタリアもフランスに宣戦する。政府はボルドーに逃れ、副首相ペタン元帥が組閣した新内閣はドイツと休戦協定を結び、6月29日、中部のリゾート都市ヴィシーに移った。
・40年9月日独伊三国同盟→仏領インドシナ北部に侵攻

ヴィシー体制

・ドイツに協力
・「ヴェルダンの英雄」84歳老将ペタン
・「自由・平等・友愛」→「勤労・家庭・祖国」

抵抗運動

シャルル・ド・ゴール将軍ロンドンに脱出「自由フランス」→「レジスタンス国民会議(CNR)」→「フランス国民解放委員会(CFLN)」アルジェリアで結成
レジスタンス参加者約40万 10万が命を落とす

「解放」

・44年6月6日連合軍ノルマンディ上陸作戦 8月25日共産党レジスタンスの放棄もありパリ解放 

第10講 変貌する現代フランス

大きな転換期

1 第四共和政

第四共和制の成立――「三党連合」から「第三勢力」へ

・「事なかれ主義」12年間に25もの内閣が交替 経済復興 「欧州石炭鉄鋼共同体(CECA)」EUの起源

共産党

・47年3月「トルーマン・ドクトリン」(封じ込め政策)、マーシャル・プラン=「冷戦」時代の本格化
・労働総同盟(CGT)を握っていることが、労働組合が第二組合に駆逐された日本との違い
ルイ・アラゴンピカソ、ジョリオーキュリー夫人サルトルなどが権威付け
フランス共産党の党勢低下の原因には、単にソ連のイメージや社会党の動き以上に、もっと深い社会的な理由があるように思われる。産業化の進展にともなう「消費経済」の出現が従来の「共和国モデル」の基礎を掘りくずし、共産党が体現する社会主義的「対抗文化」のインパクトを減退させたからである

インドシナ戦争とマンデスーフランス

インドシナチュニジア、モロッコを手放す

アルジェリア問題とドゴールの再登場

アルジェリアで植民地放棄反対派が放棄、パリへ進撃する動きを見せる ド・ゴール再登場 憲法改正第五共和政

2 第五共和政

第五共和制成立の意味

・中間層(中間階級)の出現、産業社会からポスト産業社会へ ホワイトカラー化、プラグマティズム

ドゴールの政治

・第一、アルジェリア紆余曲折の末独立を認める
・第二、大統領制共和国、議会の軽視
・第三、諸国家からなるヨーロッパ
・第四、経済政策
・→ポンピドゥー→ジスカール・デスタン

五月革命

・1968年 学生反乱、労働者争議、政治危機の3局面
★この特異な現象の核心
五月革命」が世人を最も戸惑わせたのは、経済が順調に成長を続け物資がみちあふれ、完全雇用が実現している豊かな社会に、なぜ革命が、という疑問だった。しかし、これは「革命」ではなかった。
事件の発端となった学生層をみると、彼らは戦後のベビー・ブームによる大学生の増加のため、しだいにエリート扱いをされなくなり、経済繁栄のため就職を保証されてはいるが、中級職員として既存の社会秩序のなかにおくり込まれ「資本の番犬」となる運命が待っている。このアンビヴァレントな心性が、高等教育機関は社会の階層秩序を再生産するイデオロギー装置だという批判的な社会学理論で武装した学生活動家の突出的行動によって点火された。ここから、収益主義、生産主義、数量主義への批判となり、また国家はもちろん家族、学校、教会、組合、政党など既存の大機関が抑圧を維持する権威として拒否される。「共和国モデル」も、もはや彼らには魅力がない。「禁ずることを禁ずる」という壁に書かれた落書きの言葉は、その運動の性格を端的に物語っている。
それは具体的目標を設定した「革命」ではなくて、一切の拘束からの解放を夢みる現状への「異議申し立て」であり、部分的改革には関心のない「ユートピア」願望だった。また、それを表現する無軌道な行動スタイルは、消費経済の産物である「若者文化」と無関係ではなく、工場占拠した若者労働者も、学生とともにこの文化を共有していた。それは、あらゆる意味で、「栄光の30年」の産物であり、当事者自身がそのユートピア性を自覚する「祭り」であった。
五月革命」は直接的な政治成果をほとんど残さなかったが、社会、文化の深部で大きな変化を残した。

3 ポスト・ゴーリスムの現在

ゴーリスム時代以後の新事態

ドイツ統一ソ連崩壊 冷戦構造の解体 → アメリカの単独覇権
マーストリヒト条約欧州連合条約)、共通通貨ユーロの流通、ヨーロッパ連合EU)の東方への拡大
・米英の市場経済モデル(新自由主義経済)の席巻、フランス(語)の国際的地位低下
・国内的には、73年の第一次石油ショックにより「栄光の30年」の経済成長が終わり、長期的な失業問題がはじまった。しかし、消費経済への移行や都市化などの長期的な社会的変容は依然として進行し、社会層の給与生活者としての均質化はますます進捗する。人びとは生活レベルの向上と快適さへの願望を絶えず刺激され、安易な信用制度の発達がそれを促進する。それにともなって、これまで美徳とされた質素や節約は見捨てられ、物質的欲望の追求が肯定される。こうして、ドレフュス事件以来レジスタンスまで、共和国モデルの基礎をなしてきた公正、自己犠牲、連帯などの価値に、効率、安泰がとってかわる。家族をはじめ、教会、学校、労働組合、政党など既存の大機関の権威が失墜し、従来の社会的、政治的紛争の争点がその重みを低下し、時には消滅さえするフランス共産党が退潮の試練に見舞われている点では、皮肉にも、教会と軌を一にしているのである。

共和国モデルの再構築――国民国家の再検討

・前述のように、共和主義はドレフュス事件後の第三共和政の支配的政治文化だったが、1940年の敗戦の責任がそれに帰せられ、45年以後も人気がなかった。その理由は、ベルスタンによれば、国家の福祉政策が個人を保護するために、市民の連帯の魅力が減退したこと、著しい経済成長のため、共和主義の基礎とされた独立中間層(農業経営者、小企業家)からなる小所有者デモクラシーの社会理念が後退したこと、そして経済成長に抑制的な社会政策が時代錯誤 とみなされたからである。
しかし、80年代はじめ、無限の経済成長への幻想が消え、価値体系の崩壊に不安が生じてくると、世論では共和主義がふたたび模索されはじめた。だが、その共和国モデルは、かつての反教権主義に燃えた第三共和政時代のような戦闘的モデルではない。ベルスタンによれば、現在の共和主義は、国家主権を溶解させない限りでの「グローバル化」の受け入れ、人権の擁護、社会関係の絆としての連帯、抑制された市場原理というテーマについての、ゆるいコンセンサス領域をつくる折衷的な政治文化なのである。ウルトラ自由主義極左集産主義、排外的ナショナリズムがこれから排除される。

「フランスという例外」

ジャコバン派フランス革命期の政治結社、左翼の語源 ジャコバン主義=革命を完遂させるために変革主体たるブルジョワジーが民衆運動と手を組むやり方=フランスの個性=共和主義
・共和国=あらゆる勢力を集合させる中立的な制度 「ライシテ」=国家を宗教に対して中立化する、普遍性
・「1つにして不可分」という戦闘的共和主義と、多様性の容認の上に立つコンセンサスの共和主義とがある。

あとがき

・国家の特徴といっても、近現代の国家はすべて「自由」と「平等」の二構成要因を多かれ少なかれふくんでいる。「自由」だけでは弱肉強食となり、「平等」だけでは全体主義となり、どちらも観念としてはありえても、国家としては存続できない。国家の特徴とは、この相矛盾する二構成要因の関係のあり方であり、その変化の律動が、近現代の歴史となる。そして重要なことは、この律動を自覚することであり、それが本文でもいう国家のアイデンティティである。この点で、フランスは、常に最も自覚的な国だと思う。
 
2024/2/15読了

要約&感想

◆要約:フランスの大まかな歴史。歴史的出来事を細かく述べるというよりも、その時代時代の政体や社会の構成に重きを置いて、概観する。
◆感想:面白かった。自分に必要な本だった。
読み始めから読み終わるまで、途中で他の本を読んだり、ブレインフォグの期間があったりしたので、4ヶ月近くかかってしまった。
自分はいわゆる世界史未履修問題の当事者で、世界史を学べなかったので、世界史の知識の欠如について劣等感がある。
その知識の穴をかなり埋めてもらえた気がした。
まずクローヴィス1世がフランク王国を開いたカトリックに改宗した。500年くらい。
そして、カール大帝シャルルマーニュ)がフランク王国の最盛期を築いた。800年くらい。
その後分裂し、イタリア、フランス、ドイツの原型になったと。
中世の秩序観念=祈り、労働、戦いの3機能=聖職者、農民、騎士 それを王が統合する
封建制≒領主制 土地の世襲的支配 領主の農民の主従(支配)関係
1000-1300年くらい 中世都市の誕生と商業の発達、「ブルジョワ」(町の人)階層の生成。
14、15世紀 危機の時代 飢饉、疫病、戦争=ペスト、百年戦争
16、17世紀 大西洋経済、主権国家システム、重商主義
18、19世紀 フランス革命、その後めちゃくちゃな混乱
左翼と右翼の分裂
20世紀、2度の世界大戦
消費社会、個人化
近現代の国家はすべて「自由」と「平等」のバランス。
 
歴史を学ぶと、今が絶対でないことがわかる。
中世には、中世の秩序があって安定していたし、
いまここまでの消費社会、個人化の時代もせいぜい100年以内のこと。
ネタがベタになる。ある世代からすればおかしいことも、
その前の時代を知らない世代からすれば、それが普通になる。
たとえば、自分はまだ、駅や公園や道にゴミ箱がたくさんあった時代を知っているし、
インターネットと携帯電話が存在しなかった時代も知っている。
いまのベタを普遍的なことだと思わないこと。
歴史を学んで、温故知新することが大事だと思った。